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同時期に郡上藩では[[郡上一揆]]が発生している。これらの騒動が重なった結果として、[[老中]]をはじめとする幕閣数人が免職となり、郡上藩は改易となった。江戸時代の民衆運動において、民衆側のみではなく、幕閣・藩主の大量処罰が行われた例は他にはない。
 
== 経緯概要 ==
[[ファイル:Torii of Hakusanchukyo Shinto shrine 2011-04-17.jpg|thumb|[[白山中居神社]]の鳥居]]
=== 石徹白村の状況 ===
石徹白騒動は、[[宝暦]]2年([[1752年]])、[[浄土真宗]]高山[[真宗大谷派高山別院照蓮寺|照蓮寺]]付きの道場であった石徹白村の威徳寺が、照蓮寺の掛所として寺格を持つようにする動きを起こしたことがきっかけとして始まった<ref>野田、鈴木(1967)p.62、高橋(2000)p.378</ref>。
郡上藩金森家が管轄していた越前国大野郡石徹白村には[[白山中居神社]]が鎮座し、古くから[[白山信仰]]の村として栄えていた。[[白山]]へ向かう巡礼者への手助けを行う村人は白山中居神社の社人・社家となっており、無税・[[苗字帯刀|帯刀御免]]の身分とされていた。
 
宝暦2年(1752年)、[[東本願寺]]は威徳寺を掛所に指定したが、[[白山中居神社]]の神主を務めていた石徹白豊前は異議を唱えた。石徹白豊前は上洛してまず[[吉田家]]に願書を提出し、威徳寺の隆盛は神事の衰退をもたらすため、吉田家から東本願寺に抗議するよう依頼するとともに、郡上藩の寺社奉行への働きかけも願った。また豊前は東本願寺にも直接、威徳寺の掛所昇格は白山中居神社の神主として反対すると抗議を行った。結局、吉田家は豊前の抗議を受け、東本願寺への抗議を行うとともに郡上藩寺社奉行への書状を発行した<ref>野田、鈴木(1967)p.62、高橋(2000)pp.378-379</ref>。
白山中居神社では、神職(神主)を上村家が、神頭職(社領を統治する役)を杉本家が継承していたが、両者は長年にわたり対立関係にあった。騒動当時の上村家当主である上村豊前は[[吉田家]]([[吉田神道]])に属し、石徹白村は[[白川家]]([[伯家神道]])に属していた。
 
石徹白豊前は、威徳寺の掛所昇格問題を利用して石徹白の支配権を掌握しようともくろみ、京都からの帰りに郡上藩の寺社奉行らを訪ね、賄賂を贈った。豊前の意を受けた郡上藩寺社奉行の手代が石徹白に派遣され、石徹白の中居神社社人は吉田家の支配を承認することと、そして神主の石徹白豊前の下知に従うべきとの指示を行った。しかし社人らは郡上藩寺社奉行の指示に従おうとしなかった。そこで郡上藩寺社奉行は石徹白の有力社人を郡上八幡へ呼び寄せ、先日の指示は京都吉田家からの指示であるのに、それを受け入れないのは不届きであると改めて受け入れを強要したが、やはり石徹白の有力社人は受け入れをあくまで拒んだ<ref>野田、鈴木(1967)p.63、高橋(2000)p.379</ref>。
石徹白村では、江戸時代中期に入ると[[浄土真宗]]を信仰する村人が増加するようになった。[[天台宗]]系の白山信仰の地に浄土真宗が教線を伸ばすことを、上村豊前は快く思っていなかった。上村豊前は日ごろから傲慢な態度が見られる人物であり、村民からは反感を抱かれていた。こうして村民と上村豊前とは反目を深めていた。
 
宝暦4年([[1754年]])、石徹白豊前は再び上洛し、吉田家を尋ねた。吉田家は豊前の願いを受け入れ、石徹白の社人たちは吉田家の指示に従い神事を行い、神主である石徹白豊前に従うべきであることと、従わない場合は神職を解くという内容の下知状を交付した。石徹白に戻った豊前は社人を集め、吉田家から石徹白支配を認められた自らに従うように強要し、その後、郡上藩の役人が反豊前派の有力社人を追放処分に処した。石徹白の社人らはまず郡上藩寺社奉行に石徹白豊前の不法を訴えるが、賄賂によって豊前に取り込まれていた郡上藩寺社奉行は、全く訴えを取り上げようとはしなかった<ref>野田、鈴木(1967)p.63、大貫(1980)p.180</ref>。
=== 上村豊前の策略 ===
 
宝暦4年(1754年)8月には寺社奉行の[[本多忠央]]に直訴を行ったが、郡上藩主の金森家と近い関係にあった本多忠央は、直訴者を郡上藩に引き渡した。郡上藩は直訴者らを吟味することもなく、宿屋預け、そして入牢扱いを行った。結局宝暦5年(1755年)11月には直訴者らは追放処分となった。続いて石徹白豊前に従わない社人80名あまりを追放した。そして郡上藩の寺社奉行は追放社人の家族を集め、吉田家支配を認め石徹白豊前の指示に従うよう改めて強要するも、あくまで家族らは従おうとしないため、石徹白全世帯の三分の二近く、500名余りを石徹白から追放処分とした<ref>野田、鈴木(1967)pp.64-65、大貫(1980)p.180</ref>。
 
厳冬期に500名以上の人々が石徹白を追放され、更に騒動が解決を見るまで3年間を要したため、体の弱い高齢者や子どもを中心として死者が相次ぎ、最終的に70名以上の人々が亡くなった。石徹白豊前やその一派は、追放処分とした人々の資産を売却して私物化し、神地であった石徹白に新たに三分の一の税を取り立てるなど、石徹白は豊前の独裁状態となった<ref>野田、鈴木(1967)pp.65-66、大貫(1980)p.180、高橋(2000)pp.391-392</ref>。
 
反豊前派は宝暦6年(1756年)8月、[[老中]][[松平武元]]に直訴する。直訴は受理されたものの寺社に関する事項であるため、寺社奉行の本多忠央に扱いが委ねられてしまい、事態は思うように進展しなかった。宝暦7年(1757年)7月には改めて寺社奉行への直訴が行われたが、やはり事態の進展は見られなかった。結局、宝暦8年(1758年)6月から7月にかけて、[[目安箱]]に3回箱訴を繰り返し、最終的に同時期に箱訴が行われた郡上一揆とともに評定所による審議がなされることになった<ref>野田、鈴木(1967)pp.66-68、大貫(1980)p.180</ref>。
 
宝暦8年(1758年)12月に言い渡された評定所の判決で、郡上一揆と石徹白騒動の責任を問われた郡上藩主の[[金森頼錦]]は[[改易]]となり、郡上藩の寺社奉行と寺社奉行手代、そして石徹白豊前は死罪が言い渡された<ref>野田、鈴木(1967)p.68</ref>。
 
== 石徹白騒動の背景 ==
=== 騒動前の石徹白 ===
[[ファイル:Mount Nobuse slope on east side 2011-04-17.jpg|thumb|[[野伏ヶ岳]]から望む[[大日ヶ岳]]と[[豪雪地帯]]の石徹白地区(中央部右より)]]
[[ファイル:Entrance of mountain climbing trail Itoshiro 2010 5 3.jpg|thumb|150px|石徹白内を[[白山]][[登山道]](美濃[[禅定道]])通り、古来から[[修験道]]として利用されていた。]]
越前国大野郡石徹白は[[白山]]南麓の標高700メートルを越える[[九頭竜川]]上流部の[[石徹白川]]流域に広がり、上在所、中在所、下在所、西在所、小谷堂(こたんどう)、三面(さっつら)の六在所に分けられていた<ref>野田、鈴木(1967)p.61、高橋(2000)p.135</ref>。上在所の北端には[[景行天皇]]の時代に創建されたと伝えられる白山中居神社があり、[[養老]]年間に白山を開いた[[泰澄]]が社殿を修復し社域を拡張したとも伝えられている<ref>野田、鈴木(1967)p.61、白鳥町教育委員会(1976)pp.133-135、p.176</ref>。
 
平安時代から鎌倉時代にかけ、[[白山信仰]]の隆盛に伴い、[[美濃]]側からの白山登山ルート上に位置する白山中居神社は、[[長瀧寺]]とともに発展を見せていた<ref>高橋(2000)pp.140-142</ref>。そして石徹白は白山中居神社の社領のような形となり、住民は全て神社に属し社人と呼ばれていた。社人はオトナとも呼ばれた12名の頭社人、平社人、末社人の三階級に分けられ、頭社人が神社や石徹白の重要事項を合議で決定する体制が形作られていった。頭社人は基本的に世襲制であったが、筆頭の神主のみは一年交代制であったと伝えられている<ref>野田、鈴木(1967)p.61、高橋(2000)pp.142-143</ref>。
 
しかし15世紀初頭には白山中居神社は衰退し、12名で構成されていた頭社人は3名にまで減少してしまった。そこで[[正長]]元年([[1428年]])、郡上郡粥川村にある星ノ宮の神主の子である児河合を石徹白に迎えて神主として、以後児河合の子孫が神主を世襲するようになったと伝えられている<ref>野田、鈴木(1967)pp.61-62、白鳥町教育委員会(1976)p.226、高橋(2000)pp.142-143</ref>。
 
16世紀に入り、石徹白は[[朝倉氏]]の支配下に入った。[[天文 (元号)|天文]]年間、朝倉氏は石徹白の神主を一名に固定するよう指示を出したとされ、これによって神主の世襲化が固まったと考えられている<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.226-228、上村(1984)p.20</ref>。朝倉氏の滅亡後、石徹白は[[金森長近]]や[[丹羽長秀]]らの支配を経て、[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関が原の戦い]]以後は[[北ノ庄藩]]領、そして[[貞享]]3年([[1686年]])からは[[天領]]となり[[勝山陣屋]]の代官支配となった。貞享4年([[1687年]])には石徹白は白山中居神社の社領として田畑の[[年貢]]は免除とし、住民は社人身分として[[名字帯刀]]が許されるという特権が認められた<ref>野田、鈴木(1967)p.60、上村(1984)p.10</ref>。[[元禄]]5年([[1692年]])、石徹白は天領から郡上藩の支配とされたが、白山中居神社の社領としての年貢の免除、社人として名字帯刀の特権は引き続き認められた。つまり石徹白の住民は白山中居神社に対して年貢的な貢納を行っていたが郡上藩に対して年貢や課役は全く負担せず、郡上藩も石徹白の住民たちには行政面での支配を行使していたのみであった<ref>上村(1984)pp.10-12</ref>。
 
=== 騒動発生時の石徹白 ===
石徹白は12名の頭社人の合議を中心とする村運営が行われてきたが、中でも神主は白山中居神社神職の筆頭であり、また[[村役人]]に相当する役割も担い、石徹白の頂点に位置していた<ref>上村(1984)pp.12-18</ref>。頭社人は世襲制であったが、神主はかつて頭社人の中から1年輪番で勤める形を取っていた。15世紀には神主の家系の固定化が始まり、16世紀の朝倉氏の介入によって世襲化が固まったようであるが、神主の地位はあくまで12名の頭社人の筆頭であり、石徹白での権威や権力を完全に掌握しているわけではなかった<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.226-228、上村(1984)pp.10-12</ref>。事実、16世紀末に神主石徹白彦右衛門が亡くなった後、孫に神主職を継げようと考え、北ノ庄藩からも安堵状が出されたのにもかかわらず、石徹白側がそれを受けずに石徹白五郎右衛門が神主となった。また石徹白騒動の当事者である石徹白豊前の父である石徹白大和は、白山中居神社の造営、修復用材を伐る造営山をひそかに伐採して売り払った問題を起こした際、石徹白大和を神主の座から追放する件が論議された<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.227-228、上村(1984)pp.19-20</ref>。
 
もっとも石徹白大和は問題を起こした後も郡上藩の要望もあって神主を継続しており、朝倉氏、郡上藩とも領主として、石徹白が世襲神主による支配を受ける形が望ましいと見なしていたと考えられ、白山中居神社の造営山を勝手に伐採する件が問題になった点は、世襲化した神主が石徹白における絶対的な権威や権力の掌握を目指す動きが見られたことを示唆される<ref>大貫(1980)p.179、上村(1984)p.20、p.26</ref>。一方、神主以外の頭社人や他の社人らの多くは、これまで通りの12名の頭社人の合議を中心とする村運営の継続と、絶対的な権威、権力を握る神主ではなく、頭社人の筆頭というこれまでの形の継続を望んでいた<ref>上村(1984)p.26</ref>。
 
=== 神主世襲制と吉田派と白川派 ===
石徹白での騒動が激化する中で争点となったのが、神主である石徹白豊前が世襲神主であるか否かという点と、石徹白は吉田家の支配であったのかそれとも[[白川伯王家|白川家]]の支配であったのかという点であった。騒動の張本人である石徹白豊前は世襲神主であることを主張するとともに、ことあるごとに吉田家の権威を利用して己の主張を貫こうと試みたが、反豊前派は神主はあくまで合議の上で決められるものであり、世襲制ではないと主張し、また石徹白は吉田家ではなく白川家の支配にあると主張した<ref>上村(1984)pp.19-24</ref>。
 
宝暦8年(1758年)12月に言い渡された評定所の判決では、この二点に関しては石徹白豊前の主張が認められ、石徹白豊前は世襲神主の地位にあり石徹白は吉田家支配にあると裁定された<ref>上村(1984)p.19、高橋(2000)pp.398-399</ref>。しかし吉田家支配であったか白川家支配であったかについては、石徹白騒動での反豊前派の主張が、吉田家の権威を傘に着る石徹白豊前に対抗する方便ばかりであったとは考えにくく、また古文書を分析した結果からも、石徹白豊前を出した神主家が騒動以前から吉田家の門人となっていたと考えられるものの、社人の中には白川家の門人となっていた例も確認でき、石徹白騒動以前は吉田家の門人も白川家の門人もいたものと見られている<ref>野田、鈴木(1967)p.62、上村(1984)pp.22-24</ref>。
 
=== 平泉寺訴訟の影響 ===
[[寛保]]2年([[1742年]])7月、[[平泉寺]]は[[加賀]]の尾添村、美濃の[[長滝寺]]、石徹白に対して幕府の寺社奉行に訴訟を起こした。訴訟の内容は江戸時代になって「白山別当神主」の地位を与えられ、[[白山信仰]]の中心的な役割を果たすようになった平泉寺が、他の白山への玄関口に当たる加賀の尾添村や美濃の石徹白などの白山信仰に関する宗教活動を抑えることを目的としたものであった<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.619-620、高橋(2000)pp.327-330</ref>。
 
石徹白では神主である石徹白大和が病気であったため、名代として子の石徹白豊前が中心となり、平泉寺の訴状に対する返答書を提出した。寛保3年([[1743年]])2月から寺社奉行の[[大岡忠相]]による吟味が開始され、石徹白豊前は裁判に出席するため江戸へ向かった。寛保3年6月25日(1743年8月14日)には判決が下され、平泉寺の主張がほぼ全面的に認められ、白山と白山信仰は平泉寺の支配を受けることとされた。また平泉寺は[[寛永寺]]の末寺とされ、平泉寺の白山支配の上に寛永寺による統制が加えられることとなり、幕府による白山信仰の統制が固まった<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.620-626、高橋(2000)pp.330-339</ref>。
 
この平泉寺による訴訟の結果、石徹白は敗北した。裁判に参加した石徹白豊前は、勝利を収めた平泉寺のバックには寛永寺の権威があったと判断し、権威や権力の力を借りることの重要性を認識したとの指摘がある<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.442</ref>。
 
== 騒動の発端 ==
=== 威徳寺の掛所昇格問題 ===
石徹白は白山中居神社の社領であり、住民も神社の社人であったが、そのような石徹白にも浄土真宗の勢力が伸びつつあった。石徹白には高山の照蓮寺付きの道場である威徳寺が建てられ、照蓮寺から看坊が派遣されるようになった。六代目看坊の恵俊は長年石徹白に派遣される中で信者も増えてきたため、威徳寺を照蓮寺の掛所として寺格を得て、自ら住職となって威徳寺に永住することを願うようになった<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.437、高橋(2000)p.378</ref>。
 
恵俊はまず浄土真宗門徒に声をかけ、石徹白、そして近隣の集落を歩き回って寄付を募り、宝暦2年(1752年)には十数年の年月をかけて威徳寺の本堂を建立した<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.438、高橋(2000)p.378</ref>。本堂を完成させた恵俊は続いて京都の東本願寺に、石徹白は白山中居神社の社領であり住民は同神社の社人であるので、今後も浄土真宗が栄え続ける保障はないので、威徳寺を照蓮寺の掛所に指定して浄土真宗興隆の拠点としたいとの願書を提出した。本願寺は恵俊に対して石徹白の住民たちの了解を取ったのかについて確認したところ、実際には了解を取っていないのにもかかわらず、神主、郡上郡役所の了解を得ているとの偽りの報告をした<ref>野田、鈴木(1967)p.62、白鳥町教育委員会(1976)p.438、高橋(2000)p.378</ref>。
 
宝暦2年10月18日(1752年11月23日)、東本願寺は威徳寺を掛所に指定した。高山の照蓮寺は掛所指定の確認のため、石徹白に使僧を派遣し、住民たちから承諾の受書捺印を行った。その際恵俊は、今回、[[門首]]の意思によって威徳寺が掛所に指定されたので、ありがたくお受けするようにとの嘘をつき、石徹白住民を説得して受書への捺印を進めた<ref>野田、鈴木(1967)p.62、白鳥町教育委員会(1976)p.438、高橋(2000)p.378</ref>。
 
=== 石徹白豊前状況抗議 ===
恵俊が進めた受書捺印を、神主を務めていた石徹白豊前は拒否した。かつて豊前の父である大和は威徳寺の寺地寄付に関しての受書に捺印しており、また豊前自身も[[元文]]年間に行われた威徳寺再建の際に用いられた用材の多くを寄付しており、神主と浄土真宗との関係はこれまで特に敵対的であったわけではなかった<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.438、上村(1984)pp.21-22</ref>。
 
石徹白豊前は宝暦3年(1753年)2月上洛し、まず吉田家を訪ね願書を提出した。願書の内容はまず威徳寺の掛所指定は神主たる自らは全くあずかり知らぬ件であり、このような威徳寺の勢力伸張は神事の衰退と神社の荒廃を招くので、吉田家から本願寺にかけあうとともに、郡上藩の寺社奉行にこの一件を吟味するよう指示してもらいたいという内容であった<ref>野田、鈴木(1967)p.62、白鳥町教育委員会(1976)p.439、高橋(2000)pp.378-379</ref>。続いて豊前は東本願寺を尋ね、威徳寺の掛所指定は神主である自分のあずかり知らぬ間に行われたもので、違法であると抗議した<ref>野田、鈴木(1967)p.62、白鳥町教育委員会(1976)p.439、高橋(2000)p.379</ref>。豊前の願書を受けた吉田家も東本願寺に抗議を行った。その結果、東本願寺は恵俊を呼び出し尋問を行ったところ、威徳寺の掛所申請において虚偽の申請を行った事実が明らかになり、宝暦3年12月12日(1754年1月5日)、恵俊は高山に蟄居とする旨の処分が下った<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.439、高橋(2000)p.379</ref>。
 
=== 上村石徹白豊前の策略野望 ===
上村豊前は懇意にしていた郡上藩[[寺社奉行]]根尾甚左衛門と結び、藩への工作を行って杉本家当主杉本左近が有する社領の支配権を奪おうと図った。[[宝暦]]4年([[1754年]])、郡上藩主[[金森頼錦]]の名で「石徹白村の村民は、上村豊前に従うように」の命令を出される。しかし、上村豊前のやり方に反感を持つ村人は多く、藩主の命令に従うことはなかった。
 
=== 石徹白騒動の発生 ===
上村豊前は再び根尾甚左衛門と謀り、[[宝暦]]4年([[1754年]])3月、杉本派の上村治郎兵衛を追放する。村人たちはこの処分の取り消しを藩に訴えたが聞き入れられず、郡上藩では正しい裁きはできないと考えた。同年8月、杉本左近ら3人は江戸に上り、幕府[[寺社奉行]][[本多忠央]]へこのことを訴え出たが、本多家と金森家は親しい間柄であったので訴状は金森家に回されてしまい、左近らは郡上へ送還される。翌宝暦5年5月、杉本左近ら杉本派の指導者たちは領外追放処分を受けた。
 
さらに宝暦5年(1755年)11月、根尾甚左衛門と上村豊前率いる郡上藩の役人は、杉本派とみなされる村人を襲い、約500人を石徹白村から追放する。この人数は当時の石徹白村の人口の3分の2に該当する。厳冬期に着の身着のままで追放された村人は[[飛騨国]]大野郡白川村(現岐阜県[[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[白川村]])などに逃れるが、激しい吹雪もあり、村人54人が疲労などで亡くなる。
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郡上金森藩取り潰しの後、宝暦8年(1758年)10月から[[岩村藩]]藩主[[松平乗薀]]が郡上八幡城を預かることとなった。同年12月、[[丹後国]][[宮津藩]]から[[青山幸道]]が4万8,000石で入った。青山氏の支配は その後[[明治維新]]までつづく。
 
[[石徹白村]]は明治維新後、[[福井県]]の一部となるが、[[1958年]](昭和33年)10月15日[[越県合併]]し岐阜県郡上郡[[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]](現郡上市)に編入される。奇しくもかつての郡上藩の領地に戻ることとなった。
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*野田直治、鈴木義秋「郡上藩宝暦騒動の基礎的研究」郡上史料研究会、1967年
*白鳥町教育委員会『白鳥町史、通史編上巻』白鳥町、1976年
*大貫妙子「郡上藩宝暦騒動の政治史的意義」『近世国家の展開』塙書房、1980年
*上村恵宏「石徹白騒動の史的意義」『岐阜史学第78号』岐阜史学会、1984年
*高橋教雄『美濃馬場における白山信仰』八幡町、2000年
 
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