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より正しい形に整理・出羽湊城と呼ばれたことはないため、湊城として記載しなおし・他細かい点を修正
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'''湊城'''(みなとじょう)は、海岸が湊(川が陸地に入り組んだ場所、転じて船着場)となっている土地の周辺に建てられた[[城]]に使われる呼称である。単に'''湊城'''と言う場合は、[[秋田県]][[秋田市]][[土崎]]の出羽湊城を指す場合が多い。他、[[福井県]][[坂井市]]の三国湊城などがある。他にもまた、[[和歌山県]][[田辺市]]の[[田辺城 (紀伊国)|田辺城]]など、元は過去に湊城でありと呼ばれ、後に拡張されたり土地が変化するなどして改名した城もある。
 
本稿では、先に挙げた'''出羽湊城(秋田市)'''、'''三国湊城'''について詳述する。
 
== 出羽湊城(秋田市) ==
'''出羽湊城'''(でわのみなとじょう)は、[[出羽国]][[土崎港|土崎湊]]([[秋田県]][[秋田市]])にあった[[平城]]。少なくとも、[[平城慶長]]。もともとは14世紀中ごろまで9年([[1604年]])は築か[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]によって破却さていたと思われていたが、きは現在はそれとは別に、[[1597年土崎神明社]]の地あったことは間違いないとされ、実際に発掘調査によって[[秋田実季織豊政権]]が築い時代にでき新城でもあるする説が有力である。土崎湊城とも呼ば見られる。単に'''湊'''と言った場合、こ城を指すこと遺構発掘されて
 
土崎湊築城時期は未だにわかっていない。明治期書物には、[[1395年永享]]8年([[応永1436年]]2年)に[[十三湊]]の下国[[安東氏|安藤氏]]の一族である[[安藤]]の弟[[|藤鹿季|鹿倍康季]]が将軍野(土崎の東に広がる平原当時こ現在は住宅地)あたりを支配して西北に築いたとみられ上国安東氏が、記載根拠はなく、信憑性は疑って入部拠点としたとされる。当時の湊城は現在の寺内後城([[秋田城]]の西方、旧[[雄物川]]に面した小高い丘)にあったと考えられており、実際この地区から場合15 - 16世紀のもの[[平山城]])みられる陶磁器が出土してう説もあ。城自体は鹿季が築いたとされるが確証はない
 
土崎湊の地は、[[1395年]]([[応永]]2年)に[[十三湊]]の下国[[安東氏|安藤氏]]の一族である[[安藤盛季]]の弟[[安藤鹿季|鹿季]]が、当時このあたりを支配していたとみられる上国安東氏にかわって入部し拠点としたとされる。鹿季はこの後'''湊氏'''と称し、[[秋田城介]]を名乗った。また、以後湊安藤氏(この頃から安東氏とも)の累代が支配する一方で、下国安藤氏は盛季が南部氏に敗れて蝦夷地に逃れ、後に盛季の後継者[[安東政季|政季]]が湊安東氏に招かれて檜山(秋田県[[能代市]])に土着した(政季の子[[安東忠季|忠季]]以降は'''檜山安東氏'''と呼ばれる)。その後、湊安東氏は[[安東尭季]]が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主[[安東愛季|愛季]]が、両家統合を図るため[[安東茂季|茂季]]が継いを送り込んだ。しかし、それに反発した湊安東家配下の国人の一部が反乱を起こしたため、。この反乱は愛季が反乱を鎮圧し、湊城に入ることで湊によって両家を統合したが、このときはまだ安東氏の拠点は檜山城であった。愛季が亡くなり、子の[[秋田実季|実季]]が家督を承してぐと、茂季の子[[安東通季|通季]]が反乱を起こしたが、実季統合さに勝利し、秋田郡の支配権を確固たるものにした。(一連の戦いの詳細は''[[湊騒動|湊合戦]]''を参照)
 
湊合戦の後、実季は土崎拠点を檜山城から城に移し、慶長4年([[1599年]])から湊城地で大規模なを行った。この改築は、使用した材料や費用、日数等が書かれた詳細な記録が現存しており、新築に近とする見解もある。江戸中期の資料には、湊城の跡地や門の位置について記載された記録があり、二重の堀をめぐらした平城を築いた。この新城も湊城であるが、旧湊城が廃却ったとされたかどうかは不明である。[[関ヶ原の戦い]]の翌慶長6年([[1601年]]に完成したが、実季はその翌年慶長7年([[1602年]]に[[常陸国|常陸]]宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった[[佐竹氏]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が入城した。しかし、安東氏の領地は5万石程度であったが佐竹氏はその約10倍、54万石の大名であったため、家臣団の屋敷なども構えるとなると湊城は狭く、また拡張の余地も少なかった。そこで、義宣は慶長9年(1604年)に久保田神明山の地に新たに[[久保田城]]を建設してそちらに移り、湊城は廃城と破却された。1615[[元和]]6、一国一城令が出されると湊城は取り壊され、([[1620年]])には跡地に[[土崎神明社]]が建てられている
愛季が亡くなり、子の[[秋田実季|実季]]が家督を継ぐと、茂季の子[[安東通季|通季]]が[[南部氏]]や[[小野寺氏]]と通じ、角館城主の[[戸沢盛安]]の支援を得て反乱を起こし、湊城を攻撃した。そのため、実季は湊城を脱し北方の砦に篭城したが、盛安の領地に近い比内地方に南部氏が侵攻したため、道季に湊(土崎湊)と船越(現[[男鹿市]]船越)を与えることを条件に休戦した。その後、通季と盛安は兵を引いたが、実季は上杉氏の重臣[[本庄繁長]]と誼を通じ、由利郡の[[由利十二頭]]に助勢を求めた。そして、通季の家臣団の分断を図って湊城に攻め入り城を取り戻すと、通季は仙北郡に落ち延びた。さらに、戸沢・小野寺連合軍との合戦を経て、実季は秋田郡の支配権を確固たるものにした。(一連の戦いは[[湊騒動|湊合戦]]とも呼ばれる)
 
湊合戦の後、実季は土崎湊の地で大規模な築城を行い、二重の堀をめぐらした平城を築いた。この新城も湊城であるが、旧湊城が廃却されたかどうかは不明である。[[関ヶ原の戦い]]の翌[[1601年]]に完成したが、実季はその翌年[[1602年]]に[[常陸国|常陸]]宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった[[佐竹氏]]の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が入城した。しかし、安東氏の領地は5万石程度であったが佐竹氏はその約10倍、54万石の大名であったため、家臣団の屋敷なども構えるとなると湊城は狭く、また拡張の余地も少なかった。そこで、義宣は久保田神明山の地に新たに[[久保田城]]を建設してそちらに移り、湊城は廃城とされた。1615年、一国一城令が出されると湊城は取り壊され、1620年には跡地に[[土崎神明社]]が建てられた。
 
湊城は平城であったため、取り壊し後の土地はその多くが町人の屋敷となり、[[江戸時代]]における土崎湊町の隆盛の基盤となった。