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'''職貢図'''(しょくこうず)あるいは'''貢職図'''は、古代[[中国]]王朝[[皇帝]]に対する周辺国や少数民族の[[進貢]]の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府への貢もの」の意味<ref>[http://kotobank.jp/word/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3 職貢図【しょくこうず】] 百科事典マイペディア</ref> 。'''梁職貢図'''、あるいは'''貢職図'''とも呼ばれる
 
==概要==
中国王朝からみた諸[[夷]]と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章とともに絵図として描いている。[[梁 (南朝)|梁]](南朝)から[[清]]朝の時代まで複数の存在が確認されている。
:詳細は中国語記事「[[:zh:职贡图|職貢図]]」を参照のこと
 
『梁職貢図』は、[[梁]]の武帝([[蕭衍]])の第7子、後に[[元帝 (南朝梁)|元帝]](孝元皇帝)として即位する[[蕭繹]]が、[[荊州]][[刺史]]を務めていた時代に作成されたと伝えられる。蕭繹は学問好きで、蔵書は10数万巻に及んだという。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の[[南京]])で調査し、また[[裴子野]](469年~530年没)の[[方国使図]]を参考にしたといわれる<ref>榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収1969年9月)。榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)1月号。『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年1月)</ref>。
 
原本は紛失しているが、[[唐]]の画家[[閻立本]]による模本([[台湾]][[故宮博物院]]蔵)、[[南唐]]の画家[[顧徳謙]]による模本([[台湾]][[故宮博物院]]蔵)、[[北宋]]の模本([[中国国家博物館]]蔵)の三種類の模本が現存しているが、いずれも完本ではなく、記事に欠落も多い。「歴史地理風俗的題記」が記された北宋模本でも、絵は12国、題記は13国にとどまっていた。
 
近年、歴史学者[[趙燦鵬]]によって発見された清朝時代の画家[[張庚]]による『諸番職貢圖巻』<ref>趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。[http://www.docin.com/p-213449130.html 南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現]</ref>では、18国の題記を含んでいる。
 
==模本==
原本は失われており、[[写本|模本]]が次の四種ある。
*[[唐]]の画家[[閻立本]]による模本(「王会図」とも。[[台湾]][[故宮博物院]]蔵)
*[[南唐]]([[937年]] - [[975年]])の画家[[顧徳謙]]による模本([[台湾]][[故宮博物院]]蔵)
*[[北宋]]の模本([[中国国家博物館]]蔵)
*[[清]]代の画家[[張庚]]([[1685年]]-[[1760年]])による『諸番職貢圖巻』(『愛日吟廬書畫續録』所収<ref>趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収論文。[http://www.docin.com/p-213449130.html 南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現]</ref>)
 
==記載国==
職貢図に記された国は次の通り<ref>榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収、1969年9月)榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)一月号。榎一雄「描かれた倭人の使節―北京博物館蔵「職貢図巻」―」『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年。趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。[http://www.docin.com/p-213449130.html 南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現]</ref>。
*[[渇槃陀国]]([[タシュクルガン・タジク自治県]]<ref>[[玄奘三蔵]]「[[大唐西域記]]」</ref>)
*武興蕃([[仇池]]國、[[氐]]族の国)
*[[于闐]]国([[ホータン王国]]。[[タリム盆地]]の[[タクラマカン砂漠]]の南。)
*[[高昌]]國([[新疆ウイグル自治区]]・[[トルファン地区]]に存在した[[オアシス都市]]国家)
*天門蠻(不明)
*滑国[[:zh:滑國]]([[エフタル]]<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>)
*[[波斯]]国([[サーサーン朝]]ペルシャ)
*[[亀茲]]国([[クチャ]]国。現在の[[中華人民共和国]][[新疆ウイグル自治区]][[アクス地区]][[クチャ県]](庫車県)付近)
*[[百済]]国
*[[倭国]]
*[[高句麗]]国
*[[斯羅]]国([[新羅]])
*[[周古柯国]](カルカリック?<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>)
*[[呵跋檀国]]([[タジキスタン]]<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>)
*[[胡蜜檀]]国(現在タジキスタンの首都[[ドゥシャンベ]]南部<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>)
*[[宕昌]]国([[蘭州]]南部<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>、現在の[[甘粛省]][[宕昌県]]の西。[[羌]]族の国。564年、宕昌王の[[梁弥定]]が[[北周]]の領域を侵犯したので北周の[[武帝 (北周)|武帝]]により討伐され滅亡)
*[[鄧至]]國(白水羌ともいい、中国の[[南北朝時代]]に[[羌]]族が建国。現在の[[四川省]][[九寨溝県]])
*[[白題]]國([[アフガニスタン]]・[[バクトリア]]<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>)
*狼牙脩國([[狼牙修]]国)([[マレー半島]]南部ランカスタ<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>)
*[[未国]]([[トルクメニスタン]]の[[マル (都市)|マル]]・[[メルブ遺跡|メルブ]]<ref>榎一雄による。前掲所論文参照。</ref>。または[[西域]]三十六国のひとつ[[且末国]](しょまつ):現在[[新疆ウイグル自治区]][[バインゴリン・モンゴル自治州]][[チャルチャン県]]か)
 
==蕭繹職貢図模写==
6世紀に[[梁 (南朝)|梁朝]]の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]([[姓]]・蕭、[[諱]]・繹)時代に作成されたものが中国史上最とされ、それは526~539年頃作成大きさは26.7cm×402.6cmと伝えられる。しかしこの原図は存在せず、模写された「職貢図」(宋人{{zh|摹}}本残巻、[[1077年]])が[[中国国家博物館]]に収蔵されている。その残存する模写図の長さは200.7cmで、絵中には12の地域からの使者が描かれている。
 
{{clear}}
35 ⟶ 71行目:
國用附函啓幷水精鐘一口馬一疋聖主有若所勑不敢有異
</blockquote>
※「普通元年」は[[520年]]。
 
<blockquote>
109 ⟶ 146行目:
著波斯錦□[褶]□錦袴朱□[麋]皮長壅鞾其語言則河南人重譯而通焉
</blockquote>
 
==張庚『諸番職貢圖巻』==
2011年に発見された[[張庚]]による『諸番職貢圖巻』は『愛日吟廬書畫續録』に収められていた<ref>趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。[http://www.docin.com/p-213449130.html 南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現]</ref>。葛嗣枹による『愛日吟廬書畫續録』は[[四庫全書]]のうち『続修四庫全書』子部・ 芸術類・1088册に収録されている。以下、張庚模本と表する。
 
趙燦鵬によれば職貢図における高句麗の題記は『[[翰苑]]』高句麗条の記述と関連性が深く、また職貢図は『[[梁書]]』諸夷伝の原史料の一つでもあったことが指摘されている。
 
張庚模本に記された国は、[[渇槃陀国]]([[タシュクルガン・タジク自治県]]<ref>[[玄奘三蔵]]「[[大唐西域記]]」</ref>)、武興蕃([[仇池]]國)、[[高昌]]國、天門蠻、[[:zh:滑國]]、[[波斯]]国、[[百済]]国、[[亀茲]]国、[[倭国]]、[[高句麗]]国、[[于闐]]国、[[斯羅]]国([[新羅]])、[[周古柯国]]、[[呵跋檀国]]、[[胡蜜檀]]国、[[宕昌]]国、[[鄧至]]國、[[白題]]國などである<ref>趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」 『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。[http://www.docin.com/p-213449130.html 南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現]</ref>。なお、北宋模本にある狼牙脩國([[狼牙修]]国)、[[未国]]については記載がない。
以下、抄出抄訳。
 
===内容抄出===
*渇槃陀国、[[于闐]]国は西の小国で、山中の平地にある。渇槃陀王の姓は[[葛沙]]氏。大同元年に使を派遣した。
*武興蕃=[[仇池]]国([[テイ|氐]]族の国)
{{quotation|{{lang|zh-Hant|武興蕃本是仇池國,國王姓楊。其國東連秦嶺,西接宕昌,南接梁漢,北接岐州。去長安九百里。國有十萬戸,世世分減,今已半矣。言語與中國略同。着烏皂突騎帽,長身小袖袍,小口袴,皮靴。種五穀。婚姻備六禮。知詩書。知鶯大同元年,遣使符道安、楊瑍等送啓,乞歸其國}}
 
武興蕃は[[仇池]]国のことで、国王の姓は楊氏。西で[[宕昌]]国に接し、南は梁漢に、北は[[岐州]]に接する。|}}
 
*高昌國
:「高昌國」は[[オアシス都市]]国家の[[高昌]]国
{{quotation|{{lang|zh-Hant|高昌國,去益州一萬二千里。國人言語與魏略全。有五經、歴代史、諸子集,往往誦讀}}}}
 
 
 
*天門蠻
:[[天門蛮]]は不明。
<blockquote>天門蠻者,昔孫休分武陵天門郡,時有怪石自開,故以天門為稱。其種姓曰田、曰覃,主簿者最強盛,金銀各數百石,恃其富豪,不肯賓興。梁初以来,方納質款,輸租賦如平民,遣子田慈入質。</blockquote>
 
*倭国
倭国は[[南斉]]の[[建元 (南朝斉)|建元]](479年〜482年)に、上表した。
*胡蜜檀国(下記節参照)
*斯羅国(下記節参照)
 
===胡蜜檀国についての記述===
西域の胡蜜檀国について北宋模本では「来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主<ref>上節参照。「胡蜜丹滑旁小國也普通元年使使隨滑使來朝其表曰(楊)[揚]州天子[日]出處大國聖主」</ref>」という箇所が、張庚模本では「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主」となっている。揚州天子が梁の武帝に対し「日出処大国聖主(日出る大国の聖なる主君)」と上表している。梁は東南アジアや西域諸国との交渉が盛んで、諸国の武帝宛国書では仏教用語を用い武帝を[[菩薩]]扱いし、梁を礼賛していたといわれる<ref>河上麻由子「遣隋使と仏教」『日本歴史』717 号、2008年2月、同「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について : 南海諸国が奉った上表文の検討を中心に」『史学雑誌 』第117編第12号,2008年12月。</ref>。武帝は仏教信仰でも高名であった。
 
[[駒沢大学]]の石井公成は、[[遣隋使]]によって[[隋]][[煬帝]]に届けられた[[倭国]](俀國)王に[[阿毎]][[多利思北孤]]よる国書のうちの「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」<ref>『[[隋書]]』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」。[[内藤湖南]]はこの記述を[[聖徳太子]]によるとした。『内藤湖南全集第九巻』筑摩書房。</ref>という表現との関連について、[[百済]]仏教と[[梁]]の仏教との密接な関連や、[[聖徳太子]]によるとされる[[三経義疏]]は、梁の[[法雲]](476年 - 529年)による注釈書『法華義記』、同じく梁の[[吉蔵]](549年 - 623年)による『維摩経義疏』に基づいていることなど関連性の研究がまたれると指摘している<ref>[http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/5171fdc3bc35a4db04eb6d4dfcdbce49]「日出処」を国書で用いた梁代の先例: 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」</ref>。
 
 
===斯羅国についての記述===
{{quotation|{{lang|zh-Hant|斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉}}
 
斯羅國は元は東夷の[[辰韓]]の小国。[[魏]]の時代では[[新羅]]といい、[[宋 (南朝)|劉宋]]の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき[[韓]]に属し、あるときは[[倭]]に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年([[521年]])に[[募秦]]王([[法興王]])が百済に随伴して始めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗([[高句麗]])と類似し文字はなく木を刻んで範とした([[木簡]])。百済の通訳で梁と会話を行った。|}}
 
韓国の歴史家ユン・ヨングは張庚模本と[[南京博物院]]旧蔵模本と比較したうえで「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料」とした<ref>「梁職貢図から新羅・高句麗題起が発見」 ソウル=聯合ニュース2011年8月23日、キム・テシク記者。[http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0005224764]。2011年8月20日新羅史学会第107回学術発表会におけるユン・ヨング博士発表。ユン博士は仁川都市開発公社所属。張庚模本について青黛文集から発掘したと同記事にある。</ref>。また、張庚模本の新羅題記の中の「或屬韓或屬倭」(「或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」)という記述について、[[任那日本府]]([[369年]]-[562年]])問題や[[414年]]に建立された[[広開土王碑]]碑文における
{{quotation|{{lang|zh-Hant|百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民}}
 
百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年([[391年]])に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした|}}
という記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした<ref>ソウル、聯合ニュース2011年8月23日。</ref>
 
==脚注==