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{{Infobox 軍人
|name=大西 瀧治郎
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|serviceyears=1912 - 1945
|rank=[[海軍中将]]
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|battles=[[日中戦争]][[太平洋戦争]]
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'''大西 瀧治郎'''(おおにし たきじろう、[[1891年]][[6月2日]] - [[1945年]][[8月16日]])は[[
== 生涯 ==
=== 海軍入隊 ===
1891年6月2日[[兵庫県]]氷上郡芦田村(現・[[丹波市]][[青垣町]])の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。[[兵庫県立柏原高等学校|旧制柏原中学校]]在学中、[[日本海海戦]]勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた[[広瀬武夫]]中佐を熱心に崇拝した。1909年[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]40期<ref group="注">海兵同期に、[[福留繁]]、[[多田武雄]]、[[宇垣纏]]、[[山口多聞]]ら</ref>に20番の成績で入学し、1912年7月17日150人中20番の成績で卒業した。兵学校では、棒倒しの奮闘で[[山口多聞]]とともに双璧と言われ、剣道は兵学校で最高の1級、柔道も最上位であった<ref>秋永芳郎『海鷲の割腹』光人社13-16頁</ref>。喧嘩瀧兵衛とあだ名されていた<ref>生出寿『特攻長官大西瀧治郎』徳間書房102頁</ref>。海軍兵学校卒業後、海軍[[少尉]]に任官。1912年7月17日「[[宗谷 (防護巡洋艦)|宗谷]]」乗り組み。1913年年5月1日「[[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]]」乗り組み。1914年5月27日「[[河内 (戦艦)|河内]]」乗り組み。1914年12月1日[[海軍砲術学校]]普通科学生。1915年5月26日[[海軍水雷学校]]普通科学生。1915年12月1日「[[若宮 (水上機母艦)|若宮]]」乗り組み。
=== 航空将校 ===
1915年12月[[山口三郎 (海軍軍人)|山口三郎]]ら5名と航空術研究員となり、6期練習将校として飛行操縦術を学ぶ。1916年4月1日[[横須賀海軍航空隊]]付。[[1918年]]11月1日[[横須賀鎮守府]]付、英仏留学。帰国後[[1921年]]8月6日横須賀海軍航空隊付、[[センピル教育団]]の講習の参加者の一人として選抜され受講した。9月14日海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官。1922年11月1日横須賀、[[霞ヶ浦海軍航空隊]]教官。1923年11月1日[[海軍省]][[海軍省#教育局|教育局]]員。
1924年3度目の[[海軍大学校]]受験も不合格<ref group="注">海軍大学校受験は3回までという制限があり最後のチャンスであった</ref>。学科試験をパスし口頭試問に臨んだが、数日前に料亭で飲んだ際に暴れて芸者を殴り暴力事件として新聞になったことから素行不良を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消された。
1925年1月7日霞ヶ浦海軍航空隊教官。1926年2月1日[[佐世保海軍航空隊]]飛行隊長。1927年12月1日[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令部付、[[連合艦隊]][[参謀]]。
1928年2月21日結婚。[[佐世保海軍工廠]]人事部長・[[井上四郎 (海軍軍人)|井上四郎]]中佐(のち少将)の仲介による松見嘉子(後に淑恵と改名)との見合い結婚{{#tag:ref|きっかけは嘉子夫人の姉久栄が笹井賢二造兵大尉に嫁ぎ、佐世保の官舎に住んでおり、懇意にしていた井上の妻に妹の縁談相手の紹介を頼んだことにある。松見家は一橋家の御典医の家系で、父文平は一橋大学の創立者にして府会議員であり、教育界や政界にも知られる名家であった。|group="注"}}であり、万松楼で行われたが、まだ結婚を考えていない大西は破談にしようと当日大酒を飲んで泥酔した上に褌姿で芸者を連れて見合いの席に現れ、踊ったり卑猥な言葉を浴びせたりと暴れ、目の上の負傷を嘉子に「軍務上のお怪我ですか?」と尋ねられた際、「先夜、上のほうから拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と答えたりもした。しかし、その姿を見た嘉子の母親が大西の傍若無人で飾り気のない人柄を非常に気に入り、「海軍軍人としてあっぱれな振舞い、このような豪傑に娘を嫁がせたい」と嘉子に強く結婚を促し嫁がせた。
1928年11月16日「[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]」飛行長。1929年11月1日[[海軍航空本部]]教育部員。1932年2月1日[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]参謀。11月15日「[[加賀 (空母)|加賀]]」副長。航空演習の当日、天候不良でパイロットが帰還する自信がないことから参加を決めかねていたが、大西の「みんな行って死んでこい」の激しい一言でパイロットは飛んでいき面目を施した。大西によれば「人間その気になってやれないことはない。演習は実戦さながらの訓練であり、もちろん自分の責任で命令した。」という<ref>秋永芳郎『海鷲の割腹』光人社6-7頁</ref>。1933年10月20日佐世保海軍航空隊司令。
1934年11月15日横須賀海軍航空隊副長兼教頭。大西は大型攻撃機論([[戦闘機無用論]])を支持していた。1935年横空研究会で大西は、戦闘機より優速の双発陸上攻撃機完成が近いこと、戦闘機の短航続力、海上航法能力も小さいため空母での使用制限から戦闘機無用論を唱え戦闘機関係者を論破した<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ43頁</ref>。また援護機としての戦闘機はいらないとも語っていた<ref>碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』光人社2000年157頁</ref>。
1936年4月1日海軍航空本部教育部長。大西は1937年4月[[佐世保鎮守府]]で[[九六式陸上攻撃機|96式陸攻]]と[[九六式艦上戦闘機|96式艦戦]]の防空演習を行い攻撃機側が勝利する結果となり、さらに戦闘機無用論に確信を持つようになる<ref>碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』光人社2000年103頁</ref>。
1937年7月大西は「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを配布した。大型攻撃機論を説いた[[戦闘機無用論]]を含む内容だった<ref>戦史叢書95海軍航空概史52-59頁</ref>。また1937年[[水平爆撃]]の命中の悪さから水平爆撃廃止論を唱えていた。しかし[[山本五十六]]大将の続行方針の明示宣言で終息した<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ43-44頁</ref>。
=== 日中戦争 ===
1937年8月21日、海軍航空本部参謀大佐として[[日中戦争]]に参加した。[[九六式陸上攻撃機]]6機による中国軍飛行場夜間爆撃に指揮官機に同乗するが中国軍戦闘機に迎撃されてしまい陸攻4機が撃墜された<ref>中山雅洋『中国的天空(上)』208頁</ref>。
1939年10月19日第二連合航空隊司令。11月4日大西は二連空は大挙昼間強襲すべしと命令し自らも指揮官機に同乗しようとした。しかし幕僚らは死なれては士気にかかわると反対し、代わりに[[第一三航空隊|13空]]司令[[奥田喜久司]]大佐が行くことで説得した。この出撃で奥田は戦死し遺書には戦死の覚悟と大西への感謝の言葉があったが、大西は部下らに「いったん出撃に臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から充分覚悟すべきである。」と厳しい態度をとった。しかし奥田の弔辞を読む際には絶句し崩れ落ちる場面もあった<ref>秋永芳郎『海鷲の割腹』光人社9-12頁</ref>。
大西は第一連合航空隊司令[[山口多聞]]と一連空と二連空を統合し連合空襲部隊を創設した<ref>奥宮正武『太平洋戦争と10人の提督下』学研M文庫312頁</ref>。1940年5月12日[[重慶爆撃|重慶作戦]]参加。大西は[[無差別爆撃]]を主張したが、山口多聞に反対された<ref>山口宗敏『父・山口多聞―空母「飛龍」の最後と多聞「愛」の手紙 』光人社NF文庫96-97頁</ref>。
1941年1月15日[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]][[参謀長]]。
=== 太平洋戦争 ===
==== 南方作戦 ====
1941年1月14日ごろ[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]大将から第十一航空艦隊参謀長大西へ手紙があり、1月26日、27日ごろ大西は長門の山本を訪ねた<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁</ref>。山本から大西が受け取った手紙の要旨は「日米開戦は国際情勢いかんであり、そのときは思い切った戦法とらねば勝ちを制しえない。海戦劈頭にハワイ方面の米艦隊主力に全航空攻撃をし当分西太平洋進行を不可能にする。目標の米艦隊群への攻撃は片道の雷撃攻撃とし自ら指揮し全力でやるつもりなので研究を求む。」といったものであった<ref>源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年11-13頁</ref>。
真珠湾航空攻撃案を求められた大西は鹿屋司令部に戻り幕僚の[[前田孝成]]に詳細を伏せて真珠湾での艦隊雷撃の可能性を聞くが真珠湾は浅いため技術的に不可能だと言われた<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁</ref>。大西は2月初旬今度は第1航空戦隊参謀[[源田実]]を呼びつけ中旬に訪れた源田に大西は山本からの手紙を見せ同様の質問をする.源田から「雷撃は専門ではないから分かりかねるが研究あれば困難でも不可能ではない、できなくても致命傷を与えることを考えるべき。空母に絞れば急降下爆撃で十分。問題は接近行動にある。」という回答がある<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年17-18頁</ref>。また大西は機密保持を第一にしたいとし攻撃は成果が確認できる昼がいいと考えを述べる<ref>源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年17-18頁</ref>。大西は源田に作戦計画案を早急に作るよう依頼し源田は2週間ほどで仕上げ提出しそれに大西が手を加え作案し3月初旬ごろ山本に提出する<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫101-103頁</ref>。大西は戦艦には艦攻の水平爆撃を行うとし出発を単冠湾として案をまとめて山本に提出<ref>戦史叢書10ハワイ作戦91-92頁</ref>。9月ごろ源田が大西から参考のため手渡されたものには雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず小爆弾を多数搭載し補助艦艇に攻撃を加え戦艦に致命傷なくても行動できなくするようにするとなっていたという<ref>源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年19-22頁</ref>。
しかし1941年9月24日軍令部において大西は[[草鹿龍之介]]の真珠湾攻撃への悲観論に同調し、10月初旬には二人で山本にフィリピン作戦に支援すべきと具申するが大西は[[黒島亀人]]に説得される<ref>千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫107-108頁</ref>。[[吉岡忠一]]によれば大西は「日本では武力でアメリカを屈服させる事が出来ないので早期戦争終結を考え長期を避け真珠湾攻撃のような刺激する作戦は避けるべき」と言っていたという<ref>戦史叢書10ハワイ作戦109頁</ref>。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲は断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わずに君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した<ref>戦史叢書10ハワイ作戦110頁</ref>。
太平洋戦争開戦時には[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン攻略戦]]に参加。10月初旬の鹿屋図演において[[第三航空隊|第3航空隊]]は[[零式艦上戦闘機|零戦]]によるマニラ周辺への直接攻撃を提案。計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率の悪さ、戦闘機と陸上攻撃機の協同の難から[[柴田武雄]]が提案した。日中戦争の時、零戦は430里進攻の経験があり燃料消費量を調整すれば500里も可能と主張する<ref>戦史叢書24比島・マレー方面海軍進攻作戦46-47頁</ref>。しかし第11航空艦隊参謀長の大西は「君の意見は飛行実験部的意見にすぎない」と一蹴し<ref>丸編集部編『海軍戦闘機隊』光人社110-114頁</ref>、司令部も実績がない、作戦を変更するには資料不足と却下した<ref>戦史叢書24比島・マレー方面海軍進攻作戦46-47頁</ref>。そのため第3航空隊は航続力延伸の研究し、[[亀井凱夫]]司令が意見書として10月末に空戦、射撃訓練の時間さえ十分ではないので着艦訓練は不可能、空母使用はやめるべきという内容で提出され大西参謀長は作成者の柴田に直接読むように許し、「わかった。必ず山本五十六に納得させる。以後空戦、夜間編隊発進、遠距離侵攻に必要な訓練を行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西の偉大さを感じたことはないという<ref>丸編集部編『海軍戦闘機隊』光人社110-114頁、戦史叢書24比島・マレー方面海軍進攻作戦51-52頁</ref>。
==== 航空行政 ====
1942年3月20日海軍航空本部総務部長。1943年11月1日[[軍需省]]航空兵器総局総務局長。航空兵器総局の立ち上げにおいて長官の人選で陸海でもめたが大西は同格で陸軍の[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]陸軍中将に長官を譲ったため陸軍は大将を出すと騒いだが大西は気にしないと言い遠藤は大西に心服した<ref>森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫74-75頁</ref>。
[[マリアナ沖海戦]]の敗北直後、サイパン確保のために陸海による全力の反復攻撃を行う意見書を遠藤とともに提出したが認められなかった<ref>森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫78頁</ref>。
この頃大西は軍令部次長になりたいと意見書を提出し[[米内光政]][[海軍大臣]]にも話していた<ref>森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫83-85頁</ref>。
==== 神風特別攻撃隊 ====
神風特攻隊創設者大西瀧治郎中将の下には創設以前から特攻を求める意見が寄せられていた。1943年6月29日[[城英一郎]]大佐から敵艦船に対し特攻を行う特殊航空隊編成の構想が大西に上申された。その際大西は「意見は了解したがまだその時期ではない」と答えた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁</ref>。しかし日本軍が[[マリアナ沖海戦]]に負けると、再び城は大西に特攻隊編成を電報で意見具申した<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁</ref>。また[[岡村基春]]大佐からも大西へ特攻機の開発、特攻隊編成の要望があった<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁</ref>{{#tag:ref|これらから神風特攻隊の発案は城英一郎<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 524頁</ref>や岡村基春<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁</ref>と見るものもいる。|group="注"}}。[[第二五二海軍航空隊|252空]]舟木忠夫司令も体当たり攻撃以外空母への有効な攻撃はないと大西に訴えた<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ45頁</ref>。大西自身もこの頃には「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」「もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』26-27頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁</ref>。1944年7月1日航空兵器総務局で作成した航空機生産計画には増産の重点を戦闘機とし全て爆装を付すことを決めた<ref>森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫82頁</ref>。また19日新聞取材に「体当たりの決意さえあれば勝利できる。量の相違など問題ではない」と語った<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁</ref>。特攻兵器[[桜花]]についても賛意を示していた<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ45頁</ref>。中央でもすでに特攻の研究が進められていたが神風特攻隊はそれとはまた別の動きであった<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 46頁</ref>。
1944年10月5日大西が[[第一航空艦隊]]司令長官に内定した。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものとも言われる<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108頁</ref>。妻には「平時ならうれしい人事だが今は容易ならず決意が必要。」と語った<ref>森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫73頁</ref>。大西は軍需局を去る際に局員[[杉山利一]]らに「向こうに行ったら必ず特攻をやるからお前らも後から来い」と声をかけた。杉山は大西自ら真っ先に体当たりするだろうと直感したという<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁</ref>。大西は出発前に[[米内光政]]海軍大臣に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得た<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』p224</ref>。また[[及川古志郎]][[軍令部総長]]に対しても決意を語った。及川は「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」<ref>丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁</ref>「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁</ref>。大西は軍令部航空部員[[源田実]]中佐に戦力を持っていきたいと相談するが、源田は現在それがないことを告げ代わりに零戦150機の準備をすることを約束した。その際大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁、森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫89頁</ref>。
大西中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日海軍報道班員に「特攻隊の活躍ぶりを内地に報道してほしい。よろしく頼む」と依頼していた<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版、1980年、222-223頁</ref>。またフィリピンへ出発する前に、もし特攻を行なった場合の発表方法について中央とも打ち合わせをした(決定はされておらず中央から特攻後大西に発表方法について意見を求める電文が発信された)<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁</ref>{{#tag:ref|大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢祐、起案源田実「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁</ref>神風の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし命名者の[[猪口力平]]中佐は19日に提案したと証言し、電文の起案を担当した[[源田実]]中佐もフィリピンへの出張で大西から直接聞いたと証言している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref>。[[門司親徳]](特攻編成起案者)によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁、神立尚紀『特攻の真意──大西瀧治郎 和平へのメッセージ』文藝春秋126-127頁</ref>|group="注"}}。
1944年10月9日フィリピンに向け出発した大西は到着までに[[日本統治時代 (台湾)|台湾]][[新竹市|新竹]]で航空戦の様子を見て[[多田武雄]]中将に「これでは体当たり以外方法がない」と話し、連合艦隊長官[[豊田副武]]大将にも「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。フィリピンに到着すると大西は交替する一航艦長官[[寺岡謹平]]中将に「基地航空部隊は当面の任務は敵空母甲板の撃破とし発着艦能力を奪い水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し心構えを厳粛にし落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか、いや司令を通じた方が後々のためによかろう。まず戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然にこれに続くだろう、水上部隊もその気持ちになるだろう、海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう。」と語り必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して寺岡から同意を得て一任された<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁</ref>。
1944年10月19日大西はマニラ艦隊司令部にクラーク基地の[[第七六一海軍航空隊|761空]]の司令[[前田孝成]]大佐、飛行長[[庄司八郎]]少佐とマバラカット基地の201空の司令[[山本栄]]中佐、飛行長[[中島正]]少佐を呼び出し特攻の相談をすることにした。しかし761空側は到着し相談できたが201空側は到着が遅れ大西は自ら出向くことにしたがすれ違いとなり会うことはなかった<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111</ref>。しかし小田原参謀長が代わりに山本司令に会って特攻決行の同意を得た<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』37-41頁</ref>。
1944年10月19日大西中将は夕刻マバラカット飛行場[[第二〇一海軍航空隊|第201海軍航空隊]]本部で201空副長[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀[[猪口力平]]中佐、二十六航空戦隊参謀[[吉岡忠一]]中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111</ref>。山本司令が不在だったため玉井副長は自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿、横川らと相談して体当たり攻撃を決意し大西に伝えた。玉井はその際、編成に関しては航空隊側に一任してほしいと要望して大西はそれを許可した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁</ref>。
[[猪口力平]]参謀が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めた。また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社45頁</ref>。
1944年10月20日第一航空艦隊司令長官着任。[[神風特別攻撃隊]]の隊名を付し、編成なども発表され大西による訓示が行われた<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 114頁</ref>。大西は敷島隊へ「日本は今危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする。」と訓示した。
神風特攻隊編成命令書を大西、[[猪口力平]]、[[門司親徳]]で起案し連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p114、金子敏夫『神風特攻の記録』61頁</ref>。
10月21日大西は特攻で空母の甲板撃破の時間的余裕を得るため[[三川軍一]]に協議しに行くが25日で行動予定を組んでいるため変更は困難と断られる。22日[[福留繁]]に第二航空艦隊も特攻を採用するよう説得するが失敗する。第一航空艦隊特攻戦果が出た25日に第二航空艦隊も特攻を採用する<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p504</ref>。
特攻成功後大西は福留を説得し第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成され福留が指揮官、大西が参謀長を務める<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』p155-159</ref>。大西は第一航空艦隊、第二航空艦隊、[[第七二一海軍航空隊|721空]]の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能で少数で敵を抜け突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話して特攻を指導した<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書150-152頁</ref>。大西の強引な神風特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と指導した<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 706頁</ref>。10月27日には大西によって[[神風特別攻撃隊]]の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、航空本部など中央に通達された<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』p161-163</ref>。大西は特攻隊員の心構えを厳粛にするため特別待遇を禁じ、他の勝手な特攻も禁じた<ref>戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 706頁</ref>。[[猪口力平]]によれば27日特攻隊を見送った大西は「城が言っていたが現場で決心がついた。こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ。」と語ったという<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社93-94頁</ref>。
1944年11月16日[[福留繁]]中将が特攻の必要と増援の意見具申電(1GFGB機密第16145番電)を発する。[[大川内傳七]]中将も同旨だとして大西を上京して説明すると打電。11月18日大西は[[猪口力平]]を伴い日吉司令部で[[豊田副武]]に状況報告をし軍令部で[[及川古志郎]][[軍令部総長]]に改めて趣旨を説明し「増勢しつつ現兵力でレイテ作戦の対機動部隊作戦を続行し、別の新攻略作戦に充当兵力がほしい。練習航空隊から200機は抽出できるはずで敵来攻時に北部台湾備え待機させる。ここ1~2週間が重大な時期。」と増援を要望する。軍令部と海軍省の協議で練習航空隊から零戦150機の抽出が決定された<ref>戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 90-91頁</ref>。
1945年1月10日第一航空艦隊は台湾に移転。1945年5月19日[[軍令部]]次長に着任。海軍大学甲種卒業者ではない大西が着任する異例の人事であった<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ45頁</ref>。大西は機帆船での逆上陸構想を推進した。[[富岡定俊]]少将によれば軍令部では大西だけが熱心であったという<ref>戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 296-297頁</ref>。
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終戦が近いころ、大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて[[豊田副武]]軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。
「我々で画策し奏上し終戦を考え直すようにしなければならない。全国民2000万人犠牲の覚悟を決めれば勝利はわれわれのもの」と主張した<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 下』時事通信社269-270頁</ref>。大西が最高戦争指導会議に現れたことについて後日[[米内光政]]海軍大臣は「招かれもせぬのに不謹慎な態度で入ってくるのはみっともない、意見なら大臣に申し出ろ」と叱った。大西は涙を流し首をうなだれていた<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 472-473頁</ref>。
[[内閣書記官長]][[迫水久常]]のもとにも現れ手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 下』時事通信社269-270頁</ref>。
1945年8月15日終戦。8月16日[[渋谷]]南平台の官舎にて大西は遺書を残し[[切腹|割腹]][[自殺|自決]]した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、[[多田武雄]]次官が軍医を連れて前田副官、[[児玉誉士夫]]も急行した。熱海にいた[[矢次一夫]]も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の[[小園安名|小園]]に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。遺書は5通あったとされる。「[http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E 特攻隊の英霊に曰す]」で始まる[http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E 遺書]は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。別紙には[[富岡定俊]]軍令部長に当てた添え書きがあり「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし。」とあった。妻淑恵(嘉子)に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないこと、最後には「これでよし百万年の仮寝かな」と辞世の句があった。他に多田、児玉、矢次に対しても遺書があった<ref>秋永芳郎『海鷲の割腹』光人社13-16頁</ref>。享年55。また辞世の句として友人[[増谷麟]]に当て「すがすがし 暴風のあと 月清し」と詠んだ<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社174頁、秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社101-102頁</ref>。
戦後特攻隊員の戦死者名簿には大西の名も刻まれた。
墓は西芦田共同墓地と[[總持寺|鶴見総持寺]]とにある。
[[2000年]]、鶴見総持寺の大西中将の墓所に、「[http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E 遺書]の碑」が建てられた。発起人である元副官[[門司親徳]]により、命日である[[8月16日]]に除幕式が催された。
== 人物 ==
大西は日中戦争では攻撃機に乗って陣頭指揮をとり、飛行機、飛行船にも乗る、開戦以前から[[山本五十六]]大将に次ぐ日本航空の大立物として知られる人物であった<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社41頁</ref>。
[[猪口力平]]大佐によれば、大西は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち下から慕われ、また大西も可愛がっていた。智勇に優れた[[山本五十六]]と似た気風を持っていた。机上の空論や口先だけの人か実力あり腹据わり信頼置けるかが好き嫌いの基準であったという<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社169-170頁</ref>。
副官[[門司親徳]]は大西に厳しさに満ちた中にも直感的に親しみを感じたという<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ180頁</ref>。
大西は[[児玉誉士夫]]など右翼と公然と付き合ったため批判もあった<ref>森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫75頁</ref>。
甥に[[笹井醇一]]がいる。
== 航空戦略 ==
大西は航空主兵論者の一人で1935年戦艦大和、武蔵の製造に関し一方を廃止し五万トン以下にすれば空母が三つ作れると主張し<ref>中田整一『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社84-85頁</ref>、[[福留繁]]軍令部課長に大和1つの建造費で千機の戦闘機ができると主張し今すぐ建造を中止するように要望した<ref>森史郎『零戦の誕生』光人社53頁</ref>。
1937年7月[[海軍航空本部]]教育部長の際「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを各方面に配布した。大遠距離、大攻撃力、大速力を持つ大型機による革新を説くもので、大型機が将来的に戦艦の役割も担い新艦艇として制海権も獲得できると主張した。[[潜水艦]]以外の艦艇は航空に対抗し得ない。また小型航空機は現戦略戦術を根底から変えることはできない、戦闘機、対空防御砲火は現在も信頼できず、将来的にも爆撃機の速度、高度増大でさらに必要がなくなるといった[[戦闘機無用論]]も含んでいた。日本海軍では初の航空戦力による政戦略攻撃にまで言及した文章であった<ref>戦史叢書95海軍航空概史47、52-59頁</ref>。
日中戦争における零戦の初陣でパイロットから防弾の弱さについて「防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、技術士官は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し効果を発揮するべきと意見が割れた。大西はそれに対しただ今の議論は技術士官の言う通りと言って収めてパイロットたちは黙った<ref>前間孝則『戦闘機屋人生 元空将が語る零戦からFSXまで90年』講談社113-114頁</ref>。
== 特攻 ==
大西は[[神風特別攻撃隊]]の提唱者である<ref>戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 705頁</ref>{{#tag:ref|しかしそれ以外の[[特攻]]はこれ以前に別の動きとして計画されていたものである<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁</ref>|group="注"}}。
大西は一航艦参謀長[[小田原俊彦]]少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を「軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興するだろう。」と説明した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』63頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコp197-199</ref>{{#tag:ref|大西が現地で語った神風特攻隊の目的から神風特攻隊は[[米内光政]]海軍大臣の一撃和平の一環であったと見るものもいる<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年303-304頁</ref>|group="注"}}。
大戦末期の厳しい戦況で何もできずに死んでいくよりは戦果を確信して死ねる特攻は大愛、大慈悲であると考えていた<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社173頁、源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫1998年103頁</ref>。大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、[[猪口力平]]によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。」と語ったという<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社170頁</ref>。副官[[門司親徳]]に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と語ったという<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社172頁</ref>。
福留繁によれば大西は「日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る」と確信していたという<ref>生出寿『特攻長官大西瀧治郎』徳間書房96頁</ref>。
[[吉岡忠一]]は「もうそれしか方法はなかったと思う。大西は勝っても自刃しただろう。」と話した<ref>『証言3私の昭和史』東京12チャンネル220-221頁</ref>。[[吉松正博]]は大西が第一航空艦隊長官に就いた人選は場合によっては特攻もやむを得ないとする中央が航空関係者から人望のある大西を適任と考えたものだろうと話している<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁</ref>。[[源田実]]は大西の立場に立たされば、[[山本五十六]]も[[山口多聞]]も同じことをやったろうし彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろうそれが海軍軍人であると話している<ref>源田実『海軍航空隊始末記戦闘編』p253</ref>。[[門司親徳]]は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりがないと感じられ別世界だった。」と語った<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ182頁</ref>。
== 演じた人物 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考資料 ==
*秋永芳郎『海鷲の割腹』光人社
*猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社
*門司親徳『空と海の涯で 第一航空艦隊副官の回想』毎日新聞社
*源田実『真珠湾作戦回顧録』文春文庫
{{Wikiquote|大西瀧治郎}}
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[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:特攻]]
[[Category:自殺した人物]]
[[Category:1891年生]]
[[Category:1945年没]]
[[cs:Takidžiró Óniši]]
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