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== 概説 ==
韓国側には[[アメリカ軍|アメリカ合衆国軍]]を中心に、[[オーストラリア]]や[[イギリス]]、[[ベルギー]]などの国連加盟国で構成された[[国連軍]](正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には[[中国人民志願軍|中国人民義勇軍]](または志願軍。実質的には[[中国人民解放軍|中国軍]])が加わった。なお、[[日本]]では「'''朝鮮戦争'''」(ちょうせんせんそう)と呼んでいるが、韓国では'''韓国戦争'''や'''韓国動乱'''あるいは開戦日にちなみ'''6・25'''('''ユギオ''')、北朝鮮では'''祖国解放戦争'''、北朝鮮を支援した中国では'''抗美援朝戦争'''(「美」は中国語表記でアメリカの略)、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカでは''Korean War'' (朝鮮戦争)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから別名アコーディオン戦争とも呼ばれる。
 
※本稿では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という[[政府]]([[国家]])そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「[[国境|国境線]]を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの[[領域 (国家)|領土]]を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。
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[[Image:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|right|250px|thumb|[[ヤルタ会談]]における英米ソ首脳]]
 
[[1945年]][[8月15日]]に[[大日本帝国]]が[[ポツダム宣言]]を受諾。[[連合国]]に降伏し、[[第二次世界大戦]]が終結すると、日本は[[ポツダム宣言]]に則り[[朝鮮半島]]の[[統治権]]を放棄することとなった。朝鮮半島は[[朝鮮総督府]]の下、[[朝鮮建国準備委員会|建国準備委員会]]を設立し、朝鮮半島の速やかな[[独立]]を計ったが、その後進駐してきた[[連合国軍]]により、その行動は[[ポツダム宣言]]に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。
 
[[1945年]][[8月15日]]に日本がポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏することで、朝鮮半島は[[植民地]]支配から解放された。
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日本の敗戦による解放は「与えられた解放」であった<ref>李景珉 『増補版 朝鮮現代史の岐路』[[平凡社]]、2003年、22頁。ISBN 978-4582842203。</ref>。独立を目指す諸潮流のいずれかが主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった<ref>[[金九]]は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、自ら独立を勝ち取ることができなかったことが今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろうと述べたと言われている。</ref>。[[朝鮮民族|朝鮮人]]が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた<ref>前掲李景珉、22頁。</ref>。
 
朝鮮半島内では、[[独立運動]]を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると[[上海市|上海]]の[[大韓民国臨時政府]]、[[中国共産党]]指導下にあった満州の[[東北抗日聯軍]](抗日パルチザン)、アメリカ合衆国における活動などが挙げられる。朝鮮国内では[[1930年代]]までに多くの[[民族主義]]派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・[[湖南財閥]]は[[東亜日報]]紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは[[共産主義|共産主義者]]だったが、徹底して弾圧された。
 
朝鮮国内では、少なくとも戦時中の報道による情報だけでは日本の敗戦がそのまま植民地からの解放を意味すると考える余地がなかったにも関らず、[[玉音放送]]によって「解放」のニュースがすぐに飛び交った。これに対して朝鮮人の対応は早かった。
 
国内では、[[呂運亨]]らによって'''[[朝鮮建国準備委員会|建国準備委員会]]'''が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された[[政治犯]]たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり[[朝鮮共産党]]の中核を担うメンバーも含まれていたため建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは[[宋鎮禹]]が[[湖南財閥]]をバックに代表的な存在になった。にもかかわらず建国準備委員会は朝鮮において最も広く組織された団体だった。
 
建国準備委員会は[[9月6日]]に'''[[朝鮮人民共和国]]'''の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。[[李承晩]]が[[反共主義|反共姿勢]]を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、また[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカ軍政]]が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。
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建国準備委員会が、実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする者もいれば、ある日突然当事者とされたことに対応してできた組織であることを強調し実際に朝鮮人民の意思は反映されなかった点を強調する者もいる。どちらにしても、成立期間が短く、また諸外国からは一切承認されていないため、影響力は限定的であった。
 
一方、[[緯度|北緯]][[38度線]]以北では[[関東軍]]の壊走によって[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[進駐]]が予定よりも早く進んだ。各地で自発的に生まれたと言われている人民委員会は早々に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]によって[[接収]]された。ソ連の進駐が速過ぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく[[分割占領]]線となった。北部でも、朝鮮人運動には様々な潮流があったと言われているが詳しいことは分っていない。
 
このようにして朝鮮国内の足並みが揃いきっていない中に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命していた[[李承晩]]や、[[重慶市|重慶]]に[[亡命]]していた大韓民国臨時政府、[[金日成]]をはじめとする満州抗日[[ゲリラ|パルチザン]]出身の者たちなど、様々な亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特に[[ソウル特別市|ソウル]]で朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。
 
その後、[[信託統治]]案を巡る左右対立に、米ソの対立も反映され、結果的には、[[米軍]][[占領]]地域ではアメリカが推す[[李承晩]]を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。[[ソ連]][[軍政]]下でもソ連が推す[[金日成]]がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。
 
=== 信託統治 ===
[[1945年]]12月には、[[モスクワ]]でアメリカ・[[イギリス]]・ソ連の外相会議が開かれ([[モスクワ三国外相会議]])、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。戦時中の[[テヘラン会談]]では、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が「半島全域を40年は、新設する[[国際連合]]による信託統治するべきだ」と提案し、[[ヤルタ会談]]でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。ルーズベルトは終戦前に死去し、後継の[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]はモスクワ会談において、米英ソと[[中華民国]]による5年間の信託統治を提案して決定された([[モスクワ協定]])。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は座礁した。
 
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[[Image:Syngman Rhee.jpg|250px|thumb|李承晩(左)]]
; 南北の分離独立
1948年[[8月13日]]に、今度は李承晩が'''[[大韓民国]]'''の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して<!--(激怒し、)わからないし、予測してたろうし-->自らも[[9月9日]]にソ連の後援を得て'''[[朝鮮民主主義人民共和国]]'''を成立させた。この結果、北緯[[38度線]]は単なる境界線ではなく、事実上の「[[国境]]」となった。
 
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者である[[ヨシフ・スターリン]]に南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、[[12月]]にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。[[1949年]][[6月]]には、アメリカ軍も[[占領行政|軍政]]を解き、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は[[祖国統一民主主義戦線]]を結成した。
 
同じ頃、地続きの[[中国大陸]]では[[国共内戦]]の末、[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]が勝利し、[[10月1日]]、[[中華人民共和国]]が成立した。アメリカは[[蒋介石]]率いる[[中華民国]]の[[中国国民党|国民党]]政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義分子の影響を受けて援助を縮小していた。<!--朝鮮の?-->南半部では[[11月]]に[[国家保安法 (大韓民国)|国家保安法]]が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。
 
朝鮮半島の南半部では[[11月]]に[[国家保安法 (大韓民国)|国家保安法]]が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。
1950年[[1月12日]]、アメリカの[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ディーン・アチソン]]が「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、[[フィリピン]] - [[沖縄諸島|沖縄]] - 日本 - [[アリューシャン列島]]までである。それ以外の地域は責任をもたない。」と発言し(アチソンライン)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを[[西側諸国|西側陣営]]の南半部(韓国)放棄と一方的に受け取った。
 
[[1950年]][[1月12日]]、アメリカの[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ディーン・アチソン]]が「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、[[フィリピン]] - [[沖縄諸島|沖縄]] - [[日本]] - [[アリューシャン列島]]までである。それ以外の地域は責任をもたない。」と発言し(アチソンライン)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを[[西側諸国|西側陣営]]の南半部(韓国)放棄と一方的に受け取った。
 
アメリカは同月、韓国との間に[[米韓軍事協定]]を結んでいた。これは李承晩の日本への復讐(彼は[[上海臨時政府]]時代に日本の憲兵隊に逮捕されており、その際拷問を受けた。しかし、後に釈放され、渡米している)に由来する、日本に対する報復的、敵対的行動(竹島領有宣言など)を行い、国家統一、軍の北進を訴える李承晩を押さえ込むもので、韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐ為、僅かな兵力しか許さないというもので、アメリカは北朝鮮の南進については楽観的で、むしろ韓国が北に攻め込むことを恐れていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、僅か5ヵ月後に大間違いであったことに気付かされる。
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=== 北朝鮮の奇襲攻撃 ===
開戦直前の南北の軍事バランスは、北有利であった。[[韓国軍]]は全土で8個師団6万5000人程度で、米韓軍事協定によって重装備が全く施されていなかったのに対し、朝鮮人民軍は陸軍が歩兵2個軍団10個師団と、[[第二次世界大戦]]時最強のソ連製[[T-34|T-34-85]][[戦車]]150を配した第105戦車旅団で合計兵力18万3000人、海軍は艦艇30隻と兵力1万4000人、空軍は120機のソ連製[[戦闘機]]と兵力2万人で、総計すると約22万人に及ぶ軍隊に成長していた。
 
1950年6月25日午前4時([[韓国標準時|韓国時間]])、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。
 
一方、アメリカ軍の連絡系統は俊敏に機能し、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令官]][[ダグラス・マッカーサー]]が日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、[[ミズーリ州]]にいた[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領も24日午後10時に報告を受け、[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]の開会措置をとるように命じて[[ワシントンD.C.]]に帰還したが、彼の目は常に[[ヨーロッパ|欧州]]へ向いていた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。大統領は米国市民の韓国からの退去と、[[マッカーサー]][[韓国軍]]への[[武器弾薬]][[補給]]命令、[[海軍]]第七艦隊の[[中華民国]]への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切れなかった。
 
[[6月27日]]に[[国際連合安全保障理事会|安保理]]が開催され、北朝鮮の行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0で採択した。[[拒否権]]を持つソ連は、この年の1月から中華人民共和国の中国共産党政府の認証問題に抗議し、理事会をボイコットしていた。決議の後、ソ連代表の[[ヤコブ・マリク]]は[[国際連合事務総長|国連事務総長]]の[[トリグブ・リー]]に出席を促されたが、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]にボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、[[粛清]]を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。
 
この間、韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、[[首都]]を[[水原市|水原]]に遷都、[[ソウル]]は[[6月28日]]に陥落した。このソウル陥落の際、命令系統が混乱した韓国軍は避難民もろとも[[漢江]]にかかる[[橋]]を爆破した。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍は[[士気]]も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
 
韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた[[朝鮮族]]部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、韓国軍は建国後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは[[日本軍]]出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備は米軍から供給された物が中心であったが軍事協定によって重火器が不足しており、特に[[戦車]]を1も装備しておらず[[航空機]]もほとんど装備していなかった。その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなった。
 
ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は何故か突然南進をやめ、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、今をもっても、なぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている(北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していたという一説もあるが、明確な根拠はない)。
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しかし、準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が[[大田広域市|大田]]攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦[[洛東江]]円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や政治犯などを多数殺害した([[保導連盟事件]])。この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い([[離散家族]]発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は解放記念日の[[8月15日]]までに統一するつもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず[[釜山広域市|釜山]][[橋頭堡]]でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。
 
=== [[仁川上陸作戦]] ===
[[マッカーサー]]は戦線建て直しに全力を注ぎ、数度に渡る牽制の後の[[9月15日]]、[[仁川広域市|仁川]]に国連軍を上陸させる事に成功した。大きな転換点の1つとなる[[仁川上陸作戦]](クロマイト作戦)である。これに連動した'''スレッジハンマー作戦'''で国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。度重なる攻勢によって限界に達していた北朝鮮軍は敗走を続け、[[9月28日]]に国連軍がソウルを奪還した。この時敗走した北朝鮮兵の残党が韓国内で[[ゲリラ]]化し、国連軍は悩まされた。
 
=== 38度線越境と中国人民志願軍参戦 ===
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=== 膠着状態に ===
[[Image:Korean War Korean civilians-ca1951.jpg|250px|thumb|戦時下の韓国国民]]
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は[[12月5日]]に[[平壌]]を奪回し、[[1951年]][[1月4日]]にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや壊滅し、2月までに[[忠清北道|忠清道]]まで退却した。だが近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていた中国軍は度重なる戦闘ですぐさま消耗し、攻撃が鈍り始めた。
 
それに対し国連軍はようやく態勢を立て直して反撃を開始した。[[3月14日]]にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。マッカーサーは第二次世界大戦以前に日本が一大工業地帯として築いた中国東北部([[満州]])をB-29と[[B-50 (爆撃機)|B-50]]からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために補給路を無効化するために[[放射性物質]]の散布まで検討された([[原子爆弾]]を使おうとしたともされる)。しかし、中国本土攻撃や、中国共産党と対立していた台湾の国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やワシントンと政治的に対立する発言が相次ぎ、戦闘が中国本土まで拡大することによってソ連を刺激し、ひいては[[ヨーロッパ]]まで緊張状態にすることをことを恐れたトルーマン大統領は、[[4月11日]]にマッカーサーを解任し帰国させた。
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;北朝鮮
:北朝鮮の軍備は旧ソ連から供与されたものが主で、現行水準の兵器はほとんどないと言う。[[2003年]]3月に[[公海]]上で[[アメリカ空軍]]のRC-135Sミサイル監視機「コブラボール」を2機の[[MiG-29 (航空機)|Mig-29戦闘機]]が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の[[偵察衛星]]に写る北朝鮮機は[[MiG-15 (航空機)|Mig-15]]のような古典機ばかりで、部品調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。<!--車両も同様で、一世代前の[[T-72]]でさえ満足に配備されておらず、大戦後第1世代である[[T-54]]が主力で、一部には[[T-34]]も残っているといわれる。-->こうした状況から、韓国主要都市および支援国を直接攻撃可能な[[弾道ミサイル]]([[テポドン (ミサイル)|テポドン]]、[[ノドン]])の開発に熱心であると見られ、度々たびたび発射実験を行っている。
 
万一、戦闘状態が再燃した場合、[[ゲリラ]]戦術を取っていまや世界有数の規模の都市に成長したソウル周辺の短期間・限定的な戦闘に持ち込めれば北朝鮮がやや有利であるが、逆に中 - 長期・総力戦状態に移行した場合、アメリカを後ろ盾に持つ事や国際的支援への期待から韓国が圧倒的に有利である。[[中華人民共和国]]あるいは[[ロシア]]が北朝鮮を支援する可能性も多分に残っている一方、両国とも対米全面戦争を行う力はもっておらず、たとえ韓国側が先制攻撃したとしても介入は極力避けるという推測もある。また、中華人民共和国にとっては、北朝鮮が崩壊して韓国によって朝鮮半島が統一されてしまうと、アメリカの軍隊ならびに基地が[[北京市|北京]]と目と鼻の先まで近づくことになり、安全保障上ならびに[[台湾海峡]]の軍事バランスにも大きな影響を与える可能性が高いのみならず、大量の[[難民]]が鴨緑江を越えて自国内に流入する恐れもあり、体制維持を望んでいると思われる。
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朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治・経済・防衛にも大きな影響を与えた。
 
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した[[共産主義国]]に対抗するため、日本の[[戦争犯罪|戦犯]]追及が緩やかになったり、日本を独立させるための[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]締結が急がれ、1951年[[9月8日]]に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]と共に締結された。さらに[[警察予備隊]](のちの[[自衛隊]])が創設されたことで事実上軍隊が復活した。
 
[[経済]]的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給・製造を依頼したことから、[[工業生産]]が急速に伸び好景気となり、戦後の[[経済復興]]に弾みがついた。日本では以後、このような状態をさして[[特需景気|特需]]と呼ぶようになる(詳細は[[朝鮮特需]]を参照の事)。
 
また、戦火を逃れるため日本に流入した難民は20万 - 40万人とも言われる。
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=== 派遣の経緯 ===
開戦直後から、[[朝鮮人民軍|北朝鮮軍]]は[[機雷]]戦活動を開始しており、これを認めた[[第7艦隊 (アメリカ軍)|米国海軍第7艦隊]][[司令部|司令官]]は9月11日に機雷対処を命じた。ところが、国連軍編成後も国連軍掃海部隊は極僅かであった。
 
[[元山市|元山]]上陸作戦を決定した国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることに決める。10月6日米極東海軍司令官から[[山崎猛 (政治家)|山崎猛]][[運輸大臣]]に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。
 
1945年9月2日の連合国最高司令官指令第2号には、「日本帝国[[大本営]]は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の[[燃料]]を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。[[日本|日本国]]および[[朝鮮半島|朝鮮水域]]における[[機雷|水中機雷]]は[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国最高司令官]]の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし。」とあり、進駐軍の命令により[[海上保安庁]]は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。
 
もっとも、朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、[[海上保安庁法]]第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は[[日本の国旗|日章旗]]ではなく、[[国際信号旗]]のE旗を掲げることが指示された。
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=== 元山掃海作業 ===
日本掃海隊は10月10日に[[元山]]沖に到着した。10月12日午前から掃海作業に着手し、眼前で米軍の掃海艇2隻が蝕雷によって沈没する光景を目撃しつつも、3個の機雷を処分する。米艦隊の陸上砲撃のため10月16日まで掃海作業は中断され、再開された10月17日に日本掃海艇MS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名(烹炊長中谷坂太郎)及び重軽傷者18名を出した。触雷を回避するために日本隊は前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)米国[[少将|海軍少将]]に作業手順の改善を要求した。喫水の浅い小型艇([[:en:LCVP|en:LCVP]])が先行して海面近くの機雷を掃海した後、掃海艇が進む方式を採るよう求めたのだ。しかしスミス少将からの「指示に従わねば砲撃も辞さない」旨の指示を受け(解雇/fireを砲撃と誤訳した説あり)、能瀬隊のMS3隻は日本帰投を決定する。能瀬隊は10月20日に[[下関市|下関]]に到着した。
 
10月20日に石飛隊のMS5隻は元山沖に到着し、同地に残存していたPS3隻を同隊に編入して掃海作業を行う。