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Tamrono157 (会話 | 投稿記録) 加茂延長 |
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{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|蒲原鉄道線|}}
{{BS-daten| LNGE=21.9| SPURWEITE=1067| STROMG=600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]| NEIGUNG=25| RADIUS=120| V-MAX=55| BILDPFAD_KARTE=| PIXEL_KARTE=| IMAGE=Kambara
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{{BS2|BHF|O1=HUB84|exKBHFe|O2=HUB82|21.9|[[五泉駅]]||}}
|}
|}
'''蒲原鉄道線'''(かんばらてつどうせん)は、かつて[[蒲原鉄道]]が運営していた、[[新潟県]][[加茂市]]の[[加茂駅 (新潟県)|加茂駅]]から[[中蒲原郡]][[村松町]](現・[[五泉市]])を経由して五泉市の[[五泉駅]]まで
[[1985年]](昭和60年)4月に加茂 - [[村松駅 (新潟県)|村松]]間が廃止となり、村松 - 五泉間を結ぶ延長4.2kmの短距離路線<ref group="注釈">[[1998年]](平成10年)当時において、単独の鉄道路線における延長4.2kmは、[[紀州鉄道線]]の延長2.7kmに次ぐ短距離路線であった。</ref>として知られていたが、[[1999年]](平成11年)10月に全線が[[廃線|廃止]]された。
== 路線データ ==
(加茂 - 村松間廃止直前のデータを示す)
*路線距離([[営業キロ]]):21.9km
*[[軌間]]
*駅数(起終点駅を含む):15駅
*複線区間:なし(全線[[単線]])
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== 歴史 ==
=== 計画立案から開業まで ===
[[村松藩]]3万石の藩庁・[[村松城]]の城下町で、また[[大日本帝国陸軍]][[歩兵第30連隊]]の駐屯地を擁する軍都でもあった中蒲原郡村松町は、蒲原地方における政治・物流の中心地として古くより繁栄した地域であった<ref name="terada1990_1">『日本のローカル私鉄』 (1990) pp.100 - 101</ref>。しかし、村松町は近隣に敷設された[[北越鉄道]](現・[[信越本線]]の一部)および岩越鉄道(現・[[磐越西線]])のルート選定に際して、いずれの敷設ルートからも外れたことから、同町内にも鉄道路線を敷設したいとする地元有志の要請が高まり<ref name="saitoh1998_1" />、また陸軍側からも物資輸送に供する目的で鉄道敷設を要望された<ref name="seko1962_1">「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) pp.31 - 32</ref>。それらを受ける形で、中蒲原郡[[川内村 (新潟県)|川内村]]において白滝鉱山を保有する日本電気製鉄の社長職にあった元[[鉄道省]]運輸局長の朝比奈林之助を中心とした発起人40名で<ref name="saitoh1998_1" /><ref name="terada1990_1" />、磐越西線五泉駅より村松町を経由して川内村に至る路線を第一期開業区間、ならびに村松町より分岐して信越本線加茂に至る路線<ref group="注釈">従来は[[新津駅]]を経由しての大回りを強いられた五泉 - 加茂間を短絡・直結する路線として計画されたルートであった。</ref>を第二期開業区間として、[[1919年]]([[大正]]8年)7月に第一期開業区間について敷設免許を申請し<ref name="saitoh1998_1" />、翌[[1920年]](大正9年)1月29日付で免許された<ref name="saitoh1998_1" />。
しかし、敷設免許が下りた同時期には、[[第一次世界大戦]]終戦に伴う[[戦後恐慌]]によって鉄価格が暴落したことから<ref name="seko1962_1" />、[[鉄鉱石]]を産出する白滝鉱山も事業縮小を余儀なくされた<ref name="saitoh1998_1" />。その結果、第一期開業予定区間のうち、白滝鉱山から産出される鉄鉱石輸送を主眼として計画された村松町 - 川内村間については建設計画を白紙化し<ref name="seko1962_1" />、五泉 - 村松間を第一期開業区間とするよう計画を変更した<ref name="saitoh1998_1" />。その後、村松駅の設置箇所を巡って発起人間で対立が生じ、会社設立に伴う株式募集に際して証拠金払込を拒否する発起人も現れる事態を招いたが<ref name="saitoh1998_1" />、最終的に証拠金払込を拒否した発起人を除名することで事態の収拾を図り、[[1922年]](大正11年)9月22日に蒲原鉄道株式会社が設立された<ref name="saitoh1998_1" />。
翌[[1923年]](大正12年)3月18日より建設が開始され、同年10月20日に五泉 - 村松間 (4.2km) が開業した<ref name="saitoh1998_1" /><ref group="注釈">「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) においては同区間の開業日を10月10日としている。</ref>。軌間1,067mmの電化路線(直流600V・[[架空電車線方式]])として開業した蒲原鉄道線は、新潟県下における初の電化路線であった<ref name="terada1990_1" />。村松町 - 川内村間の建設はその後断念され、[[1927年]](昭和2年)3月31日に村松 - 加茂間の第二期開業区間の敷設免許を取得<ref name="saitoh1998_1" />、しかし[[昭和金融恐慌]]の時期でもあり資金調達に苦労したが金津村の石油王中野忠太郎の助力により解決できた<ref name=sigaku>「新潟県鉄道のあゆみ」 2005年、63頁</ref><ref group="注釈">蒲原鉄道の社長にもなった中野忠太郎については[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025635/195 『越・佐傑人譜. 昭和14年度版』](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。[[1930年]](昭和5年)7月22日<ref name="seko1962_1" />に村松 - [[東加茂駅|東加茂]]間 (15.2km) が、同年10月20日<ref name="seko1962_1" />には東加茂 - 加茂間 (2.5km) がそれぞれ開通し、五泉 - 加茂間 (21.9km) の全線が開通した。
===
開業当初の[[停車場]]は五泉・村松・[[西村松駅|西村松]]・[[大蒲原駅|大蒲原]]・[[七谷駅|七谷]]・東加茂の6箇所で、西村松を除く5駅はいずれも列車交換設備を有した<ref name="seko1962_1" />。また、加茂駅は[[鉄道省]]の管理駅(停車場)であった<ref name="seko1962_1" />。その他停留所が[[今泉駅 (新潟県)|今泉]]・[[寺田駅 (新潟県)|寺田]]・[[高松駅 (新潟県)|高松]]・[[土倉駅|土倉]]・[[冬鳥越駅|冬鳥越]]・[[狭口駅|狭口]]・[[駒岡駅|駒岡]]・[[陣ヶ峰駅|陣ヶ峰]]の8箇所開設され<ref name="seko1962_1" />、駅(停車場・停留所)の改廃は路線廃止時以外においては行われなかった<ref name="saitoh1998_1" /><ref name="terada1990_1" />。貨物列車の省線への受け渡しは五泉駅を介して行われ<ref name="seko1962_1" />、蒲原鉄道線内を発着する貨物・小荷物類は、蒲原鉄道線(会社線)を表す「社」の文字を付した「(社)五泉」発着扱いで運行された<ref name="seko1962_1" />。
第一期開業区間である五泉 - 村松間は通勤・通学需要が高く、輸送密度も高水準で推移したものの<ref name="seko1962_1" />、第二期開業区間である村松 - 加茂間については沿線人口が希薄であったことから開業当初より苦しい運営を強いられた<ref name="seko1962_1" />。また、路線敷設目的の一つであった五泉 - 加茂間の連絡用途については期待されたほどの需要がなかったことから<ref name="terada1990_1" />、運行系統は村松を境に事実上分断された<ref name="saitoh1998_1" />。五泉 - 加茂間直通列車の設定はあったものの、村松において時間調整のため30分以上の停車を強いられるなど<ref name="seko1962_1" />、直通列車として機能しているとは言い難い状態であった<ref name="seko1962_1" />。また貨物輸送については、主な出荷物が[[米|米穀]]であったことから、米穀の出荷時期である秋季を除いて需要は低迷した<ref name="seko1962_1" />。年間輸送量は最盛期においても10万[[トン|t]]程度に留まり<ref name="terada1990_2">『日本のローカル私鉄』 (1990) p.102</ref>、[[1957年]](昭和32年)以降定期貨物列車の運用は消滅した<ref name="terada1990_2" />。
[[1961年]](昭和36年)8月<ref name="seko1962_2">「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 (1962) p.38</ref>当時における[[ダイヤグラム|運行ダイヤ]]は、五泉 - 村松間28往復、村松 - 加茂間14往復で、加えて東加茂発村松行の不定期列車が1本設定されていた<ref name="seko1962_1" />。所要時分は五泉 - 村松間が8分(表定速度31.5km/h)、村松 - 加茂間17.7kmが42分30秒(表定速度25km/h)であった<ref name="seko1962_1" />。その他、不定期の貨物列車が設定されていた。
また蒲原鉄道線は[[自然災害]]とも無縁ではなく、[[1963年]](昭和38年)1月の「[[昭和38年1月豪雪|三八豪雪]]」においては全線が約1ヶ月間にわたって不通となり<ref name="saitoh1998_1" />、また[[1967年]](昭和42年)8月の「[[羽越豪雨]]」<ref name="terada1990_1" />と[[1969年]](昭和44年)8月の「加茂市水害<ref name="kamo-suigai">[http://www.jma-net.go.jp/niigata/menu/bousai/heavyrain.shtml 新潟県の大雨災害] - [[新潟地方気象台]]公式 2012-04-04閲覧</ref>」<ref name="saitoh1998_1" />の二度にわたって[[水害]]に見舞われ、道床流出など全線で甚大な被害を蒙った<ref name="saitoh1998_1" />ものの、その都度復旧工事が行われた。
=== 路線縮小 ===
1960年代後半以降の日本国内において、[[自家用自動車|自家用車]]の普及に伴う車社会化([[モータリゼーション]])の進展から利用客が急激に減少し、経営が困難となる地方私鉄路線が数多く現れたが、蒲原鉄道線もまたその例外ではなく、1967年(昭和42年)度をピークに利用客数が減少に転じた<ref name="saitoh1998_1" />。特に元より沿線人口が希薄であった村松 - 加茂間のいわゆる「加茂線<ref name="saitoh1998_1" />」区間においてそれが顕著に現れ<ref name="saitoh1998_1" />、経営的に負担となりつつあったことから、蒲原鉄道線においては一部停車場における交換設備の撤去や、駅員の常駐廃止・[[無人駅]]化など、人員ならびにコスト削減を実施した<ref name="saitoh1998_1" />。さらに[[1978年]](昭和53年)10月より、朝夕[[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]に運行される列車を除く全列車について、新潟県下の鉄道路線においては初となる[[ワンマン運転]]方式を導入するなど経営合理化に努めた<ref name="terada1990_1" />。
しかし、利用客の減少は止まらず、[[1981年]](昭和56年)度における利用者数はピーク時の約3割にまで激減した<ref name="saitoh1998_1" /><ref group="注釈">[[1965年]](昭和40年)度における蒲原鉄道線の運輸成績は[[輸送密度]]1,993人/日・[[営業係数]]96であったが、「加茂線」区間廃止前年の1984年(昭和59年)度の段階においては輸送密度564人/日・営業係数136と大幅に悪化していた。</ref>。前述「加茂線」区間については、路線延長は蒲原鉄道線全体の約8割を占めるにも関わらず、利用者数は全体の約3割程度であったことから<ref name="saitoh1998_1" />、同区間については鉄道線としての存続を断念し、[[路線バス|バス]]への転換が決定された<ref name="saitoh1998_1" />。同区間と併行する[[国道290号]]の拡幅改良工事完了を機に、[[1985年]](昭和60年)4月1日付で村松 - 加茂間 (17.7km) が廃止され<ref name="terada1990_1" />、蒲原鉄道線は第一期開業区間に相当する五泉 - 村松間 (4.2km) のみに縮小された。
なお、末期においては五泉 - 村松間に1往復の不定期運用が設定されているに過ぎなかった貨物輸送<ref name="saitoh1998_2">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) p.166</ref>については、[[1984年]](昭和59年)2月1日に実施された[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[1984年2月1日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]に際して五泉駅の貨物取り扱いが廃止されたことに伴って、同日付で廃止となった<ref name="saitoh1998_2" />。
=== 全線廃止 ===
路線縮小後の蒲原鉄道線は、五泉 - 村松間に1日26往復(平日)の列車が設定され<ref name="saitoh1998_3">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) pp.163 - 164</ref>、朝の通勤・通学時間帯に1往復運行される2両編成の[[車掌]]乗務列車を除いて、全列車とも[[列車#日本における列車|単行列車]]によるワンマン運転が行われた<ref name="saitoh1998_3" />。
閑散区間であった村松 - 加茂間を廃止したことで、一時的に輸送密度・営業係数とも改善した蒲原鉄道線であったが<ref name="terada1990_1" />、利用客の自家用車ならびに[[原動機付自転車|ミニバイク]]へのシフトは止まらず<ref name="saitoh1998_4">「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 (1998) p.167</ref>、年間輸送人員は[[1990年]](平成元年)度・[[1991年]](平成2年)度の2年間のみわずかに微増傾向を示したものの<ref name="saitoh1998_3" />、以降年々減少の一途を辿った<ref name="saitoh1998_3" />。[[1996年]](平成7年)度の輸送密度は860人/日で<ref name="saitoh1998_3" />、路線縮小初年度の1985年(昭和60年)度の1,554人/日<ref name="terada1990_1" />と比較して4割以上減少した。加えて同時期には軌道・施設や運行車両の老朽化が深刻な状況となった<ref name="saitoh1998_4" />。特に全車とも主要機器の経年が70年を超過した運行車両については物理的な寿命を迎えつつあり<ref name="saitoh1998_4" />、各種施設の改修ならびに運行車両の早急な代替を実施する必要に迫られた<ref name="terada2000_1">『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 (2000) pp.26 - 27</ref>。
以上の状況を鑑み、蒲原鉄道は蒲原鉄道線の存続断念ならびにバス転換を決定し<ref name="terada2000_1" />、1999年(平成11年)3月31日限りでの路線廃止を沿線自治体である五泉市側に通告した<ref name="terada2000_1" />。しかし五泉市は廃止に反対の立場を表明し、合意に至らなかったことから存廃は一旦宙に浮いた状態となった<ref name="terada2000_1" />。その後五泉市が廃止を了承、1999年(平成11年)6月に代行バスの概要が決定し、同年9月には[[運輸省]](現・[[国土交通省]])の運輸審議会において蒲原鉄道線の廃止が許可され、同年10月4日付で全線廃止となった<ref name="terada2000_1" /><ref name="miyawaki9_1">『鉄道廃線跡を歩く IX』 (2003) p.78</ref>。
なお、区間縮小ならびに全線廃止に際しての代替交通機関については「[[蒲原鉄道#路線]]」を参照されたい。
=== 年表 ===
* 1920年(大正9年)[[1月29日]] 朝比奈林之助を中心とした発起人40名により申請された、五泉駅 - 村松町 - 川内村間の敷設免許
* 1922年(大正11年)[[9月22日]] '''蒲原鉄道'''設立
* 1923年(大正12年)[[10月20日]] 村松 - 五泉間 (4.2km) 開業
* 1927年(昭和2年)[[3月31日]] 村松 - 加茂間敷設免許
* 1930年(昭和5年)[[7月22日]] 東加茂 - 村松間 (15.2km) 延伸開業
* 1930年(昭和5年)10月20日 加茂 - 東加茂間 (2.5km) 延伸開業により全線開通
* 1978年(昭和53年)[[10月1日]] ワンマン運転開始
* 1984年(昭和59年)[[2月1日]] 貨物営業廃止
* 1985年(昭和60年)[[4月1日]] 加茂 - 村松間 (17.7km) 廃止
* 1999年(平成11年)[[10月4日]] 村松 - 五泉間 (4.2km) 廃止により全線廃止
== 駅一覧 ==
* 全駅[[新潟県]]内に存在した。所在地の市町村名
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:12em; border-bottom:3px solid #600;"|駅名(読み)
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #600;"|駅間営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #600;"|累計営業キロ
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<!--|∧-->
|}
蒲原鉄道線においては、開業当時に村松を起点に設定した経緯から<ref name="saitoh1998_1" />、五泉から村松・加茂方面へ向かう列車を「上り」、加茂から村松・五泉方面へ向かう列車を「下り」とした。この設定は加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間に縮小されてからも踏襲され、行き止り駅の村松を起点とし、磐越西線に接続する五泉を終点とした点が特徴であった<ref name="saitoh1998_1" />。
==
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center;"
|- style="background: #ddd;"
|-
! 年度
! 1950年
! 1960年
! 1965年
! 1970年
! 1975年
! 1980年
! 1984年
! 1985年
! 1990年
! 1995年
! 1999年
|-
! 旅客輸送密度(人/日)
|align="right"| 1,430
|align="right"| 1,511
|align="right"| 1,993
|align="right"| 1,685
|align="right"| 1,282
|align="right"| 828
|align="right"| 564
|align="right"| 1,554
|align="right"| 1,249
|align="right"| 1,157
|align="right"| 926
|}
*地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報、民鉄統計年報、鉄道統計年報各年度版
== 車両 ==
[[ファイル:Gosennkounai.jpg|thumb|360px|right|五泉駅構内の入換作業中(1980年)]]
{{Main|蒲原鉄道の車両形式|蒲原鉄道モハ31形電車|蒲原鉄道ED1形電気機関車}}
最盛期は[[電動車]]10両、[[制御車]]・[[付随車]]3両、[[電気機関車]]1両の計14両(貨車を除く)が在籍したが、その後老朽車から淘汰が開始され<ref name="terada1990_1" />、部分廃止に際してはモハ11・12・モハ51・モハ81・モハ91の5両が一挙に廃車となった<ref name="saitoh1998_3" />。残存したモハ31・モハ41・モハ61・モハ71・クハ10・ED1の計6両は全線廃止まで在籍した<ref name="terada2000_2">『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 (2000) pp.28 - 29</ref>。
* '''デ1形''' (1・2) - 開業に際して新製された木造四軸ボギー電動車。1952年(昭和27年)にデ1が、1954年(昭和29年)にモハ1(旧デ2)が他車への更新名義で事実上廃車され、全廃<ref name="seko1962_2" />。
* '''デ11形''' (11 - 13) - 全線開通に際して増備された半鋼製電動車。後年'''モハ11形'''と改称、さらにモハ13は後述モハ41新製に際して主要機器を供出し、モハ51形51と改称・改番。モハ11・12とも部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''デ101形''' (101) - [[名古屋鉄道]]より譲り受けた元[[各務原鉄道KB1形電車|モ450形]]455。後年'''モハ21形'''と改称・改番。1979年(昭和54年)廃車<ref name="terada1990_1" />。
* '''モハ31形''' (31) - デ1形1の改造名義で新製された半鋼製電動車。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ41形''' (41) - モハ11形13の改造名義で新製された半鋼製電動車。竣功当初はモハ31と同一車体であったが、後年車体延長工事を施工。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ51形''' (51) - モハ11形13の車体とモハ1形1(旧デ1形2)の主要機器を組み合わせ、モハ1の改造名義で竣功。部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''モハ61形''' (61) - [[西武鉄道]]より譲り受けた元[[武蔵野鉄道クハ5855形電車|クハ1231形]]1232。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ71形''' (71) - 西武鉄道より譲り受けた元[[武蔵野鉄道デハ320形電車|クハ1211形]]1211。全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''モハ81形''' (81) - [[越後交通]]より譲り受けた元モハ3000形3002。部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''モハ91形''' (91) - 山形交通(現・[[ヤマコー]])より譲り受けた元モハ106形106。部分廃止時に廃車<ref name="saitoh1998_3" />。
* '''ハニ3形''' (3) - [[1927年]](昭和2年)に新製された合造木造二軸単車。後年荷物室を撤去し'''ハフ1形'''1と改称・改番、その後'''サハ1'''、次いで'''ハ1'''と改番された。1978年(昭和53年)廃車<ref name="terada1990_1" />。
* '''クハ1形''' (1) - 国鉄より払い下げを受けた半鋼製二軸単車ガソリンカー元キハ4530形4530。旧阿南鉄道(現・[[牟岐線]]の一部)キハ101。後述クハ10の竣功に伴い付随車化、'''ハ2形'''2と改称・改番。1978年(昭和53年)廃車<ref name="terada1990_1" />。
* '''クハ10形''' (10) - 国鉄より払い下げを受けた元[[国鉄キハ04形気動車|キハ41000形]]41120。導入に際して電車の制御車化、全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
* '''EL形''' (1) - 全線開通に際して[[日本車輌製造]]で新製された、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]社製電気機関車を模した凸形電機。後年'''ED1形'''1と改称、全線廃止まで在籍<ref name="terada2000_2" />。
部分廃止区間については、高松 - 村松間の廃線跡が農地改良によって喪われた<ref name="miyawaki2_1">『鉄道廃線跡を歩く II』 (1996) pp.72 - 73</ref>他は、概ね農道に転用もしくは軌条・架線・架線柱を撤去した状態でそのまま存置されている<ref name="miyawaki2_1" />。加茂 - 東加茂間の加茂川橋梁はJR信越本線と共有されていたため、複線の信越本線と併せて三線分の幅員があり、廃止後も蒲原鉄道の架線・レールが撤去された他は枕木などもそのまま残っている。また、JR信越本線加茂 - [[羽生田駅|羽生田]]間には蒲原鉄道線が信越本線を乗り越していた線路橋の橋桁と築堤が残されており、新潟方面に向かって右手の築堤上には陣ヶ峰駅のホーム・階段が残存する<ref name="miyawaki2_1" />。その他、七谷駅は駅舎・ホームとも残存し<ref name="miyawaki2_1" />、土倉・高松両駅はホーム跡が残る<ref name="miyawaki2_1" />ほか、冬鳥越 - 土倉間に存在した土倉隧道が廃線当時そのままの状態で放置されている<ref name="miyawaki2_1" />。
残存区間の廃止後については、村松・今泉・五泉の各駅ともホームなどの撤去が廃止後間もなく実施され<ref name="miyawaki9_2">『鉄道廃線跡を歩く IX』 (2003) pp.78 - 79</ref>、一部区間に路盤跡が残るのみである<ref name="miyawaki9_2" />。
{{multiple image
| align = left
| image1 = Gosen kantetsu 20040905.jpg
| width1 = 220
| caption1 = 五泉駅跡。駅から右手に延びる築堤が廃線跡。画像左側は磐越西線五泉駅。<br />(2004年9月)
| image2 = Muramatsu Bus Terminal.jpg
| width2 = 220
| caption2 = 旧村松駅駅舎。廃線後はバスターミナルとして使用。(2007年10月)
| image3 = Kambara-cMc71-Tc10.jpg
| width3 = 220
| caption3 = 五泉市内にて静態保存されるモハ71・クハ10。木造の雨除けは村松駅のホーム上屋を移築したもの。(2007年5月)
}}
<br style="clear:both"/>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考資料 ==
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]
** 瀬古竜雄 「私鉄車両めぐり第2分冊 蒲原鉄道」 1962年3月(通巻128)号 pp.34 - 38
** 斎藤幹雄 「現有私鉄概説 蒲原鉄道」 1998年4月(通巻652)号 pp.161 - 167
* 寺田裕一 『日本のローカル私鉄』 [[ネコ・パブリッシング]] 1990年7月 ISBN 4873660645
* [[宮脇俊三]] 編著 『鉄道廃線跡を歩く II』 [[日本交通公社 (財団法人)|日本交通公社]] 1996年9月 ISBN 4533025331
* 宮脇俊三 編著 『鉄道廃線跡を歩く IX』 [[JTBパブリッシング]] 2003年9月 ISBN 4533043747
* 寺田裕一 編著 『別冊歴史読本61 ローカル私鉄廃線100線』 [[新人物往来社]] 2000年12月 ISBN 4404027613
*瀬古龍雄「新潟県鉄道のあゆみ」『鉄道史学』No.23 2005年、63頁
== 関連項目 ==
* [[廃線]]
* [[蒲原鉄道の車両形式]]
[[Category:中部地方の鉄道路線 (廃止)]]
[[Category:新潟県の交通|廃かんはらてつとうせん]]
[[Category:蒲原鉄道|
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