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'''ステイゴールド'''(''[[英語|英]]:{{Langlang|en|Stay Gold}}''''[[中国語|]]:{{Langlang|zhch|黄金旅程}}'' [[1994年]][[3月24日]] - )は[[日本]]の[[競走馬]]である。現在は[[種牡馬]]。
 
1996年にデビュー。[[競馬の競走格付け|GI競走]]での2着4回を含む[[重賞]]競走での2・3着の多さから、勝利に一歩及ばない「善戦ホース」として人気を博す。しかし2001年末に引退レースとして臨んだ[[香港]]の国際競走・[[香港ヴァーズ]]に優勝し、国際GI制覇を果たして有終の美を飾った。通算成績は50戦7勝。
 
競走馬引退後は種牡馬として供用され、[[ドリームジャーニー]]、[[オルフェーヴル]]、[[ナカヤマフェスタ]]といったGI優勝馬のほか、数々の重賞勝利馬を輩出している。
 
※現役中に馬齢の表記が変更されたため、競走名を除き馬齢は全て新表記を用いる。
 
== 出生からデビューまで ==
1994年、[[北海道]][[白老町]]の白老ファームに生まれる。父は1989年の[[エクリプス賞|全米年度代表馬]]で、日本輸入後に1995年から12年連続の[[リーディングサイアー]](首位種牡馬)となる[[サンデーサイレンス]]、母ゴールデンサッシュは[[中央競馬]]で5戦未勝利ながら、その全兄には快速馬として知られた[[サッカーボーイ]]がいた。父にとっては3世代目、母にとっては2頭目の産駒であった。当時白老ファーム場長だった服巻(はらまき)滋之によれば、サンデーサイレンスよりもゴールデンサッシュの雰囲気が出た馬であったという<ref>高橋(2002)、p.27</ref>。管理調教師の[[池江泰郎]]は、生後間もない本馬の第一印象を、「きりっとした小柄な馬で、かわいらしくてからだは薄かったけど、黒くて品があってバランスがいいと思ったね。動きがキビキビして見えた」と語っている<ref>高橋(2002)、p.24</ref>。
 
秋から系列の[[ノーザンファーム空港牧場]]に移され、馴致および育成調教を開始。当初は大人しい馬であったが、人を乗せて走るようになると気性の激しさを見せ始め、しばしば後肢で立ち上がり、周囲の馬に乗り掛かろうとする悪癖を出していた<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.96</ref>。調教に向かう最中もしばしば立ち上がっていたが、ほぼ垂直に立ったままふらつくことがなく、それを同じ場所で何度も繰り返すなど、腰の強さも窺わせるものであったという<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.98</ref>。
 
1995年、系列の[[一口馬主|クラブ馬主法人]]・[[社台レースホース|社台サラブレッドクラブ]]の出資募集馬となり、一口95万円×40口、総額3800万円でカタログに載せられ、間もなく満口となった<ref>高橋(2002)、pp.31-32</ref>。競走年齢の2歳となった1996年、「ステイゴールド」と命名され、[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]の池江泰郎厩舎に入った。馬名は映画『[[アウトサイダー (映画)|アウトサイダー]]』の主題歌に使用された[[スティーヴィー・ワンダー]]の同名曲に由来する<ref>高橋(2002)、p.73</ref>。
 
== 戦績 ==
=== 2~3歳(1996~1997年)条件馬時代 ===
[[ファイル:Shigefumi-Kumazawa20100123.jpg|thumb|熊沢重文|150px]]
[[1996年]][[12月1日]]にデビューし3着、その後2着2回を経てデビュー6戦目で初勝利。[[札幌競馬場|札幌]]2000[[メートル|m]]の4歳上900万下条件戦の[[阿寒湖特別]]を勝って、「[[関西の秘密兵器|西の秘密兵器]]」と言われた。重賞初挑戦となった[[京都新聞杯]]で4着を経て、GI[[菊花賞]]に10番人気で出走するも[[マチカネフクキタル]]の8着に敗れる。次走のゴールデンホイップトロフィーの2着で、結局は3勝だけで4歳を終えた。
[[1996年]][[12月1日]]、阪神開催の新馬戦でデビュー。[[オリビエ・ペリエ]]を鞍上に初戦は3着であった。続く2戦目では右前脚に[[骨膜炎]]を生じたこともあって最下位となり、いったん休養に入る<ref>高橋(2002)、pp.38-39</ref>。翌年2月の3戦目から、以後長く[[主戦騎手]]となる[[熊沢重文]]が手綱を取った。しかしこの競走では最終コーナーを曲がろうとせず、右回りのコースで左に旋回したため熊沢が落馬<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.48</ref>、競走後には競馬会より調教再審査を通告された<ref name="stay1">『ステイゴールド永遠の黄金』p.59</ref>。その後、左へ斜行しようとする癖を直すため[[ハミ]]の種類を変え<ref name="stay1" /><ref group="注">ハミ=馬が手綱を通して騎手からの指示を受けるため、口に銜える金属具。</ref>、2戦の2着を経て通算6戦目で初勝利を挙げた。
 
のち夏の間に[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|条件特別戦]]で2勝を加え、陣営は秋の目標を[[中央競馬クラシック三冠|3歳クラシック三冠]]最終戦の[[菊花賞]]に据えた<ref>高橋(2002)、p.42</ref>。10月に[[京都新聞杯]](菊花賞[[トライアル競走|トライアル]])で重賞に初出走したが4着となり、3着までに与えられた優先出走権を逃す。菊花賞には獲得賞金上位に回避馬が出たことで出走を果たしたが、当日は10番人気と評価は低く、結果も[[マチカネフクキタル]]の8着に終わった。年末には準オープン競走のゴールデンホイップトロフィーで2着となり、当年は3勝のみでシーズンを終えた。最終戦は抽選で騎手が選ばれる[[ワールドスーパージョッキーズシリーズ]]の一競走で、[[武豊]]が騎乗していたが、武によればステイゴールドは競走中に他馬へ噛み付きにいったといい、「競走に対する集中が全然できていない馬」という印象を抱いたと述べている<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.36</ref>。
 
翌1998年も緒戦から3回連続後は準オープンで2着3回と惜敗を続けていたが[[1998年]]重賞の[[ダイヤモンドステークス]]で2着に連対しが含まれていたことから、獲得賞金規定によりオープン未勝利のままオープン馬クラスに昇格し、。続く[[日経賞]]での4着を経て[[競馬の競走格付け|GI]]戦線に挑むことになっ出走を始めた。
 
=== 惜敗を続きで人気を得る ===
GI競走において当初ステイゴールドは軽視されていたが、5月の天皇賞(春)で[[メジロブライト]]の2着(10番人気)、7月の春のグランプリ・[[宝塚記念]]でも[[サイレンススズカ]]の2着(9番人気)と好走、GIにおける2戦連続の2着と、そこまでで通算8度の2着という成績から注目され、「シルバーコレクター」という異名を与えられた<ref name="stay2">高橋(2002)、p.56</ref>。秋シーズンも[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]([[蛯名正義]]騎乗)で[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]の2着、年末のグランプリ[[有馬記念]]で[[グラスワンダー]]の3着といった成績が続いた。1999年に入ると3着が増えたが、秋の天皇賞ではGIで4度目の2着となっている。陣営は試行錯誤を続けていたが、一方でステイゴールドはその惜敗続きの成績から、独特の人気を獲得していった。作家の高橋直子は伝記『ステイゴールド物語』において、人気の萌芽が見られたレースを1998年の宝塚記念として、次のように記している。
 
{{Quotation|おずおずと、しかしはっきりと、不思議な人気が出はじめた。<br />これだけ二着が得意なのだから、馬券好きたちの間で、連軸としての人気が出る。というのではなかった。まだそこまでは信用されていなかったようである。まあね、まだ重賞も勝っていないし、しょせん三勝馬だし、シビアな馬券師のお眼鏡にはかなわなかったらしい。強いヤツ、あこがれの的、息子(あるいは彼氏)にしたい馬、そういうことで出はじめた人気ではなかった。どんな相手とやっても「あともう少し」でとどまる。その「歯がゆさ」を愛する競馬ファンが少なくなかったのである。|『ステイゴールド物語』53頁|}}
 
熊沢はコンビを組んでいた期間のなかで、サイレンススズカに敗れた1998年宝塚記念を「一番悔しかったレース」、[[スペシャルウィーク]]に敗れた1999年天皇賞(秋)を「一番ステイゴールドの強さを感じたレース」として挙げている<ref name="stay3">高橋(2002)、p.65</ref>。宝塚記念では、サイレンススズカに並び掛けたところで、同馬が最後のひと伸びを見せて<ref name="stay2" />3/4馬身及ばなかった。一方の天皇賞(秋)では、ハイペースの中での後方待機策が功を奏して直線で先頭に立ったが、さらに後方に控えていたスペシャルウィークにゴール寸前でクビ差交わされた。熊沢は前者について「ステイは完璧なレースをしていると思う。相手が強かったです<ref name="stay3" />」、後者について「レース中、何秒かは勝ったと思えた。結果的には負けたけれど、このレースが僕の中では馬の持ち味を引き出せた一番いいレースだと思ってます」と回顧している<ref>高橋(2002)、p.68</ref>。
 
=== 重賞初制覇 ===
[[ファイル:Yutaka take portrait.jpg|thumb|武豊|150px]]
2000年も緒戦からGIIを2・3・2着と勝ちきれず、天皇賞(春)で4着となった後、5戦目の[[目黒記念]]を前に熊沢は降板となり、以前一度だけ騎乗していた代役として武豊が迎えられた。池江泰郎は乗り替わりについて、「心を鬼にして、すべてをユタカ君にまかそうと思いました」と語った<ref name="stay4">『優駿』2000年7月号、p.66</ref>。
 
競走当日は、当年初戦の[[アメリカジョッキークラブカップ]]で負かされていた[[マチカネキンノホシ]]に次ぐ2番人気に推された。重馬場ながら前半1000m通過が58秒7という速いペースで推移し、武は後方待機策を取った<ref name="stay4" />。最後の直線で追い込みを開始すると、残り100m付近でマチカネキンノホシを捉え、同馬に1馬身1/4差を付けて優勝<ref name="stay4" />。通算38戦目、3歳時に勝った900万下条件戦の[[阿寒湖特別]]以来約2年8カ月ぶりの勝利で、陣営念願の重賞初制覇を果たした。その間の連敗数は28戦、うち重賞での2着・3着がそれぞれ7回ずつあった<ref name="stay4" />。
 
土曜日開催・雨天下のGII競走ながら、観客スタンドからはGIに匹敵する歓声と拍手が送られ<ref name="stay5">『優駿』2000年7月号 p.108</ref>、またモニター中継を行っていた[[中京競馬場]]でも拍手が湧き起こった<ref name="stay4" />。池江は「GIでもね、あんなのないものね。あんな温かいのは。僕もね、本当は拍手したかったんですよ。みなさんと一緒に。それぐらい感動しましたよ」<ref name="stay5" />、担当厩務員の山元重治は、「振り向くとさ、みんなが応援してくれているじゃない。喜んでくれているじゃない。それを見て涙が出て困ったよ」と語った<ref name="stay5" />。また武は、「土曜の、しかも雨降りのGIIなのに、クラシックレース並の大拍手で迎えられて、ステイゴールドの得難いキャラクターというものを肌で感じました。池江先生なんか感激で泣いてるんですからね。まわりの、そうした空気というものに一番の驚きを覚えましたね」と述懐している<ref name="stay6">『ステイゴールド 永遠の黄金』p.38</ref>。
 
一方で降板させられた熊沢は後に行われたインタビューで、この競走について次のように語っている。
{{Quotation|どうしたらステイゴールドを勝利に導けるか。あのころはそれだけを考えていただけに、目黒記念を見たときは複雑な気持ちでした。そうなんだ、そう乗るテもあるんだ、と思ったけど、それを言うわけにもいかないし、聞いてくれる人もいない。やっぱり正直な気持ち、あのときは寂しさをひしひしと感じましたね。でも、いつまでも引きずったりはしませんでしたよ。僕の手から離れたけど、永年付き合ってきた戦友ですからね。(後略)」|『ステイゴールド 永遠の黄金』50頁|}}
 
武は東京競馬場からの帰路において「熊沢さんは今どんな気持ちなんだろう」とその心中を慮り、「ちょっと顔を合わせにくい」という気持ちもあったと述懐しているが、熊沢から「意外なほど屈託のない声で」祝福の言葉をかけられたといい、「すごくいい気持ちになれました」と語っている<ref name="stay6" />。
 
目黒記念の後は年内に5戦を消化したものの、宝塚記念([[安藤勝己]]騎乗)の4着が最高という成績に終わった。一方、同年秋には日本中央競馬会が主催した20世紀の名馬選定企画「[[Dream Horses 2000]]」において、GI級競走の未勝利馬として最上位の34位に選ばれた<ref group="注">「GI級」には[[グレード制]]導入前の[[朝日杯フューチュリティーステークス|朝日杯3歳ステークス]]を含む。この競走の優勝馬である[[マルゼンスキー]]がステイゴールドより上位(32位)にランクインしているが、企画実施後に『優駿』誌上で行われた座談会ではステイゴールドをGI未勝利馬の最上位としている(『優駿』2000年10月号、p.114)。他のGI未勝利馬では[[ナイスネイチャ]](71位)、[[ツインターボ (競走馬)|ツインターボ]](91位)がランクインした。</ref>。
 
=== ドバイシーマクラシック優勝から国内最終戦まで ===
翌2001年初戦の[[日経新春杯]]([[藤田伸二]]騎乗)で重賞2勝目を挙げると、3月28日には厩舎の僚馬[[トゥザヴィクトリー]]らと共に[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]へ遠征、世界最高賞金開催である[[ドバイミーティング]]の一競走・[[ドバイシーマクラシック]](GII)へ武ユタカを鞍上に出走した。当日、[[イギリス]]の大手[[ブックメーカー]]における単勝オッズは34倍で[[ブービー]]人気のグループに入っていたが<ref>『優駿』2001年5月号、p.112</ref>、レースでは中団待機で馬群の中を進むと、最後の直線では先頭を行く地元の1番人気馬[[ファンタスティックライト]](前年の[[エミレーツワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]王者)を、ゴール寸前でハナ差交わしての優勝を果たした。この勝利は日本調教のサンデーサイレンス産駒として初の国外重賞初勝利であった。武は「日本でなかなか勝てなかったのに、こうやってステイゴールドが大きなところを勝ったこと、それから日本のサンデーサイレンス産駒がやっと海外で勝ったこと、これは日本の競馬の歴史を変えるできごとで、今後大きな意味を持ってくると思います」と語った<ref>高橋(2002)、p.130</ref>。
 
帰国後は、[[フランス]]で騎乗していた武に代わって[[後藤浩輝]]を新たな鞍上に迎えて[[宝塚記念]]に臨むも、4着に終わり休養に入る。復帰戦の[[京都大賞典]]でも鞍上は引き続き後藤が務め、当時の最強馬であった[[テイエムオペラオー]]、前々年の[[菊花賞]]優勝馬[[ナリタトップロード]]らと対戦。最後の直線ではこの3頭の競り合いとなったが、ステイゴールドがナリタトップロードを交わして先頭に立った後、左に斜行してテイエムオペラオーと接触、これに挟まれる形となったナリタトップロードの鞍上・[[渡辺薫彦]]が落馬した<ref>高橋(2002)、p.146</ref>。審議の結果、ステイゴールドは1位入線したものの[[降着制度|失格]]となり、半馬身差で2位入線のテイエムオペラオーが繰り上がりでの1着となった。なお、ナリタトップロードはこの事故で右前脚に跛行を来たし、続く天皇賞(秋)を回避することになった<ref>『優駿』2001年11月号、p.17</ref>。
 
天皇賞(秋)では騎手が武に戻り、テイエムオペラオー、当年の[[宝塚記念]]に優勝していた[[メイショウドトウ]]に次ぐ3番人気に推された。レースではスローペースの中を先行し、最後の直線で抜け出しを図ったが、またしても左側の埒にもたれかかる素振りを見せ、武が全く追うことができないまま7着に終わった<ref>高橋(2002)、p.148</ref>。2戦連続で悪癖を出したため、続く[[ジャパンカップ]]ではハミを替え、さらに左眼だけに[[ブリンカー]]を装着して臨んだ<ref group="注">ブリンカー=馬を前へ走ることに集中させるため、前方以外の視野を遮るための装具。</ref><ref>高橋(2002)、p.148</ref>。また競走前には、これが国内における最後の出走となることが発表された。レースでは中団を進み、最後の直線では真っ直ぐ走ったものの、先頭に立つまでには至らず4着に終わった。これが国内での最終戦となった。
=== 古馬(1998年~2001年) ===
その後は準オープンで2着3回と惜敗を続け、[[1998年]]の[[ダイヤモンドステークス]]で2着に連対したことから、準オープン未勝利のままオープン馬に昇格し、[[日経賞]]4着を経て[[競馬の競走格付け|GI]]戦線に挑むことになった。
 
=== 引退レース・香港ヴァーズ優勝 ===
[[天皇賞|天皇賞(春)]]ではメジロブライトの2着、続く[[宝塚記念]]でも人気は低かったが[[エアグルーヴ]]らGI馬に先着するも[[サイレンススズカ]]の2着。天皇賞(秋)では断然1番人気のサイレンススズカがレース中に故障しているが、[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]をとらえきれず2着、[[有馬記念]]は[[グラスワンダー]]の3着。翌[[1999年]]は宝塚記念でグラスワンダーと[[スペシャルウィーク]]に続く3着、天皇賞(秋)ではスペシャルウィークの2着と好走をするも、この間重賞勝ちはなく、3勝馬のままもどかしいレースが続いた。2年8か月もの間、「主な勝鞍:阿寒湖特別」という肩書きのもと走り続け、「[[有馬記念]]3年連続3着の[[ナイスネイチャ]]や史上最強の3勝馬と言われた[[ロイスアンドロイス]]の後継者」、または名前とは裏腹に「シルバーコレクター」、さらに名前を逆に揶揄し「'''ゴールドの前でステイ(足踏み)'''」などと呼ばれた。
通算50戦目の引退レースとなったのは、[[香港]]・[[沙田競馬場|沙田(シャティン)競馬場]]で毎年12月に行われる[[香港国際競走]]のひとつ・[[香港ヴァーズ]](G1)であった。国際[[レーティング#競馬|レーティング]]で120[[ポンド (質量)|ポンド]]の評価を得ているステイゴールドは、他馬と4ポンド以上の差がある抜けたトップクラスの存在であり、当日はオッズ2倍の1番人気に支持された<ref>『優駿』2002年2月号、p.114</ref>。
 
レースでは淡々とした流れの中で後方から6番手を進んでいたが、第3コーナーから[[ランフランコ・デットーリ]]騎乗のエクラールがロングスパートを仕掛けて後続を引き離し、ここから流れが高速化した<ref>高橋(2002)、p.172</ref>。武は無理にこれを追ってもステイゴールドの持ち味を活かせないと判断して中団に留まり、大きなリードを許したまま最後の直線に入った<ref name="stay7">『ステイゴールド永遠の黄金』p.42</ref>。直線では素早く馬群を抜け2番手に上がるも、残り200メートルの地点では逃げるエクラールから約5馬身の差があり、さらにステイゴールドは武が警戒していた向きとは逆の右側に斜行を始めた<ref name="stay7" />。ここで武が咄嗟に左側の手綱を締め直すとステイゴールドは態勢を立て直し<ref name="stay7" />、エクラールを急追。ゴール寸前で同馬をアタマ差交わして1着となり、引退レースで念願のG1制覇を果たした。またこれは同時に、日本産・日本調教馬として初めての国外の国際G1制覇ともなった<ref group="注">日本産馬初の国際G1優勝馬は1992年のジャパンカップに優勝した[[トウカイテイオー]]。1995年には[[フジヤマケンザン]]が香港G1の[[香港カップ|香港国際カップ]]に優勝しているが、当時の同競走の国際的な格付けはG2だった。</ref>。
しかし、[[2000年]][[5月20日]]のGII[[目黒記念]]で、それまでの主戦騎手・[[熊沢重文]]から[[武豊]]に鞍上が変わると[[重賞]]初制覇。ようやく掴んだ重賞勝利に、[[東京競馬場]]内からは雨天下のGIIにも関わらずGI級の歓声が沸き上がった。武豊は、勝利騎手インタビューで「ようやくの重賞勝利」の話題に関しては、前主戦騎手が勝ち切れていないこともあり、しどろもどろの受け答えになっている。
 
武はゴール前の追い込みを「まるで背中に羽が生えたようだった」と評し<ref name="stay8">高橋(2002)、p.177</ref>、またエクラールがドバイで破ったファンタスティックライトと同じ、青い[[勝負服 (競馬)|勝負服]]を用いる[[ゴドルフィン]]の所有馬だったことから、「どうもステイゴールドはゴドルフィンのブルーの勝負服を見ると燃えるみたい」とも語った<ref name="stay8" />。共有馬主のひとりだった競馬評論家の[[山野浩一]]は、「まるで一瞬ヴィデオがカットされて一秒くらい飛んだかのように、次の瞬間にはエクラールをとらえていた。いったいその間をどんなスピードで走ったのだろう。少なくとも私は過去にあのような瞬間的なスピードを発揮した馬を見たことはない」と感想を述べている<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.112</ref>。
目黒記念勝利後はまた約半年間勝利に見放されるものの、翌[[2001年]]、鞍上に[[藤田伸二]]を迎えてGII[[日経新春杯]]を勝った後、[[ドバイ]]に遠征。鞍上には武豊を迎え、[[ドバイシーマクラシック]]<ref>ドバイシーマクラシックについては、競走後にG1に認定され、[[宝塚記念]]のように追認することもできたが、主催者側がグレードの変更を行わなかったため当該年度はG2のままとなった(翌年以降はG1となっている)。</ref>で前年の[[ワールドレーシング・チャンピオンシップ|エミレーツワールドシリーズ]]王者のFantastic Light([[ファンタスティックライト]])を鼻差凌いで、[[サンデーサイレンス]]産駒の日本調教馬で海外初勝利を果たす。その後宝塚記念は[[後藤浩輝]]騎乗で4着に終わり休養に入る。復帰戦の[[京都大賞典]]でも鞍上は引き続き後藤がつとめ、当時の最強馬であった[[テイエムオペラオー]]、菊花賞馬[[ナリタトップロード]]らと対戦。ゴール前で3頭の壮絶なたたき合いとなるが、最後の直線走路で内から外へ斜行してテイエムオペラオーに馬体をぶつけ、これに挟まれる形となったナリタトップロードの鞍上・[[渡辺薫彦]]を落馬させた。その結果1位入線したものの[[降着制度|失格]]となり、競馬場内は落馬させられ馬場に投げ出されたまま動けない渡辺騎手の姿に騒然となり(幸い大事には至らなかった)、この影響でナリタトップロードは打撲を負い予定していた秋の天皇賞への出走を見送るなど非常に後味の悪い結果となり、続く天皇賞(秋)、[[ジャパンカップ]]の鞍上は再び武豊が務めた。
 
[[画像:Staygold.jpg|thumb|ステイゴールドの引退式([[2002年]][[1月20日]] 京都競馬場)]]
5年間に渡った競走生活の末、50戦の節目、引退レースでのG1制覇は、「まさに絵に描いたような大団円」(武豊)<ref name="stay7" />、「映画でもドラマでも、二度とは見られないようなシーン」(池江泰郎)<ref name="stay12">『ステイゴールド永遠の黄金』p.46</ref>、「ここまでドラマチックな幕切れはそうそうあるものではない」(『優駿』)<ref>『優駿』2002年2月号、p.29</ref>など、史上希に見る出来事として称えられた。この勝利を評価され、ステイゴールドは当年国内において[[JRA賞特別賞]]を授与された。
デビューから約5年、ステイゴールドの引退が決まり、[[2001年]]12月、通算50戦目のラストランに選ばれたのは海外の地、[[香港]]・[[沙田競馬場]]でのG1、[[香港ヴァーズ]]。単勝2倍の1番人気に支持される。レース中、終始左へもたれる癖があった<ref name="nomura">野村功「馬人野村功 藁の匂いが好きだ」 [[大阪スポーツ]] [[2009年]][[1月18日]]、20面</ref>ステイゴールドは、左[[ブリンカー]]をつけて出走した。レースでは後方から6番手に控え、直線に入ると素早く馬群を抜け2番手に上がるも、逃げるEkraar(エクラール)が5馬身くらいのリードを保ったまま先頭を走っていた。ステイゴールドは内へヨレてしまい、前を捉えきれずG1では最後の最後まで2着かという展開であったが、そこから武豊に「'''背中に羽が生えた'''」と言わしめるほどの末脚を発揮してゴール板直前でEkraarを交わし、ラストランでのGI初勝利を果たし有終の美を飾った。この勝利は日本産の日本調教馬による初の海外G1制覇であった。長き現役生活と香港ヴァーズでの優勝を称えられ、[[JRA賞特別賞]]が贈られた。翌[[2002年]][[1月20日]]に行われた引退式<ref>本来であれば重賞3勝馬のため、引退式は行われなかったが、香港ヴァーズでの勝利でG1馬として行うことができた。</ref>でつけていたゼッケンは、香港ヴァーズでつけた「黄金旅程」の名が記されたものであった。式では名前の由来である[[スティーヴィー・ワンダー]]作曲の『Stay Gold』が場内に流された。
 
当初は引退式の予定はなかったが、ファンからの強い要望があったことに加え、JRAからも陣営に要請が行き、翌2002年1月20日、[[京都競馬場]]で引退式が行われた<ref>高橋(2002)、p.192</ref>。当日は香港ヴァーズで使用されたゼッケンのレプリカを着用し、場内には名前の由来となったスティーヴィー・ワンダーの「Stay Gold」が流された<ref>『優駿』2002年3月号、p.116</ref>。
小柄な馬体ながら国内で連戦して海外遠征も平気でこなすタフさと、齢を重ねても衰えない脚がこの馬の持ち味であった。競走馬時代は通算で2着12回、3着8回を数え、そのもどかしいまでの惜敗の積み重ね、海外遠征時に見せる国内では考えられないほどの勝負強さやドラマティックなラストランでの勝利によって人気を得た。引退後には本も出版されている。
 
== 競走成績 ==
803 ⟶ 846行目:
|style="text-align: right;"|10.8
|style="text-align: right;"|(3人)
|style="text-align: right; white-space: nowrap;"|失格<ref>1位入線だったが、進路妨害の際[[ナリタトップロード]]の鞍上・[[渡辺薫彦]]を落馬させたため、失格となった。</ref>
|芝2400m(良)
|2:24.9(33.8)
861 ⟶ 904行目:
 
== 種牡馬として ==
競走馬引退後は北海道門別町の[[ブリーダーズスタリオンステーション]]で種牡馬となった。[[2005年]]より産駒がデビューし、初年度産駒から[[ソリッドプラチナム]]が[[マーメイドステークス]]を制して、産駒の重賞初勝利を挙げた。また次年度産駒から[[ドリームジャーニー]]が[[朝日杯フューチュリティステークス]]を制し、産駒のGI初勝利を挙げた。その後もドリームジャーニーの全弟の[[オルフェーヴル]]が[[皐月賞]]と[[東京優駿]]に勝利し、[[ナカヤマフェスタ]]が[[宝塚記念]]を制し[[凱旋門賞]]で2着となるなど、サンデーサイレンスの後継種牡馬としての1頭として期待されている。
 
[[2007年]][[9月11日]]、[[ブリーダーズスタリオンステーション]]から[[ビッグレッドファーム]]に移動した。[[アドマイヤマックス]]と2年ごとに互いの供用場所を交換する契約となっており、2年ぶりにビッグレッドファームで過ごすことになる。2年後の[[2009年]][[9月5日]]、ビッグレッドファームからブリーダーズスタリオンステーションに移動した<ref>「[http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=39432&category=D ステイゴールド&アドマイヤマックスが移動]」 [[netkeiba.com]] 2009年[[9月10日]]</ref>。
 
ステイゴールド自身は古馬になってから活躍したが産駒は早くから活躍する馬も多く、産駒の[[日本中央競馬会|JRA]]重賞29勝のうち17勝が2歳馬または3歳馬によるものである(2歳重賞=2勝、3歳重賞=15勝、古馬重賞=12勝 2011年9月現在)。
 
=== 年度別成績(中央+地方) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right"
907 ⟶ 951行目:
** [[オルフェーヴル]]([[東京優駿]]、[[皐月賞]]、[[スプリングステークス]])
** [[バウンシーチューン]]([[フローラステークス]])
** [[フェイトフルウォー]]([[京成杯]]、[[セントライト記念]]
** [[ナカヤマナイト]]([[共同通信杯]])
 
== エピソード特徴・評価 ==
=== 競走馬としての特徴 ===
池江泰郎厩舎の調教助手を勤めていた野村功は、体重が60キログラムある人間が騎乗して調教を課すと失速する競走馬が多い中、ステイゴールドは小柄な馬だったにもかかわらず失速せずに走る馬力があったとしている<ref name="nomura"/>。
勝ちきれなかった頃には、「華々しいスタートダッシュを持つわけではない、鋭い切れ味を持つわけでもない」(『優駿』2000年9月号)と目立つところがなかった。しかし2001年に入るとスローペースからの瞬発力勝負に対応できるようになり、重賞2勝目の日経新春杯では最後の600m(上がり3ハロン)を推定34秒4、失格となった京都大賞典では同33秒8という優れた脚力を見せた<ref name="stay9">『優駿』2001年11月号、p.14</ref>。ライターの[[河村清明]]は、2000年シーズンを終えた時点で43戦という「ずっと重賞を走り続けた馬としてはめったにないほど」の戦績を重ねながら、競走生活の晩年に急速な成長を遂げたことについて、「一般的に考えるなら、豊富すぎるキャリアゆえ、それ以降の上がり目は望むべくもない。7歳馬ステイゴールドの変身はまさに驚異というほかはない」と評した<ref name="stay9" />。武豊はステイゴールドの引退に際し、「ステイゴールドは、今がまさに競走生活のピークじゃないですか。種馬になるのも大事だけど、ボクは乗り役だから、あれほどの競馬ができる馬を種牡馬として奪われたような、そんな寂しさをひしひしと感じているんです。思い出をありがとう、と素直に言える日は、もう少し後からになりそうです」とその引退を惜しんだ<ref name="stay7" />。
 
ステイゴールドを種牡馬として高く評価した[[ビッグレッドファーム]]代表の[[岡田繁幸]]は、ステイゴールドの良さは「回転の良いフットワーク」とそれを支える筋肉の柔らかさにあるとしている<ref name="stay10">『ステイゴールド永遠の黄金』p.114-115</ref>。岡田は巷間にあった「ステイゴールドはステイヤー(長距離向きの馬)である」という評価に対し、香港ヴァーズを例に挙げて異を唱え、「あの驚異的な瞬発力はむしろミドルディスタンホースと言えるのではないでしょうか。いかにもサンデーサイレンス産駒らしい馬だと思いますね。ただ、ステイゴールドはスタミナもあるので長い距離になってもあの瞬発力を温存できますし、スタートがそれほどうまい馬ではなかったので、厩舎でも中距離を使わなかっただけでしょう」と述べている<ref name="stay10" />。一方、武豊は2000年秋の天皇賞で7着と敗れた敗因として、位置取りの失敗のほかに距離の不向きを挙げ、「根本的に2000メートルは距離的に短いのではないかということも感じていました。忙しい競馬は似合わない、根っからのステイヤーなんですよ」と述べている<ref name="stay6" />。
 
==== 斜行癖 ====
しばしばレースの障害となった左への斜行癖に対して、厩舎では日々の調教や馬装に様々な工夫を凝らし、その矯正に努めた。ハミ吊りや片面ブリンカーといった装具の工夫に加え、調教においてもコースを歩くときまで右寄りを徹底し、左に寄る素振りを見せれば叱り、素直に歩けば褒めるということを習慣づけていた<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.52</ref>。[[調教助手]]を務めていた[[池江泰寿]]は、ステイゴールドの心理について「あの馬は、左に行ったら楽ができると思い込んでいたんです。競馬では、とにかく一所懸命走らず、どこかでやめる機会をつねに窺っていた(笑)。ハミをさらってグッと左にもたれたら、騎手が追えなくなり、直線で全力疾走せずに済むのを分かってたんですよ」と分析している<ref name="stay11">『優駿』2010年3月号 p.60</ref>。武はステイゴールドの引退式において、「この馬は乗る立場としてはむずかしい馬でした。最後までつかみどころがなく、ずっと考えさせられましたね」と述べた<ref>高橋(2002)、p.199</ref>。
 
=== 身体面の特徴 ===
サラブレッド競走馬の平均体重が470kg程度あるのに対し、ステイゴールドは最も重かったときで436kgと、小柄な体躯の持ち主であった。生まれた頃は他馬と同じ程度の体格だったが、成長が鈍く、じきに自分より小柄だった馬にも追い抜かれていった。これはゴールデンサッシュの産駒に共通して見られる成長過程だった<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』pp.93-94</ref>。熊沢重文によれば、「大人のからだに変わってきたのが6歳の後半」だったといい、「ほんとうに大器晩成だったんだろうな」と述べている<ref>高橋(2002)、p.64</ref>。また厩務員の山元重治は「骨格が牝馬みたいやった」と評しているが<ref>高橋(2002)、p.37</ref>、調教助手を務めていた野村功は、体重60kgある人間が騎乗して調教を課すと失速する馬が多いなか、ステイゴールドは小柄だったにもかかわらず失速せずに走る馬力があったとしている<ref>野村功「馬人野村功 藁の匂いが好きだ」 [[大阪スポーツ]] [[2009年]][[1月18日]]、20面</ref>。
 
また、ほとんど休養を挿むことなく50戦を走り抜いた頑健さに対する評価が高く、池江泰郎は「『[[無事是名馬]]』を地でいくような、素晴らしい馬<ref name="stay12" />」、岡田繁幸は「ほんとうに偉大なことで、よほど柔らかい筋肉を持っている証拠です<ref name="stay10" />」と述べている。共有馬主を統括する社台サラブレッドクラブ代表の[[吉田晴哉]]は、「この馬のすごいところは、引退の話を出すスキを決して見せなかったところですね」と語り、毎回の出走予定をきっちりとこなし、勝てずとも賞金は必ず稼いでいたステイゴールドを「クラブで持つ馬としては理想的」、「(ステイゴールドのような馬は)いません。うちのクラブだけじゃなくて、競馬界全体を見てもほとんどいないんじゃないですかね。信じられない存在です」と評している<ref>高橋(2002)、p.102</ref>。
 
=== 性格面の特徴 ===
非常に激しい気性の持ち主であり、池江泰寿は「肉をやったら食うんじゃないかと思ったほど凶暴だった」とし<ref name="stay11" />、調教助手の[[池江敏行]]は、馬房の前を通るだけで突進してきたことから「猛獣」と評している<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.60</ref>。熊沢重文は「馬場へ出る前の運動でも、立つ、蹴る、噛むと悪さの連続。振り落とされるなんてのは特別珍しいことじゃないけど、乗るときに回し蹴りが飛んできたり、噛まれるのを心配したりなんて馬はやっぱりそんなに数多くいるものじゃないです」と述懐しており<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.47</ref>。その調教では近付いてくる馬がいると立ち上がって威嚇するため他厩舎から避けられていた<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.59</ref>。白老ファーム場長の服巻滋之は、こうした激しさの由来をステイゴールドの母の父[[ディクタス]]に求めている<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.89</ref>。
 
日々の世話をしていた山元重治は「猛獣ではないよ。扱えないってほどの馬じゃない<ref>高橋(2002)、p.36</ref>」と述べているが、それでも手を焼いたといい<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.66</ref>、「とにかく『自分が一番エライ』ということをいつもいつも主張している馬<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.67</ref>」、「自分のペース、自分のやり方に徹底してこだわり、やりたくないことは頑としてやらない強情さは、引退まで変わりませんでしたね」と述懐している<ref>『ステイゴールド永遠の黄金』p.74</ref>。また、熊沢は乗り手の立場から「総合してみると、おだてる、という意識をもって乗ってないとだめだった。ダメ、それしちゃダメ、とか表現するのではなくて、そうそう、そうそう、それでいいんだよ、って感覚ですね。ソッポ向かれたらお手上げだったんで」述べ、その性格については「僕らが要求したことに対して、それは譲れる、それは譲れないっていうのをちゃんと表現してくれるわけ。そういう意味では、基本的には扱いにくい馬なんだけど、わかってやれば、中途はんぱな馬よりは扱いやすい。わかります?何がしたい、どうしたらいいのか分かる馬だけに扱いやすい。だからみんな入れ込んでしまう」と語っている<ref>高橋(2002)、p.63</ref>。
 
== 血統表 ==
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|name = ステイゴールド
|inf = ([[サンデーサイレンス系]]/[[アウトブリード]])
|f = *[[サンデーサイレンス]]<br />Sunday Silence<br />[[1986年|1986]] [[馬の毛色|青鹿毛]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]
|ff = [[ヘイロー (競走馬)|Halo]]<br />[[1969年|1969]] [[馬の毛色|黒鹿毛]] アメリカ
|fff = [[ヘイルトゥリーズン|Hail to Reason]]
|ffff = [[ターントゥ|Turn-to]]
925 ⟶ 985行目:
|ffmf = Cosmic Bomb
|ffmm = [[アルマームード|Almahmoud]]
|fm = [[ウィッシングウェル|Wishing Well]]<br />[[1975年|1975]] 鹿毛 アメリカ
|fmf = Understanding
|fmff = Promised Land
932 ⟶ 992行目:
|fmmf = Montparnasse
|fmmm = Edelweiss
|m = ゴールデンサッシュ<br />[[1988年|1988]] [[馬の毛色|栗毛]] 日本
|mf = *[[ディクタス]]<br />Dictus<br />[[1967年|1967]] 栗毛 [[フランス]]
|mm = ダイナサッシュ<br />[[1979年|1979]] [[馬の毛色#鹿毛|鹿毛]] 日本
|mff = Sanctus
|mfm = Doronic
|mmf = *[[ノーザンテースト]]<br /> Northern Taste
|mmm = *ロイヤルサッシュ<br />Royal Sash
|mfff = Fine Top
|mffm = Sanelta
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
*高橋直子『ステイゴールド物語 - 遙かなる黄金旅程』(イーストプレス、2002年)ISBN 978-4872572919
*流星社編集部編『ステイゴールド永遠の黄金』(流星社、2002年)ISBN 978-4947770134
*『優駿』2000年7月号(日本中央競馬会)
**広見直樹「喝采のゴールシーン - ステイゴールド、重賞制覇までの長き道のり」
**「Play-Back Grade-Races」
*『優駿』2010年3月号(日本中央競馬会)
**島田明宏「池江泰寿 "血の誇り"を胸に」
 
{{香港ヴァーズ勝ち馬}}