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[[ファイル:Urakuen Joan.jpg|thumb|220px|如庵(国宝、江戸時代初期)。[[織田長益|織田有楽]]好み。壁には連子窓(中央)と下地窓(右)を開ける。左の土間庇の下、右手に躙り口があるが、写真ではみえない。]]
[[ファイル:Isome-shi Garden13s5s4410.jpg|thumb|220px|[[天然図画亭]]の点前座。客座との間には中柱を立てる。客座と点前座の間を結界で仕切るのは珍しい。]]
[[ファイル:Rokuonji Sekkatei.jpg|thumb|220px|[[鹿苑寺]]夕佳亭(明治初期の再建)。[[金森重近|金森宗和]]好み。三畳の開放的な茶室。]]
[[Image:2002_kenrokuen_hanami_0123.jpg|thumb|220px|[[兼六園]]の茶室、夕顔亭]]
[[ファイル:Kourinin Tea House (Jikouin).jpg|thumb|200px|[[慈光院]]高林庵。[[片桐貞昌|片桐石州]]好み。二畳台目。点前座の奥に床を設ける「亭主床」という珍しい形式。]]
'''茶室'''(ちゃしつ)は、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる[[施設]]である。[[日本庭園]]の中に造り、[[露地]]を設けるのが一般的であったが、近年ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。また茶道部があるために、[[キャンパス]]内の片隅に茶室を構えている[[大学]]も多い。
[[ファイル:Shōkō-ken.jpg|thumb|200px|[[高桐院]]松向軒。[[細川忠興|細川三斎]]好み。点前座から客座を望む。天井は平天井と掛込天井(化粧屋根裏)を組み合わせる。]]
'''茶室'''(ちゃしつ)は、日本式の[[茶道]]において、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる[[施設]]である。[[日本庭園]]独立した建物として造られる場合と、書院など建物内に造り込まれる場合がある。いずれの場合も[[露地]]を設けと称す庭園を伴うのが一般的であったが、近年現代ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。<!--また茶道部があるために、[[キャンパス]]内の片隅に茶室を構えている[[大学]]も多い。-->四畳半を標準として、それより狭いものを小間の茶室、広いものを広間の茶室という
 
== 茶室の歴史 ==
[[茶道]]の稽古をしたり、茶を楽しむために炉が切ってある和室(畳のある部屋)も一般に茶室と呼ばれるが、本項では主に四畳半以下の草庵風茶室について述べる。
=== 「書院の茶」から「草庵の茶」へ ===
日本における喫茶の風習は、記録上では平安時代にさかのぼる。鎌倉時代には禅宗寺院を中心に喫茶の風が広まり、室町時代には[[会所 (中世)|会所]]において茶がふるまわれていた。この時代の会所とは[[連歌]]の会などの寄合が行われた建物を指す。室町殿の南向会所では、主座敷の裏手に「茶湯所」という部屋があり、ここで茶を立て、座敷に運んでいた。絵巻物『慕帰絵詞』巻五には当時の会所の様子が描写されている。画中の座敷には和歌の集まりと思しき会合に集まって、くつろぎ談笑する僧俗の人々がおり、隣の部屋では、棚に多くの茶碗や茶道具が置かれ、座敷へ茶を運ぶ僧たちの姿がみえる。当時はこのように、遊興の場において茶がふるまわれていた。こうした座敷が、床(とこ)、棚、付書院などを伴った[[書院造]]として定式化していくとともに、「書院の茶」と呼ばれる茶の文化が広まっていった。こうした「書院の茶」においては、茶道具や飾り物として唐物(中国渡来の茶碗、書画、道具など)が使われ、中国文化と禅宗の影響が大きかった。これが、15世紀後半から16世紀にかけて、「市中の山居」(都会にいながらにして山里の風情を味わう)を志向する「草庵の茶」(侘び茶)へと移行していく。草庵の茶は、15世紀の人物で一休宗純に参禅した[[村田珠光|珠光]]から、堺の町衆である[[武野紹鴎|武野紹鷗]](16世紀前半)を経て、その弟子の[[千利休]](16世紀後半)に至って大成された。<ref>矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.II - V</ref>
 
=== 「茶室」の呼称 ===
「茶室」の語の初出は『南浦文集』であり、[[南浦文之]]の没年である1620年以前にこの語が存在したことがわかる。ただし、「茶室」の語の使用が一般化するのは近世末期以降であり、それ以前には「数寄屋」「数奇屋」「小座敷」「茶湯座敷」などと呼ばれていた。広間の一部を屏風などで囲って仕切ったことに由来する「囲い」という呼称もある。<ref>『ここから学ぶ 茶室と露地』、pp.12 - 13</ref>
 
=== 茶室の起源 ===
茶室の起源については、広間の一部を屏風や建具で仕切って使ったことに始まるともいうが、確かなことはわからない。文明18年(1486年)[[足利義政]]の東山殿に建てられた持仏堂(現在の[[慈照寺]]東求堂)の同仁斎を最古の茶室とする見方もあるが、この同仁斎については茶室とする説と書院とする説とがある。同仁斎は四畳半の室で、北側に棚と付書院を設けるが、床(とこ)は設けていない。部材墨書に「御いるりの間」とあることから、かつてはこの部屋に炉(いるり)が切られ、後世の茶室に近い構成であったことは窺える。別室の茶立所で点茶し、座敷に運び込む形式から、室内に炉を切り、亭主がそこで茶を立て、客にふるまう形式に推移し、次第に茶事専用の独立した施設としての茶室が普及していった。<ref>矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.IV - V</ref>
 
=== 珠光から利休まで ===
15世紀の人物である珠光は一般に侘び茶の祖とされているが、その生涯や事績については不明の部分が多く、珠光の造った茶室も現存していない。[[山上宗二]]の『山上宗二記』には「珠光は四畳半、引拙は六畳敷なり」とある(引拙は珠光の弟子の武家茶人・鳥居引拙)。「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図には「珠光好地蔵院囲ノ写」、すなわち珠光好みの茶室の写しという四畳半の存在が記録されている。それによれば、この四畳半には一間(畳1枚分の幅)の床(とこ)、檜の角柱、襖2枚、障子4枚があり、書院風のものであったと推定される。連歌師[[宗長]]の『宗長日記』によると、大永6年(1526年)の時点では四畳半や六畳の座敷で茶事が行われていたことがわかる。『山上宗二記』には武野紹鷗の四畳半が平面図入りで紹介されているが、その図の注記によれば、柱は檜、壁は張付壁、天井は野根板(杉、サワラなどの板を薄くはいだもの)で、茶室の正面(北側)には「坪ノ内」と「竹のスノコエン」があり、露地(坪ノ内)から簀子縁(スノコエン)に上がり、障子を開けて席入りする形であったことがわかる。この四畳半は北向きで窓がなく、光は北側の入口からしか入らなかった。また、入口の鴨居が通常よりも低く設置されており、茶室の入口が俗世間を離れ、非日常的空間への入口であることを象徴していた。<ref>矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.V - VI; 『ここから学ぶ 茶室と露地』、pp.14 - 16; 『図説 茶室の歴史 基礎がわかるQ&A』、pp.26 - 27, 38 - 39</ref>
 
茶室は古来、四畳半を基準として、それより狭いものを小間(こま)の茶室、広いものを広間の茶室と称する<ref>『ここから学ぶ 茶室と露地』、p.42</ref>。小間の茶室には三畳に台目(だいめ、丸畳の4分の3の長さの畳)の手前座を配した三畳台目([[表千家]]不審庵、[[金地院]]八窓席など)、二畳半台目(如庵など)などがあり、利休の作とされる[[妙喜庵]]待庵は二畳という狭小な空間である。利休は聚楽の屋敷に一畳半の茶室を設けたことも記録されている。こうした狭小な空間は、利休の志向した「直心の交」(じきしんのまじわり)、すなわち、亭主と客とが直に心を通い合わせる空間をめざしたものであった。体をかがめなければ入室できない躙口(にじりぐち)、丸太を用いた柱、土壁、壁の一部を塗り残して壁下地の木舞(格子状に組んだ竹)を見せた下地窓などが、草庵風の茶室の代表的な要素である。ただし、利休が造ったという確証のある茶室は現存せず、前述の妙喜庵待庵が利休作と推定されるのみである。したがって、利休がどのような過程でこうした草庵風の茶室を作り上げていったかは明らかでない。残された指図(平面図)から、利休の茶室を見ると、大坂屋敷にあった長三畳台目の茶室(『山上宗二記』所収)は、「脇ノ手水かまへ」から「くくりきと」(潜り木戸)を通って直接席入りする形になっており、紹鷗の四畳半にあった縁が省略されている。この「手水構」と「潜り木戸」はそれぞれ、蹲踞(つくばい)と躙り口の初源的なものと思われる<ref>『ここから学ぶ 茶室と露地』、p.223</ref>。利休は茶道具も唐物とともに和物を重視し、楽家に侘びた茶碗を作らせたり、自ら竹を斬って花入や茶杓を作るなど、侘びの美学を追求した。<ref>『ここから学ぶ 茶室と露地』、pp.15 - 16; 矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」、pp.V – VII; 『決定版 はじめての茶の湯』、p.213</ref>
 
== 草庵風茶室 ==
[[Image:KoudaijiIhoan.jpg|thumb|220px|大胆な光の演出が施された[[高台寺]]遺芳庵]]
草庵風茶室は、田舎屋風の素朴な材料(丸太、竹、土壁など)を使って造られた。縁側からの採光を土壁でさえぎり、そこに必要に応じて「窓(下地窓、連子窓、突き上げ窓など)」をあけることにより光による自在な演出が可能となった。一間を基本としていた床の間も部屋の広狭、構成に応じて四尺、五尺とバリエーションを増し、そのデザインも、「室床」「洞床」「壁床」「踏み込み床」など、多様な展開を見せる。室内には中柱を立て亭主座と客座の[[結界]]とした。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれた。
 
== 利休以前 ==
[[足利義政]]が東山に建てた([[慈照寺]])東求堂には四畳半の部屋があり、茶室の元祖と言われることがある。また、村田珠光が市中の草庵として四畳半の茶室を造った。
 
== 千利休の茶室 ==
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== 茶室の概要 ==
[[画像:松花堂 01.JPG|thumb|right|150px|[[松花堂]]の露地。奥に見えるのが腰掛待合。]]
仮に伝統的な茶室が単独でポツンは、露地称する庭園の中に建てられている。露地は、俗塵を離れら殺風景なもの非日常的空間である茶室に至るまでの空間演出が大切である。
 
いきなり茶室に通されることはなく、まず(よりつや座)と呼ばれる部屋で茶事に不要な荷物を風呂にしまい、足袋をはき替えるなど、身支度をととのえる。続いて、「待合」と呼ばれる部屋案内され、招待客全員が揃うのを待つ(寄付と待合は1部屋を区切って使う場合もあ庭へ全員が揃うと、露地草履に履き替えて、露地に下り、腰掛待合という屋根つきのベンチに腰掛け、亭主の迎え付けを待つ。迎えた亭主の合図に従い客は茶室へと向かう。外露地と内露地が分かれ小さないる場合は、その境に中があり、これをくぐって内露地へ入る。茶室までの通り道は、飛び石を配した露地となっていて亭主の心遣いにより打ち水が打たれている。途中の待合に腰掛があり、ここでしばらく待つ。迎えでた亭主の合図に従い客は茶室へと向かう。茶室の前に[[蹲踞]](つくばい]]があり、ここで手水を使い、手と口を清める
 
小間の茶室には、にじり口という小さな入口から、頭をかがめて体を入れる(広間の茶室の場合は、普通襖をあけて席入する)。茶室に入ってまず目に入るのが床の間である。墨蹟窓からの光に照らされた床には、四季に合わせた掛け軸、花あし掛けれている。通常床前が上座であり正客席となる。夏には[[風炉]]が置かれ、冬には炉が切られ、そこが亭主の座る手前座である。小間の茶室では、手前のための明り取りとして風炉先に下地窓が開けられていることが多い
 
客が着座すると亭主が茶道口(勝手口から入ってきて挨拶をし茶事が始まる。天井は低く、窓からの光も必要最小限に絞られて、主客ともに茶事に集中する。懐石を戴いた後一旦露地に退出するが、また茶室に戻り、まず濃茶を一同回し飲み、ついで薄茶を味わった後、客はこの一期一会の場から静かに退出する。
 
にじり口には頭を下げなければ入れないので、貴人を迎える場合のため、にじり口とは別に貴人口(きにんぐち、立ったまま入れる普通の障子戸)を設けることも多い。給仕のために勝手茶道口とは別に給仕口をもうけることもある。
*記事[[露地]]も参照のこと
 
== 建築史上の意義 ==
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* [[黄金の茶室]] [[MOA美術館]]、及び[[大阪城]]天守閣、富山[[長福寺]](下写真)に再現されている
  
== 脚注 ==
  [[ファイル:Chasitu.jpg]]
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*矢ヶ崎善太郎「茶室の歴史」(前久夫『すぐわかる 茶室の見かた 改訂版』所収)、東京美術、2011
*飯島照仁『ここから学ぶ 茶室と露地』、淡交社、2011
*中村昌生『図説 茶室の歴史 基礎がわかるQ&A』、淡交社、1998
*千宗左『決定版 はじめての茶の湯』、主婦の友社、2009
 
== 関連項目 ==
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[[Category:茶室|*]]
[[Category:部屋|ちやしつ]]
 
[[en:Chashitsu]]
[[fr:Chashitsu]]
[[ko:다실]]
[[ru:Тясицу]]
[[zh:茶寮]]