「クリストファー・コロンブス」の版間の差分

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|死没地= {{KOC}} [[バリャドリッド]]
|職業= [[探検家]]、航海者、[[奴隷]]商人
|配偶者=フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス</br>[[ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ]]([[内縁]])
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|子供 =[[ディエゴ・コロン]]、[[フェルナンド・コロン]]
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'''クリストファー・コロンブス'''(Cristoforo Colombo、{{lang-en-short|Christopher Columbus}}、[[1451年]]頃 - [[1506年]][[5月20日]])は[[定説]]の上では[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]出身の[[探検家]]・[[航海者]]・[[コンキスタドール]]、[[奴隷]]商人。[[大航海時代]]において[[キリスト教世界]]の白人としては最初に[[アメリカ州|アメリカ]]海域へ到達したひとりである。
 
[[日本語]]では「クリストファー・コロンブス」の表記が定着しているが、他国語では通用しないことが多い。英語読みでは'''コロンバス'''である。これは当時の公文書のラテン語式表記の'''クリストフォルス・コルンブス'''(Christophorus Columbus)に由来する。
[[ファイル:Columbus_Signature.svg|right|300px|署名]]
'''クリストファー・コロンブス'''('''Cristoforo Colombo'''、英語式表記は'''Christopher Columbus''' , [[1451年]]頃 - [[1506年]][[5月20日]])は[[定説]]の上では[[イタリア]]の[[ジェノヴァ]]出身の[[探検家]]・[[航海者]]・[[コンキスタドール]]、[[奴隷]]商人。[[大航海時代]]において[[キリスト教世界]]の白人としては最初に[[アメリカ州|アメリカ]]海域へ到達したひとりである。
 
[[日本語]]また出身地とされているイタリアでは'''クリストファフォロ・コロンブス」の表記が定着しているが、他国語では通用しないことが多い。英語読みでは'''コロ (Cristoforo Colombo)、スペイバス'''ある。これ当時の公文書のラテン語式表記の'''クリストフォーバ・コブス'''(''ChristophorusCristóbal Columbus''Colón)に由来すと呼ばれる。
 
また出身地とされているイタリアでは'''クリストーフォロ・コロンボ''' (''Cristoforo Colombo'')、スペインでは、'''クリストーバル・コロン'''(''Cristóbal Colón'')と呼ばれる。
 
署名は '''Xpo Ferens''' (the cross bearer の意)と読める<ref>[http://danmcquiddy.blogspot.com/2009/10/xpo-ferens.html Xpo Ferens の説明]</ref>。
 
==ジェノヴァ時代==
== 生涯 ==
=== 前歴 生誕===
コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が有力<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280">[[#林屋、解説|林屋、解説p.278-280 (1) 生い立ち]]</ref>だが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。ともに[[毛織物]]職人一家で育った父ドミニコ・コロンと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子供がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。弟は1~2歳下に[[バルトロメ・コロンブス|バルトロメ]]と17歳下にジャコモ(後にディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、[[ワイン]]や[[チーズ]]の売買も行っていた。
[[ファイル:ColombusMap.jpg|350px|thumb|コロンブスの地図(1490)]]
[[毛織物]]業を営むドメニコ・コロンボの息子として[[1451年]]に生まれたとの文書があるが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。出身地に関しても[[スペイン]]、[[イタリア]]北部等諸説がありはっきりしていない。学会では少数ながら[[ユダヤ人]]の出身であるという説も唱えられている。若い頃から航海に関わっていたようではあるが、これも良く解らない。[[エーゲ海]]の[[キオス島]]へ交易航海に出たりしたといわれるが、はっきりしない。最近、[[ポーランド王]]の実の息子であるという説が出てきてDNAによる調査が開始される模様である(後節参照)。
 
[[ファイル:Colombus genoa.jpg|180px||thumb|ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント]]
[[1476年]]に航海に出た際に、乗船が戦争に巻き込まれて沈没し、弟のバルトロメがいる[[リスボン]]に身を寄せたという。[[アジア]]を目指していたかどうかは杳として解らないが、[[1477年]]に[[大西洋]]の向こう側の知識を求め[[アイスランド]]へ渡航した。<!--アイスランド・[[サーガ]]を閲覧する為か?-->[[1479年]]に結婚している。その後約一年間、[[マデイラ諸島]]のひとつに住み、1480年代の初めには少なくとも一回は、[[ギニア]]と[[ゴールドコースト]]まで航海をした<ref>「人物アメリカ史(上)」p15 ロデリック・ナッシュ著/足立康訳 新潮選書</ref>。
===海とのかかわり===
コロンブスと海とのかかわりは10代の頃から始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年には[[ルネ・ダンジュー|アンジュー公ルネ]]から対立する[[アラゴン王国]]の[[ガレー船]]・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗って[[チュニス]]に向かったという説もある<ref group="注">これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事([[#笈川|笈川p23-24]])、[[サルジニア]]で敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、[[方位磁針]]の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、[[太陽]]の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い([[#笈川|笈川p23-24]]、[[#ルケーヌ|ルケーヌp25-28]])という点が指摘されている。しかしルケーヌは、スペインと敵対した行為を、しかも標的が「フェルナンディア号」であったことをスペインの「フェルナンド2世」が読む手紙に自らへの心象を傷つける可能性がありながら記している点から、脚色を含みつつも航海そのものは事実だったと推察している([[#ルケーヌ|ルケーヌp28-29]])。</ref>。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ<ref name="masuda17-22">[[#増田|増田p.17-22 海に出る]]</ref><ref group="注">[[#笈川|笈川p27]]では「1478年から翌年」とあるが、同箇所には乗船が沈没しポルトガルに渡った時を「1476年8月」と明記しており、矛盾がある。</ref>、ロクサーナ号で<ref name="oikawa27-29">[[#笈川|笈川p.27-29 ポルトガル領、聖ヴィセンテ岬に漂着]]</ref>[[エーゲ海]]の[[キオス島]]へ行って乳香([[マスチック]])取引に関わったと、第一次航海誌にて述べている。
 
1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香を[[イギリス]]や[[フランドル]]へ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日<ref name="oikawa27-29" />、この船団が[[ブルゴーニュ]]の旗を掲げていたため、[[ポルトガル]]の[[サン・ヴィセンテ岬]]沖で当時敵対していた[[フランス]]艦船から攻撃を受け、船が沈没した。コロンブスは[[櫂]]につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス[[:en:Lagos, Portugal|(en)]]まで辿り着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスと[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある<ref group="注">[[#ルケーヌ|ルケーヌp32]]でルケーヌは、この海戦は本当はフランス・カタルーニャ連合に加わっていたカズノヴ・クーロン船長の私掠船にコロンブスが乗っていた際の戦いを指していたものを、同郷人の船を襲った良心の呵責から偽って1485年に起こった別の海戦の内容へ差し替えたと主張している。</ref>
このリスボンで[[エラトステネス]]や[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ|トスカネッリ]]の[[地球球体説]]に影響され、自分の航海経験を加味して西へ西へ進み続ければアジアへと到達できるという考えに達した。この時にコロンブスが想定していた地球像は実際のものより2割ほど小さいものであった。
 
==ポルトガル時代==
=== 船出 ===
===リスボンでのコロンブス===
[[1484年]]、[[ポルトガル]]の[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に航海のための援助を求める。ジョアン2世はこの提案を専門家に相談し、これを断った。コロンブスの航海距離の見積もりが短すぎる(2,400マイル, 3,860 km)というのがその理由であった。[[1488年]]に再び提案を行ったが、再度断られた。その頃ポルトガルは[[バルトロメウ・ディアス]]がアフリカの[[喜望峰]]に達して帰国したばかりであり、わざわざ新しい航路を開拓しなくても[[インド]]に着くと考えられていたからである。ポルトガルは自身を必要としていないと考えたコロンブスは、[[1486年]]に[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]とその夫[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]([[アラゴン王国|アラゴン]]王としてはフェルナンド2世)にも援助を願い出るが、良い返事は得られなかった。
彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りて[[リスボン]]へ移った<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。この時期は1477年春以降と考えられる<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282">[[#林屋、解説|林屋、解説p.280-282 (2) ポルトガルでの滞在]]</ref>。そこには、[[地図]]製作に従事する弟のバルトロメが住んでいた。コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月にはイギリスの[[ブリストル]]を経て[[アイルランド]]の[[ゴールウェイ]]そして[[アイスランド]]まで向かった。アイスランドには、かつて[[ヴァイキング]]が[[北アメリカ]]に植民地を築いたという「[[ヴィンランド]]伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは判っていない<ref name="oikawa36-38">[[#笈川|笈川p.36-38 「ヴィンランド」伝説]]</ref>。
 
1479年末頃、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ<ref name="oikawa40-42">[[#笈川|笈川p.40-42 名家の娘、フェリパと結婚]]</ref>)・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ<ref name="Lequenne43-48">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.43-48 弟のように、彼も地図製作者になる]]</ref>)と[[結婚]]した。なりそめはロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたという<ref name="hayashiya-kaisetsu278-280" />。しかし、フェリパの父は[[マデイラ諸島]]にある[[ポルト・サント島]]の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば[[貴族]]階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であった事、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかった事、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていた事などがあったと考察されている<ref name="oikawa40-42" /><ref name="Lequenne43-48" /><ref name="masuda23-27">[[#増田|増田p.23-27 ポルトガルとコロンブス]]</ref>。
当時のスペインでは[[イスラム]]勢力が占拠する[[グラナダ]]を攻めるために準備を整えていて、余裕がなかったためである。しかし[[1492年]][[1月2日]]に、スペインはグラナダを攻め落とし[[レコンキスタ]]を完遂すると、「地理上の発見」のための財政上の余裕ができ、またポルトガルに対する対抗心も手伝い、フェルナンド国王の財務長官であった[[ルイス・デ・サンタンヘル]]を初めとしたスペイン王室は、コロンブスに援助を与えることに決めた。4月17日、フェルナンドとイザベルは正式にコロンブスと契約した。イザベルは宝石まで与えたが、それは自身の指輪一つだけだったとも言われている。
 
===西廻り航海の着想===
結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年頃にそこで長男[[ディエゴ・コロン|ディエゴ]]に恵まれた。1481年ディオゴ・デ・アザンプージャ[[:en:Diogo de Azambuja|(en)]]が [[西アフリカ]]を南下し、[[エルミナ城]]を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わり[[ギニア]]と[[ゴールドコースト]]まで行った<ref>「人物アメリカ史(上)」p15 ロデリック・ナッシュ著/足立康訳 新潮選書</ref>と考えられている。ポルトガル側にこれを証拠付ける資料は無いが、コロンブスは第一次航海の日誌([[バルトロメ・デ・ラス・カサス]]編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや<ref name="masuda23-27" />、所蔵していた[[ピエール・ダイイ]]著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる<ref name="oikawa38-39">[[#笈川|笈川p.38-39 「熱帯にも人が住んでいた」]]</ref>点がその根拠とされる。
 
また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のために[[キューバ]]まで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島に辿り着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史』(Historia General y Natural de las Indias)を著したフェルナンデス・オヴェイド[[:en:Gonzalo Fernández de Oviedo y Valdés|(en)]]も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている。<ref group="注">[[#笈川|笈川p.98-100]]、ただし[[#増田|増田p.75]]では西アフリカ航海中に漂流者を拾い上げたとある。</ref>
 
この頃、コロンブスは積極的に[[スペイン語]]や[[ラテン語]]などの[[言語]]や[[天文学]]・[[地理]]そして航海術の習得に勤めた。仕事の拠点であるリスボンで彼は[[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ]]と知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに[[地球球体説]]は一般に信じられていたが、トスカネッリは[[マルコ・ポーロ]]の考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離は[[プトレマイオス]]の試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある[[黄金]]の国・[[ジパング]]に惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム[[:en:Martin Behaim|(en)]]とも交流を持ち意見を交換した説もある<ref>[[#笈川|笈川p.116-118 ベハイムとコロンブスのかかわり]]</ref><ref group="2-">アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般史』17世紀</ref>。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、<ref>[[#笈川|笈川p.100-101 5つの根拠]]</ref>
#地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
#地球の未知の部分はアジア東端から[[カーボベルデ|ベルデ岬諸島]]以西だけになった。
#2世紀の[[ギリシア]]人地理学者のマリヌス[[:en:Marinus of Tyre|(en)]]はヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たる。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
#マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。したがって未知の領域はさらに狭くなる。
#9世紀の[[イスラム]]人天文学者[[アルフラガヌス]]は経度1度=約56.6マイルと計算した。したがって未知の領域は56.6×360/3=約6.800マイル。しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。
この考えの根底には[[アリストテレス]]の地理観を引き継いだ中世[[キリスト教]]の[[普遍史]]観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から[[日本]]までを実際の10,600[[海里]]に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた<ref>[[#笈川|笈川p.126-128 実際の距離ははるかに長く]]</ref>。
 
===王室への提案===
1484年末頃<ref group="注">[[#増田|増田p.28]]では1483年末。</ref>、コロンブスはポルトガル王[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に航海のための援助を求めた。自信に溢れた弁舌に<ref group="2-">ポルトガル王室付き歴史家ジョアン・デ・バロス(1496年 - 1570年)『アジア』</ref>、ジョアン2世は興味をそそられた<ref name="masuda28-36">[[#増田|増田p.28-36 西廻り航海の構想]]</ref>。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった<ref group="注">ラス・カサス『インディアス史』にある内容だが、これは後にスペイン王室と結んだサンタフェ条約とまったく同一であり、[[#笈川|笈川(p45)]]はラス・カサスが誤った可能性を示唆している。</ref>。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンが[[コンゴ王国]]との接触に成功し<ref name="masuda28-36" />[[喜望峰]]に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した<ref name="Lequenne48-49">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.48-49 コロンブスはジョアン2世に、冒険を試みるために「許可状」と船を求めた]]</ref>。
 
再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず<ref name="Lequenne48-49" />、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金が無く<ref name="masuda28-36" />借金さえ抱えていた<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282" />。この頃、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年中頃、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた<ref name="hayashiya-kaisetsu280-282" />。
 
==スペイン時代==
コロンブスはリスボンから海路、スペインの[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]に着いた。そこから彼は[[ウエルバ]]のティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた<ref group="注">この行動について、[[#ルケーヌ|ルケーヌp.50]]は亡き妻フェリパの姉妹が当地におり、その伝を頼ったという。同書では、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はポルトガル人で、この姉妹と面識があった可能性を示唆している。</ref>。5歳の息子ディエゴを伴ったみすぼらしい姿の彼を、修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父は招き入れた。そこでコロンブスの話を聞いたペレス院長は感銘を受け、彼を天文学者でもある<ref name="oikawa45-48">[[#笈川|笈川p.45-48 ポルトガルからスペインへ]]</ref>[[セビリア]]のアントニオ・マルチェーナ神父へ紹介し、そこへ向かうために息子デォエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはメディナ・シドニーア公ドン・エンリケ・デ・グスマン<ref name="masuda28-36" />、そしてメディナ・セリ公(伯爵<ref name="oikawa45-48" />)ドン・ルイス・デ・ラ・セルダ<ref name="masuda28-36" />と面会する機会を得た。メディナ・セリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000-4,000[[ドゥカート]]相当の物資を準備することに合意した<ref name="oikawa45-48" /><ref group="2-">ラス・カサス『インディアス史』</ref>。
 
[[ファイル:ColombusMap.jpg|300px|thumb|コロンブスが作成したと言われる地図。これは19世紀に発見されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島の位置が逆になっているなど、疑問も提示されている。<ref name="Lequenne51-54">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.51-54 落胆と困窮のうちに、5年間の歳月が流れた]]</ref>]]
===カトリック両王への売り込み===
コロンブスへの援助に同意したメディナ・セリ公は、しかしこのような計画は王室への許可を得るべきだと考え[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた<ref name="masuda28-36" />。1486年5月1日<ref group="注">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.51]]によると「4月または5月」</ref>、メディナ・セリ公が紹介してコロンブスは[[コルドバ]]でイサベル1世とその夫[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]([[カトリック両王]])に謁見した。コロンブスの話しにフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられそこで評価されることになった。1486年だけで二度<ref group="注">[[#林屋、解説|林屋、解説p.283]](第1回会議は1486 年夏にコルドバにて、第2回は同年に[[サラマンカ]]にて)に準拠する。[[#増田|増田p.33]]は1486年秋と1487年春と表記。[[#笈川|笈川p.49]]は増田が示す場所のみ表記し、時期には触れず。</ref>委員会は開かれたが、特にコロンブスが示したアジアまでの距離が疑問視され、結論は持ち越された。
 
メディナ・セリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在しカトリック両王との面談を模索していた時期、コロンブスは[[医師]]や学者らと交流と持ち、この中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘[[ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ]]を紹介された<ref name = "Columbus essay1"> [http://www.megaessays.com/viewpaper/10276.html Christopher Columbus essay] </ref>。ふたりは恋愛関係となり、1488年8月15日に[[フェルナンド・コロンブス|フェルナンド]]が生まれた。だが、コロンブスはベアトリスと正式に結婚しなかった。
 
スペイン王室からは一向に判断が届かなかった。委員会長のタラベラやメンバーのひとり[[ドミニコ会]]のディエゴ・デ・デサらはコロンブスに好意を持ち、委員会が否定的結論を出そうとすると引き伸ばしにかかっていた<ref name="masuda28-36" /><ref group="注">委員長のタラベラが取った態度について、文献に差がある。[[#増田|増田p.33-34]]では「コロンブスに好意的」と言う。ところが[[#ルケーヌ|ルケーヌp.53]]では、サンタフェ条約締結後にタラベラはイサベル1世に手紙を送り、世界の果てを越えることは神に対する不遜な行為であり、コロンブスを[[異端審問]]にかけるよう主張したとある。</ref>。これに抉れたコロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、[[バルトロメウ・ディアス]]の[[喜望峰]]発見もあり、話が纏まることはなかった<ref group="注">[[#増田|増田p.34-36]]の内容に準ずる。[[#笈川|笈川p.50]]ではジョアン2世はコロンブスを招待したが喜望峰の件で頓挫したと、[[#林屋、解説|林屋、解説p.283]]ではコロンブスはポルトガルに向かい再度謁見したが同じ理由で立ち消えになったとある。[[#ルケーヌ|ルケーヌp.53-54]]では、手紙の返事にジョアン2世は旅券を送ったが、コロンブスは用心深くポルトガルに向かわなかったとある。</ref>。また弟バルトロメを[[イギリス]]の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]や[[フランス]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の元に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉[[アンヌ・ド・ボージュー]]の歓待を得てバルトロメは[[フォンテーヌブロー]]の宮殿に数年間滞在した<ref name="hayashiya-kaisetsu282-285">[[#林屋、解説|林屋、解説p.282-285 (3)スペインでの7年間]]</ref>。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。
 
一方のスペイン王室は、1489年5月12日付けでコロンブスが王室に謁見する時に必要な宿泊費を無料にする通達を出す<ref name="hayashiya-kaisetsu282-285" />など不規則ながら金銭的援助を行い<ref name="Lequenne51-54" />、決して彼を邪険にしていた訳ではなかった。しかし1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出した。コロンブスは諦め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話しを聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。この動きへの反応はわずか2週間後、コロンブスの下に王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。
 
[[ファイル:Elizabeth1SpainSacramentoCA.jpg|180px||thumb|イザベル1世とコロンブス。カリフォルニア州議事堂]]
しかし1491年、枢機院もまた案を否決した。コロンブスはこれで万策尽きたと、弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここに、[[ルイス・デ・サンタンヘル]]が登場し、状況を一変させた。[[財務大臣|財務長官]]であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。元々興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15kmほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的とも言える出来事を解説する銅版がある<ref>[[#笈川|笈川p.52-53 西航計画、実現]]</ref>。
 
===サンタフェ契約===
1492年4月17日、[[グラナダ]]郊外の[[サンタフェ (アンダルシア州)|サンタフェ]]にて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、
#コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
#コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)及び総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
#提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
#提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
#コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。
というものだった。<ref>[[#林屋、訳注|林屋、訳注p.254-255 (6)]]</ref>
 
航海の経費は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心となって調達された。彼は、警察機構サンタ・エルマンダーの経理担当であったジェノヴァ人フランチェスコ・ピネリと協力して140万[[マラベディ]]を、さらにアラゴン王国の国庫から35万マラベディを調達しコロンブスに提供した<ref name="masuda37-42">[[#増田|増田p.37-42 イザベル女王の決断]]</ref>。これは、イサベル1世が戴冠用宝玉を担保に供出することを防ぐことが目的だった<ref>{{cite web|url= http://www.amuseum.org/jahf/virtour/index.html#santangel |title= Luis de Santangel|publisher=JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME|accessdate=2010-03-15}}</ref>。コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナ・セリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった<ref name="Lequenne58-60">[[#ルケーヌ|ルケーヌp.58-60 これほど大それた冒険だというのに、資金の心細さは前代未聞だった]]</ref>。
 
== 航海 ==
=== 船出 ===
1492年[[8月3日]]、[[大西洋]]を[[インド]](インディア)を目指して[[パロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]港を出航した。この時の編成は[[キャラベル船]]の[[ニーニャ号]]と[[ピンタ号]]、[[キャラック船|ナオ船]]の[[サンタ・マリア号]]の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
 
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=== 「新大陸」上陸 ===
 
[[ファイル:Columbus routes.png|300px|thumb|コロンブスの航路]]
そして[[10月11日]]の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領して[[サン・サルバドル島]]と名づける(サン・サルバドルという名前には、「聖なる救世主」という意味がある。この名前は、上にあるように船内が荒れていた時に発見し、ほっとして思わず付けてしまったという説もある。又以前スペインに滞在した際、近くの教会の名をつけた)。
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[[黒人]]作家の[[w:Ishmael Reed|イスマエル・リード]]はこう発言している。「コロンブスの上陸をきっかけに、人類の災厄が起こったということがありうるでしょうか? たとえばオゾンがどんどん減っていくことで地球は暖まります、そして、熱帯雨林は破壊されますね?」<ref>『First Things』(Dinesh D'Souza、1995年)</ref>
 
== 出自に関する諸説 ==
== その他 ==
コロンブスに関してはその出自が明らかではない事、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていない事等から様々な異聞が流れている。また、残されている肖像画は全て本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知る術は無い。
 
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[[ナショナル・ジオグラフィック]]がこれに強い興味を持ち、プロデューサーを急遽スペインとポルトガルに派遣している。<ref>http://www.prnewswire.com/news-releases/polish-king-in-exile-was-christopher-columbus-true-father-110810919.html</ref>
 
=== 「コロンブスの卵」 ===
「新大陸発見」を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返した。これが「'''コロンブスの卵'''」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われているが、逸話自体は「後世の創作である」とする説が一般的である。
 
しかし、[[ヴォルテール]]は『習俗論』(第145章)にてこれは[[建築家]][[フィリッポ・ブルネレスキ]]の逸話が元になった創作だと指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した<ref>[[#ルケーヌ|ルケーヌp.154-155 コロンブスの卵の真実]]</ref>。
 
== 関連項目 ==
{{commons|Christophorus Columbus}}
* 航海に参加した船
** [[サンタ・マリア号]] - [[新大陸]]への最初の航海における旗艦
** [[ピンタ号]] - 新大陸への最初の航海に参加。船長は[[マルティン・アロンソ・ピンソン]]
** [[ニーニャ号]] - 第3回までの3つの航海に参加。第1回の時の船長は[[ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン]]
* [[コロンビア]] - コロンブスの名に由来して命名された国
* [[クリストバル・コロン山]] - コロンビア北部の山
* [[コロンビア (曖昧さ回避)]] - その他、コロンブスの名に由来するものの一覧
* [[レイフ・エリクソン]] - コロンブス以前に[[北アメリカ|北米]]へ達していた[[ノルマン人]]
** [[アイスランド]]へ赴いた理由は、[[北ヨーロッパ|北欧]]の[[伝承]]「[[サガ]]」を閲覧するのが目的だったと言われている
* [[アメリカ大陸の発見]] - 公式には、ヨーロッパ人初の「発見」者と見なされる
**[[アメリカ州]]
* [[先コロンブス期]] - コロンブス到達以前を表す南北アメリカ大陸の時代区分
* [[コロンブス交換]] - 新大陸発見により相互の世界にもたらされた効果
* [[1492 コロンブス]] - 新大陸発見を描いた[[1992年]]公開の映画
* [[冒険者 (テレビアニメ)|冒険者]] - コロンブスの生涯を描いたテレビアニメ
* [[ディエゴ・デ・アラーナ]] - コロンブスの航海に同行
* [[ディエゴ・コロン]] - 長子、後継者
* コロンブスの名を付した[[スペイン海軍]]の軍艦
** [[クリストーバル・コロン (巡洋艦)]]
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** [[クリストーバル・コロン (フリゲート)]]
* [[アメリゴ・ヴェスプッチ]] - コロンブスより後にアメリカ海域に到達に成功したものの、アメリカ大陸の名前の由来となった人物。
* [[民族浄化]]
* [[大量虐殺]]
* [[奴隷]]
* [[植民地]]
* [[植民地主義]]
* [[白人至上主義]]
* [[人種差別]]
* [[ホロコースト]]
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references/></div>
{{脚注ヘルプ}}
<div class= "references-small">
<references group="注"/>
</div>
=== 脚注 ===
{{Reflist}}
=== 脚注2 ===
本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
{{Reflist|group="2-"}}
 
== 参考文献 ==
* [[ラス・カサス]] 『インディアス史』([[岩波文庫]]全7冊) [[長南実]]訳、石原保徳編、2009年<br> 元版は[[岩波書店]]〈[[大航海時代叢書]]〉 、コロンブス(クリストバル・コロン)の生い立ちと航海について記述がある。
*{{Cite book|和書|author=ラス・カサス|year=1977|title=コロンブス航海誌|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-334281-X|ref=カサス}}
 
*{{Cite book|和書|author=林屋永吉|year=1977|title=コロンブス航海誌/ラス・カサス、訳者解説|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-334281-X|pages=273-297|ref=林屋、解説}}
*『コロンブス航海誌』 岩波文庫、[[林屋永吉]]訳-元版は同じく「大航海時代叢書」
*{{Cite book|和書|author=林屋永吉|year=1977|title=コロンブス航海誌/ラス・カサス、訳註|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-334281-X|pages=253-272|ref=林屋、訳注}}
*{{Cite book|和書|author=ミシェル・ルケーヌ|others=訳:大貫良太|year=1992|title=コロンブス-聖者か破壊者か-|publisher=創元社|isbn=4-422-21071-8|pages=|ref=ルケーヌ}}
*{{Cite book|和書|author=[[笈川博一]]|year=1992|title=コロンブスは何を「発見」したか|publisher=[[講談社]]現代新書|isbn=4-06-149100-8|ref=笈川}}
*{{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]|year=1979|title=コロンブス|publisher=[[岩波書店]]|isbn=|pages=|ref=増田}}
 
== 外部リンク ==