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'''藩政時代'''(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の[[郷土史]]を指す語として使われる例が多い。
 
=== 江戸時代初期・前期 ===
[[ファイル:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]]
[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと、自領である江戸に幕府を開き、ここに[[江戸幕府]](徳川幕府)が誕生する。[[豊臣政権]]崩壊後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の陣]](大坂の役)により[[豊臣氏]]勢力を一掃。長く続いた政局不安は終焉を迎えた。
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なお、「[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]](享保11年)頃に吉宗に提出した政治改革論『[[政談]]』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]](享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、後に幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]](享保15年)、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]](石門心学)を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。
 
その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済等様々な分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
 
=== 江戸時代後期 ===
幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。これを打開するため、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し、さらに大規模な[[新田開発]]と[[蝦夷地]]開発を試みたのが[[田沼意次]]であった。
 
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対外対策では、[[林子平]]の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者[[大黒屋光太夫]]を送り届けたロシアの[[アダム・ラクスマン]]の通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な姿勢で臨んだ。[[七分積金]]や[[人足寄場]]の設置など、今日でいう[[社会福祉]]政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として[[町人]]・[[百姓]]に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、民衆の離反を招いた。また、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。
 
その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済等様々な分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
 
=== 江戸時代後期 ===
[[ファイル:Tokugawa_Ienari.jpg|130px|left|thumb|[[徳川家斉]]]]
発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。またこの頃より昭和の前半までは国内が小氷河期に入り[[1822年]]には[[隅田川]]が凍結している。