「日本社会党」の版間の差分

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=== 小政党への転落 ===
総選挙の結果、社会民主党の獲得議席はわずか15議席にとどまった。55年体制下、一貫して保っていた野党第一党としての日本社会党の歴史はこの時名実共に終わった。なお社会党時代から当選していた渕上貞雄が2010年参議院選挙をもって引退した事により、社会民主党に社会党所属経験者の国会議員はいなくなった。
== 評価役職 ==
 
=== 歴代の日本社会党中央執行委員会・執行部役員表 ===
== 評価 ==
日本社会党が担った役割に対しては、いくつかの見解がある。第一に、政府自民党の行き過ぎた右傾化を抑制し、「[[戦後民主主義]]」擁護、平和憲法維持、[[労働者]]の生活水準向上・社会福祉の進展などに大きな役割を果たし、戦後の日本が安定した社会発展をとげる基礎作りに積極的に寄与したという、肯定的なものである。また、自民党と社会党の「1.5大政党制」により、自民党・社会党両者の支持団体への利益配分という共生システムを作り、労組をはじめとする社会党支持勢力への利益を代弁したことを積極的に評価する向きもある。
 
また、「[[非武装中立論]]を掲げる社会党の存在を理由に、自民党は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の自衛力増強要求を退け、[[安保条約]]によるアメリカ軍の傘の下での軽武装路線を続けることが出来た」という、「抵抗政党」としての役割も担ったことを積極的に評価する意見もあり、[[宮澤喜一|宮沢喜一]]など自民党関係者の中にもこのような考え方を支持する者は多い。
 
日本社会党の政策・路線は結党から解散に至るまで必ずしも一貫してはおらず、左右に大きく揺れ動いた。これは、西欧型の穏健な[[社会民主主義]]を掲げる右派と、社会民主主義よりも[[マルクス・レーニン主義]]に基づくソ連・中国型の社会主義国家建設に重きを置く左派が存在し、中間派も巻き込んで激しい路線対立が続いたからである。1966年から1986年までは綱領的文書「[[日本における社会主義への道]]」(通称「道」)にてプロレタリア独裁を肯定してソ連型の[[共産主義]]に近い側面をもち、[[社会主義]]政党としての側面が強くなった([[日本型社会民主主義]])。しかし、こうした多様な勢力を議会政党としてまとめあげることで、[[1960年代]]から[[1970年代]]前半にかけて、左翼運動が国民的な広がりを見せた大衆運動の一面を持っていた時代に、都市労働者を中心とした比較的穏健な[[左翼]][[シンパ]]の国政に対する声を合法的かつ議会制民主主義の下で吸い上げるという役割を担ったことも忘れてはならない。
 
しかし、1955年体制の末期に、日本社会党が独自の党組織の確立を怠り、安易に労組依存を続け、単なる労組の利益の代弁者へと堕したことは、有権者が日本社会党から離れる決定的要因となった。また、[[日韓基本条約]]に反対し、韓国の「軍事独裁」を批判する一方で「朝鮮友好親善の船」と称して[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に党としての訪問事業を行うなど北朝鮮との関係は密接であったため、このことがのちに社会民主党が批判され、党勢を衰退させた要因になっている<ref>[http://mainichi.jp/area/tottori/news/20080906ddlk31040515000c.html]</ref><ref>1988年3月20日 朝日新聞</ref>。
 
また、土井たか子の「ダメなものはダメ」の言葉に代表されるように、消費税にしろPKOにしろ与党にただ反対するばかりで時代の変化に対応できず{{要出典|date=2012年3月}}、それが結果的に村山政権下での無理矢理の方向転換に持っていかざるをえなくなり、国民の支持を一挙に失うこととなった。
 
[[日本共産党]]とは同じ左派・革新政党と見られたものの、政策的に少なからず相違(一例として[[部落解放同盟]]に対する両党の態度の相違等が挙げられる)があり、対立する時期が長かった。1970年代には[[社共共闘]]が地方で多く成立し、[[革新統一]]首長が多く誕生したが、1980年の[[社公連合政権構想|社公合意]]成立以降、自社公民相乗り[[オール与党]]体制が確立した結果、一時の革新統一路線は沖縄県を除いて次々と解体していく。
 
1980年代から1990年代には、社会党が支持基盤とした労働組合の弱体化が進んだ。[[新保守主義]]の台頭もあり、労働組合や公務員は[[民営化]]・民間活力導入の[[新自由主義]]的改革への抵抗勢力として批判されるようになった。時期を同じくして[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[中国]]などの[[社会主義]]国家が解体・変質していったことにより社会主義が魅力を失っていった中、日本社会党は時代の変化、世界情勢の変化、国民意識の変化などに対応することができず、全体的には長期低落傾向を示し衰退していった。それでも1993年第40回総選挙まで野党第一党ではあったが、社会党党首を首相とする[[村山内閣]]が政権を取ると同時に、上記の現実を踏まえて、それまでの社会党の根幹となる政治主張(自衛隊を違憲とし、日米安保条約破棄を主張する)を支持者や党員との議論もなしに一方的に180度変更したことで、最後まで残っていた支持者の離反を招き、社会党は崩壊した<ref>なお、社会党の後身の社民党は、[[2006年]]の[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]第10回大会において、非武装を目指すという村山内閣以前の主張に回帰した。</ref>。
 
== 歴代の日本社会党中央執行委員会・執行部役員表 ==
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
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|}
 
=== 閣僚経験者 ===
== 日本社会党の政権ポスト 閣僚のみ記載 ==
()内は入閣直前の党役職
 
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*第22回総選挙では、他に[[法定得票]]不足で定数を満たせなかった選挙区の再選挙で当選者1。
*以下、[[社会民主党 (日本 1996-)#党勢の推移|党勢の推移(社会民主党)]]に続く
== 評価 ==
日本社会党が担った役割に対しては、いくつかの見解がある。第一に、政府自民党の行き過ぎた右傾化を抑制し、「[[戦後民主主義]]」擁護、平和憲法維持、[[労働者]]の生活水準向上・社会福祉の進展などに大きな役割を果たし、戦後の日本が安定した社会発展をとげる基礎作りに積極的に寄与したという、肯定的なものである。また、自民党と社会党の「1.5大政党制」により、自民党・社会党両者の支持団体への利益配分という共生システムを作り、労組をはじめとする社会党支持勢力への利益を代弁したことを積極的に評価する向きもある。
 
また、「[[非武装中立論]]を掲げる社会党の存在を理由に、自民党は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の自衛力増強要求を退け、[[安保条約]]によるアメリカ軍の傘の下での軽武装路線を続けることが出来た」という、「抵抗政党」としての役割も担ったことを積極的に評価する意見もあり、[[宮澤喜一|宮沢喜一]]など自民党関係者の中にもこのような考え方を支持する者は多い。
 
日本社会党の政策・路線は結党から解散に至るまで必ずしも一貫してはおらず、左右に大きく揺れ動いた。これは、西欧型の穏健な[[社会民主主義]]を掲げる右派と、社会民主主義よりも[[マルクス・レーニン主義]]に基づくソ連・中国型の社会主義国家建設に重きを置く左派が存在し、中間派も巻き込んで激しい路線対立が続いたからである。1966年から1986年までは綱領的文書「[[日本における社会主義への道]]」(通称「道」)にてプロレタリア独裁を肯定してソ連型の[[共産主義]]に近い側面をもち、[[社会主義]]政党としての側面が強くなった([[日本型社会民主主義]])。しかし、こうした多様な勢力を議会政党としてまとめあげることで、[[1960年代]]から[[1970年代]]前半にかけて、左翼運動が国民的な広がりを見せた大衆運動の一面を持っていた時代に、都市労働者を中心とした比較的穏健な[[左翼]][[シンパ]]の国政に対する声を合法的かつ議会制民主主義の下で吸い上げるという役割を担ったことも忘れてはならない。
 
しかし、1955年体制の末期に、日本社会党が独自の党組織の確立を怠り、安易に労組依存を続け、単なる労組の利益の代弁者へと堕したことは、有権者が日本社会党から離れる決定的要因となった。また、[[日韓基本条約]]に反対し、韓国の「軍事独裁」を批判する一方で「朝鮮友好親善の船」と称して[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に党としての訪問事業を行うなど北朝鮮との関係は密接であったため、このことがのちに社会民主党が批判され、党勢を衰退させた要因になっている<ref>[http://mainichi.jp/area/tottori/news/20080906ddlk31040515000c.html]</ref><ref>1988年3月20日 朝日新聞</ref>。
 
また、土井たか子の「ダメなものはダメ」の言葉に代表されるように、消費税にしろPKOにしろ与党にただ反対するばかりで時代の変化に対応できず{{要出典|date=2012年3月}}、それが結果的に村山政権下での無理矢理の方向転換に持っていかざるをえなくなり、国民の支持を一挙に失うこととなった。
 
[[日本共産党]]とは同じ左派・革新政党と見られたものの、政策的に少なからず相違(一例として[[部落解放同盟]]に対する両党の態度の相違等が挙げられる)があり、対立する時期が長かった。1970年代には[[社共共闘]]が地方で多く成立し、[[革新統一]]首長が多く誕生したが、1980年の[[社公連合政権構想|社公合意]]成立以降、自社公民相乗り[[オール与党]]体制が確立した結果、一時の革新統一路線は沖縄県を除いて次々と解体していく。
 
1980年代から1990年代には、社会党が支持基盤とした労働組合の弱体化が進んだ。[[新保守主義]]の台頭もあり、労働組合や公務員は[[民営化]]・民間活力導入の[[新自由主義]]的改革への抵抗勢力として批判されるようになった。時期を同じくして[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[中国]]などの[[社会主義]]国家が解体・変質していったことにより社会主義が魅力を失っていった中、日本社会党は時代の変化、世界情勢の変化、国民意識の変化などに対応することができず、全体的には長期低落傾向を示し衰退していった。それでも1993年第40回総選挙まで野党第一党ではあったが、社会党党首を首相とする[[村山内閣]]が政権を取ると同時に、上記の現実を踏まえて、それまでの社会党の根幹となる政治主張(自衛隊を違憲とし、日米安保条約破棄を主張する)を支持者や党員との議論もなしに一方的に180度変更したことで、最後まで残っていた支持者の離反を招き、社会党は崩壊した<ref>なお、社会党の後身の社民党は、[[2006年]]の[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]第10回大会において、非武装を目指すという村山内閣以前の主張に回帰した。</ref>。
 
== 脚注 ==