「ボイン川の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
RedBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: ang:Beadu þæs Bogn
編集の要約なし
3行目:
|campaign=ウィリアマイト戦争
|image=[[File:BattleOfBoyne.gif|300px]]
|caption=''ボイン川の戦い''、1693年画
|conflict=[[ウィリアマイト戦争]]
|date=[[1690年]][[7月1日]]([[グレゴリオ暦 ]][[7月12日]])
|place=[[アイルランド]]、[[ドロヘダ|ドラハダ]]近
|result=[[ウィリアマイト]]の勝利
|combatant1=[[ジャコバイト]]軍<br>(フランス部隊: 6:6,000<br />カトリックのアイルランド部隊: 19:19,000)
|combatant2=[[ウィリアマイト]]軍<br>(イングランド、スコットランド、オランダ、デンマーク、ユグノー、およびプロテスタントのアルスター部隊)
|commander1=[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]<br />[[リチャード・タルボット (ティアコネル伯)|ティアコネル伯リチャード・タルボット]]<br />[[アントナン・ノンパル・ド・コーモン|ローザン公アントナン・ノンパル・ド・コーモン]]
|commander2=[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]<br />[[フレデリック・ションバーグ (初代ションバーグ公爵)|ションバーグ公フレデリック・ションバーグ]]<br />[[メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)|メイナード・ションバーグ]]
|strength1=25,000
|strength2=36,000
17行目:
|casualties2=750以下
|}}
'''ボイン川の戦い'''('''Battle of the Boyne''')は[[1690年]][[7月1日]]([[ユリウス暦]][[グレゴリオ暦]]では[[7月12日]])、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]率いる[[イングランド王国|イングランド]]・[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]連合軍と、退位させられた[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]率いる[[スコットアイルランド王国|アイルランド]]軍の間に行われた戦い。[[アイルランド]]の[[ボイン川]]河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。
 
== 戦闘前 ==
ウィリアム王側36,000人とジェームズ王側25,000人が戦い、ウィリアムが勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。
[[1688年]]の[[名誉革命]]で王座から追放されたジェームズ2世は、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]を頼りフランスへ亡命、代わりにジェームズ2世の甥で[[オランダ総督]]ウィレム3世がイングランド貴族に招聘され、妻でジェームズ2世の娘[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]]と共にイングランド王に即位、イングランドはウィリアム3世・メアリー2世の共同統治となり、翌[[1689年]]に[[権利の章典|権利章典]]が採択され新政権が誕生した。
 
しかし、[[スコットランド王国|スコットランド]]ではジェームズ2世を支持する[[ジャコバイト]]のダンディー子爵[[ジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)|ジョン・グラハム]]が反乱を起こし、討伐に向かった政府軍の戦いでダンディーは戦死、反乱は終息したが、アイルランドでもティアコネル伯[[リチャード・タルボット (ティアコネル伯)|リチャード・タルボット]]を始めとするジャコバイトが新政権を認めずジェームズ2世を支援する方針を採ったため、イングランドは不安定な状態に置かれていた。フランス王ルイ14世も[[大同盟戦争]]で大陸侵略を行う上でイングランドを釘付けにするためジェームズ2世を援助してフランス艦隊を派遣、王位奪還を狙うジェームズ2世が3月にアイルランドへ渡海してジャコバイトが[[ウィリアマイト]](ウィリアム3世支持者)の勢力圏に侵攻すると、イングランドもアイルランド出兵に踏み切り[[ウィリアマイト戦争]]が始まった<ref>友清、P117 - P121、P130 - P133。</ref>。
== 関連項目 ==
 
*[[名誉革命]]
ジャコバイトはアイルランドの大半を制圧していて(西部の[[コノート]]・南部の[[マンスター]]・東部の[[レンスター]])、北部[[アルスター]]の都市[[ロンドンデリー]]と[[エニスキレン]]で抵抗していたウィリアマイトを討つべく北上したが、4月から始まった[[ロンドンデリー包囲戦]]は8月に切り上げて失敗、[[7月31日]]の[[ニュータウンバトラーの戦い]]に敗れてアルスターはウィリアマイトが平定した。イングランドは8月に[[フレデリック・ションバーグ (初代ションバーグ公爵)|フレデリック・ションバーグ]]率いる遠征軍をアイルランドへ送り出し[[ベルファスト]]から南下したが、疫病の流行で無駄に兵を失う羽目になりベルファストへ撤退、戦線はそれ以上広がらなかった。
*[[大同盟戦争]]
 
*[[ジャコバイト]]
状況が打開したのは翌1690年になってからで、ウィリアム3世は自らアイルランドへ向かうことを決めて6月にイングランドから出航、ベルファストに到着してションバーグと合流、[[ダブリン]]を目指して南下を開始した。ジェームズ2世も迎撃の姿勢を取りボイン河畔の[[ドロヘダ|ドラハダ]]で待ち受けて7月1日に戦闘開始となった<ref>友清、P133 - P144。</ref>。
 
== 戦闘 ==
両軍はボイン川を挟んで対峙、ボイン川の南岸はジャコバイト軍25,000人が布陣、ドラハダから西で両軍の中間に位置するオールドブリッジというボイン河畔の集落にティアコネルが陣を張り、ジェームズ2世はそれより南に下がった丘に本陣を構えていた。ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ軍36,000人は川の北側に布陣した。
 
ウィリアム3世は戦闘開始前の[[6月30日]]に敵陣と浅瀬の調査に赴き、視察中にジャコバイトに砲撃され軽傷を負ったが、オールドブリッジから更に西で上流に近いロスナリーという場所は満潮でも渡れるため、ここに目をつけたウィリアム3世は軍を2分する作戦に出た。また、ドラハダに近いドライブリッジも干潮時に渡れるため、主力はボイン川を渡河して敵を叩く方針で固めた。
 
7月1日早朝、ウィリアム3世は右翼の1万人をションバーグの息子[[メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)|メイナード・ションバーグ]]に預け、迂回奇襲を命じて送り出した。メイナードはこの命令を受けて戦場を大きく右へ迂回してロスナリーへ向かい、守備隊を撃退して渡河を果たした。ジェームズ2世と側近のローザン公[[アントナン・ノンパル・ド・コーモン]]は危機に対処すべく丘を下りてロスナリーへ急行したが、沼地に阻まれ互いに戦闘を行うことなく時間を無駄にしていった。また、ジェームズ2世らは全軍の大半をロスナリーへ連れていったためティアコネルは劣勢でイングランド軍に立ち向かわねばならなくなった。
 
オールド・ブリッジ方面ではティアコネルとウィリアム3世が戦闘に入り、ジャコバイトの騎兵隊を率いるジェームズ2世の庶子のベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]はティアコネルの命令でイングランド・オランダ軍の渡河を阻もうとしたが失敗、10時に干潮になりボイン川の水量が減るとイングランド軍は渡河を開始した。イングランド・オランダ軍左翼は亡命[[ユグノー]]部隊を率いてションバーグが渡河したが、アイルランド騎兵隊の反撃に遭い戦死した。しかし、他の地点では数に勝るイングランド軍が優勢で、ウィリアム3世は左に回りこんでドライブリッジを渡り、ジャコバイト軍の右翼を側面から攻撃して勝敗を決定的にした。
 
2時にティアコネルはロスナリーに留まっているジェームズ2世とローザンに撤退を伝え、ジャコバイト軍はダブリンへ撤退した。ジャコバイトの損害は1500人以下でイングランド・オランダ軍は750人以下であった<ref>友清、P144 - P147。</ref>。
 
== 戦闘後 ==
ジェームズ2世はダブリンへ戻った後はフランスへ逃れ、ウィリアム3世はジェームズ2世退去後のダブリンに入り、東部のジャコバイトは降伏してレンスターはイングランド軍が平定した。ローザンとティアコネルもフランスへ渡りジャコバイトの指揮は一時ベリックに託され、残りのジャコバイト勢力圏で抵抗を続けた。ウィリアム3世は後をオランダの将軍[[ゴダード・ドゥ・ギンケル (初代アスローン伯)|ゴダード・ドゥ・ギンケル]]に任せてイングランドへ帰国、翌[[1691年]]から大同盟戦争で大陸遠征に出かけフランス軍と戦った。
 
マンスターは[[リムリック]]を除いてイングランド軍がほぼ制圧、1691年6月の[[アスローン包囲戦]]でギンケルはアスローンを奪いコノートへ進出、待ち構えていたジャコバイトも[[7月12日]]の[[オーグリムの戦い]]で破りコノートを平定、8月にジャコバイトが籠城しているリムリックへ進軍・包囲した([[リメリック包囲戦]])。ジャコバイトは1月にフランスから戻ったティアコネルがベリックと交代して再度指揮を執り、ベリックはフランスへ向かった。包囲直前にティアコネルが亡くなり[[パトリック・サースフィールド]]が抵抗を続けたが、劣勢の上援軍の見込みもないことから10月に降伏、アイルランドはイングランド軍に完全平定された。
 
ルイ14世は以後もジェームズ2世への援助及びイングランド遠征を企てたが、[[1692年]]の[[バルフルール岬とラ・オーグの海戦]]でフランス艦隊がイングランド・オランダ連合艦隊に大敗してイングランド侵攻は失敗、ジェームズ2世の復位も実現しないまま終わった。ウィリアマイト戦争の勝利で背後の安全を確保したウィリアム3世は戦力を大陸に差し向け、戦局は大同盟戦争へと移っていった<ref>友清、P147 - P149、P153 - P171。</ref>。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[友清理士]]『イギリス革命史(下)』[[研究社]]、2004年。
 
{{DEFAULTSORT:ほいんかわのたたかい}}
32 ⟶ 58行目:
[[Category:オランダの戦闘]]
[[Category:アイルランドの歴史]]
 
{{war-stub}}
 
[[ang:Beadu þæs Bogn]]