「第一次ソロモン海戦」の版間の差分
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米軍資料から、対応部分に脚注を追記。豪州哨戒機について追記 |
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== 背景 ==
{{See also|ソロモン諸島の戦い}}
日本海軍軍令部は[[ニューカレドニア]]、[[フィジー]]、[[サモア]]方面への進出作戦である[[FS作戦]]
そして、8月7日早朝に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]約3,000名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸の[[ツラギ島]]に奇襲上陸した。これに対し、ツラギの日本軍守備隊は[[偵察]]部隊の[[飛行艇]]隊であった[[横浜海軍航空隊|横浜空]]要員を含めて僅か400名にしか過ぎず、奇襲を受けた日本軍守備隊は0420(4時20分、以下時間は数字表記)に敵を「空母1隻、[[重巡洋艦|重巡]]4隻を含む20隻以上の[[機動部隊]]を含む上陸部隊」と通報した上で、この海域の警備を担当するために同年7月14日に新設されたばかりの[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]に至急の救援を要請した
ツラギからの緊急電を受けた日本海軍第八艦隊[[司令部]]
しかしここでラバウルにいた第一八戦隊の軽巡「[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]」「[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]」と第二九駆逐隊の駆逐艦「[[夕凪 (駆逐艦)|夕凪]]」の3隻が同行を申し入れてきた。この戦隊は艦齢が古い艦で構成されており、また重巡戦隊に比べて速度も遅く練度も低いため一撃離脱の[[夜戦]]には足手まといになると
集合した兵力は一度も合同訓練を行ったことがな
▲集合した兵力は一度も合同訓練を行ったことがなかったため、出撃前の作戦会議で第八艦隊作戦参謀神大佐はもっとも単純な戦法を取ることとして以下のように作戦の要点をまとめ、各部隊指揮官に説明した。
*'''第一目標は敵[[輸送艦|輸送船]]'''であること
*複雑な運動を避けて'''[[単縦陣]]による一航過の襲撃'''とする
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*ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出する
この作戦計画に沿い、「鳥海」「夕張」「天龍」「夕凪」の4隻は14時30分、ラバウルを出撃した<ref name="鳥海報3">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第3画像</ref>。16時30分頃、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)と合流し、24ノットでガダルカナルを目指した<ref name="鳥海報3"/>。鳥海水雷長は、乗艦していた報道班員の丹波文雄に「とても生還できない戦いだから艦を下りた方が良い」とすすめた<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』123-125頁</ref>。また第八艦隊はガダルカナル、ツラギ奪還のために陸軍第一七軍司令部に陸軍兵力派遣を要請した。だが陸軍は東部ニューギニアのポートモスレビー攻略作戦に向けての準備を進めており、即座の判断が出来なかったため、海軍の申し出を断った<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』118頁</ref>。そこで第八艦隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三および第五特別陸戦隊から兵員590名をかきあつめ、輸送船「明神丸」、「宗谷」、敷設艦「津軽」、「第二一号掃海艇」をもってガダルカナル方面に投入することにした<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』119頁</ref>。
第八艦隊の作戦を聞いた大本営は、あまりにもリスクの高い作戦だとして懸念を表明した<ref>『摑めなかった勝機』103頁</ref>。米艦隊の全貌もわからず、第八艦隊のどの艦もガダルカナル周辺で行動したこともなく、参加艦艇が統一陣形を組んだことすらなかった。だがミッドウェー海戦の敗北で海軍の士気が低下していることを憂慮した山本五十六は、「連合艦隊の命令ではない」ことを明かにした上で、出撃計画を承認した<ref>『摑めなかった勝機』104頁</ref>。
== 戦闘経過 ==
===日本軍の空襲===
第八艦隊の出撃と相前後して、8月7日午前8時頃、ラバウルから敵空母攻撃のために台南空の[[零式艦上戦闘機|零戦]]17機、第二五航戦の陸攻27機、第二航空隊の[[九九式艦上爆撃機|艦爆]]9機が相次いで出撃。11時頃ガダルカナル上空に達したが空母の姿はなく、ツラギ周辺の敵艦船攻撃に移った。しかし、ツラギ上空にはブーゲンビル島監視員からの報告を受けた敵戦闘機約60機が待ち受けており、第一次攻撃隊は駆逐艦一隻を小破させ戦闘機11機、艦爆1機を撃墜したものの
===突撃準備===
進撃していた第八艦隊は一旦ブーゲンビル島東方海面で待機した。米潜水艦「S-38」は第八艦隊を発見し、司令部に「巡洋艦3隻、駆逐艦2隻」発見電報を発信した。この情報は8月8日午前7時38分に連合軍艦隊に届いた<ref>『摑めなかった勝機』22頁</ref>。この時点で第八艦隊は敵状をおおむね戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦9隻、輸送船15隻と判断し<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』133頁及び軍艦鳥海・軍艦加古戦闘詳報。</ref>していた。8月8日早朝、敵空母の位置を探るべく艦載[[水上機#第2次世界大戦中|水偵]]により索敵を開始した<ref name="鳥海報3"/>。午前9時ごろ豪州双発哨戒爆撃機[[ハドソン (航空機)|ロッキード・ハドソン]](第32飛行隊ビル・シュタッツ軍曹)に発見された。敵味方識別信号をおくった哨戒機に対して第八艦隊は対空砲火で返答し<ref>『摑めなかった勝機』10頁</ref>、北方に偽装針路をとった。シュタット機は、日本軍水上機が艦に収容されるのを見て「巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、水上機母艦または砲艦2隻を含む8隻の艦隊」と誤認する<ref>『摑めなかった勝機』15頁</ref>。この機は、水上偵察機を零戦を水上機に改造した[[二式水上戦闘機]]と誤認して退避していった。この時、「鳥海」は豪哨戒機が発した無線を傍受したと報告した<ref name="鳥海報4">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第4画像</ref>。シュタッツも電報を平文で繰り返したと証言しているが<ref>『摑めなかった勝機』17頁</ref>、この電報は連合軍に共有されなかった。第八艦隊を発見したのはシュタッツ機だけではなく、米軍マーブ・ウィルマン中尉のハドソン機も発見している<ref>『摑めなかった勝機』18頁</ref>。ウィルマンは「重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、小型艦1隻」を報告した<ref name="摑め21">『摑めなかった勝機』21頁</ref>。ウィルマン機は搭載爆弾で鳥海を攻撃したが、命中しなかった<ref>『摑めなかった勝機』110頁</ref>。さらに三番目のロイド・ミルン大尉機も第八艦隊を発見した。シュタッツ機は緊急報告のために帰路につき、途中ガダルカナル島砲撃に向かう日本軍潜水艦[[呂三三型潜水艦]]と[[伊号第一二一潜水艦]]を発見。司令塔の「日の丸」を確認して爆撃を行ったが、全く損害を与えられなかった<ref>『摑めなかった勝機』19頁</ref>。シュタッツ機は12時55分にミルン基地に帰投し、紅茶も飲まず<ref>『摑めなかった勝機』20頁</ref>直ちに第八艦隊発見を報告した。3機の哨戒機から報告を受けたターナー少将は、シュタッツ機とウィルマン機の報告を比較して水上機母艦2隻が消えていることから、第八艦隊は水上機母艦を分離してラバウルに向かうものと判断した<ref name="摑め21"/>。なお、モリソンでは帰還したシュタッツが紅茶の飲んでのんびりしていたと記述するが、実際には緊急報告が行われ<ref>『摑めなかった勝機』345頁</ref>、さらに彼は紅茶が嫌いだった<ref>『摑めなかった勝機』20頁</ref>。
連合軍哨戒機が去った海で、第八艦隊は水偵部隊を回収したが、「加古」から発進した[[零式水上偵察機]]が未帰還となった<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第6画像</ref>。三川は偵察機の報告から250浬圏内に敵機動部隊が見つからなかったため空襲を受けることはないと判断。午前11時ごろブーゲンビル水道に向かって進撃を開始し、13時30分過ぎに水道を無事通過すると中央航路に突入して行った<ref name="鳥海報4"/>。この際、「鳥海」は[[九四式水上偵察機]]2機を対潜水艦警戒のため発進させ、ショートランド基地に向かわせている<ref name="鳥海報4"/>。15時20分、艦隊は水平線上に煤煙を発見して針路を変えるが、これは当時の日本艦艇としては珍しく迷彩を施した水上機母艦「秋津洲」だった。第八艦隊は敵味方の区別がつかず緊張したが、「秋津洲」の方も第八艦隊を敵艦隊と思い覚悟をきめたという<ref>生出寿『ライオン艦長 黛治夫<small>ある型破り指揮官の生涯</small>』47頁。[[黛治夫]]は当時の秋津洲艦長。</ref>。両者は16時30分頃にすれ違った。この時点で第八艦隊司令部は第二五航戦の「重巡1隻火災、軽巡2隻撃沈、駆逐艦2隻撃沈、輸送船10隻撃沈。輸送船1隻火災」という誤報戦果を受取った<ref name="鳥海報5">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第5画像</ref>。さらに米空母の所在が不明なこと、米輸送船団がガダルカナル島沖にいるという情報を得た<ref name="鳥海報5">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第4画像</ref>。そこで夜戦に関する詳細な戦闘要領を以下のように決定、各艦に通達した<ref name="鳥海報5"/>。
*サボ島南側から突入しルンガ沖の主敵を雷撃後、ツラギ沖の敵を砲雷撃した後、サボ島北側から離脱する。
*突入は一航過とし、出来る限り速やかに空襲圏外に離脱する。突入時刻はを2330以前とし、'''翌日出時(0440)にはサボ島の120浬圏外に避退する。'''
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*右舷側への雷撃が多いと思われるので予備魚雷は全て右舷側に移すこと。
これらを伝え終えたうえで、日没後(16時30分)三川長官は以下のように戦闘前訓辞を発する。
{{quotation|帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニオイテ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着ヨクソノ全力ヲツクスベシ}}
日本海軍第八艦隊は、
泊地突入を行なった艦艇は以下の通りである。
* [[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]] 司令長官:[[三川軍一|三川軍一中将]]
** [[重巡洋艦]]:[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]
* 第六戦隊 司令官:[[五藤存知|五藤存知少将]]
** 重巡洋艦:[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]
* 第一八戦隊 司令官:[[松山光治|松山光治少将]]
** [[軽巡洋艦]]:[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]
* 第二九駆逐隊
** [[駆逐艦]]:[[夕凪 (駆逐艦)|夕凪]]
===アメリカ軍の動向===
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** 哨戒隊:駆逐艦「ラルフ・タルボット(米)」「ブルー(米)」サボ島南北水道外側に一隻ずつ前程哨戒配備。
戦力は圧倒的に上回ってはいたが、夜を徹して行なわれている物資揚陸作業と、日中の空襲により36時間にわたって戦闘配置が続けられており乗員の疲労は厳しいものがあった<ref>『摑めなかった勝機』25頁</ref>。また、8日午前中にブーゲンビル島近海で哨戒機3機が発見した日本艦隊
連合軍指揮官達は、第八艦隊を迎撃するために米・豪州艦隊を派遣する案を早々に放棄した<ref name="摑め29">『摑めなかった勝機』29頁</ref>。輸送船団が丸裸になるからである。更にターナー司令官は上述の偵察機の情報より日本艦隊はガダルカナル島ではなく水上機基地建設のため[[イザベル島]]に向かっていると判断しており、万が一日本艦隊が突入してきても護衛部隊で撃退できるであろうと楽観していたた
===泊地突入===
[[Image:SavoJapaneseChart1.jpg|250px|thumb|日本海軍艦隊の侵入路]]
この日の月出は日付変更後0159で、夜戦当夜は暗闇だった<ref name="鳥海報9"/>。2220、「鳥海」偵察機がサボ島南に軽巡洋艦3隻確認と報告<ref name="鳥海報6"/>。「鳥海」偵察機はガダルカナル泊地に輸送船20隻<ref>「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第13画像</ref>、「加古」偵察機はツラギ泊地に輸送船10隻を確認したが<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第22画像</ref>、母艦に確認したかは不明。2240、第八艦隊はサボ島南方水道に突入を始めた。2243、旗艦「鳥海」見張員が右舷側距離9000mに敵艦を発見、直ちに三川長官が「戦闘」を下令。この発見した敵艦は連合軍哨戒隊の駆逐艦「ブルー」であった。しかし、「ブルー」は島影による電波の乱反射により装備していた旧式のレーダー
サボ島南方に到達した2331、三川長官により「全軍突撃せよ」が下令され全艦一斉に襲撃運動に入った<ref name="鳥海報7">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第7画像</ref>。この下令直後、「鳥海」の見張員が左舷約15,000mに駆逐艦「ジャービス」を発見(鳥海はアキリーズ型軽巡洋艦と誤認<ref name="鳥海報7"/>)。4,500mまで接近した後「鳥海」は魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。古鷹も魚雷4発を発射し、同じく命中しなかった<ref>『摑めなかった勝機』136頁</ref>。この発射直後に今度は右舷方向に巡洋艦2隻を発見。2343、水偵に命じて吊光弾による背景照明を行なわせた<ref name="鳥海報8">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第8画像</ref>。そして先頭艦の豪重巡「キャンベラ」に向けて2347、距離3,700mで魚雷を4本発射。2本の命中を確認後(轟沈と誤認<ref name="鳥海報8"/>)、主砲10門による射撃を開始し多数を命中させた。後続の重巡4隻も「キャンベラ」と米重巡「シカゴ」、これらに随伴していた米駆逐艦「パターソン」に向けて砲雷撃を開始していた。日本艦隊は主砲に加えて高角砲と25㎜機銃の水平射撃を行い<ref>「軍艦加古戦闘詳報」第8画像</ref>、「キャンベラ」と「シカゴ」を圧倒した。
一方で米軍は「パターソン」が接近する第八艦隊を発見、直ちに警報を全軍に送るとともに照明弾を打ち上げ主砲により応戦を開始したが、間もなく
「キャンベラ」は「パターソン」の警報により即座に「総員戦闘配置」が下令されたが、この配置が完了する前に「鳥海」が放った魚雷2本が命中。息つく暇もなく20センチ砲弾を雨霰と浴びせられ、僅か3分間で2本の魚雷と28発の20センチ砲弾を浴びて航行不能に陥った。搭載航空機も炎上した<ref>『摑めなかった勝機』159頁</ref>。艦長は致命傷を負い、治療を断って部下の救助を優先させた<ref>『摑めなかった勝機』152頁</ref>。「シカゴ」も警報と同時に対応を始め、少なくとも2本の魚雷を回避し、艦首と右舷に照明弾を発射した<ref>『摑めなかった勝機』162頁</ref>。さらに探照灯照射を行ったところ、左舷艦首に魚雷1本が命中。直径5mの大穴が空いて浸水が始まると続いて砲撃を浴びせられ、艦上構造物が破壊されていった。別の魚雷一発が右舷に命中したが、これは不発だった<ref>『摑めなかった勝機』164頁</ref>。シカゴは25ktを発揮してスコールの中に逃げ込んだ<ref>『摑めなかった勝機』166頁</ref>。
随伴の米駆逐艦「バッグレイ」は敵発見と同時に左急回頭を行い戦闘配置についたが、日本軍からの砲撃はなく、また行なった砲雷撃は「夕張」に命中した一発の盲弾を除いて外れたため完全に戦闘の蚊帳の外であった。▼
▲随伴の米駆逐艦「バッグレイ」は敵発見と同時に左急回頭を行い戦闘配置についた
こうして連合軍南方部隊は壊滅し、第八艦隊はツラギ港外に向かった。「パターソン」が第八艦隊を発見してから戦闘が終了するまでの間僅か6分、第八艦隊は「夕張」が一発被弾した以外全く被弾せず一方的な攻撃に終始した。ただ、駆逐艦「夕凪」が電源故障により自艦位置不明となり戦闘海域から離脱し、「天龍」の[[羅針儀]]が振動で故障して自艦針路不明となり、また「古鷹」が「キャンベラ」との衝突を避けるために変針し、これに従った「天龍」「夕張」と共に「鳥海」等とは別行動をとることになった。二手に分かれて北上した第八艦隊であったが、これが後に思いもかけない効果を生む。▼
▲こうして連合軍南方部隊は壊滅し、第八艦隊はツラギ港外に向かった。「パターソン」が第八艦隊を発見してから戦闘が終了するまでの間僅か6分、第八艦隊は「天龍」と「夕張」が
「鳥海」は「キャンベラ」に対して雷撃を終えた直後、艦首左方向に全く別の敵部隊がいるのを発見。これに対して探照灯を照射して敵部隊の全貌を明らかにするとともに味方に対して注意を促し、突撃に移った。新たに現れたこの部隊は米重巡「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐率いる連合軍北方部隊であった。リーフコールはこの頃既に当直士官に艦橋を任せて仮眠に入っており、第八艦隊と南方部隊の戦闘の砲火を見た「ヴィンセンス」見張員の報告によって叩き起こされた。自分の眼でその砲火を確かめたが先述した統一指揮権の問題により南方部隊の状況が全く不明であったため、それを南方部隊によるガ島への艦砲射撃か、侵入してきた少数の日本駆逐艦と南方部隊の戦闘であろうと思い、状況の整理がついた時点で戦闘参加すべく準備を始めようとしていた。そこへ突然左舷後方から3本の探照灯により照射されたため、彼は味方が混乱して自艦隊を照射したのだろうと思い、信号手に直ちに後方の照射艦に対し「照射を止めよ、われ味方なり」と通報するように命じ、20ノットに増速して一旦態勢を立て直してから南方部隊の増援に赴こうとしていた。彼にとって誤算だったのは、後方から接近していたのは第八艦隊主力の重巡4隻だったことである。▼
▲「鳥海」は「キャンベラ」に対して雷撃を終えた直後、艦首左方向に全く別の敵部隊がいるのを発見。これに対して探照灯を照射して敵部隊の全貌を明らかにするとともに味方に対して注意を促し、突撃に移った<ref name="鳥海報8"/>。新たに現れたこの部隊は米重巡「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐率いる連合軍北方部隊であった。「ヴィンセンス」は南方部隊と違って、砲撃準備を整えていた<ref>『摑めなかった勝機』177頁</ref>。リーフコールは
2353、「鳥海」はまず一番近い北方部隊3番艦の米重巡「アストリア」(鳥海はサンフランシスコ型と誤認<ref name="鳥海報8"/>)に対し距離5000mで主砲を斉射、すぐに命中弾を得た<ref name="鳥海報8"/>。また、後続の各艦も次々と「アストリア」に対して砲撃を加え、完全に機先を制された「アストリア」は一方的に攻撃を受けた。アストリアは「鳥海」に向けて二斉射を放ったが、艦長は友軍艦を射撃していると考え、射撃をやめさせた<ref>『摑めなかった勝機』229頁</ref>。友軍艦の正体に気付いた時は既に遅く、「アストリア」は多数の20cm砲弾を被弾した。「衣笠」に対して射撃した砲弾が「鳥海」の一番砲塔を破壊したが、それ以上の戦果を出すことはなく、翌朝転覆沈没した。「アストリア」に対して有効な打撃を与えたと判断した「鳥海」は2番艦米重巡「クインシー」に対して砲撃を開始する。3斉射目で「クインシー」は艦中央部の艦載機に直撃弾を受けこれが炎上。格好の標的となった。これが8月9日0004頃の出来事である<ref name="鳥海報9">「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第9画像</ref>。多数の命中弾を浴び、炎上していたところに先の南方部隊との戦闘で分離した「古鷹」以下3隻が左舷方向から突入してきた。「古鷹」隊は「鳥海」が照射した敵艦隊を認めて突入して来たのである。北方部隊は右舷側から「鳥海」隊に、左舷側から「古鷹」隊に挟撃される形となってしまった。
「古鷹」隊は火災を起こしていた「アストリア」に対して砲撃を浴びせると「クインシー」に対して砲雷撃を開始。この放った魚雷が「クインシー」左舷に命中。「クインシー」は被弾しつつも「鳥海」目掛けて砲撃をしながら突撃したが、艦載機が炎上し、これが好目標となって砲弾が集中し、翌9日0035、左に転覆、沈没した。残った一番艦「ヴィンセンス」は第八艦隊の砲撃を浴び、やはり艦載機が炎上。集中砲火を浴びたため面舵反転。「衣笠」を砲撃し、これを撃沈したと信じた<ref name="摑め187">『摑めなかった勝機』187頁</ref>。「衣笠」は操舵装置に損害を受け、主機械での操舵を余儀なくされた<ref name="摑め187"/>。直後、「鳥海」隊から発射された魚雷が3本左舷に立て続けに命中、さらに「夕張」が発射した魚雷のうち1本が命中し翌9日0003、航行不能に陥った。この後も更に砲撃を浴び、「青葉」の発射した20cm砲弾が艦橋と艦首脳を吹き飛ばした<ref>『摑めなかった勝機』215頁</ref>。0050、転覆沈没した。日本軍ではこの間に重巡「衣笠」がツラギ港外の輸送船団目掛けて長距離調定した魚雷4本を発射したがこれは命中しなかった。さらに0005分には鳥海の一番砲塔が「アストリア」の主砲弾直撃で破壊され<ref>『摑めなかった勝機』241頁</ref>、後部艦橋には「クインシー」の主砲弾が命中<ref>『摑めなかった勝機』214頁</ref><ref name="鳥海報9"/>。青葉でも小火災が発生した。また、北方部隊随伴の「ヘルム」「ウィルソン」はいち早く南方部隊の応援に駆けつけるべく航行していた所、日本艦隊と高速ですれ違った。あわてて反転してこれを追うも間に合わず、両艦とも無傷であったものの戦闘に殆ど参加できなかった。
8月9日0012、「鳥海」は主砲38斉射302発、高角砲120発、魚雷8本の発射を記録して<ref>「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第15画像</ref>射撃を中止した<ref name="鳥海報9"/>。0023、三川長官は戦闘終了と判断、「全軍引け」の命令を下す。バラバラになっていた各艦は単縦陣を作り直し、サボ島北方の集結地点に移動し始めた。軽巡「天龍」と「夕張」も集結すべく航行していたが、そこへ哨戒隊の一艦、米駆逐艦「ラルフ・タルボット」が出現した。同艦は米駆逐艦「ウィルソン」から逃れるために隊内無線通話で「友軍から砲撃されている」と放送していた<ref>『摑めなかった勝機』251頁</ref>。「天龍」と「夕張」は直ちに「ラルフ・タルボット」に対して探照灯射撃を開始<ref name="摑め253">『摑めなかった勝機』253頁</ref>。砲撃を受けた「ラルフ・タルボット」は[[利根型重巡洋艦]]から砲撃されているとし、即座に魚雷4本を発射した<ref name="摑め253"/>。だが軽巡洋艦2隻には勝てなかった。「ラルフ・タルボット」は立て続けに命中弾を浴び、主砲塔は8発を撃った時点で破壊され、魚雷発射管、海図室、アイスクリームを積んだ食糧庫も吹き飛んで操舵不能・傾斜20度となった。幸運なことにスコールに包まれたため、よろめきながら離脱することが出来た。
===艦隊反転せず===
海戦は日本軍の大勝利に終わり初期に離脱した「夕凪」も含めてサボ島北方で集結した第八艦隊では、一つの議論が「鳥海」の艦隊司令部で起きていた。
===「加古」撃沈===
第八艦隊はソロモン中央水道を30ノットの高速で避退し、夜明けまでに無事攻撃圏外に達した。9日0800、三川長官は同隊の解列を命じ、第六戦隊の重巡4隻は[[ニューアイルランド島]]西端の[[カビエン]]へ、「夕張」と「夕凪」はショートランド泊地へ、そして「鳥海」「天龍」はラバウル泊地へ各々分離して向かった。10日朝、第六戦隊はカビエンまで残り100浬のニューアイルランド島北方海域を航行していた。上空には
7時10分、16ノットで航行していた重巡「加古」の見張り員が「右
== 結果と影響 ==
{{multiple image
[[画像:Damaged HMS Canberra-Savo Island-9Jun42.jpg|250px|left|thumb|炎上するキャンベラの救出、護衛をするブルー、パターソン]]▼
| align = left
本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した。しかし、本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。日本軍が大戦果に沸き返っている頃、米軍は、膨大な軍需品のガダルカナル揚陸に成功し、飛行場および橋頭堡が強化された。まもなく敵飛行部隊が進出。米軍は、この基地をカクタス基地、飛行場はヘンダーソン飛行場と名づけた。日本軍のガダルカナル作戦失敗の最大原因である。こういった見地から、この海戦は日本側の戦術的勝利、戦略的敗北となり、後の一連のソロモンの戦い([[第二次ソロモン海戦]]、[[第三次ソロモン海戦]])に大きな影響を与えることとなる。急遽ガダルカナル奪回作戦に当てられた陸軍第17軍参謀長[[二見秋三郎]]少将は、「みかんを取りにいって、実を残して皮だけ取って帰ったか」と嘆いた。▼
| direction =vertical
| width = 200
| image1 = USS Quincy CA-39 savo.jpg
| caption1 = 探照灯を照射されるクインシー
| image2 = Damaged HMS Canberra-Savo Island-9Jun42.jpg
▲
| image3 = SavoIslandCanberraSinking.jpg
| caption3 = 沈没するキャンベラ
}}
本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した<ref>『摑めなかった勝機』337頁</ref>。第八艦隊は「重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻撃沈。軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻撃破」を主張した<ref>生出寿『ライオン艦長 黛治夫』50-51頁</ref>。これを受けた大本営は、第二五航戦があげた誤認戦果をあわせ、「戦艦1隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、輸送船10隻撃沈。重巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船1隻撃破。戦闘機32機、爆撃機9機撃墜。航空機7機喪失、巡洋艦2隻損傷」と発表した。そして今海戦を「第一次ソロモン海戦」と発表する<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』180頁</ref>。
この、今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性のあった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れより、早期退避の必要があったという有力な見方がある。一方、[[海軍反省会]]では、[[海軍兵学校]]での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。また、当時の[[永野修身]]軍令部総長が第八艦隊司令長官三川中将に対して「無理な注文かもしれんが日本は工業力が少ないから、極力艦を毀(こわ)さないようにして貰いたい」という注意を与えていたことが早期退避の決定に影響を与えたという説もある。艦隊参謀であった大前敏一の戦後の証言によると「米空母部隊の無線交信が『鳥海』でも盛んに聞こえていたことが敵空母が近距離に存在していると判断する材料になり、早期撤退の結論に達した」ということであるが、敵機動部隊は南方洋上遠くにあり、戦闘圏内にはいなかった。▼
実際の戦果は、豪重巡洋艦「キャンベラ」、米重巡洋艦「アストリア」、「クインシー」、「ビンセンス」を撃沈し、重巡洋艦「シカゴ」、駆逐艦「ラルフ・タルボット」、「パターソン」が大破というものだった<ref>『摑めなかった勝機』289頁</ref>。また翌日、駆逐艦「ジャービス」(戦死247)がターナーの命令に背いて独自に戦場を離脱し、第二五航空戦隊に撃沈された<ref>『摑めなかった勝機』288頁</ref>。米軍は、この艦も第一ソロモン海戦の被害に加えている。連合軍艦隊は471発を発射して最低10発が命中した<ref>『摑めなかった勝機』291頁</ref>。
また、この海戦勝利の影で夜戦での探照灯による照射砲撃が持つ危険性(照射艦が敵艦隊から集中砲撃を浴びる)というものが戦訓として考慮されなかった。重巡「鳥海」は小破で済んではいるが、20センチ砲弾6発、12.7センチ砲弾4発を被弾しており、この頃の連合軍の砲弾の信管が粗悪で正常作動しなかったことと、鳥海の主砲塔が無装甲であったことでたまたま命中した砲弾が全て盲弾となって艦上で爆発せず、損傷が軽微で済んだだけの話であり、第3砲塔を貫通、砲員を全滅させた砲弾がもし炸裂していたら艦橋にいた司令部などは無事ではすまなかったであろうし、最悪の場合爆沈もありえた。もし作戦室を貫通した砲弾が炸裂していたら壁一枚隔てて艦橋内にいた司令部メンバーはほぼ全員戦死していたであろうといわれている。実際、これらの盲弾の命中だけで、艦は小破で済んでいるにもかかわらず鳥海だけで戦死34名、重軽傷48名という人的損害を出している。▼
日本側の損害は、「鳥海」が一番砲塔と後部艦橋を破壊された。「青葉」は魚雷発射管が原因不明の故障を起こし、「風のため」に数箇所で火災が発生した。「加古」と「古鷹」については、被害報告はなかった。なお古鷹の[[戦闘詳報]]は戦後米国におくられ、返還されなかった<ref>『摑めなかった勝機』340頁</ref>。「衣笠」は左舷舵取機室が故障し、第一機械室に火災が発生した。「天龍」と「夕張」の被害は最小だった。第八艦隊は1844発を発射し、159~223発を命中させた<ref>『摑めなかった勝機』290頁</ref>。
とはいえ、連合軍側でも弾薬の問題は気付いており、米重巡「シカゴ」が戦闘時に発射した照明弾は44発発射して僅か6発しか炸裂せず、また8日の航空攻撃で損傷、放棄された輸送船「ジョージ・F・エリオット」を処分するために米駆逐艦から発射された魚雷4本は全弾命中したにもかかわらず、炸裂したのは僅か一発であった。この弾薬問題はこの後も暫く米軍を悩ませるが、根本的な対策を取ったため一年もするとこの問題を解決して以後問題は起きなくなったという。▼
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日本軍ではミッドウェーの大敗北で士気が下がっていたところにこの大勝利があり大いに士気が上がったという。この作戦立案をした神重徳大佐は「作戦の神様」として祭り上げられることとなり、後々の彼の立てた無謀な作戦も比較的容易に採用されるようになる。▼
陸軍では、{{要出典範囲|date=2011年2月|急遽ガダルカナル奪回作戦に当てられた陸軍第一七軍参謀長[[二見秋三郎]]少将は、「みかんを取りにいって、実を残して皮だけ取って帰ったか」と嘆いたという}}。二見の日記には、第八艦隊が空母を恐れて退避した事への不満と、ポートモスレビーの占領を急がねばならないという決意が書かれている<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』350頁</ref>。海軍では敵輸送船を結果として殲滅出来なかった(最終目的を果たさなかった)事に、当時[[大和型戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」に乗艦してトラックに赴いていた連合艦隊司令長官の山本五十六は激怒。後に海戦の功績明細書が八艦隊より提出された際、「こんなものに勲章をやれるか」とその報告書を握り潰そうとしたが、連合艦隊参謀の説得を受け功績を認めたという<ref>吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』133頁</ref>。ただし、山本五十六は8月7日の三川が提出した第八艦隊の夜間強襲作戦に消極的であり、打って変わったような対応となった<ref name="摑め364"/>。
一方で米軍はこの敗北に対してヘプバーン委員会として知られる米海軍の本海戦に関する公式の調査委員会が組織され、引き続いて海戦に関する報告書を作成した。委員会は1942年12月以降海戦に関わった殆どの連合軍将校から数ヶ月かけて事情聴取を行った。委員会は、唯一シカゴのボード艦長のみ懲戒処分にあたると勧告した。報告は他の連合軍将校達、すなわちフレッチャー、ターナー、マッケーン、クラッチレーの各提督とリーフコール艦長については処分を求めなかった。ターナー、クラッチレー、マッケーンの各提督の以後の経歴は本海戦の敗北や、その中での失策によって影響されなかった。しかしながらリーフコールは二度と艦長になることはなかった。ボードは、委員会の報告がとりわけ彼に対して批判的であると知ると、1943年4月19日にパナマ運河地帯にある基地で自殺を図り、翌日死亡した。▼
今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性があった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れより、早期退避の必要があったという有力な見方がある。「鳥海」の戦闘報告書は「小成に甘んじてしまった」と評している<ref>「軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(1)」第20画像</ref>。[[海軍反省会]]では、[[海軍兵学校]]での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。日本海軍は「艦隊決戦主義」を標方しており、輸送船破壊等の通商破壊活動を全く考慮しないという風土があった。その為、山本が指示した輸送船殲滅という目的の本質を八艦隊の幕僚は理解しておらず、山本自身も、輸送船破壊の目的と意図を八艦隊に説明しなかった為、結果として敵戦闘艦の殲滅だけで目的を達成したと八艦隊は勘違いしたという事である。
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▲また、この海戦勝利の影で夜戦での探照灯による照射砲撃が持つ危険性(照射艦が敵艦隊から集中砲撃を浴びる)というものが戦訓として考慮されなかった。重巡「鳥海」は小破で済んではいるが、20センチ砲弾6発(1番砲塔、艦橋3、煙突上部、マスト)、12.7センチ砲弾4発を被弾して
さらに青葉では、第二次戦闘中に機銃弾が魚雷に命中し、火災が発生した<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』150頁</ref>。杉浦一等水兵の決死消火作業により火災は収まったが、轟沈の可能性もあった<ref>亀井宏『ガダルカナル戦記 第一巻』151頁</ref>。青葉の戦闘詳報は、この事について触れていない。
▲この海戦での鳥海の損傷が味方の大勝に隠れて軽視され、また連合軍の弾薬が粗悪なのを連合軍に気づかせぬ為にこの損傷結果を三川長官が緘口令を敷いて極秘にした結果が、第3次ソロモン海海戦での戦艦「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」喪失に結びつくこととなった。とはいえ、連合軍側でも弾薬の問題は気付いており、米重巡「シカゴ」が戦闘時に発射した照明弾は44発発射して僅か6発しか炸裂せず、また8日の航空攻撃で損傷、放棄された輸送船「ジョージ・F・エリオット」を処分するために米駆逐艦から発射された魚雷4本は全弾命中したにもかかわらず、炸裂したのは僅か一発であった。{{要出典範囲|date=2011年2月|この弾薬問題はこの後も暫く米軍を悩ませるが、根本的な対策を取ったため一年もするとこの問題を解決して、以後問題は起きなくなったという。}}
▲日本軍ではミッドウェーの大敗北で士気が下がっていたところにこの大勝利があり大いに士気が上がったという。この作戦立案をした神重徳大佐は「作戦の神様」として祭り上げられることとなり、後々の彼の立てた無謀な作戦も比較的容易に採用されるようになる。一方、日本軍航空隊で顕著だった戦果誤認問題は尾をひいた。輸送船1隻、駆逐艦2隻大破の戦果に「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」と報告した日本軍航空隊の認識力は、[[台湾沖航空戦]]が[[レイテ沖海戦]]に繋がったように、日本軍の作戦そのものに影響を与え続けた。
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戦術的に完敗した米軍は苦渋に満ちており、戦後、太平洋戦史を纏めたS.E.モリソンは以下のようにこの海戦を纏めている
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** 重巡:加古
* 小破
** 重巡:鳥海(戦死34、負傷48)、青葉(戦死1、負傷1)、衣笠
=== 連合軍 ===
* 沈没喪失
** 重巡:[[キャンベラ (ケント級重巡洋艦)|キャンベラ]] (''HMAS Canberra, D33'')(戦死84、負傷109)、[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]] (''USS Vincennes, CA-44'')(戦死332、負傷258)、[[クインシー (CA-39)|クインシー]] (''USS Quincy, CA-39'')(死者370、負傷167)、[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]] (''Astoria, CA-34'')(戦死216、負傷186)
* 大破
** 重巡:[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]] (''USS Chicago, CA-29'')
** 駆逐艦:ラルフ・タルボット(戦死16、負傷23)
* 中破
** 駆逐艦:パターソン(戦死8、負傷11)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考書籍 ==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
*[[丹羽文雄]]『海戦』(中公文庫、ISBN 978-4-12-203698-7) 従軍記者として「鳥海」に同乗した丹羽が、作戦準備と戦闘の模様を活写している。▼
**Ref.C08030747300「昭和17年8月8日~昭和17年8月9日 軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(ツラギ海峡夜戦)(1)」
**Ref.C08030747400「昭和17年8月8日~昭和17年8月9日 軍艦鳥海第1次ソロモン海戦戦闘詳報(ツラギ海峡夜戦)(2)」
**Ref.C08030571500「昭和17年8月7日~昭和17年8月10日 軍艦加古戦闘詳報」
*佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』ISBN 4-06-203742-4
*雑誌「丸」編集部編『写真集・日本の重巡<small>「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て</small>』(光人社、1972)146-149頁。掛札健次「鳥海」見張員
*亀井宏『ガダルカナル戦記 <small>第一巻</small>』(光人社、1994)<br> 鳥海砲術長、鳥海水雷長、青葉主砲発令所勤務兵、青葉電報伝令兵、丹波文雄の証言がおさめられている。
*デニス・ウォーナー/ペギー・ウォーナー著 妹尾作太男翻訳『摑めなかった勝機 <small>サボ島海戦50年目の雪辱</small>』(光人社、1994)<br> 米軍側から見た本海戦。第八艦隊参加者の証言の他、海外公文書館の資料も列挙。
*高橋雄次『鉄底海峡<small>重巡「加古」艦長回想記</small>』(光人社、1994)
*[[吉田俊雄]]『四人の連合艦隊司令長官』(文春文庫、1995)
*諏訪繁治『わが重巡「鳥海」奮戦す』(光人社、2006)第一次ソロモン海戦参加。
== 関連項目 ==
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* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ海軍]]
[[Category:1942年]]
[[Category:太平洋戦争の海戦]]
{{Link FA|en}}
{{Link FA|zh}}
{{Link GA|sr}}
[[cs:Bitva u ostrova Savo]]
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