「日本の脚気史」の版間の差分

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=== 陸軍 ===
==== 日清戦争での陸軍脚気流行 ====
===== 「勅令」による戦時兵食の指示 =====
海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、[[日清戦争]]時に[[勅令]]で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用した({{Jdate|1894|7|31}})<ref>山下(2008)、116-117頁。</ref>。ただし、[[大本営]]陸軍部で[[大本営#組織|野戦衛生長官]]をつとめる[[石黒忠悳]](陸軍省[[陸軍省#医務局|医務局長]])の米飯過信・副食軽視が災いの大もととなった<ref>山下(2008)、117頁。</ref>。
 
戦時兵食の内容が決められたものの、[[日清戦争#動員(戦時編成)と軍夫の大規模雇用|軍の輸送能力が低いこともあり]]、しばしば兵站がとどこおった。とくに緒戦の[[朝鮮半島]]では、食料の現地調達と補給に苦しみ、[[平壌]]の戦い (日清戦争)|平壌攻略戦]]では[[野津道貫]][[第5師団 (日本軍)|第5師団]]長以下が黒粟などを口にする状況であった。[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]後、{{Jdate|1894|10}}下旬から[[遼東半島]]に上陸した[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第二軍]]の一部で脚気患者がでると、経験的に夏の脚気多発が知られているなか、事態を憂慮した[[土岐頼徳]]第二軍軍医部長が麦飯給与の[[稟議書|稟議]]<!--←項目が存在しリンクされている単語-->を提出した({{Jdate|1895|2|15}})。しかし、その「稟議は施行せらるる筈<small>(はず)</small>なりしも、新作戦上[[海運]]すこぶる頻繁なる等、種々の困難[[陸続]]発起し、ついに実行の運<small>(はこび)</small>に至らさりしは、最も如何<small>(誤字)</small>とする所なり」<ref>原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述</ref>と、結局のところ麦飯は給与されなかった。その困難の一つは、[[森鴎外#軍医として|森林太郎(鴎外)]]第二軍[[兵站|兵站部]]軍医部長が反対したとされる(もっとも上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限があたえられた<ref>山下(2008)、128-129頁。</ref>)。
 
[[下関条約]](日清講和条約)調印後の[[乙未戦争|台湾平定(乙未戦争)]]では、高温という脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した<ref>山下(2008)、117-119頁。</ref>。しかも、{{Jdate|1895|9|18}}付けの『[[時事新報]]』で、[[石神亨]]海軍軍医が同紙に掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、[[斎藤有記]]海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた<ref>ただし、11月23日付けの『[[東京医事新誌]]』で高田亀(陸軍軍医の匿名)により、学問上の疑問点を挙げて反論されると、石神も斎藤も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)</ref>。しかし、11月に「台湾戍兵<small>(じゅへい)</small>の衛生について意見」<ref>原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述</ref>という石黒の意見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないとした<ref>山下(2008)、125-126頁。</ref>。そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し({{Jdate|1896|1|16}})、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮まる兆候がなかった。ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍[[軍医総監]]・序列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入された([[軍法会議]]などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。
 
===== 脚気惨害 =====
陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人(72.3%)が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。ちなみに、'''総病死者20,159人'''で、うち脚気以外の病死者が16,095人、79(79.8%)であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』<ref>刊行されたのは日露戦争後の1907年(明治40年)であった。陸軍各部隊の衛生実況は、戦後の早い時期に提出されていた。しかし、肝心の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』(巻頭に「部外秘密」のマル秘ふせん)は、{{Jdate|1896|12}}に編纂が開始されたものの、完成したのが10年以上たった日露戦争後の{{Jdate|1907|3}}末であり、刊行が大幅におくれた。ひとえに「脚気」編のおくれであり、その編纂委員の任命は、{{和暦|1903}}7月と、同書の編纂開始から6年半もの空白があった。それも「脚気」編を担当したのは、日清戦争の終結年に医学部を卒業した軍医であった。山下(2008)、246頁。</ref>)。その他の戦死者数には衛生状態戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)<ref>『明治二十七八年日清戦争史』第八巻・付録第121減耗人員階級別一覧。1894年7月25日~1895年11月18日の値。ただし内地勤務者は、5月13日まで。</ref>など、[http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2044.html さまざまな数字悪いこともってる]。多数の病死者が出たように、[[日清戦争#日本軍の損害|衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病がはやり]]、国内でもまた[[広島大本営]]で[[参謀総長]]の[[有栖川宮熾仁親王]]が[[腸チフス]]を発症したり、出征部隊の凱旋によって一部でコレラが流行したりするなど、国内も安全とは言えなかった。とくに[[台湾]]では、暑い季節に[[ゲリラ]]戦にまきこまれたため、伝染病がまんえんし、{{Jdate|1895|10|28}}、[[近衛師団]]長の[[北白川宮能久親王]]が[[マラリア]]で陣没し<ref>政府の公式発表。ただし戦死説、暗殺説、自殺説もある。末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年、95-100頁。</ref>、[[山根信成]]近衛第二旅団長も戦病死したほどであった<ref>[[藤田嗣章]]台湾[[兵站]]部軍医部長(マラリアにかかって後送された[[伍堂卓爾]]の後任)は、「我軍を悩ましたのは[[亜熱帯]]地の暑中行軍もさることながら、実に各種[[伝染病]]の流行にあった。……やはりこれ〔マラリア〕にかかる者が多く、加ふるに[[コレラ]]病の猖獗<small>(しょうけつ。悪いものが猛威をふるう意)</small>がありチフス・[[赤痢]]も流行したので、戦闘死傷者に比すると病死者が多かった」と記述した。なお、近衛師団の正式報告書({{Jdate|1896|5}})の病名欄に「脚気」がないように、藤田も大流行していた脚気を明記していない。山下(2008)、163-164頁。</ref>。また、[http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2044.html 戦没者数脚気触れたいない一次資料は、さまざまな数値がほかにもある]。たとえば、1895年5月末から台湾に上陸した近衛師団の某大隊は、「台湾熱と下痢病および戦死あるいは負傷のため」、東京出発時の1,132600、戦傷死285名、変死177名(ただし10万から600以上、雇用され前後まで減少し(「谷田三等夫を含まず)<ref>医の書簡」明治二十七八年奥羽清戦争史日新聞第八巻・付録第121減耗人員階級別一覧。18941895792526~1895年11月18日の値ただ大谷(2006)、164-165頁。当時、メディアへの締めつけの厳かった東京と異なり、仙台や福岡の勤務者方新聞には、5従軍記者だけでなく、将兵と軍夫の手紙により、戦地での厳しい生活や[[旅順虐殺事件#第二段階(111322まで以降の三日ないしは四日間)|旅順虐殺事件]]など生々しい情報が掲載されていた。</ref>。なお、台湾での惨状を伝える[[報道]]等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っているなか、隠蔽<small>(いんぺい)</small>したい出来事であった。
 
上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患者284,526人。[[日清戦争#日本軍の損害|凍傷も少なくなかった]])、'''脚気死亡者4,064人'''(うち朝鮮142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人<ref>朝鮮は357日間、清国は437日間、台湾は306日間、内地は574日間の値であり、また延人員もそれぞれ異なる。山下(2008)、114頁。</ref>)であった。このように陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ[[山県有朋]]や薩摩閥のトップ[[大山巌]]、また[[児玉源太郎]]などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく<ref>台湾の内情を知る立場の台湾勤務の軍医部長は、異例の人事を経験した者が多い。[[石阪惟寛]](陸軍[[軍医総監]]・序列第二位)・[[土岐頼徳]](同・序列第三位)・[[伍堂卓爾]](マラリアにかかる)の3人は帰国後、休職。藤田嗣章(息子の一人が画家の[[藤田嗣治]])は、7年間も台湾で勤務した。とりわけ、石黒と大喧嘩をした土岐は、{{Jdate|1896|5|10}}に帰京(即日休職)し、休職のまま5年後の、{{Jdate|1901|5|10}}に予備役に編入された。しかも、{{Jdate|1907}}に刊行された『陸軍衛生事蹟』(石黒が初代編纂委員長)の「台湾編」は、土岐が[[台湾総督府]]陸軍局軍医部長をつとめていたこと({{Jdate|1896|1|16}}~不明。ただし同年5月10日に帰京)が記載されていない。また、土岐のもとで4ヶ月ほど一緒に働いた藤田(当時、台湾兵站軍医部長)の文章も、土岐に触れることなく、石阪が去ったあと藤田が代務したとある。要するに[[陸軍省#医務局|陸軍軍医部]]では、土岐の台湾勤務それ自体が無かったことにされたのである。山下(2008)、165-167頁。</ref>、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。
 
このように陸軍で脚気が大流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ[[山県有朋]]や薩摩閥のトップ[[大山巌]]、また[[児玉源太郎]]などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく<ref>台湾の内情を知る立場の台湾勤務の軍医部長は、異例の人事を経験した者が多い。[[石阪惟寛]](陸軍[[軍医総監]]・序列第二位)・[[土岐頼徳]](同・序列第三位)・[[伍堂卓爾]](マラリアにかかる)の3人は帰国後、休職。藤田嗣章(息子の一人が画家の[[藤田嗣治]])は、7年間も台湾で勤務した。とりわけ、石黒と大喧嘩をした土岐は、{{Jdate|1896|5|10}}に帰京(即日休職)し、休職のまま5年後の、{{Jdate|1901|5|10}}に予備役に編入された。しかも、{{Jdate|1907}}に刊行された『陸軍衛生事蹟』(石黒が初代編纂委員長)の「台湾編」は、土岐が[[台湾総督府]]陸軍局軍医部長をつとめていたこと({{Jdate|1896|1|16}}~不明。ただし同年5月10日に帰京)が記載されていない。また、土岐のもとで4ヶ月ほど一緒に働いた藤田(当時、台湾兵站軍医部長)の文章も、土岐に触れることなく、石阪が去ったあと藤田が代務したとある。要するに[[陸軍省#医務局|陸軍軍医部]]では、土岐の台湾勤務それ自体が無かったことにされたのである。山下(2008)、165-167頁。</ref>、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。
 
==== 義和団の乱での派遣部隊脚気流行 ====