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}}
'''ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー'''
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]のヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた<ref name="
父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、[[税関]]職員の[[非嫡出子]]として生まれ、貧しくも苦学して名門の[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]]を卒業し[[ギムナジウム]]の教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室の[[ハインリヒ・フォン・バイエルン|ハインリヒ王子]]の家庭教師を務めていた<ref name="
ヒムラーが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒ(Gebhard Ludwig)を儲けている<ref name="
ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった<ref name="Katrin31"/>。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの[[代父母|代父]]となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものだった<ref name="
[[
父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れは取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという<ref name="
[[第一次世界大戦]]中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった<ref name="
ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーは始め海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず
しかしヒムラーが前線へ配属される前に1918年11月初めに[[ドイツ革命]]が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった{{#tag:ref|しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している<ref>
なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して[[一級鉄十字章]]と[[二級鉄十字章]]を受章している<ref name="
=== 第一次世界大戦後 ===
第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には[[ドイツ義勇軍|反革命義勇軍(フライコール)]]の一部隊であるラウターバッハ義勇軍(Freikorps Lauterbach)に加わって社会主義者が立ち上げた[[バイエルン・レーテ共和国|ミュンヘン・レーテ共和国]]の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている<ref name="
その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた<ref name="
しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える{{#tag:ref|彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘から[[アメリカ軍]]兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、[[スケートリンク]]の切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある<ref
またヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる{{#tag:ref|1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは[[:q:Transwiki:ハインリヒ・ヒムラー#ヒムラー自身の発言|語録の項目]]を参照|group=#}}。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年に[[ソビエト連邦|ソ連]]大使館に[[ウクライナ]]に移住できないかを問い合わせている<ref name="
1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった<ref name="
政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、[[バイエルン人民党]]に入党している(1923年に離党)<ref name="
=== ナチ党黎明期の活動 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-054-53A, Nürnberg, Reichsparteitag.jpg|250px|thumb|right|1927年の[[ナチ党党大会]]。ヒトラーとヒムラー(眼鏡の人物)]]
1923年8月、党員番号14303で[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。[[ミュンヘン一揆]]の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている<ref name="谷71">[[#谷|谷、p.71]]</ref><ref name="テーラー231">[[#テーラー|テーラー,ショー, p.231]]</ref>。
ヒムラーがいつ[[ヒトラー]]と初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである<ref name="グレーバー32">[[#グレーバー|グレーバー、p.32]]</ref>。
当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった<ref name="クノップ(2001)上168">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.168]]</ref>。
党の活動が禁止された間、ヒムラーは[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]、[[アルブレヒト・フォン・グラーフェ]]([[:de:Albrecht von Graefe (Politiker)|de]])、[[グレゴール・シュトラッサー]]が指導するナチ党偽装政党[[国家社会主義自由運動]](NSFB)に入党した<ref name="クノップ(2001)上168"/><ref name="グレーバー27">[[#グレーバー|グレーバー、p.27]]</ref><ref name="ヘーネ48">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.48]]</ref>。ヒムラーはナチス左派で知られたグレゴール・シュトラッサーの下で120ライヒスマルクの給料で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月と12月の[[国会 (ドイツ)|国会]]議員選挙に出馬することとなり、ヒムラーは[[ニーダーバイエルン]]([[:de:Niederbayern|Niederbayern]])の宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった<ref name="グレーバー28">[[#グレーバー|グレーバー、p.28]]</ref>。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している<ref name="谷72">[[#谷|谷、p.72]]</ref>。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている<ref name="クノップ(2003)94">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.94]]</ref>。
1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されるとシュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年にシュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者となるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった<ref name="クノップ(2001)上168"/>。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーより[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の方を高く買っていたという<ref name="桧山166">[[#桧山|桧山、p.166]]</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|1929年、親衛隊全国指導者になったばかりの頃]]
1925年8月8日に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に入隊(隊員番号168)。1927年には第3代親衛隊全国指導者[[エアハルト・ハイデン]]の代理に任じられた。ハイデンは[[突撃隊]]最高指導者[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]と対立を深めて[[1929年]][[1月6日]]に辞職することとなった<ref name="山下(2010)39">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.39]]</ref><ref name="学研134">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]</ref>。ヒムラーはハイデンの後任として、同日第4代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった<ref name="山下(2010)39"/><ref name="クランク16">[[#クランク|クランクショウ、p.16]]</ref>。
1928年7月3日には[[リッペ自由州]]([[:de:Lippe (Land)#Freistaat Lippe (1918–1945) |Freistaat Lippe]])[[ブロンベルク]]([[:de:Blomberg|Blomberg]])の地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ<ref name="グレーバー37">[[#グレーバー|グレーバー、p.37]]</ref><ref name="谷73">[[#谷|谷、p.73]]</ref><ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.56-57]]</ref>。しかし経営不振で後に倒産した。1929年8月8日に長女グドルーンが生まれたが<ref name="Katrin123">[[#Katrin|Katrin Himmler, p.123]]</ref>、その直後にヒムラー夫妻は別居状態と化した<ref name="グレーバー38">[[#グレーバー|グレーバー、p.38]]</ref><ref name="谷74">[[#谷|谷、p.74]]</ref><ref name="ヘーネ57">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.57]]</ref>。
=== 親衛隊全国指導者 ===
ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1000人<ref name="学研134">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]</ref><ref name="ヘーネ64">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.64]]</ref>、1930年12月には2700人<ref name="学研134"/><ref name="ヘーネ64"/>、1932年4月には2万5000人<ref name="山下(2010)43">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.43]]</ref>、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。
これは[[1929年]][[10月24日]]の[[ニューヨーク]]・[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の大暴落]]により発生した[[世界恐慌]]が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した<ref name="グレーバー61">[[#グレーバー|グレーバー、p.61]]</ref>。親衛隊より多くこの人材源を吸収した突撃隊には、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く者が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた<ref name="学研134">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]</ref><ref name="グレーバー62">[[#グレーバー|グレーバー、p.62]]</ref>。親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに1930年8月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者[[ヴァルター・シュテンネス]]([[:de:Walther Stennes|de]])が党指導部に対して反乱を起こした<ref>[[#阿部|阿部、p.168-169]]</ref>。こうした情勢からヒトラーは[[1930年]][[11月7日]]付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「[[長いナイフの夜]]」までは形式的には突撃隊の下部組織であった)<ref name="阿部172">[[#阿部|阿部、p.172]]</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 102-02134, Bad Harzburg, Gründung der Harzburger Front.jpg|250px|thumb|right|1931年、[[国家人民党]]と[[鉄兜団]]と「[[ハルツブルク戦線]]」を組織した際のナチ党。[[エルンスト・レーム]]の後ろにいる黒い帽子の人物がヒムラー。]]
ヒムラーは党内警察としての任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。1931年6月に[[親衛隊上級大佐]][[フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン]]男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌1932年7月に同課を[[SD (ナチス)|SD]]に改組した。長官にハイドリヒを任命した<ref name="桧山169">[[#桧山|桧山、p.169]]</ref><ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.175-176]]</ref>。
1931年4月初め
『血と大地』イデオロギーを確立したダレは「歴史に現れる偉大な帝国や文化はほとんど[[北欧人種|北方人種]]により作られた。これらの帝国や文化が滅びたのは北方人種の純血が守れなかったからである」と説いていた。こうした思想に強く影響されていたヒムラーは、[[1929年]]4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラー
1932年1月25日にはヒムラーは党本部建物である[[褐色の家]]([[:de:Braunes Haus|de]])の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた<ref name="グレーバー66">[[#グレーバー|グレーバー、p.66]]</ref><ref name="ヘーネ78">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.78]]</ref>。
1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた<ref name="山下(2010)43"/>。黒服のデザインのモデルとなったのは[[プロイセン王国]]時代の[[近衛軽騎兵]]([[:de:1. Leib-Husaren-Regiment Nr. 1|de]])である<ref name="ラムスデン59">[[#ラムスデン|ラムスデン、p.59]]</ref>。
=== ナチ党の権力掌握後 ===
==== 政治警察を掌握 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R96954, Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg|right|thumb|200px|1934年、プロイセン州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]から[[ゲシュタポ]]監査官及び長官代理に任命された]]
ヒトラーが[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|大統領]]から[[ドイツの首相|首相]]に任命されて[[ナチ党の権力掌握|政権を掌握]]した[[1933年]][[1月30日]]、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった<ref name="ヘーネ84">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.84]]</ref>。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという<ref name="グレーバー67">[[#グレーバー|グレーバー、p.67]]</ref>。
[[プロイセン州]]内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は2月22日に1万5000人のSS隊員を[[プロイセン州]]補助警察として動員した<ref name="桧山259">[[#桧山|桧山、p.259]]</ref>。しかしこの補助警察の指揮権は[[クルト・ダリューゲ]]が握っていた<ref name="桧山259"/>。3月9日、ヒムラーは、[[ハインリヒ・ヘルト]]首相の[[バイエルン州]]政府の解体に参加したが、この解体も主導的役割は[[フランツ・フォン・エップ]]が果たし、ヒムラーの役割は副次的だった。ヒトラーが新しいバイエルンの統治者「バイエルン州総監」に選んだのもエップだった。ヒムラーは自分がそのポストに任命されると期待していたが<ref name="グレーバー67"/>、結局彼には[[ミュンヘン]]警察長官(Polizeipräsidenten von München)のポストが与えられるに留まった<ref name="ヘーネ84"/><ref name="lexikon">[http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm lexikon der wehrmacht]</ref>。しかし彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と「[[保護拘禁]]」([[:de:Schutzhaft|de]])させた<ref name="大野23">[[#大野|大野、p.23]]</ref>。
「保護拘禁」した者を収容する施設としてミュンヘン郊外の[[ダッハウ]]に[[ダッハウ強制収容所]]を設置させ、1933年3月20日にヒムラーが記者会見で同収容所の開設を発表した<ref name="長谷川63">[[#長谷川|長谷川、p.63]]</ref>。同収容所は開設当初から親衛隊が単独で運営していた。1933年4月1日には[[バイエルン州]]政治警察司令官(Politischer Polizeikommandeur in Bayern)に任命された<ref name="阿部229">[[#阿部|阿部、p.229]]</ref>。
[[ヒトラー内閣]][[内相]][[ヴィルヘルム・フリック]]による[[強制的同一化]]政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までに[[プロイセン州]]と[[シャウムブルク=リッペ州]]([[:de:Schaumburg-Lippe|de]])を除く各州の政治警察はヒムラーに任せられることとなった<ref name="クノップ(2001)上178">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.178]]</ref><ref name="グレーバー76">[[#グレーバー|グレーバー、p.76]]</ref><ref name="ヘーネ98">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.98]]</ref>。
一方プロイセン州は首都[[ベルリン]]を含んでドイツ国土の半分以上を占めた巨大州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察[[ゲシュタポ]]やその局長[[ルドルフ・ディールス]]の無法行為を讒言するなどして<ref>[[#バトラー|バトラー、p.46-47]]</ref>、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。
ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し<ref name="ドラリュ79">[[#ドラリュ文庫|ドラリュ、文庫p.79]]</ref>、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef der Geheimen Staatspolizeiamt)の座に留任したが既に形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されていた<ref name="学研1114">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.114]]</ref><ref name="阿部269">[[#阿部|阿部、p.269]]</ref><ref name="大野90">[[#大野|大野、p.90]]</ref>。
==== 長いナイフの夜 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 102-14886, Kurt Daluege, Heinrich Himmler, Ernst Röhm.jpg|thumb|250px|1934年、突撃隊幕僚長[[エルンスト・レーム]](右)とベルリン親衛隊指導者[[クルト・ダリューゲ]](左)と。]]
一方ヒムラーがゲシュタポを掌握した頃、[[エルンスト・レーム]]率いる[[突撃隊]]は貴族や[[ユンカー]]が牛耳る国軍に取って替わる第二革命を唱え、国軍との緊張を高めていた。国軍との連携を重視するヒトラーにとって厄介な存在となりつつあった。とはいえ長年の同志であるレームが相手であるだけにヒトラーの突撃隊問題に関する立場は曖昧であった。1934年2月28日にはレームと国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]に国軍がドイツ唯一の国防兵力であり、突撃隊は訓練など国軍の補助にあたることで合意させて和解させようとした<ref name="ヘーネ102">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.102]]</ref>。しかし突撃隊には不満が残り、レームは反ヒトラー言動を強めた<ref name="ヘーネ102"/>。
ハイドリヒは親衛隊の勢力拡大の蓋になっている突撃隊を粛清するチャンスが来たと見て、レーム一派の抹殺計画を企てた<ref name="ヘーネ104">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.104]]</ref>。しかしヒムラーにとってレームはかつて最も尊敬した人物であり、恩人でもあった。またその計画を実行に移せば突撃隊と親衛隊に修復不可能な溝ができるため、しばらくは悩んでいた<ref name="ヘーネ104"/><ref name="グレーバー77">[[#グレーバー|グレーバー、p.77]]</ref>。しかし結局ハイドリヒに説き伏せられてヒムラーもついにレームら突撃隊幹部を粛清することを企図するようになった。ヒムラーも一度決意したのちはためらったり、手心を加えることはなかった<ref name="ヘーネ104"/><ref name="グレーバー77"/>。
ヒムラーとハイドリヒは、同じく突撃隊の粛清を企図するゲーリングと連携した。突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った<ref name="ヘーネ105">ヘーネ、105頁</ref><ref name="桧山292">[[#桧山|桧山、p.292]]</ref>。更にハイドリヒに暗殺対象者リストの作成にあたらせた<ref name="グレーバー78">[[#グレーバー|グレーバー、p.78]]</ref>。
そして[[1934年]]6月はじめ頃から偽造された証拠がばら撒かれて突撃隊「武装蜂起」の噂が流された。この噂を重く受け止めた大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]と国防相ブロンベルクは、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかだった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要だった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという<ref name="阿部274">[[#阿部|阿部、p.274]]</ref><ref name="ヘーネ111">ヘーネ、111頁</ref>。
こうして1934年6月30日に行われた粛清事件「[[長いナイフの夜]]」において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた<ref name="阿部280">[[#阿部|阿部、p.280]]</ref><ref name="グレーバー86">[[#グレーバー|グレーバー、p.86]]</ref>。
==== 全ドイツ警察長官 ====
[[File:HimmlerAndHeydrich 1938.jpeg|thumb|right|200px|thumb|200px|1938年3月。[[保安警察]]長官の[[ラインハルト・ハイドリヒ]]と]]
内相[[ヴィルヘルム・フリック]]はヒムラーを嫌い、[[クルト・ダリューゲ]]を警察指導者にしたがっていた。そのため1934年11月にはダリューゲがドイツ内務省第三局(Abteilung III)(警察局)の局長に任じられた<ref name="Yerger148">[[#Yerger|Yerger, p.148]]</ref>。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた<ref>[[#ヘーネ|ヘーネ、p.196-197]]</ref>。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた<ref name="ヘーネ197">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.197]]</ref>。
そして1936年6月17日、ヒムラーは全ドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任じられた<ref name="クランク85">[[#クランク|クランクショウ、p.85]]</ref><ref>[[#スティン|スティン、p.25-26]]</ref><ref name="山下(2010)92">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.92]]</ref>。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として[[秩序警察]]を発足させ、[[親衛隊大将]]ダリューゲを長官に任じた<ref name="スティン26">[[#スティン|スティン、p.26]]</ref>。一方政治警察の[[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]]は[[保安警察]]として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた<ref name="スティン26"/>。
さらに1937年11月13日には「[[親衛隊及び警察指導者|親衛隊及び警察高級指導者]]」(Höhere SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった<ref name="山下(2010)66">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.66]]</ref>。
1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、[[国家保安本部]](RSHA)を親衛隊内に設置させた<ref name="大野15">[[#大野|大野、p.15]]</ref>。
==== 強制収容所掌握 ====
「長いナイフの夜」の後、すべての[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]は親衛隊の管轄となり、ヒムラーは、[[ダッハウ強制収容所]]の所長だった[[テオドール・アイケ]]を全強制収容所監督官、[[親衛隊髑髏部隊]](強制収容所看守部隊)総監に任命した<ref name="ヘーネ206">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.206]]</ref>。
突撃隊やゲーリングが創設した強制収容所はほとんどが閉鎖されていった<ref name="高橋39">[[#高橋|高橋、p.39]]</ref>。代わりに1936年9月に[[ザクセンハウゼン強制収容所]]<ref name="高橋39"/>、1937年7月末に[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]<ref name="リュビー65">[[#リュビー|リュビー、p.65]]</ref>、1938年8月に[[マウトハウゼン強制収容所]]、1938年11月に[[フロッセンビュルク強制収容所]]、1939年5月に[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]が創設された<ref name="高橋45">[[#高橋|高橋、p.45]]</ref>。
ヒムラーが全ドイツ警察長官になると保護拘禁の範囲が拡大された。もともとは政治犯のみが保護拘禁の対象だったが、「常習的犯罪者」と「反社会分子」も保護拘禁されて強制収容所へ入れられるようになった<ref name="高橋41">[[#高橋|高橋、p.41]]</ref>。なお戦前期には人種だけを理由として強制収容所に入れられるケースは基本的にはなかった。ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで強制収容所に入れられるようになったのは戦中のことである<ref name="長谷川66">[[#長谷川|長谷川、p.66]]</ref>。ただし例外として1938年11月の「[[水晶の夜]]」事件で逮捕されたユダヤ人3万人は強制収容所に移送されている(水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間にして釈放されている)<ref name="長谷川80">[[#長谷川|長谷川、p.80]]</ref><ref name="リュビー20">[[#リュビー|リュビー、p.20]]</ref>。
==== 企業経営 ====
ヒトラー内閣発足以降、親衛隊は[[ノルトラント出版社]]、[[DEST|ドイツ土石製造有限会社(DEST)]]、[[DAW (ナチ親衛隊企業)|ドイツ装備製造有限会社(DAW)]]など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校だった[[オズヴァルト・ポール]]を[[親衛隊本部]]の経済部門の部長に任じて、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた<ref name="グレーバー149">[[#グレーバー|グレーバー、 p.149]]</ref>。
==== 工作活動 ====
こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的だった[[陸軍]][[元帥]][[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[国防大臣]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官を[[ブロンベルク罷免事件|スキャンダルで失脚]]させたり、海外でも[[ソヴィエト連邦]][[陸軍]][[元帥]][[ミハイル・トゥハチェフスキー]]を初めとする[[大粛清|赤軍首脳部が粛清]]されるよう謀略工作を行った。また[[オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]の暗殺にも関与し、[[オーストリア・ナチス党]]によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。
==== 親衛隊の軍隊化 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-C05557, Berlin, Sepp Dietrich, Hitler, Heinrich Himmler.jpg|right|thumb|200px|1937年、[[ヨーゼフ・ディートリヒ]](左)と[[アドルフ・ヒトラー]](中央)と]]
1933年3月17日にヒムラーはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭117名を選抜して「SS司令部衛兵班、ベルリン」(SS-Stabswache Berlin)を創設させた。指揮官には[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]を任じた<ref name="山下(2010)170">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.170]]</ref>。この部隊は後に[[第1SS装甲師団|「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」]](Leibstandarte SS Adolf Hitler、略号:LAH、LSSAH)の名を与えられ、戦時中には[[武装親衛隊]](Waffen-SS)の最精鋭師団となる<ref name="山下(2010)170"/><ref name="スティン41">[[#スティン|スティン、p.41]]</ref><ref name="ヘーネ89">[[#ヘーネ|ヘーネ、p.89]]</ref>。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけに責任を負い、ヒムラーから独立した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーとディートリヒの間で争いがあった<ref name="学研1144">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.144]]</ref>。
これに触発されたヒムラーは、SSの軍隊を欲しがるようになり、司令部衛兵班創設と同じ時期に自動車化された機動力を持ち、警察より強力な火力を備えた「政治予備隊」(Politische Bereitschaft)を創設させ、いくつかの[[親衛隊上級地区]]に配置した<ref name="スティン42">[[#スティン|スティン、p.42]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.163]]</ref>。[[アドルフ・ヒトラー]]も軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、[[ヴァイマル共和国軍|国軍]](Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は[[長いナイフの夜]]事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]は親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した<ref name="芝30">[[#芝|芝、p.30]]</ref>。これを受けてヒトラーは、1934年9月24日に三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが[[親衛隊特務部隊]]であった<ref name="芝30">[[#芝|芝、p.30]]</ref>。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。
こうして政治予備隊が1934年9月24日に[[親衛隊特務部隊]](SS-VT)に再編されて軍隊化される運びとなった<ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.163]]</ref>。
1936年10月1日、ヒムラーは親衛隊特務部隊の管理のため、[[パウル・ハウサー]]を長とする親衛隊特務部隊総監部を創設させた<ref name="スティン46">[[#スティン|スティン、p.46]]</ref>。
=== 戦時中 ===
==== 警察活動 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 121-0273, Krakau, Ankunft Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]と(ポーランド、1939年)]]
1939年8月、ヒトラーから[[ポーランド侵攻]]の口実を作るよう命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのが[[グライヴィッツ事件]]であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員[[アルフレート・ナウヨックス]]がポーランド軍人に成りすまして[[ポーランド]]の[[グライヴィッツ]]放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった<ref name="ヒトラーの秘密警察68">『ヒトラーの秘密警察』68ページ</ref>。
しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーは[[ビュルガーブロイケラー]]でミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとした[[ゲオルク・エルザー]]が容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。彼はヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった<ref name="SSの歴史フジ285">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)285ページ</ref>。
またヒムラーやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄の護衛隊」を支持していたが、「鉄の護衛隊」は1941年1月に[[イオン・アントネスク]]に対して反乱を起こす。ヒトラーや外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]はアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄の護衛隊」を擁護し、[[ホリア・シマ]]以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された<ref name="SSの歴史フジ286">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)286ページ</ref>。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大をとめる好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれ、外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった<ref name="SSの歴史フジ288">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)288ページ</ref>。
1942年6月4日、国家保安本部長官兼[[ベーメン・メーレン保護領]]副総督を務めていたハイドリヒが、[[イギリス]]が送りこんできた[[チェコ人]]暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]][[親衛隊少将]]を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て[[親衛隊大将]][[エルンスト・カルテンブルンナー]]を後任に任じた<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像251">大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)288ページ</ref>。1943年8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった<ref name="ナチ親衛隊知識人の肖像251">阿部良男著『ヒトラー全記録 -20645日の軌跡-』(柏書房)601ページ</ref>。
==== 軍司令官として ====
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Weill-059-18, Metz, Heinrich Himmler auf Panzer.jpg|right|thumb|250px|1940年9月。[[第1SS装甲師団]]の戦車を視察する]]
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J28419, Himmler überreicht die Goldene Nahkampfspange.jpg|right|thumb|250px|1944年12月、[[ヴァイクセル軍集団]]司令官として]]
1939年5月、ヒトラーは2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。ヒムラーは師団創設のため砲兵連隊の設立を急いだが、1939年9月のポーランド侵攻までに間に合わず、親衛隊特務部隊はこの戦争を連隊編成で参加した。ポーランド戦後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。特務部隊は1940年4月22日の[[親衛隊作戦本部]]の司令により親衛隊特務部隊は[[武装親衛隊]](Waffen-SS)と名を変えた。武装親衛隊はどんどん拡張され、大戦を通じて38個師団90万の兵力を数えるまでに成長した。国防軍に比べると損害率や戦死者・負傷者が多かったが、ヒムラーはこの理由について「国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるため」と説明していた<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置60">芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)60ページ</ref>。
武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である[[親衛隊大将]][[ゴットロープ・ベルガー]]が主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にない[[ヒトラー・ユーゲント]]などの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装SSに勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中には[[インド人]]で構成された部隊や[[ボスニア]]の[[イスラム教徒]]を中心に構成された師団まで存在した([[第13SS武装山岳師団]])<ref name="武装SSナチスもう一つの暴力装置第五章">芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)第五章</ref>。
ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部([[アプヴェーア]])部長[[ヴィルヘルム・カナリス]][[海軍大将]]が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を[[国家保安本部]]第6局(国外諜報Ausland-SD、局長[[ヴァルター・シェレンベルク]])の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた<ref name="ヒトラーの秘密警察221">『ヒトラーの秘密警察』221ページ</ref>。
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さらに1944年12月2日にヒムラーはオーベルライン軍集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執った。ヒムラーのオーベルライン軍集団は[[ストラスブール]]まで数キロまで迫ったが、結局[[アメリカ軍]]の反撃にあって[[ライン川]]の向こうへ撃退された。しかしヒトラーはオーベルライン軍集団でのヒムラーの指揮を評価し、1945年1月23日にヒムラーを東部戦線の[[ヴァイクセル軍集団]]司令官に任じた。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]上級大将はこの人事に反対したが、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうとはりきり、予備軍や武装SS残存兵力をかき集め、また[[フェリックス・シュタイナー]]ら著名な武装親衛隊将軍を招集した。ドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮が出来なかった。ソ連軍に[[オーデル川]]を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒトラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は[[陸軍]][[大将]][[ゴットハルト・ハインリツィ]]にかえられた。この件でヒムラーの権威は大きく傷ついた<ref name="SSの歴史フジ538">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)538ページ</ref>。ヒムラーの軍集団司令官就任は[[マルティン・ボルマン]]の陰謀であるとする説もある<ref name="SSの歴史フジ532">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)532ページ</ref>。
==== ヒムラーとホロコースト ====
[[File:Bundesarchiv Bild 192-308, KZ-Mauthausen, Himmlervisite.jpg|right|thumb|250px|1941年4月、[[マウトハウゼン強制収容所]]の視察。話しかけている人物は所長[[フランツ・ツィライス]][[親衛隊少佐]](当時)]]
開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になった[[SD (ナチス)|SD]]ユダヤ人課の[[アドルフ・アイヒマン]]が注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒムラーはドイツ民族性強化国家委員(Reichskommisar fürdie Festigung des deutschen Volkstums)に任命された<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策88">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』88ページ</ref><ref name="武装SS全史1119">『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』119ページ</ref>。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「[[ドイツ民族性強化国家委員本部]]」(RKFDV)を設置し、親衛隊大将[[ウルリヒ・グライフェルト]]を本部長に任じた。[[アーリア人]]の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。
1939年9月の[[ポーランド侵攻]]後、国家保安本部は占領下[[ポーランド]]や[[ソ連]]占領地域に[[アインザッツグルッペン]](特別行動部隊)を派遣して[[ユダヤ人]]を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも1940年5月に「ユダヤ人根絶の[[大粛清|ボルシェヴィキ的方法]]は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている<ref name="SSの歴史フジ319">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ</ref>。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)の決定はヒムラーではなく[[アドルフ・ヒトラー]]と考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であるといわれる<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策99">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』99ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ319">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ</ref>。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊である。
1941年6月に[[バルバロッサ作戦]]([[独ソ戦]])が発動された後、国家保安本部は[[アインザッツグルッペン]]をソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーはポーランドの[[アウシュヴィッツ強制収容所]]所長[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]をベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所と改築することを命じた。これを受けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた<ref name="ナチ強制収容所153">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』153ページ</ref><ref name="ヒトラーの共犯者上195">『ヒトラーの共犯者 上』195ページ</ref>。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的とした[[ベウジェツ強制収容所]]、[[ソビボル強制収容所]]、[[トレブリンカ強制収容所]]の三大[[絶滅収容所]]が建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長になっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。
正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行った[[ヴァンゼー会議]]であるとされる。この会議で[[ユダヤ人問題の最終的解決]]について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年代にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある<ref name="ヒトラー全記録535">『ヒトラー全記録』535ページ</ref>。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している<ref name="アイヒマン調書76">ヨッヘン・フォン・ラング編『アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録-』(岩波書店)76ページ</ref>。
一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。[[親衛隊経済管理本部]]長官であり、強制収容所運営の責任者である[[オズヴァルト・ポール]]は一貫して強制収容所へぶち込んだユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであったが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者は選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いている<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策106">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』106ページ</ref>。[[総力戦]]体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要になっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げることを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策159">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』159ページ</ref>。
一方、「労働不能」ユダヤ人は、ナチスにとって全く役に立たないばかりか、それでなくても悪かったドイツの食糧事情を無駄に悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象としたのであった。戦時中に行われたユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった<ref name="ナチズムとユダヤ人絶滅政策123">『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』123ページ</ref>。
ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツや[[マイダネク強制収容所]]でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]はその典型として悪名高い<ref name="ナチ強制収容所158">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』158ページ</ref>。
ただし、飽くまでもヒムラーはナチズムの信奉者であり、ヒトラーのユダヤ人絶滅の意思は完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺すつもりであった。1942年秋にはヒムラーが[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれが端的に表していると言えよう<ref name="ナチ強制収容所188">長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』188ページ</ref>。
==== ヒトラー暗殺計画 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-109-18A, Berlin, Bendlerstraße, Waffen-SS-Männer.jpg|thumb|250px|1944年7月21日、ヒムラーの命令でベルリンのベントラー街(国防省)を占拠した[[武装親衛隊]]。]]
1944年7月20日午後0時40分過ぎ、[[東プロイセン]]・[[ケントシン|ラステンブルク]]にあった[[総統大本営]]「[[ヴォルフスシャンツェ]]」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]][[大佐]][[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]伯爵([[国内予備軍]]参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった([[ヒトラー暗殺計画]])。
この時ヒムラーは25キロ離れたマウルゼー湖畔のSS本部にいたが、午後1時頃に事件を知るとただちにラステンブルクの総統大本営へ急行し、わずか30分で到着した<ref name="ヒトラー暗殺事件128">ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)128ページ</ref>。
ヒムラーは総統大本営に到着後、SS隊員とともに捜査を開始した。会議室から一人姿を消したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が犯人であると確信し、ベルリンのSS[[フンベルト・アッハマー・ピフラーダー]]親衛隊上級大佐([[:de:Humbert Achamer-Pifrader]])にシュタウフェンベルクの逮捕を命令した(しかしベントラー街にシュタウフェンベルクの逮捕に向かったピフラーダーの方が逆にシュタウフェンベルクにより身柄を押さえられてしまっている)。ヒトラーはシュタウフェンベルクの上官である国内予備軍司令官[[フリードリヒ・フロム]]上級大将も何らかの形で謀反に関わっていると考え、ヒムラーを新たな国内予備軍司令官に任命し、ベルリンへ行くよう命じた。予備軍とはいえ、ヒムラーは念願の軍司令官の地位を手に入れたことになる<ref name="ヒトラー暗殺事件148">ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)148ページ</ref>。午後5時頃にヒトラーを別れる際に「総統、後のことは私にお任せください」と述べている<ref name="ナチス親衛隊228">『ナチス親衛隊』228ページ</ref>。
ヒムラーがベルリンに到着した7月21日明け方にはすでにシュタウフェンベルク大佐ら首謀者はベントラー街([[:de:Bendlerblock]])(国防省)においてフロムの命令で銃殺されており、その遺体はフロムの指示で勲章や階級章や軍服などを付けたまま軍人として埋葬されていた。ヒムラーはただちに武装親衛隊を動員してベントラー街を占拠した。シュタウフェンベルク大佐らの遺体を掘り起こさせて勲章などを剥奪すると、その遺体を火葬させて灰は野原にばら撒いた。
ヒムラーは国家保安本部長官[[エルンスト・カルテンブルンナー]]に大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった<ref name="ナチス親衛隊229">『ナチス親衛隊』229ページ</ref>。
ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったが、ヒムラー自身が事前に計画を知っていながら、事件の発生を黙認した可能性が指摘されている<ref name="ヒトラーの共犯者上204">『ヒトラーの共犯者 上』204ページ</ref>。
暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者として[[カール・ゲルデラー]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ルートヴィヒ・ベック]]の逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、彼は何故か拒否している。SDの某将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のヒムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった<ref name="ヒトラーの共犯者上204">『ヒトラーの共犯者 上』204ページ</ref>。
[[ドイツ国防軍|国防軍]]の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位を下げることにつながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを
=== 戦争末期 ===
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シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独した[[スウェーデン]]赤十字社の[[フォルケ・ベルナドッテ]]伯爵とヒムラーが入院していたホーヘンリーヘン病院において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放が良いと薦め、まず[[スカンジナビア半島]]の強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くでしょうね。『戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策』とね。」と述べて拒否した<ref name="ナチス親衛隊235">『ナチス親衛隊』235ページ</ref>。しかしその後、ますます戦況が絶望的になり、ヒムラーはついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至った。米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは西部戦線における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテはヒムラーに「ヒムラーがヒトラーの後継者を名乗ること。ナチ党を解体させて党員を配置換えすること。スカンジナビア半島系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求めた。ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた<ref name="ナチス親衛隊236">『ナチス親衛隊』236ページ</ref><ref name="髑髏の結社SSの歴史フジ550">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版)550ページ</ref>。
1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラーはベルリンの[[総統地下壕]]に入り、ヒトラーと面会した。しかし廃人と化したヒトラーにはすでに何も期待しておらず、早々に総統地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともに「[[世界ユダヤ人会議]]」の特使と極秘に面会した。ヒムラーは[[テレージエンシュタット強制収容所]]や[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]の[[ユダヤ人]]の解放を約し、米英への取り成しを求めた<ref name="ヒトラーの共犯者上207">グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上
ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン]]大統領は「部分降伏はありえず」として、正式にヒムラーの提案の拒絶を発表している<ref name="ナチス親衛隊258">『ナチス親衛隊』258ページ</ref>。ヒムラーは落胆した。しかもこのヒムラーの活動は1945年4月28日、[[BBC]]の放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、ベルリンの[[総統地下壕]]に居住していたヒトラーの知るところとなる<ref name="ヒトラー全記録646">阿部良男著『ヒトラー全記録
==== 解任 ====
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5月1日午前0時頃にヒムラーは親衛隊員たちを引き連れて[[フレンスブルク]]のデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えてUボートの水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。デーニッツはここでヒトラーの電報をヒムラーに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてヒムラーは解任されたことを告げた。電報を読んだヒムラーの顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。デーニッツはこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の行政長官の地位を与えた<ref name="SSの歴史フジ557">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)557ページ</ref><ref name="ナチス親衛隊259">『ナチス親衛隊』259ページ</ref>。
しかし戦時中から米英において「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏準備政権である[[フレンスブルク政府|デーニッツ政権]]にとっては邪魔な存在だった。5月6日17時頃にデーニッツはヒムラーと東方占領地域大臣[[アルフレート・ローゼンベルク]]らに解任を申し渡した。ヒムラーは首相代行[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]伯爵(ヒトラー内閣蔵相)と会談したが、結局デーニッツ政権との交渉を諦めた<ref name="ヒトラーの共犯者上209">グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上
===逃亡と死===
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デーニッツ政権を放逐されたヒムラーは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、[[ルドルフ・ブラント]]、[[カール・ゲプハルト]]などの側近たちと共にホルシュタインから[[エルベ川]]を超えて逃亡していった。5月22日、[[ブレーマーフェルデ]]
ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令となった。
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== 家族 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-55, Heinrich Himmler mit Frau und Tochter Gudrun.jpg|thumb|左から娘グドルーン、妻マルガレーテ、ヒムラー。]]
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1928年7月3日、ヒムラーはブロンベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、彼が理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は第一次世界大戦中に看護婦をしており、ベルリンで短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったので、カトリックの両親は結婚に大反対した。しかし彼は譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている<ref name="ナチス親衛隊37">『ナチス親衛隊』37ページ</ref><ref name="SSの歴史フジ56">『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)56ページ</ref>。
1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘[[グドルーン・ブルヴィッツ]]([[:de:Gudrun Burwitz|Gudrun]])を儲けた。ヒムラーはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。彼はグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている<ref name="ヒトラーの親衛隊125">『ヒトラーの親衛隊』125ページ</ref>。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子のことにはほとんど関心を
ヒムラーは1937年からヘトヴィヒ・ポトハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからヒムラーの個人スタッフの秘書となっていた女性だった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている<ref name="SSの歴史フジ409">ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)409ページ</ref>。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。
ヘトヴィヒの両親は、ヒムラーがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は極めて質素であったヒムラーに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っている[[マルティン・ボルマン]]に頼んで党の費用から8000マルクを借り、ケーニヒス湖の[[ベルヒスガーデン=シェーナウ]]([[:de:Schönau am Königssee|Berchtesgaden-Schönau]])にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ヒムラーとボルマンの友好を深める場ともなった<ref name="SSの歴史フジ409"/>。なお愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた<ref name="ヒトラーの親衛隊130">『ヒトラーの親衛隊』130ページ</ref>。
兄のゲプハルトは1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは武装親衛隊にも入隊しており、[[親衛隊大佐]]まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。
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弟のエルンストはベルリン放送局の主任技師を務めていたが、ベルリン攻防戦で戦死した。エルンストの孫、カトリン(Katrin Himmler)はユダヤ人と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。
ヒムラーの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー(Konrad Himmler)の孫にハンス・ヒムラー(Hans HImmler)がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったヒムラーは彼が死刑になるよう命令した。その後減刑されてハンスは前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局[[ダッハウ強制収容所]]で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は、ヒムラーが親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことを
戦後、邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは、戦後のドイツ社会から差別的な扱いを受け、彼女はナチス擁護の[[歴史修正主義]]者になった。戦後結婚してブルヴィッツと改名したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラ-であることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した<ref name="ヒトラーの親衛隊417">『ヒトラーの親衛隊』417ページ</ref>。
== 人物 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R99621, Heinrich Himmler.jpg|thumb|1938年のヒムラーの肖像画。]]
*[[アドルフ・ヒトラー]]からは「'''忠臣ハインリヒ'''」と呼ばれていた。[[エルンスト・レーム]]からは「'''アンヒムラー'''(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた<ref name="ヒトラーの共犯者上171">『ヒトラーの共犯者 上』171ページ</ref>。また「'''お国のハイニ'''(ライヒス・ハイニ)」というあだ名もあった<ref name="ヒトラーの共犯者上178">『ヒトラーの共犯者 上』178ページ</ref>。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーの共通した風評だった。
*ヒムラーには、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の操り人形であるとの風評があり、「'''4つのH'''」(Himmlers Hirn heißt Heydrich、ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ)というジョークが流れた<ref name="ヒトラーの共犯者上187">『ヒトラーの共犯者 上』187ページ</ref>。
*運動神経が鈍く、1936年にバート・テルツのSS士官学校で国家体力検定を受けたヒムラーは、SS全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。彼はどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者である[[カール・ヴォルフ]](ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという<ref name="学研1135">[[#学研1|『武装SS前史I』、p.135]]</ref>。また[[ヴァルター・シェレンベルク]]SS少将の回顧録によると1939年9月に[[ポーゼン]]でヒムラーが列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという<ref name="シェレンベルク53">[[#シェレンベルク|シェレンベルク、p.53]]</ref>。その後、取り巻きのSS将軍・将校たちはヒムラーの鼻眼鏡を探すのに苦労し、激昂したヒムラーの怒声を聞きながら気まずい空気の中で歩き出す羽目になったという。カール・ヴォルフは、ヒムラーと車両の中で長々と話して引きとめていたシェレンベルクが原因だとしてシェレンベルクに「キミを恨むぞ」と言ったという<ref name="シェレンベルク53"/>。
*生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]を寵愛した。そのためケルステンはヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によると[[エルンスト・カルテンブルンナー]]はケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたヒムラーは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという<ref name="ヒトラーの共犯者上191">『ヒトラーの共犯者 上』191ページ</ref>。
*ヒムラーは部下のSS隊員に「強さ」を求める演説をしょっちゅう行った。ヒムラーと話しているとすぐに「強さ」の話が始まるので[[ヘルマン・ゲーリング]]はそれを「ヒムラーの発作」と呼んだ<ref name="クノップ(2003)109">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.109]]</ref>。ヒムラーの「強さ」への渇望により、武装SS士官学校などでは過酷な演習が行われ、しばしば死者が発生した<ref name="クノップ(2003)109"/>。イギリスのコマンド部隊の訓練に匹敵する死亡者水準であったという<ref name="テーラー119">[[#テーラー|テーラー,ショー, p.119]]</ref>。ゲーリングはヒムラーから武装SSの実弾演習の話を聞かされた時、「親愛なるヒムラー、私も空軍の降下訓練で同じことをやろうと思っているのだよ。パラシュートをつけて二度飛ばせ、三度目はパラシュート無しで飛ばすのだ。」と皮肉ったという。ヒムラーがどう反応したかは伝わっていない<ref name="クノップ(2003)109"/>。
*自らの地味な容姿のせいか「'''見た目より中身は濃い'''」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。
*ヒムラーは、華美な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった<ref name="クノップ(2001)上58">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.58]]</ref>。[[1929年]]から給料を据え置いたといわれ、[[ランゲ・アンド・ゾーネ|ランゲ・ウント・ゼーネ]]の[[腕時計]]を買うのにマッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]から100ライヒスマルクの借金をしていたという<ref name="山下(2010)58">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.58]]</ref>。「[[親衛隊全国指導者友の会]]([[:de:Freundeskreis Reichsführer SS|de]])」に財界から大量の献金があったが、ヒムラーは私服を肥やすことなく、全て親衛隊の機密費と高官の経費に充てていたという<ref name="山下(2010)58"/>。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である。」という言葉を残している<ref name="クノップ(2001)上152">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.152]]</ref>。
*ヒムラーはSSの軍規・規律に反する行為を犯した隊員には異常なまでに厳しかった。そうした隊員にSS法廷が下した判決がヒムラーに報告されると彼はもっと厳しい罰を下すよう命じる事が多かった<ref name="クノップ(2003)109"/>。特に横領や命令されていない殺人など個人的犯罪は厳罰を以って処した<ref name="山下(2010)158">[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.158]]</ref>。1935年のSS命令でも命令されていないのに個人的にユダヤ人を殺害することは禁じている<ref name="山下(2010)158"/>。ブーヘンヴァルト強制収容所所長[[カール・オットー・コッホ]]SS大佐も横領と個人的殺人の容疑で逮捕されて処刑されている。殺人自体より、SSの規律を乱している点がヒムラーにとっては問題であった<ref name="山下(2010)158"/>。
*ヒムラーは、動物には優しい人物であり、動物の保護やドイツの子供たちに動物への愛を教える教育を熱く論じていた<ref name="クノップ(2001)上194">[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.194]]</ref>。狩猟長官であるゲーリングの狩猟好きについて「ゲーリング、あの血に飢えた犬の畜生は動物と見れば手当たり次第に殺している。何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物を撃ち殺すのがなぜ楽しいのか。それは正真正銘の虐殺だ」とケルステンに愚痴をこぼしている<ref name="クノップ(2003)125">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.125]]</ref><ref>[[#クランク|クランクショウ、p.26-27]]</ref>。このヒムラーの動物への優しさは彼が「[[下等人種|下等人種(ウンターメンシュ)]]([[:de:Untermensch|de]])」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは「下等人種」については「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である。」と述べており、事実上、動物より下に位置づける世界観を持っていた<ref name="クノップ(2001)上194"/>。
*ヒムラーの歴史観で一番大事な物は特定の人物でも社会階級でもなく「ゲルマン民族の血」であった。個人は所詮すぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅の物と考えていた。そのため祖先・家系の名誉のためには自決さえもいとわないという[[日本]]の[[武士道]]には深く共鳴していた。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、日本を見習えとよく演説した<ref name="ヒムラーとヒトラー123">『ヒムラーとヒトラー -氷のユートピア-』123ページ</ref>。サムライのほかにも[[ローマ帝国]]の[[プラエトリアニ]]、[[インド]]の[[カースト制]]の[[クシャトリア]]階級にも強い感銘を受けていた<ref name="ヒトラーの親衛隊90">『ヒトラーの親衛隊』90ページ</ref>。
*SD対外諜報部長官[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]によるとヒムラーの日本への関心はかなり強く、[[日本史]]にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊の[[士官候補生]]と[[日本軍]]の士官候補生の交換留学も考えていたという<ref name="シェレンベルク188">[[#シェレンベルク|シェレンベルク、p.188]]</ref>。また日本人が[[アーリア人種]]であることを立証しようと図り、戦争末期になっても[[ルーン文字]]と[[片仮名|カナ文字]]の関連性についての調査に意見をしたりしていた<ref name="クランク19">[[#クランク|クランクショウ、p.19]]</ref>
*部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーの気分が悪くなったという証言が複数ある。
**1941年8月、ヒムラーは[[ミンスク]]で[[親衛隊中将]][[アルトゥール・ネーベ]]の指揮する[[アインザッツグルッペン]]B隊の銃殺を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていた彼は気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったという([[親衛隊大将]][[エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー]]の証言による)<ref name="ナチス親衛隊200">『ナチス親衛隊』200ページ</ref>。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのためではないかといわれている<ref name="ナチス親衛隊200"/>。
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ヒムラーは、善く言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格だった。そのためファンタジックな話やオカルトによくのめりこんでいた。『[[インディ・ジョーンズ]]』などオカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。
ヒムラーは1933年にオーストリアから来たオカルト的人物[[カール・マリア・ヴィリグート]]と知り合った。自らを「ウリゴート族の末裔でゲルマン賢者」であるとし、「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前までにさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた
ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「[[アーネンエルベ]]」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し
東方から攻めよせた[[フン族]]の突撃を防いだ砦といわれる古城ヴェーヴェルスブルク城([[:en:Wewelsburg|Wewelsburg]])にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月に彼はこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻めよせようとするソ連からヨーロッパを守る城であると、現在と過去を生きる男ヒムラーは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城に彼がつぎ込んだ資金は1300万[[ライヒスマルク]]にも及ぶ{{#tag:ref|[[読売新聞]]2004年12月18日夕刊によると1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという<ref name="山下(2010)627">
またヒムラーは、スラブ民族の征服者であるザクセン王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]を深く尊敬していた。スラブ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ず[[クヴェトリンブルク]]大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまづいていた。[[フェリックス・ケルステン]]によると、ヒムラーは
ヒムラーは
== 語録と言及 ==
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== 注釈 ==
{{
== 参考文献 ==
'''日本語文献'''
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部}}
*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])|translator=[[滝川義人]]|year=[[2002年]]|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ}}
*{{Cite book|和書|author=[[大野英二]]著|year=2001|title=ナチ親衛隊知識人の肖像|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624111823|ref=大野}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・キーガン]]著|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン}}
**{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン著|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン文庫}}
*{{Cite book|和書|author=[[グイド・クノップ]]([[:de:Guido Knopp|de]])|de]]|translator=[[高木玲]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラーの共犯者 <small>12人の側近たち</small> 上|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562034178|ref=クノップ(2001)上}}
*{{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|translator=高木玲|year=2003年|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}}
*{{Cite book|和書|author=[[エドゥアルト・クランクショウ]]([[:en:Edward Crankshaw|en]])著|translator=[[渡辺修]]|year=[[1973年]]|title=秘密警察―ヒトラー帝国の兇手|publisher=[[図書出版社]]|ref=クランク}}
*{{Cite book|和書|author=[[栗原優]]著|year=1997|title=ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027019|ref=栗原}}
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*{{Cite book|和書|author=[[オイゲン・コーゴン]]著|translator=[[林功三]]|year=2001|title=SS国家 <small>ドイツ強制収容所のシステム</small>|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4623033201|ref=コーゴン}}
*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・シェレンベルク]]|translator=[[大久保和郎]]|year=[[1960年]]|title=秘密機関長の手記|publisher=[[角川書店]]|asin=B000JAPW2M|ref=シェレンベルク}}
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*{{Cite book|和書|author=[[ジョージ・H・スティン]]([[:en:George H. Stein|en]])|translator=[[吉本貴美子]]|others=[[吉本隆昭]]監修|year=[[2001年]]|title=詳解 武装SS興亡史 <small>ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45</small>|publisher=[[学研]]|series=WW selection|isbn=978-4054013186|ref=スティン}}
*{{Cite book|和書|author=[[高橋三郎]]著|year=2000|title=強制収容所における「生」|publisher=[[世界思想社]](新装版)|isbn=978-4790708285|ref=高橋}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷喬夫]]著|year=2000|title=ヒトラーとヒムラー <small>氷のユートピア</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062581769|ref=谷}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジェームス・テーラー]]([[:en:James Taylor|en]])、[[ウォーレン・ショー]]([[:en:Warren Shaw|en]])|translator=[[吉田八岑]]|year=[[1993年]]
|title=ナチス第三帝国事典|publisher=[[三交社]]|isbn=978-4879191144|ref=テーラー}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジャック・ドラリュ]]([[:fr:Jacques Delarue |fr]])著|translator=[[片岡啓治]]|year=1968|title=ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究|publisher=[[サイマル出版会]]|asin=B000JA4KQQ|ref=ドラリュ}}
**{{Cite book|和書|author=ジャック・ドラリュ著|translator=片岡啓治|year=2000|title=ゲシュタポ・狂気の歴史|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594333|ref=ドラリュ文庫}}
*{{Cite book|和書|author=[[長谷川公昭]]著|year=1996|title=ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794207401|ref=長谷川}}
*{{Cite book|和書|author=[[ルパート・バトラー]]([[:de:Rupert Butler|de]])著|translator=[[田口未和]]|year=2006|title=ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ;恐怖と狂気の物語|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562039760|ref=バトラー}}
*{{Cite book|和書|author=[[桧山良昭]]|year=[[1976年]]|title=ナチス突撃隊|publisher=[[白金書房]]|asin=B000J9F2ZA|ref=桧山}}
*{{Cite book|和書|author=[[ラウル・ヒルバーグ]]著|translator=[[望田幸男]]・[[原田一美]]・[[井上茂子]]|year=1997|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760115167|ref=ヒルバーグ上}}
*{{Cite book|和書|author=ラウル・ヒルバーグ著|translator=望田幸男・原田一美・井上茂子|year=1997|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻|publisher=柏書房|isbn=978-4760115174|ref=ヒルバーグ下}}
*{{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ヘーネ]]著|translator=[[森亮一]]|year=1981|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small>|publisher=[[フジ出版社]]|isbn=978-4892260506|ref=ヘーネ}}
**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 上|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594937|ref=ヘーネ文庫上}}
**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 下|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061594944|ref=ヘーネ文庫下}}
*{{Cite book|和書|author=[[マイケル・ベーレンバウム]]著|translator=[[芝健介]]|year=1996|title=ホロコースト全史|publisher=[[創元社]]|isbn=978-4422300320|ref=ベーレンバウム}}
*{{Cite book|和書|author=[[松永祝一]]|year=[[2005年]]|title=ハインリッヒ・ヒムラー|publisher=[[文芸社]]|isbn=978-4286005461|ref=松永}}
*{{Cite book|和書|author=[[森瀬繚]]、[[司史生]]|year=[[2008年]]|title=図解第三帝国|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4775305515|ref=森瀬}}
*{{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=1997年|title=SSガイドブック|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4883172986|ref=山下(1997)}}
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*{{Cite book|和書|author=山下英一郎|year=[[2010年]]|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ロビン・ラムスデン]]([[:en:Robin Lumsden|en]])|translator=[[知野龍太]]|year=[[1997年]]|title=ナチス親衛隊軍装ハンドブック|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562029297|ref=ラムスデン}}
*{{Cite book|和書|editor=[[ヨッヘン・フォン・ラング]]編|translator=[[小俣和一郎]]|year=[[1960年]]|title=アイヒマン調書 <small>イスラエル警察尋問録音記録</small>|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000220507|ref=ラング}}
*{{Cite book|和書|author=[[マルセル・リュビー]]著|translator=[[菅野賢治]]|year=1998|title=ナチ強制・絶滅収容所 <small>18施設内の生と死</small>|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480857507|ref=リュビー}}
*{{Cite book|和書|year=[[2001年]]|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}}
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'''英語文献'''
*{{Cite book|author=Katrin Himmler|translator=Michael Mitchell|year=2008|title=The Himmler Brothers -A German Family History-(ペーパーバック)|publisher=Pan Macmillan|isbn= 978-0330448147|ref=Katrin}}
*{{Cite book|author=Roger Manvell,Heinrich Fraenkel|year=2007|title=HEINRICH HIMMLER The Sinister Life of the Head of the SS and Gestapo([[ペーパーバック]])|publisher=Skyhorse Publishing|language=[[英語]]|isbn=978-1602391789|ref=Manvell}}
*{{Cite book|author=Mark C. Yerger|year=2002|title=Allgemeine-SS|publisher=Schiffer Pub Ltd|language=[[英語]]|isbn=978-0764301452|ref=Yerger}}
=== 出典 ===
{{
== 外部リンク ==
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* [http://www.lohengrin-verlag.de/Artikel/Himmler.htm Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne]
{{Start box}}
{{S-ppo}}
{{Succession box
| title = [[親衛隊全国指導者]]
| years = [[1929年]][[1月6日]] - [[1945年]][[4月28日]]
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{{S-off}}
{{Succession box
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{{Succession box
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{{Succession box
| title = [[国内予備軍]]司令官
| years = [[1944年]][[7月20日]] - [[1945年]][[4月28日]]
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{{ナチ党}}
{{ヒトラー内閣}}
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{{DEFAULTSORT:ひむらあ はいんりひ}}
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]
[[Category:第一次世界大戦後ドイツ義勇軍]]
[[Category:ナチ党
[[Category:突撃隊隊員]]
[[Category:親衛隊将軍]]
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[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]<!--ヴァイクセル軍集団司令官なので-->
[[Category:ドイツの反共主義者]]
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[[Category:神秘思想家]]
370 ⟶ 482行目:
[[Category:自殺した人物]]
{{Link FA|it}}
{{Link GA|no}}
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[[gl:Heinrich Himmler]]
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