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{{政治家
'''棚橋 小虎'''(たなはし ことら、[[1889年]][[1月14日]] - [[1973年]][[2月20日]])は日本の思想家、労働運動家、政治家。[[木曜会 (社会主義団体)|木曜会]]の参加者。[[友愛会]]、[[日本労働総同盟|労働総同盟]]の指導者のひとり。
|人名 = 棚橋 小虎
|各国語表記 = たなはし ことら
|画像 = Kotora_tanahashi.jpg‎
|画像説明 = 棚橋小虎の肖像写真
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1889|1|14|no}}
|出生地 = {{JPN}}[[長野県]][[東筑摩郡]][[松本町 (長野県)|松本町]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1889|1|14|1973|2|20}}
|死没地 = [[長野県]][[松本市]]
|出身校 = [[東京帝国大学]]法科大学卒業<br/>[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]卒業<br/>[[長野県松本深志高等学校|松本中学校]]
|所属政党 = ([[労働農民党]]→)<br/>([[日本労農党]]→)<br/>(日本大衆党→)<br/>(全国大衆党→)<br/>(全国労農大衆党→)<br/>([[社会大衆党]]→)<br/>(無所属→)<br/>([[日本社会党]]→)<br/>([[社会党右派]]→)<br/>(日本社会党→)<br/>[[民社党|民主社会党]]
|親族(政治家) = 長男・棚橋 泰助([[東京都議会]][[議員]])
|配偶者 = 棚橋 孝子
|国旗2 = JPN
|職名2 = [[衆議院議員]]
|選挙区2 = [[第22回衆議院議員総選挙#選挙制度|長野全県区]]
|当選回数2 = 1回
|就任日2 = [[1946年]][[4月10日]]
|退任日2 = [[1947年]][[4月6日]]
|国旗3 = JPN
|職名3 = [[参議院議員]]
|選挙区3 = [[長野選挙区]]
|当選回数3 = 2回
|就任日3 = [[1950年]][[6月4日]]
|退任日3 = [[1962年]][[5月7日]]
}}
'''棚橋 小虎'''(たなはし ことら、[[1889年]][[1月14日]] - [[1973年]][[2月20日]])は[[日本]]の[[労働運動家]]、[[政治家]]。[[新人会]]などの[[日本の学生運動|学生運動]]、[[友愛会]]、[[日本労働総同盟|労働総同盟]]などの労働運動にかかわり、[[日本労農党]]や[[日本社会党|社会党]]などの結成に関与した。
 
== 概 ==
[[1889年]][[1月14日]]に[[長野県]]出身。[[東京大筑摩郡]][[松本町 (長野県)|松本町]]で生まれた。[[第三高等校 (旧制)|第三高等学校]]卒業後、[[東京帝国大学]]法科大学に進み、在学中に[[新人会]]に参加した。また[[麻生久]]、[[山名義鶴]]と社会問題研究会である[[木曜会 (社会主義団体)|木曜会]]を結成した。木曜会には後に[[岡上守道]]、[[佐野学]]、[[野坂参三]]がわっているした
 
東京帝国大学在学中から麻生らと共に[[吉野作造]]や[[安部磯雄]]の影響を受けて、友愛会入会を期したが会長の[[鈴木文治]]に断られ、[[1917年]]卒業と共に司法官試補となった。翌[[1918年]]、司法官試補を辞して友愛会入会を果たし、[[1919年]]には関東出張所主事となって日立鉱山争議などを支援した。[[1920年]]8月に東京連合会主事、10月には日本労働総同盟友愛会中央委員に就任した。[[1921年]]にアナキストに対抗して、1921年に「労働組合へ帰れ」という論文を書き、知識階級排斥の標的とされ、東京連合会主事を辞任、翌[[1922年]]にヨーロッパ外遊に出た。[[ベルリン]]で[[森戸辰男]]に迎えられ、ドイツ語を学びソ連に入国した。
 
ヨーロッパ外遊では、まずドイツを経て[[ジュネーブ]]に赴き、[[森戸辰男]]、浅井順四郎などの助力を得て第4回[[国際労働機関|ILO]]会議で日本政府の憲章違反を暴露した。更に[[1923年]]7月に[[ソ連]]に入り、[[ホー・チ・ミン]]や[[片山潜]]らと交流した。しかし、同年11月体調を崩して帰国した。
ベルリンでは[[山崎一雄]]に会っており、また[[プロフィンテルン]]執行委員・[[山本懸蔵]]の代理を勤めた。
 
1946[[1924]][[淡路島]][[洲本町]]に移り、[[1926年]]に[[日本労働組合同盟]]長、[[日本労農党]]から衆議院議中央執行委総選挙立候補し当選就任1950[[1928]]は参洲本町会議員となり、[[1930年]]の[[第17回衆議院議員選挙]]も当兵庫第2区から出馬したが、落選した。
 
[[1936年]]、郷里の長野県松本市に転居し、翌[[1937年]]4月に執行された[[第20回衆議院議員総選挙]]に長野第4区から出馬したが、次点で落選した。[[1942年]]、[[第21回衆議院議員総選挙]]への出馬を企図したが、出馬を辞退。同年5月の松本市会議員選挙で松本市会議員に当選した。
 
[[1946年]]、[[日本社会党]]から[[第22回衆議院議員総選挙]]に立候補し初当選を果たしたが、[[石原莞爾#東亜連盟|東亜連盟]]への関与から公職追放を受けた。公職追放解除後の[[1949年]]執行の[[第24回衆議院議員総選挙]]は落選、翌[[1950年]]の[[第2回参議院議員通常選挙]]には当選した。[[1960年]]日本社会党を離党し、[[民社党|民主社会党]]結成に参画したが、[[1962年]]に政界を引退した。
 
[[1973年]][[2月20日]]に心筋梗塞のため、自宅で死去した。
 
== 生涯 ==
=== 少年時代から代用教員時代まで ===
[[1889年]][[1月14日]]、[[長野県]][[東筑摩郡]][[松本町 (長野県)|松本町]](現・[[松本市]])に、小学校教員の棚橋宣章とさゑの四男として生まれた。名付け親は『[[信濃の国]]』の作詞者である浅井洌で、「風を切って千里を走る大虎も生るる時は小虎なりけり」という歌を添えて命名した<ref>棚橋小虎『小虎が駆ける』([[毎日新聞社]]、[[1999年]])p.96-97</ref>。
 
[[1899年]]3月に東筑摩郡[[本城村]]尋常小学校を卒業した後、4月に[[坂北村]]と本城村との組合立[[高等小学校]]に入学したが、一家の松本移住に伴って7月に松本町立松本尋常高等小学校男子部([[開智学校]])高等科1年に入学した。[[1901年]]、母方の従兄の薦めにより松本中学校の入学試験を受験し、合格者中第4位の成績で及第した。松本中学校在学中に学生団体であった披雲会と自治団体であった尚志社に入り、活動した。[[1904年]]、棚橋は松本中学校4年に進級したが、2月から続いたいた[[日露戦争]]に刺激されて、[[海軍兵学校]]への入学を決意した。この決意の背景には、父である宣章がつくった借金により学費納入が滞ることが多々あったことから、学費のかからない海軍兵学校を選択したということがあった<ref>前掲棚橋書、p.27</ref>。
[[ファイル:Tanahashi1905.jpg‎‎|frame|松本中学校時代における棚橋小虎。中列左から2人目が棚橋。]]
しかし、10月に入って左足に激痛を感じ、診断の結果左脚[[骨髄炎]]を発病していた。当初、進級単位の問題と地元の医師から[[リウマチ]]と診断されていたこともあってしばらくはそのままでいたが<ref>前掲棚橋書、p.27-28</ref>、病状への不安から[[1905年]]4月に松本中学校を一時退学をして、5月から9月にかけて[[東京大学医学部附属病院]]で3度に亘り手術を受けた。12月に帰郷、翌[[1906年]]1月から復学して、3月に松本中学校を卒業した。この卒業に際しては通常、一年の三分の一以上欠席であった生徒は卒業できないこととなっていたが、棚橋は校長の[[小林有也]]に直談判を行い、小林が棚橋を卒業させる気であることを直感的に受け取った<ref>前掲棚橋書、p.33-34</ref>。
 
松本中学校卒業後、一旦銀行に就職したが2ヶ月で退職し、9月に左脚[[骨髄炎]]の治癒のために再度上京したが、東大病院の医師に内臓の不調の可能性を言われ、内科で診療を受けたところ左肺尖[[カタル]]と診断された。こうした健康不安もあって急に宗教に関心を持ち、松本メソジスト教会に通うようになった。[[1907年]]洗礼を受けたが、深く感銘を受けていた牧師の橋本睦之と伝道師の平林広人が松本[[日本メソヂスト教会|メソジスト教会]]を離任することとなったことから、以後距離をおくようになった<ref>前掲棚橋書、p.38-39</ref>。2月に入ると東筑摩郡和田尋常高等小学校の校長であった岡村千馬太から和田小学校で代用教員の誘いがきた。当初、棚橋は健康不安に加えて、中等教員検定試験の受験を企図していたことからその誘いを留保していたものの、検定試験及第までの生活費や書籍代への不安から、9月に[[和田村 (長野県東筑摩郡)|和田村]]へ赴き代用教員となった。尚、この代用教員時代の教え子たちによって、後年「保進会」という同窓会が組織されている<ref>[[長井純市]]・渡辺穣「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』([[法政大学]][[大原社会問題研究所]]、[[2009年]])所載)、p.5</ref>。
 
健康不安は続いていたものの、[[1909年]]に入ると左脚骨髄炎の病源の大部分であるとされた足の骨片を除去することができた関係で、やや回復に向かい、それにつれて官吏を志し、帝大法科への進学を考えるようになった。帝大への進学に向け、まず翌年7月に行われる高等学校入学試験を受験することとした。当初、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]への進学を考えていたが、合格に不安があったことに加え、関西の生活に好奇心を抱いていたこと、尚志社の後輩である細田忠四郎が[[京都府立医科大学|京都府立医学専門学校]]に在学中の関係があり好都合であったことから[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]を選択することとした<ref>上条宏之「棚橋小虎」(深志人物誌編集委員会編『深志人物誌』([[松本深志高等学校]]同窓会、[[1987年]])所載)、p.249</ref>。受験準備の間、父・宣章の死に直面したが、[[1910年]]7月に第三高等学校を受験し、合格を果たした。棚橋は、合格の報せに接するまでの間、左脚骨髄炎が再発して東大病院で再度手術を受けることとなった。一旦退院できたものの、9月入浴時に傷口から丹毒に感染し再入院することとなった。しかし、すぐに退院して10月に松本を離れ、京都へと向かうこととなった。
 
=== 三高から帝大へ ===
[[1910年]]10月から第三高等学校へ登校を始めた棚橋は、11月に入ると京都に尚志社の支舎を設けることを企図して、細田忠四郎や三沢満寿夫などの松本中学校出身で京都に住んでいた4名と黒谷に「由之舎」(京都尚志社)と名付けた家で共同生活を始めた。この京都尚志社には後に[[山名義鶴]]や塩川国助などが参加するようになる。
[[1911年]]早春に山名義鶴に出会い、山名の誘いで演説稽古のグループ「縦横会」を結成した。参加者は棚橋のほか、岸井寿郎(のち労働運動家、[[岸井成格]]の父)・[[岸田幸雄]](のち[[参議院議員]]、[[兵庫県知事]])・[[末川博]](のち[[立命館大学]][[総長]])・麻生久(のち労働運動家、[[社会大衆党]][[書記長]])・岡林次郎(のち[[福岡高等裁判所]][[判事]])・吉田三雄・行宗貞隆・大西文一・村田利之助・細渓勇三・神明萬里・平島等であった。この「縦横会」参加者とのつながりは、後に棚橋が労働運動家や政治家として活動するなかでも続くことになっていく。こうした「縦横会」の活動の一方で、棚橋と山名は三高運動部の秘密結社であった「バンド」に参加した。9月にこの「バンド」による軟派学生暴力制裁事件が起こり、麻生を中心とした「縦横会」は「バンド」排斥運動を展開した。この折に、棚橋と山名は縦横会メンバーに面罵され、この影響で一時他の縦横会員との意思疎通を欠くことになった<ref>上条宏之は、棚橋の「縦横会」と「バンド」の同時加入について次のように分析している。
{{Quotation| 「縦横会」の命名者である棚橋は、機略縦横とか縦横無尽という言葉を好んで用いていたので、「バンド」と「縦横会」への同時加盟は、機略縦横のあらわれと、岸田はみている。しかし、松本中学時代の尚志社運動の延長が「バンド」加入となったのではないか、と私にはおもわれる。尚志社の後輩多田助一郎が、「熱烈な国粋主義者と信じておった君が大学卒業後友愛会に入り、社会主義者と変られたのには吃驚りした」と述懐しているのも、その一証左となろう。|前掲上条「棚橋小虎」p.250}}</ref>。[[1913年]]1月、[[折田彦市]]の後任として三高校長となった酒井佐保の排斥運動が発生した。この排斥運動は、[[第一次護憲運動]]に三高の学生が呼応して京都における暴動に参加した嫌疑で川端警察署の[[刑事]]が寄宿舎で捜査を行い、被疑者を連行した事件を発端としており、この刑事の寄宿舎への侵入は学校側が刑事となれ合って刑事のほしいままにさせたとして、元々生徒側にあった酒井校長不信への考えもあって酒井校長への排斥運動へと至ったものであった<ref>前掲棚橋書、p.61</ref>。この排斥運動の中で、「縦横会」を中心として校長問責生徒大会を開催して、酒井校長もこれに出席した。酒井校長はこの大会において率直に学校側の過失を認め誠意を披瀝したこともあって排斥運動は沈静化へと向かった。この校長問責生徒大会の中心には棚橋も動いており、こうした大正政変の影響を受けた様々な活動を通じて徐々に[[自由主義]]・[[個人主義]]へと転向していくようになる<ref>前掲棚橋書、p.64-65</ref>。
 
7月に入り、棚橋は上京して東京帝大法科を受験し、合格した。法科には棚橋のほかに「縦横会」の同志である山名義鶴と麻生久も進むことになった。[[1914年]]、棚橋は下層階級の解放について[[吉野作造]]や[[安部磯雄]]を訪問して意見を問うたり、学友との議論をしたり、先輩を訪ねて意見を聴いたりした。これは、棚橋が三高卒業時までに抱いた下層階級の解放を目的とする政治団体の樹立と、大学改革という2つの目標を具現化させるためであった<ref>前掲棚橋書、p.68</ref>。しかし、当初は希望に燃え張り切っていたものの次第に希望を失い、「ただ習慣的に大学に通っているというだけ」になっていった<ref>前掲棚橋書、p.69</ref>。こうした中で、7月に棚橋は初めて落第を経験することになる。この衝撃から一時郷里の松本に帰り、過去の自分との訣別のために自由奔放な「野性的生活」を翌月まで送り、体力と気力の回復に努めた。
[[1916年]]2月、吉野作造を訪問した棚橋・麻生・山名は、吉野から[[友愛会]]の話を聞いた。棚橋はそれまで将来の志望について決めかねていたが、友愛会の話に深い感銘を覚え、朧気ながらも友愛会入りを志すようになる。5月には政治家を志すことを決め、当時の棚橋の日記で次のように記述した。
{{Quotation| 俺は世間一般の学生のように、生活のために職業を得ることが唯一最大の目的であるということを、不動の前提として、疑念なしに受け入れることはできない。俺は地位職業の得ることは、自己の生存の意義を全うし人生の目的を達するための手段にすぎないと考える。だから我々は生活の手段としての職業を得る前に、人生の目的、生存の意義を考えこれを知ることが前提であると確信する。宇宙の一分子として生をうけた俺は、むつかしい理屈なしに、宇宙の大活動・大運営に合体合流すべきであると考える。宇宙は久遠の昔から、無窮の未来にわたって休むことなく活動している。宇宙は産む。殖やす。活動する。生々繁茂する。進化する。発展する。人類そのものも進化する。社会も前進する。これが宇宙の大運営の実態である。</br> しからば宇宙の一分子として生をうけた俺は、文句なしにこの宇宙の大運営に参加すべきである。宇宙、自然と歩調を合せて活動すべきである。田を作るもよし。書物を書くもよし。あらゆる生産に参加すべきである。宇宙、人類、生物の利益繁栄を図るべく害を除くべきである。人類を幸福にし不幸を除き、人類の精神を美にし純にし、彼らをして平和を楽しましむべきである。これがわが生存の目的ではないか。</br> 宇宙の運営に参加するというが、いかなる部分に参加するのか。そこで職業の問題が起ってくる。俺はこの点については、漠然ながら社会・国家・民衆のために働こうと前から考えていた。</br> 国家の隆盛と、社会の進歩発達と、人類の幸福とは、原則として一致する。人類は宇宙自然の中で最も霊妙なものであり、国家と社会とはその人類の構成組織としているものの中で、もっとも秀でたものである。国家社会の隆盛進歩は人類の幸福と一致してこそ意味がある。もし国家・社会の活動力が、社会・人類の不幸を惹起することになったら、これこそ大矛盾である。故に国家の活動力を常に社会・人類の発展を促し幸福をもたらすように行使することは、最も必要なことである。これこそ政治の原則でなければならない。</br> 俺が政治家を志ざす根本の動機は、国家の活動力を、社会人類の幸福と発展のために奉仕せしめ、行使せしめるということである。大学卒業を一年後に控えて、具体的にどうすべきか。まだ漠然としている。|前掲棚橋書、p.73-75}}
政治家を志した棚橋は、暑中休暇を利用して松本へ帰郷した。そこで披雲会の後輩である青山善吉の相談を受けて、当時の松本中学校長であった本荘太一郎の排斥運動を展開することになった。これは小林有也の後任で校長に就任した本荘太一郎の教育方針についての反駁から起こった運動で、一時生徒側がストライキに及ぶ可能性まで進んだが、本荘が年度いっぱいで校長職を辞任することで決着をみた。
 
[[1917年]]2月、棚橋は吉野作造を訪問して自身の友愛会入りを相談した。棚橋は吉野が友愛会入りに賛成するものと考えていたが、吉野は友愛会入りに反対して労働者の法律顧問となるよう勧めた。しかし、棚橋は「自ら労働者となり、自分の周囲に同志を集め、それを拡大して団結を作る道を選びたい。」として<ref>前掲棚橋書、p.82</ref>、4月に[[鈴木文治]]と面会して友愛会員になった。6月に入ると安部磯雄、吉野作造、油谷治郎をそれぞれ訪問し、棚橋の友愛会入りに賛成の意見を受けた。安部磯雄から鈴木文治宛の紹介状をもらい、7月に鈴木文治を訪ねたが「財政上人を入れる余地なし」として断られた。ただ、棚橋も「このまま友愛会に入ることができても、法律の実際に通じないから、充分な活動は不可能だろう。むしろ一、二年弁護士でもやって法律の事務に通じてから友愛会に入る方がいいのではないか。」と考え<ref>前掲棚橋書、p.89</ref>、吉野作造に相談したところ司法官試補になることを勧められた。そこで棚橋は早速司法官試補の出願手続きを進めて内定を受けると共に、鈴木文治には将来の友愛会入りを約束した。こうして棚橋は、一旦司法官試補として歩みを進めることになった。
 
=== 司法官試補を辞め友愛会へ ===
司法官試補になった棚橋であったが、[[1918年]]4月に麻生に友愛会入りを強く奨められたこともあって、徐々に司法官試補を辞め友愛会入りをすることを考えるようになった。その中で友愛会の[[野坂参三]]、麻生久、久留弘三らと友愛会改革案を検討するようになっていく。これは友愛会を労働団体として改組するためのもので、次のような成案を会長の鈴木文治に提出し、改革案は了承された。この了承と共に棚橋の友愛会勤務も承諾され、労働運動家として活動していくこととなる。
{{Quotation|(一) 友愛会を関東、関西、横浜の三部に分ち各主任者一名を置き全権を委任して経営にあたらしむ。三部は各独立とす。</br>(二) 会長は以上三部を統括す。会長の俸給は三部の分担とす。</br>(三) 『労働及産業』は本部の直営とす。各部は一部七銭の割合にて代金を本部に支払う。</br>(四) 関東部は棚橋、関西部は久留、横浜部は板倉、『労働及産業』には野坂を各主任とし、油谷・平沢・菊地は解雇とすること。</br>(五) 『社会改良』は知識階級に対する自由思想宣伝用として我らに一任させてもらうこと。麻生が主としてこれにあたる。|前掲棚橋書、p.103}}
友愛会入りを決めた棚橋は9月に入ると麻生宅をクラブとして毎週会合をすることを麻生、山名らと申し合わせた。これは社会情勢の研究団体で、後に[[木曜会 (社会主義団体)|木曜会]]として発展し、[[佐野学]]なども参加するようになる。10月27日、棚橋は司法官試補の辞表を提出し、翌日に友愛会に入った。友愛会入りを果たした後、棚橋は吉野作造から[[内務省 (日本)|内務省]]保健調査会が労働者の生計状態を調査するため東京市内の労働者街に定住してその調査に当たる人物を探しており、棚橋がその任に当たったらどうかとの誘いを受け、調査会を主催する[[高野岩三郎]]に面会した。高野から話を聞いた棚橋は、友愛会の松岡・野坂に相談し反対を受けたものの、調査の仕事を放棄する気になれず受諾することとなった<ref>前掲棚橋書、p.113</ref>。棚橋は早速、労働者街を調査して保健調査所の設置場所として島全体が労働者の町であった月島を、調査責任者を山名義鶴とし棚橋は側面からこれに協力することを高野に進言した。当初、高野は月島を調査所の設置場所として認めずに[[本所区]]柳島横川町を考えていたが、視察の結果月島を調査所の設置場所とすることにした。この月島の労働保健調査所は関東方面の最も開明的な労働運動の基地となっていく<ref>前掲棚橋書、p.115-116</ref>。
[[ファイル:Tanahashi1919.jpg‎|frame|[[1919年]]、鈴木文治渡欧中における友愛会本部。前列左から久留弘三・[[野坂参三]]・北沢新次郎・[[松岡駒吉]]、後列左から一人おいて麻生久・山口政利・棚橋小虎・可児義雄。]]
12月に入ると会長の鈴木文治が渡欧したこともあって、棚橋は関東出張所主任として忙しい日々を送るようになっていった。棚橋は東京帝大時代から住んでいた[[本郷]]から月島の餅田守一の2階にその住居を移し、公私ともに労働運動に関わるようになった。1918年末当時で関東出張所管内の友愛会員は約5,000人で、管内で起こる争議に忙殺されていった<ref>前掲棚橋書、p.126</ref>。そんな中、[[1919年]]1月に岸井寿郎の姪にあたる孝子と婚約した。孝子は岸井寿郎の異母兄にあたる岸井品八の二女で、岸井寿郎の誘いで見合いをしたことがあった。孝子との間には後に三男二女をもうけることになる。
 
春ごろに起こった[[三田]]支部([[日本電気株式会社]]に設置された労働団体)における賃金値上げ[[ストライキ]]では、当時としては珍しい12日間にわたるストライキとなり<ref name="tanahashi132">前掲棚橋書、p.132</ref>、棚橋はこの争議を指導すると共に会社側との交渉も担当して、要求の大部分の貫徹と犠牲者を出さないという結果を導き出し、「大会社を向うにまわし支部の全力をあげて対決した初めての争議であって大変印象深かった。」と回想している<ref name="tanahashi132"/>。更に[[治安警察法]]第十七条撤廃運動を鈴木文治の代理で友愛会の会長になっていた北沢新次郎に提案し、賛成を得てこの運動を展開した。こうした活動の中で棚橋は、更なる「労使の対立を前提とする戦闘的労働組合主義への転換」を考え<ref>前掲棚橋書、p.135</ref>、麻生久の友愛会入りを企図するようになる。4月、棚橋は麻生の友愛会入りを実現に向けた動きとして、麻生が友愛会入りを決意させること、友愛会本部の人不足を他の本部員に認識させることのために[[サボタージュ]]を行い、友愛会を長期欠勤して松本に帰郷してしまう。これを受けて5月、麻生は友愛会入りを決意し、友愛会本部側でも受け入れを承諾した。麻生は早速棚橋に上京を求める手紙を送り、棚橋はこれに応えて友愛会に復帰することになった。上京後、棚橋は会長代理の北沢と主事の松岡駒吉と協議して、本部の陣容一新案を実行に移す第一着手として友愛会出版部長であった平沢計七を退職させ、麻生を部長に据えた。こうした結果、友愛会は労働団体としての陣容を整え、8月末に開催された友愛会第七周年大会において「大日本労働総同盟友愛会」に改称を決定した。この大会において「明白な社会主義に立ってはいないが、労働者の人間性を強調し、資本主義の発達と機械文明の進歩が必然的に労働者の人格を蒸ししてこれを単なる生産の機械視することに抗議し、労働者は[[国際連盟]]と労働規約の精神に生き、自力をもって労働者の生存する権利と自由とを獲得すべきことを主張」して、更に組織体制も「会長独裁制」から「職業別地域別の地盤より選出された25名の理事の会議制」への変更、地域支部を職業別もしくは産業別全国組合に改組する組織方針の打ち出しを行った<ref>前掲棚橋書、p.150-151</ref>。棚橋はこの大会後に開かれた理事会において、新たに設置された鉱山部の主任を兼任することになり、以降鉱山における争議を担当することになった。
 
9月に起きた[[国際労働機関|ILO]]代表権問題において棚橋はその運動の中心となり、10月には[[足尾銅山|足尾鉱山]]争議を指導することになった。この時、棚橋は友愛会足尾支部演説会に出席し演説をしたが、警官によって演説会は中止とされこれをきっかけとして足尾鉱山における友愛会員の膨張を生むこととなった<ref>前掲棚橋書、p.160</ref>。[[10月26日]]には遂にストライキに発展したが、一部が暴動化したため[[10月28日|28日]]に会社側の要請によって警官隊が一斉検挙を行って、足尾ストライキは鎮静化に向かうことになる。11月末には[[日立鉱山|日立]]争議が発生し、棚橋や麻生などが派遣された。この争議での演説会において棚橋は治安警察法第8条による解散命令に従わなかったとして麻生他8名と共に逮捕され、[[水戸市|水戸]][[監獄]]へ[[未決勾留|未決収監]]となった<ref>棚橋らはこの後、[[1920年]][[1月29日]]に保釈され、[[7月7日]][[水戸地方裁判所|水戸地裁]]における判決で禁固3ヶ月を言い渡された。しかし、控訴を行って[[1921年]]7月の[[東京控訴院]]判決で無罪を勝ち取った(「年表」(棚橋小虎追悼集刊行会編『追想棚橋小虎』棚橋小虎追悼集刊行会編、[[1974年]]所載)、p.222)。</ref>。この争議以降、関東における鉱山の労働運動は相次ぐこととなり、関東出張所と兼任では手が回らなくなったこともあり、麻生が鉱山部主任となり、棚橋は関東出張所専任となってその後の労働運動を指導していくことになった。
 
=== 「労働組合へ帰れ」 ===
[[1920年]][[5月2日]]、友愛会ほか15組の労働組合は新人会などの思想団体も加えて[[上野公園]]において第1回[[メーデー]]を開催した。このメーデー開催後、メーデー参加団体は協議会を開き、今後の運動について継続的な連絡機関を設けることとして「労働組合同盟会」を創設した。この同盟会に対して友愛会は大きな影響力を持ち、労働運動の展開にさらに大きな役割を担うことになったが、また一方で隆盛しつつあった[[社会主義]]や[[アナーキズム]]によって友愛会内部の統制は難しい状況であり、会の統制を諮るために一応麻生を「[[日本社会主義同盟]]」との連絡役にする程度で留めていた<ref>前掲棚橋書、p.185。同頁の棚橋の回想によれば、「会の主流としては社会主義に賛成であるが過激な[[サンディカリスム|サンジカリズム]]などの思想が会の統制を乱すことを恐れ、この運動に深入りすることを避けるべきであるとの自重論が強かった」と述べている。</ref>。6月に入ると、棚橋は[[富士紡績]][[押上]]工場の争議を指導することになったが、この争議は失敗という結果であった。8月、関東出張所の管轄であった各支部は自主的に労働運動を展開できるようになったとして、各支部の自主性を広範囲に認めて関東出張所を解消して、「大日本労働総同盟友愛会 東京連合会」へと発展させた。この東京連合会において棚橋は主事となり、9月には連合会書記に松本中学校時代から棚橋と親交があった上条愛一を招いた。10月に開催された友愛会8周年大会において友愛会は「日本労働総同盟友愛会」と改称すると共に、出張所制度を廃し連合会とすること、理事制を廃し中央委員制とすること、各支部を産業別、職業別に再編成すること、支部に職業紹介所を設けること、毎年メーデーを行うことが議決された<ref>前掲棚橋書、p.196</ref>。この議決と共に役員選挙が行われ、棚橋は関東選出の中央委員に就任した。更に麻生を中心として産業別の支部結成に向けて動いていたが、これに棚橋も協力して[[10月20日]]全日本鉱夫総連合会を結成し、棚橋は相談役として名を連ねた。その後、[[三越]]争議の指導や足立製作所事件の後処理などの活動を展開し、棚橋は東京連合会の要として活躍をしていった。
 
[[1921年]]1月、棚橋は友愛会の機関誌『労働』新年号に「労働組合へ帰れ」という論文を発表した。
{{Quotation|「労働組合をつくってその力で労働者の地位を改善しようなどということはまだるい。われわれは手取り早く社会主義者となって直接行動をした方が早い。」</br> これはこのごろ労働者自身の口からよく聞く言葉である。けれどもそれは間違っている。直接行動とはいったいどういうことを意味するのか。直接行動とは、警官と小ぜり合いをして、ひと晩警察に止められたり、禁止の革命歌を高唱して大道を歩くことではあるまい。こんな直接行動では社会の大革命はおろか、資本家の自動車一つ転覆することもできないだろう。こんな貧弱な直接行動を手頼りにして、労働者に取って大切な大切な労働組合-労働者の団結-を捨て去ろうとするのは狂気の沙汰ではないか。</br> 直接行動の最上の手本は、[[波蘭]]の[[ポーランド・ソビエト戦争|対露戦争]]を援助しようとした[[英国]]政府に対し、英国労働階級が行動委員会を作り、もし英国政府にして波蘭を援助するならば、全英国の労働者は一令のもとに総同盟罷業をすると言って威嚇した態度である。英国政府はこの威嚇に震え上がって波蘭援助を思い止まった。</br> 日本の労働者よ。直接行動とはこういうことをいうのだ。直接行動という言葉を玩具のごとくに玩弄して、直接行動の飯事をやって嬉しがっている連中は、少し眼界を高く大きくする必要があろう。</br> なるほど飯事や玩具の直接行動をやるには、別段強い労働者の団結や労働組合は要らぬだろう。そんな事なら単独でもできる。しかしこんな玩具や飯事で、われわれ労働者の地位の改善ができると思ったら大間違いだ。</br> 真実に労働者の地位を向上させることのできる直接行動は、労働者の大々的団結を必要とする。強大勇猛な労働組合が必要だ。諸君!急がば廻れだ。労働者が最後の決定的勝利を占めようとするには、まずそのまだるっこうい運動すなわち労働組合運動をすることが肝心だ。警察官と格闘する一人の勇士よりも、穏やかな百人の人が団結した一つの労働組合がどれ丈け資本家にとって、権力者にとって恐ろしいか分らないのだ。</br>「労働組合を作って其力で労働者の地位を改善しようなどということはまだるっこい。われわれは手取り早く社会主義者となって直接行動をしたほうが早い。」と労働者がいっているのを聞いて、警察のお役人は薄気味悪い笑顔をしているではないか。資本家は耳に口を寄せて「占め占め」といっているではないか。労働者よ。考え直せ。だまされるなよ。</br> 労働組合へ帰れ。それが労働者の王国である。|前掲棚橋書、p.207-208}}
棚橋は「多忙で静思する時間もないので、日ごろ頭を悩ましている最近の労働運動の動向についての感想を、東京連合会の机で頭に浮かぶままに書き流し、ほとんど読み返しもせず本部に送った」が<ref>前掲棚橋書、p.206</ref>、この論文は一部急進的労働組合から強い批判を浴びることになった。4月、3月に起こった足尾銅山争議を解決に麻生と共に導いたが、サンジカリスト・社会主義者・急進的労働者はこれを「麻生らが直接行動をもって最後まで資本家と抗争することを恐れ中途資本家に争議を売りつけたもの」と批判して「知識階級指導者の屈辱的妥協精神」にその罪が帰するとした<ref>前掲棚橋書、p.210</ref>。その後、5月に行われた第2回メーデーにおいてこの両者の相違は明確化し、7月に開催された東京連合会大会において棚橋にもその批判が集中することになった。この大会において棚橋は大会議長を務めたが、サンジカリスト・社会主義者・急進的労働者などからの「知識分子排撃」に会って議事進行を行えなくなり、議長辞職を余儀なくされた。更に棚橋はこうした東京連合会の状況を受けて東京連合主事についても辞職することになった。この主事辞職については友愛会幹部総会において慰留され顧問就任の提案もあったが、棚橋自身に思うところがあって受諾せず、最終的に主事辞職に決定した<ref name="tanahashi215">前掲棚橋書、p.215</ref>。これは棚橋が「社会主義や[[共産主義]]・[[無政府主義]]と労働組合運動の関係についてもっと研究して確乎たる信念をもちたいと考え」て<ref name="tanahashi215"/>、ヨーロッパや[[ソ連]]への外遊を企図していたためで、辞職後に妻・孝子を連れて[[大分県]][[国東町]]に移住して早速外遊に向けて準備を進めることになった。
 
=== ヨーロッパ外遊 ===
[[ファイル:Tanahashi1922.jpg‎|frame|[[1922年]]、棚橋の渡欧を友愛会本部で撮影された写真。前列左から松岡駒吉・鈴木文治・棚橋小虎・麻生久・野坂参三・加藤勘十・[[山本懸蔵]]、後列左から3人目[[赤松克麿]]・2人おいて上条愛一。]]
[[1921年]]末に麻生の提案で棚橋の外遊資金調達のために、渡欧記念論集として『新社会的秩序へ』の出版を行った。この論集は、棚橋小虎を知っている学者や評論家、社会主義者らに寄稿してもらい、印税を棚橋の外遊資金に充てることとしていた<ref>前掲棚橋書、p.220-221</ref>。尚、論集には、[[山川均]]・高野岩三郎・北沢新次郎・荒畑勝二・[[赤松克麿]]・[[堺利彦]]・[[上田貞次郎]]・長谷川万次郎・[[米田庄太郎]]・[[大山郁夫]]・[[片上伸]]・阿部磯雄・佐野学・[[新居格]]・石本恵吉・末弘巌太郎に加えて麻生が寄稿している。この記念論集の印税のほか、棚橋は三高時代の先輩の中俣正男や、孝子の父である岸井品八などから支援を受けて洋行費用を工面した<ref>前掲棚橋書、p.222</ref>。こうして棚橋は渡欧の目途が立つこととなり、[[1922年]][[7月13日]]に[[門司港|門司]]を出港して[[上海市|上海]]、[[8月24日]]に[[マルセイユ]]を経て、[[9月10日]]に[[ベルリン]]に到着した。
 
棚橋はベルリン到着後、高野岩三郎に紹介を受けていた森戸辰雄らの出迎えを受けると共に、[[大内兵衛]]・石浜知行、[[山崎一雄]]などに会っている。このベルリンでは、ソ連でも通用するというドイツ語の練習のためにドイツ語学校に通っている<ref>[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]「解説」(前掲棚橋書所載)、p.344</ref>。11月に[[ジュネーブ]]に赴き、その頃開催されていた第4回ILO会議に[[日本労働総同盟]]理事の信任状を持参した上で、森戸及び浅利順四郎の手を借りて各国代表を歴訪し、日本政府の憲章違反を暴露した。これは日本の労働代表として赴いていた[[田澤義鋪]]の資格について抗議したものであった<ref>前掲上条「棚橋小虎」、p.252</ref>。12月に魚中毒で腸出血になり、[[伊藤清]]が看病にあたった。[[1923年]]4月、棚橋は[[ベルリン大学]][[哲学]]科の入試を受けて合格したが、同時期にソ連からの入国許可も得た。これは、[[赤色労働組合インターナショナル]]の中央執行委員で、当時日本に戻っていた[[山本懸蔵]]の代理をすることが目的であり、この関係で少し前の2月に[[片山潜]]に会っていた<ref>前掲伊藤「解説」、p.344-345。尚、伊藤隆は棚橋がこれにあわせて共産党に入党していたのではないかと推測している(同書p.345)。</ref>。棚橋は入国許可を受けて、7月に[[リガ]]を経て[[モスクワ]]に入り、国際農民大会に[[日本農民組合]]代表であった大西俊夫の通訳の資格で出席した<ref>前掲「年表」、p.223</ref>。この時期に[[ホー・チ・ミン]]と交わり、以降友好関係を築くこととなった。9月に入ると[[関東大震災]]の報せが棚橋に伝わり、更に10月には発熱に苦しんだこともあって、帰国を決意するようになった。11月、棚橋はモスクワを出発し、[[シベリア鉄道]]でシベリア横断をすることになった。中途、越境の際の面倒に備えて車窓から日記も含めた一切の書類を処分した<ref name="ito345">前掲伊藤「解説」、p.345</ref>。棚橋は日記に「ソ連を発って日本へ帰ると決めた時、日本改造については一応の構想を纏めていた。日本の改造はボルシェビズム([[共産主義革命]])に依るべきではない。これは日本の国情に合わない。[[民主主義]]によって社会主義の実現を目指すべきである。」と記している<ref name="ito345"/>。棚橋は「[[満州]]」の日本[[領事館]]で入国許可を待つことになったが、日本[[総領事]]を務めていたのがたまたま松本中学校時代の先輩であった松岡文一郎であり、この縁もあって入国許可は速やかに行われた。
 
帰国後、棚橋は[[1924年]]1月に京都に赴き、[[京都大学]][[医学部]]で診察を受けた結果、肺尖部に病巣が見つかり、療養の必要を宣告された<ref name="hyo223">前掲「年表」、p.223</ref>。棚橋は[[兵庫県]][[洲本町]]の岡林次郎を訪ね、洲本を療養の地と定めて移住を行った。以降約一年間療養を行い、健康を回復させて同所で[[弁護士]]を開業して活動を再開させた。
 
=== 洲本時代 ===
==== 日本労農党・日本労働組合同盟の結成 ====
[[ファイル:Tanahashi1928.jpg‎|frame|[[1928年]]、[[第16回衆議院議員総選挙|第1回普通選挙]]において[[日本労働組合同盟]]会長として応援演説をする棚橋。]]
[[1925年]]、活動を再開した棚橋は淡路を中心に[[関西]]方面で労働運動家として活動を展開した。地元では貝釦労働組合向上会を結成してストライキを決行したり、日農の小作運動や農民運動・労働組合運動など様々な活動を行った。また、[[無産政党]]の結成にも関わり、[[7月18日]]に関西民政党を結成、12月には農民労働党を結成した(農民労働党については3時間で結社禁止となった<ref name="hyo223"/>。)。[[1926年]]に入ると、こうした無産政党結成の動きは更に活発化し、3月に[[労働農民党]]が結成されると棚橋は淡路支部の準備委員に推された。8月に淡路支部は創立大会を挙行し、次期を同じくして結成された日本労働総同盟兵庫県連合会に棚橋は会長として入ることになった。単一無産政党として誕生した労働農民党であったが、右派と左派との対立が激化して右派は総同盟と共に[[社会民衆党]]を結成し、労働農民党は左傾化を強めた。棚橋はこれを受けて、労働農民党淡路支部を離れて社会民衆党に合流しようとしたが<ref>前掲棚橋書、p.289-290</ref>、[[11月23日]]に麻生久らが[[日本労農党]]創立趣意書を発表し、その趣意書に棚橋に無断で創立発起人に加えたことから、棚橋は日本労農党への参加を余儀なくされた<ref name="tanahashi290">前掲棚橋書、p.290</ref>。また、この出来事を受けて、総同盟は棚橋を麻生らと共に除名し、加えて尼ヶ崎連合会からも除名された。棚橋らの離反に憤慨した総同盟尼ヶ崎連合会員50名あまりは棚橋の事務所を襲撃し、棚橋は頭部に裂傷を負った<ref name="tanahashi290"/>。この少し前の[[12月4日]]、総同盟と決裂して結成された[[日本労働組合同盟]]の会長に棚橋は推され就任した。更に[[12月9日]]、日本労農党結成大会が挙行され、この大会において棚橋は中央委員に就任した。
 
[[1927年]]3月、山名義鶴と共に上京した棚橋は麻生から神戸より立候補することを勧められた。しかし、実行はせず兵庫県第2区からの出馬を模索することになった<ref name="tanahashi294">前掲棚橋書、p.294</ref>‎。棚橋は組織固めのために5月に日本労働組合同盟兵庫県連合会を結成し、労働組合方面の組織を固めると共に、6月には淡路における[[全日本農民組合連合会]]の担当者として長尾正作を任命し、7月には全日農淡路支部を結成して農民運動方面の組織も固めた。[[9月4日]]日本労働党淡路支部を結成し、衆議院総選挙の前哨戦として位置づけられていた兵庫県会議員選挙に備えた<ref name="tanahashi294"/>。[[9月25日]]の県議選の結果、日本労働党からは阪本勝・[[永江一夫]]・行政長蔵が当選したが、棚橋が応援して淡路から立候補させていた木村初吉は落選した<ref>前掲棚橋書、p.296</ref>。[[1928年]]2月、[[第16回衆議院議員総選挙|第1回普通選挙]]が行われることになり、棚橋は立候補に向けて動き出したが準備不足から立候補を断念した。しかし、日本労働党淡路支部の党員はこれを受けて洲本町会議員選挙の立候補を棚橋に要請し、3月棚橋はこれに立候補して当選した。[[5月21日]]、それまで分裂していた日農と全日農の合同が成立し、[[5月27日]]には合同大会が開催された。これを受けて、無産政党も合同に向けた動きを強め、[[10月17日]]に日本労農党・日本農民党・無産大衆党・九州民憲党・中部民衆党・信州大衆党・島根自由民衆党の合同に向けた話し合いを行うために、[[河上丈太郎]]・阪本・山名・麻生・棚橋が神戸に参集して五者会談を行った。この会談において棚橋は合同に反対したが<ref name="hyo224">前掲「年表」、p.224</ref>、結局11月に合同は決定し、12月20日に日本大衆党が結成された。この結成に際して、棚橋は高野岩三郎を新党の委員長に据えようとしたが、本人が承諾せず失敗した<ref>前掲棚橋書、p.302</ref>。このため、委員長は空位となり、書記長に[[平野力三]]、常任執行委員に棚橋や麻生ら24名が就任した。
 
==== [[第17回衆議院議員総選挙|第17回総選挙]]への出馬 ====
[[ファイル:Tanahashi1933.jpg|frame|[[1933年]]における棚橋一家。後列右から棚橋・二女の鞠子を妊娠中の孝子、前列右から長男の泰助(のちに[[東京都議会]][[議員]])・次男の雄三・三男の五郎・長女の郁子。]]
[[1929年]][[2月4日]]、前年に成立した無産政党合同に伴って各政党の支持団体となっていた労働団体の合同が決定していた関係で、合同後の組織で優位を得るために、日本労働組合同盟中央執行委員会の席上、淡路から[[東京市|東京]]への移転を公約させられた。これには同盟に参加していた山名義鶴や上条愛一らが動いており、棚橋を次の[[衆議院議員総選挙|総選挙]]で東京第4区から出馬させる目的があった<ref>前掲棚橋書、p.303</ref>。[[3月6日]]から[[東京府会議員]]選挙と[[神奈川県]]会議員選挙の応援に赴いたが、淡路に戻った後に連日の高熱に浮かされた。診断の結果、[[腸チフス]]と診断され、[[5月29日]]には治癒したが体重は10貫9,000匁(約45kg)にまで減少していた<ref name="hyo224"/>。[[7月23日]]、棚橋は洲本で第1回大衆講座を開催した。講師には河上丈太郎を迎え、洲本における労働教育の場の創設となった。この大衆講座は[[8月14日]]に第2回を開催し、講師には松沢兼人(のち[[日本社会党]][[衆議院議員]]・[[参議院議員]])と[[杉山元治郎]]を迎えた。この間、[[8月8日]]に神戸で兵庫県第2区から総選挙に立候補する意思を表明した。これは6月の段階で[[田中義一内閣]]の総辞職を受けて成立した[[濱口内閣|濱口雄幸内閣]]が[[衆議院解散]]をすることを予想して動いたものであった<ref>前掲棚橋書、p.304-305</ref>。しかし、棚橋は2月に既に東京移住を公約している関係で、山名はこれに反対した<ref name="hyo224"/>。しかし、棚橋は「もし立候補となれば、落選の場合を想定すれば、次回の総選挙にこの選挙区で立候補する以外に道はない。しからば当分、東京移住は不可能だし、その結果同盟会長を辞任するほかはない」として、兵庫県第2区からの立候補を決め、山名はこれを止めないこととなった<ref>前掲棚橋書、p.305</ref>。[[1930年]][[1月4日]]、棚橋は阪本勝方で兵庫県第2区からの立候補を正式に表明し、[[2月20日]]の[[衆議院解散]]を受けて選挙戦を開始した。選挙事務長は阪本勝として、選挙地盤の[[尼崎市]]・[[西宮市]]・[[武庫郡]]・[[川辺郡 (兵庫県)|川辺郡]]・[[有馬郡]]は藤岡文六が、[[津名郡]]・[[三原郡]]は労働同盟書記の岩井伊久太が担当することとした<ref>前掲棚橋書、p.306</ref>。しかし、選挙資金不足は著しい状態であり開票の結果、得票は4,148票で下位から2位の惨敗であった<ref>前掲棚橋書、p.306-307</ref>。この選挙戦の間も労働組合の合同問題の話は進んでおり、選挙後の[[5月8日]]に上条と話した際に合同成立前に状況移転がない場合は合同成立後の推薦は難しい旨が伝えられた<ref name="tanahashi308">前掲棚橋書、p.308</ref>。これを受け棚橋は、[[5月14日]]に上京して麻生・山名・上条と会談して合同後の組織の会長は断念することを伝えた<ref name="tanahashi308"/>。[[5月31日]]、日本労働組合同盟と労働組合全国同盟は合同委員会を開催して棚橋は議長を務めたが、翌日開催された合同大会において会長には大矢省三(のち衆議院議員)が就任した<ref>前掲「年表」、p.225</ref>。総選挙における惨敗と組合同盟会長辞職ののち、棚橋は中央から徐々に後退し<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)、p.4</ref>、また交友上においても麻生・山名・岸井・上条・阪本などとの関係が気まずい関係になっていった<ref>前掲棚橋書、p.310</ref>。
 
[[1936年]][[3月2日]]、棚橋は洲本町会議員に三選を果たす。しかし、三選を果たしたものの棚橋はこの以前から「自分としても選挙区を持たねばならない」という考えから松本への帰郷を考えるようになった<ref>前掲棚橋書、p.312</ref>。10月に棚橋は遂に松本への帰郷を決意してまず、長男・泰助を松本中学校へ転校させた後<ref>前掲「年表」、p.225</ref>、[[11月22日]]に淡路を発って[[松本市|松本]]へ移転した。[[11月26日]]には弁護士事務所の看板を出し、松本における生活を開始した。
 
=== 松本時代(1937年から終戦まで) ===
==== [[第20回衆議院議員総選挙|第20回総選挙]]への出馬 ====
[[ファイル:Tanahashi1937.jpg|frame|[[1937年]]の[[第20回衆議院議員総選挙|総選挙]]時の選挙事務所風景。左から一人おいて妻の孝子・百瀬嘉郎・棚橋・[[林虎雄]]・山本初吉。]]
[[1937年]][[3月31日]]、[[林内閣|林銑十郎内閣]]は衆議院を解散し(いわゆる「[[食い逃げ解散]]」)、これによって総選挙が行われることとなった。棚橋は長野県第4区<ref>長野県第4区は[[松本市]]・[[東筑摩郡]]・[[西筑摩郡]]・[[南安曇郡]]・[[北安曇郡]]から構成されていた([[明るい選挙推進協会|公明選挙連盟]]編『衆議院議員選挙の実績 第1-30回』(公明選挙連盟、[[1967年]])、p.412)。</ref>から立候補することとし、選挙事務長の百瀬嘉郎(東筑摩郡連合[[青年団]]長、のち[[長野県]][[大日本翼賛壮年団|翼賛壮年団]]本部長)を中心として、代用教員時代の教え子である和田村長の上条海次郎や波田産業組合専務理事の伊藤茂策など、県連合青年団の幹部から上条次郎([[神林村]][[助役]]、農革同盟長野県書記長)や所貞門(のち東筑摩郡翼賛壮年団長)など、更に[[社会大衆党]]<ref>日本大衆党以降、合同や分裂が起こり[[1930年]]に全国大衆党、[[1931年]]に全国労農大衆党を経て[[1933年]]に社会大衆党が成立した。棚橋はこの組織改編に際して全国労農大衆党、社会大衆党と党籍を共にしている(前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)、p.1-2)。</ref>から[[林虎雄]]や山本初吉など、また東京から新人会の喜入虎太郎や[[作家]]の[[葉山嘉樹]]などで選挙組織を構成した<ref>前掲棚橋書、p.329・林虎雄『過ぎて来た道』(甲陽書房、[[1981年]])、p.106-107</ref>。尚、棚橋は当時まだ淡路から移住したばかりであったこともあり、この選挙組織は主に林虎雄が担当していた<ref>前掲林書、p.106</ref>。棚橋陣営は、[[第19回衆議院議員総選挙|第19回総選挙]]時にトップ当選を果たし、[[1936年]]12月に死去した中立候補の畔田明の支持者を全選挙区においてほぼ棚橋支持にすることに成功し、更に東筑摩郡においては社会大衆党長野県支部連合の青年団幹部や代用教員時代の関係者、少年時代の生い立ちの地の人々、南安曇郡においては農民・旧党の関係者の支持がそれぞれ得られたが、一方で北安曇郡での支持は伸び悩んでいた<ref>中島さくら「一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党」([[法政大学]]史学会『法政史学』72号、[[2009年]])、p.52</ref>。当時の新聞で棚橋・喜入・林の三名を「三虎隊」とはやし立て、人気は良かったと林虎雄は回想している<ref>前掲林書、p.107。定まった地盤のない棚橋の人気の背景について中島さくらは「多年の社会運動で売り込んだことや言論戦で奮ったこと」に加えて、「東筑摩郡の青年層に人気のある百瀬嘉郎が選挙事務長になったこと、中学時代の同窓(インテリ層)が支持していたこと、初めての無産政党候補であったこと」を挙げている(前掲中島論考、p.52-53)。</ref>。しかし、棚橋陣営が配布していた立候補挨拶状に印刷された写真の中で棚橋が佐野学や[[幸徳秋水]]と写っている写真があり、棚橋の対抗馬であった[[立憲養正會|立憲養正会]]の[[田中耕]]はこれを棚橋が[[共産主義者]]の証拠だとして逆宣伝した結果、棚橋の支持基盤の一つであった教育界の支持を失い、[[4月30日]]の投票の結果9,669票の次点での落選であった<ref>前掲棚橋書、p.330-331・前掲林書p.107。長野県下では[[1933年]]に教員赤化事件(小学校教員の間に[[日本共産党]]に属する全協支部が組織されたとして、治安維持法該当の嫌疑で81名が送局、29名が起訴収容された事件(前掲棚橋書、p.330)。)があった関係で、以降共産主義への警戒が高かった(前掲棚橋書、p.331)。</ref>。但し、松本市で得票第3位、市域の村である[[島立村]]・和田村では得票第1位という善戦ぶりで注目され、この善戦に対して『[[信濃毎日新聞]]』[[5月2日]]付では社会大衆党の善戦については将来に期待がもてる、と好感をもって迎えられた<ref>松本市編『松本市史 第二巻歴史編Ⅲ近代』(松本市、[[1995年]])、p.756</ref>。選挙落選後、棚橋陣営は買収饗応の嫌疑で5月2日正午までに15名が取り調べを受けたが、林虎雄が留置関係者の釈放を求めるなどして取り調べ終了後に逐次帰宅が許された<ref>前掲中島論考、p.55</ref>。しかし、[[5月4日]]には幹部2名が松本刑務所に強制収容され、更に[[諏訪市]]の林宅に逃れていた棚橋と百瀬も逮捕され、最終的に百瀬ほか6名が公判に付されてそれぞれ禁固刑や懲金刑の判決が下されたが、文書違反程度で解決をみて、百瀬には後に執行猶予となった<ref>前掲中島論考、p.55・前掲林書、p.107</ref>。
 
総選挙で次点となった棚橋は社会大衆党松本支部を結成して、自らの政治基盤の拡大を図った<ref name="hyo226">前掲「年表」、p.226</ref>。更に[[11月29日]]から社会大衆党第6回全国大会で決定となった[[皇軍]]慰問に参加した。この皇軍慰問団は[[満州]]班・[[上海]]班・[[北支]]班に分けられており、棚橋は北支班に参加した<ref>前掲中島論考、p.68。尚、各班の構成は満州班が麻生久・[[田原春次]]の2名、上海班が[[片山哲]]を団長として[[冨吉榮二]]ほか7名、北支班が河上丈太郎を団長として田万清臣・[[河野密]]・[[西尾末広]]・[[浅沼稲次郎]]・棚橋ほか12名であり、それぞれ社会大衆党第6回全国大会で決定された感謝決議文を各司令官に手交すると共に将士を慰問した(中島論考、p.68)。</ref>。[[1938年]][[12月11日]]、社会大衆党県連合大会が開催され、県連合委員長に選出された。党内で着実に中央への進出を進めていた棚橋であったが、[[1939年]]2月に社会大衆党と[[東方会]]の合同に失敗して以降、[[新体制運動]]の中心となっていった社会大衆党は[[1940年]][[7月6日]]に解党し、更に党の中心にいた麻生も[[9月6日]]に死去したこともあって独自で選挙地盤を固めざるを得なくなった。この間、[[1939年]][[6月18日]]に妻の孝子が[[胃癌|胃ガン]]のため死去している<ref name="hyo226"/>。
 
==== 東亜連盟参加から[[翼賛選挙]]出馬断念へ ====
[[1941年]][[3月16日]]、棚橋は[[石原莞爾#東亜連盟|東亜連盟]]の南信支部発足に関与してその発会式では座長を務めた<ref>東亜連盟協会編『東亜連盟』昭和16年5月号、p.97。この発会式は片倉会館で開催され、棚橋のほか平出固(のち松本市会議員、松本市翼賛壮年団副団長兼本部長)・河越利治(社会大衆党員)・井上四郎(のち東亜連盟南信支部長、全国大衆党以来の社会大衆党員)・林虎雄などが参加していた(『東亜連盟』昭和16年5月号、p.97)。尚、林は自伝『過ぎて来た道』の中で東亜連盟参加を否定している(前掲林書、p.118)。</ref>。この発会式において南信支部長には林虎雄が選出されたが、のちに棚橋が支部長に就任した。棚橋の東亜連盟参加は他の旧社会大衆党主流派の人物たちと行動を共にしたもので<ref name="nagai3">長井純市・渡辺穣「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』(法政大学大原社会問題研究所、[[2011年]])所載)、p.3</ref>、南信支部から分かれる形で同年6月には北信支部が、11月に中信支部がそれぞれ発足した<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』)、p.3。尚、北信支部長には高池貞雄を経て竹内競(いずれも社会大衆党員)が、中信支部長には河越利治を経て棚橋が、棚橋転出後の南信支部長には井上四郎がそれぞれ就任している(『東亜連盟』昭和16年8月号、p.1・同昭和16年12月号、p.1・同昭和17年新年号、p.4)。</ref>。各支部は[[1942年]]12月当時で北信支部が28人、中信支部が120人、南信支部が143人の会員を擁し<ref>『戦前における右翼団体の状況 下巻(一)』(公安調査庁、[[1965年]])、p.271</ref>、独自の選挙地盤として形成されていった。棚橋は[[1942年]]に入ると、次期総選挙出馬に向けた動きを活発化させていく<ref name="nagai3"/>。これは、[[衆議院議員任期延長ニ関スル法律]]によって総選挙の実施時期の特定が可能であったからであり、棚橋は上京して推薦制の見通しを探ると共に、[[大政翼賛会]]への「売り込み」と旧社会大衆党員への「顔つなぎ」を行った<ref name="nagai4">前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』)、p.4</ref>。更に東亜連盟本部に赴き、[[木村武雄]]から「立候補の場合は千円補助す」という約束の取り付けに成功し、また原玉重<ref>旧[[立憲民政党|民政党]]衆議院議員で東亜連盟の幹部だった。[[三木武吉]]と主従関係にあった(服部信也・服部昌子編『原玉重八十八年の歩み』原てる、[[1985年]])。</ref>から「翼賛会事務総長[[横山助成]]の手に推薦してある」という連絡があるなど東亜連盟を通しても「売り込み」を展開していた<ref name="nagai4"/>。棚橋は東亜連盟ばかりでなく、大日本党や東亜建設国民同盟長野県支部も通しながら総選挙に向けた動きを本格化させていったが<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』)、p.5-8</ref>、最終的に[[4月1日]]に翼賛政治体制協議会の推薦が受けられないことが決まったことを受けて[[第21回衆議院議員総選挙]]への出馬を断念した<ref>前掲「年表」、p.226。この棚橋の出馬断念は長野県下で話題となった(前掲『松本市史』、p.758)。尚、この総選挙の結果、長野県第4区ではいずれも推薦候補である吉田正・小野祐之・小野秀一が当選した。</ref>。
 
総選挙への出馬断念を決めた直後の[[4月10日]]、棚橋は松本市会議員選挙への出馬を志した<ref>棚橋は松本市会議員を志した背景を次のように日記に記している。{{Quotation|松本市に於ける池上[隆祐]、増田[要次郎]一派に対する対策は、僕が同志を率ゐて断然市会に入る事である。之が彼等に対する一大圧力たる事は言ふ迄も無い。凡ては其上だ。東筑郡部に対しては小松[富登]と其会合団体を作る事だ。之に依て直系の勢力を各村に樹立する事だ。上条[次郎]、百瀬[嘉郎]其一党を浮き上らせる事が目的だ。兎に角、今度の市会選挙が新運動への出発点だ。|棚橋日記昭和17年4月22日条|前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』)、p.12}}池上、増田、上条、百瀬はいずれも翼賛壮年団の中心的人物であり、棚橋の[[第21回衆議院議員総選挙|第21回総選挙]]出馬の際に、棚橋への離反の姿勢を明らかにした。尚、池上は対抗出馬を予定し(推薦が得られずに断念)、上条は小野祐之の選挙事務長となった(前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』)、p.8-9)。</ref>。市会選挙においても推薦制が採用されたが、組織された松本市会議員翼賛選挙協議会に棚橋と親しい丸山恒人([[片倉工業|片倉製糸]]松本工場長)や、松本中学同窓の多田助一郎などが入ったこともあり、[[5月9日]]に棚橋は推薦候補者になった<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和十七年)』)、p.13。尚、棚橋のほかに池上隆祐や増田要次郎、片倉蚕業試験所長の小針喜三郎など異色の新議員が推薦され注目された(前掲『松本市史』、p.766)。</ref>。[[5月24日]]、前日までに非推薦の立候補者が出なかったことから、棚橋は無投票で松本市会議員に当選し<ref>前掲『松本市史』、p.766</ref>、以後松本市会を中心に政治活動を展開していく。松本市会議員として棚橋は、[[1944年]]に大政翼賛会松本支部常務委員筆頭となり、さらに翌[[1945年]]には5月に松本市[[国民義勇隊]]参与、翌月には松本市[[市制#1888年(明治21年)制定の市制|参事会]]員となった<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)、p.2</ref>。
 
=== 松本時代(終戦から死去まで) ===
==== 国政への進出 ====
[[1945年]][[8月15日]]の敗戦を受けて、棚橋は[[9月23日]]に旧社会大衆党員懇談会を開催して選挙態勢の発足を図った<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)、p.9</ref>。[[11月2日]]に[[日本社会党]]が結党し、その結成大会において棚橋は中央執行委員に選出される。更に[[12月5日]]には、社会党松本支部を結成して支部長に、[[12月9日]]には社会党長野県連合会結成大会で執行委員長にそれぞれ就任した。[[12月22日]]には長野県第4区の正式候補者に決定したが<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)、p.10</ref>、[[1947年]]に長野県は特例で[[第22回衆議院議員総選挙#選挙制度|大選挙区連記制]]が採られることになった関係で、新たに清水敬一郎と菅沢津郷が棚橋と共に選挙を戦うことになった<ref>前掲林書、p.134</ref>。[[3月11日]]、棚橋は[[第22回衆議院議員総選挙|総選挙]]への立候補届出を行い、[[4月10日]]の投票の結果得票第7位の62,309票で衆議院議員に初当選を果たした<ref>前掲「年表」、p.226・前掲林書、p.137</ref>。しかし、翌[[1947年]][[3月31日]]に議会は解散し(「[[第23回衆議院議員総選挙|新憲法解散]]」)、更に[[4月6日]]に東亜連盟関与のために[[公職追放]]が確実となり、議員を失職した<ref name="hyo226">前掲「年表」、p.226</ref>。この間、棚橋は初の民選知事を選出する[[長野県知事]]選挙の候補者銓衡に奔走し、本藤恒松(社会党衆議院議員)ほか17名と「鷹の湯会議」を行って林虎雄を知事選の候補者に決定した<ref>前掲林書、p.146-148。同書によると、林は「犠牲候補にされてはたまらない」として断っていたものの、傘木修に説得され立候補することになったと述べている(同書p.145-146)。</ref>。林は4月7日の選挙で当選し、以後三選することになった。[[1948年]]5月22日、公職追放が解除されて[[12月23日]]の「[[馴れ合い解散]]」が起こると、早速立候補した。しかし、[[1949年]][[1月23日]]の投票の結果落選し、これを受けて[[4月14日]]には社会党大会代議員を除かれた<ref name="hyo226"/>。[[12月18日]]、棚橋は県連合大会で参議院候補に推されて[[1950年]][[5月3日]]に[[第2回参議院議員通常選挙]]への立候補(長野選挙区)を表明し、[[6月4日]]の投票の結果205,305票を獲得してトップ当選を果たした<ref>[http://www.senkyo.janjan.jp/election/1950/99/001841/00001841_8530.html 「ザ・選挙」第2回参議院議員選挙長野選挙区](アクセス日:2011年1月9日)</ref>。[[7月11日]]、棚橋は参議院社会党議員副会長に就任した。
 
[[1951年]]10月に開催された社会党大会が開催されると、講和条約をめぐって左右に分裂し、棚橋は[[社会党右派]]に所属した。[[1952年]][[4月15日]]、社会党右派県連結成大会が開催され、翌[[1953年]][[2月22日]]には県連委員長に就任した。更に[[1954年]]1月の党大会では、再度中央執行委員に就任して右派の重鎮としてその姿を示した<ref>前掲「年表」、p.227</ref>。その後、左右は統一されたが棚橋は県連大会委員長を留任され、[[1956年]][[7月8日]]の[[第4回参議院議員通常選挙]]の結果、340,871票で再度トップ当選を果たした<ref>[http://www.senkyo.janjan.jp/election/1956/99/001873/00001873_8654.html 「ザ・選挙」第4回参議院議員選挙長野選挙区](アクセス日:2011年1月9日)</ref>。[[1959年]]9月、社会党が[[西尾末広]]問責問題で紛糾すると、[[10月25日]]に衆議院議員21名・棚橋ほか参議院議員11名と共に社会党を脱党して「社会クラブ」を、[[12月29日]]にこれを改称して「民社クラブ」、翌[[1960年]][[1月24日]]に更に改称して[[民社党|民主社会党]]を結成した。しかし、[[1961年]]5月に心臓に異常を感じ始めたことから引退を考えはじめ、民主社会党県連選対委員会から参院選再出馬の要請があったもののこれを辞退した<ref name="hyo229">前掲「年表」、p.229</ref>。[[1962年]][[5月7日]]、第40国会閉会に際して民主社会党両院議員総会で引退の演説を行い、国政から退いた。
 
==== 国政引退後 ====
議員引退後の[[1965年]]に叙勲を辞退し、翌[[1966年]]8月から自伝の執筆に取りかかった<ref name="hyo229"/>。[[1968年]][[8月4日]]に『自伝(一)』をタイプ印刷で刊行し、[[1969年]][[3月10日]]に尚志社の記念碑「尚志社の跡」のため揮毫を行った([[4月10日]]に除幕式が行われた。)。[[10月1日]]、再度叙勲を辞退した後に翌[[1970年]]に入ると[[心臓発作]]で入退院し、その後各地を旅行した<ref>前掲「年表」、p.230</ref>。[[1973年]][[2月20日]]、[[心筋梗塞]]のため自宅で死去した<ref>前掲「年表」、p.231</ref>。
 
== 棚橋小虎日記 ==
棚橋小虎は松本中学校在学中の[[1902年]][[1月1日]]から日記を書き始め、死去の前日まで書き進められた<ref name="nagai203">前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)p.3</ref>。この日記は、他の棚橋小虎関係文書と共に遺族によって[[法政大学]][[大原社会問題研究所]]に寄贈された<ref name="igarashi">[[五十嵐仁]]「はしがき」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)</ref>。棚橋小虎関係文書は日記69冊をはじめとして、467通もの書簡や46葉もの写真、『自伝』の自筆原稿などで構成されており<ref>[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/own/tanahashi.html 法政大学大原社会問題研究所棚橋小虎関係文書](アクセス日:2011年1月9日)</ref>、「戦中から戦後にかけての庶民の記録としても、社会運動家の記録としても稀有であり、極めて興味深い歴史資料」とされている<ref name="igarashi"/>。[[伊藤隆]]は日記を「社会運動研究のこの上ない貴重な記録」として重要視し<ref>前掲伊藤「解説」、p.353</ref>、日記の複写物を所有していたが、[[2008年]]に[[国立国会図書館]]憲政資料室に移管された<ref>前掲長井・渡辺「解説」(『棚橋小虎日記(昭和二十年)』)、p.12</ref>。棚橋小虎日記の内容は詳細を極めており、几帳面に天候や祝祭日などが書かれ、更に人名もフルネームで表記されていることが多い一方で、自らの直截的な心情や女性関係も赤裸々に記載されている<ref name="nagai203"/>。また、政治活動とは関係のない生活や食事の様相などの記述も多く棚橋日記の特徴とされている<ref name="nagai203"/>。これら棚橋日記は[[長井純市]]が担当する法政大学日本近代史演習の受講生によって翻刻及び内容調査が行われている<ref name="igarashi"/>。尚、翻刻の成果は、[[2009年]]に『棚橋小虎日記(昭和二十年)』として、[[2011年]]に『棚橋小虎日記(昭和十七年)』としてそれぞれ法政大学大原社会問題研究所のワーキング・ペーパーとして刊行され、翻刻作業は続いている<ref>[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/wp/index.html 法政大学大原社会問題研究所ワーキング・ペーパー](アクセス日:2011年1月9日)</ref>。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* 棚橋小虎追悼集刊行会編『追想棚橋小虎』棚橋小虎追悼集刊行会、[[1974年]]
* 坂本令太郎『近代を築いたひとびと 5』信濃路、[[1978年]]
* 深志人物誌編集委員会編『深志人物誌』[[松本深志高等学校]]同窓会、[[1987年]]
* 棚橋小虎『小虎が駆ける』[[毎日新聞社]]、[[1999年]] ISBN 4-620-31414-5
* [[長井純市]]・渡辺穣・2006・2007年度[[法政大学]][[日本近代史]]演習受講生編『棚橋小虎日記(昭和二十年)』法政大学[[大原社会問題研究所]]、[[2009年]]
* 長井純市・渡辺穣・2008・2009・2010年度法政大学日本近代史演習受講生編『棚橋小虎日記(昭和十七年)』法政大学大原社会問題研究所、[[2011年]]
=== 論文 ===
* 中島さくら「一九三七年における棚橋小虎と[[社会大衆党]]」[[法政大学]]史学会『法政史学』72号、[[2009年]]
 
== 関連項目 ==
* [[日本労農党]]
*[[木曜会 (社会主義団体)]]
* [[日本労働組合同盟]]
* [[社会大衆党]]
* [[民社党|民主社会党]]
 
== 関連人物 ==
* [[吉野作造]]:帝大時代の恩師。
* [[麻生久]]、[[山名義鶴]]:三高時代からの活動を共にしてきた社会運動家。
* [[岸井成格]]:棚橋小虎の妻・孝子の叔父にあたる岸井寿郎の三男である。
* [[米谷達也]]、[[米谷匡史]]:棚橋小虎と縁戚関係にある米谷義隆の子。
* [[伊藤隆]]:棚橋小虎日記の複写物を2008年まで保管していた。
* [[長井純市]]:棚橋小虎日記の翻刻作業を指導している。
 
== 外部リンク ==
* [http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/index.html 法政大学大原社会問題研究所HP]
 
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