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{{Otheruses|給食設備を有する[[鉄道車両]]|給食設備を有する[[自動車]]|食堂自動車}}
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| 4=食堂車からの車窓</br>2007年 イタリア
}}
'''食堂車'''(しょくどうしゃ)とは、[[鉄道]]の[[客車]]([[鉄道車両]])の一種で、広義には車内に[[調理]]を含む供食設備を設けているものをいう。本項では、日本国内の食堂車と海外の食堂車についてわけて解説を行う。
== 日本の食堂車 ==
日本国内で食堂車を連結する理由に以下のものがあげられる。
#長距離列車として運行されるため、食事時間帯と重なることから乗客への供食という観点。
#運転距離としては最長2~3時間程度ではあるが、乗客へのサービスの一環として。
前者は日本全土に建設・運営を行ってきた[[日本国有鉄道]](旧・国鉄)→[[JR]]各社に連なる私営鉄道・官営鉄道によるものに多く、後者は[[地方鉄道法]]・[[軌道法]]による都市間ないしは観光鉄道が起源とした20世紀後半以降現在に連なる[[私鉄|私鉄・民鉄]]によるものが多い。そのため本項では、前者を「国鉄・JR」、後者を「私鉄」と分類した上で解説を行う。
=== 国鉄・JR ===
国鉄では[[1970年代]](昭和50年代前半)までは、ほとんどの長距離[[列車]]に食堂車が連結されていたが、列車の速度向上や長距離列車の廃止等により運転時間が短縮されてきたことから、食堂車を連結する列車は減少の一途をたどり、現状では[[本州]] - [[北海道]]を結ぶごく少数の[[夜行列車]]に限られている。
==== 歴史 ====
日本初の食堂車は、[[1899年]][[5月25日]]に[[私鉄]]の[[山陽鉄道]](現・[[山陽本線]])が運行した[[日本国有鉄道|官設鉄道]][[京都駅|京都]]~山陽鉄道三田尻(現・[[防府駅|防府]])間の列車に連結した食堂付1等車である。当初は瀬戸内海航路への対抗とともに一等車の付随施設の側面が大きかった。なおこの時の車両は、山陽1227 - 1229号、国有後のホイシ9180形と考えられている<ref>長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年、144頁。なお同所載の図によれば当初は長手方向に置かれた大テーブルの両側の席に旅客が着席する形だったようである。</ref>。官営鉄道(国鉄)では[[1901年]][[12月15日]]<ref>長船、146頁。</ref>に、[[日本鉄道]]では[[1903年]]に導入された<ref name="RP761">『鉄道ピクトリアル』No.761 p.9。</ref><ref>この他国有化された鉄道では[[関西鉄道]]・[[讃岐鉄道]]・[[成田鉄道 (初代)|成田鉄道]]の例がある。</ref>。
この時は[[一等車|1等]]・[[二等車|2等車]]の客しか使用できず、官営鉄道・日本鉄道でも同様の措置をとっていた<ref name="RP761"/>。3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため、一等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間をすごすことの防止<ref>長船、143頁。</ref>であったとされる。その後、[[1903年]]10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行ったが、3等車から1・2等車を通って食堂車へ来るのは禁じられ、駅に停車している時に車両の外を移動することと身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加え、あるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した<ref>『大正8年度鉄道院年報』1921(大正10)年、33頁。</ref>。なお、食堂車を挟んで1等・2等車と3等車を分ける施策は、[[戦後]]の初期まで続けられた。詳細については、[[#連結位置について|下記]]も参照。
当初は上級旅客の利用が前提であったことや[[和食]]より[[洋食]]が調理加工の幅が単純である為にどの食堂車もいわゆる洋食を専門に供給していた「洋食堂車」が連結していたが、1901年より[[第二次世界大戦]]前にかけて、鉄道利用の大衆化が進んだこともあり一部の列車においては洋食以外にも和食を給する「和食堂車」を連結するものも現れた。例として、[[1929年]]に愛称が付けられた[[特別急行列車]]「[[富士 (列車)|富士]]」は1等・2等車のみで編成された関係で洋食を給していたが、[[普通車 (鉄道車両)|3等車]]のみで編成されていた「[[さくら (列車)|櫻]]」(さくら)では和食を給していた。そして[[1934年]]以降になると洋食を提供する食堂車は、「富士」と[[1930年]]に運転を開始した「[[つばめ (列車)|燕]]」(つばめ)、更に山陽本線(京都 - [[下関駅|下関]]間、なお[[1935年]]からは呉線経由となる)において1等[[展望車]]を連結するなど格式の高かった[[急行列車#急行列車の黄金期|急行7・8列車]]、更に[[東京駅|東京]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間運転で1・2等車のみによって組成された[[寝台列車#寝台専用列車以前|急行17・18列車]](いわゆる「名士列車」)の4往復と[[1937年]]に運転を開始した「[[かもめ (列車)|鷗]]」(かもめ)のみになり、他はすべて和食堂車になった<ref>洋食堂車は、あくまでも洋食専門としており、和食堂車は、和食の他に比較的安価でかつ一般にも馴染み深い洋食となりつつあったライスカレーや[[コロッケ]]などの揚げ物は勿論、[[ビーフステーキ]]など洋食堂車でも扱う料理は取り扱っていた。戦後以後の食堂車は、この「和食堂車」から継承されていく。</ref>。
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[[日中戦争]]や[[太平洋戦争]]による運行統制により、特急列車や一部の長距離の急行列車を除いて定食が簡素化し、単品の料理も一人一品の制限や[[テーブルクロス]]の廃止など風当たりの強い物となり、[[1944年]]4月に一時的に中断。戦後は、占領軍の支配下により[[1945年]]から占領軍専用列車の食堂車の営業から再開した。その後、[[1949年]]9月の特急列車「へいわ」復活と同時に、同列車と東京~[[鹿児島]]間の急行1・2列車(戦前の「櫻」→急行7・8列車、後の「[[霧島 (列車)|霧島]]」)に連結・営業を復活させ、以後順次拡大していったが、[[1960年代]]頃より普通列車・急行列車が徐々に[[客車]]から[[電車]]・[[気動車]]化される際に、気動車では特急用車両を除き食堂車が製造されなかったこともあり、食堂車連結・営業は客車による[[夜行列車]]ないしは、特急列車が中心になっていった。
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| 1=Syokudousya 80-20 01.jpg
| 2=
}}
1958年、最初の電車特急列車として[[国鉄181系電車|151系電車]]を用いて運行を開始した[[こだま (列車)|「こだま」号]]は「ビジネス特急」として運行されたことや試作的な要素があったため、当初は簡易食堂車であるビュフェ車(モハシ20→モハシ150→モハシ180)のみであった。これが簡易食堂車を「ビュフェ」と呼ぶことの初出とされる。本格的な全室食堂車は1960年の「つばめ」電車化の際に登場したサシ151形が祖となり、後の[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系特急形気動車]]のキサシ80形・キシ80形をはじめ[[国鉄485系電車|サシ481・489形]]・[[国鉄583系電車|サシ581形]]・キサシ180形に構造・デザインが踏襲されている。
急行列車が電車化され
営業面では戦後復活した食堂車では[[日本食堂]](現・[[日本レストランエンタプライズ]]<NRE>)1社体制であったが独占批判を受け、復活後数年後には[[帝国ホテル]]・[[都ホテルズ&リゾーツ|都ホテル]]・新大阪ホテル(現・[[リーガロイヤルホテル]])の参入に始まり、[[鉄道弘済会]]や[[上越線]]列車で営業した[[聚楽]](大日本食堂 → 現・[[聚楽ティエスエス]])、[[1970年代]]には鉄道弘済会系の大鉄車販・金鉄車販(現・北陸トラベルサービス)・中国車販・九州車販(現・西日本トラベルサービス)なども短期ではあるが在来線急行ビュフェ営業に参入しその食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。
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}}
在来線
JR化後、東京 - 九州間の[[寝台列車|寝台]][[特別急行列車|特急]](いわゆる「[[ブルートレイン (日本)|九州ブルトレ]]」)では食堂営業を行っていないが、食堂車の厨房や[[ラウンジカー]]の売店設備を利用して温かい料理を提供する売店営業<ref>形式的にビュッフェに類似しているが、ビュッフェとは違い車内販売の補助的なサービスで、どちらかと言うと「[[あさま|白山]]」や「[[雷鳥 (列車)|スーパー雷鳥]]」のラウンジに付随していた「コンビニエンスカー」に近い。</ref>があった。
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| 1=0-shokudo.jpg
| 2=[[新幹線0系電車|0系]]食堂車</br>36形入口表示
| 3=Shinkansen 200buffet.JPG
| 4=[[新幹線200系電車|200系]]ビュフェ</br>237形車内
| 5=Shinkansen 168-9001.JPG
| 6=100系食堂車 168形</br>168-9001(試作車)
| 7=100 V restaurant car 19990714.jpg
| 8=100系V編成</br>食堂車車内
| 9=100Cafe2.jpg
| 10=100系G編成のカフェテリア</br>148形車内
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転換期となったのは[[1975年]]に[[山陽新幹線]]の[[博多駅|博多]]開業に際して、乗車時間が最速の「ひかり」でも全線乗車する際では6時間以上と長時間となるために、[[1974年]]より既存のひかり編成に36形食堂車が組み込まれることとなった。このため、36形食堂車は一度に96両が製造され、1976年に3両の追加増備で計99両が製造された<ref>戦後、大量の食堂車が新規かつ大量にに製造されたのはこの時のみである。また、1976年の増備車は狭窓に設計変更されたために1000番台に区分されている。</ref>。この措置により以降製造されるビュフェ車は37形に設計変更され、立食式の簡易形となった。
1985年にデビューした[[新幹線100系電車|100系]]では、食堂車は[[2階建車両]]とした168形が製造された(X編成)。しかし、1987年の増備車から食堂車に代えて148形[[カフェテリア]]車(G編成)としたが、1989年から[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が製造した[[グランドひかり]]用V編成については食堂車としている。
[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]発生以降0系の食堂車は営業休止となり、[[2000年]]には100系食堂車の営業も終了した。
1982年開業の[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]
これら新幹線でも営業終了の理由は在来線と同様なもので利用率低下があったほか、次にあげる要因がある。
*#スピードアップによる乗車(所要)時間の短縮したことなどの状況を踏まえ、JR各社も不要と判断した。
*#首都圏-九州といった1,000kmを超える長距離移動では航空機利用が一般化したため、食堂車利用につながる長距離移動の需要も激減した。
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なお最盛期には、日本食堂・ビュフェとうきょう(ジェイアール東海パッセンジャーズジェイダイナー東海→[[ジェイアール東海パッセンジャーズ]])・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂、山陽新幹線内の「[[ウエストひかり]]」ビュフェのみ参入の[[丸玉給食]]・にっしょく西日本(→Jウェストラン→現・[[ジェイアール西日本フードサービスネット]])、上越新幹線ビュフェのみ参入の聚楽の各業者<!--7社?-->が参入した。当時の時刻表には列車ごとに担当の業者が記載されており<ref>業者によって若干メニューが変わるためであり、乗客の中にはわざわざ好みの業者が営業している列車に乗るというケースも見られた。</ref>、また業者によっては[[ステーキ]]など一部の特化メニューで営業を行う事例も見受けられた。
===== 連結位置
{{seealso|編成_(鉄道)}}
;在来線
長らく日本の列車編成は、食堂車で等級を区分してかつ上の等級の車両を下の等級の乗客が、また寝台車を座席の利用者が極力通り抜けないように、1等車+[[A寝台|2等寝台車]]+2等[[座席車]]+食堂車+[[普通車 (鉄道車両)|3等車]]+[[B寝台|3等寝台車]] のように編成するのがいわば「常識」となり、戦後になっても踏襲されていた。
*[[1956年]]登場の[[寝台列車|寝台]][[特別急行列車|特急]][[あさかぜ (列車)#19561119|「あさかぜ」の車両編成]]を参照のこと。<!--「あさかぜ」の場合20系になったときに緩急車を3等座席車にしたため、3等座席・寝台に関してはこの原則が守られなくなった。 意味不明瞭。[[あさかぜ_(列車)#登場時・在来形客車による編成]]を参照すればわかるが、20系登場以前より緩急寝台車がないことからなし崩し的に崩れている。ただし、たとえば[[国鉄キハ80系気動車]]の「キハ81形」のように[[売店]]を設置することで優等車両への通り抜けを防止する方策はあったが。-->
<!--なお、この原則は同時期の[[こだま_(列車)#東海道本線電車特急「こだま」号 |「こだま」の登場時]]でもほぼ当てはまる形で編成された。-->
0系・100系ともに
*#編成の中間で両先端からの利用客を考慮したため。
*#最大運転時間6時間以上のため、調理のみならず[[食器]]も洗うために水も大量に必要となる。
*#在来線であれば汚水は走行中に外へ捨てていたが<ref>[[2000年代]]においては在来線でも環境面の問題から循環式の汚水処理装置等を利用している例がほとんどである。</ref>、運転速度の速い新幹線では気密上の問題からもこのシステムを採用できない。
*#[[列車便所|トイレ]]では汚水を浄化し、洗浄水として再利用するシステムが開発されたが、食堂車では衛生上の問題から再生水は利用できない。
*#そのため汚水を床下のタンクに溜め込み、途中駅での停車中に汚水を排水する方法が採用された。
*#排水溝(ピット)が[[名古屋駅]]と[[岡山駅]]のホーム上の8号車停車位置の真下に設置されたため。
==== 構造 ====
狭義での食堂車・ダイニングカーは、市中の[[レストラン]]並みに労力のかかる本格的な料理の調理・供給が可能な[[台所|調理設備]]と接客に充分なテーブル席を備える本格的なものを指す。広義には簡易食堂車であり一般の座席車との合造となっている場合が主流の「ビュフェ(車)<ref>国鉄・JR各社の用語では「ビュフェ」と表記されるが、車内の案内放送では車掌や食堂会社従業員が「[[ビュッフェ]]」と発音することもある。</ref>」も食堂車に含められる。ビュフェでは[[立ち食い|立食]]スタイルが一般的で、カウンターに[[椅子]]すらない場合やカウンター席があってもその数は少ない。なお、国鉄・[[JR]][[在来線]]における車両記号は、食堂車・ビュフェとも「シ」で表記される。
食堂車の構造として、1951年に登場しそれ以降食堂車の標準とされた[[国鉄マシ35形客車|マシ35形]]の場合、客席は[[複層固定窓]]と[[エア・コンディショナー|冷房装置]]を備え、4人席と2人席を備え定員は30名とした。厨房内の調理設備は[[石炭]][[レンジ]]と氷[[冷蔵庫]]であり、後に[[国鉄10系客車|10系客車]]のオシ17形では車体幅が拡張されたために客席のテーブルを4人掛けとした。
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=
| 2=ナシ20形
| 3=
| 4=サシ489形
}}
マシ35形の姉妹形式として電気レンジや電気冷蔵庫を装備したカシ36形が登場したが、電化調理設備に故障が多かったことから調理設備マシ35形と同等物へ変更し、マシ35形にを編入された。調理設備を電化した食堂車が再び登場するのは[[客車]]としては[[国鉄20系客車|20系客車]]のナシ20形の登場からとなる。また、これ以降新造される車両も大部分の設備の基本的なものはこれを踏襲している。
[[電車]]では、[[特急形車両]]もしくは[[急行形車両]]として製造された。完全電化のため大量に電力を消費をすることから、自車に大容量の[[電動発電機]](MG)を搭載。特急形車両の完全食堂車では[[操縦席|簡易運転台]]を設けるなど車両運用上の要とされる事例が見受けられた。食堂車が営業されない事例が増えた[[1980年代]]前半までも[[車内販売]]の基地としての機能連結され続けた<ref>松本運転所(現・[[松本車両センター]])のサハシ165形では、同車に搭載されたMGが他車の冷房電源を賄う事情から、また[[国鉄583系電車|583系電車]]では編成全体の圧縮空気容量の関係からサシ581形の空気[[圧縮機]](CP)も必要であった事情から、編成から外せない理由もあった。</ref>。
{{Double image aside|right|JNR PC oshi24-704.jpg|200|JR PC sushi24-504.jpg|200|オシ24 704<br>当初から客車として製造された食堂車|スシ24 504<br>当初は電車として製造され客車化改造された食堂車}}
{{CURRENTYEAR}}年現在運行されているものでは、「北斗星」・「トワイライトエクスプレス」に連結されているスシ24形がナシ20形の電化調理設備と客席を基本的に踏襲している。スシ24形はもともと24系客車に存在したオシ24形とは全く別の車両で、電車特急である[[国鉄485系電車|485系]]のサシ481形・489形を改造して組み入れたものであり、寝台車特有の高い屋根から一転して低屋根にAU13形(JR西日本所属のスシ24 1・2はAU12形)[[分散式冷房装置]]の並んだスタイルのほか裾絞りの車体など異彩を放っている<ref>スシ24形の中で特筆すべき車両としてスシ24 506があげられる。同車は1974年にサシ489-12として落成、1978年にサシ481-83へ改造、さらに1982年にサシ489に再改造されるも番号は12にもどらずそのまま83を継承、「北斗星」増発時にまたもや改造されスシ24 506となった。詳細は[[国鉄485系電車#サシ489形|こちら]]を参照のこと。
</ref>。
なお、分割民営化後に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[九州旅客鉄道]](JR九州)で食堂車を新造したほか、改造名義だが車体新造された食堂車が[[北海道旅客鉄道]]で登場している。
{{Vertical_images_list
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| 1=オシ25-901.JPG
| 2=24系客車「夢空間」ダイニングカー</br>オシ24 901
}}
;オシ24 901
1989年にJR東日本が、次世代寝台列車用車両の方向性を検討するため[[国鉄24系客車|24系夢空間]]のダイニングカーとして[[東急車輛製造]]で製造させた試作車両。展望室を有していたために列車の最後尾に連結された。一般の24系客車とともに編成を組成され「北斗星」系統をはじめとする臨時列車や団体専用列車で運用されたが、2008年3月で営業運転を終了し廃車。現在では、[[埼玉県]][[三郷市]]の[[ショッピングセンター]]「[[ららぽーと新三郷]]」で展示されている。
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=JR-K 787-buffet1.jpg
| 2=サハシ787形車内</br>2002年
| 3=JRE PC26 msE26 20071020 001.jpg
| 4=マシE26-1
}}
;サハシ787-1 - 14
1992年にJR九州が製造した[[JR九州787系電車|787系電車]]に連結されていたビュフェ車。[[九州新幹線]]開業による運用距離・時間の短縮に伴い[[2003年]]に営業を終了し、現在では全車サハ787形200番台に改造されている。
;マシE26-1
1999年にJR東日本が製造した[[JR東日本E26系客車|E26系客車]]の食堂車。編成全体が[[2階建車両]]として設計・製造されたことから、1階が編成中の通り抜け廊下と従業員用寝台、2階が客席、上野寄り車端部(いわゆる「平屋部分」<ref>「平屋」とは[[2階建車両]]の構造上、[[鉄道車両の台車|台車]]を乗せる部分をさす。<!--通例[[連接車体]]でも存在しうるが、この部分については車両限界のうち台車にかかる下の部分が当然ながらなく、また、上部については連結部分で支障がある機材を乗せる場合があり、かつ他車との連結に供するためのアプローチとなるため、-->通常の車両と同じ車両高さ・幅となる部分。</ref>)に厨房を設置している。「カシオペア」で現在も運用されている。
;キシ80 501
1988年5月にJR北海道が[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]で保留車のまま承継されたキシ80 29を改造した食堂車。[[ジョイフルトレイン]]の[[トマムサホロエクスプレス]]に組み込むために合わせた車体を新造し載せ換えたもの。車体は座席車のハイデッカー構造ではなく平屋構造であるが、車体断面形状は他車と揃えられている。また食堂定員が、片側を1列としたためオリジナル車の32人から24人に減少している。1998年冬の運行から編成から外されたが、そのまま[[苗穂運転所]]で留置され2002年に廃車となった。
なお、JR九州が運行する「ゆふいんの森」で運用される[[JR九州キハ71系気動車|キハ71系]]・[[JR九州キハ72系気動車|キハ72系]]にはビュフェが設置されているが、食堂車を示す車両記号「シ」は使用しておらず、全室普通車の「キハ」となっている。
==== 現状 ====
21世紀初頭の現在の日本の鉄道では、夜行列車の「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」・「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」・「[[トワイライトエクスプレス]]」にのみ狭義の本格的な食堂車が営業している。
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===== 北斗星・カシオペア =====
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Grandchariot .jpg
| 2=「北斗星」食堂車</br>「グランシャリオ」</br>JR北海道所属車
| 3=Hokutoseishokudou.jpg
| 4=「北斗星」食堂車</br>「グランシャリオ」</br>JR東日本所属車
}}
「北斗星」(グランシャリオ)・「カシオペア」(ダイニングカー)の両食堂車は、出発時より21時すぎまでの間は「ディナータイム」として和洋食ともコース料理のみの予約制営業である。ディナータイム終了後、21時30分頃(利用状況により変動あり)から23時(オーダーストップは22時30分頃)までは「パブタイム」となり、列車利用者であれば予約なしでも利用できる。ハンバーグステーキやビーフシチュー(単品・定食)・スパゲッティ・カレーライス・ビール・ワイン等のドリンク類などが用意される。ただし、[[食材]]は[[上野駅|上野]]でしか積み込まないため、上りの[[札幌駅|札幌]]発では売り切れか売り切れ間近となっていることも多い。
翌朝6時30分より朝食営業を行っており、こちらは予約なしで利用が可能。メニューは和定食・洋定食・ドリンク類などが用意される。現在は[[おかず]]を統一しているため、おかず以外ではご飯・味噌汁(和定食)かパン・スープ(洋定食)のどちらかを選択するだけとなっているが、和定食は積込食数が少ないため早めに売り切れることも多い。
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| 4=「トワイライトエクスプレス」食堂車</br>「ダイナープレヤデス」
}}
「
この他に車内でのみ販売するプレヤデス弁当(1500円)は、オーダー後に食堂車の厨房で調製したものを提供する。
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「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」の場合はビュフェであるが、目的地の[[由布院駅|由布院]]まで[[博多駅|博多]]からでも2時間程度のため、移動中の[[喫茶店]]としての側面が強く、食事らしい食事は[[駅弁]]を除き提供されていない。かつては[[カレーライス]]や[[スパゲッティ]]などフード関係も充実していたが、現状は[[地ビール]]などのドリンク類やおつまみ程度に限られており、食事と見做せるものは「[[やきそば|あんかけ堅焼きそば]]」のみとなっている。
国鉄・JR以外の日本の鉄道事業者(いわゆる[[私鉄]]。以下単にこう称する)では、主に[[座席指定席]]を有する[[特別急行列車]]を運行する会社での事例が多い。
==== 歴史 ====
私鉄で初めて食堂車を連結したのは南海鉄道(現・[[南海電気鉄道]])である。電化以前の[[1906年]]に1等・喫茶室の合造客車を製造し、[[難波駅|大阪]]-[[和歌山市駅|和歌山]]間の急行列車に連結され1日2往復で運転開始している。この車両は[[1917年]]に廃車となったが、電化後の[[1924年]]に登場した[[南海電7系電車|電7系]]に日本の電車では初となる食堂車の電付6形が製造された。手荷物室・特別室・本格的な厨房を備えた食堂の合造車であったため、俗に「クイシニ」と呼ばれた。
戦後、[[#国鉄・JR|国鉄・JR]]の車両と同じ事例として本格的食堂車を製造したのは[[伊豆急行]][[伊豆急行100系電車|サシ191形]]のみである。[[1964年]]に[[サントリー]]が後塵を拝していた[[ビール]]事業テコ入れのために観光地でのPRも兼ねて、「10年間は食堂車で車内でサントリー製品を販売する」という契約で伊豆急行に贈与という形で登場した。食堂車を称してはいるが、前記のような理由から車内で本格的な食事が供される機会は少なく、ビアガーデンに類似した営業形態であった。
[[スウェーデン語]]・[[デンマーク語]]などで乾杯を意味するスコールにちなみ「スコールカー」と名付けられたサシ191形はデビュー当初は話題になったが、当時国鉄が「[[踊り子 (列車)|あまぎ]]」など[[伊東線]] - [[伊豆急行線]]乗り入れ列車に食堂車を連結していなかったこともあって伊東線乗り入れに難色を示し、自社線内のみの営業となった。後年には伊東線へ乗り入れはのされたものの食堂車は伊東線内営業休止であったため、収益が上がらず次第に存在意義が薄れてしまった。結局、営業自体も早期中止となり<ref>日本交通公社の時刻表[[1967年]]10月号の伊豆急行のページに「スコールカー連結」の表示あり。</ref>使用されないまま[[伊豆稲取駅]]の側線に留置され、契約の切れた[[1974年]]に普通車のサハ190形に改造され、[[2004年]]に廃車された。
また、私鉄の長距離列車としては最長でも2~3時間200㎞まであるため供食設備・メニューも茶菓・軽食中心になっている。戦後は、[[小田急ロマンスカー]]や[[近鉄特急]]に存在した[[近鉄12000系電車|スナックカー]]での調理スペースで調理(電子レンジで加熱)した軽食を座席まで運ぶシートサービス方式が主流で、[[東武100系電車|東武鉄道100系(スペーシア)]]にはビュフェサービスが設置されているものの始発駅発車直後にスタッフが各座席にメニューを配り乗客が購入に出向く売店形式を採っている。ただし、これらの設備も通勤時間帯や走行距離の短い列車で運行され事例も多く見受けられる。一部列車では、スタッフの帰宅・出勤など人員の確保問題、着席サービスが優先であること、物品の補充問題などの理由により営業されない事例も多い。
==== 現状 ====
===== 東武鉄道 =====
[[File:Tobu spacia-2006-03-21 3.jpg|thumb|200px|東武鉄道100系(スペーシア)</br>ビュフェコーナー]]
東武鉄道では[[けごん (列車)|日光線特急スペーシア「けごん」・「きぬ」]]でビュフェサービスを行っている。
戦前に[[展望車]]「[[東武トク500形客車|トク500形]]」に供食設備を備えさせ、最後尾に連結したことが起源である。[[第二次世界大戦]]の激化に伴い列車そのものが廃止されたが、戦後には[[東武5700系電車|5700系]]・1700系の売店で茶菓の販売を再開。固定編成を採用した[[東武1720系電車|1720系DRC]]で本格的なビュフェを初めて採用。[[1990年]]デビューの[[東武100系電車|100系(スペーシア)]]では、座席までスタッフが運ぶ「シートデリバリーサービス」を導入した<ref>6号車の[[コンパートメント席|個室]]からインターホンで注文できるシステムも備えられていた。</ref>しかし、人件費等々の問題からデリバリーサービスについては[[1995年]]に廃止されており、現在では列車発車直後にメニューを配り、希望乗客はビュフェに出向き購入する売店形式に変更された。
なお、一部列車とJR線に乗り入れる「スペーシア日光・スペーシアきぬがわ」では営業休止。[[東武200系電車|200・250系]]による伊勢崎線特急「[[りょうもう]]」および[[東武300系電車|300・350系]]による日光線特急「[[しもつけ (列車)|しもつけ]]」・[[きりふり (列車)|「きりふり」・「ゆのさと」]]にはビュフェの設置はなく、[[清涼飲料水]]の[[自動販売機]]が設置されているのみである。
===== 小田急電鉄 =====
[[ファイル:VSE-Bento.JPG|thumb|200px|小田急ロマンスカー車内のシートサービス</br>[[茶|お茶]]は缶入りや紙コップでなく車内専用のカップにて提供される]]
小田急電鉄では[[1935年]]の「週末温泉急行」運行で茶菓のサービスが車内販売形式で行われたが、戦中に列車とともに廃止。戦後[[1948年]]に[[小田急1600形電車|1910形]]でロマンスカー運行が復活した際に「[[走る喫茶室]]」の愛称で軽食茶菓のシートサービス<ref>かつて[[小田急3000形電車 (初代)|小田急3000形「SSE」]]が「[[あさぎり (列車)|あさぎり]]」として国鉄[[御殿場線]]に乗り入れていた際には、[[御殿場線]]の[[時刻表]]<!--表現不明。従前版に従う-->にはビュフェのマークが配されていた。</ref>を再開した。これらの運営スタッフは[[日東紅茶]]が1948年の再開時から、[[森永製菓|森永エンゼル]]が1968年から参入し担当した。
しかし、以下の理由により[[1995年]]に上述サービスは一旦廃止となった。
*[[小田急30000形電車|30000形「EXE」]]の増備により[[小田急3100形電車|3100形「NSE」]]が廃車。同時にドアの開閉要員でもあったシートサービス要員が減少。
*箱根・江ノ島地区への行楽客輸送特化から、通勤・通学・買い物客の利用が主体になり、注文を受けてから提供まで時間がかかる「走る喫茶室」のサービスが実態と融合しなくなったことから利用客が減少した。
これらにより車両販売が代替する結果となったが、「ロマンスカーの復権」を合い言葉に[[2005年]]にデビューした[[小田急50000形電車|50000形「VSE」]]ではシ-トサービスを復活させている。詳細は[[小田急ロマンスカー]]も参照。
また、[[台所|厨房設備]]としては[[冷蔵庫]]・[[コーヒー#淹れ方|コーヒーメーカー]]・[[ビール]][[サーバー]]などは備えているものの、[[焜炉|コンロ]]など加熱調理できる機材はない。
== 海外の食堂車 ==
=== アメリカ ===
==== 歴史 ====
[[ファイル:Luxury on wheels.jpg|thumb|200px|米国・アルトン鉄道の1885年の食堂車]]
アメリカで本格的な食堂車が登場したのは1860年代である。それ以前にも供食設備を持つ客車は存在し、列車内における食事の提供は1830年代から行われていたようだが、継続的なサービスに繋がっていなかった。この時代、[[鉄道駅|駅]]や車内では物売りが果物や軽食を販売し、食事時には[[食堂]]のある停車駅で食事のための停車時間がとられていたので、車内での飲食を望む優等旅客はそれほど多くなかった。
このような事情から、初期の食堂車のほとんどは客車の一部を食堂とした小規模なものであった。[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]サービスで有名なプルマン社は1868年に全室食堂車「デルモニコ」を建造したが、これは例外的な存在であった。プルマン社は優等旅客への供食サービスにも力を入れていたが、その主役はホテル・カーと呼ばれる[[厨房]]付きの寝台車で、食事時には座席にテーブルが据え付けられ食事が提供された。
全室食堂車が流行したのは1870年代後半で、東部や中西部の鉄道会社はこぞって食堂車を建造し、コース料理の提供をはじめた。この傾向は貫通路が開発され、車両間の移動が簡単になったことで加速し、19世紀の終わりには長距離列車には食堂車の連結が当たり前となった。
[[ファイル:Harvey-uniform.JPG|thumb|150px|left|フレッド・ハービー社ウェイトレスの制服]]アメリカの食堂車は慢性的に赤字であった。優等旅客を対象とすることからメニューは[[フランス料理]]や[[クレオール料理]]のコースが主流で客単価も高く、一流レストランと同等以上のサービスを提供するために多数の要員を必要としたことがそれ以上の費用を要した。このため、プルマン社は波動輸送用の数十両を除けば全室食堂車を経営することはなく、各鉄道会社は自社で食堂車を経営し旅客誘致の目玉としてサービスや味を競い合い、全盛期の1920年代には60の鉄道会社が1000両以上の食堂車を運営していた。食堂車運営にあたっては個々のサービスの向上は勿論の事、経営主体が同じであれば列車が異なっても同質のサービスを提供することが重視され、[[食器]]<ref>食器の質としても高く、鉄道会社独自のデザインが反映されたものであったために、これらを「レイルウェイ・チャイナ」と総称し、コレクションする趣味がアメリカでは盛んである。</ref>やウェイター、ウェイトレスの制服の統一が図られた。[[アッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道]]で食堂車を受託経営したフレッド・ハービー社の制服はその典型的な例で、この制服をまとった女性従業員「ハービー・ガール」は中西部から西海岸にいたる広大な営業エリアで提供された均質で高いサービスの象徴として好評を博した。
[[ファイル:Service Galley Santa Fe 1474 Cochiti.jpg|thumb|200px|right|旧[[サンタフェ鉄道]]の食堂車厨房ワイングラスを散見できる</br>2004年</br>]]
全盛期のアメリカの鉄道では、食堂車のほかにビュフェ・カフェカー・ランチカウンターカーといった簡単な厨房を持つ車両で供食サービスを提供するケースも多かった。その目的は、コース料理を必要としない普通旅客に対する安価な食事の提供と優等旅客の軽食や喫茶の需要に応えることにあり、長距離列車では目的に応じた設備を持つ車両が数両連結されるのが通常であった。
上記のようにアメリカの食堂車は1920年代から40年代にかけて全盛を極めたが、それ以降は急速に衰退する。優等旅客は[[航空機]]に、普通旅客は[[高速バス|長距離バス]]([[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]])にシェアを奪われ旅客は大幅に減少。多数の要員を必要とする食堂車の経営は成り立たなくなってしまった。多くの場合は列車の廃止とともに消滅したが、食堂車サービスのみ削減し車内販売に置き換えるケースも散見される。[[サザン・パシフィック鉄道]]では大陸横断の長距離列車でも[[自動販売機]]による軽食販売に置き換えるケースなどがあり、その劣悪なサービスが[[アムトラック]]成立の後押しをしたとも言われている。
その後、アメリカの長距離旅客列車の多くは1971年にアムトラックに移行し、食堂車もアムトラックの経営となり現在に至っている。
==== 現状 ====
[[ファイル:Via Rail "The Canadian" Dining Car.jpg|thumb|200px|カナダの長距離列車「[[VIA鉄道#路線|カナディアン号]]」の食堂車]]
アムトラックのほとんどで供食設備を備える。[[夜行列車]]ではコース料理を提供する食堂車を連結しており、中距離列車もカウンターとテーブル席を備えた[[ホットドッグ]]や[[サンドウィッチ]]を提供するカフェ・カーを連結している。運転時間が長大であることと、駅構内の売店が少ないことなどがその理由である。[[カナダ]]の旅客列車を運行する[[VIA鉄道]]においても事情は同様であるが、中距離列車では、供食車両を設ける代わりに航空機の[[機内食]]同様の食事のシートサービスが行われている。
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=== ヨーロッパ ===
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Talgo_restaurant.jpg
| 2=スペイン・タルゴの食堂車</br>2006年
| 3=Talgo_bar.jpg
| 4=スペイン・タルゴのバー車
}}
[[西ヨーロッパ]]では日本と同様、食堂車は減少・簡略化傾向にあるが、その様相は国ごとに異なる。
[[フランス]]では、かつて「ル・ミストラル」などの[[優等列車]]では[[フルコース]]の[[フランス料理]]が提供されていたが、夜行列車を含めて[[サンドウィッチ]]程度の軽食を提供するビュフェ車以外は全廃されている。[[ドイツ]]・[[イタリア]]・[[スペイン]]などに向かう国際列車に食堂車を連結するものがあるが、これらはすべて乗り入れ先の国側の鉄道事業者が運営<!--鉄道事業者が経営しているわけではない-->するものである。[[ユーロスター]]など一部の[[高速列車]]では狭義の食堂車は連結されていないが、2等車乗客向けにビュフェ車が連結されており、1等車の乗客には座席に[[飛行機]]の[[機内食]]同様の配膳サービスが行なわれている。
ドイツでは、食堂車の慢性的な経営難により、国際列車や夜行列車を除く本格的な食堂車のビュフェ車(ビストロ)への改装が進められている。メニューは、他国に比べると豊富で経営規模も比較的大きい。
一方、イタリア・[[スイス]]・スペインでは昼行列車の食堂車のてこ入れが積極的に行われている。[[ユーロスター・イタリア]]の食堂車は本格的な[[厨房設備]]を擁する。スイスでは[[ファストフード]]店に似た供食設備を持った車両の試みも行われているほか、一部私鉄の列車にも食堂車が連結され大手私鉄の[[レーティッシュ鉄道]]では10両以上の[[レーティッシュ鉄道の食堂車|食堂車]]を保有し、[[氷河急行]]などの特別列車のほか通常の急行列車の一部にも食堂車が連結される。スペインでは、国内の長距離列車・国際列車などでのフルコースメニューを中心としたサービスが継続されている。
西ヨーロッパの夜行列車の個室寝台車では、簡単な[[朝食]]のサービスを行う列車が多く、朝食料金は寝台料金に含まれている場合が多い。夜行列車の[[夕食]]・朝食時刻は前夜指定するのが通例だが、客席まで朝食が届けられる場合と夕食同様に指定した時刻に食堂車へ客が赴く場合の2種類が存在する。
=== 中華人民共和国 ===
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Chinese dining car,china railway,Xinjiang,china.jpg
| 2=中国の食堂車</br>2001年
| 3=Mongolian Dining Car.jpg
| 4=[[モンゴルの鉄道|モンゴル鉄道]]の食堂車</br>2004年
}}
[[中華人民共和国]]の場合、広大な国土である上に長距離[[高速鉄道|高速列車]]が存在しないため、現在でも24時間以上(最も長い[[広州市|広州]] - [[ラサ市|ラサ]]間列車は55時間以上)かけて走破する列車が多数有り、[[寝台列車|寝台特急]]等の長距離列車には食堂車が連結されているケースが多い。
[[中国語]]では「餐車」(餐车:ツァンチョー cānchē)と呼ばれる。[[中華料理]]は地方によって味付けの違いに特色があるが、食堂車でも所属管理局によって味付けに地方色がある。朝食は[[麺]]料理のみの場合が多い。最近では、[[車内販売]]の[[弁当]]も食堂車で[[調理]]している。短距離の特急の場合は、車内の売店で弁当・[[カップ麺]]・[[フルーツ]]盛り合わせ・菓子などを用意して販売しているだけの場合が多い。
=== 韓国 ===
[[大韓民国|韓国]]では、[[セマウル号]]を中心にソウルプラザホテル運営の食堂車を連結し、車内で[[韓国料理]]の提供を行うなどしていたが、ソウルプラザホテルが運営から撤退し、その後[[アシアナ航空]]の機内食を担当しているランチベル社が事業を引き継ぎ運営していたが、2008年9月をもって撤退。現在は食堂車を改造し、軽食を中心とした「カフェ客車」として運用されている。過去には、車内でハンバーガーを提供する[[ロッテリア]]運営の食堂車も存在した。2004年3月開業の[[韓国高速鉄道]](KTX)には食堂車・ビュフェ車ともに連結されていない。
=== 台湾 ===
1980年代に「[[キョ光号|莒光号]]」に[[洋食]]を提供する食堂車、2000年代に[[自強号]]に半室ビュフェ車が連結されたことがあったがいずれも短期間で終わっている。
=== その他 ===
この他、長時間走行を行う列車が存在する国や地域においては何らかの供食設備を持つ事が普通である。[[東ヨーロッパ]]や[[ロシア]]などの長距離列車は食堂車を連結し、[[インド]]の長距離列車は調理設備を持つ車両を連結し、調製した料理の客席へのサービスを行っている。
== 脚注 ==
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