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| 氏名 = アンリ・フネ
| 各国語表記 = Henri Joseph Fenet
| 生年月日 =
| 没年月日 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 渾名 =
| 生誕地 = {{flagicon|France}} [[フランス共和国]][[アン県]][[セーゼリア]]
| 死没地 = {{flagicon|France}} [[フランス共和国]][[パリ]]
| 所属政体 = {{flagicon|France}} [[フランス第三共和政]]<br />{{flagicon|France}} [[ヴィシー政権]]<br />{{flagicon|DEU1935}} [[ナチス・ドイツ]]<br />
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[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|23px]] [[武装親衛隊]](1943年 - 1945年)
| 軍歴 = 1939年 - 1945年
| 最終階級 = [[親衛隊大尉|
| 部隊 = [[第8フランスSS義勇突撃旅団]](1943年 - 1944年)<br />[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](1944年 - 1945年)<br />[[フランスSS突撃大隊]]
| 戦闘 = [[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス防衛戦]](1940年)<br />'''[[独ソ戦]]'''<br />[[ガリ
| 戦功 =
| 賞罰 = [[騎士鉄十字章]]
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| 廟 =
}}
'''アンリ・ジョゼフ・フネ'''('''Henri Joseph Fenet''', [[
== 武装親衛隊入隊までの経歴 ==
[[1919年]][[6月11日]]、アンリ・フネは[[フランス共和国]][[アン県]][[セーゼリア]]([[:fr:Ceyzériat|Ceyzériat]])に生まれた。[[第二次世界大戦]]が勃発した時には[[パリ第4大学]](Paris University of Henry IV)の[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]文科受験準備学級の学生であったが、ためらうことなく[[フランス軍]]に入隊した(軍務に就くことによって学業を放棄したが後悔は無かった)。1ヶ月後、[[サン・シール陸軍士官学校]]入学後にフネは[[士官候補生]]となり、第3植民地歩兵師団(3e division d'infanterie coloniale)対戦車中隊に配属された。
[[1940年]][[5月]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス防衛戦]]で[[ドイツ軍]]と激戦を繰り広げた際、フネは2度負傷し、その勇敢さを讃えられて戦功十字章([[:fr:Croix de guerre 1939-1945|Croix de Guerre]])を獲得した。
フランス敗戦後、フネは敗北の責任がある腐敗した政治家と耄碌した将軍たちに屈辱と怒りの感情を抱き、[[イギリス]]に渡ろうかと一時考えた。しかし、[[フィリップ・ペタン|ペタン]]の言に心を動かされたフネは[[ヴィシー政権]]の方を選んだ。
[[ヴィシー政権]]軍入隊後、歩兵士官候補生としてフネは[[フランス領西アフリカ]]の[[モーリタニア]]に配属され、[[セネガル]]人[[狙撃兵]](Senegalese tirailleurs)[[小隊]]の指揮を委ねられた。この時、フネは純潔さと冒険心を渇望していたが、[[反共フランス義勇軍団]](LVF)にも三色旗軍団(Légion tricolore)にも入隊する気はなかった(フネ自身によると、これらの組織は古いフランス軍の欠陥をすべて含んでいたからという)。
[[1942年]]秋、フランス本土に戻ったフネは[[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]][[ブーシュ=デュ=ローヌ県]][[エクス=アン=プロヴァンス]]にあるサン=メクソン(Saint-Maixent)の歩兵学校に入学した。同年[[11月]]には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が[[北アフリカ]]に上陸し([[トーチ作戦]])、ドイツ軍が[[ヴィシー政権]]の支配地域である「自由地区」に侵入していたが、[[11月29日]]、フネは[[フランス軍]][[少尉]]の時に[[除隊]]して故郷の[[アン県]]に戻った。
帰郷後のある日、フネは父親から地元の[[戦士団保安隊]](Service d'ordre légionnaire:SOL)の支部長である元フランス軍退役少佐が会議を催し、そこでフネと会うことを望んでいると伝えられた。フネは会議には参加しなかったものの、別の場でこの退役少佐と会見した。退役少佐いわく、
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これと同意見であったフネは[[戦士団保安隊]]に入隊し、やがて[[戦士団保安隊]]が[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]と改称されると、フネはフランス民兵団[[アン県]]支部長(chef départemental de l'Ain)となった。
[[1943年]]初旬、[[スターリングラード]]で[[ドイツ軍]]が敗北した後、フネは自分がフランス国内で何の目的も無しに活動していることに気付いた。この頃、フネは「世界の敵」と戦い、[[ヨーロッパ]]を[[ソビエト連邦|ソ連]]の侵攻から守ることが使命だと考えるようになっていた。そして[[1943年]][[10月]]、フネは[[武装親衛隊]]に入隊した<ref>Robert Forbes
== バート・テルツSS士官学校 ==
[[武装親衛隊]][[フランス人]][[義勇兵]]の訓練は[[1943年]][[9月30日]]から[[アルザス]]のゼンハイム([[:de:Cernay (Haut-Rhin)|Sennheim]])親衛隊訓練施設で開始されていたが、1944年1月から[[士官候補生]]は[[バート・テルツ]]SS士官学校(SS-Junkerschule Bad-Tölz)においてフランス人将校用特別課程第1期(1. Sonderlehrgang für französische Offiziere)を履修した。フネは後者の一員として[[1月10日]]から[[3月4日]]までバート・テルツ親衛隊士官学校に在籍し<ref>同上 p52, pp.58-59.</ref>、課程修了後の[[3月10日]]に[[親衛隊中尉|SS義勇少尉]](SS-Frw. Untersturmführer)、[[4月1日]]に[[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](SS-Frw. Obersturmführer)に任官した<ref name="WSSFv1"/>。
== 第8フランスSS義勇突撃旅団 ==
{{main|第8フランスSS義勇突撃旅団}}
[[1944年]][[3月]]、[[武装親衛隊]][[フランス人]][[義勇兵]]たちは「第500フランスSS義勇重砲連隊(機械化)」(Schw.Franz.SS-Freiw.Artillerie Rgt.(mot.)500)という名を冠した1個機械化重砲連隊を構成するよう命じられた。しかしこの命令はいくつかの抗議を受けた結果、3月下旬から4月初旬にかけて「フランスSS義勇突撃旅団」(Franz. SS-Freiwilligen-Sturmbrigade)の名を冠した突撃[[旅団]](後に「第8」の番号が付与)を構成せよとの命令に変更された(第500フランスSS義勇重砲連隊は5月に公式廃案となった)<ref>同上 pp.61-63.</ref>。この時、フネは同突撃旅団第3中隊の指揮を委ねられた。
== ガリツィアの戦い ==
=== サノク戦区における「ホルスト・ヴェッセル」師団との合流 ===
[[独ソ戦|東部戦線]]における[[赤軍|ソビエト赤軍]]の夏季大攻勢・[[バグラチオン作戦]]が開始されてから約1ヶ月経った[[1944年]][[7月]]下旬、[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]は[[ウクライナ]]~南[[ポーランド]]国境の[[ガリツィア]]へ派遣可能な1個戦闘団を編成するよう命じられた。
命令を受けた[[第8フランス義勇突撃旅団]]はただちに[[ピエール・カンス]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](''SS-Frw. Hauptsturmführer'' Pierre Cance)麾下の第Ⅰ大隊に[[対戦車砲]]小隊などを付属した戦闘団を緊急編成し、[[7月30日]]にはベネシャウ(Beneschau、[[チェコ語]]表記[[ベネショフ]][[:de:Benešov|Benešov]])から列車で戦闘団を東部戦線へ派遣した<ref group="注">Jean Mabire '''"La Brigade Frankreich"'''(Fayard, 1973) p198による。しかし多くの史料がMabireの日付に準拠しているにも関わらず、David Littlejohn '''"Foreign Legions of the Third Reich, volume 1"'''(Bender Publishing, 1979) p161では出発日が1944年7月18日となっている(Robert Forbes '''"FOR EUROPE:The French Volunteers of the Waffen-SS"''' Helion & Co., 2006, p74 脚注参照)。</ref>。
[[1944年]][[8月5日]]、[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]第Ⅰ大隊は[[サンビル]]([[:en:Sambir|Sambir]]/[[:pl:Sambor|Sambor]]/[[:uk:Самбір|Самбір]])と[[ウージュホロド]]間に位置する[[トゥルカ]]([[:pl:Turka|Turka]]/[[:uk:Турка|Турка]])の街へ到着し、数日後には最前線の[[サノク]]で戦闘中の[[第18SS義勇装甲擲弾兵師団|第18SS義勇装甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」]]と合流した。
同師団指揮官の[[アウグスト=ヴィルヘルム・トラバント]][[親衛隊上級大佐|SS上級大佐]](''SS-Oberführer'' August Wilhelm Trabandt)から戦況を説明されたフランス人義勇兵たちは直ちに展開し、アンリ・フネ[[親衛隊中尉|SS義勇中尉]]の第3中隊が先陣を務めることとなった。この時のフネの第3中隊の編制は次の通り<ref name="SSFv1_A2">Grégory Bouysse 前掲書 Annexe Ⅱ: Organigrammes 参照</ref>。
{{quotation|
'''第8フランスSS義勇突撃旅団第Ⅰ大隊第3中隊(1944年8月)'''
*中隊指揮官 アンリ・フネ[[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](''SS-Frw. Ostuf.'' Henri Fenet)
**第1小隊 ロベール・ランベール[[親衛隊少尉|SS義勇少尉]](''SS-Frw. Ustuf.'' Robert Lambert)
**第2小隊 シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生(''SS-Frw. StdObJu.'' Charles Laschett)
**第3小隊 ポール・デルサール[[親衛隊伍長|SS義勇伍長]](''SS-Frw. Uscha.'' Paul Delsart)
**第4小隊 ピエール・クヴルール[[親衛隊曹長|SS義勇曹長]](''SS-Frw. Oscha.'' Pierre Couvreur)
|}}
1944年8月9日、左側面の友軍部隊と連絡を取るように命じられたフネの第3中隊は前進を開始した。その途中で彼らは遮蔽物が一切無い野原に進んで[[赤軍|ソビエト赤軍]]の銃撃と[[迫撃砲]]攻撃を受けたが、フネと彼の兵は訓練の様にジグザグ走行で突き進み、軽傷者2名というごくわずかな損害だけで前進に成功した。
そして、左側面の友軍部隊と
翌[[8月10日]]早朝、近くの村を偵察していた第1小隊のドラットル[[親衛隊上等兵|
[[8月12日]]、[[第18SS義勇装甲擲弾兵師団|「ホルスト・ヴェッセル」師団]]第40SS装甲擲弾兵連隊長[[エルンスト・シェーファー]][[親衛隊少佐|SS少佐]](''SS-Sturmbannführer'' Ernst Schäfer)率いる「シェーファー」戦闘団(SS-Kampfgruppe 'Schäfer')および[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]第Ⅰ大隊は[[クラクフ
しかし、[[8月16日]]にはサノク戦区が[[赤軍|ソビエト赤軍]]に包囲されたため、第8フランスSS義勇突撃旅団第Ⅰ大隊および他のSS部隊は後方の[[ドイツ国防軍]]戦区まで後退した。
=== ミエレツ戦区 ===
[[1944年]][[8月17日]]もしくは19日<ref group="注">André Bayle '''"De Marseille à Novossibirsk"'''(Historia et Tradition, 1992), Richard Landwehr '''"Charlemagne's Legionnaires"'''(Bibliophile Legion Books, 1989), Saint-Loup '''"Les Volontaires"'''(Presses de la Cité, 1963), Wilhelm Tieke and Friedrich Rebstock '''"Im letzten Aufgebot 1944-1945, Band 1"'''(T.K. 18/33, 1994)
[[8月20日]]から21日にかけての夜、アンリ・フネ[[親衛隊中尉|SS義勇中尉]]の第3中隊は[[赤軍|ソビエト赤軍]]親衛大隊の攻撃を受けた。この時、シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生が率いる第2小隊は熾烈な戦闘を繰り広げたが、21日の夜明けまでに包囲され、自力での脱出は不可能となった。
中隊長であるフネは3度にわたってラシェの第2小隊の救出を試みたが、いずれの試みも損害を伴ってソビエト赤軍に撃退された。そして、激戦の末に弾薬を使い果たした第2小隊はソビエト赤軍に降伏した<ref group="注">この時[[赤軍|ソビエト赤軍]]に降伏した第2小隊長シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生は、1945年の第1週に[[ソビエト連邦]]の[[タンボフ]]収容所で死亡した(Robert Forbes 前掲書 p99 脚注参照)。</ref>。
21日正午、フネは中隊の生存者に「後退してモクレ(Mokré)まで突破せよ」と命じた。今やフネと行動を共にする第3中隊の生存者は50名以下にまで減少しており、さらにフネは生存者の足手まといになりたくないと望んだ数多くの重傷者を置き去りにせねばならなかった(この時点で[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]第Ⅰ大隊の他の中隊も戦闘可能人員は50名前後にまで減少していた)。
21日晩、第Ⅰ大隊長[[ピエール・カンス]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]]は中隊指揮官を集め、[[第18SS義勇装甲擲弾兵師団|「ホルスト・ヴェッセル」師団]]から受け取った命令を伝達した。それによるとフランス大隊は新たな陣地を確保し、[[赤軍|ソビエト赤軍]]の進撃を食い止めねばならなかった。この時、フネは散り散りになった第3中隊の将兵が集まるまで陣地で待機せよと命じられた。
[[8月22日]]、フネは第3中隊の将兵が集まるのを未だに待っていたが、その時に[[ドイツ国防軍]]兵士の一団と合流した。フネもこのドイツ兵たちも上級部隊との連絡を失っているという点で似ており、彼らは波のごとく押し寄せる[[赤軍|ソビエト赤軍]]部隊に対して共に戦った。
しかし衆寡敵せず、同日1300時にフネとこのドイツ兵たちは[[デンビツア]]([[:pl:Dębica|Dębica]])南部の小さな町まで後退した。彼らは[[赤軍|ソビエト赤軍]]の車列が道を通り過ぎる度に身を隠していたが、しばらくするとドイツ軍の車列が近づいてきたため、彼らは路上に姿を現してその車列に乗せてもらった。この時、2日2晩も不眠不休で戦い続けてきたフネはすさまじい疲労感に襲われ、眠りに落ちた。
やがてフネ一行を乗せた車列はデンビツァに到着し、フネは[[武装親衛隊]]や[[ドイツ国防軍]]、野戦[[憲兵]]の将兵をかき集めた混成部隊「ムラー」戦闘団(Kampfgruppe 'Muller')に編入された。同戦闘団の[[歩兵]]・[[機関銃]]手・[[工兵]]の指揮官としてフネはデンビツァ防衛戦に参加<ref group="注">Jean Mabire p407による。しかしSaint-Loup p86やRichard Landwehr p50では、フネは「ムラー」戦闘団で小隊を率いたという(Robert Forbes 前掲書 p102 脚注参照)。</ref>したが、[[榴散弾]]の破片によって肩に傷を負い、(後送を拒否したにもかかわらず)治療のため後送された。
こうして、フネにとっての[[ガリツィア]]の戦いは終わったが、この戦いにおける功績を認められ、フネには[[二級鉄十字章]]が授与された<ref>同上 p110</ref>。
[[1944年]][[9月1日]]、[[ガリツィア]]の戦いで消耗し尽くした[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]第Ⅰ大隊は[[タルヌフ]]([[:pl:Tarnów|Tarnów]])[[鉄道駅]]を出発し、再編成のため旧[[ポーランド回廊|ダンツィヒ回廊]]へ向かった。
== 「シャルルマーニュ」への編入 ==
[[1944年]][[9月5日]]、[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]第Ⅰ大隊の生存者約140名はシュヴァルネガスト([[:de:Swornegacie|Schwarnegast]])で第Ⅱ大隊と合流した。これに負傷から回復した者も加わって約1,000~1,100名となった第8フランスSS義勇突撃旅団は、[[ドイツ国防軍]]のフランス人義勇部隊である[[反共フランス義勇軍団]]や、その他の組織([[ドイツ海軍]]、[[国家社会主義自動車軍団]]、[[トート機関]]など)のフランス人義勇兵、および[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]の隊員とともに「シャルルマーニュ」旅団に編入された。
解隊された[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]の将兵は第57SS武装擲弾兵連隊(Waffen-Grenadier-Regiment der SS 57)の基幹人員となり、連隊指揮官には第8フランスSS義勇突撃旅団長であった[[ポール=マリ・ガモリー=ドゥブルドー]][[親衛隊中佐|SS義勇中佐]](''SS-Frw. Obersturmbannführer'' Paul-Marie Gamory-Dubourdeau)([[ガリツィア]]戦には不参加)が着任した。
この頃、アンリ・フネはドイツの[[ウルム]]に避難していた[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]指導者の[[ジョゼフ・ダルナン]]と会見し、民兵団員が「シャルルマーニュ」に入隊したことによって生じた問題について話し合っていた。その後、10月半ばにフネはシュヴァルネガストに戻ったが、不在の間に彼は第57SS武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊の指揮官に据えられていた<ref>同上 p164</ref>。
1945年1月3日、フネは[[メックレンブルク]]([[:de:Mecklenburg|Mecklenburg]])にあるヒルシュブルク陸軍学校第26期に入学し、大隊指揮官としての訓練を受けた。そして2月10日に卒業した後、フネは改めて[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]第57SS武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊長に就任した<ref>同上 p229</ref>。
== ポメラニアの戦い ==
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=== 「シャルルマーニュ」師団再編 ===
[[1945年]][[3月8日]]、[[ポメラニア]]戦線で大損害を被った[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]の生存者たちは、[[アンクラム]]
[[3月18日]]、[[プレンツラウ]]
[[1945年]][[3月24日]]、「シャルルマーニュ」
再編成中の1945年4月初旬、[[ノイシュトレリッツ]]地方を統括する[[ドイツ国防軍]]の[[参謀]]グループが最前線より後方の防衛線の視察を行ったが、その際に彼らは[[第33SS武装擲弾兵師団|
工事開始日の朝、集まった部下の前に立ったフネは制服を脱ぎ、[[シャベル]]を使って対戦車壕を掘り始めた。黙々と対戦車障害物工事を続ける大隊長アンリ・フネ
1945年4月中旬、「脱走者、横領犯、窃盗犯は死刑に処す」という総統命令が[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]に下達された。数日後、宿舎として使用している農家の[[電球]]を盗んだ2
=== ベルリンへの出発 ===
[[1945年]][[4月24日]]夜明け前、[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]は[[第33SS武装擲弾兵師団|
その後、フネは(クルケンベルクの話を聞かせるために)部下を起こした。クルケンベルクは集合した将兵に訓示し、志願して自分とともにベルリンへおもむく者はおらぬか、と問いかけた<ref>アントニー・ビーヴァー'''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社・2004年)p440</ref>。
フネをはじめ、[[グスタフ・クルケンベルク|クルケンベルク]]の呼びかけに応じて包囲下の[[ベルリン]]への出発を希望したフランス人将兵は直ちに1個突撃大隊('''[[フランスSS突撃大隊]]''')を構成し、あるだけの武器([[StG44 (突撃銃)|StG-44]]、[[グロスフスMG42機関銃|MG-42機関銃]]、[[パンツァーファウスト]]など)および弾薬を分配した(この時、フネの第57SS大隊出身の者はほぼ全員[[StG44 (突撃銃)|StG-44]]を装備していた)。
4月24日0530時、[[フランスSS突撃大隊]]は[[カルピン]]を出発して[[アルト=シュトレリッツ]](Alt-Strelitz)へ向かい、0830時にはそこから[[ベルリン]]へ向かうとされた。車列は数両の民間車両および、7両もしくは8両の軍用トラックから構成されていた<ref group="注">Robert Forbes 前掲書 pp.401-402.脚注によれば、この車列の正確な車両数が明らかになることは無いという。例えば、クルケンベルクSS少将の戦後の言によれば、この車列は2両の寝台車および3両のトラックから構成されていたという。しかし、Jean Mabire '''"Mourir à Berlin"'''(Fayrad, 1975) p110では10両の[[ドイツ空軍]]のトラックに数両の私用車輌が伴っていたとされている。その他、2両の車と9両のトラックのそれぞれに45名が乗っていたとする史料もあれば、各トラックに1個小隊がすし詰めにされていたとする史料もある。もし[[ベルリン]]へ出発した[[フランスSS突撃大隊]]の5個中隊(各中隊は最低でも3個小隊編成)の小隊をすべてトラックで輸送するのであれば、この車列のトラックは15両を数える。</ref>。
4月24日1500時頃、[[グスタフ・クルケンベルク|クルケンベルク]]SS少将とフネのフランス人義勇兵を載せた車列は[[ファルケンレーデ]](Falkenrehde)の橋を渡ろうとしたが、その際に彼らを[[赤軍|ソビエト赤軍]]部隊と誤認した[[国民突撃隊]]によって橋は爆破された。これによって車を利用した行軍が不可能となったため、クルケンベルクは全ての補給物資と装備をトラックから降ろした後、重傷者とトラックを[[ノイシュトレリッツ]]まで送り返すよう命じた。クルケンベルクとフネが先頭に立った[[フランスSS突撃大隊]]は[[ベルリン]]までの残りの道のりを徒歩で行軍し、2200時頃に至ってようやく[[ベルリン]]市内の[[ベルリン・オリンピアシュタディオン]]近隣の国立競技場(Reichssportfeld)に到着した。
== ベルリン市街戦 ==
{{Main|ベルリン市街戦|フランスSS突撃大隊}}
[[1945年]][[4月24日]]深夜、ベルリン北方からの長距離行軍によって疲弊したフランス人義勇兵たちが帝国競技場の近隣の建物に分散・宿泊する間、[[グスタフ・クルケンベルク|クルケンベルク]]は[[総統官邸]]に出頭していた。[[4月25日]]0500時頃に戻ってきたクルケンベルクからベルリン市内の状況を伝えられたフネは[[フランスSS突撃大隊]]を再編した。この時点での[[フランスSS突撃大隊]]の編成は次の通り<ref name="SSFv1_A2"/>
{{quotation|
'''[[フランスSS突撃大隊]]
*大隊指揮官 アンリ・フネ[[親衛隊大尉|
**第1中隊 [[ジャン=クレマン・ラブル
**第2中隊 [[ピエール・ミシェル]][[親衛隊中尉|
**第3中隊 [[ピエール・ロスタン]][[親衛隊上級曹長|武装上級曹長]](''W-Hscha.'' Pierre Rostaing)
**第4中隊 ジャン・オリヴィエ[[親衛隊曹長|武装曹長]](''W-Oscha.'' Jean Ollivier)
*戦術学校
|}}
彼らは4月25日の正午過ぎに[[
=== 1945年4月26日 ノイケルンの戦い ===
[[1945年]][[4月26日]]早朝、[[ノイケルン区]]役所に[[フランスSS突撃大隊]]本部を設置したフネは[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]の戦車部隊の支援を約束された反撃作戦を計画した。0500時頃に各中隊は布陣し(ただし[[テンペルホーフ=シェーネベルク区|テンペルホーフ区]]守備隊に一時配属されていた第1中隊を除く)、予定の時刻を1時間過ぎた0600時頃に通達された攻撃命令に従って出撃した。彼らの前には[[赤軍|ソビエト赤軍]]の[[戦車]]、[[対戦車砲]]、[[PM1910重機関銃]]、[[迫撃砲]]、[[狙撃兵]]が待ち構えていた。たちまち激戦が繰り広げられ、[[パンツァーファウスト]]で[[T-34]]戦車を撃破するフランス人義勇兵、そしてその彼らを的にした[[赤軍|ソビエト赤軍]][[狙撃兵]]によって双方の被害は甚大なものとなった。
ノイケルン区役所に戻ったフネは分断されつつある大隊の状況を探っていたが、その時に「ノルトラント」師団から奇妙な命令が通達された。「もし攻撃を未だに開始していないのであれば、攻撃を中止して新たな命令を待て。もし攻撃を開始しているのであれば、諸君の全力を尽くすべし」<ref>Robert Forbes 前掲書 p421</ref>
事の真相を確かめるため、フネは副官のドイツ人[[親衛隊中尉|SS中尉]]ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロート(''SS-Ostuf.'' Hans-Joachim von Wallenrodt)(「シャルルマーニュ」師団情報将校)を「ノルトラント」師団司令部へ向かわせた。やがて戻ってきたフォン・ヴァレンロートの話によると、[[フランスSS突撃大隊]]と「ノルトラント」師団がノイケルンで反撃を開始した朝、ソビエト赤軍は圧倒的多数の軍勢でベルリン中心街へ攻撃を集中させたという。
この時、2か月前の[[ポメラニア]]戦線・ハインリヒスヴァルデ(Heinrichswalde、現[[ウニエフフ]][[:pl:Uniechów|Uniechów]])での出来事がフネの脳裏をよぎった。[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]第57SS武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊長だった当時も、3時間に渡る順調な突撃の後、両側面および後方との連絡が途絶えたために後退を余儀なくされたのであった。
「これからどうしますか?」と冷静に尋ねるフォン・ヴァレンロートに対し、フネは側面との連絡を回復するため各中隊に現在地を維持するように命じた。
やがて[[パンツァーファウスト]]や[[Kar98k]]を装備した[[ヒトラーユーゲント]]の少年達(14歳~17歳)が援軍としてフネの大隊本部に到着し、さらに伝令のおかげで各中隊との連絡も回復した。
4月26日の夜明け以来、[[フランスSS突撃大隊]]の伝令班長ピエール・ミレ[[親衛隊兵長|SS義勇兵長]](''SS-Frw. Rottenführer'' Pierre Millet)は最も重要かつ危険な任務を実行していた。ミレが命令を各中隊に伝えるために廃墟に入る度に、フネは二度と彼の姿が見えなくなるのではと心配していた。しかし、1944年の[[ガリツィア]]戦と1945年の[[ポメラニア]]戦を経験した20歳の活発なミレSS義勇兵長は常にフネのもとに帰還し、「任務を完了しました!」と報告した。
4月26日午後、フネはミレを伴って各中隊を巡回したが、状況に改善の兆しは見られなかった。そして区役所付近まで戻ってきたフネたちは道を横切って区役所内に入ろうとした。
その瞬間、[[赤軍|ソビエト赤軍]]の砲弾が彼らの周囲で爆発した。ミレが地面に崩れ落ちて事切れるのと同時に、フネは足に焼けるような感覚を覚えた。区役所内に運び込まれたフネはドイツ人医師の治療を受けたが、幸いにも銃弾は骨に当たることなくフネの左足を貫通していた。
しかし、建物の外では銃撃戦が続いていたため、フネは当直士官のアルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(''W-StdObJu.'' Alfred Douroux)に対し、近隣の[[赤軍|ソビエト赤軍]]を一掃するように命じた。45分後、[[白兵戦]]の末にドゥールー率いる反撃部隊は近隣からソビエト赤軍部隊を掃討することに成功した。
しかし逆に、フランス人義勇兵の頑強な抵抗はノイケルン区役所奪取を目論む[[赤軍|ソビエト赤軍]]の更なる大攻勢を招いた。[[T-34]]をはじめとするソビエト赤軍戦車部隊に対し、フランス人義勇兵と[[ヒトラーユーゲント]]の少年たちは悪鬼のごとく戦ったが、この時フネは椅子に座ったままノイケルン区役所防衛の指揮を執り続け、「抵抗精神を具体化」していた<ref>同上 p423</ref>。
4月26日1700時、フネの[[フランスSS突撃大隊]]は主要防衛線から切り離された。弾薬と燃料が残りわずかとなった「ノルトラント」師団の戦車部隊も後退したが、後退命令を受け取っていないフネはノイケルン区役所に留まることにした。
4月26日1900時頃、伝令の報告により、[[赤軍|ソビエト赤軍戦車]]が[[フランスSS突撃大隊]]の後方約900メートル地点にある
その後、「ノルトラント」師団の[[突撃砲]]と [[ノイケルン]]の戦い([[ベルリン市街戦]]の中でも[[赤軍|ソビエト赤軍]]が後退を余儀なくされた稀有な戦い
=== 1945年4月26日から27日にかけての夜 ===
その後、フネは[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]の所在を確かめるため、ベルリン市中央部に行くための車を探した。ドゥ
1945年4月26日から27日にかけての夜、フネのもとに後退命令が通達された。その途中、[[フランスSS突撃大隊]]が現在戦っている地区の防衛
第1中隊が大隊から出発する直前、フネはラブル
あたかも自分が生還せぬことを知ったうえで戦いに臨む男のようなラブルデットの態度はフネを非常に心配させた。様々な思いを巡らせる中、フネは休養をとるようフネに椅子を差し出した部下の勧めも断り、「ノルトラント」師団司令部に向かうことを決意した。
=== フネと「フランス通り」 ===
[[1945年]][[4月27日]]早朝、フネのもとに[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]連隊付救護所からやって来た[[ドイツ
その後、フネは[[オペラハウス]]内で行われている「ノルトラント」師団作戦会議に加わった。そして、前日の「ノルトラント」師団とフランス人義勇兵の奮戦によって上機嫌な面持ちの[[グスタフ・クルケンベルク|クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]から、フネの[[フランスSS突撃大隊]]は一日の休養を与えられた(ただし、休養後は戦車破壊班として扱われることになっていた)。
作戦会議終了後、「ノルトラント」師団の将兵は正午に予定された反撃の準備をするためにそれぞれの持ち場へ戻ったが、この日の朝にソビエト赤軍の砲撃がオペラハウスとその周辺に対して加えられたため、「ノルトラント」師団司令部は移動を余儀なくされた。その途中、「ノルトラント」師団軍医のツィンマーマン(Dr. Zimmermann)はフネに対し、我々が今いるこの場所は「フランス通り」([[:de:Französische Straße|Französischestrasse]])であると教えた。「17世紀に宗教的な迫害を逃れて[[プロイセン王国|プロシア]]に流入し、[[ベルリン|この首都]]の建設に加わった[[ユグノー]]教徒を記念する」<ref>ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) '''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画、1994年)p278</ref>フランス通りに立ったフネは、「
1945年4月27日午後、「ノルトラント」師団は師団司令部を[[ベルリン地下鉄]]
そして夕暮れ頃、[[グスタフ・クルケンベルク|クルケンベルク]]SS少将は前日の[[ノイケルン区|ノイケルン]]の戦いで活躍したフランス人義勇兵に対する[[鉄十字章]]授与式を執り行った。その後、彼らには[[キャンディー]]、[[チョコレート]]、[[タバコ]]が振舞われ、これにより場の空気は盛り上り、誰もが歌を歌っていた。
しばらくして大隊長であるフネがその場に現れると、フネの部下は彼に殺到してあらゆる[[嗜好品]]をフネのポケットに詰め込んだ。あたかもお祭り騒ぎのように和やかな雰囲気であったが、[[ジャン=クレマン・ラブルデット]][[親衛隊少尉|SS義勇少尉]]の第1中隊は未だにフネのもとへ戻っていなかった。
同日の晩、ロベラン武装上級士官候補生(''W-ObJu.'' Robelin)に率いられた第1中隊の小グループが、やや遅れて第1中隊の小隊長の1人であるマキシム・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生(''W-StdObJu.'' Maxime de Lacaze)に率いられた第1中隊の大半がフネのもとへ戻ってきた。しかし、彼らの中に[[ジャン=クレマン・ラブルデット]][[親衛隊少尉|SS義勇少尉]]の姿は無かった。ド・ラカーズの話によれば、ラブルデットは少数の兵を率いて地下鉄のトンネル内の前哨陣地に行ったきり連絡が途絶えた<ref group="注">史料によってこの時のラブルデットの行動が異なっている。具体的には、「部下の後退の援護」(Fenet, "Historia" #32 p161)、「偵察」(Fenet, "Die Letzte Runde..." p13)、「危機に瀕した陣地から数名の擲弾兵を連れてくる」(Landwehr, p136)。(Robert Forbes 前掲書 p435 脚注参照)</ref>ため、ド・ラカーズはあらかじめ発せられていたラブルデットの命令に従い、予定の時刻に第1中隊の大半を率いて帰還したという。このような種類の戦闘では予定の時刻に数時間遅刻することは特に珍しくもないため、当面の間ド・ラカーズもフネもラブルデットの心配をしなかった。
そして、フネのもとに新たに伝えられた情報によれば、[[ヴァルター・ヴェンク]]装甲兵[[大将]]率いる[[第12軍 (ドイツ軍)|ドイツ第12軍]]は[[ポツダム]]近郊に到達したという。しかし他方では、[[シュチェチン|シュテッティン]]南部において[[オーデル川]]を渡った[[赤軍|ソビエト赤軍]]の大攻勢が[[:de:Prenzlau|プレンツラウ]]に及んでいた。これらの知らせを聞いたフネは、すでに[[ベルリン]]入りしている[[フランスSS突撃大隊]]に加わるべく[[:de:Neustrelitz|ノイシュトレリッツ]]において待機中の戦友たちのことを考えたが、彼らが[[ベルリン]]に来ることはないと悟った。
=== 1945年4月28日 ===
[[1945年]][[4月28日]]の夜明け前、[[赤軍|ソビエト赤軍]]は[[:de:Hallesches Tor|ハレ門]]近くの[[:de:Landwehrkanal|ランドヴェーア運河]]を渡り、戦車多数をベレ=アリアンス・プラッツ(Belle-Alliance-Platz, 現
夜も明けきらぬ頃、アンリ・フネの[[フランスSS突撃大隊]]はベレ=アリアンス・プラッツに戦車破壊班を2個派遣した。[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]がわずか15分前に出した要求によってフネの副官ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉率いる最初の戦車破壊班が出陣した1時間後、第
この時、[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]]に戦況の詳細な説明をしたドゥ
部下たちがソビエト赤軍戦車を相手に激戦を繰り広げている間、フネにとって部下のもとへ戻れないことは非常に業を煮やすものであった。そこでフネは再び前線に戻る許可をクルケンベルクに要請したが、この時のクルケンベルクはそれを許可した。敬礼の後、クルケンベルクが気を変える前にフネは即座にその場を立ち去った。
ヘーデマン通り(Hedemannstrasse)で戦闘中の[[フランスSS突撃大隊]]に合流したフネは、[[ベルリン地下鉄]][[コッホ通り駅]]([[:de:U-Bahnhof Kochstraße|Kochstrasse]])で「シャルルマーニュ」師団戦術学校指揮官の[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]]に出迎えられた。ヴェーバーはヴィルヘルム通り([[:de:Wilhelmstraße (Berlin-Mitte)|Wilhelmstrasse]])を見渡せる建物の一室から、路上で炎上している[[T-34]]戦車を指差し「いい眺めではありませんか?」とフネに尋ねた。この[[T-34]]はヴェーバーが自ら[[パンツァーファウスト]]で撃破した1両であった。
そしてヴェーバーはフネに対し、本日中だけで5、6輌の[[赤軍|ソビエト赤軍]]戦車を[[パンツァーファウスト]]で撃破し、敵歩兵多数に甚大な損害を与えたと報告した<ref>
フネが[[フランスSS突撃大隊]]の本部に戻って間もなく、帝国保安省の職員約100名強が増援として到着した。彼らの大半は年齢50~60歳代で
ただし、この間も[[赤軍|ソビエト赤軍]]の[[狙撃兵]]は[[フランスSS突撃大隊]]に出血を強いていた。フランス人義勇兵が迂闊にも建物の窓や張り出し玄関に姿を見せようものならば、たちまち狙撃によって死ぬか重傷を負うこととなった。[[ジャン=クレマン・ラブル
やがて夜になり、大隊本部の外の荒れ果てた道路は静まり返った
{{Cquote| ここには夜も昼もなかった。われわれに見えるのは空だけだった。辺りは、まがまがしい焔に照り映える粉塵と爆煙の濃い帳に包まれている。聞こえるのは砲爆撃の轟音、ばりばりという業火の響き、そして夜を通して、ひどく近くから聞こえる女性たちの悲鳴と絶叫。これは爆発や、火災よりもわれわれをぞっとさせた。社会民主党の[[ベルリン]]市長エルンスト・ローター([[:de:Ernst Reuter|Ernst Reuter]])によると、勝利に酔った赤軍兵に強姦された女性の数は9万名にものぼるという。}}
=== 1945年4月29日 ===
[[1945年]][[4月29日]]の夜明けと同時に、再び[[赤軍|ソビエト赤軍]]戦車が来襲した。これに対し、[[ベルリン]]市街の建物に陣取る[[フランスSS突撃大隊]]の将兵は絶好の位置から[[パンツァーファウスト]]を放ち、ソビエト赤軍戦車の第一波を撃退した。
この日、フネは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]]が連れてきた[[フランス人]][[親衛隊伍長|武装伍長]][[ウジェーヌ・ヴォロ]](''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)と対面した。21歳のヴォロは戦術学校の将兵の中でも屈指の戦車撃破記録(4輌)を持つ男であり、フネの部下であるロジェ・アルベール=ブルネ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Roger Albert-Brunet)(3輌撃破)と敵戦車の撃破数を競っていた。
やがて、フランス人義勇兵の頑強な抵抗に業を煮やしたソビエト赤軍は、建物という建物を[[パンツァーファウスト]]の射程距離外から砲撃することによって対抗した。フネが大隊指揮所として使用している部屋は呼吸困難および50センチメートル先しか見えなくなるほど大量の粉塵が立ち込め、また、崩れた壁の破片によって何名かが負傷した。壁に空けられた穴からはソビエト赤軍戦車の火線が見え、ソビエト赤軍歩兵は[[狙撃兵]]の援護下で大隊本部の側面に侵入していた。フネのフランスSS突撃大隊は[[国会議事堂 (ドイツ)|国会議事堂]]を目指すソビエト赤軍の進出を少しでも遅らせんとしたが、建物が全壊して生き埋めにされる前に彼らはプットカマー通り(Puttkamerstrasse)に後退し、新たな防衛線を構築した。
この時、フネのもとに第3中隊長[[ピエール・ロスタン]][[親衛隊上級曹長|武装上級曹長]]が合流した。彼は崩れる建物から脱出する際に生き埋めとなって死んだと報告されていたので、フネは驚きを隠せなかった。その後、フネはロスタンのために[[一級鉄十字章]]の授与式を催した。
同日の晩、フネは大隊本部を図書館の地下室に移動させた。同地下室には壮麗な美術本が保管されており、訪れた者たちの娯楽の種となった。まるで周囲の地獄の風景を中和せんとするかのように、彼らフランス人義勇兵たちは光に満ちた風景を探してページをめくっていった。かつて[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]文科受験準備学級の学生であったフネは、これらの蔵書すべてが酔ったモンゴル人の一団(ソビエト赤軍兵)によって焚き火にくべられるか、ずたずたに破られるのではと不安に思った。
=== フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者 ===
詳細は([[第33SS武装擲弾兵師団#フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者]])を参照。
=== 1945年4月30日 ===
[[1945年]][[4月30日]]未明、図書館の中の疲弊した[[フランスSS突撃大隊]]の将兵は眠気に襲われつつも目を覚ましており、[[パンツァーファウスト]]を手にして[[赤軍|ソビエト赤軍]][[戦車]]の来襲に備えていた。そしてフランス人義勇兵たちは現れたソビエト赤軍部隊のうち、同日の晩までに戦車を含む21輌の装甲車両を撃破・炎上させた<ref name="FEp451">Robert Forbes 前掲書 p451</ref>。
4月30日夜、[[フランスSS突撃大隊]]本部に[[赤軍|ソビエト赤軍]]の[[下士官]]1名が[[捕虜]]として連行されてきた。[[通訳]]を担当した第4中隊長代行セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生(''W-StdJu.'' Serge Protopopoff)によると、この捕虜は[[ロシア人]]でも[[共産党]]員でもなく、ソビエト赤軍に強制編入された[[ウクライナ人]]であるという。そしてさらに捕虜は、前日にソビエト赤軍はベルリン制圧まで残り1区画であることを公式発表し、5月1日の[[メーデー]]に合わせて最終攻勢を発動する予定であることも明かした。これを聞いたフランス人義勇兵たちは大笑いし、ある[[親衛隊伍長|武装伍長]]は捕虜に対して次のように言った。「明日も俺たちはまだここにいるぞ、戦友。お前の仲間がここを通ろうとしたらいつも通りの歓迎を受けるだろうぜ」<ref name="FEp451"/>
プロトポポフがこの言葉を捕虜に伝えると、捕虜は突然、ソビエト赤軍の戦車乗員はそれぞれの配置に無理矢理就かされていて、「先頭戦車の者は自分たちが二度と戻ってこないことを知っているんだ!」と言った<ref name="FEp451"/>。
そして、[[ウクライナ人]]捕虜がフランス人義勇兵に供述した通り、4月30日夜から5月1日未明にかけてソビエト赤軍の最終攻勢が開始された。これに対し、フネの[[フランスSS突撃大隊]]は[[T-34]]を至近距離まで接近させた上で[[パンツァーファウスト]]を発射し、歩兵には[[StG44 (突撃銃)|突撃銃]]の掃射を浴びせて対抗した。
=== 1945年5月1日 ===
[[1945年]][[5月1日]]朝、[[ベルリン]]官庁街防衛司令官[[ヴィルヘルム・モーンケ]][[親衛隊少将|SS少将]]と[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]司令官[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将が現在の状況と今後の作戦について電話連絡を取っている間、アンリ・フネの[[フランスSS突撃大隊]]は久しぶりに戦闘の無い平穏な朝を迎えた。
しかし午前中、フネのもとに第4中隊長代行セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生が([[迫撃砲]]の攻撃を受けて)死亡したとの知らせがもたらされた。現場である図書館の中庭に駆けつけたフネはプロトポポフの遺体から給与手帳を回収し、[[:de:Erkennungsmarke#Erkennungsmarken bei der Deutschen Wehrmacht|認識票]]の半分を折り取り、そして[[敬礼]]をした。「[[プリンス]]」プロトポポフ、[[1917年]]の[[十月革命]]で[[フランス]]に[[亡命]]した[[ロシア]][[貴族]]([[白系ロシア人]])の子息であったこの「古きロシア最後の代表」は、[[ベルリン市街戦]]中に[[赤軍|ソビエト赤軍]]戦車を5輌撃破していた<ref>同上 p453</ref>。プロトポポフの簡潔な葬儀を済ませた後、フネは戦闘に戻った。
5月1日午後、[[フランスSS突撃大隊]]の状況は次第に悪化していた。建物に陣取ってからの攻撃を得意とするフランス人義勇兵に対し、ソビエト赤軍は砲撃と火炎放射を浴びせてフランス人義勇兵を建物から駆逐した。1800時にフネは後退命令を下し、ヴィルヘルム通りとプリンツ=アルブレヒト通り(Prinz-Albrecht-Strasse, 現ニーダーキルヒナー通り[[:de:Niederkirchnerstraße|Niederkirchnerstrasse]])にある保安省の周辺に移動した。保安省の建物自体は砲爆撃で廃墟と化していたが、その地下室は待避壕や機関銃陣地として十分に機能した。
同日夜、フネは保安省の地下室で休息を取った。[[:de:Julleuchter|Julleuchter]]に火を灯し、フネは生き残っている戦友たちに対する[[鉄十字章]]授与式を執り行った。これまでの1週間に[[フランスSS突撃大隊]]の将兵のほとんどが斃れており、今や生存者は数十名(わずか20名、もしくは約50名)のみであった<ref>同上 p454 脚注</ref>。
=== 1945年5月2日 ===
{{節stub}}
== 戦後 ==
[[ベルリン市街戦]]で足に重傷を負っていたフネは、ソビエト赤軍の捕虜収容所に入って間もなくベルリン北部の病院へ送られた。しかし数日後、退院して収容所に戻る途中にフネは脱走に成功した(驚くべきことに、あるロシア人の住民がフネに民間人の衣服を与えて脱走の手助けをした)。それからフネはベルリン南部においてフランス人の本国帰還グループに加わり、[[ヴァランシエンヌ]](Valenciennes)経由でフランスへ帰国した。
ところが、その際にフネは左腕に彫っていた血液型の[[刺青]](武装親衛隊員の特徴)を発見され、現地のフランス兵によって逮捕された。フネを逮捕した兵士はフネに対し、「この文字は人殺しの、それも最も危険な人殺しの印だ」と言った<ref>同上 p507</ref>。
後に対独協力者を対象とした裁判が開かれ、フネは[[検察官]]から「君は自分でしたことを晦いているかね?」と尋ねられた。フネは答えた<ref>ヴィル・フェイ 前掲書 p283</ref>。
{{Cquote|「戦争が別の結果に終わったときに、わたしが晦いていると言ったら、あなたは信じますか? 今ここでわたしが晦いていると言ったら、わたしは嘘つきか、腰抜けであるということになってしまう」
}}
[[陪審員]]のほとんどは[[共産党]]員であったが、彼らはフネの答えに腹を立てなかった。そしてフネは[[死刑]]ではなく重労働20年の刑を言い渡されたが、[[1949年]]に釈放された。
その後、フネは自動車関連部品会社の経営を引退するまで続ける一方、かつて[[武装親衛隊]]の外国人義勇兵として戦った者のために様々な活動を続けるスポークスマンとなり、いくつかのドキュメンタリー番組やラジオ放送に登場し、各種インタビューに応じた。
[[1982年]][[10月]]、ドイツの[[ザールルイ]]で開かれた[[騎士鉄十字章]]受章者協会(Ordensgemeinschaft der Ritterkreuzträger des Eisernen Kreuzes e.V.)の第27回目の会合に出席し、[[フラマン人]]騎士鉄十字章受章者[[レミ・シュライネン]](Remi Schrijnen)および[[ワロン人]]騎士鉄十字章受章者[[ジャック・ルロア]](Jacques Leroy)と並んで写真を撮影<ref>Axis History Forum・View topic - '''SS-Untersturmführer Jacques Leroy''' [http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=38&t=55918]</ref>。
晩年、アンリ・フネは[[アルツハイマー型認知症|アルツハイマー病]]を患い<ref name="WSSFv1"/>、[[2002年]][[9月14日]]に[[パリ]]で亡くなった。満83歳没。
== キャリア ==
=== 党員・隊員番号 ===
*[[ナチス]]党員番号:無し
*[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員番号:無し([[武装親衛隊]][[フランス人]][[義勇兵]]、[[1943年]][[10月18日]]入隊)
=== 階級 ===
*[[1940年]]:[[フランス軍]][[中尉]](Lieutenant)
*[[1944年]][[3月10日]]:[[親衛隊少尉|SS義勇少尉]](SS-Frw. Untersturmführer)
*1944年[[4月1日]]:[[親衛隊中尉|SS義勇中尉]](SS-Frw. Obersturmführer)
*[[1945年]][[3月1日]]:[[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](SS-Frw. Hauptsturmführer)
=== 勲章 ===
*戦功十字章([[:fr:Croix de guerre 1939-1945|Croix de Guerre]])(1940.??.??)
*[[二級鉄十字章]](1944.08.??)
*[[一級鉄十字章]](1945.03.
*[[騎士鉄十字章]](1945.04.29)
==
<references group="注"/>
== 出典 ==
{{reflist|2}}
== 文献 ==
*Landwehr, Richard. '''"French Volunteers of the Waffen-SS"'''. United States of America: Siegrunen Publications/Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3.
*Forbes, Robert. '''"FOR EUROPE:The French Volunteers of the Waffen-SS"'''. U.K.: Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X.
*Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 1: officiers"''' 2011. ISBN 978-1-4475-9358-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%C3%A7ais-volume-1-officiers/15338972]
== 関連項目 ==
*[[第33SS武装擲弾兵師団]]
*[[ベルリン市街戦]]
*[[フランスSS突撃大隊
{{DEFAULTSORT:ふね あんり}}
[[Category:フランスの軍人]]
[[Category:第二次世界大戦期フランスの軍人]]
[[Category:コラボラトゥール]]
[[Category:親衛隊隊員]]
[[Category:騎士鉄十字章受章者]]
[[Category:
[[Category:2002年没]]
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