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| 画像=Franz Beckenbauer 2006 06 17.jpg
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| 本名=フランツ・アントン・ベッケンバウアー<br />Franz Anton Beckenbauer
| 愛称=皇帝
| カタカナ表記=
| アルファベット表記=Franz BECKENBAUER
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| 監督チーム = {{Flagicon|BRD|size=16px}}[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]<br />{{Flagicon|FRA|size=16px}}[[オリンピック・マルセイユ]]<br />{{Flagicon|GER|size=16px}}[[バイエルン・ミュンヘン]]<br />{{Flagicon|GER|size=16px}}[[バイエルン・ミュンヘン]]
}}
'''フランツ・アントン・ベッケンバウアー'''('''Franz Anton Beckenbauer''', [[1945年]][[9月11日]] - )は、[[ドイツ]](旧[[西ドイツ]])・[[ミュンヘン]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]、[[監督|サッカー指導者]]。現在の[[ドイツサッカー連盟]](DFB)副会長、[[バイエルン・ミュンヘン]]クラブ名誉会長
ピッチ上で味方の選手達を操る姿と、『[[神よ、皇帝フランツを守り給え]]』に詠われた[[オーストリア帝国|オーストリア皇帝]]
== 生い立ち ==
1945年9月11日、[[第二次世界大戦]]終結直後にミュンヘン東南部にあるギーシングで生まれる。郵便局員を務める父親は厳格な人物だった。物心ついたころから5歳上の兄や近所の子供たちと共に路地や空き地などでストリートサッカーに興じて技術を磨いた。
[[1954年]]、8歳の時に[[SCミュンヘン1906]]の下部組織に入団して本格的にサッカーを始める。当時のポジションは左ウイング<ref>[[#ベッケンバウアー
[[1958年]]夏、SCミュンヘン1906での最後の試合としてミュンヘン近郊のノイビベルクで開催された14歳以下(U-14)大会に出場し決勝進出、決勝の相手は1860ミュンヘンとなった。この試合にてベッケンバウアーを警戒する相手選手との小競り合いの末に相手から平手打ちを受けるという事件が起こ
[[1960年]]、14歳で[[ギムナジウム]](中等教育機関)を卒業後、保険会社の[[アリアンツ]]に就職<ref>[[#ベッケンバウアー
== 選手経歴 ==
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[[ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F025341-0010, Bonn, Landesvertretung Bayern, Fußballmanschaft.jpg|thumb|upright=1.0|1967年のベッケンバウアー(左側の人物)]]
[[1964年]]、バイエルン・ミュンヘンの会長を務めるヴィルヘルム・ノイデッカーの推薦もあって<ref name="皇帝13">[[#ベッケンバウアー
ベッケンバウアーがバイエルンのトップチームに昇格した当時、クラブは中堅クラスの実力を有していた<ref name="
監督の[[ズラトコ・チャイコフスキー]]はベッケンバウアーに「君は[[クルップ|クルップ社]]のような[[鉄]]になれる素材だが、今は[[クリーム (食品)|生クリーム]]のようだ。それでは、いくら優れたボールテクニックを身に付けていても何の意味もない」と評し<ref>[[#ベッケンバウアー
同年6月6日、1963-64シーズンブンデスリーガ昇格ラウンド
同年9月、1964-65シーズン[[レギオナルリーガ (ドイツサッカー)|レギオナルリーガ南部]]開幕戦の[[FCインゴルシュタット04|MTVインゴルシュタット]]戦でリーグ初得点を記録すると、その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、マイヤーやミュラーらと共にブンデスリーガ1部昇格に貢献。昇格初年度の1966年にはDFBポカールを制すると翌年も連覇。1966-67シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝に貢献した。ベッケンバウアーの貢献度の高さからファンからはバイエルンミュンヘンの事を「FCベッケンバウアー」、イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」と呼ぶようになった<ref name="SD1982">[[#鈴木
==== 1970年代 ====
1970年代に入るとドイツ国内では[[ヘネス・バイスバイラー]]が監督を務める[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]](以下ボルシアMG)との2強時代に突入した。ベッケンバウアー擁するバイエルンは、[[ギュンター・ネッツァー]]や[[ベルティ・フォクツ]]らといった選手を擁して攻撃的なサッカースタイルを標榜した<ref name="
[[1977年]]5月、[[北米サッカーリーグ]]の[[ニューヨーク・コスモス]]へ移籍。同年限りでの引退を表明していた[[ペレ]]の後継者を探していたコスモス側からのオファーを受けたもので、契約期間は4年、移籍金は250万ドル(当時の金額)とも言われた。コスモスではリベロではなく中盤でプレーをし、同年のサッカーボウル(北米リーグチャンピオン決定戦)で優勝。選手投票によるリーグMVPにはペレを抑えベッケンバウアーが選出された。ペレの引退もあって翌年は優勝を逃したものの、1979年と1980年にはサッカーボウル連覇を果たし米国での人気を不動のものとした。一方でアメリカの競技場の人工芝の堅いピッチは柔らかい天然芝のピッチに馴染んでいたベッケンバウアーの肉体を徐々に蝕んでいった<ref name="SD1983">[[#鈴木
==== 1980年代 ====
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[[1971年]][[4月25日]]、[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦において26歳で西ドイツ代表のキャプテンに就任。また所属クラブとは異なり代表チームでは中盤でプレーする機会が多かったが、この時期からリベロとしてプレーをするようになった。
[[1972年]]、[[UEFA欧州選手権1972]]準々決勝ラウンドでイングランドを相手に敵地で完勝し本大会進出に導くと、[[ベルギー]]で開催された本大会では準決勝で地元[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]を2-1、決勝ではソビエト連邦を3-0で下し大会初優勝。この時のリベロを務めるベッケンバウアーとゲームメーカーを務めるネッツァーのコンビネーションや流れるようなパスワーク、選手個々の身体能力とラテン系を彷彿とさせるテクニックを融合したサッカーを披露した事から「夢のチーム」と称えられた<ref>[[#鈴木
[[1973年]][[11月24日]]、[[シュトゥットガルト]]で行われた[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦において[[ウーヴェ・ゼーラー]]の持つ西ドイツ代表通算最多出場記録(73試合)を更新(試合は2-1で西ドイツの勝利)。
[[1974年]]、3度目のワールドカップ出場となった[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・西ドイツ大会]]では地元開催の重圧からグループリーグ第3戦の[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]戦を0-1で落すなど苦境に立たされた。この敗戦の後、チームを立て直すべくベッケンバウアーはリーダーシップを発揮しシェーン監督との二頭体制でチームの修正を図る<ref name="シェーン去る">[http://kaze.shinshomap.info/series/doitsu/18.html 第18回 シェーン去る - 優勝とひとつの時代の終わり]</ref>。調子の上がらないネッツァーに代わって[[ヴォルフガング・オフェラート]]を中盤の核とすることや、[[ベルント・ヘルツェンバイン]]や[[ライナー・ボンホフ]]の起用を進言するなど<ref>[[#リヒテンベルガー
[[1976年]]、[[UEFA欧州選手権1976]]では予選ラウンドを突破し、[[ユーゴスラビア]]で開催された本大会に出場。地元の[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]を退け2大会連続の決勝進出に導くが、決勝戦ではダークホースの[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]にPK戦の末に敗れ準優勝に終わった。この試合で西ドイツ代表選手として初の100試合出場を達成したベッケンバウアーは、1977年2月23日の[[サッカーフランス代表|フランス]]戦(試合は0-1で西ドイツの敗戦)で代表から退くまで国際Aマッチ103試合に出場し14得点を記録し、50試合でキャプテンを務めた。西ドイツ代表での戦績は69勝18分18敗。代表通算出場記録は後に[[ローター・マテウス]]によって塗り替えられるまで、ドイツ歴代最多記録だった。
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1990-1127-023, Leipzig, Bambi-Verleihung, Franz Beckenbauer (cropped).jpg|thumb|upright=0.9|西ドイツ代表監督時代のベッケンバウアー]]
[[1984年]][[7月14日]]、西ドイツ代表監督に就任。同年6月に行われた[[UEFA欧州選手権1984]]ではグループリーグ敗退した責任を取り、監督の[[ユップ・デアヴァル]]が辞任した事を受けてのものだった。ベッケンバウアー自身は監督のライセンスを取得していないためチームシェフという肩書きで代表チームを指揮する事となり<ref name="皇帝156">[[#ベッケンバウアー
同年9月12日、[[デュッセルドルフ]]で行われた[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]との親善試合が監督として初采配となったが、この試合を1-2で落す。翌1985年にかけて行われた[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]予選では苦戦を続けながらも、かろうじて本大会出場を果たした。
[[1986年]]、ワールドカップ・メキシコ大会前の下馬評は低く、エースの[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]は負傷を抱え、メディアでは代表合宿での選手間の対立が盛んに報じられた。かつての同僚である[[パウル・ブライトナー]]からは「ベッケンバウアーは茨の道を進もうとしている」と辛らつな評価をされていた<ref>[[#ベッケンバウアー
メキシコ大会後はそれまで代表を支えていたルンメニゲらが退き、世代交代が進んだ。中盤のローター・マテウス、左ウイングバックの[[アンドレアス・ブレーメ]]らの中堅を軸に[[ユルゲン・クリンスマン]]、[[トーマス・ヘスラー]]、[[ユルゲン・コーラー]]らが新たに加わった代表チームを率いて地元開催となった[[1988年]]の[[UEFA欧州選手権1988]]ではベスト4。
[[1990年]]6月の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]では前回大会の決勝で敗れた[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を退け3度目の優勝に導き、選手と監督してワールドカップ制覇を経験することになった。なお選手と監督双方でワールドカップ制覇を経験したのはブラジルの[[マリオ・ザガロ]]に次いで2人目となった。
同年8月、[[フランス]]の[[オリンピック・マルセイユ]]のスポーツディレクターに就任した<ref name="ストライカー">ストライカー編集部「ベッケンバウアー(前西ドイツ代表監督)マルセイユの監督に就任!」『学研ストライカー』1990年12月号
マルセイユの監督就任に関して、当初からメディアでは「個人の自由を尊重し主張するフランスに規律と厳格さを求めるドイツ式のやり方はあわない」「西ドイツを優勝に導いた人物には危険な賭けである」と評されていた<ref name="ストライカー"/>。またクラブの周囲では八百長疑惑にまつわる噂が広まっており、後に自著の中で「よく考えもせずに、いつのまにかチームに加わっていた」<ref>[[#ベッケンバウアー
=== その後 ===
1991年11月に古巣のバイエルン・ミュンヘンの副会長に就任。[[1994年]]には同クラブの会長に就任。一方で[[1993年]][[12月28日]]から翌1994年[[6月30日]]まで[[エーリッヒ・リベック]]の後任としてバイエルンの代理監督を務め、1993-94シーズンのブンデスリーガ優勝。[[1996年]][[4月29日]]から[[6月30日]]まで[[オットー・レーハーゲル]]の後任としてバイエルンの代理監督を務め[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝に導いた。また2002年からは同クラブの監査委員会役員長も務め
[[1998年]]、ドイツサッカー連盟副会長に就任すると、地元ドイツへのワールドカップ招致に成功。[[2000年]]に[[2006 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・ドイツ大会]]組織委員会委員長に就任すると、[[2006年]]の本大会開催を成功に収めた。
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[[2005年]]3月、国際サッカー連盟(FIFA)会長選挙ならびに欧州サッカー連盟(UEFA)会長選挙に出馬する噂が報じられた。FIFA会長選挙については現職の[[ジョセフ・ブラッター]]が適任であるとして早々に噂を否定したが、UEFA会長選挙については現職の[[レナート・ヨハンソン]]が再選を狙わないことを条件に関心があることを示唆した<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/1039096/ ベッケンバウアー、UEFA会長に立候補の可能性も]</ref>。ベッケンバウアーは最終的に立候補を辞退した。
[[2009年]]11月27日、バイエルン・ミュンヘンの会長職を退任し、名誉会長に就任した<ref name="nikkansports20091129">{{cite web|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20091129-570673.html|title=バイエルンのベッケンバウアー会長が退任|publisher=nikkansports.com|date=2009年11月29日|accessdate=2012年8月25日}}</ref>。後任には同クラブのスポーツ・ディレクターを務めていた[[ウリ・ヘーネス]]が就任した<ref name="nikkansports20091129"/>。また、同クラブの代表取締役を務めるカール=ハインツ・ルンメニゲから同クラブの名誉主将に任命することが発表された
[[2010年]]3月、「これからは家族と一緒の時間を増やしたい」との理由からFIFA理事を退任した<ref name="WSD20110707">「サッカー蹴球秘紳士録 File19 フランツ・ベッケンバウアー」『[[ワールドサッカーダイジェスト]]』2011年7月7日号、93頁</ref>。
== 人物 ==
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ベッケンバウアーという選手を[[リベロ (サッカー)|リベロ・システム]]抜きに語ることは出来ない。いわば「攻撃に参加する[[ディフェンダー (サッカー)#スウィーパー|スイーパー]]」であるこのポジションは、「[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]は守備の専門」という従来の概念を覆すことになった。[[イタリア]]の[[カテナチオ]]におけるスイーパーの役割がDFラインから一列下がり相手の攻撃の芽を摘み取る役割に徹していたのに対し、リベロ・システムは、そのDFライン後方の深い位置から効果的なパスを繰り出すなど攻撃の起点となり、また機を見て前線に攻め上がり得点機に絡んだ。
DFの攻撃参加自体は既に1960年代頃からイタリアの[[ジャチント・ファッケッティ]]によりなされていた。厳密にはファケッティのポジションは中央ではなくサイドバックだったが、ベッケンバウアーは中央に位置するスイーパーにも出来ないはずがないと、ファケッティの攻撃的なスタイルに触発された結果が攻撃的なスイーパー=リベロの誕生へと繋がった<ref>[[#グランヴィル
ベッケンバウアーは少年時代にセンターフォワードを務めていたが、所属するバイエルン・ミュンヘンの下部組織では戦術で雁字搦めにすることはなく、伸び伸びとプレーをさせていた。ある試合でストッパーの役割を任せられたベッケンバウアーは、守備だけには飽き足らず力を持て余すと、気をみてゴール前に攻めあがって得点を決めてしまうこともあった<ref name="SD1982">[[#鈴木
=== 皇帝 ===
「皇帝」の愛称の由来については、「親善試合でオーストリアを訪れた際に、カメラマンの依頼によりオーストリア皇帝フランツ1世の銅像と並んで記念撮影を撮った。これがきっかけとなり「フランツ皇帝」「皇帝」と呼ばれるようになった<ref name="WELT ONLINE"/>」という説がある。その他には「[[1969年]][[6月14日]]に行われたDFBポカール決勝の[[シャルケ04]]戦の際に、相手のエースである[[アルフレート・リプダ]]にファウルを犯した。このためシャルケのサポーターから激しいブーイングを浴びせられが、試合が中断した数十秒の間、ベッケンバウアーはブーイングをものともせず悠然とリフティングを続けたという。その時の姿が記者の印象に残り、対戦相手のエースだったリプダが「ヴェストファーレンの王」と呼ばれていたことにちなみ「バイエルンの皇帝」と名づけた<ref name="WELT ONLINE"/>」という説がある。
=== 私生活 ===
ベッケンバウアーは3度の結婚歴があり5人の子供がいる。ギムナジウムを卒業後、保険会社に就職をしたベッケンバウアーは17歳の時に当時交際していた保険会社の同僚の女性との間に子供が生まれた<ref>[[#ベッケンバウアー
1966年、最初の妻ブリギッテと結婚しミヒャエルと[[シュテファン・ベッケンバウアー|シュテファン]]という2人の息子が生まれた。
息子のシュテファンは元サッカー選手で1990年代まで現役を続けていたが大成することはなかった。引退後は指導者に転じ、バイエルン・ミュンヘンの下部組織のコーチを務めている。
[[1977年]]1月、収入の一部を[[スイス]]の銀行に預金していた事が所得隠しであったとして問題となり、税務署の家宅捜査を受ける事になった。この問題は西ドイツの[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]でも取り上げられ、またこの騒動に単を発しマスコミからは連日のようにゴシップ報道、パッシング報道が行われるようになる<ref>[[#ベッケンバウアー
[[1982年]]に[[オーストリア]]・[[チロル州]]に移住。[[1990年]]4月にドイツサッカー連盟に勤務していた女性と2度目の結婚をし1990年代前半にはオーストリア国籍を取得。2人目の妻とは2004年に離婚した。
[[2006年]][[6月23日]]にバイエルン・ミュンヘンで秘書をしていた21歳年下のハイディ・ブルメスターと結婚。ドイツW杯期間中に結婚式を挙げたということで話題になった。ベッケンバウアーにとっては、これが3度目の結婚となる。ハイディとの間には既に2児をもうけていたが、W杯期間中であるにもかかわらず大急ぎで結婚式を挙げた。結婚式当時ハイディは40歳、ベッケンバウアーは61歳であった<ref>
=== 評価 ===
[[ペレ]]、[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]、[[ヨハン・クライフ|クライフ]]などと共に20世紀を代表するスター選手の一人である。[[1999年]]、[[国際サッカー歴史統計連盟]]が選出した20世紀世界最優秀選手では3位<ref name="rsssf">{{cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html|title=IFFHS' Century Elections |publisher=Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation |accessdate=2012年8月25日}}</ref>、同年に[[イギリス]]の[[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]誌が選出した20世紀で最も偉大な選手トップ100では4位に選ばれている<ref>{{cite web|url=http://www.englandfootballonline.com/TeamHons/HonsWldSocPlyrsCent.html|title=World Soccer 100 Players of the Century |publisher=England Football Online |accessdate=2012年8月25日}}</ref>。
クラマーはベッケンバウアーが選手を引退する際に「彼は他のスポーツをプレーしたとしても頂点に立つことが出来る人物だ。テニス選手になっていたら、[[ウィンブルドン選手権]]を制していただろう」と発言している<ref name="輝く埼玉サッカー">{{Cite book|和書|author=埼玉県サッカー協会 |year=1983|title=輝く埼玉サッカー75年の歩み|publisher=輝く埼玉サッカー75年の歩み編集委員会 |page=1339}}</ref>。
礼儀正しい人柄<ref name="WSD20110707"/>や選手や監督としての実績もあり、ドイツ国内では神格化された存在となっている<ref name="WSD20110707"/>。そのため、女性問題などが問題となっても、大きく評価を落すことはないという<ref name="WSD20110707"/>。
== 影響 ==
ベッケンバウアーの引退後は彼に代わるような選手が登場することがなかったが<ref name="サカマガ199006">「スーパー・リベロ、ベッケンバウアーに迫れるのか?遅咲きの名花バレージ」『[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]』1990年6月号、110-111頁</ref>、[[1980年代]]後半に入ると[[イタリア]]の[[フランコ・バレージ]]が体格に頼らない的確なポジショニングを生かした守備と、積極的な攻撃参加を得意としたことから「ベッケンバウアーを継承し得る選手」と評された<ref name="サカマガ199006"/>。同時期には[[ルーマニア]]の[[ミオドラグ・ベロデディチ]]が「東欧のベッケンバウアー」と呼ばれた<ref>{{Cite book|和書|author=[[宇都宮徹壱]] |year=2002|title=ディナモ・フットボール--国家権力とロシア・東欧のフットボール|publisher=[[みすず書房]] |isbn=978-4622033899 |page=217-218}}</ref>。
▲*ベッケンバウアーと同じく[[バイエルン・ミュンヘン]]に在籍(2002-2006)した[[ミヒャエル・バラック]]は、ベッケンバウアー後継者との評価も高く、彼のニックネームに準え、「kleiner Kaiser」(小皇帝)と呼ばれることがある。
== 語録 ==
{{Quotation|強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ<ref group="注">1974年 西ドイツ大会優勝時</ref><ref name="岩崎">{{Cite book|和書|author=岩崎龍一
{{Quotation|(バロンドールを獲得するために)私はこれ以上何をすればいいんだ<ref group="注">1974年に西ドイツ代表とバイエルン・ミュンヘンのキャプテンとしてワールドカップ優勝、[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝という偉業を成し遂げたにもかかわらず、同年代のライバルである[[ヨハン・クライフ]]が[[バロンドール]]に選出された時に漏らしたコメント。</ref><ref name="岩崎"/>}}
{{Quotation|プレッシャーに耐えられない者は何も勝ち取ることはできない
<ref>{{cite web|url=http://wm2006.deutschland.de/JP/Content/WM-Aktuell/Interviews/2006/golz-fragt-franz-beckenbauer.html|title=ドイツ 2006 - インタビュー - ゴルツが質問します ... フランツ・ベッケンバウアー|
== 獲得タイトル ==
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*[[年間最優秀サッカー選手賞 (ドイツ)|ドイツ年間最優秀選手賞]]: 4回(1966年、1968年、1974年、1976年)
*[[ワールドサッカー (雑誌)|世界最優秀監督]](ワールドサッカー誌) (1990年)
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀欧州最優秀選手]] 2位 (国際サッカー歴史統計連盟) - 1999年<ref name="C"/>▼
*[[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 4位(ワールドサッカー誌)
▲*
*[[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|国際サッカー歴史統計連盟20世紀欧州最優秀選手]] 2位 (1999年)<ref name="rsssf"/>
== 個人成績 ==
=== クラブ ===
1983シーズン終了時の成績(レギオナルリーガ、ブンデスリーガ<ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/spieler/beckenbauerfranz/1964/ | title= Franz Beckenbauer - Spieler bei FC Bayern Munchen | publisher=[[fussballdaten.de]] |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref>、DFBポカール<ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1965/ | title= DFB-Pokal 1964/1965 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1966/ | title= DFB-Pokal 1965/1966 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1967/ | title= DFB-Pokal 1966/1967 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1968/ | title= DFB-Pokal 1967/1968 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1969/ | title= DFB-Pokal 1968/1969 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1970/ | title= DFB-Pokal 1969/1970 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1971/ | title= DFB-Pokal 1970/1971 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1972/ | title= DFB-Pokal 1971/1972 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1973/ | title= DFB-Pokal 1972/1973 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1974/ | title= DFB-Pokal 1973/1974 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1975/ | title= DFB-Pokal 1974/1975 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1976/ | title= DFB-Pokal 1975/1976 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1977/ | title= DFB-Pokal 1976/1977 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1981/ | title= DFB-Pokal 1980/1981 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/dfb/1982/ | title= DFB-Pokal 1981/1982 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref>、UEFAチャンピオンズカップ<ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/championsleague/1970/vorrunde/ | title= Europapokal der Landesmeister 1969/1970 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/championsleague/1973/vorrunde/ | title= Europapokal der Landesmeister 1972/1973 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/championsleague/1974/vorrunde/ | title= Europapokal der Landesmeister 1973/1974 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/championsleague/1975/vorrunde/ | title= Europapokal der Landesmeister 1974/1975 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/championsleague/1976/vorrunde/ | title= Europapokal der Landesmeister 1975/1976 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/championsleague/1977/vorrunde/ | title= Europapokal der Landesmeister 1976/1977 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref>、UEFAカップウィナーズカップ<ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/pokalsieger/1967/ | title= Europapokal der Pokalsieger 1966/1967 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/pokalsieger/1968/ | title= Europapokal der Pokalsieger 1967/1968 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/pokalsieger/1972/ | title= Europapokal der Pokalsieger 1971/1972 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref>、UEFAカップ<ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/europaleague/1971/ | title= Messepokal 1970/1971 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref><ref>{{de icon}} {{cite news | url=http://www.fussballdaten.de/europaleague/1982/ | title= Messepokal 1981/1982 | publisher=fussballdaten.de |author= |date=|accessdate=2012年8月25日}}</ref>、その他)
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
|-
192 ⟶ 205行目:
|1969-70||34||6||3||0||2||0||colspan="2"|-||39||6
|-
|1970-71||33||3||5||1||
|-
|1971-72||34||6||3||1||7||0||colspan="2"|-||44||7
204 ⟶ 217行目:
|1975-76||34||5||7||2||9||0||2||0||52||7
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|1976-77||33||3||4||0||
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|1977||rowspan="4"|[[ニューヨーク・コスモス|ニューヨーク]]||rowspan="4"|[[北米サッカーリーグ|NASL]]||21||5||colspan="2"|-||colspan="2"|-||colspan="2"|-||21||5
262 ⟶ 275行目:
== 著書 ==
*『わたしにライバルはいない - ベッケンバウアー自伝』(原題:''Einer wie ich''、[[奈良原武士|鈴木武士]]翻訳<ref group="注">全訳ではなく抄訳となっている。</ref>、[[講談社]]、1976年)
*『ベッケンバウアー自伝 - 「皇帝」と呼ばれた男』(原題:''Ich - Wie es wirklich war''、沼尻正之翻訳、[[中央公論新社]]、2006年)ISBN 4120037320
* ''Tour de Franz''(Goldmann Wilhelm GmbH、2000年)ISBN 3-442-15016-7
274 ⟶ 287行目:
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル著、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳 |year=1998|title=決定版ワールドカップ全史 |publisher=[[草思社]] |isbn=978-4794208187 |ref=グランヴィル 1998}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木武士「スーパースター列伝スペシャル フランツ・ベッケンバウアー Part.
* {{Cite book|和書|author=鈴木武士「スーパースター列伝スペシャル フランツ・ベッケンバウアー Part.
* {{Cite book|和書|author=フランツ・ベッケンバウアー著、鈴木武士訳 |year=1976|title=わたしにライバルはいない - ベッケンバウアー自伝 |publisher=[[講談社]] |isbn= |ref=ベッケンバウアー 1976}}{{ASIN|B000J9LPGU}}
▲* 鈴木武士「スーパースター列伝スペシャル フランツ・ベッケンバウアー Part.2」『サッカーダイジェスト』1983年1月号
* {{Cite book|和書|author=フランツ・ベッケンバウアー著、沼尻正之訳 |year=2006|title=ベッケンバウアー自伝 - 「皇帝」と呼ばれた男 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4120037320 |ref=ベッケンバウアー 2006}}
* {{Cite book|和書|author=ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Franz Beckenbauer}}
* [http://www.beckenbauer.de Franz Beckenbauer Foundation ] {{de icon}}
294 ⟶ 307行目:
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<span/>
{{サッカードイツ代表歴代監督}}▼
{{1966 FIFAワールドカップ西ドイツ代表}}
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▲{{サッカードイツ代表歴代監督}}
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{{バイエルン・ミュンヘン歴代監督}}
▲}}
{{DEFAULTSORT:へつけんはうあ ふらんつ}}
[[Category:西ドイツの人物]]▼
[[Category:ドイツのサッカー選手]]
[[Category:サッカードイツ代表選手]]
[[Category:バイエルン・ミュンヘンの選手]]
[[Category:ニューヨーク・コスモスの選手]]
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[[Category:バロンドール受賞者]]
[[Category:バイエルン・ミュンヘン]]
▲[[Category:西ドイツの人物]]
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:1945年生]]
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[[bg:Франц Бекенбауер]]
[[ca:Franz Anton Beckenbauer]]
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[[cs:Franz Beckenbauer]]
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[[ko:프란츠 베켄바워]]
[[la:Franciscus Beckenbauer]]
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[[lt:Franz Beckenbauer]]
[[lv:Francs Bekenbauers]]
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