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'''太字文''''''奈良電気鉄道'''(ならでんきてつどう)は、現在の[[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄京都線|京都線]]に当たる[[鉄道路線]]を建設した[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。通称は「'''奈良電'''」。沿線で路線バス事業も行っていた。
 
京都と奈良を結ぶことから、同地域をテリトリーとしていた[[京阪電気鉄道]]と[[大阪電気軌道]](通称:大軌、近鉄の前身)両社の合弁で会社が設立され、[[戦後]]には京阪・近鉄いずれの路線とも[[直通運転]]を行っていた事があった。
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伏見支線建設により、京阪線との乗り入れを検討するが、すでに運転回数も多く、京都-奈良間で無停車急行を計画したいた奈良電気鉄道は、完成の暁には京阪線の線路余裕少なく、京阪電気鉄道との交渉も難航をきわめ、乗り入れ困難となった。そこで自社で京都へ乗り入れを検討し、鉄道省伏見貨物線と、旧同省奈良線廃線敷を利用することが決定され、1927年3月20日、伏見町-京都間の鉄道敷設免許を申請する。また、旧同省奈良線廃線敷と鉄道省伏見貨物線の払い下げは、それぞれ1927年3月30日、同年10月10日に払い下げ、貸下げ申請を行った(路線詳細は「[[奈良線]]」参照)。申請経路は、京阪電気鉄道伏見桃山駅より京都市下京区塩小路烏丸角、七条郵便局前に至る6.9kmであった。
 
===== 京都延長線の建設での問題と完成 =====
なお、京都駅への乗り入れは当初国鉄駅の烏丸口(北側の中央口)直下に地下ターミナル駅を設ける予定であったが、これは工事に費用と時間がかかり、大典に到底間に合わないことから、八条口(南口)側に仮設駅を設けて対処することになった。この仮設駅はその後移設されることもなく、[[東海道新幹線]]が建設される際にはその直上に新幹線の線路とプラットホームを設置し、同時にこの奈良電気鉄道の駅施設も高架3線化されている<ref>なお北口までの延伸免許自体は、近鉄への合併直後まで保持された。</ref>。
桃山-伏見は省線伏見貨物線を共用するべく貸付または貸下げを鉄道省に申請し建設に向け諸準備を進めたが、伏見町は町内高架にするように要求することになる。共用部分については、貨物線工事費を鉄道省が分担することを求めたが、当時1日5往復程度であり、多額の工事費を負担するなら廃止の意向を示し、奈良電気鉄道が高架で建設をする条件に払下げることを示された。また奈良鉄道時代より竹田街道で京都電気鉄道(のちの京都市電)と平面交差し、衝突事故<ref>民営鉄道の歴史がある景観Ⅲ古今書院</ref>がありそれも避けるためとされる。そこで奈良電気鉄道も第2伏見高架橋(全長1008m)を建設することになる。
 
また、京都駅への乗り入れは省線国鉄駅の烏丸口(北側の中央口)直下に地下ターミナル駅を設ける予定であったが、大典までに全線の工事を完成させ、営業を開始することが急務であり、また鉄道省より『差当リ省ノ裏側ニ於イテ之ヲ為シ、速成ヲ期スル候条、実施計画ニ当リ右考慮相成度』との通牒(通達)を受け神戸鉄道局に京都駅乗入線路敷設許可願いを、1927年12月29日、1928年5月11日に認可された。この仮設駅はその後移設されることもなく、[[東海道新幹線]]が建設される際にはその直上に新幹線の線路とプラットホームを設置し、同時にこの奈良電気鉄道の駅施設も高架化されている<ref>なお、烏丸口までの本工事はその後工事施工認可延長へて、近畿日本鉄道合併後の1963年に失効している。<ref>『奈良電気鉄道(株)申請の京都駅表口、東寺間(未成線)地方鉄道運輸営業廃止について』 1963年10月15日 (国立公文書館所蔵)</ref>
 
 
 
=== 開業から終戦まで ===
[[11月3日]]に、まず本社所在地でもあった[[桃山御陵前駅]]から西大寺駅の間で営業が開始された。全線の営業開始は、[[儀式]]がすべて完了した直後の[[11月15日]]となった。当初より大軌の保有する奈良線・畝傍線(現、[[近鉄橿原線|橿原線]])と[[直通運転]]を行い<ref>奈良電気鉄道在籍車両の大阪電気軌道乗り入れに関しては、西大寺 - 奈良・西大寺 - 神宮前、平端 - 天理間について1928年6月29日に申請を実施し、同年11月1日に鉄道大臣の、同年同月26日に内務大臣の認可をそれぞれ得ている。</ref><ref>『第37回報告書 自昭和三年十月一日 至昭和四年三月卅一日』、大阪電気軌道、p.2</ref>、国鉄奈良線で京都-奈良間の所要時間が1時間10分であった所を、急行が45分、普通が58分で結んだ。しかし営業成績は当初芳しいものでなく、大軌と提携して京都駅-[[大阪上本町駅|上本町駅]](上六)間の割引乗車券を販売するなど、集客に苦心した。
 
== 路線延伸計画 ==
なお、[[大阪市|大阪]]への延長線として小倉-玉造間の免許(後述)、さらに独自での奈良市内乗り入れと[[参宮急行電鉄]](現、[[近鉄大阪線]][[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]以東・[[近鉄山田線|山田線]])との接続を目指した桜井延伸線の免許も、[[1929年]]に[[田中義一]]内閣における[[小川平吉]]鉄道大臣の下で取得していたが、これは[[世界恐慌]]や[[五私鉄疑獄事件]]の影響もあって[[未成線]]で終わった。しかし、これらの免許線は京阪・大軌の両社に対し、資本力が弱い奈良電の持つ重要な切り札として存在し続け、奈良電は両社との力関係のバランスを巧みにコントロールすることで生き残りを図り続けた。
1928年に京都-西大寺間が全通するが、即位大典には大きな輸送成績を収めたが、京阪神のようの経済圏を結ぶことのない奈良電気鉄道は京都・奈良もしくは、大阪電気軌道を介した橿原への観光遊覧で、乗客の季節変動大きく、独立した鉄道経営には100 km程度の営業規模が必要と考えられた。そこで、以下の3つの延伸路線が申請することになるが、[[世界恐慌]]や[[五私鉄疑獄事件]]の影響もあって[[未成線]]で終わった。
 
== 大阪線計画 ==
小倉から[[北河内郡]]交野町(今の[[交野市]])の私部を経て、玉造までの免許を[[1927年]]11月26日に申請し、1929年6月26日に免許取得した<ref>『小倉村、中道町間鉄道敷設免許の件』 1929年06月26日 (国立公文書館所蔵)</ref>。
* 予定区間:大阪玉造-宇治小倉間35.2km
* 予定ルート:[[玉造駅|玉造]] - 諸堤 - 四宮 - 西長尾 - 上津屋 - 小倉
※高速運転を行うため、駅の設置数を限ることにしていた。
しかし、このころ相次ぎ競願路線が申請される。1つは南海系とみられる畿内電鉄で、根津嘉一郎はじめ京阪神有力者84名が発起人となって大阪天王寺-京都七条、放出-玉造間で申請、また森町(森ノ宮)-四條畷-田原-奈良下三条通に至る[[東大阪電気鉄道|東大阪電鉄]]である。それ以外にも京阪電気鉄道が省線片町線を電化し、省線奈良線新田-長尾を結ぶ路線、大阪電気軌道も、大阪天満橋-四條畷-生駒隧道大阪入口に至る四條畷線の路線免許を有し、多くの路線が入り乱れるこことなる。奈良電気鉄道は、長田桃蔵はじめ沿線17町村などが陳情するが、畿内電鉄や東大阪電気鉄道への免許許可が優勢であることがわかり、免許却下に向けて万全を期すため東大阪電気鉄道の株の半数にあたる12万株を30万円で発起人総代田中元七から株式引受け権を譲り受け、東大阪電気鉄道が免許されれば四條畷より宇治へ別線を出願できるように準備を進めた。しかし、東大阪電気鉄道への免許<ref>『大阪市東成区森町奈良市下三条通間鉄道敷設免許ノ件』 1929年06月26日 (国立公文書館所蔵)</ref>と同時に奈良電気鉄道へも予想されなかった免許をされることになり、免許交付により東大阪電気鉄道の経営関与は不要になり株式引受け権は、1株10円総額120万円で京阪電気鉄道に譲渡され、東大阪電気鉄道は、1929年7月18日に創立総会を開き、太田光凞が社長に、長田桃蔵が取締役に就任した。だがこの東大阪電気鉄道では五私鉄疑獄事件に巻き込まれる。
なお、当免許は近畿日本鉄道合併後免許更新されず1967年に失効している。
===== 京阪急行電鉄 =====
[[昭和恐慌]]や沿線の需要も多くなく、また澱川橋梁など建設費も膨らみ奈良電気鉄道の経営は苦しく[[1930年]]には東大阪電鉄とともに京阪への合併を要請した。しかし京阪電気鉄道も[[新京阪鉄道]]など拡張しきった事業と恐慌の影響で配当もままならい状況となり事業再編を始めていた京阪電気鉄道も奈良電気鉄道の要望も受け入れがたく、交渉は流れた。
 
その後、工事施工開始期限の[[1931年]]6月が迫っていたこともあって、奈良電では'''京阪急行電鉄'''という別会社を設立させて免許を譲渡し、工事の先延ばしを図ろうとした。京阪ではこの頃、京阪本線・新京阪線(今の[[阪急京都本線]])など自社保有線の脅威となるような新線敷設計画が多く立案されていたことを脅威と感じており、その中で自社も出資する会社であった奈良電の計画は、当初抑制が効くものとして黙認していた。しかし、次第に大阪の別の出資者を入れて独走するようになったことから、後には反発するようになった。奈良電では大軌を押さえた上で、かつて合併を見送った京阪を冷ややかに扱い、[[1932年]]1月に発起集会を開いた。京阪急行電鉄は、奈良電に乗り入れて京都-大阪間を36分で結ぶ公算を持ち、さらには未成となっていた奈良電の小倉-宇治間([[1922年]]に免許収得)も建設して、大阪-宇治間の29分運転も目論んだという。
 
だが4月に、同社の株式割当の4分の1を占めていた熊沢一衛([[伊勢電気鉄道]]社長)が関係していた四日市銀行が破綻して、熊沢の株引き受けができなくなったため、設立延期の願いを出すも6月に鉄道省から不許可の判断が出され、新線建設の計画は失敗に終わった。
 
なお、戦前に取得した小倉-玉造間の免許は京阪・近鉄に対する牽制の観点から[[戦後]]も保持され、近鉄に受け継がれたのち、ほどなく失効となった。この失効処置は京阪が奈良電の株式を近鉄に譲渡する際に見返りとして決められたとする説が有力である。
 
== 奈良延長線計画 ==
山田川駅-平城駅間、宇治起点24 kmから分岐し法華寺を経て省線奈良駅西口に至る4.6 km路線で、自社完結で京都-奈良間を30分で結ぶ計画であった。1927年11月8日に免許申請し、1928年4月4日免許を取得したが、<ref>『平城村、奈良市間鉄道敷設免許の件』 1928年4月4日 (国立公文書館所蔵)</ref>工事着手することなく1942年1月27日失効している。
 
== 桜井線計画 ==
奈良延長線終点より省線桜井駅を結ぶ19.7 kmで、路線は天理までおおよそ省線桜井線東側を、桜井までは西側を走るルートで計画であり、当時桜井–宇治山田間の建設していた参宮急行電鉄乗入れ、京都–伊勢間を特急運転する計画であった。1928年6月14日に免許申請し、1929年4月4日免許を取得したが、<ref>『奈良市、桜井町間延長線敷設免許の件』 1928年7月1日 (国立公文書館所蔵)</ref>工事着手することなく1942年1月27日失効している。<ref>『奈良、桜井間工事施行願却下の件』 1942年1月27日 (国立公文書館所蔵)</ref>しかし、西大寺で接続している大阪電気軌道畝傍線があり、参宮急行電鉄も大阪電気軌道の傍系会社で役員、社員も出向しており、乗入れ計画には疑問も残る。
* 予定ルート:[[奈良駅|奈良]] – 東帯解 – 東櫟本 – 天理教本部前 – 南丹波市 – 新長柄– 西柳本 – 三輪明神前 – 桜井
 
[[1940年]]には、この年が[[紀元二千六百年記念行事|皇紀2600年]]となり、桃山御陵や[[橿原神宮]]への参拝が奨励されたため、奈良電も急行電車を多数設定して輸送に努めた。
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[[戦後]]の輸送力増加に伴い、規格型車両として近鉄奈良線モ600形と車体幅などの一部寸法を除く車体仕様をそろえた[[奈良電気鉄道デハボ1100形電車|デハボ1100・クハボ700形]]<ref>但し電装品は従来通りの[[東洋電機製造]]製で、[[三菱電機]]製品を採用したモ600形とは一線を画していた。近鉄買収後はモ670・ク570形に改称された。</ref>が増備され、無蓋電動貨車のデトボ360形を1両新造、更に[[国鉄80系電車#湘南窓|湘南形]]と呼ばれる非貫通で前面に大型2枚窓を備える[[奈良電気鉄道デハボ1300形電車|デハボ1300形]]<ref>デトボ351(旧デワボ502)とデワボ501の機器を流用して車体を新造。近鉄合併後、モ455形を経てモ455形およびク355形となり、さらに1969年の昇圧でモ400形およびク300形となった。</ref>、1954年に運行を開始した特急電車用の[[WN平行カルダン駆動方式|WNドライブ]]車である[[奈良電気鉄道デハボ1200形電車|デハボ1200形]](1954年製)と、その増備車として同仕様の車体を持つが旧型車からの機器流用による[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]車である[[奈良電気鉄道デハボ1350形電車|デハボ1350形]](1957年製)<ref>合併後、それぞれモ680・690形となった後、特急車として大改造を施され、[[近鉄680系電車|モ680・ク580・モ683形]]となる。</ref>がそれぞれ製造された。
 
== 大阪延伸線計画 ==
奈良電は前述したように、小倉から[[北河内郡]]交野町(今の[[交野市]])の私部を経て、玉造までの免許を[[1927年]]11月に申請し、1929年6月に取得した。[[片町線]]にほぼ並行する計画であり、また大阪森町-四条畷-奈良下三条通間で[[東大阪電気鉄道|東大阪電鉄]]という会社が免許を申請していたので、奈良電気鉄道は当初自社申請区間の免許取得は困難と見ており、これと並行して東大阪電鉄の株を取得し、四条畷-小倉-宇治というルートでの同線との接続線免許も申請するなどしていたが、当事者さえ予想もしていなかった小倉-玉造線の認可によって東大阪電鉄の株は不要となり、京阪に売却した。
 
しかし、[[昭和恐慌]]のあおりで奈良電も経営が危うくなったため、[[1930年]]には東大阪電鉄とともに京阪への合併を要請した。だがこれは同じく恐慌の影響で、[[新京阪鉄道]]の統合など事業再編を始めていた京阪にとっては容認できるものでなく、交渉は流れた。
 
その後、工事施工開始期限の[[1931年]]6月が迫っていたこともあって、奈良電では'''京阪急行電鉄'''という別会社を設立させて免許を譲渡し、工事の先延ばしを図ろうとした。京阪ではこの頃、京阪本線・新京阪線(今の[[阪急京都本線]])など自社保有線の脅威となるような新線敷設計画が多く立案されていたことを脅威と感じており、その中で自社も出資する会社であった奈良電の計画は、当初抑制が効くものとして黙認していた。しかし、次第に大阪の別の出資者を入れて独走するようになったことから、後には反発するようになった。奈良電では大軌を押さえた上で、かつて合併を見送った京阪を冷ややかに扱い、[[1932年]]1月に発起集会を開いた。京阪急行電鉄は、奈良電に乗り入れて京都-大阪間を36分で結ぶ公算を持ち、さらには未成となっていた奈良電の小倉-宇治間([[1922年]]に免許収得)も建設して、大阪-宇治間の29分運転も目論んだという。
 
だが4月に、同社の株式割当の4分の1を占めていた熊沢一衛([[伊勢電気鉄道]]社長)が関係していた四日市銀行が破綻して、熊沢の株引き受けができなくなったため、設立延期の願いを出すも6月に鉄道省から不許可の判断が出され、新線建設の計画は失敗に終わった。
 
なお、戦前に取得した小倉-玉造間の免許は京阪・近鉄に対する牽制の観点から[[戦後]]も保持され、近鉄に受け継がれたのち、ほどなく失効となった。この失効処置は京阪が奈良電の株式を近鉄に譲渡する際に見返りとして決められたとする説が有力である。
 
* 予定区間:大阪玉造-宇治小倉間35.2km
* 予定ルート:[[玉造駅|玉造]] - 諸堤 - 四宮 - 西長尾 - 上津屋 - 小倉
※高速運転を行うため、駅の設置数を限ることにしていた。
 
== 京阪電気鉄道との直通運転 ==
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なお、無料特急時代は停車駅だった丹波橋駅は有料化とともに通過駅となり、京阪の駅との分離を経て、再び近鉄丹波橋駅に特急が停車するようになったのは、38年後の[[2002年]][[3月20日]]のことである。
 
=== 年表 ===
*[[1919年]](大正8年)
**11月3日:本線(京都府紀伊郡向島村-奈良市)鉄道敷設免許申請。
**11月10日:関西電気軌道(奈良市-京都市)鉄道敷設免許申請。
*[[1921年]](大正10年)9月21日:八幡支線(京都府綴喜郡田辺町-同郡八幡町)鉄道敷設免許申請。
*[[1922年]](大正11年)
**7月18日:奈良電気鉄道発起人、関西電気軌道発起人と合併契約締結。
**11月16日:本線(京都府紀伊郡向島村-奈良県添上郡佐保村)及び八幡支線(京都府綴喜郡田辺町-同郡八幡町)鉄道敷設免許。
*[[1924年]](大正13年)
**3月12日:大阪電気軌道(現 近畿日本鉄道)と車両乗入契約締結。
**4月10日:京阪電気鉄道と車両乗入契約締結。
**5月24日:本線起点を京阪電気鉄道宇治付近、終点を大阪電気軌道西大寺(現 大和西大寺駅)に変更許可申請。
**10月25日:本線路線変更許可。
*[[1925年]](大正14年)
**1月12日:宇治川電気と電力受給契約締結。
**5月14日:会社設立登記完了。
**8月25日:八幡支線鉄道敷設免許失効。
**12月16日:宇治-伊勢田、寺田-田辺、相楽-西大寺路線訂正届出。
*[[1926年]](大正15年)
**2月9日:伏見支線(京都府久世郡小倉村-京都府紀伊郡伏見町)鉄道敷設免許申請
**8月2日:宇治-西大寺工事施行認可。
**8月12日:宇治-伊勢田ほか路線訂正許可。
**12月15日:伏見支線鉄道敷設免許。
*[[1927年]](昭和2年)
**1月11日:大久保-富野荘、三山木-片町線交差点、相楽-平城路線一部変更認可申請。
**3月23日:京都延長線(京都府紀伊郡伏見町-京都市)鉄道敷設免許申請。
**3月30日:旧省線奈良線線路敷払下げ出願。
**8月12日:大久保-富野荘ほか路線一部変更認可。
**9月25日:小倉-西大寺間線路建設工事着手。
**9月28日:京都延長線鉄道敷設免許。
**10月10日:省線貨物線(伏見-桃山)一部払下げ又は貸下げ出願。
**10月14日:伏見支線工事施行許可申請。
**11月8日:奈良延長線(奈良県生駒郡平城村-奈良市)鉄道敷設免許申請。
**11月26日:大阪線(京都府久世郡小倉村-大阪市東成区中道町)鉄道敷設免許申請。
*[[1928年]](昭和3年)
**1月6日:京都駅乗入れ仮設線路敷設申請。
**1月24日:京都延長線 伏見起点一哩(マイル)四十鎖(チェーン)-京都 工事施行認可申請。
**3月23日:伏見支線一部工事施行許可申請。
**4月1日:澱川橋梁及び小倉-澱川左岸工事着手。
**4月4日:奈良延長線(奈良県生駒郡平城村-奈良市)鉄道敷設免許。
**4月19日:旧省線奈良線線路敷払下げ許可。
**4月23日:伏見支線残区間工事施行許可申請。
**5月20日:田辺車庫竣工。
**5月26日:伏見支線残区間工事施行許可。
**5月30日:省線貨物線(伏見-桃山)共用承認。
**6月1日:京都延長線 伏見起点一哩(マイル)四十鎖(チェーン)-京都 工事施行認可。
**6月1日:伏見第1高架橋工事着手。
**6月14日:桜井線(奈良市-奈良県磯城郡桜井町)鉄道敷設免許申請。
**7月6日:省線貨物線(伏見-桃山)線路敷払下げ出願。
**7月20日:伏見-八条 工事着手。
**7月25日:木津川橋梁竣工(工事費 389,046円29銭)。
**9月3日:伏見第2高架橋工事着手。
**9月12日:省線貨物線(伏見-桃山)線路敷払下げ許可。
**9月25日:八条-京都 工事着手。
**9月30日:伏見第1高架橋工事竣工(工事費 473,319円28銭)。
**10月16日:澱川橋梁工事竣工(工事費 835,355円35銭)。
**10月20日:桃山御陵前-西大寺線路工事竣工。
**10月31日:伏見-京都 線路工事竣工。
**11月3日:桃山御陵前駅 - 西大寺駅(現 大和西大寺駅)間を開業 大阪電気軌道 西大寺-奈良乗入れ開始 大阪電気軌道と連絡運輸開始。
**11月12日:桃山御陵前-京都 線路工事竣工。
**11月15日:京都駅 - 桃山御陵前駅間が開業し全通。京都-奈良 急行運転開始。
**12月10日:大阪電気軌道車両、奈良電気鉄道に乗入れ運転開始。
*[[1929年]](昭和4年)
** 3月30日:ダイヤ改正 スピードアップ。
** 6月26日:大阪線(京都府久世郡小倉村-大阪市東成区中道町)鉄道敷設免許。
** 6月29日:桜井線(奈良市-奈良県磯城郡桜井町)鉄道敷設免許。
** 7月10日:[[木津川 (京都府)|木津川]]の河畔に木津川水泳場開設 木津川駅を臨時設置。
** 11月10日:参宮急行電鉄と連絡運輸開始。
*[[1930年]](昭和5年)
** 12月15日:ダイヤ改正 京都-大阪電気軌道久米寺 急行運転開始。
*[[1931年]](昭和6年)
** 5月30日:臨時株主総会で大阪線(京都府久世郡小倉村-大阪市東成区中道町)鉄道敷設営業権を『京阪急行電鉄』発起人に譲渡可決。
** 12月24日:大阪線(京都府久世郡小倉村-大阪市東成区中道町)鉄道敷設譲渡許可。
*[[1932年]](昭和7年)
** 11月23日:木津川グラインダー場開設。
*[[1933年]](昭和8年)
** 4月30日:大阪電気軌道小型パンタ車両乗入れに伴う架線改修工事完了。
*[[1934年]](昭和9年)
** 9月21日:室戸台風で全線運転休止
** 9月2日:全線運転再開。
** 10月31日:木津川グラインダー場閉鎖。
** 11月21日:貨物運輸営業開始。
*[[1935年]](昭和10年)
** 4月15日:京阪電気鉄道と連絡運輸開始。
** 6月29日:鴨川水害で十条駅 - 城南宮前駅間で路盤崩壊のため不通、同月30日運転再開。
** 9月15日:寺田球場開場
*[[1936年]](昭和11年)
** 9月20日:寺田ラグビー球場開場。
*[[1937年]](昭和12年)
** 9月20日:寺田グラウンド買収。
*[[1938年]](昭和13年)
** 12月31日:関西急行電鉄と連絡運輸開始。
*[[1939年]](昭和14年)
** 3月16日:京都市都市計画第3号線との立体交差工事竣工 東寺駅移設。
** 12月1日:神都交通と連絡運輸開始。
*[[1940年]](昭和15年)
** 1月31日:京都駅2号線延長工事竣工。
**4月1日:城南宮前駅を竹田駅に改称。
**4月5日:上鳥羽口駅開業。
**8月1日:大阪鉄道、信貴山急行電鉄、大阪商船ほか船舶6社と連絡運輸開始。
**12月10日:京都市と連絡運輸開始。
*[[1942年]](昭和17年)
** 1月27日:奈良延長線、桜井線鉄道敷設免許失効。
*[[1943年]](昭和18年)
** 10月20日:寺田グラウンド及び付近所有地を、島津製作所に売却。
** 12月11日:ダイヤ改正(列車削減、速度低下)。
*[[1944年]](昭和19年)
** 11月26日:京阪電気鉄道丹波橋駅との連絡工事着手。
*[[1945年]](昭和20年)
**2月1日:近畿日本鉄道と非常災害時の電力融通協定締結
**3月16日:有限会社 奈良電車営業所設立
**5月20日:八条駅・木津川駅運輸営業休止。
**7月:木津川水泳場休場。
**12月21日:京阪神急行電鉄[[丹波橋駅]]連絡工事竣工、同駅から京阪の[[三条駅 (京都府)|三条駅]]まで直通運転開始。堀内駅廃止。
*[[1946年]](昭和21年)
**2月17日:進駐軍専用列車運転開始。
**10月1日:京都駅 - 東寺駅間の八条駅、富野荘駅 - 新田辺駅間の木津川駅臨時駅廃止。
*[[1947年]](昭和22年)4月1日:京阪が丹波橋駅から奈良電に乗り入れ、京都駅まで直通運転開始。
*[[1948年]]
**7月1日:木津川水泳場再開 木津川駅臨時設置。
**7月30日:京都駅3号線新設工事竣工
*[[1950年]](昭和25年)
**9月3日:[[ジェーン台風]]により全線不通。
**9月4日:全線開通。
**10月21日:進駐軍専用列車廃止。
*[[1951年]](昭和26年)7月7日:小倉変電所竣工。
*[[1953年]](昭和28年)
**9月25日:[[台風13号]]により全線不通。
**9月26日:桃山御陵前-伊勢田及び新田辺-山田川除き開通(不通区間は10月10日まで代行バス運転)。
**9月27日:新田辺-山田川間開通。
**10月8日:桃山御陵前-伊勢田間上り線復旧、全線開通。
**10月25日:災害復旧工事完了、全線複線開通。
*[[1954年]](昭和29年)
**7月5日:[[興戸駅]]開業。
**10月23日:ダイヤ改正 京都-奈良間特急運転開始。
*[[1959年]](昭和34年)[[8月3日]]:小倉、宇治間(未成線)運輸営業廃止<ref>『奈良電気鉄道(株)申請の小倉、宇治間(未成線)運輸営業廃止について』 1954年8月3日 (国立公文書館所蔵)</ref>。
*[[1961年]](昭和36年)
**4月29日:興戸変電所竣工
**9月16日:[[第2室戸台風]]により全線不通。
**9月17日:京都-桃山御陵前開通(桃山御陵前-奈良間で20日まで代行バス運転)。
**9月17日:桃山御陵前-新田辺開通。
**9月21日:始発から全線開通。
**10月5日:災害復旧工事完了、平常運転再開。
**10月13日:皇太子同妃両殿下、京都-奈良往復御乗車。
*[[1962年]](昭和37年)
**5月11日:京都駅改築工事着手。
**9月21日:京都駅仮乗降場使用開始。
**12月20日:小倉駅待避線竣工。
*[[1963年]](昭和38年)
**9月1日:京都駅高架化。
**8月24日:会社合併認可<ref>『近畿日本鉄道株式会社、奈良電気鉄道株式会社申請の会社合併について』 1963年8月26日 (国立公文書館所蔵)</ref>。
**10月1日:近畿日本鉄道が奈良電気鉄道を合併し、京都線となる。
**10月15日:京都延長前残区間(京都駅表口、東寺間)(未成線)地方鉄道運輸営業廃止。
**11月27日:会社解散登記完了。
{{See also|近鉄京都線#歴史}}
 
 
== 脚注 ==