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| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 1942年
| 渾名 = 砂漠の狐<br>([[ドイツ語|独]]:Wüstenfuchs, [[英語|英]]:Desert Fox)
| 生誕地 = {{DEU1871}}<br>[[ファイル:Flagge Königreich Württemberg.svg|25px]] [[ヴュルテンベルク王国]]<br>[[ハイデンハイム]]
| 死没地 = {{DEU1935}}南部、ヘルリンゲン
| 所属政体 = {{DEU1871}}<br>[[ファイル:Flagge Königreich Württemberg.svg|25px]] [[ヴュルテンベルク王国]]<br />[[画像:Flag of Germany.svg|25px]] [[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]<br>[[画像:Flag of Germany 1933.svg|25px]] [[ナチス・ドイツ]]
| 所属政体 = {{DEU1871}}( - 1918)<br />{{DEU}}→{{DEU1935}}
| 所属組織 = [[画像:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] [[ドイツ帝国軍|ドイツ帝国陸軍]]<br/>(Kaiserliche Armee)<br/>[[画像:Flag of Weimar Republic (war).svg|20px]] [[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国軍陸軍]]<br/>(Reichsheer)<br/>[[画像:Balkenkreuz.svg|20px]] [[ドイツ国防軍|ナチス・ドイツ国防軍陸軍]]<br/>(heer)<br/>
| 所属組織 = [[ドイツ陸軍]]
| 軍歴 = 1911 - 1944
| 最終階級 = [[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]
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| 除隊後 =
| 廟 =
| 署名 = [[ファイル:Erwin Rommel Signature.svg|200px]]
}}
'''エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル'''{{#tag:ref|ファーストネームのErwinは日本では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。|group=#}}(Erwin Johannes Eugen Rommel、[[1891年]][[11月15日]] - [[1944年]][[10月14日]])は[[ドイツ陸軍]]([[ドイツ国防軍]])の[[軍人]]である。[[第二次世界大戦]]におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で「砂漠の狐」として知られる。
 
砂漠のアフリカ戦線において、巧みな[[戦略]]・[[戦術]]によって戦力的に圧倒的優勢な[[イギリス軍]]をたびたび壊滅させ、英首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]に「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]以来の戦術家」とまで評された。[[貴族]]ではない、中産階級出身者初の[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]でもある。
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== 生涯 ==
=== い立ち ===
エルヴィン・ロンメルは、[[1891年]][[11月15日]]の[[日曜日]]の正午、[[ドイツ帝国]]領邦[[ヴュルテンベルク王国]]の[[ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ]]([[:de:Heidenheim an der Brenz|de]])において生まれた<ref name="クノップ24">[[#クノップ|クノップ、p.24]]</ref><ref name="ピムロット11">[[#ピムロット|ピムロット、p.11]]</ref><ref name="山崎24">[[#山崎|山崎、p.24]]</ref><ref name="ヤング34">[[#ヤング|ヤング、p.34]]</ref>。この町は[[ウルム]]郊外の町である<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング34"/><ref name="ヴィストリヒ326">[[#ヴィストリヒ|ヴィストリヒ、p.326]]</ref>。
エルヴィン・ロンメルはドイツ南部の[[バーデン=ヴュルテンベルク州|バーデン=ヴュルテンベルク州]]の[[ウルム]]から約50kmほど離れた小さな町、ハイデンハイムで[[プロテスタント]]系の高等学校長のエルヴィン・ロンメル・シニアとヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。
 
父はハイデンハイムの実科[[ギムナジウム]](Realgymnasium)の数学教師エルヴィン・ロンメル(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング34"/><ref name="山崎26">[[#山崎|山崎、p.26]]</ref>。その父(ロンメルの祖父)も教師だった<ref name="ヤング34"/><ref name="アーヴィング上37">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.37]]</ref>。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング34"/>、地元ハイデンハイムではかなり尊敬されていた人物であった<ref name="ヤング35">[[#ヤング|ヤング、p.35]]</ref>。
エルヴィン・ロンメルにはカールとゲアハルトの2人の兄弟と、妹・ヘレンがいた。大人しい少年で家族からは「白熊ちゃん」とあだ名されていた。ロンメルは後に「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルはエンジニア志望だったが父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ[[1910年]]に[[ヴュルテンベルク王国]]の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国の[[ダンツィヒ]]王立[[士官学校]]に進んだ。
 
母はヘレーネ・ロンメル。ヴュルテンべルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である<ref name="ピムロット11"/><ref name="山崎26"/><ref name="アーヴィング上37"/><ref name="ヤング35"/>。
ロンメルは[[ダンツィヒ]]の[[陸軍士官学校]]時代の[[1911年]]にルーツィア・マリア・モリン(Lucia Maria Mollin)に出会い、[[1916年]]に結婚した。[[1928年]]に息子の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれ、彼は戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めている<ref>「マンフレート・ロンメル」伊藤光彦『ドイツとの対話』毎日新聞社、[[1981年]]、135~138ページ。</ref>。
 
父母ともに[[プロテスタント]]だった<ref name="アーヴィング上39">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.39]]</ref>。
1911年11月、ロンメルは士官学校を卒業し[[1912年]]1月に[[少尉]]に任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが1912年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたという研究を発表している。
 
兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた<ref name="ピムロット11"/><ref name="山崎26"/><ref name="ヤング35"/><ref name="アーヴィング上38">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.38]]</ref>。兄のマンフレートは幼いころに死去した<ref name="ピムロット11"/><ref name="山崎26"/><ref name="ヤング35"/>。
 
父は若いころに砲兵隊にいたことがあるが、それ以外にはロンメル家は軍隊とほとんど関係がなかった。軍部への有力な縁故も皆無だった<ref name="ヤング37">[[#ヤング|ヤング、p.37]]</ref>。また教養市民階級出身という彼の出自は貴族主義的な[[ドイツ陸軍]]において有利なスタート地点であったとはいえない<ref name="クノップ25">[[#クノップ|クノップ、p.25]]</ref>。
 
=== 幼少・少年期 ===
子供の頃のロンメルは病気勝ちでおとなしかったという<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング36">[[#ヤング|ヤング、p.36]]</ref>。姉ヘレーネによるとロンメルは色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていたという<ref name="ピムロット11"/><ref name="ヤング35"/>。しかしロンメル本人は人事記録の中に挟んだ覚書の中で「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している<ref name="アーヴィング上39"/>。
 
[[1898年]]に父が[[アーレン (バーデン=ヴュルテンベルク)|アーレン]]の実科ギムナジウムの校長となる<ref name="ヤング35"/><ref name="ピムロット12">[[#ピムロット|ピムロット、p.12]]</ref><ref name="山崎27">[[#山崎|山崎、p.27]]</ref>。一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまで家庭教師から授業を受けていた<ref name="ピムロット12"/>。[[1900年]]に父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した<ref name="ピムロット12"/>。はじめギムナウジムでは劣等生だった<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>。怠け者で注意散漫だったという<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>{{#tag:ref|勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、彼はこれを真に受けて必死に書き取りの勉強をしてテストで間違いをしなかったという。しかし約束の遠足につれて行ってもらえなかったのでまた勉強をしない生徒に戻ってしまったという<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>。|group=#}}。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった<ref name="ヤング36"/><ref name="ピムロット12"/>。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった<ref name="ピムロット12"/><ref>[[#山崎|山崎、p.27-28]]</ref><ref>[[#ヤング|ヤング、p.36-37]]</ref>。また飛行機の研究に夢中になり、14歳のころには親友と二人で実物大の[[グライダー]]を作成した<ref name="アーヴィング上37"/><ref name="ヤング37">[[#ヤング|ヤング、p.37]]</ref><ref name="ピムロット12"/><ref name="山崎28"/>。結局まともには飛ばなかったが、[[1906年]]に[[ヨーロッパ]]で初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりだということを考えると大したものだった<ref name="アーヴィング上37"/>。
 
ロンメルは航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親が反対し、ヴュルテンべルク王国軍に入隊することになった<ref name="アーヴィング上37"/><ref>[[#ピムロット|ピムロット、p.12-13]]</ref>。軍に入ることについて本人はあまり乗り気でなかったらしい<ref name="アーヴィング上38"/><ref name="山崎28">[[#山崎|山崎、p.28]]</ref>。
 
=== 軍人に ===
[[1910年]][[7月19日]]に[[ヴァインガルテン]]([[:de:Weingarten, Württemberg|de]])に駐留する[[ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊|ヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)]]([[:de:Infanterie-Regiment „König Wilhelm I.“ (6. Württembergisches) Nr. 124|de]])に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊<ref name="アーヴィング上38"/><ref name="クノップ25"/><ref name="Dagger">[http://www.germandaggers.info/rommel.htm German Daggers Info]</ref><ref name="ピムロット13">[[#ピムロット|ピムロット、p.13]]</ref><ref name="山崎30">[[#山崎|山崎、p.30]]</ref><ref name="ヤング38">[[#ヤング|ヤング、p.38]]</ref>。下士官として半年の部隊勤務{{#tag:ref|当時のドイツ帝国軍では士官候補生をいきなり士官学校には入れず、まず野戦部隊に配属して下士官や兵士と一緒に寝起きを共にさせていた。[[ナポレオン戦争]]の時に露呈したプロイセン軍の将校と下士官・兵士の相互不信の問題を解消するためである。この部隊勤務に馴染んだ者のみ士官学校へ進むことが許可された<ref>[[#山崎|山崎、p.30-31]]</ref>。|group=#}}を経た後、1911年3月に[[プロイセン王国]][[ダンツィヒ]]の王立[[士官学校]]に進んだ<ref name="ヤング38"/><ref name="山崎31">[[#山崎|山崎、p.31]]</ref>。士官学校在学中に後に妻となるダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)と出会った<ref name="クノップ25"/><ref name="ヤング38"/><ref name="山崎31"/><ref name="アーヴィング上40">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.40]]</ref>。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は[[1916年]]に結婚した<ref name="ピムロット15">[[#ピムロット|ピムロット、p.15]]</ref>。[[1928年]]に息子の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれ、彼は戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めている<ref>「マンフレート・ロンメル」伊藤光彦『ドイツとの対話』毎日新聞社、[[1981年]]、135~138ページ。</ref>。
 
[[1912年]][[1月27日]]に[[少尉]](Leutnant)に任官し、第124歩兵連隊に戻った<ref name="クノップ25"/><ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング上40"/><ref name="ピムロット14">[[#ピムロット|ピムロット、p.14]]</ref><ref name="ヤング39">[[#ヤング|ヤング、p.39]]</ref>。ロンメルは新兵の訓練を担当した<ref name="クノップ25"/><ref name="ピムロット15"/>。
 
1913年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間に[[私生児]]の娘ゲルトルートをもうけた。生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した<ref name="山崎33">[[#山崎|山崎、p.33]]</ref>。のちにロンメルは妻のルーツィエにこの「過ち」の許しを乞うた<ref name="山崎33"/>。
 
1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下である[[ウルム]]駐留の[[ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊|ヴュルテンブルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊)]]に転属となった<ref name="クノップ25"/><ref name="アーヴィング上41">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.41]]</ref><ref name="山崎34">[[#山崎|山崎、p.34]]</ref>。しかし第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した<ref>[[#山崎|山崎、p.40・54]]</ref>。
 
=== 第一次世界大戦 ===
==== 初めての実戦、ブレド村での戦闘 ====
1914年7月末から8月初めにかけて[[第一次世界大戦]]となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1918年8月3日に開戦した<ref name="阿部29">[[#阿部|阿部、p.29]]</ref>。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム皇太子]])隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された<ref name="山崎43">[[#山崎|山崎、p.43]]</ref>。
 
ロンメルがはじめて実戦に参加したのは8月22日午前5時頃、[[ベルギー]]南部のフランス国境付近の村[[ブレド]]([[:fr:Bleid|fr]])だった<ref name="ピムロット20">[[#ピムロット|ピムロット、p.20]]</ref><ref name="ヤング41">[[#ヤング|ヤング、p.41]]</ref>。この時のロンメルは前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊状態で、しかも脂っこいものとパンの食い過ぎが原因で胃痛を起こしていた<ref name="ピムロット20"/><ref name="ヤング41"/><ref>[[#山崎|山崎、p.43-47]]</ref>。しかし実戦を前に前線から逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で上官には黙っていた<ref name="山崎43"/>。
 
銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊はブレド村へ進み、ロンメル含めて4人だけで村の中に偵察に入り、フランス兵15名から20名ほどを発見した。「奇襲効果」を優先して小隊の部下を呼び集めることなく、その場にいる4人だけで攻撃を仕掛けた<ref name="ヤング42">[[#ヤング|ヤング、p.42]]</ref><ref name="山崎49">[[#山崎|山崎、p.49]]</ref>。フランス兵たちは四散し、建物や物陰に隠れて応戦してきた<ref name="ヤング42"/><ref name="山崎49"/>。そのうちの一発はロンメルの耳元をかすめた<ref name="山崎49"/>。結局4人だけでは歯が立たず、ロンメルたちは退却し、村の外で待機していた小隊の部下たちと合流した<ref name="山崎49"/>。ロンメルは応援を待たず、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った<ref name="山崎51">[[#山崎|山崎、p.51]]</ref>。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃をかけ、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した<ref name="山崎51"/>。続いてフランス兵の立て篭もった他の建物に次々と火を放っていった<ref name="ヤング42"/><ref name="山崎51"/>。
 
しかしフランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。またロンメルが作戦中に疲労と胃痛で数回にわたって意識を失ったので副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがしばしばあった<ref name="山崎51"/>。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで一気に有利となり、ブレド村のフランス軍は投降した<ref name="ピムロット23">[[#ピムロット|ピムロット、p.23]]</ref><ref name="山崎52">[[#山崎|山崎、p.52]]</ref>。
 
戦闘が終わった後のブレド村は兵士達や巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという<ref>[[#ピムロット|ピムロット、p.24-25]]</ref>。
 
==== フランス領での激戦と負傷 ====
ロンメルはその後も胃痛が治まらなかったが、上官に体調の不良は訴えなかった<ref name="ヤング42"/><ref name="山崎53">[[#山崎|山崎、p.53]]</ref>。
 
第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、[[ムーズ川]]ほとりの町[[デュン]]([[:fr:Dun-sur-Meuse|fr]])に到着([[ヴェルダン]]から北28キロほど)。ムーズ川[[渓谷]]での激戦に参加した<ref name="山崎53"/>。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぎ、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊の中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる<ref name="山崎54">[[#山崎|山崎、p.54]]</ref>。ロンメル率いる第7中隊はフランス軍砲兵陣地への攻撃に失敗して東へ逃れ、第2大隊主力を発見して合流した<ref name="山崎56">[[#山崎|山崎、p.56]]</ref>。新しい第7中隊長が決まるとロンメルは小隊長に戻った<ref name="山崎56"/>。
 
この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日の[[ヴェルダン]]の敵拠点への攻撃に失敗したことで連隊は大きな損害をだした<ref name="山崎56"/>。同日に連隊は回復のため後方に下げられた<ref name="山崎56"/>。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には上官にこっぴどく叱られたという<ref name="山崎57">[[#山崎|山崎、p.57]]</ref>。
 
9月22日から第124歩兵連隊は[[モンブランヴィル]]([[:fr:Montblainville|fr]])での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし9月24日の[[ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ]]付近の戦闘では、[[銃剣]]術に覚えのあったロンメルはフランス兵3名に弾の入ってない銃剣で立ち向かおうとし、片足の[[腿|上腿部]]を撃ち抜かれて負傷してしまった<ref name="ヤング42"/><ref name="ピムロット27">[[#ピムロット|ピムロット、p.27]]</ref><ref name="山崎58">[[#山崎|山崎、p.58]]</ref><ref name="アーヴィング上43">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.43]]</ref>。[[カシ|樫]]の木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた<ref name="山崎58"/><ref name="ピムロット28">[[#ピムロット|ピムロット、p.28]]</ref>。さらに翌朝には[[ストゥネ]]([[:fr:Stenay|fr]])の将校野戦病院へ移送された<ref name="ピムロット28"/><ref name="山崎59">[[#山崎|山崎、p.59]]</ref>。9月30日に病院で[[二級鉄十字章]]の受章を受けた<ref name="Dagger"/><ref name="ピムロット28"/><ref name="山崎59"/>。
 
==== フランスで塹壕戦 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R33723, Frankreich, Argonnerwald, Vorgehen von Infanterie.jpg|thumb|right|250px|1915年9月、[[アルゴンヌの森]]。フランス軍塹壕へ突撃を仕掛けようと身を低くして進むドイツ軍歩兵。]]
1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰<ref name="アーヴィング上43"/>。この頃、ドイツ軍もフランス軍も攻撃するより攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して大規模な攻撃には出なくなり、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は[[塹壕戦]]による[[消耗戦]]の様相を呈していた<ref name="ピムロット36">[[#ピムロット|ピムロット、p.36]]</ref><ref name="山崎61">[[#山崎|山崎、p.61]]</ref>。第124歩兵連隊も[[アルゴンヌの森]]([[:fr:Argonne (région)|fr]])の西部で塹壕戦を展開していた<ref name="アーヴィング上43"/>。ロンメルは第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた<ref name="山崎61"/>。
 
ロンメルは中隊を率いて[[匍匐]]前進しながらフランス軍の築いた[[有刺鉄線]]の[[鉄条網]]を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、[[掩蔽部]]4か所を占領した<ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング43">[[#ヤング|ヤング、p.43]]</ref>。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を退けたが、結局新しい攻撃を受けるのを避けるため自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた<ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング43"/>。しかしこの際の勇戦ぶりを評価されて1915年3月22日に[[一級鉄十字章]]を授与された<ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング上43"/>。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では初めての受章だった<ref name="アーヴィング上43"/>。
 
その後も第124歩兵連隊はアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた<ref name="ピムロット33">[[#ピムロット|ピムロット、p.33]]</ref><ref name="山崎65">[[#山崎|山崎、p.65]]</ref>。7月にロンメルは二度目の負傷をした。[[向こう脛]]に砲弾の破片を受けたのである<ref name="アーヴィング上43"/>。1915年9月に[[中尉]]に昇進するとともに、新たに編成される「[[ヴュルテンベルク山岳兵大隊]]」(Württembergischen Gebirgsbataillon)ヘの転属を命じられた<ref name="Dagger"/><ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング43"/><ref name="山崎65">[[#山崎|山崎、p.65]]</ref>。
 
==== 山岳兵大隊 ====
10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属<ref name="山崎67">[[#山崎|山崎、p.67]]</ref>。同大隊の中隊長となった<ref name="クノップ25"/><ref name="アーヴィング上43"/>。これまでドイツ帝国のいずれの[[領邦]]も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置する[[バイエルン王国]]と[[ヴュルテンベルク王国]]が山岳兵部隊を編成することになったのであった<ref name="山崎66">[[#山崎|山崎、p.66]]</ref>。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は同盟国の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[アルプス山脈]]で[[スキー]]訓練など受けた後、1915年12月31日に[[ヴォージュ山脈]][[ヒルツェン丘陵]]でフランス軍と戦ったが、ここはそれほど戦闘は激しくなく、ロンメルは比較的のんびりと1年ほど戦った<ref name="山崎70">[[#山崎|山崎、p.70]]</ref><ref name="ヤング44">[[#ヤング|ヤング、p.44]]</ref>。
 
==== ルーマニア戦線 ====
1916年10月末、山岳兵大隊は[[ルーマニア戦線]]に転戦した<ref name="アーヴィング上43"/><ref name="ヤング44"/>。同大隊は11月11日に[[レスルイ山]]の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した<ref name="山崎73">[[#山崎|山崎、p.73]]</ref>。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日に[[ダンツィヒ]]においてルーツィエと簡易な結婚式をあげた<ref name="ヤング44"/><ref name="山崎73"/>。[[ハネムーン]]などはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した<ref name="山崎73"/>。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊は[[ガジェシュチ]]村([[:ro:Găgești, Vaslui|ro]])で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした<ref>[[#山崎|山崎、p.73-74]]</ref>。
 
1917年1月中旬に山岳兵大隊はルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし7月末には再びルーマニア戦線に送られた<ref name="アーヴィング上44">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.44]]</ref><ref name="山崎75">[[#山崎|山崎、p.75]]</ref>。[[コスナ山]](mt.Cosna)に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をした。しかし彼は構わず戦闘に参加し続けた<ref name="アーヴィング上44"/><ref>[[#山崎|山崎、p.76-78]]</ref>。傷口を放置したせいで高熱にうなされたが、彼はベッドの中から命令を発し続けたという<ref name="山崎79">[[#山崎|山崎、p.79]]</ref>。ロンメル初め山岳兵大隊は奮戦したが、コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた<ref name="山崎79">[[#山崎|山崎、p.79]]</ref>。
 
負傷した腕の傷のために一月ほど休養に入り、妻ルーツィエと楽しい時間を過ごした<ref name="山崎80">[[#山崎|山崎、p.80]]</ref>。
 
===== イタリア戦線 =====
[[ファイル:Pour le mérite Neilebock.jpg|thumb|right|140px|プール・ル・メリット勲章]]
ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]に動員された<ref name="アーヴィング上44">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.44]]</ref>。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し<ref name="山崎81">[[#山崎|山崎、p.81]]</ref>、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた<ref name="山崎82">[[#山崎|山崎、p.82]]</ref>。
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0313-503, Goslar, Hitler schreitet Ehrenkompanie ab.jpg|thumb|180px|[[1934年]][[9月30日]]、中央左がロンメル]]
[[第一次世界大戦]]中、ロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し3度の負傷で一級および二級[[鉄十字|鉄十字章]]を受章した。さらに彼はイタリア北東部の[[カポレットの戦い]]で3000名のイタリア軍捕虜を得る著しい功績を挙げ[[1917年]]12月に最高位の[[プール・ル・メリット勲章]]を受章し、その年の最年少受章者となった。[[1915年]]に彼は[[中尉]]に昇進した。彼は身体強壮で優秀な士官であったが、「自らができるからという理由で、誰にでもそれを要求する」ことはしなかった。
 
[[カポレットの戦い]]の戦いにおいてドイツ第14軍司令官[[オットー・フォン・ベロウ]]は戦略的要衝である1114高地と[[マタイユール山]]([[:it:Matajur|it]])を最初に占領した部隊の指揮官には[[プール・ル・メリット勲章]]を与えると布告した<ref name="山崎86">[[#山崎|山崎、p.86]]</ref>。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった<ref name="アーヴィング上45">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.45]]</ref>。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなかった<ref name="山崎86"/>。ロンメルはマタイユール山の攻略を狙い、ついにここを占領することに成功した<ref name="山崎87">[[#山崎|山崎、p.87]]</ref>。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの任務部隊は、9,000人のイタリア兵を捕虜とした<ref name="山崎88">[[#山崎|山崎、p.88]]</ref>。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領した[[ヴァルター・シュニーバー]]中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍は[[ドイツ皇帝|カイザー]]・[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった<ref name="山崎88">[[#山崎|山崎、p.88]]</ref>。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという<ref name="アーヴィング上47">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.47]]</ref><ref name="山崎88"/>。
第一次大戦後、[[ヴェルサイユ条約]]により10万人に限定された陸軍に選ばれ、残留したエルヴィンは[[ドレスデン]]歩兵学校([[1929年]] - [[1933年]])、[[ポツダム]]歩兵学校([[1935年]] - [[1938年]])の教官を務めた。
 
しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、[[ロンガローネ]]のイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした<ref name="アーヴィング上50">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.50]]</ref>。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいして[[プール・ル・メリット勲章]]の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた<ref name="アーヴィング上50">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.50]]</ref>。
[[プール・ル・メリット勲章]]を受章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'')ISBN 978-1-85367-707-6』は[[1937年]]に出版され、50万部を売り切るベストセラーとなる。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]はそれを高く評価した。
 
==== 一次大戦末期 ====
[[1938年]]には大佐に昇進、[[ウィーン]]郊外の[[マリア・テレジア]]女王の名を冠する[[陸軍士官学校]]校長に任命された。[[1939年]]には総統警護大隊(Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任命されて、[[ポーランド侵攻]]では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。ロンメルは[[ポーランド侵攻]]前の[[8月1日]]に遡及して[[少将]]に昇進した。
その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった<ref name="クノップ27">[[#クノップ|クノップ、p.27]]</ref><ref name="山崎90">[[#山崎|山崎、p.90]]</ref>。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に[[大尉]]に昇進した<ref name="クノップ27"/><ref name="山崎90"/>。
 
1918年11月初めに[[キール]]の水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり([[ドイツ革命]])、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日に[[オランダ]]へ亡命、翌11日には[[ドイツ社会民主党]]の主導する新ドイツ共和国政府が[[パリ]]の[[コンピエーニュの森]]で連合国と休戦協定の調印を行った<ref>[[#阿部|阿部、p.43-44]]</ref>。第一次世界大戦はここに終結した。
ポーランド戦の最中、ロンメルはヒトラーに前線勤務を志願した。ヒトラーはそれを受け入れ、ポーランド戦後に新編成された第7装甲師団の師団長に任命される。
 
=== ヴァイマル共和政期 ===
ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された<ref name="山崎96">[[#山崎|山崎、p.96]]</ref><ref name="ヤング62">[[#ヤング|ヤング、p.62]]</ref>。1919年3月には[[フリードリヒスハーフェン]]の第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという<ref name="ヤング62"/><ref name="ピムロット54">[[#ピムロット|ピムロット、p.54]]</ref><ref>[[#山崎|山崎、p.96-97]]</ref>。
 
敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結された[[ヴェルサイユ条約]]によって1320億マルク(現在の日本の金銭価値で約40兆円)という天文学的賠償金(また加えて1年ごとに20億マルクの利子と26%の輸出税)が課せられた。またドイツの国境付近の領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツの領土は大きく縮小した。ドイツ軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有も全て禁止された<ref name="阿部57">[[#阿部|阿部、p.57]]</ref><ref name="山崎95">[[#山崎|山崎、p.95]]</ref><ref name="ヤング64">[[#ヤング|ヤング、p.64]]</ref>。1919年7月31日には[[ヴァイマル]]で開かれた[[国会 (ドイツ)|国会]]で[[ヴァイマル憲法]]が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「[[ヴァイマル共和国]]」の時代が始まった。
 
ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけが[[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国陸軍]]に残れるという倍率をもたらした<ref name="山崎97">[[#山崎|山崎、p.97]]</ref>。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の一人であった<ref name="ピムロット53">[[#ピムロット|ピムロット、p.53]]</ref>。
 
この後、9年ほど[[シュトゥットガルト]]の第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった<ref name="アーヴィング上53">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.53]]</ref><ref name="クノップ29">[[#クノップ|クノップ、p.29]]</ref><ref name="山崎98">[[#山崎|山崎、p.98]]</ref>。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月には長男の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれている<ref name="山崎98"/><ref name="アーヴィング上54">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.54]]</ref><ref name="ヤング68">[[#ヤング|ヤング、p.68]]</ref>。
 
1929年10月1日に[[ドレスデン]]歩兵学校の教官に任じられた<ref name="アーヴィング上54"/><ref name="ヤング69">[[#ヤング|ヤング、p.69]]</ref>。数多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという<ref name="アーヴィング上55">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.55]]</ref><ref name="ピムロット56">[[#ピムロット|ピムロット、p.56]]</ref><ref name="山崎101">[[#山崎|山崎、p.101]]</ref>。
 
=== ナチ党政権下 ===
[[1933年]][[1月30日]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)[[党首]][[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツの大統領 (ヴァイマル共和政)|大統領]]より[[ドイツ国首相]]に任命された<ref name="阿部213">[[#阿部|阿部、p.213]]</ref>。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが<ref name="ヤング70">[[#ヤング|ヤング、p.70]]</ref><ref name="山崎104">[[#山崎|山崎、p.104]]</ref>、他の多くのドイツ軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の[[反共主義]]と[[軍拡]]の[[イデオロギー]]を歓迎した<ref name="クノップ31">[[#クノップ|クノップ、p.31]]</ref><ref name="ピムロット60">[[#ピムロット|ピムロット、p.60]]</ref><ref>[[#山崎|山崎、p.104-105]]</ref><ref name="ヤング71">[[#ヤング|ヤング、p.71]]</ref>。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0313-503, Goslar, Hitler schreitet Ehrenkompanie ab.jpg|thumb|250px|[[1934年]][[9月30日]]、収穫祭で[[ゴスラー]]を訪れたヒトラーがロンメル少佐の大隊を閲兵する。中央左がロンメル。二人はこの時に初めてであった。]]
1933年[[10月10日]]に[[少佐]]に昇進するとともに[[ゴスラー]]に駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた<ref name="Dagger"/><ref name="ヤング69"/><ref name="クノップ30">[[#クノップ|クノップ、p.30]]</ref><ref name="ピムロット57">[[#ピムロット|ピムロット、p.57]]</ref>。1934年[[9月30日]]に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した<ref name="アーヴィング上58">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.58]]</ref>。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える[[儀仗兵]]の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった<ref name="アーヴィング上58">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.58]]</ref><ref name="ピムロット58">[[#ピムロット|ピムロット、p.58]]</ref>。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない<ref name="ピムロット58"/>。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない<ref name="アーヴィング上58"/>。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐって[[親衛隊 (ナチス)|SS]]と言い争ったという{{#tag:ref|「閲兵式においても警護のため[[親衛隊 (ナチス)|SS]]部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒して、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と言い返して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]から直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという<ref name="山崎104"/><ref name="クノップ30"/>。|group=#}}。
 
1935年3月1日に[[中佐]]に昇進した<ref name="Dagger"/>。1935年10月15日に新設された[[ポツダム]]歩兵学校の教官に任じられた<ref name="アーヴィング上59">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.59]]</ref><ref name="山崎106">[[#山崎|山崎、p.106]]</ref><ref name="ヤング73">[[#ヤング|ヤング、p.73]]</ref>。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという<ref name="アーヴィング上59">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.59]]</ref>。
 
1936年9月の[[ニュルンベルク党大会]]でヒトラーの護衛部隊(Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任じられた<ref name="ピムロット58"/><ref name="アーヴィング上63">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.63]]</ref>。この時にロンメルは「私の後ろについてくる車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部の車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという<ref name="アーヴィング上63">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.63]]</ref>。
 
しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルが[[フォッゲンライター出版社]]から『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'')ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった<ref name="アーヴィング上63"/><ref name="山崎109">[[#山崎|山崎、p.109]]</ref>。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた<ref name="ヤング69"/><ref name="山崎109"/>。この本は50万部を売り切る[[ベストセラー]]となり<ref name="山崎109"/><ref name="クノップ32">[[#クノップ|クノップ、p.32]]</ref>、各方面からの高評価を受け、一次大戦で歩兵だったヒトラーも自分の経験に照らし合わせてこの本を激賞した<ref name="アーヴィング上63"/><ref name="クノップ32"/><ref name="山崎117">[[#山崎|山崎、p.117]]</ref><ref name="ヤング80">[[#ヤング|ヤング、p.80]]</ref>。なおロンメルはこの本の[[印税]]に関してフォッゲンライター出版社と結託して[[脱税]]をした{{#tag:ref|ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の[[印税]]を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000[[ライヒスマルク]]だけを自分に支払わせ、残りは[[銀行]][[預金]]にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した<ref name="アーヴィング上64">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.64]]</ref><ref name="山崎110">[[#山崎|山崎、p.110]]</ref>。|group=#}}。
 
1937年2月にロンメルはナチ党の[[ヒトラー・ユーゲント]]に国防省連絡将校として派遣された<ref name="ピムロット58">[[#ピムロット|ピムロット、p.58]]</ref><ref name="山崎111">[[#山崎|山崎、p.111]]</ref>。ロンメルは[[ドイツ国防軍|国防軍]]の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者[[バルトゥール・フォン・シーラッハ]]との折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた<ref name="ピムロット59">[[#ピムロット|ピムロット、p.59]]</ref><ref name="山崎112">[[#山崎|山崎、p.112]]</ref>。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった<ref name="山崎112"/><ref name="アーヴィング上66">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.66]]</ref>。1937年8月1日には大佐に昇進した<ref name="山崎112"/>。
 
シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せなかった。1938年9月に[[ズデーテン併合]]にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛部隊隊長に任じ、自らの護衛を任せた<ref name="ピムロット59"/><ref name="アーヴィング上66"/><ref name="山崎113">[[#山崎|山崎、p.113]]</ref>。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっていた<ref name="アーヴィング上66"/><ref name="山崎114">[[#山崎|山崎、p.114]]</ref>。彼の妻への手紙もヒトラー讃美がどんどんエスカレートしている。「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書いている<ref name="クノップ32"/>。彼は友人への個人的な手紙にさえ文末に「[[ハイル・ヒトラー]]、敬具、E・ロンメル」と記すようになっていた<ref name="アーヴィング上66"/><ref name="山崎114"/><ref name="山崎120"/><ref name="クノップ33">[[#クノップ|クノップ、p.33]]</ref>。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった<ref name="山崎117">[[#山崎|山崎、p.117]]</ref>。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる<ref name="ピムロット62">[[#ピムロット|ピムロット、p.62]]</ref><ref name="ヤング92">[[#ヤング|ヤング、p.92]]</ref>。
 
1938年11月10日には[[ウィーン]]郊外の[[ヴィーナー・ノイシュタット]]の士官学校の校長に任じられた<ref name="ピムロット59"/><ref name="山崎114"/><ref name="アーヴィング上67">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.67]]</ref><ref name="ヤング79">[[#ヤング|ヤング、p.79]]</ref>。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化されている士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校にいなかった<ref name="アーヴィング上67"/><ref>[[#クノップ|クノップ、p.32-33]]</ref>。
 
[[1939年]]3月15日に[[チェコスロバキア併合]]があると、ヒトラーは再びロンメルを総統警護部隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた<ref name="アーヴィング上67">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.67]]</ref>。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても歓迎されるとは思えなかった。暗殺の危険も大きかった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しで[[プラハ城]]まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた<ref name="山崎117">[[#山崎|山崎、p.117]]</ref><ref name="ヤング83">[[#ヤング|ヤング、p.83]]</ref>。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる<ref name="クノップ33"/><ref name="ヤング83"/><ref name="山崎118">[[#山崎|山崎、p.118]]</ref>。続く3月23日の[[メーメル返還]]でヒトラーが[[メーメル]]へ向かった時にもロンメルは総統警護大隊の隊長を務めた<ref name="アーヴィング上67"/><ref name="山崎120">[[#山崎|山崎、p.120]]</ref>。
 
1939年8月1日に[[少将]]に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた<ref name="山崎120"/><ref name="アーヴィング上70">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.70]]</ref>。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである<ref name="山崎120"/><ref name="アーヴィング上70"/>。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている<ref name="クノップ33">[[#クノップ|クノップ、p.33]]</ref>。
 
ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「[[総統大本営]]管理部長」に任じられた<ref name="アーヴィング上70"/>。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった<ref name="山崎120"/>。
 
=== 第二次世界大戦 ===
==== ポーランド侵攻 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-013-0064-35, Polen, Bormann, Hitler, Rommel, v. Reichenau.jpg|thumb|250px|1939年9月、対ポーランド戦中のヒトラーの前線視察。ヒトラーに警護責任者として同伴するロンメル少将(ヒトラーの右)。]]
1939年9月1日にドイツ軍の[[ポーランド侵攻]]、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって[[第二次世界大戦]]が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている<ref name="アーヴィング上72">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.72]]</ref>。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われた[[ポーランド回廊]]と[[自由都市ダンツィヒ|国連の管理下に置かれたダンツィヒ]]をドイツの手に取り戻す必要性を感じていた<ref name="ヤング85">[[#ヤング|ヤング、p.85]]</ref>。
 
総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた<ref name="アーヴィング上72"/>。なおヒトラーがポーランドの港町[[グディニャ]]を訪れた際にロンメルは[[マルティン・ボルマン]]と揉めたという{{#tag:ref|総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラーの[[グディニャ]]視察の際に急な下りで幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近である[[マルティン・ボルマン]]はヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これ遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と言い返してボルマンの車を通過させる事を拒否したという。ボルマンはこの事を執念深く覚えており、5年後にロンメルに復讐することになる<ref name="アーヴィング上74">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.74]]</ref>。|group=#}}。
 
1939年10月5日に[[ワルシャワ]]でヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った<ref name="山崎126">[[#山崎|山崎、p.126]]</ref>。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残っている<ref name="アーヴィング上75">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.75]]</ref>。
 
ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた([[まやかし戦争|実際に英仏は宣戦布告してきただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃を行ってくる様子はほとんどなかった]])<ref name="アーヴィング上73">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.73]]</ref>。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的にドイツに勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが<ref name="アーヴィング上75">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.75]]</ref>、ヒトラーはこうした反対を退けて[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]を決意した<ref name="アーヴィング上76">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.76]]</ref>。
 
ポーランド戦後、[[ベルリン]]で退屈な日々を送ることになっていたロンメルは<ref name="アーヴィング上75"/>、来るフランス戦では前線勤務をしたいと志願した<ref name="山崎128">[[#山崎|山崎、p.128]]</ref>。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で装甲師団の指揮を許可された<ref name="アーヴィング上77">[[#アーヴィング上|アーヴィング、上巻p.77]]</ref>。
 
こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団の師団長に任命されることとなった<ref name="ピムロット62"/><ref name="ヤング92">[[#ヤング|ヤング、p.92]]</ref>。
 
==== フランス侵攻 ====
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1970-076-43, Paris, Erwin Rommel bei Siegesparade.jpg|thumb|180px|1940年6月、[[パリ]]にて]]
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[[ファイル:Rommel with his aides.jpg|thumb|180px|[[制帽]]の上にゴーグルを着用したロンメル]]
[[ファイル:LeicaIIIC.jpg|thumb|180px|ロンメルが使用したライカIII c型]]
*小学生のころ勉学に不熱心だった彼に教師が「ロンメルが書き取りで満点をとったら、楽隊と一緒に遠足をしよう」と言ったのを真に受けて満点を取ったが、約束が果たされないと元の不熱心な子供に戻ったという。
*「歩兵攻撃」の印税は、版元と共謀して架空名義の銀行口座に移して脱税していた(山崎雅弘「ロンメル戦記」)
*ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍の[[ゴーグル]]を好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には英軍の[[ガスマスク]]の付属品である「''Anti-Gas Eye Shield “Mk II"''」という防毒ゴーグルである。このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。
*戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。
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== 参考文献 ==
{{参照方法}}
*{{Cite book|和書|author=[[ディヴィッド・アーヴィング]]|translator=[[小城正]]|year=[[1984年]]|title=狐の足跡〈上〉―ロンメル将軍の実像|publisher=[[早川書房]]|asin=B000J77A3E|ref=アーヴィング上}}
=== 回想録 ===
*{{Cite book|和書|author=ディヴィッド・アーヴィング|translator=小城正|year=1984年|title=狐の足跡〈下〉―ロンメル将軍の実像|publisher=早川書房|asin=B000J77G74|ref=アーヴィング下}}
*Heinz Werner Schmidt(著)、部下、''With Rommel in the Desert'', Albatross Publishing, 1951
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラー全記録 : 1889-1945 20645日の軌跡|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部}}
*Heinz Werner Schmidt(著)、部下、''Mit Rommel in der Wüste'', Argus-Verlag, München
*{{Cite book|和書|author=[[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])|translator=[[滝川義人]]|year=[[2002年]]|title=ナチス時代ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ}}
*Heinz Werner Schmidt(著)、[[清水政二]](訳)、『ロンメル将軍(原題:With Rommel in the Desert)』、[[角川書店]]、[[1971年]]
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ウィーラー=ベネット]]([[:en:John Wheeler-Bennett|en]])|translator=[[山口定]]|year=[[1961年]]|title=国防軍とヒトラー II <small>1918-1945</small>|publisher=[[みすず書房]]|asin=B000JALPWI|ref=ベネット}}
*Hanns-Gert von Esebeck(著)、部下の第15装甲師団長、''Das deutsche Afrika-Korps, Siege und Niederlage'', Limes, 1975, ISBN 3-8090-2078-8
**{{Cite book|和書|author=ジョン・ウィーラー=ベネット|translator=山口定|year=[[2002年]]|title=国防軍とヒトラー II <small>1918-1945</small> (上記の新装版) |publisher=みすず書房|isbn=978-4622051084|ref=ベネット新装版}}
*F.W. von Mellenthin(著)、部下、矢嶋由哉/光藤亘(訳)、『ドイツ戦車軍団全史:フォン・メレンティン回想録』、[[朝日ソノラマ]]、[[1981年]]
*{{Cite book|和書|author=[[パウル・カレル]]|translator=[[松谷健二]]|year=[[1969年]]|title=砂漠のキツネ|publisher=[[フジ出版社]]|asin=B000J9H334|ref=カレル}}
*[[フリートリッヒ・ルーゲ]](著)、[[加登川幸太郎]](訳)、『ノルマンディーのロンメル』、[[1985年]]
**{{Cite book|和書|author=[[パウル・カレル]]|translator=[[松谷健二]]|year=[[1998年]]|title=砂漠のキツネ(上記の新装版)|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120028298|ref=カレル新装}}
*[[デズモント・ヤング]](著)、[[清水政二]](訳)、英軍捕虜、『ロンメル将軍』、月刊ペン社、[[1969年]]
*{{Cite book|和書|author=[[グイド・クノップ]]([[:de:Guido Knopp|de]])|translator=[[高木玲]]|year=[[2002年]]|title=ヒトラーの戦士たち 6人の将帥|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562034826|ref=クノップ}}
*{{Cite book|和書|author=マーチン・ファン・クレフェルト|translator=[[佐藤佐三郎]]|year=[[2006年]]|title=補給戦―何が勝敗を決定するのか|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4122046900|ref=クレフェルト}}
*{{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・ゲルリッツ]]|translator=[[守屋純]]|year=[[1998年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史|publisher=[[学研]]|isbn=978-4054009813|ref=ゲルリッツ}}
**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=[[2000年]]|title=ドイツ参謀本部興亡史 上(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010173|ref=ゲルリッツ文庫上}}
**{{Cite book|和書|author=ヴァルター・ゲルリッツ|translator=守屋純|year=2000年|title=ドイツ参謀本部興亡史 下(上記の文庫版)|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059010180|ref=ゲルリッツ文庫下}}
*{{Cite book|和書|editor=[[リデル・ハート]]|translator=[[小城正]]|year=[[1971年]]|title=ドキュメント ロンメル戦記|publisher=[[読売新聞社]]|asin=B000J9FKG6|ref=ハート}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン ピムロット]]|translator=[[岩崎俊夫]]|year=[[2000年]]|title=ロンメル語録―諦めなかった将軍|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120029912|ref=ピムロット}}
*{{Cite book|和書|author=[[アラン・ムーアヘッド]]|translator=[[平井イサク]]|year=[[1968年]]|title=砂漠の戦争―北アフリカ戦線1940-1943|publisher=[[早川書房]]|asin=B000JA4XMM|ref=ムーアヘッド}}
**{{Cite book|和書|author=[[アラン・ムーアヘッド]]|translator=[[平井イサク]]|year=[[1977年]]|title=砂漠の戦争(上記の文庫版)|publisher=[[ハヤカワ文庫]]|isbn=978-4150500085|ref=ムーアヘッド文庫}}
*{{Cite book|和書|author=[[F.W.フォン・メレンティン]]|translator=[[矢嶋由哉]]・[[光藤亘]]|year=[[1981年]]|title=ドイツ戦車軍団全史:フォン・メレンティン回想録|publisher=[[朝日ソノラマ]]|asin=B000J82VAA|ref=メレンティン}}
*{{Cite book|和書|author=[[山崎雅弘]]|year=[[2009年]]|title=ロンメル戦記|publisher=[[学研M文庫]]|isbn=978-4059012481|ref=山崎}}
*{{Cite book|和書|author=[[デズモント・ヤング]]|translator=[[清水政二]]|year=[[1969年]]|title=ロンメル将軍|publisher=[[月刊ペン社]]|asin=B000J9H39I|ref=ヤング}}
**{{Cite book|和書|author=デズモント・ヤング|translator=清水政二|year=[[1978年]]|title=ロンメル将軍(上記の文庫版)|publisher=[[ハヤカワ文庫]]|asin=B000J8NYIS|ref=ヤング文庫}}
*{{Cite book|和書|author=[[フリートリッヒ・ルーゲ]]|translator=[[加登川幸太郎]]|year=[[1985年]]|title=ノルマンディーのロンメル|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=978-4257170648|ref=ルーゲ}}
 
=== 戦史研究者脚注 ===
=== 注釈 ===
*[[パウル・カレル]](著)、[[松谷健二]](訳)、『砂漠のキツネ』、[[フジ出版社]]、1969年、[[中央公論新社]]、1998年、ISBN 4120028291
{{Reflist|group=#}}
*リデル・ハート(編)、小城正(訳)、『ロンメル戦記(原題:The Rommel Papers)』、[[読売新聞社]]、1971年
*Warren Tute(著)、''The North African War'', Sidewick & Jackson, ISBN 0-283-98240-3, 1976
*[[アラン・ムーアヘッド]](著)、[[平井イサク]](訳)、『砂漠の戦争』、[[早川書房]]、1977年、ISBN 4-15-050008-8
*[[デイヴィット・アーヴィング]](著)、[[小城正]](訳)、『狐の足跡-ロンメル将軍の実像-(上)(下)』、早川書房、1984年
*[[マーチン・ファン・クレフェルト]](著)、[[佐藤佐三郎]](訳)、『補給戦-何が勝敗を決定するのか』(「ロンメルは名将だったか」p.301-335)、[[中央公論新社]]、[[2006年]]、ISBN 4-12-204690-4
*A.J.Barker(著)、''Afrika Korps'', Bison Books, ISBN 0-89196-017-1, 1978
*Volkmar Kühn(著)、''Mit Rommel in der Wüste'', Motorbuch Verlag, ISBN 3-87943-369-0, 1984
*Dal McGuirk(著)、''Rommel's Army in Africa'', Motorbooks International, ISBN 0-87938-835-8, 1993
*山崎 雅弘(著)、"ロンメル戦記" (学研M文庫)ISBN 978-4-05-901248-1
* Cornelius Ryan(著)、''The Longest Day: The Classic Epic of D-Day'', Simon & Schuster, 1994, ISBN 0-671-89091-3
* Antony Beevor(著)、''D-Day: The Battle for Normandy'', Viking Adult, 2009, ISBN 0-670-02119-9
 
=== 写真集出典 ===
{{Reflist|3}}
*Bruce Quarrie(著)、''Panzers in the Desert'', Patrick Stephens, 1978 ISBN 0-85059-338-7
 
== 名前について ==
ファーストネームのErwinは日本では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。
 
姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}<div class="references-small"><references/></div>
 
== 関連項目 ==