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=== 四資料仮説 ===
{{main|文書仮説|高等批評}}
歴史的キリスト教会がモーセを記者であるとしてきた[[モーセ五書]]に関しては、それを否定する[[文書仮説|四資料仮説]]が19世紀より唱えられリベラル派の旧約聖書学の標準学説として知られている<ref>R.E.フリードマン著(松本英昭訳) 『旧約聖書を推理する』 海青社、[[1989年]]、ISBN 4-906165-28-1、序章部で四資料仮説の要約史が読める</ref>。それによれば、ソロモン王国時代に[[ヤハウェスト]]と呼ばれる個人ないしグループが主に南部の部族に伝わる伝承を基にして「J資料」を書いた。その後、分裂後の北イスラエル王国で[[エロヒスト]]と呼ばれる個人ないしグループが、「J資料」とは異なる伝承を基にして「E資料」を書き、これらがどこかの時点で編纂されてひとつにまとめられた。おそらくは北イスラエル王国の滅亡時にユダヤ王国へ亡命してきた人々がE資料をユダヤ王国にもたらして、そこでまとめられたのだろう。これを「JE資料」と称する。さらにユダ王国末期に[[申命記記者]]と呼ばれる個人ないしグループが主に[[申命記]]から[[ヨシュア記]]以降[[列王記]]までの歴史書を書いて付け加えた(これを「D資料」と呼ぶ)。最後にバビロン捕囚期に祭司階級に属する個人もしくはグループが別に保持していた資料を用いて加筆編纂を行った(この加筆部分を「P資料」と呼ぶ)。この仮説によれば、創世記の1章1節から2章3節まではP資料、それ以降から第4章まではJ資料である。また、ノアの箱舟や、出エジプト記の葦の海でもJ資料とP資料が繋ぎ合わされている、とする
 
ただし、この四資料仮説はあくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。J資料などは執筆時期をバビロン捕囚期とする説もあり500年くらい振れ幅がある<ref>四資料仮説については、『新版 総説 旧約聖書』 日本キリスト教団出版局、2007年、ISBN 978-4-8184-0637-7、pp.137-141や、W.H.シュミット著(木幡藤子訳) 『旧約聖書入門 上』増補改訂版 教文館、2004年、ISBN 4-7642-7145-1、pp.79-93 などを参照</ref>。それでも、バビロン捕囚期にモーセ五書から列王記までが編纂されたであろうことは学者たちの間でおおよそ合意されており、これに各種の預言書や諸書が時代を経るに従って順々に執筆されて付け加わっていったものと推測される。
 
なおこれらの仮説は、先にも述べたように[[福音派]]は退けているが<ref>ケアンズ『基督教全史』いのちのことば社</ref>、近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの仮説に立たないと明言するなど、[[主流派 (キリスト教)|プロテスタント主流派]](メインライン)においても退けられつつある<ref>月本昭男『創世記注解』日本基督教団出版</ref>。
 
=== ユダヤ教内での正典化 ===
「[[モーセ五書]]」は、[[紀元前4世紀]]頃には正典的な権威が与えられていた。「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」「列王記」の4書は、その後まもなく正典的な扱いを受けた。これをユダヤ教では「前の預言書」という。「後の預言書(イザヤ書など預言者の記録)」「諸書(詩歌、知恵文学など)」は、[[紀元前2世紀]]頃に正典的な地位が確立され、ユダヤ戦争後にユダヤ教を再編した[[1世紀]]の終わりごろの[[ヤムニア会議]]で正典が確認された。このヘブライ語本文を、[[8世紀]]以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。
 
=== キリスト教内での正典化 ===
これとは別に、紀元前250年頃から[[ギリシア語]]に翻訳された「[[七十人訳聖書]](セプトゥアギンタ)」があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない<ref>ローマ・カトリック教会は旧約聖書の12巻を正典としているが、[[ヴァチカン写本]](AD350年)はマカバイ記1、2を含まず、[[エズラ記]](ギリシア語)を含んでいる。[[シナイ写本]](AD350年)は[[バルク書]]を含まず、マカバイ記4を含んでいる。[[アレクサンドリヤ写本]](AD450年)はエズラ記とマカバイ4を含んでいる。[[尾山令仁]]『聖書の権威』羊群社</ref>。[[パウロ]]を含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきたが、外典と正典は区別されていた。マソラ本文系の写本からは失われたと思われる古い形態を残している可能性が認められる点で文献学上にも重要とされている<ref>秦剛平著 『乗っ取られた聖書』 [[京都大学]]学術出版会、[[2006年]]、ISBN 4-87698-820-X</ref>。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。また「七十人訳聖書」に基づいたラテン語訳の「[[ヴルガータ]]」では、収められている文書は同じだが、正典を39書としている。
 
ローマ・カトリック教会が聖書に対する外的権威を教会が付与したとするのに対し、プロテスタント教会は聖書の内的権威を教会が承認したと考えている<ref>[[アリスター・マクグラス]]『キリスト教神学入門』p.224教文館</ref><ref>尾山令仁『聖書の権威』羊群社</ref>。
 
東方教会も西方教会も長らくこの七十人訳聖書を旧約聖書の正典と基本的にみなしてきたが、その配列や数え方には一部異なるものがある。また西方教会では正教会が正典とみなす文書の一部を外典とした。
 
== 宗教改革によるテキストの見直し ==
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なおユダヤ人は、非キリスト教的な『聖書』翻訳の必要性から、上記とは系統をことにする独自の翻訳『聖書』を持っている。
 
== 旧約聖書の歴史的背景 ==
''この節では、旧約聖書の歴史的な史実性を否定する立場から記述する。''
 
今日の研究者の多くは旧約聖書の記述がそのまま歴史的事実を示すとは考えていない。旧約聖書は複雑な編纂過程を経ているし、各文書の執筆・編纂時期もよく分からないというのが実情であり、彼らの推定する実際の歴史も合意されていることはさほど多くない。
 
=== 神話・民話 ===
神話学、民族学、考古学、古代文献学などの見解によれば、創世記などのエピソードの多くには他文化の神話・説話との共通性が見られるという<ref>J.G.フレーザー著(江河徹訳) 『旧約聖書のフォークロア』 太陽社〈太陽選書〉、[[1976年]]、[[ASIN]] B000J9B6LE</ref>。ことに19世紀になってアッシリア時代の遺跡から出土した粘土板に記述された[[ギルガメッシュ叙事詩]]にはノアの箱舟とそっくりの挿話が記載されていたことは有名である。創世記の執筆に当たっては、オリエント地域で共有されていた神話・民話・説話(たとえばシリアの[[ウガリット]]遺跡から発掘された粘土板文書に記された[[ウガリット神話]])が利用されたものと推測されているが、同時に旧約聖書のオリジナリティも多くの研究者は指摘している。
 
=== イスラエル民族の起源 ===
前14世紀頃には「アピル」と呼ばれる集団がパレスチナ(カナン)で略奪行動を行っていたことがエジプトの文書で確認できる。このアピルは、シリアやメソポタミアの文書では「ハピル」ないしは「ハビル」とも呼ばれており、民族名を指すのではなく、奴隷や傭兵にもなった非土着系のアウトロー的な社会階層を指す言葉である。多くの学者がこのアピルとその後のヘブライ人(エジプト語でイブリー)のカナン進出に何らかの関係があったと考えている<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、
p.28, pp.40-41</ref><ref>加藤隆著 『旧約聖書の誕生』 筑摩書房、2008年、ISBN 978-4-480-84717-1、pp.51-52</ref>。
 
紀元前1207年の出来事を記したエジプトの石碑には「イスラエル人」についての言及が認められ、これがイスラエルという部族集団の実在を確認できる最古の文献である<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.42</ref><ref>P.グルロ著(Z.イェール・河井田研朗共訳) 『聖書入門 その歴史・文学・思想』 中央出版社、1982年、ISBN 4-8056-4714-0、pp.52-53でその記述の日本語訳が読める</ref>。この部族集団の出自については不明な点が多い。
 
紀元前1200年頃というのは丁度「[[海の民]]」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライバルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.44-46</ref>。最近の考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲブ北部などに前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたことは間違いが無い<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.49-52</ref>。
 
この山岳地域の居住者達の出自に関しては様々な説が唱えられている。アブラハムがそうであったように外部からやってきた遊牧民が定住したとする説(しかし、南部メソポタミアからの移住は考えにくいのでメソポタミア北西部からの移住だとする<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.24-25</ref>)、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.52-55</ref>。
 
=== モーセの事件 ===
モーセのエジプト脱走は多くの研究者によって、前13世紀のエジプト第19王朝ラメセス2世(在位前1279-1213)の時代であると推定されているが、文書資料が豊富なエジプト側には一切の記録が無い。このことから旧約聖書にあるような壮年男子だけで60万人という大規模な脱走事件が起きた(出エジプト12:37、民数記1:46)という訳ではなく、ごく少数者の脱走事件であったのだろうと推定されている<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.29-31</ref>。前述のイスラエル部族連合の中に「カリスマ的指導者に率いられてエジプトから脱出してきた」という伝承をもつ部族があって、その伝承が部族連合全体に広がって共有されていったのだろう<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.27</ref><ref>加藤隆著 『旧約聖書の誕生』 筑摩書房、2008年、ISBN 978-4-480-84717-1、p.90</ref>。
 
さらにエジプト脱出の伝承に、シナイ山における神の顕現に関する伝承が結び付けられて、シナイ山での契約の物語が成立したものと考えられている。このシナイ山は今日、シナイ半島南部のジュペル・ムーサ(標高2244メートル)とされているが、これは紀元4世紀以降にそう看做されるようになっただけであり根拠は無い<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.35-36</ref>。
 
なお、イスラエル人たちが神と結んだ契約については繰り返し語られているが、[[申命記]]のそれはアッシリアが属国に結ばせた宗主権条約文と類似の構造を持つことが指摘されている<ref>『新版 総説 旧約聖書』 日本キリスト教団出版局、2007年、ISBN 978-4-8184-0637-7、p.120-124</ref>。つまり、大国と属国との契約関係を、イスラエル人は神と自分達との契約に置き換えたのである。
 
=== 族長物語の背景 ===
アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長にしても、元々は別の部族が保持していた族長伝説が合わせられたと考えられている。アブラハムとイサクの記述には圧倒的に南部ユダ地方に置かれた聖所との関わりが記されているし、ヤコブの記述にはサマリア地方やヨルダン川東岸の聖所が言及されていることから、アブラハムとイサクが南部のユダヤ系、ヤコブが北部やヨルダン川東岸系の部族の族長であったことが推測されるのである<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.17</ref>。イスラエル部族連合がその結びつきを強固にして、祭祀・伝承・神話を共有していく中で三代の族長の物語が形成されていったのだろうと考えられる。
 
=== カナン侵攻 ===
このように成立したイスラエル部族連合は前12世紀頃からカナンの諸都市に敵対的に侵攻あるいは平和的な定住を行ったが、この時期を描くヨシュア記・士師記の記述がどれだけ歴史的事実に基づいているのかは不明である。たとえば、ヨシュアが角笛を吹き鳴らさせると城壁が崩れ落ちたとされる[[エリコ]]であるが(ヨシュア記6章)、考古学調査によればエリコの城壁は紀元前2300年頃に崩壊しており、イスラエル人のカナン侵攻の時期にはエリコは無人であったと推測する説がある。つまりエリコ攻略は、遺跡を目にしたイスラエル人たちが創作した縁起神話と考えるのである<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.37</ref>。
 
旧約聖書では士師が相次いで現れてイスラエル人全体を導いたように描かれている。しかし、記述を詳細に検討していくとデボラのような神の意志を伝えるシャーマン的な女性、特定地域で住民同士の様々な問題の仲裁に当たった小士師、一部部族の軍事的指導者たる大士師など様々な立場の人間が存在し、それらが「イスラエル全体を裁き導くカリスマ的軍事指導者」の系列として後世にまとめられたものと考えられる<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.58-60</ref>。
 
=== 王政の成立 ===
しかし部族ごとの軍事行動は効率が悪く、周辺民族のようにイスラエルも王制化に踏み切って成功する<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.67-80</ref>。ことにダビデは政治力を発揮して、南部部族と北部部族の中間に近いエルサレムに首都をおいた。エルサレムは元来モアブ人の都市であり、どの部族の聖所とも無縁だったので中立政策を立てやすかったのである。さらにダビデはヤーウェ宗教の統合の象徴ともいえる「契約の箱」をエルサレムに運んで安置し、エルサレムをヤーウェ宗教の中心地にした<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、pp.81-83</ref>。さらにソロモン王は神殿を造営してそれを確固たるものとした。
 
カナンの地は交通の要衝を占めていたので、ダビデ・ソロモン王朝は交易で富を得たと考えられている。しかし、旧約聖書で繰り返し描かれるソロモンの栄華も、当時の外国の資料で言及しているものは発見されていない<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.94</ref>。
 
カナンへの定住と、首都エルサレムの建設は、イスラエル人の文化に大きな変化をもたらしたと考えられる。都市の生活と周辺の地中海文明との接触は、知識階層を生み出し様々な文書が書かれる事になった。旧約聖書に収められた[[箴言]]や[[コヘレトの言葉]]などの知恵文学の成立にしても、神話や伝承、歴史の編纂、[[詩篇]]や[[雅歌]]の編纂が始まったのも、都市文化の成立が背景にある。
 
しかしながら、イスラエル人の神は元来「奴隷の家から解放する神」であり、人間が人間を支配することを認めない神であった<ref>山我哲雄著 『聖書時代史 旧約篇』 岩波書店〈岩波現代文庫〉 2003年、ISBN 4-00-600098-7、p.67</ref>。また、モーセの律法はもともと半遊牧生活を前提としたものである。そこに持ち込まれた王政と都市生活はヤーウェの宗教に緊張関係をもたらした。この時代以降、預言者が現れてその時代ごとの王の政治を批判するというパターンが繰り返されることになる。
 
=== 預言者たちと救済史観 ===
ダビデ・ソロモン王朝は繁栄を極めるが、小作農と地主・貴族階級との分離が進み社会矛盾が噴出するようになった。また、周辺国家との軋轢は継続し、外患は絶えなかった。そのような中で、預言者たちが現れて民に代わって王たちの政治を批判するようになる。また、預言者たちは、カナン土着信仰が持ち込まれることでヤーウェの宗教が冒涜されているとして、鋭い警告を発するようになる。
 
カナンの土着信仰とは男神[[バアル|バール]]信仰、女神[[アシェラ]]信仰であったり、[[エル]]信仰などであるが、これらは農作物の豊穣を約束する神であり、定住して農業と交易で生活するようになったイスラエル人にとっては、ごく自然な混宗であったろうと想像される。イスラエル部族神としてのヤーウェは戦いの神としての性格が強く、豊穣を約束する神では無かったからである。しかし、預言者たちはそうした混宗を認めず、ヤーウェ信仰の純化を厳しく王と民衆に求めた。
 
預言者たちの活躍にも関わらず、ユダヤ・イスラエル人たちは苦渋の歴史を歩むことになる。紀元前721年に北イスラエル王国はアッシリヤに攻められて滅び、紀元前586年に南ユダ王国はバビロンに征服され、捕囚とされる。そのような苦難の中で、救済史観が形成されて行くことになる。すなわち、イスラエル民族の苦難は神との契約を裏切った結果であり、人々が神との契約に立ち戻ることによってイスラエル民族は救われるとする。
 
== 関連項目 ==