「アルフォンソ13世 (スペイン王)」の版間の差分

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なお、スペインは[[1975年]]に王政復古し、ファンの息子[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が王位につく。
 
==アルフォンソ13世暗殺未遂==
[[1906年]]5月31日、アルフォンソは[[ヴィクトリア]]を妃として華燭の典を挙げた。[[バッテンベルグ]]の[[ヘンリー公爵]]の令嬢で、[[イギリス]]国王[[ジョージ5世]]の従妹でもある。この婚儀が公表されると、イギリスとスペインの両国で議論が沸騰した。公表と同時にヴィクトリア姫は[[プロテスタント]]から[[カトリック]]へ改宗した。これでイギリス国内の強硬分子は「ローマ・カトリック教会何するものぞ」と甲高い叫びを上げた。彼女の実家には「公爵」の称号がある。そこで議論は政府レベルに持ち上げられた。ただし、このレベルの議論はあっさりけりがつく。称号は形だけで、彼女は公金の受領者ではなかったからだ。一方、スペインではカトリック教徒の多くがヴィクトリア姫を攻撃した。改宗とは結婚のための方便であり、ローマ・カトリックを本当に信仰しての行為か怪しいもの、というのが主たる理由であった。
 
結婚の儀式が終了し、ロイヤル・カップルが無蓋の馬車で大聖堂からパレードに移ったときも、[[などリード]]にはこの空気が張り詰めていた。警備は完璧のはずだった。しかし、沿道の人垣から1人の男が飛び出し、易々とロイヤル・カップルの馬車に近づき1発の爆弾を投じた。それは馬車には命中せず路上で爆発した。現場はパニックに陥った。警護の兵士と観衆31人が命を落とした。新婚の王と王妃は無事だった。犯人は逮捕される前に自殺して果てた。当初宗教問題が犯行の動機と考えられたが、そうではなかった。調査の結果、犯人は[[マテオ・モラレス]](通称モラール)という[[無政府主義者]]([[アナーキスト]])とわかった。
 
翌日、新王妃は勇気を証明することでスペイン大衆の中での自らの立場を強化した。つまり、当初日程の通り闘牛見物を続行した。観客は総立ちでこれを歓呼した。これに続く歳月、アルフォンソ王はしばしば社会改革の努力を行う。しかし、途絶えることのないテロの嵐で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。[[1923年]]には絶対独裁へ逆戻りしていた。[[1931年]]、その反動としての短期間の共和政府の下で、アルフォンソは「'''王としての権限の中断'''」を布告する羽目に追い込まれ、国外に脱出した。後に亡命先で退位し、名目上の王位を子息のフアンに譲った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
== 関連項目 ==