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|ethnicity = [[ウクイナ人]]([[ルテニア|スラブ系]]
|religion = 初めは[[ギリシア正教]]、後に[[イスラム教]]へ改宗
|known_for = 皇后
|spouse = [[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]
|children = メフメト{{#tag:ref|1521-1543。[[天然痘]]に罹り病死<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244・250頁。</ref>。|group="†"}}、{{仮リンク|ミフリマー|en|Mihrimah Sultan}}{{#tag:ref|1522- ?。大宰相{{仮リンク|リュステム・パシャ|en|Rüstem Pasha}}に嫁ぐ<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244・249頁。</ref>。[[イスタンブール]]にはその名を冠したモスクが2つある<ref>[[#陳1992|陳1992]]、189-190頁。</ref>。|group="†"}}、アブドゥラー{{#tag:ref|? -1526。疫病に罹り病死<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244頁。</ref>。|group="†"}}、[[セリム2世|セリム]]、バヤズィト{{#tag:ref|? -1562。ロクセラーナの死後、セリムとの後継争いに敗れ処刑された<ref>[[#林1997|林1997]]、165-168頁。</ref>。|group="†"}}、ジハンギル{{#tag:ref|? -1553。[[くる病]]を患い、「エーリ(せむし)」と呼ばれた。腹違いの兄ムスタファの処刑の直後に病死<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244・255頁。</ref>。|group="†"}}
|children = [[セリム2世|セリム]]、ミフリマ王女、ジハンギール、バヤジット、メフメド
|parents =
}}
 
'''ロクセラーナ''' もしくは '''ヒュッレム・ハセキ・スルタン'''<ref group="名前">彼女は主に''ハセキ・ヒュッレム・スルタン'' (''Haseki Hürrem Sulta '') または ''ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン'' (''Hürrem "balsaq" Haseki Sulta '') として知られていた(Haseki は妾の意)。ヨーロッパでは''ロクセラーナ'' (''Roxolena'') として知られ([[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、262頁。)、ヨーロッパの言語では Roksolana、Roxolana、Roxelane、Rossa、Ruziac として表記される。[[トルコ語]]で Hürrem とは[[ペルシア語]]の خرم(''Khurram''、陽気な人の意)と[[アラビア語]]の كريمة(''Karima''、高貴な人の意)に由来している。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの[[東スラヴ人]](現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま「[[ルーシ人]]の女」を意味する。</ref> (1506年<ref>http://web.archive.org/web/20060615093437/www.4dw.net/royalark/Turkey/turkey4.htm</ref> - 1558年4月17日、'''Roxelana'''/'''Hürrem Haseki Sultan'''/'''خرم سلطان''') は、[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]の后である。
 
== 名前生涯 ==
=== 奴隷としてスレイマン1世に献上される ===
[[ファイル:Anton Hickel 001.JPG|thumb|180px|left|ロクセラーナとスレイマン1世を描いたドイツの[[アントン・ヒッケル]]の作品(1780年)。2人の関係はヨーロッパ人の想像力をかきたてた]]
スラブ系<ref name="三橋1984-131">[[#三橋1984|三橋1984]]、131頁。</ref><ref>[[#陳1992|陳1992]]、177頁。</ref>で、ロシア人、もしくはポーランド人とされる<ref name="三橋1984-131"/>。ポーランドの伝承によるとルテニア地方{{仮リンク|ロハティン|en|Rohatyn}}<ref group="†">[[ポーランド王国]]の一部である[[紅ルーシ]]の主要都市[[リヴィウ]]から南東へ68kmに位置する。</ref>の貧しい司祭の娘で、元の名はアレクサンドラ・リソフスカ (''Aleksandra Lisowska'') であった<ref name="クロー2000-93">[[#クロー2000|クロー2000]]、93頁。</ref>。<!--出典が不明確なためコメントアウト/1920年代、-->ドニエストル、ルテニア地方を略奪した[[クリミア・タタール人]]に捕えられ、奴隷として<!--出典が不明確なためコメントアウト/[[クリミア半島]]の[[フェオドシヤ]]へ最初送られ、-->[[イスタンブール]]へ売られ<ref name="三橋1984-131"/>、[[スレイマン1世]]の大宰相{{仮リンク|イブラヒム・パシャ (オスマン帝国)|en|Pargalı Ibrahim Pasha|label=イブラヒム・パシャ}}に買われ、やがてスレイマン1世に献上されたといわれる<ref name="クロー2000-93"/>。
 
=== スレイマン1世の寵愛を得、婚姻関係を結ぶ ===
[[ファイル:Sułtanka Roksolana.JPG|thumb|left|200px|ロクセラーナ]]
スレイマン1世の第2側室(カドン)となったロクセラーナは[[1541年]]、自らが従える女奴隷や宦官とともに[[トプカプ宮殿]]内の、スレイマン1世の居住区画に住むことを許された<ref name="ペンザー1992-263">[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、263頁。</ref>。この時点でロクセラーナにとっての敵は、スレイマン1世の母后ハフサ・ハトゥンと、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする<ref name="鈴木1992-159">[[#鈴木1992|鈴木1992]]、159頁。</ref>第1側室マヒデヴラン{{#tag:ref|ギュルハバルとも<ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、132頁。</ref>。'Gülbahar''。''Gül''はバラを意味し、''Bahar''は春を意味する。|group="†"}}、ロクセラーナの最初の所有者であったといわれる大宰相イブラヒム・パシャの3人であった<ref name="ペンザー1992-263"/>。1534年<ref name="鈴木1992-159"/>にハフサ・ハトゥンが死去するとマヒデヴランはスレイマンの不興を買って宮殿を追われ、イブラヒム・パシャは暗殺された<ref name="ペンザー1992-263"/>。マヒデヴランが宮殿を追われた経緯について、[[ヴェネツィア共和国]]駐イスタンブール大使のベルナルドウ・ナヴァゲラは、マヒデヴランと口論を起こしたロクセラーナが、自ら顔に引っ掻き傷を作った上でスレイマン1世に呼び出されるよう工作をし、スレイマン1世の関心を惹くと同時にマヒデヴランをスレイマン1世から遠ざけることに成功したと報告している<ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、132頁。</ref>。イブラヒム・パシャについても、ロクセラーナが処刑に関与した具体的な証拠は存在しない<ref name="ペンザー1992-263"/>が、人々は関与を疑った<ref name="林1997-157">[[#林1997|林1997]]、157頁。</ref>。
16世紀までロクセラーナの元の名前は秘密とされていたが、19世紀の[[ウクライナ語]]の民謡では''アナスタシア'' (''Anastasia'')、[[ポーランド語]]の言い伝えでは''アレクサンドラ・リソフスカ'' (''Aleksandra Lisowska'') とされる。
 
ロクセラーナは自身のため、スレイマン1世にオスマン帝国の慣習を次々と破らせた。まず、帝国には1人の女性がスルタンとの間に男子を2人以上産むことは許されず、男子を産んだ女性はスルタンから遠ざけられるという慣習があった。しかしスレイマン1世はロクセラーナが男子を出産した後も側に置き、最終的にロクセラーナとの間に5人の男子をもうけた<ref name="林1997-156">[[#林1997|林1997]]、156頁。</ref>。さらに、帝国では14世紀後半に在位した[[ムラト1世]]以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶスルタンは存在しなかった<ref name="ペンザー1992-263"/>が、ロクセラーナはこの慣習を破らせることにも成功した<ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、133頁。</ref>。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマン1世はロクセラーナを奴隷の地位から解放する法的手続きをとったとされる<ref name="林1997-156"/>。ロクセラーナはさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ<ref>[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、264頁。</ref>、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした<ref name="林1997-156"/>。2人の関係に対する[[イスタンブール]]市民の反応についてイタリア人バッサーノは「スレイマンのロクゼラナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」と書き記している<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244頁。</ref>。
彼女は主に''ハセキ・ヒュッレム・スルタン'' (''Haseki Hürrem Sulta '') または ''ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン'' (''Hürrem "balsaq" Haseki Sulta '') として知られていた(Haseki は妾の意)。ヨーロッパでは''ロクセラーナ'' (''Roxolena'') として知られ、ヨーロッパの言語では Roksolana、Roxolana、Roxelane、Rossa、Ruziac として表記される。[[トルコ語]]で Hürrem とは[[ペルシア語]]の خرم(''Khurram''、陽気な人の意)と[[アラビア語]]の كريمة(''Karima''、高貴な人の意)に由来している。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの[[東スラヴ人]](現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま[[ルーシ人]]の女を意味する。
 
=== スレイマン1世の後継争いに策動 ===
== 生い立ち ==
[[ファイル:Letter of Roxelane to Sigismond Auguste complementing him for his accession to the throne 1549.jpg|thumb|200px|1549年にロクセラーナが[[ジグムント2世]]へ宛てた手紙]]
ロクセラーナは、スレイマン1世との間にもうけた4人の皇子(メフメト、セリム、バヤズィト、ジハンギル)のいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている<ref name="林1997-157"/>。一時メフメトが有力となったが1543年に[[天然痘]]に罹って<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、250頁。</ref>早世し、マヒデヴランの子ムスタファが有力となった。しかしムスタファは1553年、イラン遠征軍の陣中で処刑された。ムスタファは軍人として名声が高く<ref name="鈴木1992-168-169">[[#鈴木1992|鈴木1992]]、168-169頁。</ref>、とりわけ[[イェニチェリ]]から強く支持されており<ref name="フリーリ2005-255">[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、255頁。</ref>、突然の処刑に[[イェニチェリ]]は怒り反乱を起こす寸前にまで至った<ref name="鈴木1992-168-169"/><ref name="フリーリ2005-255"/>。スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘の{{仮リンク|ミフリマー|en|Mihrimah Sultan}}とその婿で大宰相の{{仮リンク|リュステム・パシャ|en|Rüstem Pasha}}とともに「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた<ref>[[#林1997|林1997]]、157-158頁・161-162頁。</ref>{{#tag:ref|イスタンブールの住民の間では、ドゥカーギンザーデ・ヤフヤーによる、ムスタファの死を悼みリュステム・パシャ(および暗にその任命権者であるスレイマン1世)を批判する詩が流行した<ref>[[#林1997|林1997]]、162-164頁。</ref>。|group="†"}}。
 
16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちロクセラーナを非難する詩を作った。
[[ファイル:Haseki Huerrem Sultan Roxelane.jpg|thumb|left|200px|18世紀に書かれたハセキ・ヒュッレム・スルタンの肖像]]
ポーランド人の詩人[[サミュエル・トワルドーフスキー]]ら16世紀後半と17世紀前半の文献によると、ヒュッレムは[[ウクライナ人]](当時は[[ルテニア人]])の[[ギリシャ正教会]]の司祭を父にもち、[[ポーランド王国]]の一部である[[紅ルーシ]]の主要都市[[リヴィウ]]から 68 km 南東にある[[ロハティン]]で生まれた。1520年代、この地域に侵入した[[クリミア・タタール人]]に彼女はとらえられ奴隷として[[クリミア半島]]の[[フェオドシヤ]]へ最初送られ、[[コンスタンティノープル]]へ連れて行かれてスルタンである[[スレイマン1世]]の[[ハレム]]に選ばれた。
[[ファイル:Mathio Pagani 001.jpg|thumb|240px|ロクセラーナ]]
[[ファイル:Letter of Roxelane to Sigismond Auguste complementing him for his accession to the throne 1549.jpg|thumb|left|200px|ヒュッレム・スルタンから[[ジグムント2世]]への1549年の手紙]]
 
{{Quotation|
== スルタンとの生活 ==
ロシアの魔女の言葉を耳に入れ
[[ファイル:Anton Hickel 001.JPG|thumb|200px|left|ロクセラーナとスルタン。この絵画(ドイツの[[アントン・ヒッケル]]による1780年の作品)にみられるように、2人の愛はヨーロッパ人の想像力をかきたてた]]
 
企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり
ヒュッレムはすぐに主人の注意を惹いて、ライバルたちに嫉妬された。ある日[[スレイマン1世]]の愛妾[[ギュルバハル]](''Gülbahar''。''Gül''はバラを意味し、''Bahar''は春を意味する)とヒュッレムが争った結果、ギュルバハルは息子であるムスタファ[[皇太子]]とともに、スレイマンから[[マニサ]]へ左遷された。この追放は、公式にスルタンの後継者としての地位からの脱落として示された。そして、ヒュッレムはライバルがいないスレイマンの妃としての地位を得た。後年、おそらくハレムからの讒言により謀反の疑いがあるとして、スルタンはムスタファを殺すように命じた。ギュルバハルは息子の死後、マニサの領土を失って[[ブルサ]]へ移された。
[[ファイル:Roxelana Rohatyn Jul 2008151.JPG|thumb|240px|[[ウクライナ]]の[[ロハティン]]にあるヒュッレム・ハセキ・スルタン像]]
ヒュッレムのスルタンへの影響力は恐ろしいほど強いものだった。ヒュッレムはスレイマンとの間に5人の子供たち(ミフリマ皇女、[[セリム2世|セリム]]、バヤジット、ジハンギール、メフメド)を産み、正式な妻となった。スレイマンは[[オルハン]]以降正妻をもつ初めてのオスマントルコの皇帝である。このことはヒュッレムの宮殿内でのポジションを強めることになり、結局息子の1人である[[セリム2世|セリム]]が帝国を引き継ぐこととなった。ヒュッレムは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザ的な役割をしていたともいわれ、[[外交政策]]や[[国際関係]]の政治問題に影響がみられる。彼女から[[ポーランド君主一覧#ポーランド・リトアニア連合王国のポーランド王|ポーランド王]][[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]へ出した手紙は保存されており、彼女が生きている間は[[オスマン帝国]]とポーランドの間は同盟関係だった。
 
生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした
== 慈善事業 ==
[[ファイル:Bath of Roxelane Istanbul 2007.jpg|thumb|240px|ハセキ・ヒュッレム・スルタン・[[ハンマーム]]]]
[[ファイル:Istanbul - Süleymaniye camii - Türbe di Roxellana - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg|thumb|240px|ヒュッレム・スルタンの霊廟]]
ヒュッレムは政治活動とは別に、カリフ・[[ハールーン・アッ=ラシード]]の妃[[ズバイダ]]にならって慈善財団をつくり、[[メッカ]]から[[エルサレム]]までの公共建造物の多くに携わった。最初に[[モスク]]と2つの学校([[マドラサ]])、噴水と女性用の病院を、コンスタンティノープルの女性奴隷市場の近くに建築した。さらに公共浴場(ハセキ・ヒュッレム・スルタン・[[ハンマーム]])を[[アヤソフィア]]への巡礼者のために設け、エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルタン・イマレトを設けた。
 
ああ、無慈悲なる世界の王よ
また、彼女自身もしくは彼女の監督下でつくられた[[刺繍]]の一部は残っており、[[サファヴィー朝|イラン国王]]の[[タフマースブ1世]]へ1547年に送ったものや、1549年に[[ジグムント2世|ポーランド王]]へ送ったものがある。
 
かつてあなたが若かった時。あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに
[[エステル・ハンダリ]] (Esther Handali) がよく彼女の秘書・仲介者として働いた。
 
その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに
== 死 ==
 
年老いた今、悪しき不正義を行うとは
ヒュッレムは1558年4月18日に没し、洗練された[[イズニク]]・タイルで装飾された霊廟(テュルベ)に葬られた。霊廟は[[スレイマニエ・モスク]]のスレイマンのものと隣接している。
 
|[[#林1997|林1997]]、155-156頁。}}
== 後世への影響 ==
 
スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑する一方、政権内の不満を抑えるためにリュステム・パシャを罷免した<ref>[[#林1997|林1997]]、161頁。</ref>。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ロクセラーナは助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは3年で大宰相の地位に返り咲いた<ref name="林1997-158">[[#林1997|林1997]]、158頁。</ref>。ロクセラーナの庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成し、政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された<ref name="林1997-158"/>。
ヒュッレム・ハセキ・スルタン、もしくはロクセラーナは、ヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ヨーゼフ・ハイドン]]の[[交響曲第63番 (ハイドン)|交響曲第63番]]を含む音楽作品、オペラ、バレエ、[[ウクライナ語]]や[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]で書かれた小説などのテーマとなった。
 
ロクセラーナは、スルタン・ワーリデ(スルタンの母后)や第一カドン(側室)、宦官ら[[ハレム]]の住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する「カドンラル・スルタナティ(女人の天下<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、259頁。</ref>、女性の統治)」と呼ばれる時代の幕を開けたと評価されている<ref>[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、281-282頁。</ref>。ヒュッレムは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザ的な役割をしていたともいわれ、[[外交政策]]や[[国際関係]]の政治問題に影響がみられる。一例として彼女から[[ポーランド君主一覧#ポーランド・リトアニア連合王国のポーランド王|ポーランド王]][[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]へ出した手紙が現存している。存命中、[[オスマン帝国]]とポーランドとの間の同盟関係が保たれた。
2007年、ウクライナの港町[[マリウポリ]]の[[ムスリム]]は、ロクセラーナを祭るためにモスクを開いた<ref>[http://www.risu.org.ua/eng/news/article;18370/ Religious Information Service of Ukraine]</ref>。
 
=== 後継争いの行方を見届けることなく死去 ===
== 関連項目 ==
[[ファイル:Istanbul - Süleymaniye camii - Türbe di Roxellana - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg|thumb|200px|ロクセラーナの霊廟]]
ムスタファの処刑によりスレイマン1世の後継候補はロクセラーナが産んだ3人の男子に絞られた<ref name="鈴木1992-169">[[#鈴木1992|鈴木1992]]、169頁。</ref>が、このうちジハンギルはムスタファ処刑の直後に死亡した(処刑にショックを受けたことが原因ともいわれている)<ref>[[#林1997|林1997]]、161-162頁。</ref>。残るセリムとバヤズィトのうち、ロクセラーナはより有能なバヤズィトの即位を望んでいたとされるが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、1558年4月18日に死去した<ref name="鈴木1992-169"/>。遺体は[[ミマール・スィナン]]が[[スレイマニエ・モスク]]境内に建てた霊廟(テュルベ)に葬られた。後にスレイマン1世の霊廟も、スレイマニエ・モスク境内に建てられた。2つの霊廟は八角形でドームを複雑に配置した構造で、「単純多角形の本体にドームが1つ」という当時の伝統的なデザインとは大きく異なっている<ref>[[#陳1992|陳1992]]、175頁。</ref>。
 
=== 死後 ===
*[[オスマン帝国]]
セリムとバヤズィトの衝突を抑えていた<ref>[[#林1997|林1997]]、165頁。</ref>ロクセラーナの死後、両者の後継争いは激化し<ref>[[#林1997|林1997]]、165頁。</ref><ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、140頁。</ref>、セリムは側近の[[ララ・ムスタファ・パシャ]]の策謀によってバヤズィトに対するスレイマン1世の評価を低下させることに成功した<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992]]、169頁。</ref><ref>[[#クロー2000|クロー2000]]、219-220頁。</ref>。形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリムの前に敗れ、イラン([[サファヴィー朝]])に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、処刑された<ref>[[#林1997|林1997]]、166-168頁。</ref>。「サルホシュ(酔っぱらい)」と呼ばれた<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、256頁。</ref><ref>[[#クロー2000|クロー2000]]、207頁。</ref>セリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったがゆえに自ら積極的な行動に出なかったためともいわれている<ref>[[#林1997|林1997]]、167頁。</ref>。スレイマン1世の死後スルタンに即位したセリム([[セリム2世]])は、国家の運営を官人に任せきりにし<ref>[[#林1997|林1997]]、170-172頁。</ref>、「バーブ・ウッサーデ(至福の家)」と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、258-259頁。</ref>。セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルタンが従う形で行われるようになった<ref>[[#林1997|林1997]]、172頁。</ref>。
*[[オスマン家]]
{{Clear}}
*[[オスマン帝国の君主]]
 
== 慈善事業 ==
[[ファイル:Bath of Roxelane Istanbul 2007.jpg|thumb|200px|ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム]]
ロクセラーナはカリフ・[[ハールーン・アッ=ラシード]]の妃[[ズバイダ]]にならって慈善財団をつくり、[[メッカ]]から[[エルサレム]]までの公共建造物の多くに携わった。最初に[[モスク]]と2つの学校([[マドラサ]])、噴水と女性用の病院を、コンスタンティノープルの女性奴隷市場の近くに建築した。1556年に建設された公共浴場(ハセキ・ヒュッレム・スルタン・[[ハンマーム]])は建築家ミマール・スィナンの設計によるもので、収入は当時モスクであった[[アヤソフィア]]への財政支援に充てられた<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、253-254頁。</ref><ref>[[#陳1992|陳1992]]、201-202頁。</ref>。エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルタン・イマレトを設けた。
 
== 人物 ==
ロクセラーナについて[[ヴェネツィア共和国]]の大使ブラガディーノは、美人ではないが愛想がよく、陽気な性格であると評している<ref>[[#クロー2000|クロー2000]]、93頁。</ref>。同じくヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」と報告している<ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、131頁。</ref>。
 
== 後世への影響 ==
ロクセラーナはヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ヨーゼフ・ハイドン]]の[[交響曲第63番 (ハイドン)|交響曲第63番]]を含む音楽作品、オペラ、バレエ、[[ウクライナ語]]や[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]で書かれた小説などのテーマとなった。
 
2007年、ウクライナの港町[[マリウポリ]]の[[ムスリム]]は、ロクセラーナを祭るためにモスクを建設した<ref>[http://www.risu.org.ua/eng/news/article;18370/ Religious Information Service of Ukraine]</ref>。
 
=== 肖像画===
<gallery>
ファイル:Roksolana.jpg
ファイル:Haseki Huerrem Sultan Roxelane.jpg
ファイル:Sułtanka Roksolana.JPG
ファイル:Mathio Pagani 001.jpg
ファイル:Lorichs RVZIAE.png
</gallery>
 
== 脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 名前について ===
{{Reflist|group=名前}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
 
== 参考文献==
=== 日本語の文献 ===
* {{Cite book|和書
|author = アンドレ・クロー(著)
|others = 浜田正美(訳)
|year = 2000
|title = スレイマン大帝とその時代
|publisher = 法政大学出版局
|isbn = 4-588-23802-7
|ref = クロー2000
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[鈴木董]]
|year = 1992
|title = オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」
|series = 講談社現代新書 1097
|publisher = 講談社
|isbn = 4-06-149097-4
|ref = 鈴木1992
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[陳舜臣]]
|year = 1992
|title = イスタンブール
|series = 世界の都市の物語4
|publisher = [[文藝春秋]]
|isbn = 4-16-509560-5
|ref = 陳1992
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[林佳世子]]
|year = 1997
|title = オスマン帝国の時代
|series = 世界史リブレット19
|publisher = 山川出版社
|isbn = 4-634-34190-5
|ref = 林1997}}
* {{Cite book|和書
|author = ジョン・フリーリ(著)
|others = 鈴木董(監修)、長縄忠(訳)
|year = 2005
|title = イスタンブール 三つの顔をもつ帝都
|publisher = [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]
|isbn = 4-7571-4066-5
|ref = フリーリ2005
}}
* {{Cite book|和書
|author = N.M.ペンザー(著)
|others = 岩永博(訳)
|year = 1992
|title = トプカプ宮殿の光と影
|series = りぶらりあ選書
|publisher = 法政大学出版局
|isbn = 4-588-02130-3
|ref = ペンザー1992
}}
* {{Cite book|和書
|author = 三橋富治男
|year = 1984
|title = オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝
|series = 清水新書 010
|publisher = [[清水書院]]
|isbn = 4-389-44010-1
|ref = 三橋1984
}}
 
=== 日本語以外の文献 ===
*Thomas M. Prymak, "Roxolana: Wife of Suleiman the Magnificent," ''Nashe zhyttia/Our Life'', LII, 10 (New York, 1995), 15&ndash;20. 英語で書かれた写真入りのバイオグラフィ。
*Zygmunt Abrahamowicz, "Roksolana," ''Polski Slownik Biograficzny'', vo. XXXI (Wroclaw-etc., 1988&ndash;89), 543&ndash;5. ポーランド人トルコ研究家が書いたポーランド語の記事。
*Galina Yermolenko, "Roxolana: The Greatest Empresse of the East," ''The Muslim World'', 95, 2 (2005), 231&ndash;48. ヨーロッパ人(特にイタリア人)からみたもので、ウクライナ語とポーランド語の文献に精通している。
 
== 関連文献 ==
=== 日本語の文献 ===
* {{Cite book|和書
|author = 渋沢幸子
|year = 1998
|title = 寵妃ロクセラーナ
|publisher = [[集英社]]
|isbn = 4-08-783103-5
}}
 
=== 日本語以外の文献 ===
*ロクセラーナについては、英語で多くの[[歴史小説]]が書かれた。 Barbara Chase Riboud's ''Valide'' (1986); Alum Bati's ''Harem Secrets'' (2008); Colin Falconer, Aileen Crawley (1981&ndash;83), and Louis Gardel (2003); ''Pawn in Frankincense'', the fourth book of the ''Lymond Chronicles'' by Dorothy Dunnett; [[ロバート・E・ハワード|Robert E. Howard]] in ''The Shadow of the Vulture''.
*ウクライナ語の小説では右記がある。 Osyp Nazaruk (1930), Mykola Lazorsky (1965), Serhii Plachynda (1968), and [[パヴロ・ザフレベルニィ|Pavlo Zahrebelnyi]] (1980).
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{{デフォルトソート:ろくせらあな}}
[[Category:15101500年代生]]
[[Category:1558年没]]
[[Category:オスマン帝国の后妃]]