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|人員 =450万([[長いナイフの夜]]時) <ref name="長谷川(1996)30">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.30]]</ref>
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|主な戦歴 = [[ミュンヘン一揆]]<br>街頭闘争<br>[[第二次世界大戦]]
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<!-- {{Otheruses|国家社会主義ドイツ労働者党の準軍事的な組織|ノルウェイの森の登場人物|ノルウェイの森#登場人物}} -->
'''突撃隊'''(とつげきたい、[[ドイツ語|独]]:'''S'''turm'''a'''bteilung, 略号:'''SA''')は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の[[準軍事組織]]。[[制服]]の色から「'''褐色シャツ隊'''」とも呼ばれる<ref name="テーラー(1993)179">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.179]]</ref>。
== 概要 ==
ナチスの党集会の会場警備隊が改組されて創設された。初期の頃は[[エルンスト・レーム]]の斡旋により[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]から流れてきた者を多く受け入れたため、党から独立的な準軍事組織だった。1923年11月の[[ミュンヘン一揆]]に参加したが、一揆の失敗で一時期禁止された。1925年にナチス党と共に再建され、党に従属する準軍事組織として再出発した。党集会の警備、[[パレード]]行進、[[ドイツ社会民主党]](SPD)の[[国旗団 (ドイツ社会民主党)|国旗団]]や[[ドイツ共産党]](KPD)の[[赤色戦線戦士同盟]]との街頭闘争などを行った。ナチス政権掌握直後の1933年には補助警察となり、政敵の弾圧にあたった。しかし突撃隊は下層民も多い大衆組織であったため、[[社会主義]]的な思想を持つ隊員が多く、[[ドイツ国防軍|国防軍]]などの保守勢力との連携を深める[[アドルフ・ヒトラー]]にとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレームをはじめとする突撃隊幹部が[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)によって粛清された([[長いナイフの夜]])。粛清後には影響力を大きく落とし、国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになった。
== 歴史 ==
=== 前身 ===
当時のドイツでは、政党の集会や演説会
[[1919年]]11月のエーベルブロイケラー(Eberlbräukeller)でのナチスの党集会において初めて会場警備を専門とする部隊が設置された<ref name="桧山(1976)32">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.32]]</ref>。この会場警備部隊は[[1920年]]夏に「整理隊」と名付けられ、ナチス党集会の防衛、あるいは敵対政党への妨害活動を行った<ref name="村瀬(1968)97">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.97]]</ref>。発足当初の隊員数は25名程度で[[エミール・モーリス]]が隊長をしていた<ref name="桧山(1976)34">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.34]]</ref>。
ミュンヘンに駐留する[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]第7軍管区司令部将校[[エルンスト・レーム]]大尉(彼は[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]と志願制郷土軍の維持強化の任にあたっていた)の支持を取り付けた[[アドルフ・ヒトラー]]はナチス
=== クリンチ
党首となったヒトラーは1921年[[8月3日]]に会場警備隊(整理隊)を「体育およびスポーツ隊(Turn- und Sportabteilung)」と改称のうえ、[[ハンス・ウルリヒ・クリンチ
クリンチュはナチス党員ではなく、旧[[エアハルト海兵旅団]]から生まれた[[右翼]]テロ組織「[[コンスル (テロ組織)|コンスル]]」のメンバーであった。この人選はレーム大尉の要請によるものであった。レームは政府により禁止された義勇軍・郷土軍を「体育およびスポーツ隊」に送り込み、義勇軍の維持を図ろうとしていた<ref group="注釈">1920年と1921年に[[ヘルマン・ミュラー]]内閣や[[ヨーゼフ・ヴィルト]]内閣は[[ヴェルサイユ条約]]の遵守のために義勇軍や郷土軍に解散命令を出したが、完全に消失せず、特にはじめ[[バイエルン州]]が解散命令を無視した。しかし内外の圧力でバイエルン州も[[1921年]][[6月28日]]には解散に同意した。レームはなおも義勇軍解散に反対し、なんとか存続させる方法を模索していた。そのために彼は[[ニュルンベルク]]市に「帝国旗団」([[:de:Wehrverband Reichsflagge|de]])、[[ニーダーバイエルン]]に「ニーダーバイエルン闘争団」など偽装組織を次々と創設していた。体育およびスポーツ隊(突撃隊)も偽装組織の一つにできると目を付けられた組織であった(桧山、43-46p)</ref>。そのためにクリンチュを新しい隊長に推挙したのだった。一方ヒトラーもコンスルの前身のエアハルト海兵旅団を高く評価していたので、この要請を承諾したという<ref name="桧山(1976)46">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.46]]</ref>。以降、義勇軍組織(特にエアハルト海兵旅団)とナチスの連携関係ができあがった<ref name="村瀬(1968)99-101">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.99-101]]</ref>。
[[9月10日]]にヒトラーは「体育およびスポーツ隊」を改組して突撃隊(Sturmabteilung、略称SA)を創設することを発表した<ref name="阿部(2001)81">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.81]]</ref>。[[11月4日]]にナチス党集会に乱入してきた[[ドイツ社会民主党|社民党]]員800人<ref group="注釈">襲撃人数は「[[我が闘争]]」の記述。当時の[[フェルキッシャー・ベオバハター]]では300人、またヒトラーが当時行った報告では450人となっている。また、[[ドイツ社会民主党]]系の日刊紙『ミュンヒナー・ポスト』の11月5日号は、集会を「粉砕した」としている(村瀬、103p)</ref>を50人足らずの突撃隊員が撃退した<ref name="桧山(1976)47">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.47]]</ref><ref name="フェスト(1975)上188">[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)上巻、p.188]]</ref><ref name="村瀬(1968)103">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.103]]</ref>。これを機に正式に突撃隊の名称を与えられた<ref name="桧山(1976)47"/>。
突撃隊となった後も隊長は引き続きクリンチュが務めた。初期の突撃隊幹部は、ヒトラーの要請に応じて派遣されたエアハルト海兵旅団の指導者たちが占めていた。クリンチュと、後に突撃隊最高指導者となる[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]はその代表である。クリンチュらの俸給はエアハルト海兵旅団から支払われており、派遣された団員達は引き続きエアハルト海兵旅団の指揮下にあり、半独立的な義勇軍組織としての一面を持っていた<ref name="村瀬(1968)100-101">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.100-101]]</ref>。エアハルト海兵旅団は[[カップ一揆]]に参加して非合法とされたため、ナチスへの参加は組織を温存するためにも有効であった。またこの時点のナチスにもエアハルト海兵旅団の高い声望を利用し、[[オーバーバイエルン]]全体に勢力を広げることができるというメリットがあった。そして軍の立場からナチスに関与していたレームにも、連合国によって解散命令の出たドイツ義勇軍隊員の受け皿として、突撃隊拡充は歓迎すべきことであった<ref name="村瀬(1968)100-102">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.100-102]]</ref>。やがてエアハルト海兵旅団のみならず[[ベルリン]]の[[ロスバッハ義勇軍]]([[:de:Sturmabteilung Roßbach|de]])のミュンヘン支部の[[エドムント・ハイネス]]らも突撃隊に参加するようになった<ref name="桧山(1976)48">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.48]]</ref><ref name="フェスト(1975)上190">[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)上巻、p.190]]</ref>。
ヒトラーは再三にわたって「突撃隊はナチ党の組織であって党中央の決定に従わねばならない」ことを強調したが、こうした他の組織から来ている隊員らはあまりナチ党の規律を気に留めなかったという<ref name="桧山(1976)48"/>。[[1923年]]3月まで突撃隊への指示は、実質的にミュンヘンのドイツ義勇軍に大きな影響力を持っていたレームの事務所が行っており、ヒトラーもしばしば彼の元を訪れていた<ref name="村瀬(1968)118">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.118]]</ref>。とはいえ突撃隊に流れてくる義勇軍兵士は義勇軍の中でも「政治化」した部類の者たちが多かった<ref name="桧山(1976)48">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.48]]</ref>。ヒトラーと義勇軍の間に政治的意見の相違はほとんどなかったから、ほとんどの場合ヒトラーは突撃隊を自由に政治運動へ参加させることができた<ref name="村瀬(1968)101">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.101]]</ref>。この頃の突撃隊員は、ミュンヘン市内の交通費・飲食費などが自腹であり、このため末端の突撃隊員にとって、頻繁に動員される党活動は重い負担であったが、自己の信念から自発的に参加し続けていた<ref name="村瀬(1968)119">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.119]]</ref>。ミュンヘン一揆前の突撃隊は他の民間軍事同盟とほとんど変わりがなく、軍事・政治知識の授業、隊列を組んでの行進、党および友好団体への参加などを行っていた<ref name="村瀬(1968)105">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.105]]</ref>。
この頃の隊員数は1921年末の時点で100人未満、[[1922年]]9月の時点で800人未満であったと推定されている<ref name="桧山(1976)47"/><ref name="村瀬(1968)114">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.114]]</ref>。1922年夏に突撃隊は[[百人隊]]と呼ばれる単位によって編成されることとなった。ただし百人隊は必ずしも100人の隊員がそろっていたわけではなかった<ref name="桧山(1976)47"/>。
1922年[[3月18日]]には年齢的に突撃隊に入隊できない若年層のために青少年部を設置することが発表された。これが後の[[ヒトラー・ユーゲント]]となる組織であるが、当初は突撃隊の下部組織と定められていた<ref name="平井(2001)7">[[#平井(2001)|平井(2001)、p.7]]</ref>。ヒトラー・ユーゲントが突撃隊から独立するのは[[1932年]]5月になってのことである<ref name="Littlejohn(1990)3"/>。
=== ゲーリング時代 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-13374, Neustadt, Motorrad-Patrouille der SA.jpg|thumb|250px|小銃で武装し、バイクでパトロールする突撃隊員(1923年)]]
[[1923年]]1月に[[フランス軍]]が「ドイツの[[ヴェルサイユ条約]]不履行」を理由に[[ルール地方]]を占領した。[[ドイツ陸軍]]総司令官[[ハンス・フォン・ゼークト]]将軍は憤慨し、「フランスによる不法占領には再軍備で答える」と宣言した。ミュンヘンの国軍第7軍管区司令部からナチスの突撃隊も民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められた。ヒトラーは当初嫌がっていたが、レームの説得でしぶしぶ了承した。こうして3月から突撃隊は軍の訓練を受ける事となった<ref name="桧山(1976)59">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.59]]</ref>。
しかし突撃隊の指揮権を軍に奪われる事を恐れるヒトラーはレームの息のかかったクリンチュを解任してヒトラーの熱心な支持者であった[[ヘルマン・ゲーリング]]を代わりの突撃隊司令官に任じている<ref name="桧山(1976)59"/>。ゲーリングはエアハルト旅団から参加した信用のおけない隊員を一掃し、突撃隊をヒトラーに忠誠を誓う組織に改編していった<ref name="阿部(2001)89">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.89]]</ref>。ゲーリングは突撃隊を3個[[大隊]]からなる1個[[連隊]]で編成し、13個[[中隊]]で1個大隊を構成させた。連隊長には[[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]が就任した<ref name="桧山(1976)59"/>。隊員数も増し、1923年11月の[[ミュンヘン一揆]]までに3000人ほどになった<ref name="桧山(1976)47"/>。
突撃隊の訓練を行ったのは軍の工兵第7連隊と歩兵第19連隊第一大隊で、突撃隊は小銃、機関銃等の扱いを学んだ<ref name="村瀬(1968)118">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.118]]</ref>。突撃隊に砲兵隊や騎兵隊、自転車中隊や軍楽隊などの組織が作られた。軍の影響力はさらに強まり、[[7月11日]]には「(突撃隊は)党の地区組織や党指導部から分離された、国民社会主義運動内部における別個の組織である。隊は突撃隊司令部の命令に従う」という命令が出された<ref name="村瀬(1968)130">[[#村瀬(1968)|村瀬(1968)、p.130]]</ref>。
しかし
=== ミュンヘン一揆 ===
1923年[[11月8日]]午後8時30分、ヒトラーは闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中の[[ビュルガーブロイケラー]]を占拠し、[[ミュンヘン一揆]]を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない<ref name="桧山
軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、[[11月9日]]12時30分、ルーデンドルフとともに闘争同盟を率いてミュンヘン中心部オデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。アドルフ・ヒトラー衝撃隊が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した<ref name="トーランド(1979)上191">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.191]]</ref>。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、[[オーストリア]]へ国外逃亡した<ref name="Littlejohn(1990)4">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.4]]</ref>。一方[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター]]と腕を組んでいたヒトラーはショイブナー=リヒターが撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された<ref name="阿部
=== 禁止時代のフロントバン ===
ヒトラーやレームら逮捕された一揆指導者は裁判にかけられ
ヒトラーの委任を受けるレームは
=== 突撃隊再建 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 119-0779, Sturmabteilung aus Essen.jpg|thumb|right|250px|1926年7月、[[エッセン]]大管区指導者[[ヨーゼフ・テアボーフェン]](背広の人物)とエッセンの突撃隊員達]]
1924年[[12月20日]]にヒトラーは仮釈放され、[[1925年]][[2月27日]]に[[ビュルガーブロイケラー]]でナチスの再結成を宣言した。フロントバン・ミュンヘン司令部の隊員達が真っ先にナチスに復帰して突撃隊の活動を再開した<ref name="桧山
3月末から4月にかけてヒトラーとレームは突撃隊の再建にあたって、突撃隊をナチ
再建時から突撃隊の制服にはロスバッハ義勇軍指導者[[ゲルハルト・ロスバッハ]]([[:de:Gerhard Roßbach|de]])中尉が1924年に安価に入手した褐色シャツ制服が使用されるようになった(制服については[[#突撃隊の制服|後述]])<ref name="トーランド(1979)上251">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.251]]</ref><ref name="山下(2010)286">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.286]]</ref><ref name="Littlejohn(1990)8">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.8]]</ref>。
=== ザロモン時代 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-054-53A, Nürnberg, Reichsparteitag.jpg|thumb|right|250px|1927年8月、[[ニュルンベルク]]での[[ナチ党党大会|党大会]]。ヒトラーの右後ろの人物が突撃隊司令官[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]]]
党組織の再建がだいぶ進み、ヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。
ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。'''旅団'''(2~5個連隊で構成)、'''連隊'''(2~5個大隊で構成)、'''大隊'''(2~4個中隊で構成)、'''中隊'''(5~8個団で構成)、'''団'''(6~12人で構成)という[[指導者原理]]に基づく垂直組織で構成させた。特に大隊を日常の活動の基本単位とした。[[1927年]]初頭には18個大隊が存在した<ref name="桧山
突撃隊員数はザロモンの突撃隊最高指導者職就任時に2万人<ref name="長谷川(1996)27">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.27]]</ref>、[[1927年]]8月に3万人<ref name="Littlejohn(1990)5">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.5]]</ref>、[[1929年]]8月には5万人、[[1930年]]10月には6万人ほどになった<ref name="桧山(1976)153">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.153]]</ref>。ただ突撃隊の隊員は大多数が10代か20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇軍兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、隊員の大多数は従軍経験のない世代に変貌した<ref name="桧山(1976)114">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.114]]</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 147-0503, Nürnberg, Horst Wessel mit SA-Sturm.jpg|thumb|left|250px|[[ニュルンベルク]]で突撃隊部隊を率いて行進する[[ホルスト・ヴェッセル]](1929年)]]
同年3月頃には[[ヤング案]]に対するナチスの反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば突撃隊から離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、社民党の[[国旗団 (ドイツ社会民主党)|国旗団]]や共産党の[[赤色戦線戦士同盟]]との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった<ref name="桧山(1976)154">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.154]]</ref>。そのため[[6月5日]]に[[バイエルン州]]でナチスの制服が禁止された。さらに6月11日には[[プロイセン州]]政府、6月13日にはバーデン州でも禁止されている<ref name="桧山(1976)154"/><ref name="フェスト(1975)上360">[[#フェスト(1975)上|フェスト(1975)上巻、p.360]]</ref>。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた<ref name="フェスト(1975)上360"/>。
ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった<ref name="桧山(1976)155">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.155]]</ref>。
ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年にザロモンがSA最高指導者に就任した直後に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]が突撃隊の傘下となっており、[[1934年]]までその状態が続いた<ref name="山下(2010)39">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.39]]</ref>。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)と自動車突撃隊(Motor-SA)、突撃隊海軍(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は1933年にドイツ空軍の前身[[ドイツ航空スポーツ協会]](DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に[[国家社会主義自動車軍団]](NSKK)として突撃隊から独立している<ref name="Littlejohn(1990)20-22">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.20-22]]</ref>。
=== シュテンネスの反乱 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 119-2608, Walther Hinkler-Stennes.jpg|thumb|150px|[[ヴァルター・シュテンネス]]]]
1930年[[7月18日]]に国会が解散された後の[[8月1日]]、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した<ref name="桧山(1976)156">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.156]]</ref>。不服に思ったザロモンは[[8月12日]]に突撃隊司令官を辞職した(9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任した)<ref name="阿部
ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に
=== レーム時代 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-12258, Gera, Adolf Hitler beim Hitlertag.jpg|thumb|250px|突撃隊員を閲兵するヒトラーとレーム(1931年9月)]]
選挙後の1930年11月末にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく突撃隊員の待遇改善を約束し、突撃隊員の人望厚いレームを南米[[ボリビア]]から呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した<ref name="阿部(2001)172"
1931年春、レームによって突撃隊を政治組織に従属させるための機構改革が行われた。大管区の突撃隊連隊は[[大管区指導者]]の指揮下とした。これによって大管区指導者は政治宣伝やデモに突撃隊員を動員できるようになった<ref name="桧山
1931年4月2日にシュテンネスの再反乱があったが、ゲッベルスが動員したダリューゲの親衛隊部隊が鎮圧に成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。シュテンネス一派1万人が党と突撃隊を去ることとなった<ref name="阿部
しかしこれによって突撃隊の過激派勢力が弱まったわけではなかった。ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、彼らに食事や宿舎の提供を行った為に[[世界恐慌]]の影響で巷にあふれかえる[[失業者]]が続々とナチスや突撃隊に続々と参加したためである。こうした者は[[反資本主義]]的で革命的な政治的急進派が多かった。こうした革命志向の隊員達は、「制服は褐色だが中身は赤い」として
1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチスが政権を掌握する直前の1933年1月には50万人以上に達した<ref name="
[[1932年]]3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチスの勢いを恐れた[[ハインリヒ・ブリューニング]]首相は突撃隊と親衛隊の禁止命令を出し、各地の突撃隊施設が当局に抑えられた<ref name="阿部(2001)194">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.194]]</ref><ref name="桧山(1976)198">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.198]]</ref>。しかしこの禁止命令に国防次官[[クルト・フォン・シュライヒャー]]は反対であり、彼はナチスと共同して倒閣活動を行った。結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とする[[フランツ・フォン・パーペン]]内閣が成立した<ref name="桧山
レームが突撃隊幕僚長になってから突撃隊で同性愛が公然化した。社民党の機関紙『ミュンヒナー・ポスト』も「ナチスは反同性愛政党でありながら身内の同性愛行為には目をつぶっている」と批判した<ref name="星乃(2006)125">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.125]]</ref>。当時のドイツでは同性の性交渉は刑法175条によって禁止されていた(この条項は1994年になって廃止された)<ref name="星乃(2006)127・183">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.127/183]]</ref>。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」と述べており、突撃隊で同性愛が横行したのは彼らの革命的性質とも無関係ではなかったようである<ref name="星乃(2006)127">[[#星乃(2006)|星乃(2006)、p.127]]</ref>。
=== 政権掌握 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 137-048390, Berlin, SA-Aufmarsch am Brandenburger Tor.jpg|250px|thumb|ヒトラーの首相就任を祝い、[[ブランデンブルク門]]を松明行進する突撃隊員たち(1933年1月30日)]]
[[1933年]]1月30日夕刻、ヒトラーのドイツ首相就任を知った人々は大統領官邸に押し寄せていた。午後6時頃に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領とヒトラーとパーペン副首相が人々の前に姿を見せた。続いて松明を持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。ベルリンは翌1月31日に入った午前1時ぐらいまでお祭り騒ぎになった<ref name="桧山(1976)257">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.257
[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]勢力の強い[[プロイセン]]州の[[内務大臣]]となったゲーリングは、突撃隊と親衛隊の隊員を警察幹部に就任させた。[[ハノーファー]]警察長官に[[ヴィクトール・ルッツェ]]、[[ドルトムント]]警察長官に[[ヴィルヘルム・シェップマン]]、[[ブレスラウ]]警察長官に[[エドムント・ハイネス]]、[[ポツダム]]警察長官に[[ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ]]などが就任している<ref name="桧山(1976)259">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.259]]</ref>。
[[File:Bundesarchiv Bild 102-02920A, Berlin, Verhaftung von Kommunisten durch SA.jpg|250px|left|thumb|共産党員を逮捕する突撃隊員(1933年3月6日)]]
ゲーリングは1933年2月20日に突撃隊員と親衛隊員合わせて5万人と[[鉄兜団]]1万人をプロイセン州警察の補助警察官として動員する事を決定した<ref name="阿部(2001)219">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.219
[[File:SA Jews.jpg|250px|thumb|突撃隊員によるユダヤ人商店街のボイコット運動(1933年4月1日)
[[ハインリヒ・ヘルト]]のバイエルン州政府が解体された後、レームは同州の州委員に任じられた。1933年3月12日にレームはバイエルンの7つの群知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として配置した<ref name="桧山(1976)263・276">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.263
しかしヒトラーもドイツ内相[[ヴィルヘルム・フリック]]もプロイセン州首相・内相ゲーリングも過激派の多い突撃隊に警察権力を集中させることには反対だった。警戒したゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「[[第二革命]]」を叫ぶようになり、1933年8月以降ドイツ各地で暴動を起こすようになった<ref name="桧山(1976)277"
=== 「第二革命」 ===
政権掌握前や政権掌握直後のナチスの闘争期において突撃隊が大きな力になったことは疑いないが、ナチス独裁体制が安定するにつれて突撃隊は必要とされなくなっていった<ref name="フライ(1994)14">[[#フライ(1994)|フライ(1994)、p.14]]</ref>。保守派との協力を重視するヒトラーは、[[グスタフ・クルップ|クルップ・フォン・ボーレン]]=テュッセン雇用者協会を復活させたり、大百貨店に敵対する[[小売業]]闘争同盟を解散させるなど保守政策を次々と打ち出したが、こうした態度は社会主義的な突撃隊員の不満を助長した<ref name="テーラー(1993)180">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.180]]</ref>。資本家や地主との妥協を止め、社会主義的政策を打ち出すことを求める「第二革命」運動が突撃隊内で強まった<ref name="長谷川(1996)29">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.29]]</ref>。突撃隊員の声を代弁するレームも公然と「第二革命」を唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した<ref name="桧山(1976)278">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.278]]</ref><ref name="フェスト(1975)下85-86">[[#フェスト(1975)下|フェスト(1975)下巻、p.85-86]]</ref>。
レームは9月1日にバイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、群政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を「第二革命」に動かそうとした<ref name="桧山(1976)278-279">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.278-279]]</ref>。10月にはゲーリングの支配するプロイセン州にも突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。ゲーリングは突撃隊政治部長[[ゲオルク・フォン・デッテン]]([[:de:Georg von Detten (SA-Führer)|de]])から[[国会議事堂放火事件]]の真相を暴露すると強請られて渋々認めたという<ref name="桧山(1976)279">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.279]]</ref>。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、ヒトラー政権は早晩崩壊するだろうという噂がたった<ref name="桧山(1976)279">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.279]]</ref>。
ヒトラーは突撃隊特別全権官と州政府を少しでも一体化させるため、1933年[[12月1日]]に「[[党と州の統一のための法律]]([[:de:Gesetz zur Sicherung der Einheit von Partei und Staat|Gesetz zur Sicherung der Einheit von Partei und Staat]])を成立させるとともにレームを[[無任所相]]に任じた<ref name="桧山(1976)279">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.279]]</ref><ref name="阿部(2001)258">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.258]]</ref><ref name="フライ(1994)21">[[#フライ(1994)|フライ(1994)、p.21]]</ref>。ゲーリングは[[12月15日]]に「プロイセン州市町村制度法」を導入して市町村の地方評議会メンバーを25歳以上に限定すると定めることで25歳未満の若者がほとんどを占める突撃隊員をプロイセンの地方行政府から締め出した<ref name="桧山(1976)280">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.280]]</ref><ref name="阿部(2001)260">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.260]]</ref>。
=== 国軍との対立 ===
突撃隊は[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]とも対立を深めていた。軍と突撃隊は1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と[[鉄兜団]]は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りて[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー]][[突撃隊大将]]の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかしやがてレームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた<ref name="ヘーネ(1981)102">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.102]]</ref>。
もともとレームには[[貴族]]階級が中心の国軍にかわって突撃隊を[[国民軍]]として正規軍にするという構想があった<ref name="ヘーネ(1981)100">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.100]]</ref>。突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた<ref name="フライ(1994)14">[[#フライ(1994)|フライ(1994)、p.14]]</ref>。うち武装兵士が50万人いた<ref name="ヘーネ(1981)101">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.101]]</ref>。[[ヴェルサイユ条約]]で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって脅威となる存在であった。一方ヒトラーは政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、再軍備は国軍を持って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた<ref name="フライ(1994)27">[[#フライ(1994)|フライ(1994)、p.27]]</ref>。
ドイツの[[国際連盟]]脱退によって[[ポーランド]]と[[フランス]]がドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感がドイツで高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは[[1934年]][[1月15日]]に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど「第二革命」問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して突撃隊をドイツの正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。突撃隊を正規軍にすることができれば突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは第二革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった<ref name="桧山(1976)280">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.280]]</ref>。
ヒトラーは1934年[[1月2日]]にレームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った<ref name="阿部(2001)260">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.260]]</ref>。その中で安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に指摘した。しかしこの手紙の真意を理解しなかったレームは2月初めに[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]国防相に対して国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った<ref name="トーランド(1979)上375">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.375]]</ref>。この書簡を見たブロンベルクは「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」と結論し、ヒトラーに処置を要求した<ref name="ヘーネ(1981)103">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.103]]</ref>。2月末にヒトラーの仲介で国防省においてブロンベルクとレームが協定を結んだ。国軍が唯一の武装兵力であり、突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた<ref name="トーランド(1979)上375"/><ref name="ヘーネ(1981)103"/><ref name="阿部(2001)267">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.267]]</ref>。しかしレームの反発は大きかった<ref name="ヘーネ(1981)103"/><ref name="トーランド(1979)上376">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.376]]</ref>。
1934年4月11日から15日にかけて[[バルト海]]の[[ドイッチュラント (装甲艦)|ポケット戦艦「ドイッチュラント」]]上でヒトラーはブロンベルクら国軍幹部と会談し突撃隊を抑える代わりに死期が迫っていた[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領死後に自らに[[忠誠宣誓]]を行う事を要請した<ref name="阿部(2001)269">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.269]]</ref>。
=== 長いナイフの夜 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-14886, Kurt Daluege, Heinrich Himmler, Ernst Röhm.jpg|thumb|250px|左から後の[[秩序警察]]長官ダリューゲ、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]、レーム(1933年8月)]]
{{main|長いナイフの夜}}
ヒトラーはレーム以下突撃隊幹部粛清に乗り気ではなかったが、レームや突撃隊幹部と対立するところの多いプロイセン州首相[[ヘルマン・ゲーリング]]、親衛隊の[[ハインリヒ・ヒムラー]]や[[ラインハルト・ハイドリヒ]]らによって突撃隊粛清の準備は進められていた<ref name="トーランド(1979)上376">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.376]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)104">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.104]]</ref>。国軍軍務局長[[ヴァルター・フォン・ライヒェナウ]]少将もこの動きに協力した<ref name="ヘーネ(1981)107">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.107]]</ref><ref name="桧山(1976)292-293">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.292-293]]</ref>。
突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った<ref name="ヘーネ(1981)105">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.105]]</ref><ref name="桧山(1976)292">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.292]]</ref>。そして[[1934年]]6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊「武装蜂起」の噂が流れた。ヒトラーは6月4日に首相官邸でレームと会談を行った。会談の結果、高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊の多くの部隊が一カ月の休暇に入り、レームも療養に入ることとなった<ref name="トーランド(1979)上377">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.377]]</ref><ref name="フェスト(1975)下96">[[#フェスト(1975)下|フェスト(1975)下巻、p.96]]</ref>。しかしヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相は、[[6月21日]]にノイデックの大統領私邸においてヒトラーに対し、もし事態の鎮静化ができないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した<ref name="トーランド(1979)上379">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.379]]</ref>。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという<ref name="阿部(2001)274">[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.274]]</ref>。6月25日までにはヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、国軍もその準備に入った<ref name="ヘーネ(1981)112">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.112]]</ref>。
6月30日に会議を行うとして突撃隊幹部をバイエルン州[[バート・ヴィースゼー]]([[:de:Bad Wiessee|de]])に召集、同日にヒトラーはバート・ヴィースゼーに赴いて粛清の陣頭指揮を執った。ベルリンでもゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒらの指揮によって粛清が執行された<ref name="フェスト(1975)下192-193">[[#フェスト(1975)下|フェスト(1975)下巻、p.192-193]]</ref>。[[エルンスト・レーム|レーム]]、[[エドムント・ハイネス|ハイネス]]、[[アウグスト・シュナイトフーバー|シュナイトフーバー]]、[[カール・エルンスト|エルンスト]]、[[ゲオルク・フォン・デッテン|フォン・デッテン]]などの突撃隊幹部が粛清された<ref name="桧山(1976)307-310">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.307-310]]</ref>。これは'''長いナイフの夜'''と呼ばれる<ref name="長谷川(1996)29">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.29]]</ref>。
=== 事件以降 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1979-107-12, Volkssturm, Wehrschießen zur Vorbereitung.jpg|thumb|250px|国防軍入隊予定者たちに射撃訓練を施す突撃隊員たち。手前は突撃隊幕僚長シェップマン]]
レームに代わる新突撃隊幕僚長にはヒトラーに信頼されていた[[ヴィクトール・ルッツェ]]が選ばれた。[[1943年]]にルッツェが事故死すると後任の幕僚長に[[ヴィルヘルム・シェップマン]]が任じられ、敗戦までその任にあたった<ref name="Littlejohn(1990)7">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.7]]</ref>。
長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった<ref name="桧山(1976)310">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.310]]</ref>。事件後、大きな反発もなく突撃隊の力はそぎ落とされていった。親衛隊が正式に突撃隊から独立し、オラニエンブルク強制収容所など突撃隊管理の強制収容所は親衛隊の管理下に移された<ref name="長谷川(1996)55">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.55]]</ref>。自動車突撃隊(Motor-SA)も[[国家社会主義自動車軍団]](NSKK)として突撃隊から独立した。16あった突撃隊上級集団(SA-Obergruppen)は解体され、突撃隊の最上級の編成は突撃隊集団(SA-Gruppen)になった<ref name="Littlejohn(1990)7">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.7]]</ref>。長いナイフの夜の頃には400万人を超えるといわれた突撃隊の隊員数は1938年に120万人になっていた<ref name="長谷川(1996)30">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.30]]</ref>。突撃隊員が武器を携帯することも禁止された<ref name="長谷川(1996)30"/>。
事件後も青年に対する軍事訓練機関としての役割は残され、これが突撃隊の主要任務となった(ただし1939年1月に突撃隊防衛団が組織されるまで武器の使用・所持は認められなかった)<ref name="Littlejohn(1990)7"/>。これに次ぐ突撃隊の任務は行政機関や大管区などの布告を配布・宣伝することであった<ref name="Littlejohn(1990)7"/><ref name="桧山(1976)310">[[#桧山(1976)|桧山(1976)、p.310]]</ref>。毎年冬に行われるナチスの慈善事業[[冬季貧民救済事業]](Winterhilfe)も突撃隊が行っていた<ref name="テーラー(1993)172">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.172]]</ref>。
1938年11月の[[クリスタル・ナハト]]の際、突撃隊幕僚長ルッツェは[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の指示を無視して突撃隊集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが<ref name="トーランド(1979)下55">[[#トーランド(1979)下|トーランド(1979)下巻、p.55]]</ref>、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で反ユダヤ暴動に参加した<ref name="ラカー(2003)287">[[#ラカー(2003)|ラカー(2003)、p.287]]</ref>。
1939年1月には[[ドイツ国防軍|国防軍]]へ入隊する者の教育機関たることが突撃隊の唯一の役割と定められ<ref name="Littlejohn(1990)7"/>、軍事訓練を担当する武装組織として突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)が創設された<ref name="Littlejohn(1990)38">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.38]]</ref>。戦争がはじまると突撃隊は国防軍に代わって入隊予定者の訓練に当たったほか、防空任務にも動員された<ref name="長谷川(1996)31">[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.31]]</ref><ref name="テーラー(1993)180">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.180]]</ref>。また突撃隊防衛団の一部の部隊は[[パルチザン]]掃討作戦に動員された<ref name="Littlejohn(1990)39">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.39]]</ref>。大戦末期には突撃隊防衛団は[[国民突撃隊]]に編入されている<ref name="Littlejohn(1990)39"/>。
事件後、ルッツェはじめ突撃隊幹部は親衛隊ヘの復讐の機会を狙っていた。[[ブロンベルク罷免事件]]で親衛隊に嵌められて失脚させられた
=== 戦後 ===
戦後の[[ニュルンベルク裁判]]において突撃隊は起訴された6組織の一つとなった(他に[[ヒトラー内閣]]、ナチ党指導部、[[ドイツ参謀本部|参謀本部]]、親衛隊、[[ゲシュタポ]])<ref name="時事(1947)242">[[#時事(1947)|『ニュルンべルグ裁判記録』(1947)、p.242]]</ref>。この裁判で親衛隊とゲシュタポとナチ党指導部は「犯罪組織」と判決されたが、一方突撃隊は「特殊な場合に置いて突撃隊の若干部隊は戦争犯罪や人道に対する罪の遂行に使用されたが、その成員が一般に犯罪行為に参加していたとかまたは知っていたということはできない」とされて有罪判決を受けなかった<ref name="時事(1947)283-284">[[#時事(1947)|『ニュルンべルグ裁判記録』(1947)、p.283-284]]</ref>。
== 突撃隊
=== 編成 ===
*突撃隊最高指導部(Oberste SA-Führung、OSAF)
*上級集団(Obergruppe)複数の集団で編成、1934年廃止
*集団(Gruppe)複数の旅団で編成
*下級集団/旅団(Untergruppe/Brigade)3つから9つの連隊で編成
*連隊(Standarte)3つから5つの大隊で編成
*大隊(Sturmbann)3つから5つの中隊で編成
*中隊(Sturm)3つから4つの小隊で編成
*小隊(Trupp)3つから4つの分隊で編成
*分隊(Schar)8人から16人で編成
[[突撃隊最高指導部]]([[:de:Oberste SA-Führung|de]])は1926年11月に創設された<ref name="Littlejohn(1990)5">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.5]]</ref>。最高指導部は突撃隊に関する全ての事務を取り扱い、その隷下の集団が最高指導部の指導のもとに各種訓練学校を運営していた<ref name="Littlejohn(1990)7">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.7]]</ref>。集団の数は1933年時に21個、開戦時に25個、戦時中には29個になった<ref name="Littlejohn(1990)7"/>。
=== 指揮権者 ===
*[[エミール・モーリス]] (1920年 - 1921年)※前身部局時
*[[:en:Hans Ulrich Klintzsche|ハンス・ウルリヒ・クリンチェ]](1921年 - 1923年)
*[[ヘルマン・ゲーリング]] (1923年)
*[[エルンスト・レーム]](1924年-1925年)※フロントバン司令官
突撃隊最高指導者(Oberste SA-Führer)
*[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]] (1926年 - 1930年)
*[[アドルフ・ヒトラー]] (1930年 - 1945年
突撃隊幕僚長(SA-Stabschef)
*[[エルンスト・レーム]] (1931年 - 1934年)
*[[フィクトール・ルッツェ]] (1934年 - 1943年)
*[[ヴィルヘルム・シェップマン]] (1943年 - 1945年)
== 突撃隊の制服 ==
{{main|制服 (ナチス突撃隊)}}
初期の突撃隊は様々な制服が入り乱れて使用されたが、ミュンヘン一揆後に再建された突撃隊では褐色シャツ、[[ケピ帽]]、乗馬ズボン、ブーツというスタイルで統一された<ref name="山下(2010)286">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.286]]</ref>。
褐色シャツはもともと東アフリカの[[ドイツ植民地帝国|旧ドイツ植民地]]駐留軍の制服として作られた物だった。[[第一次世界大戦]]後ドイツの植民地はすべて[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に奪われたためにこの制服の在庫が有り余った。そこでゲルハルト・ロスバッハが1924年にこの制服を安価に大量入手した。これが褐色シャツが制服になったきっかけだった<ref name="トーランド(1979)上251">[[#トーランド(1979)上|トーランド(1979)上巻、p.251]]</ref><ref name="山下(2010)286">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.286]]</ref><ref name="Littlejohn(1990)8">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.8]]</ref>。ちなみに褐色シャツはシャツ型の上着であり、その下には襟なしの褐色のシャツを着用していた<ref name="ラムスデン(1997)51">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.51]]</ref>。
突撃隊の制服というとこの褐色シャツ型制服が有名であるが、1932年以降には褐色[[チュニック]]が制服として使用されるようになっていった<ref name="Littlejohn(1990)8">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.8]]</ref>。
突撃隊海軍や突撃隊防衛団などは一般の突撃隊員とかなり異なった独自の制服を着用した<ref name="Littlejohn(1990)29・32">[[#Littlejohn(1990)|Littlejohn(1990)、p.29/32]]</ref>
{{Gallery
|ファイル:Boycot of Jewish shops april 1 1933.jpeg|褐色シャツ型制服(1933年ユダヤ人商店街ボイコット運動を行う突撃隊員)
|ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F051632-0523, Viktor Lutze.jpg|褐色チュニック制服(1938年突撃隊幕僚長[[ヴィクトール・ルッツェ]])
}}
==突撃隊を描いた作品==
*映画
178 ⟶ 228行目:
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラー全記録 :20645日の軌跡|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジェームス・テーラー]]([[:en:James Taylor|en]])、[[ウォーレン・ショー]]([[:en:Warren Shaw|en]])|translator=[[吉田八岑]]|year=[[1993年]]
|title=ナチス第三帝国事典|publisher=[[三交社]]|isbn=978-4879191144|ref=テーラー(1993)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・トーランド]]|translator=[[永井淳]]|year=[[1979年]]|title=アドルフ・ヒトラー 上|publisher=[[集英社]]|ref=トーランド(1979)上}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・トーランド|translator=永井淳|year=1979年|title=アドルフ・ヒトラー 下|publisher=集英社|ref=トーランド(1979)下}}
*{{Cite book|和書|author=F・ノイマン|translator=[[岡本友孝]]、[[小野英祐]]、[[加藤栄一]]|year=1963年|title=ビヒモス―ナチズムの構造と実際|isbn=978-4622017011|publisher=みすず書房|ref=ノイマン(1963)}}
*{{Cite book|和書|author=[[長谷川公昭]]著|year=1996|title=ナチ強制収容所 <small>その誕生から解放まで</small>|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794207401|ref=長谷川(1996)}}
*{{Cite book|和書|author=[[桧山良昭]]|year=[[1976年]]|title=ナチス突撃隊|publisher=[[白金書房]]|asin=B000J9F2ZA|ref=桧山(1976)}}
*{{Cite book|和書|author=[[平井正]]|year=[[2001年]]|title=ヒトラー・ユーゲント:青年運動から戦闘組織へ|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121015723|ref=平井(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ヨアヒム・フェスト]]|translator=[[赤羽竜夫]]|year=[[1975年]]|title=ヒトラー〈上〉|publisher=[[河出書房新社]]|asin=B000J9D51I|ref=フェスト(1975)上}}
*{{Cite book|和書|author=ヨアヒム・フェスト|translator=赤羽竜夫|year=[[1975年]]|title=ヒトラー〈下〉|publisher=河出書房新社|asin=B000J9D518|ref=フェスト(1975)下}}
*{{Cite book|和書|author=[[ノルベルト・フライ]]|translator=[[芝健介]]|year=1994|title=総統国家 <small>ナチスの支配 1933―1945年</small>|publisher=岩波書店|isbn=978-4000012409|ref=フライ(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=G・プリダム|translator=[[垂水節子]]・[[豊永泰子]]|year=[[1975年]]|title=ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年|publisher=[[時事通信社]]|asin=B000J9FNO0|ref=プリダム(1975)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ヘーネ
*{{Cite book|和書|author=[[星乃治彦]]|year=[[2006年]]|title=男たちの帝国 ヴィルヘルム2世からナチスへ|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000223881|ref=星乃(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=[[村瀬興雄]]|year=[[1968年]]|title=ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜|publisher=中公新書|isbn=978-4121001542|ref=村瀬(1968)}}
*{{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=[[2010年]]|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ウォルター・ラカー]]|translator=[[井上茂子]]・[[木畑和子]]・[[芝健介]]・[[長田浩彰]]・[[永岑三千輝]]・[[原田一美]]・[[望田幸男]]|year=2003|title=ホロコースト大事典|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760124138|ref=ラカー(2003)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ロビン・ラムスデン]]([[:en:Robin Lumsden|en]])|translator=[[知野龍太]]|year=[[1997年]]|title=ナチス親衛隊軍装ハンドブック|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562029297|ref=ラムスデン(1997)}}
*{{Cite book|和書|year=[[1947年]]|title=ニュルンベルグ裁判記録|publisher=[[時事通信社]]|ref=時事(1947)}}
*{{Cite book|year=1990|author=David Littlejohn|language=[[英語]]|title=The SA 1921-45: Hitler's Stormtroopers|publisher=Osprey Publishing|series=Men-at-Arms|isbn=978-0850459449|ref=Littlejohn(1990)}}
== 脚注 ==
199 ⟶ 255行目:
<references group= "注釈"/>
===出典===
{{reflist|3}}
==外部リンク==
220 ⟶ 276行目:
[[Category:軍隊]]
[[Category:反共主義]]
[[Category:民兵]]
[[ar:كتيبة العاصفة]]
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