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{{鉄道車両
|車両名=小田急3000形電車<br/><small>Super Express</small>
|社色=#A14023 <!--バーミリオンオレンジ 鉄道ピクトリアル通巻829号(2010年1月号臨時増刊)「特集・小田急電鉄」p191の表から色を抽出-->
|画像=Model 3000 SE of Odakyu Electric Railway.JPG
|pxl = 300px
|画像説明=3000形SE車
|unit = self
|編成 =8両連接車→5両連接車
|起動加速度 =1.6[[メートル毎秒毎秒|km/h/s]]<ref name="arc1-113"/>
|
|設計最高速度 =147.5km/h<ref name="546-85">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.85]]</ref>
|最高速度 =125km/h<ref name="arc1-113">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.113]]</ref>
|
|減速度(常用最大)=
|減速度(非常
|編成定員 =348名<ref name="491-17">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.17]]</ref>→316名<ref name="491-17"/>→222名<ref name="491-19">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.19]]</ref>
|
|編成長 =108.1m<ref name="491-17"/>→70.4m<ref name="491-19"/>
|最大寸法 =15,950[[ミリメートル|mm]]×2,864mm×3,450mm<ref name="491-17"/>(先頭車・登場当初)<br/>16,150mm×2,864mm×3,450mm<ref name="491-19"/>(先頭車・1968年以降)<br/>12,700mm×2,864mm×4,015mm<ref name="491-17"/>(集電装置付中間車)<br/>12,700mm×2,800mm×3,450mm<ref name="491-17"/>(集電装置無し中間車)
|全長 =
|全幅 =
|全高 =
|車体長 =
|車体幅 =
|車体高 =
|編成質量 =146.75[[トン|t]]<ref name="2005-167">[[#生方2005|生方 (2005) p.167]]</ref>→113.47t<ref name="491-19"/>
|車両質量 =
|軸配置 =
|軌間 =1,067mm
|電気方式 =[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]<br/>([[架空電車線方式]])
|出力 =
|主電動機 =[[東洋電機製造]] TDK806/1-A<ref name="arc1-113"/>
|モーター出力 =100[[ワット|kW]]<ref name="arc1-113"/>([[直巻整流子電動機]]・[[公称電圧|端子電圧]]375[[ボルト (単位)|V]]・定格回転数1,800rpm)
|機関出力 =
|編成出力 =
|定格
|定格引張力 =
|駆動装置 =東洋電機製造 DND143-SH9921<ref name="arc1-113"/><br/>[[中空軸平行カルダン駆動方式]]<br/>(撓み板継手方式)
|歯車比 =78:21=3.71<ref name="arc1-113"/>→80:19=4.21<ref name="491-19"/>
|変速段 =
|台車 =[[近畿車輛]] KD17<ref name="arc1-113"/>(電動台車)<br/>近畿車輛 KD18<ref name="arc1-113"/>(付随台車)
|制御装置 =[[東芝|東京芝浦電気]] MM-50A<ref name="491-17"/><br/>電動カム軸式[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]<br/>力行…17段<br/>制動…14段
|ブレーキ方式 =[[発電ブレーキ|発電制動]]併用[[電磁直通ブレーキ|電磁直通制動]] (HSC-D)<ref name="arc1-113"/>
|保安装置 =[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|OM-ATS]]・ATS-S<!--最後までATS-STにはなっていなかったはず--><ref name="491-18">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.18]]</ref>
|製造メーカー =[[日本車輌製造]]<ref name="491-17"/>・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輌]]<ref name="491-17"/>
|備考 =設計最高速度は平坦線均衡速度を記述
|備考全幅 ={{ブルーリボン賞 (鉄道)|1|1958}}
}}
'''小田急3000形電車'''(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、[[1957年]]から[[1992年]]まで[[小田急電鉄]]において運用されていた[[特急形車両]]([[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]])である。
「画期的な軽量高性能新特急車」として計画され<ref name="1981-114115">[[#生方1981|生方 (1981) pp.114-115]]</ref>、[[日本国有鉄道]]の[[鉄道技術研究所]]より協力も得られた<ref name="1981-115">[[#生方1981|生方 (1981) p.115]]</ref>ことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた<ref name="1981-20">[[#生方1981|生方 (1981) p.20]]</ref>車両であり、それらの中には国鉄の[[新幹線]]に発展的に引き継がれた技術も存在する<ref name="1987-88">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.88]]</ref>。当初は8両連接車として登場し<ref name="2-24">[[#小山1985|小山 (1985) p.24]]</ref>、 "Super Express" (略して「SE」)という愛称が設定された<ref name="546-86">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.86]]</ref>が、「SE」という略称には "Super Electric car" という意味も含ませている<ref name="1987-88"/>。登場した1957年に行なわれた[[東海道本線]]での高速試験において、当時の[[狭軌]]鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立した<ref name="2-24"/>。また、本形式の登場がきっかけとなって[[鉄道友の会]]では[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]の制度が創設され<ref name="1981-116">[[#生方1981|生方 (1981) p.116]]</ref>、[[1958年]]には第1回ブルーリボン賞を授与された<ref name="1981-116"/>。[[1968年]]以降は[[御殿場線]]乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し<ref name="2-28">[[#小山1985|小山 (1985) p.28]]</ref>、 "Short Super Express" (略して「SSE」)とも称されるようになり<ref name="1981-21">[[#生方1981|生方 (1981) p.21]]</ref>、[[1991年]]に[[小田急20000形電車|20000形(RSE車)]]が登場するまで運用され<ref name="546-191">[[#大幡546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.191]]</ref>、[[1992年]]に全車両が廃車となった<ref name="386-67">[[#生方386|『鉄道ファン』通巻386号 p.67]]</ref>。
本項では以下必要に応じて、特定の編成を表記する際には[[新宿駅|新宿]]寄り先頭車両の[[鉄道の車両番号|車両番号]]と両数を組み合わせて「3011×8」「3021×5」のように表記し、本形式3000形は「SE車」、[[小田急3100形電車|3100形]]は「NSE車」、[[小田急7000形電車|7000形]]は「LSE車」、[[小田急10000形電車|10000形]]は「HiSE車」、[[小田急20000形電車|20000形]]は「RSE車」、[[小田急50000形電車|50000形]]は「VSE車」、[[鉄道省]]・[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]・[[運輸省]]および[[日本国有鉄道]]が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、[[鉄道技術研究所]]は「研究所」、[[箱根登山鉄道]][[箱根湯本駅]]へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。また、[[大井川鐵道|大井川鉄道(当時)]]に譲渡された車両についても本項目で記述する。
== 登場の経緯 ==
=== 小田急の目標 ===
[[1948年]][[6月1日]]に小田急が[[東京急行電鉄]]から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した[[山本利三郎]]は、学生時代から[[連接台車|連接車]]に関心を抱いており<ref name="2009-137">[[#青田2009|青田 (2009) p.137]]</ref>、[[スペイン]]で開発された連接車である[[タルゴ]]について「あれを電車でやれないか」と考えていたという<ref name="2009-137"/>。国鉄東京[[鉄道管理局]]に在籍していた[[1935年]]には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出していた<ref name="jden-167">[[#福原2008|福原 (2008) p.167]]</ref>。これは、関節車(連節車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を[[流線形車両|流線形]]にし、駆動方式も[[吊り掛け駆動方式]]から改良して騒音を低減した高速電車を[[東京駅|東京]]と沼津の間で走らせる、という内容であった<ref name="jden-167-168">[[#福原2008|福原 (2008) p.167-168]]</ref>。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかった<ref name="jden-168">[[#福原2008|福原 (2008) p.168]]</ref>が、山本はその後も連接車の導入に関心を持っており<ref name="386-68">[[#生方386|『鉄道ファン』通巻386号 p.68]]</ref>。1948年冬には当時まだ新入社員であった[[生方良雄]]とともに、当時既に連接車として運用されていた[[西日本鉄道]][[西鉄500形電車 (鉄道)|500形]]の構造や保守について視察を行っている<ref name="386-69">[[#生方386|『鉄道ファン』通巻386号 p.69]]</ref>。
一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的とした輸送改善委員会が設置された<ref name="491-16">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.16]]</ref>が、この委員会では「[[新宿駅|新宿]]と[[小田原駅|小田原]]を60分で結ぶ」という将来目標が設定されていた<ref name="491-16"/>。この目標値は、戦前に[[阪和電気鉄道]]が[[天王寺駅|天王寺]]と[[和歌山駅|東和歌山]]の間61.2[[キロメートル|km]]を45分で結び、表定速度は81.6[[キロメートル毎時|km/h]]に達していたことを意識したもので<ref name="2009-20">[[#青田2009|青田 (2009) p.20]]</ref>、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである<ref name="2009-21">[[#青田2009|青田 (2009) p.21]]</ref>。山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという<ref name="2009-20"/>。
当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた<ref name="pjx-20">[[#X2|『プロジェクトX』p.20]]</ref>。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行なうことはできなかった<ref name="491-16"/>。このため、[[軌道 (鉄道)|軌道]]や[[変電所]]などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた<ref name="491-16"/>。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた<ref name="546-82">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.82]]</ref>。
車体の軽量化については[[1954年]]に登場した[[小田急2100形電車|2100形]]で、駆動方式についても[[カルダン駆動方式]]が同年に登場した[[小田急2200形電車|2200形]]で実用化された<ref name="546-82"/>。また、この年の9月11日には、新特急車の開発が正式に決定した<ref name="arc1-65">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.65]]</ref>。
===
この頃、国鉄でも高速車両の研究が進められていた。[[1946年]]には山本の友人である[[島秀雄]]が、[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[海軍航空技術廠|航空技術廠]]にいた[[三木忠直]]や[[松平精]]などを研究所に招き、「[[鉄道車両の台車史#高速台車振動研究会|高速台車振動研究会]]」を設立して研究を行なっていた<ref name="shima91">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.91]]</ref>。台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった<ref name="shima159">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.159]]</ref><ref group="注釈">しかし、研究所生え抜きの研究者からはことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった([[#X2c|コミック版『プロジェクトX』p.17、p36]])。</ref>。
三木は[[航空機]]の理論を応用した鉄道高速化の研究を行なっており、[[1953年]]9月にに三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160[[キロメートル毎時|km/h]]・平均125km/hで走行が可能で、[[東京]]と[[大阪]]を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった<ref name="shima158">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.158]]</ref><ref group="注釈">ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計ではあったものの、電車方式([[動力分散方式]])ではなく1,200[[馬力]]の[[電気機関車]]による7両編成の[[客車]]列車([[動力集中方式]])であった([[#高橋2000|高橋 (2000) pp.158-159]])。</ref>。その後、日本鉄道車両工業協会で「超高速車両委員会」が発足した<ref name="2009-68">[[#青田2009|青田 (2009) p.68]]</ref>が、そこで研究を重ねた結果、1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された<ref name="2009-68"/>。
山本はこの研究発表に着目し、1954年10月19日に<ref name="1994-140">[[#生方1994|生方 (1994) p.140]]</ref>国鉄に対して新形特急車両の技術指導を依頼した<ref name="shima159"/>。小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあった<ref name="shima154">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.154]]</ref>ので、この依頼は一見非常識にさえ見えた<ref name="shima159"/>。しかしこの当時、島は桜木町事件の後に国鉄を退職していたが、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった<ref name="shima159"/>。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった<ref name="shima159"/>ため、島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた<ref name="shima159"/>。また、研究所側でも、研究成果を実現するために小田急の構想に乗ることで、研究成果の確認が可能になると考えた<ref name="546-82"/>。
このような経緯で、1954年10月25日から<ref name="1994-140"/>小田急の研究を研究所が受託するという形式で新特急車の共同開発が開始された<ref name="546-82"/>。
===
[[1955年]]1月25日には基本構想が策定された<ref name="546-82"/>が、この時点では5両連接車という内容であった<ref name="1994-140"/>。1955年1月16日には<ref name="1994-140"/>共同設計者として[[日本車輌製造]]・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輌(当時)]]・[[近畿車輛]]・[[東洋電機製造]]・[[東芝|東京芝浦電気(当時)]]・[[三菱電機]]が参画し、研究所の指導の下に具体的な設計に入った<ref name="546-83">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.83]]</ref>。メーカーの決定に際しては、純粋に技術的見地から決定され<ref name="1994-75">[[#生方1994|生方 (1994) p.75]]</ref>、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って、過去の小田急との取引を考慮して決定した<ref name="1994-75"/>。
軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及された<ref name="1981-115"/>ほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた<ref name="1981-115"/>。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから[[鉄道車両]]の進歩が遅れる」という山本の考え<ref name="386-67"/>により、[[耐用年数]]は10年と考えることになった<ref name="386-67"/>。
前頭部の形状の決定に際しては、[[東京大学]]航空研究所の[[風洞]]を使用して<ref name="shima160">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.160]]</ref>、日本の鉄道車両設計の歴史上初めてとなる本格的な風洞実験が行われた<ref name="shima160"/>ほか、[[ディスクブレーキ]]の試験も行なわれた<ref name="arc1-63">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.63]]</ref>。また、高速運転に伴って[[踏切障害事故|踏切事故]]などを防止するために補助警報器<!--どうも補助警報音とミュージックホーンを一緒にするのは抵抗が…-->(特殊[[警笛]])の現車試験なども行なわれた<ref name="arc1-63"/>。
また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた山本の提案によって、連接構造が採用されることになった<ref name="shima160"/>。三木は連接車に賛成していた<ref name="386-69"/>が、研究所では保守上の不便を心配していたという<ref name="546-83"/>。また、この時期の[[小田急電鉄の車両検修施設|経堂工場]]は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかった<ref name="arc2-12">[[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.12]]</ref>ので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという<ref name="1994-75"/><ref group="注釈">後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている([[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.12]])。</ref>。
=== 開発の停滞と再開 ===
これと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため、社内に車両委員会が設置された<ref name="546-84">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.84]]</ref>。しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから<ref name="546-84"/>、社内の意見をまとめるのに難航した<ref name="546-85"/>。
運転席を低くしたため、運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」<ref name="546-85"/>「運転台からの見通しが悪すぎる」<ref name="2009-167">[[#青田2009|青田 (2009) p.167]]</ref>という意見が、また客室床面が低いために営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」<ref name="546-85"/>という意見があったという。必死に説得を続けたものの<ref name="2009-167"/>、運輸部門からの反発は大きく、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった<ref name="546-85"/>。
ところが、半年後の1956年3月に、[[新宿駅|新宿]]から[[貨物線]]経由で[[小田原駅|小田原]]や[[伊豆半島|伊豆]]方面に向かう[[準急列車]][[踊り子 (列車)#電車の台頭と列車の増発・名称多様化|「天城」]]の運行が国鉄から発表された<ref name="546-85"/>。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想された<ref name="546-85"/>ため、社内の意見も「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべき」と一致をみた<ref name="546-85"/>ことから、開発は再開されることになった。
[[1956年]]5月には仕様が決定し<ref name="546-84"/>、同年6月末から製作が開始されることになった<ref name="546-84"/>。当初は全長70[[メートル|m]]の5両連接車で計画されていた<ref name="arc1-65"/>ものが、同年5月7日に全長108mの8両連接車に変更された<ref name="1994-140"/>。経験・実績に乏しい方式だったにもかかわらず8両連接車を採用したのは、当時としては大英断であったと評されている<ref name="2-24"/>。また、[[操縦席|運転台]]を2階に上げて[[展望車|展望席]]を設置する案や、[[二等車]]を設ける案もあった<ref name="arc1-65"/>が、最終的にはこれらの案は不採用となった<ref name="arc1-65"/>。
車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車両・[[住友信託銀行]]の4社で[[信託|車両信託制度]]という新しい制度が設けられた<ref name="arc1-113"/>。これは[[アメリカ合衆国]]のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので<ref name="arc1-113"/>、SE車は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった<ref name="arc1-113"/>。
こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。
本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。
SE車は8両連接の固定編成で、形式は先頭車が[[制御車|制御電動車]]のデハ3000形で、中間車は[[動力車|電動車]]のデハ3000形である。編成については、[[#編成表|巻末の編成表]]を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能<ref name="491-16"/>で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなる<ref name="491-16"/>が、この場合は3両目が両側とも付随台車となる<ref name="491-16"/>。ただし、1959年3月に製造された編成(3031×8)では、ほとんど編成短縮の機会がないことから、永久8両連節の回路設定とすることで、さらに回路の簡略化を図った<ref name="arc1-66">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.66]]</ref>。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であった<ref name="arc1-65"/>が、SE車では車体ごとに車両番号を附番している<ref name="arc1-66"/>。
===
車体については、日本車輌・川崎車輌が担当することになり、研究所側は三木が主任担当者となった<ref name="shima158"/>。
先頭車は車体長15,750[[ミリメートル|mm]]<ref name="546-82"/>・全長15,950mm<ref name="2005-84">[[#生方2005|生方 (2005) p.84]]</ref>、中間車は車体長12,300mm<ref name="546-82"/>・全長12,700mm<ref name="2005-84"/>で、車体幅は2,800mm<ref name="546-83"/>の全金属製車体である。
それまでの特急車両では、格下げを考慮して車体の強度を定員の250[[パーセント|%]]の荷重として計算していた<ref name="491-16">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.16]]</ref>が、SE車では将来の格下げは考えず、定員の130%として荷重を計算した<ref name="arc1-66"/>上で航空機の技術を取り入れ<ref name="546-83"/>、各部にわたって徹底的な軽量化を図った<ref name="491-16"/>。車体構造は強度部材の軽量化のために[[モノコック|張殻構造]]とし、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mmの厚さの耐蝕[[鋼板]]を採用し<ref name="546-83"/>、バックリング防止のため<ref name="2-25">[[#小山1985|小山 (1985) p.25]]</ref>125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした<ref name="491-16"/>。車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み<ref name="546-83"/>、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで<ref name="546-83"/>、横風に対する安定度を確保し、風圧の影響を減少させることを図った<ref name="546-83"/>。低重心化のため台車間の床面を低くし<ref name="546-83"/>、[[軌条]]上面から床面までの寸法は、[[鉄道車両の台車|台車]]の上では1,000mmで車体中央部では875mmとなった<ref name="2005-164">[[#生方2005|生方 (2005) p.164]]</ref>。床板には[[ハニカム構造]]を採用した<ref name="546-83"/>。こうした工夫の結果、構体重量は従来車の1mあたり500kgだったものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され<ref name="491-16"/>、[[小田急2300形電車|2300形]]が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であったのに対して、SE車では全長108mの8両連節車でありながら147t(1mあたり1.36t)と、大幅な軽量化を実現した<ref name="491-13">[[#生方491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.13]]</ref>。なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行なわれていなかった荷重試験が行なわれ<ref name="2009-182">[[#青田2009|青田 (2009) p.182]]</ref>、構体の175箇所に対してねじれや圧縮などの力を加えた測定が行なわれた<ref name="2009-182"/>。
{{Double image aside|right|Front of OER 3000.jpg|180|OER SE3000 Door.jpg|180|先頭部|出入台付近(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)}}
先頭部の形状は流線形で、[[模型]]を作成した上で風洞実験を繰り返し<ref name="491-16"/>、さらにその結果を基にして[[木型|モックアップ]](実物大模型)を作成した上で細部に検討を加えて決定された<ref name="491-16"/>。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだった<ref name="1994-82">[[#生方1994|生方 (1994) p.82]]</ref>が、当時の日本の[[ガラス]]製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず<ref name="1994-82"/>、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった<ref name="1994-82"/>。[[前照灯]]は正面窓下部中央に2灯を並べ、日本の鉄道車両では初めて[[シールドビーム]]が採用された<ref name="2-25"/>が、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかったため、自動車用の24V仕様のものを使用した<ref name="1987-88"/>。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたこと<ref name="1994-81">[[#生方1994|生方 (1994) p.81]]</ref>と、左右に分けた場合に1灯が故障した場合に列車の位置が分からなくなるという理由によって<ref name="1994-81"/>、2灯を前面中央部に並べた<ref name="1994-81"/>。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから<ref name="1994-81"/>、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている<ref name="1994-81"/>。[[尾灯]]兼用の[[通過標識灯|標識灯]]は運転席窓上に設けられた。先頭部には異常時に使用する格納式[[連結器|簡易連結器]]が収納された<ref name="491-16"/>。
側面客用扉は車体断面に合わせた<ref name="491-16"/>高さ1,770mm・幅800mmの手動式<ref group="注釈">1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.37)。</ref>内開き戸<ref name="2005-84"/>を中間車に1箇所ずつ配置した。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した<ref name="2005-84"/>。[[操縦席|乗務員室]]の扉は高さ1,400mm・幅600mmである<ref name="2005-84"/>。車両間の[[貫通扉|貫通路]]は車内の見通しを良くする目的で広幅とし<ref name="491-16"/>、仕切り扉は一切設けていない<ref name="491-16"/>。
屋根は[[換気扇|ファンデリア]]の外気取り入れ口を設けた二重構造とし<ref name="491-16"/>、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた<ref name="arc1-66"/>。
塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあった<ref name="2009-179">[[#青田2009|青田 (2009) p.179]]</ref>が、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべき」と決まり<ref name="2009-179180">[[#青田2009|青田 (2009) pp.179-180]]</ref>、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で<ref name="1994-82"/>、[[二紀会]]の[[宮永岳彦]]が色彩設計を担当<ref name="546-86"/>、バーミリオンオレンジを基調にホワイト・グレーの帯が入る<ref name="546-86"/>、[[警告色|警戒色]]となるような明るい色とした<ref name="491-17"/>。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され<ref name="2009-181">[[#青田2009|青田 (2009) p.181]]</ref>、バーミリオンオレンジについてはVSE車とMSE車にも継承された<ref name="2009-181"/>。
=== 内装 ===
{{Triple image|right|OER-SE3000-inside.jpg|150|OER-SE3000-inside-slope.jpg|150|OER-SE3000-inside-buffet.jpg|150|客室内(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)|客室端部のスロープ|喫茶カウンター(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)}}
それまでの同種の[[鉄道車両の座席|座席]]の重量が60kgだったところを30kgにまで軽量化した[[鉄道車両の座席#回転式クロスシート(回転腰掛)|回転式クロスシート]]を採用し<ref name="491-16"/>、[[座席#シートピッチ|シートピッチ]]1,000mmで配置した<ref name="2005-84"/>。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である<ref name="491-20">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.20]]</ref>。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した<ref name="arc1-116">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.116]]</ref>。車体の節で記述したように、車体中央部を低床化しており、台車上と車両中央部の床の高さに125mmの差があるため、客室両端部の通路には傾斜をつけている<ref name="arc1-114">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.114]]</ref>。
室内の配色は、天井を白、壁面は明るい色の[[デコラ]]張りとして<ref name="1994-83">[[#生方1994|生方 (1994) p.83]]</ref>、窓上[[カーテン]]キセ上部に赤い帯を入れた<ref name="1994-83"/>。座席は濃い青色の表地を採用した<ref name="1994-83"/>。
3号車の新宿寄り海側出入台脇と9号車の[[小田原駅|小田原]]寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した<ref name="491-16"/>。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用[[便器#和式大便器(和風大便器)|和式]][[列車便所|便所]]・[[洗面器#洗面台・洗面所|化粧室]]を配置した<ref name="491-16"/>。喫茶カウンター・便所とも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。
客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で、左右どちら側にでも開けるようにした<ref name="1994-77">[[#生方1994|生方 (1994) p.77]]</ref>。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったため<ref name="1994-77"/>で、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした<ref name="1994-77"/>。
=== 主要機器 ===
==== 主電動機・駆動装置 ====
{{Sound|Odakyu SSE 3055 sagami No.5 matsuda.ogg|3000形電車3055の走行音(さがみ5号)|(本厚木-新松田間、1988年1月2日)}}
既に[[中空軸平行カルダン駆動方式]]で実績のある[[東洋電機製造]]が担当した<ref name="546-83"/>。
採用された[[主電動機]]は出力100[[ワット (単位)|kW]]([[公称電圧|端子電圧]]375[[ボルト (単位)|V]]・定格回転数1,800[[rpm (単位)|rpm]]・最[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱界磁]]率50[[パーセント|%]])の[[直巻整流子電動機|直流直巻補極付電動機]]である東洋電機製造のTDK806/1-A形で<ref name="491-17"/>、定格速度が高く、高速域からの発電ブレーキを十分に作用させることが可能な特徴を有する<ref name="arc1-114"/>。また、最大回転数は4,320rpmで<ref name="arc1-115"/>、理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である<ref name="arc1-115"/>。箱根登山線での上り勾配低速運転に対応するため、強制通風式となっている<ref name="491-17"/>。
駆動装置は東洋電機製造の[[中空軸平行カルダン駆動方式]](撓み板継手方式)のDND143-SH9921形である<ref name="arc1-113"/>。[[歯車比|歯数比]]は78:21=3.71とした<ref name="491-17"/>。
==== 制御装置 ====
電機メーカー各社の設計入札を行った結果、超多段制御方式では最軽量となった[[東芝|東京芝浦電気(東芝)]]が担当した<ref name="546-83"/>。
採用された[[主制御器|制御装置]]は、[[発電ブレーキ|発電制動]]付[[主制御器#電動カム軸接触器式|電動カム軸式]][[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]装置であるMM-50A形で<ref name="491-17"/>、2・5・7号車に搭載された<ref name="491-24">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.24]]</ref>。特急車両であることから起動回数が少なく<ref name="arc1-114"/>、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れる<ref name="491-17"/>ことから、直並列制御は行なわずに抵抗制御及び界磁制御を行なう仕様で<ref name="491-17"/>、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)<ref name="491-17"/>、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である<ref name="arc1-114"/>。また、全ての制御回路を直列にして、1台の制御器で12つの主電動機の制御を行うこと (1C12M) も可能である<ref name="491-17"/>。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段<ref name="491-17"/>、制動は全界磁抵抗制御による14段である<ref name="491-17"/>が、起動時のショックを防ぐために捨てノッチが5段設定された<ref name="arc1-114"/>。
==== 制動装置(ブレーキ) ====
小田急において採用実績のある[[三菱電機]]が担当した<ref name="546-83"/>。
採用された[[鉄道のブレーキ|制動装置(ブレーキ)]]は、[[発電ブレーキ|電]][[空気ブレーキ|空]]併用<ref group="注釈">発'''電'''制動・'''空'''気制動を併用するという表記。</ref>のHSC-D形<ref group="注釈">「ハイスピードコントロール ('''H'''igh '''S'''peed '''C'''ontrol) ・ダイナミックブレーキ ('''D'''ynamic Break) 付」の略である。</ref>[[電磁直通ブレーキ]]で<ref name="491-17"/>、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である<ref name="491-17"/>。ブレーキ装置についても軽量化が図られ、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ、SE車では500kgに抑えている<ref name="arc1-114"/>。主抵抗器は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした<ref name="491-17"/>。
基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ<ref name="2-147"/>、付随台車ではシングルディスク式[[ディスクブレーキ]]である<ref name="2-147"/>が、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である<ref name="1987-88"/>。
==== 台車 ====
[[ファイル:Truck-KD17.jpg|thumb|right|電動台車 KD17]]
[[鉄道車両の台車|台車]]の振動特製の研究結果から、安定した軽量台車の[[鉄道車両の台車史#スイス|円筒案内式(シュリーレン)台車]]が松平より推奨された<ref name="1994-76">[[#生方1994|生方 (1994) p.76]]</ref>ため、これを採用することになり、[[近畿車輛]]が担当した<ref name="546-83"/>。
採用された台車は、電動台車が軸距2,200mmのKD17<ref name="2-147">[[#小山1985|小山 (1985) p.147]]</ref>、付随台車が軸距2,000mmのKD18<ref name="2-147"/>で、いずれの台車も車輪径は840mmの金属[[ばね]]台車である<ref name="2-147"/>。台車の重量を3t台とすることを目標として設計され<ref name="arc1-115">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.115]]</ref>、保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし、6つに分けられた[[溶接]]鋼板の組み立てによる箱型とすることで、電動台車は3.8t、付随台車は3.6tに重量を抑えた<ref name="arc1-115"/>。また、SE車では定員の130%として荷重を計算したことから、ばねを柔らかくすることが可能になった<ref name="arc1-66"/>。連接付随台車は編成中3箇所に設けられた<ref group="注釈">2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。</ref>。しかし、スイングハンガーが短いことから左右剛性が硬く<ref name="679-135">[[#山岸679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.135]]</ref>、高速域での左右振動性能に難があったという<ref name="679-135"/>。
また、曲線の多い小田急線の軌道条件から、「曲線通過を容易にできる」「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」という利点から、連接構造が採用された<ref name="546-83"/>。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用されることになり、小田急の特急車両の大きな特徴となった<ref name="2-24"/>。
==== 空調装置 ====
[[エア・コンディショナー|空調装置]]は、実車完成までに解決できなかった問題である<ref name="546-83"/>。
当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、[[冷凍機]]を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された<ref name="546-83"/>。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであった<ref name="546-83"/>が、小田原で大量の氷を確保することは困難であった<ref name="546-83"/>。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討された<ref name="546-83"/>が、車体表面近くでは相対的な速度が小さく<ref name="546-83"/>、パイプを伸ばせば[[車両限界]]に抵触する<ref name="546-83"/>ため、これも実現しなかった。
結局、重量面の問題もあり<ref name="arc1-118">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.118]]</ref>、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され<ref name="422-49">[[#生方422|『鉄道ファン』通巻422号 p.49]]</ref>、運転時間が短いこともあって<ref name="arc1-118"/>軽量化と引き換えに冷房搭載は見送られることになり、直径16インチのファンデリア<ref name="arc1-116">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.116]]</ref>を先頭車に6台・中間車に5台設置することになった。
==== 補助警報装置 ====
補助警報音については、警報装置としての条件を満足させるという[[運輸省]]の要求<ref name="546-84"/>と、[[騒音]][[公害]]にならないように要求する[[警視庁]]の要望<ref name="546-84"/>を満足させるため、小田急沿線在住の[[音楽家]]である[[黛敏郎]]や音響心理学研究所の指導を得た上で[[ビブラフォン]]の音色とし<ref name="2009-173">[[#青田2009|青田 (2009) p.173]]</ref>、2km付近まで達する音量とした<ref name="arc1-117">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.117]]</ref>。補助警報音を発する装置は、エンドレス[[磁気テープ|テープ]]を乗務員室内に設けられた再生装置によって屋根上に設置した指向性の強い[[スピーカー]]から放送する仕組みである<ref name="arc1-66"/>。
この補助警報音は、SE車が「[[オルゴール]]電車」と呼ばれる由来となった<ref name="2005-87">[[#生方2005|生方 (2005) p.87]]</ref>。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された<ref name="829-190">[[#中山829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.190]]</ref>。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している<ref name="829-190"/>。
====
{{Double image aside|right|OER-SE3000-inside-cab.jpg|180|OER SE3000 Pantograph PT42-K.jpg|180|乗務員室(1968年の改造後のため登場当時とは異なる)|集電装置 PT42-K}}
[[操縦席|乗務員室]]は前後方向に2,450mmとなっており<ref name="2005-84"/>、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである<ref name="2005-84"/>。前面計器板上には防弾ガラスを設置した<ref name="arc1-116"/>。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした<ref name="arc1-116"/>。
[[集電装置]](パンタグラフ)は、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に、高速運転時の追従性を向上させたPT42-K形集電装置を設置した<ref name="491-24"/>。
補助電源装置については、2相交流6kVA・直流35kWの複流式[[電動発電機]] (MG) であるCLG-314形と、3相交流18kVAのMGであるCLG-315形をそれぞれ2台ずつ採用<ref name="491-17"/>、両先頭車に各1台ずつ搭載した<ref name="491-24"/>。
[[圧縮機|電動空気圧縮機]] (CP) は、低床化に対応したM-20-D形を採用<ref name="491-17"/>、1・3・6・8号車に搭載した<ref name="491-24"/>。
== 沿革 ==
=== 運用開始 ===
1957年5月20日に日本車輌製の3001×8が入線<ref name="arc1-65"/>、6月上旬には日本車輌製の3021×8が入線した<ref name="arc1-65"/>。6月から小田急線内での試運転を開始し<ref name="arc1-65"/>、小田急線内では127km/hという速度を記録した<ref name="546-86"/>が、小田急線の軌道条件ではこれが限界であった。このため、小田急と研究所の意見は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた<ref name="546-86"/>。
6月26日・27日に展示会が行なわれた。この時の雑誌では「日本製タルゴ」という表現も使用された<ref name="arc1-112">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.112]]</ref>。また、SE車の完成後に[[スペイン]]から日本へタルゴの売込みがあり、小田急を訪れた<ref name="2009-140">[[#青田2009|青田 (2009) p.140]]</ref>。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した<ref name="2009-140"/>。商談は成立しなかった<ref name="2009-140"/>が、開発に携わった[[ホセ・ルイス・オリオール]]は「実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ」という感想を述べたと伝えられている<ref name="arc1-113"/>。
「[[電車]]といえば四角い箱」であった時代において、SE車は[[鉄道ファン]]だけではなく一般利用者からも注目を集めた<ref name="korotan290">[[#コロタン|『私鉄特急全百科』p.290]]</ref>。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始された<ref name="arc1-65"/>が、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり<ref name="1981-17">[[#生方1981|生方 (1981) p.17]]</ref>、前評判を聞いた利用者が殺到し、連日満席となる好成績となった<ref name="1981-17"/>。
ただ、経堂工場は狭いままで、8両連接車のSE車が全て入場することは出来なかった<ref name="arc2-11">[[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.11]]</ref>。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離し出来ない<ref name="2009-205">[[#青田2009|青田 (2009) p.205]]</ref>ため、経堂工場にはリフティングジャッキが設置された<ref name="2009-204">[[#青田2009|青田 (2009) p.204]]</ref>。車両を結ぶ配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた<ref name="2009-205"/>。分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという<ref name="2009-205"/>。
=== 狭軌世界最高速度記録 ===
==== 国鉄線上での試験 ====
折りしも研究所ではこの年の5月30日に研究所創立50周年を記念して「[[東京 - 大阪間3時間への可能性]]」という講演会を開いていたが、この講演は大きな反響を呼び<ref name="shima162">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.162]]</ref>、新聞・雑誌などでも取り上げられていた<ref name="shima162"/>。既に、国鉄では後に[[新幹線]]となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである<ref name="shima161">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.161]]</ref>。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった<ref name="shima162"/>。
山本はこの年の7月2日に、国鉄に技師長として復職していた島に対して、SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた<ref name="shima160">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.160]]</ref>。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した<ref name="shima160-161">[[#高橋2000|高橋 (2000) pp.160-161]]</ref>。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである<ref name="shima161"/>。島は後年、この試験については「国鉄内部に対する[[プロパガンダ]]であった」と述べている<ref name="shima161"/>。
この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」と反対意見が多く出た<ref name="2009-189">[[#青田2009|青田 (2009) p.189]]</ref>。また、当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式([[動力集中方式]])に対する「信仰」が根強く残っていた<ref name="shima161"/>。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという<ref name="2009-190">[[#青田2009|青田 (2009) p.190]]</ref>。
一方、SE車は日本で初めての信託車両で、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった<ref name="1994-79">[[#生方1994|生方 (1994) p.79]]</ref>ため、「[[国鉄80系電車|80系電車]]のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった<ref name="2009-190"/>。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった<ref name="1994-79"/>。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急[[社長]]の[[安藤楢六]]と[[国鉄総裁]]の[[十河信二]]との間で、SE車の貸借について契約が行なわれ<ref name="1994-79"/>、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した<ref name="2009-191">[[#青田2009|青田 (2009) p.191]]</ref>。
==== 記録達成 ====
こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行なうという、日本の鉄道史上で初めてとなる<ref name="546-86"/>国鉄・私鉄合同の試験が行なわれることになった<ref name="546-86"/><ref group="注釈">国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行なったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でのLSE車の事例があるのみである([[#生方1985|生方 (1985) p.123]])。</ref>。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった<ref name="jden-38">[[#福原2008|福原 (2008) p.38]]</ref>。
川崎車輌製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず<ref name="1981-17"/>、1957年9月19日に小田原から自力走行で[[東海道本線]]に入線し<ref name="1987-99">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.99]]</ref>、翌日の9月20日から試験が開始された。初日は[[藤沢駅|藤沢]]と[[平塚駅|平塚]]の間で日中に試験が行なわれ<ref name="arc1-65"/>、9月21日からは[[大船駅|大船]]と平塚の間で深夜に速度試験が行なわれた<ref name="arc1-65"/>。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録<ref name="546-86"/>、さらに9月25日深夜には当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した<ref name="546-86"/>。9月27日からは試験の区間を[[函南駅|函南]]と[[沼津駅|沼津]]の間に移し、日中に試験が行なわれた<ref name="546-86"/>。当日は11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された<ref name="1987-87">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.87]]</ref>。函南を13時50分に発車したSE車は[[三島駅|三島]]を100km/hで通過した後も加速を続け<ref name="1994-79"/>、沼津までの区間で9月25日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録の145km/hを樹立した<ref name="1987-87"/>。この時、沼津では停止時に車両の横揺れがあっても[[プラットホーム]]に接触しないように縁石を一部撤去していたが、杞憂に終わっている<ref name="2009-16">[[#青田2009|青田 (2009) p.16]]</ref>。
この高速試験では、[[粘着式鉄道#粘着現象|輪重]]・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定も行われていた<ref name="491-24"/>が、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった<ref name="546-86"/>。車輪横圧はそれまでの車両では4[[トン|t]]だったのに対して最大でも2.5tという結果となり<ref name="1994-79"/>、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された<ref name="1994-79"/>。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていたものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された<ref name="1994-79"/>。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた<ref name="1994-79"/>。
その翌日の9月28日まで試験が継続された<ref name="arc1-65"/>後に3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された<ref name="arc1-65"/>。これによって、[[小田急1700形電車|1700形]]は一般車に改造されることになった<ref name="arc1-59">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.59]]</ref>。
==== 波及効果 ====
[[ファイル:Blue Ribbon Prize 1957 of Japan Railfan Club.JPG|thumb|right|ブルーリボン賞受賞記念プレート]]
SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証された<ref name="546-86"/>。
国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行なわれた[[国鉄101系電車|101系電車]]による速度試験の結果を踏まえ<ref name="2009-83">[[#青田2009|青田 (2009) p.83]]</ref>、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた<ref name="2009-84">[[#青田2009|青田 (2009) p.84]]</ref>。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した<ref name="2009-84"/>。この電車特急のために[[国鉄181系電車|20系電車(後の151系→181系電車)]]の設計が開始され<ref name="shima161"/>、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行なわれることになった<ref name="shima182">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.182]]</ref>。その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた<ref name="shima182"/>。
小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり<ref name="1994-79"/>、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった<ref name="1994-79"/>。
また、[[鉄道友の会]]ではSE車の世界最高速度記録を契機として<ref name="2009-176">[[#青田2009|青田 (2009) p.176]]</ref>、優秀な車両を表彰する制度として1958年より[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を創設した<ref name="BL88-9899">[[#BL88|『ブルーリボン賞'88』 pp.98-99]]</ref>が、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため、SE車に対しては会員投票によることなく、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された<ref name="BL88-100">[[#BL88|『ブルーリボン賞'88』 p.100]]</ref>。
=== NSE車登場前後 ===
[[1958年]]7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生<ref name="1994-141">[[#生方1994|生方 (1994) p.141]]</ref>、この後8月7日までは3021×5として運行した。同年8月には、全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し<ref name="491-17"/>、あわせて台車のばねも交換された<ref name="491-17"/>。
[[1959年]]2月12日には増備車として3031×8が入線し<ref name="2005-168">[[#生方2005|生方 (2005) p.168]]</ref>、同年2月28日から運行を開始した<ref name="2005-168"/><ref group="注釈">竣工届けは1959年3月2日提出で、営業運行開始後であった([[#生方2005|生方 (2005) p.168]])。</ref>。これによって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり、箱根特急のスピードアップが行なわれた<ref name="1994-83"/>。また、2300形は準特急車に格下げされることになった<ref name="arc1-64">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.64]]</ref>。また、この年から夏季に運行される[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]の特急にも運用されるようになった<ref name="arc1-46">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.46]]</ref>ほか、特殊急行「納涼ビール電車」にも使用された<ref name="arc1-47">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.47]]</ref>。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していた<ref name="arc1-80">[[#生方a1-1963|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.80]]</ref>が、[[1962年]]に他車と同様の青色系の表地に戻した<ref name="arc1-80"/>。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行なわれた<ref name="arc1-80"/>。
一方、他の事業者では冷房装備の特急形電車の製造が行なわれていたことから、[[1961年]]にはSE車の冷房設置が計画された<ref name="491-17"/>。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は大改造となるため<ref name="491-17"/>、床置き式の冷房装置を搭載することになり<ref name="546-190">[[#大幡546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.190]]</ref>、1962年2月から設置工事が行なわれた<ref name="491-17"/>。搭載する冷房装置は冷房能力9,000kcal/hのCBU-381形が採用され<ref name="546-191"/>、1両に2台ずつ搭載し<ref name="546-190"/>、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた<ref name="546-191"/>。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去された<ref name="546-190"/>が、この時に撤去する座席は便所前や売店前・出入り口脇など、乗客に好まれない座席を優先した<ref name="546-190"/>。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し、編成定員は316名となった<ref name="491-17"/>。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG-326形電動発電機 (MG) が増設された<ref name="546-191"/>。
なお、1961年にはシュリーレン台車を[[小田急2400形電車|2400形(HE車)]]に振り替え、SE車には住友金属工業で新しく新造した台車を装着するという案もあり<ref name="679-135"/>、実際に試験も行なわれている<ref name="679-135"/>が、実現には至っていない<ref name="679-135"/>。
[[1963年]]には集電装置の摺り板がカーボンからブロイメットに変更された<ref name="546-191"/>。また、1966年には列車無線が新設された<ref name="546-191"/>。
1963年にNSE車が登場し、その後[[1967年]]に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになる<ref name="1981-21"/>と、SE車は江ノ島線の特急「えのしま」や、[[1966年]]6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった<ref name="491-14">[[#生方491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.14]]</ref>。
=== 編成短縮 ===
[[1968年]]には[[御殿場線]]が電化されることになり<ref name="2-28"/>、[[1955年]]から[[小田急キハ5000形気動車|キハ5000形気動車]]により運行していた御殿場線直通の[[あさぎり (列車)#小田急線御殿場線直通列車の沿革|特別準急]]を電車に置き換えることになった。新形電車を製造する案もあった<ref name="2005-92">[[#生方2005|生方 (2005) p.92]]</ref>が、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することになった<ref name="2-28"/>。SE車は[[耐用年数]]を10年として製造された車両で、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声もあった<ref name="2005-92"/>が、当時は国鉄の[[労働争議|組合闘争]]の激しかった時期で「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂もあり<ref name="arc2-16">[[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.16]]</ref>、やむを得なかった<ref name="2005-92"/>。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足する<ref name="491-14"/>ため、輸送力の適正化も考えて5両連節車×6編成に組み換えることになった<ref name="491-18">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.18]]</ref>。
改造内容は、まず8両連節車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し<ref name="491-18"/>、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した<ref name="491-18"/>。台車の数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていない<ref name="422-36">[[#山下422|『鉄道ファン』通巻422号 p.36]]</ref>が、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため、新形式のサハ3000形となった<ref name="491-18"/>。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため、歯数比を78:21=3.71に変更し<ref name="2-28"/>、これによって低下する高速性能を補うために弱め界磁を3段から4段に、最弱界磁率を50%から40%に変更した。また、全ての台車について車輪径840mmから860mmに変更した<ref name="546-191"/>。先頭形状は、愛称表示器をNSE車と同様の形態に変更し<ref name="491-18"/>、前照灯は愛称表示器の両側に移設した<ref name="491-18"/>。また、2編成の連結運転に対応できるように前面の[[連結器]]を電気連結器付密着連結器に変更し<ref name="546-191"/>、着脱式の連結器覆いを設置した<ref name="491-18"/>。便所・洗面所は2号車に<ref name="491-18"/>、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた<ref name="491-18"/>上、喫茶カウンターの面積を拡大した<ref name="546-191"/>。保安装置については、国鉄のATS-S形を設置し<ref name="2-28"/>、先頭部に[[信号炎管]]を新設した<ref name="2-28"/>。冷房装置については屋根上設置に変更<ref name="2-28"/>、冷房能力4,000kcal/hのCU-11形[[集約分散式冷房装置]]を先頭車に6台・中間車に5台設置した<ref name="546-191"/>。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された<ref name="491-18"/>。
これらの改造は日本車輌蕨工場で行なわれた<ref name="491-18"/>が、この組成変更で32両中22両が改番され<ref name="2-28"/>、余剰となった2両は[[廃車]]となった<ref name="2-28"/><ref group="注釈">台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。</ref>。
こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになった。編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった<ref name="1981-21"/>。この年にはOM-ATS装置が設置された<ref name="491-18"/>。また、1972年には保安ブレーキ装置の設置が<ref name="546-191"/>、1973年には列車無線装置の更新が行なわれた<ref name="546-191"/>。
{{Double image aside|right|OER SE3000 Sign-B.jpg|180|Ticket Romancecar Sagami2 B-Car.jpg|180|2編成を連結した運転の際には、車両側に「B号車」と表示され、券面に編成を区別するための記号として「B」と記された}}
その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用され、NSE車が検査時にはSE車が箱根特急の運用に入ることもあった<ref name="arc2-77">[[#山下a2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.77]]</ref>。また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行なわれることもあった<ref name="arc2-77"/>。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまうため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別していた<ref name="arc2-77"/>。1977年から1980年にかけて内装の更新が行なわれた<ref name="546-191"/>。
しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造されたSE車は老朽化が進んできた<ref name="405-81">[[#輿水405|『鉄道ピクトリアル』通巻405号 p.81]]</ref>ことから、[[1976年]]からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され<ref name="405-81"/>、[[1980年]]にはLSE車が登場した<ref name="60-90">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.90]]</ref>。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することで輸送力が不足する状態になっていたことは解消された<ref name="5-123">[[#生方1981|生方 (1981) p.123]]</ref>。
=== 大井川鉄道へ譲渡 ===
[[File:Oigawa3000 19841104.jpg|thumb|right|大井川鉄道・新金谷駅にて、1984年撮影]]
その後、LSE車の増備が進んだことから、[[1983年]]3月に3001×5が廃車された<ref name="2-28"/>。廃車された3001×5は[[動態保存]]車両として[[大井川鐵道|大井川鉄道(当時)]]に譲渡されることになった<ref name="2-28"/>。
1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工<ref name="14-160">[[#白井2002|白井 (2002) p.160]]</ref>、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で<ref name="14-36">[[#白井2002|白井 (2002) p.36]]</ref>、1983年8月よりロマンス[[急行列車|急行]]「おおいがわ」として運行を開始した<ref name="14-36"/>。車内では緑茶のサービスも行なわれた<ref name="14-37">[[#白井2002|白井 (2002) p.37]]</ref>が、[[蒸気機関車]]ほどの集客が出来ず<ref name="679-195">[[#岸上679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.195]]</ref>、[[1987年]]7月の[[ダイヤ改正]]以降は運用から外れて休車となった<ref name="546-173">[[#岸上546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.173]]</ref>。その後まったく利用されないまま<ref name="546-173"/>、[[1992年]]3月に廃車となり<ref name="679-195"/>、[[1993年]]4月に解体された<ref name="679-195"/>。
=== 運用終了まで ===
一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており、LSE車によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった<ref name="546-163">[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.163]]</ref>。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して<ref name="546-163"/>、継続使用に反対する社内意見はあった<ref name="2005-95">[[#生方2005|生方 (2005) p.95]]</ref>ものの、仕方なく継続使用することになった。
[[ファイル:ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg|thumb|right|車体修理後、重連で「あさぎり」に使用されたSE車]]
このため、3011×5を除く4編成に対して、[[1984年]]から車体修理が行なわれた。外観上の変化は、側面窓を高さ680mm×幅650mmの固定窓に変更し<ref name="546-191"/>、連接部の外幌をLSE車と同様の[[ポリウレタン|ウレタン]]芯形とした点である<ref name="546-191"/>。また、屋根上のクーラーキセを[[繊維強化プラスチック|強化プラスチック]] (FRP) 製に変更した<ref name="546-191"/>。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとした<ref name="491-18"/>ほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に<ref name="491-18"/>、天井板は白系のクロス模様に変更された<ref name="491-18"/>。また、客用扉に電動ロック装置が設置された<ref name="546-162">[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.162]]</ref>。
この時に車体修理対象から外れた3011×5については、その後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後<ref name="546-163">[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.163]]</ref>、1987年3月27日付で廃車された<ref name="491-19"/>。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったこと<ref name="491-19"/>から、廃車後もしばらくは海老名検車区で保管されていた<ref name="491-19"/>が、[[1989年]]5月に解体された<ref name="2005-165">[[#生方2005|生方 (2005) p.165]]</ref>。
残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に、小田急線内の特急にも使用されていたが、1987年に導入されたHiSE車が増備されたために、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった<ref name="546-154">[[#刈田546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.154]]</ref>。
これより少し遡る[[1988年]]7月、小田急から[[東海旅客鉄道]](JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えについて申し入れをしたことがきっかけとなり<ref name="297-35">[[#須田297|『鉄道ジャーナル』通巻297号 p.35]]</ref>、小田急とJRの間で相互[[直通運転]]に関する協議が進められることになった<ref name="297-35"/>。この中で、2社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更することとなり<ref name="2005-50">[[#生方2005|生方 (2005) p.50]]</ref>、ようやくSE車の置き換えという方向性となった。
[[1990年]]年末にRSE車が入線し<ref name="829-183">[[#anokoro829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.183]]</ref>、[[1991年]]に入ってからは通常の愛称板ではなく「さよなら運転」のタイトルが入った愛称板も用意された<ref name="829-183"/>。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例となり<ref name="829-183"/>、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られるようになった<ref name="829-183"/>。定期運用最終日の1991年3月15日は、全列車が重連運用となり、新宿駅には多くの鉄道ファンがSE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるために集まった<ref name="829-183"/>。
定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていた<ref name="829-183"/>が、[[1992年]]3月に[[さよなら運転]]が行なわれた後に全車両が廃車となった<ref name="829-183"/>。
== 保存車両 ==
[[ファイル:OER Romancecar SE Conservation.jpg|thumb|right|海老名検車区で保存される3021×5。2007年の「[[ファミリー鉄道展]]」での屋外展示のため保存用車庫から引き出されているところ]]
1992年3月に廃車となった車両のうち、1編成は役員会により永久保存することが決定した<ref name="1994-86">[[#生方1994|生方 (1994) p.86]]</ref>。保存されることになったのは3021×5の編成で、デハ3021の前頭部を原型に復元し、デハ3021・デハ3022は塗装も変更された<ref name="829-8">[[#保存829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.8]]</ref>。[[1993年]]3月に復元が完了し<ref name="1994-86"/>、同年3月20日に海老名検車区内に設置された保存用の車庫に収容された<ref name="2005-137">[[#生方2005|生方 (2005) p.137]]</ref>。
通常は非公開であるが、「[[ファミリー鉄道展]]」等のイベントで展示されることがある<ref name="829-8"/>。[[2007年]]10月のファミリー鉄道展では、保存以来初めて屋外展示が行なわれた<ref name="829-235">[[#L829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.235]]</ref>。
== 編成表 ==
; 凡例 : Mc …[[制御車|制御電動車]]、M …[[動力車|電動車]]、T…[[付随車]]、CON…[[主制御器|制御装置]]、MG…[[電動発電機]]、CP…[[圧縮機|電動空気圧縮機]]、PT…[[集電装置]]<br/>乗 …乗務員室、喫…喫茶コーナー、WC…[[列車便所|トイレ]]・[[洗面器#洗面台・洗面所|化粧室]]
=== 8両連接車時代 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="border-bottom:solid 3px #A14023; background-color:#ccc;"|
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;" colspan="8"|{{TrainDirection|[[小田原駅|小田原]]|[[新宿駅|新宿]]}}
|-
!号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
|-
!形式
| '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000'''
|-
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|区分
|style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M8c ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M7 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M6 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M5 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M4 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M3 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M1c
|-
!車両番号
| '''3008'''<br/>'''3018'''<br/>'''3028'''<br/>'''3038''' || '''3007'''<br/>'''3017'''<br/>'''3027'''<br/>'''3037''' || '''3006'''<br/>'''3016'''<br/>'''3026'''<br/>'''3036''' || '''3005'''<br/>'''3015'''<br/>'''3025'''<br/>'''3035''' || '''3004'''<br/>'''3014'''<br/>'''3024'''<br/>'''3034''' || '''3003'''<br/>'''3013'''<br/>'''3023'''<br/>'''3033''' || '''3002'''<br/>'''3012'''<br/>'''3022'''<br/>'''3032''' || '''3001'''<br/>'''3011'''<br/>'''3021'''<br/>'''3031'''
|-
!搭載機器
| MG,CP || CON,PT || CP || || CON || CP || CON,PT || MG,CP
|-
!style="border-bottom:solid 3px #A14023;"|自重
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 24.34t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 17.19t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 15.75t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 15.13t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 16.28t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 16.00t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 17.19t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 24.87t
|-
!車内設備
| 乗 || WC || 喫 || || || 喫 || WC || 乗
|-
!定員
| 52 || 40 || 38 || 44 || 44 || 38 || 40 || 52
|}
=== 5両連接車時代 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="border-bottom:solid 3px #A14023; background-color:#ccc;"|
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;" colspan="5"|{{TrainDirection|[[小田原駅|小田原]]|[[新宿駅|新宿]]}}
|-
!号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5
|-
!形式
| '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''サハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000'''
|-
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|区分
|style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M4c ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M3 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M1c
|-
!車両番号<br/><small>()内は改番前の番号</small>
| '''3005'''<br/><small>(3008)</small><br/>'''3015'''<br/><small>(3018)</small><br/>'''3025'''<br/><small>(3028)</small><br/>'''3035'''<br/><small>(3038)</small><br/>'''3045'''<br/><small>(3014)</small><br/>'''3055'''<br/><small>(3034)</small> || '''3004'''<br/><small>(3007)</small><br/>'''3014'''<br/><small>(3017)</small><br/>'''3024'''<br/><small>(3027)</small><br/>'''3034'''<br/><small>(3037)</small><br/>'''3044'''<br/><small>(3004)</small><br/>'''3054'''<br/><small>(3024)</small> || '''3003'''<br/><small>(3006)</small><br/>'''3013'''<br/><small>(3016)</small><br/>'''3023'''<br/><small>(3026)</small><br/>'''3033'''<br/><small>(3036)</small><br/>'''3043'''<br/><small>(3013)</small><br/>'''3053'''<br/><small>(3033)</small> || '''3002'''<br/><small>(3002)</small><br/>'''3012'''<br/><small>(3012)</small><br/>'''3022'''<br/><small>(3022)</small><br/>'''3032'''<br/><small>(3032)</small><br/>'''3042'''<br/><small>(3005)</small><br/>'''3052'''<br/><small>(3025)</small> || '''3001'''<br/><small>(3001)</small><br/>'''3011'''<br/><small>(3011)</small><br/>'''3021'''<br/><small>(3021)</small><br/>'''3031'''<br/><small>(3031)</small><br/>'''3041'''<br/><small>(3015)</small><br/>'''3051'''<br/><small>(3035)</small>
|-
!搭載機器
| MG,CP || CON,PT || CP ||CON,PT || MG,CP
|-
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重
|style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.385t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 19.094t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 18.597t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 19.078t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.316t
|-
!車内設備
| 乗 || WC || 喫 || || 乗
|-
!定員
| 52 || 38 || 36 || 44 || 52
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{Cite book|和書|author = [[鉄道友の会]]東京支部|authorlink = |coauthors = |year = 1979|title = コロタン文庫46 私鉄特急全百科|publisher = [[小学館]]|ref = コロタン|id = |isbn = }}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = [[諸河久]]|year = 1981|title = 日本の私鉄5 小田急|publisher = [[保育社]]|ref = 生方1981|id = 0165-508530-7700|isbn = }}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1985|title = 日本の私鉄5 小田急|publisher = 保育社|ref = 生方1985|id = |isbn = 978-4586505302}}
* {{Cite book|和書|author = 小山育男|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1985|title = 私鉄の車両2 小田急|publisher = 保育社||ref = 小山1985|id = |isbn = 978-4586532025}}
* {{Cite book|和書|author = [[吉川文夫]]編|authorlink = |coauthors = |year = 1987|title = 小田急 車両と駅の60年|publisher = [[大正出版]]|ref = 吉川1987|id = 0025-301310-4487|isbn =}}
* {{Cite book|和書|author = [[鉄道友の会]]編|authorlink = |coauthors = |year = 1988|title = ブルーリボン賞の車両'88|publisher = 保育社|ref = BL1988|id = |isbn = 978-4586507566}}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1988|title = 日本の私鉄1 小田急|publisher = 保育社|ref = 生方1988|id = |isbn = 978-4586507689}}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1994|title = 小田急ロマンスカー物語|publisher = 保育社|ref = 生方1994|id = |isbn = 978-4586180295}}
* {{Cite book|和書|author = 高橋団吉|authorlink = |coauthors = |year = 2000|title = 新幹線をつくった男 島秀雄物語|publisher = 小学館|ref = 高橋2000|id = |isbn = 978-4093410311}}
* {{Cite book|和書|author = 白井良和|authorlink = |coauthors = |year = 2002|title = 私鉄の車両14 大井川鉄道|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|ref = 白井2002|id = |isbn = 978-4873662978}}
* {{Cite book|和書|author = [[日本放送協会|NHK]][[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]製作班|authorlink = |coauthors = |year = 2003|title = プロジェクトX〜挑戦者たち〜 (2)復活への舞台裏|publisher = [[NHK出版|日本放送出版協会]]|ref = X2|id = |isbn = 978-4140841709}}
* {{Cite book|和書|author = NHKプロジェクトX製作班|authorlink = |coauthors = |year = 2003|title = プロジェクトX〜挑戦者たち〜 コミック版 執念が生んだ新幹線 老友90歳・戦闘機が姿を変えた|publisher = [[宙出版]]|ref = X2c|id = |isbn = 978-4776711308}}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = |year = 2005|title = 小田急ロマンスカー総覧|publisher = 大正出版|ref = 生方2005|id = |isbn = 978-4811706559}}
* {{Cite book|和書|author = 福原俊一|authorlink = |coauthors = |year = 2008|title = 日本の電車物語 新性能電車編 SE車からVVVF電車まで |publisher = [[JTBパブリッシング]]|ref = 福原2008|id = |isbn = 978-4533069659}}
* {{Cite book|和書|author = 青田孝|authorlink = |coauthors = |year = 2009|title = ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話 |publisher = [[交通新聞社]]|ref = 青田2009|id = |isbn = 978-4330105093}}
=== 雑誌記事 ===
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻405号「特集・小田急電鉄」(1982年6月・[[電気車研究会]])
** {{Cite journal|和書|author=輿水醇 |year= |month= |title=LSEの企画から完成まで |journal= |issue= |pages= 81-85 |publisher= |ref = 輿水405}}
** {{Cite journal|和書|author=山下和幸 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり122 小田急電鉄 |journal= |issue= |pages= 169-183 |publisher= |ref = 山下405}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻491号「特集・小田急ロマンスカー」(1988年2月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=生方良雄 |year= |month= |title=小田急ロマンスカーの移り変わり |journal= |issue= |pages= 10-15 |publisher= |ref = 生方491}}
** {{Cite journal|和書|author=大幡哲海 |year= |month= |title=小田急ロマンスカー3000,3100,7000系 車両のあゆみ |journal= |issue= |pages= 16-24 |publisher=|ref = 大幡491 }}
* 『[[鉄道ジャーナル]]』通巻297号(1991年7月・鉄道ジャーナル社)
** {{Cite journal|和書|author=[[須田寛]] |year= |month= |title=新特急あさぎり 経緯と期待 |journal= |issue= |pages= 34-35 |publisher= |ref = 須田297}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻546号「特集・小田急電鉄」(1991年7月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=山村秀幸 |year= |month= |title=小田急の車両技術の回顧 SE車 |journal= |issue= |pages= 82-86 |publisher=|ref = 山村546 }}
** {{Cite journal|和書|author=生方良雄 |year= |month= |title=御殿場線乗り入れ列車の思い出 |journal= |issue= |pages= 157-163 |publisher=|ref = 生方546 }}
** {{Cite journal|和書|author=刈田草一 |year= |month= |title=小田急電鉄 列車運転の変遷 |journal= |issue= |pages= 145-156 |publisher=|ref = 刈田546 }}
** {{Cite journal|和書|author=岸上明彦 |year= |month= |title=他社へいった小田急の車両 |journal= |issue= |pages= 169-174 |publisher= |ref = 岸上546}}
** {{Cite journal|和書|author=大幡哲海 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり145 小田急電鉄 |journal= |issue= |pages= 175-197 |publisher=|ref = 大幡546 }}
* 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』通巻386号(1993年6月・[[交友社]])
** {{Cite journal|和書|author=生方良雄 |year= |month= |title=小田急3000形SE車の復元に寄せて |journal= |issue= |pages= 67-69 |publisher= |ref = 生方386}}
* 『鉄道ファン』通巻422号(1996年6月・交友社)
** {{Cite journal|和書|author=山下和幸 |year= |month= |title=小田急ロマンスカーの足跡 |journal= |issue= |pages= 30-46 |publisher= |ref = 山下422}}
** {{Cite journal|和書|author=生方良雄 |year= |month= |title=小田急ロマンスカーの思い出 |journal= |issue= |pages= 47-50 |publisher= |ref = 生方422}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻679号「特集・小田急電鉄」(1999年12月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=山岸庸次郎 |year= |month= |title=2400形、2600形の記録 |journal= |issue= |pages= 131-139 |publisher= |ref = 山岸679}}
** {{Cite journal|和書|author=岸上明彦 |year= |month= |title=他社へ転出した小田急の車両1999年版 |journal= |issue= |pages= 194-200 |publisher= |ref = 岸上679}}
* 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション1』「小田急電鉄 1950-60」(2002年9月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author=生方良雄 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり37 小田急電鉄 |journal= |issue= |pages= 42-71 |publisher= |ref = 生方a1-1959}}
** {{Cite journal|和書|author=生方良雄 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり 小田急電鉄(補遺) |journal= |issue= |pages= 74-82 |publisher= |ref = 生方a1-1963}}
** {{Cite journal|和書|author=T記者 |year= |month= |title=お手並み拝見 見たり・聞いたり・乗ったりの記 小田急SE車 |journal= |issue= |pages= 112-118 |publisher= |ref = otenamia1-SE}}
* 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション2』「小田急電鉄 1960-70」(2002年12月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author= |year= |month= |title=小田急座談 (Part2) 輸送・運転編 |journal= |issue= |pages= 6-20 |publisher= |ref = zadana2}}
** {{Cite journal|和書|author=山下和幸 |year= |month= |title=私鉄車両めぐり101 小田急電鉄 |journal= |issue= |pages= 59-82 |publisher= |ref = 山下a2}}
* 『鉄道ピクトリアル』通巻829号「特集・小田急電鉄」(2010年1月・電気車研究会)
** {{Cite journal|和書|author= |year= |month= |title=小田急の保存車両 |journal= |issue= |page= 8 |publisher= |ref = 保存829}}
** {{Cite journal|和書|author= |year= |month= |title=あの日、あの頃 小田急の情景 |journal= |issue= |pages= 173-183 |publisher= |ref = anokoro829}}
** {{Cite journal|和書|author=中山嘉彦 |year= |month= |title=小田急車両 -音と色- |journal= |issue= |pages= 189-191 |publisher= |ref = 中山829}}
** {{Cite journal|和書|author= |year= |month= |title=歴代ラインナップで見る小田急ロマンスカー |journal= |issue= |pages= 234-235 |publisher= |ref = L829}}
== 関連項目 ==
* [[
* [[新幹線]]
== 外部リンク ==
* [http://sme.fujitsu.com/tips/japanesespirits/20090901/02.html 新幹線の生みの親 島 秀雄]([[富士通]]公式サイト「[http://sme.fujitsu.com/tips/japanesespirits/ 日本人のオリジナリティ探訪]」内)
{{CommonsN|Category:SE (train)}}
{{小田急ロマンスカー}}
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