「レフ・トロツキー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 先頭部分に見出しを作成
23行目:
 
トロツキーは国外からも反スターリン、世界革命の運動を続けようとしたが、そのためにトルコから[[フランス]]、[[ノルウェー]]、[[メキシコ]]と転々と亡命先を移ることとなった。この間、[[1938年]]には[[第四インターナショナル]]を結成し、[[コミンテルン]]に代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出すが、スターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、ついには国外にいたトロツキーの身辺にもスターリンの送り込んだと思われる襲撃者が現れるようになっていた。1940年[[8月20日]]、トロツキーは[[ラモン・メルカデル]]によってピッケルで後頭部を打ち抜かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この[[暗殺]]が、スターリンの指示によるものということが情報公開により明らかになりつつある。
 
==トロツキー暗殺==
[[1940年]]の時点でソ連の独裁者スターリンの「殺しのリスト」には、まだ1人だけ大物が残っていた。それがトロツキーだった。これに先立つ数年間、スターリンは「古参ボルシェビキ」を大量粛清している。右派、左派、中道を問わず、自らの権力のライバルとみなした人間を裁判による死刑宣告で事毎に抹殺した。[[ジノヴィエフ]]、[[カーメネフ]]、[[ラデック]]、[[ブハーリン]]、[[ピアタコフ]]等の革命の元勲もこれに含まれる。宿敵として残ったのはトロツキーのみだった。
 
ロシア革命を現実に指導したのは、トロツキーとレーニンの2巨頭だった。トロツキーは[[赤軍]]([[赤衛軍]])の創始者で、[[白軍]]([[白衛軍]])に対する内戦でこれを勝利に導いた立役者だった。[[1924年]]にレーニンが死亡すると、トロツキーと共産党第1書記スターリンが相対峙する2巨頭として残った。スターリンの方が策略に長けていた。党内の地位を最大限に活用し、時にはジノヴィエフやカーメネフ、時には右派のブハーリンと組み、トロツキーの地盤を次第に蚕食した。スターリンは、トロツキーの[[世界革命論]]に反対し、[[1国社会主義論]]を唱えた。党の官僚たちには魅力的な提案である。[[1925年]]、トロツキーは軍の[[コミッサール]]([[人民委員]])の地位を解任された。[[1927年]]には党から除名され、[[1929年]]にはソ連から追放された。
 
まず、[[トルコ]]が彼に亡命を認めた。[[1933年]]には[[フランス]]へ、[[1935年]]には[[ノルウェー]]に移った。しかし、翌[[1936年]]、ノルウェーはソ連の圧力で彼に国外退去を求めた。トロツキーはメキシコに居を定めた。しかし、ここでスターリンの放った刺客にしつこくつけ狙われる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
== 関連項目 ==