「小田急箱根鉄道線」の版間の差分
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{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|箱根登山鉄道鉄道線<br/>(箱根登山電車)|
{{BS-daten |LNGE=15.0 |SPURWEITE=1067 mm / 1435 |STROMG=1500 V / 750 V|NEIGUNG=80 |RADIUS=30 |V-MAX= |ZWEIGLEISIG= なし(全線単線) |BILDPFAD_KARTE= |PIXEL_KARTE= |IMAGE= Hakone-Tozan-Railway-80permillage.jpg |CAPTION= 最急勾配の80[[パーミル|
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|
{{BS-table}}
{{BS3||KHSTa|tHST|||[[新宿駅]]/[[北千住駅]]|}}
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{{BS5||STR|STR|STR|LUECKE|||<!-- 大雄山線緑町駅 他線の接続しない駅のため非表示 -->|}}
{{BS5||STR|STR|ABZrg|ABZrf|||↑[[小田急電鉄|小田急]]:[[小田急小田原線|小田原線]]|}}
{{BS5||BHF|O2=HUB84|BHF|O3=exGRENZE legende|P3=HUB25|BHF|O4=HUB25|KBHFe|O5=HUB64|0.0|[[小田原駅]]||高26m<ref name="1988-i-6"/>}}<!-- CPICは対面乗換え -->
{{BS5||STR|eKRWgl+l|eKRWgr+r|uexKBHFa|O5=HUB83||↓箱根登山鉄道'''鉄道線'''||}}
{{BS5||STR|STR|STR|ueLUECKE|||↓''[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原市内線]]''|}}
{{BS5||TUNNEL1|TUNNEL1|TUNNEL1|ueLUECKE||小峰隧道||長285.6m<
{{BS5|uexSTRrg|emKRZo|emKRZo|emKRZo|uexSTRrf||||}}
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{{BS3|uexKBHFe|O1=HUB84|BHF|O2=HUB82||1.7|[[箱根板橋駅]]||高27m<ref name="1988-i-6"/>}}<!-- 軌道線は同時に存在したものを示す -->
{{BS|BRÜCKE|||[[国道1号]]|}}
{{BS|AKRZu|||[[小田原厚木道路]]|}}
{{BS|BHF|3.2|[[風祭駅]]||高48m<ref name="1988-i-6"/>}}
{{BS|STR|||↑[[狭軌]]|}}
{{BS3|KDSTa|STR|||入生田検車区|構内[[標準軌]]|}}
{{BS3|STRlf|vSTRlg||||↓[[三線軌条]]<!--アイコンを複線にしているのはこの区間が三線軌条のためで、左が標準軌、右が狭軌としている。実際は1本の線路となっている-->|}}
{{BS|vBHF|4.2|[[入生田駅]]||高66m<ref name="1988-i-6"/>}}
{{BS|veGRENZE|||[[小田原市]][[箱根町]]境|}}
{{BS|vSTR|||↑三線軌条 DC1500V|}}
{{BS|vBHF|6.1|[[箱根湯本駅]]||高108m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS|vENDEel|||↓標準軌 DC750V|}}
{{BS|TUNNEL2||
{{BS|TUNNEL1||
{{BS|
{{BS|BHF|7.1|[[塔ノ沢駅]]||高165m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS|
{{BS|TUNNEL1||杉山隧道||長148.9m<ref name="rp532-x"/>}}
{{BS|WBRÜCKE1||[[早川橋梁 (箱根登山鉄道鉄道線)|早川橋梁]]||}}
{{BS|BRÜCKE2|||国道1号|}}
{{BS|TUNNEL2||出山
{{BS|TUNNEL2||松山
{{BS3||ABZfg|KDSTr|8.3|[[出山信号場]]||高234m<ref name="rp532-44"/>}}
{{BS|TUNNEL1||嵐山
{{BS|TUNNEL2||鐘山
{{BS|TUNNEL1||常磐山
{{BS|TUNNEL1||畑山
{{BS3|KBHFl|ABZgf||9.9|[[大平台駅]]||高349m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS3||ABZfg|KDSTr|10.4|[[上大平台信号場]]||高359m<ref name="rp532-45"/>}}
{{BS|TUNNEL1||大平台
{{BS|DST|11.2|[[仙人台信号場]]||高410m<ref name="1988-i-7"/>}}
{{BS|BHF|12.1|[[宮ノ下駅]]||高448m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS|STR|||国道1号|}}
{{BS|BHF|13.4|[[小涌谷駅]]||高535m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS|BHF|14.3|[[彫刻の森駅]]||高551m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS3||KBHFe|O2=HUB84|KBHFa|O3=HUB82|15.0|[[強羅駅]]||高553m<ref name="1985-51"/>}}
{{BS3|||STRlf|||[[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線]]|}}
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* 三線軌条:1435mmと1067mm
|}
'''箱根登山鉄道鉄道線'''(はこねとざんてつどうてつどうせん)は、[[神奈川県]][[小田原市]]の[[小田原駅]]
最急80[[パーミル|‰(パーミル)]]という、ラックレールやケーブルに頼らない[[粘着式鉄道]](普通鉄道)としては日本最急<ref name="hf1-11"/>の[[縦断勾配|勾配]]が存在する<ref name="2011-14"/>。建設にあたって[[スイス]]のベルニナ鉄道(その後の[[レーティッシュ鉄道]]ベルニナ線)を参考にしており<ref name="g100-72"/>、その縁で[[1979年]]に、箱根登山鉄道と[[レーティッシュ鉄道]]は、スイス政府観光局の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる<ref name="g100-72"/>。
== 概要 ==
日本国外を外遊した名士からの提案を契機として<ref name="2011-136137"/>1919年に開業した鉄道路線である<ref name="g100-44"/>。当初は[[箱根湯本駅]]と強羅駅の間を結ぶ路線で<ref name="1995-93"/>、箱根湯本駅までは[[箱根登山鉄道小田原市内線|軌道線(小田原市内線)]]が接続していたが、1935年に小田原駅発着となった<ref name="2011-170"/>。1950年以降は箱根湯本駅まで小田急電鉄の列車が乗り入れている<ref name="rp405-18"/>。
日本の粘着式鉄道では最急の勾配や急カーブ、[[スイッチバック]]などがある山岳鉄道で、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある<ref name="1985-7"/><ref name="rj324-71"/>。
=== 特徴 ===
本路線は、以下のような数々の特徴を有する。
==== 勾配 ====
[[箱根湯本駅]]と[[小涌谷駅]]の間には、80‰という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する<ref name="dj93-38"/>。
80‰の勾配とは、1,000m進む間に高低差が80mにもなるというもので<ref name="2011-21"/>、これは[[軌条]](レール)を固定せずに枕木の上に置いただけでは、自然に下に滑り落ちてしまうほどの勾配であり<ref name="1985-19"/>、角度にすると約5度である<ref name="1994-10"/>。1両の全長が14.6mの車両でも、80‰勾配においては前後で1.1mほどの高低差がつく<ref name="1985-18"/>。
建設当時の時点において日本における最急勾配だったのは[[信越本線]]の66.7‰で、建設時に参考としたベルニナ鉄道の最急勾配は70‰<ref name="1995-97"/>、粘着性能の高いゴムタイヤを用いた[[新交通システム]]でも最急勾配は70‰程度で<ref name="dj93-39"/>、本路線の80‰という勾配はそれらを上回る。
==== 曲線半径 ====
[[仙人台信号場]]と[[宮ノ下駅]]の間<ref name="1988-i-7"/>、小涌谷駅と[[彫刻の森駅]]の間<ref name="1988-i-7"/>には、半径30mという急な曲線が存在する<ref name="dj93-38"/>。
これは[[#歴史|歴史節]]で後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており<ref name="1985-40"/>、しかも温泉脈に悪影響を与えるという理由で[[トンネル]]掘削ができなくなった<ref name="1985-22"/>区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである<ref name="1985-40"/>。半径30mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは120度ほどの角度がつく<ref name="hf1-26"/>。
日本の普通鉄道において、本線上で半径30mもの急曲線が設定されている事例は、[[狭軌#特殊狭軌|特殊狭軌線]]や[[専用鉄道]]以外にはほとんどない<ref name="dj93-38"/>。
==== 三線軌条 ====
[[入生田駅]]と箱根湯本駅の間には、国際標準軌の1,435mm・狭軌の1,067mmという異なる軌間において、片側のレールを共用する[[三線軌条]]が存在する。
これは[[#小田急が箱根湯本へ乗り入れ|後述]]するように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で<ref name="2011-63"/>、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された<ref name="1985-8"/>。これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、分岐器も複雑な構造となった<ref name="1988-u-6"/>。
狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく<ref name="dj93-38"/>、[[東日本旅客鉄道]]では[[山形新幹線]]運行のために奥羽本線の一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察、分岐器の構造などについて学んでいる<ref name="2011-70"/>。しかし、輸送力の違いやバリアフリー化対応などの理由により<ref name="2011-64"/>、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された<ref name="2011-65"/>。
== 歴史 ==
=== 建設の経緯 ===
箱根に登山電車を走らせる計画は、[[1896年]]に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあった<ref name="2011-139"/>が、計画が具体化するのは、[[1900年]]に国府津と湯本を結ぶ電気鉄道の路線を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けで[[温泉村 (神奈川県)|温泉村]]から「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである<ref name="2011-136137"/>。小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめた<ref name="1995-91"/>が、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった<ref name="2011-140"/>。
登山電車の建設計画が再び具体化するのは[[1907年]]、[[スイス]]における[[登山鉄道]]の実況を視察した者から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。また、[[益田孝]]や[[井上馨]]などの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告した<ref name="1995-92"/>ことを受け、[[1910年]]1月の臨時株主総会において、[[箱根湯本駅|湯本駅(当時)]]から[[強羅駅]]へ路線を延長することが決定した<ref name="1995-93"/>。同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅から仙石原を経て[[御殿場線|東海道本線(当時)]]の[[裾野駅|佐野駅(当時)]]への延伸計画を追加し<ref name="1995-93"/>、[[1911年]]3月1日に登山鉄道建設の免許が交付された<ref name="1995-94"/>が、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた<ref name="1985-40"/>。
=== 度重なるルート変更 ===
[[ファイル:箱根登山001.jpg|thumb|[[箱根ロープウェイ]]と箱根登山鉄道各線の{{ランドサット}}。水色が箱根ロープウェイ、赤が'''鉄道線'''、橙が鋼索線]]
当初の免許では、[[須雲川]]の右岸を遡り、須雲川集落から北上して[[大平台駅]]へ抜け、[[宮ノ下駅]]からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13kmになるルートであった<ref name="1995-95"/>が、この時期に軌道線が早川の洪水によって軌道が流失してしまい<ref name="1995-89"/>、ルート変更を余儀なくされた<ref name="1995-95"/>ため、登山鉄道のルートも再検討することとなった<ref name="1995-9596"/>。
そこで、1911年5月には[[塔ノ沢駅]]までは早川の左岸を進み<ref name="1995-96"/>、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された<ref name="1995-96"/>。このルート案では、[[電気機関車]]が[[客車]]2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125[[パーミル|‰(パーミル)]]の[[アプト式]]鉄道とする計画で<ref name="1995-96"/>、湯本から強羅までの距離は7.1kmほどとなるルート設定であった<ref name="1995-96"/>が、当時既に最急勾配が66.7‰のアプト式鉄道として開通していた[[信越本線]]の[[横川駅]] - [[軽井沢駅]]間([[碓氷峠]])よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった<ref name="1995-96"/>。また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあった<ref name="1985-18"/>ため、再度検討することになり、[[1912年]]7月に主任技師長の半田貢を[[ヨーロッパ]]に派遣した<ref name="2011-143"/>。
半田は半年ほどの視察の後に帰国した<ref name="2011-143"/>が、スイスの[[レーティッシュ鉄道#ベルニナ線|ベルニナ鉄道]]においては70‰の急勾配が20kmほど連続しており<ref name="1985-18"/>、これから敷設しようとしている登山鉄道と似た点が多く<ref name="1985-1819"/>、大いに参考になったという<ref name="1985-19"/>。しかし、粘着式鉄道では125‰もの急勾配は登れないことが分かったため、[[スイッチバック]]を途中3箇所に設けた、最急勾配80‰の粘着式鉄道として建設することになった<ref name="1995-97"/>。建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていた<ref name="1995-98"/>が、すぐに中断となり、[[1913年]]3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した<ref name="1995-98"/>。この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが<ref name="1995-98"/>、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている<ref name="1995-98"/>。
=== 難工事・運行開始 ===
{{Triple image|right|Yumoto Sta under construction.jpg|132|Making of Tozan Hayakaha Bridge.jpg|85|Deyama Signal Sta under construction.jpg|179|建設中の箱根湯本駅|建設中の早川橋梁|建設中の出山信号場}}
こうして、ようやく建設は開始された。ところが、[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶<ref name="g100-43"/>、建設工事にも影響を及ぼした。
[[早川橋梁 (箱根登山鉄道鉄道線)|早川橋梁]]の建設に当たっては東海道本線の天竜川橋梁のトラス鋼体の払い下げを受けることになった<ref name="2011-49"/>が、景観破壊の恐れがあると神奈川県知事からクレームが入り<ref name="1995-101"/>、改築を条件にしてようやく認められた<ref name="1985-25"/>。この早川橋梁の架設工事が終了したのは[[1917年]]5月31日で<ref name="1985-27"/>、[[1915年]]に架橋工事が開始されてから<ref name="1985-27"/>2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている<ref name="g100-43"/>。車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず<ref name="1994-14"/>、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]製の車両を購入することになった<ref name="1994-14"/>。
さらに、[[1916年]]に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した<ref name="1985-22"/>。山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく<ref name="2011-17"/>、仕方なく遠回りのルートに変更された<ref name="1985-22"/>。当初計画になかった[[小涌谷駅]]は、この時に開設が決まった<ref name="1985-22"/>。
{{Double image aside|right|Yumoto Sta 1919.jpg|200|Kowakidani Sta 1919.jpg|150|鉄道線開業直後の箱根湯本駅|開業直後の小涌谷駅}}
このようなことから、工事は大幅に遅れ<ref name="g100-43"/>、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり<ref name="1995-98"/>、資金調達のために3度にわたり社債の発行や増資などを行う必要に迫られている<ref name="2011-147"/>。
着工から7年以上が経過した<ref name="g100-43"/>[[1919年]]5月24日にようやくすべての工事が完了<ref name="2011-151"/>、同年6月1日、箱根湯本駅から強羅駅までを結ぶ登山電車の運行が開始された<ref name="g100-44"/>。しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった<ref name="1985-31"/>。同日に開業した[[バス (交通機関)|乗合自動車]]より運賃は安かった<ref name="1985-31"/>ものの、当時の往復運賃は職人の1日分の日当と同じ金額であったのである<ref name="1985-31"/>。
=== 関東大震災 ===
{{Double image aside|right|Railway track of Odawara Electric Railways that collapses by Earthquake.jpg|200|Hayakawa bridge and Sugiyama tunnel after Earthquake.jpg|180|震災により崩壊した線路|震災により崩壊した杉山トンネル。手前のトラスは早川橋梁}}
[[1923年]]9月1日に発生した[[関東大震災]]では、鉄道線は甚大な被害を蒙った<ref name="g100-44"/>。箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没してしまった<ref name="1995-142"/>など、軌道は大部分が崩壊や埋没し<ref name="g100-44"/>、建造物も半数近くが半壊<ref name="g100-44"/>、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した<ref name="1994-26"/>。橋梁は1箇所を除いてすべて破壊されてしまった<ref name="1994-26"/>が、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷<ref name="g100-44"/>とわずかにずれた程度で、被害を免れた。7両あった登山電車もすべて脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった<ref name="1994-26"/>。
早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌[[1924年]]1月から復旧工事が開始された<ref name="g100-45"/>。復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955771/3 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』1924年9月18日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955835/8 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』 1924年12月5日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日<ref name="kanpou19250115">[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955865/5 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』 1925年1月15日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった<ref name="kanpou19250115" />。
震災の被害から復帰した後の[[1926年]]1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するという[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#箱根登山鉄道電車脱線転落事故|事故]]が発生した<ref name="2011-165"/>。運転士は生存していたが精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかった<ref name="2011-166"/>が、速度制御に失敗したものとみられている<ref name="2011-166"/>。この事故の後しばらくした[[1928年]]1月に、小田原電気鉄道はいったん[[日本電力]]に合併した<ref name="bjr58-26"/>あと、同年8月に再度'''箱根登山鉄道'''として分社化された<ref name="bjr58-26"/>。
=== 登山電車が小田原へ乗り入れ ===
日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された<ref name="g100-49"/>。この計画では小田原から風祭までは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった<ref name="g100-49"/>。
{{Double image aside|right|Komine Tunnel under construction.jpg|110|Tozan Itabashi viaduct 1935.jpg|200|建設中の小峰隧道|板橋陸橋での試運転}}
[[1927年]]4月1日に[[新宿駅]]を起点とする[[小田急電鉄|小田原急行鉄道]](小田急)が[[小田原駅]]まで開通した<ref name="1995-165"/>ことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請<ref name="1995-165"/>、[[1930年]]には小田急との連絡について協定を結んだ<ref name="1995-165"/>。[[1931年]]11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い<ref name="g100-50"/>、小田原駅への乗り入れが認められた[[1934年]]からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手<ref name="g100-50"/>、[[1935年]]9月21日にすべての工事が完了した<ref name="g100-50"/>。小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている<ref name="rp546-103"/>。これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった<ref name="g100-50"/>。しかし、鉄道線の線路は最小曲線半径が30mという厳しい線形であり、勾配も日本最急となる80‰で、安全な連結器を開発する必要があった。そこで、鉄道省に連結器についての指導を仰いだ結果<ref name="g100-50"/>、[[東芝|東京芝浦電気]]の設計による連結器の試作が実現した<ref name="g100-50"/>。数ヶ月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため<ref name="g100-50"/>、チキ2形の連結器をすべて交換した<ref name="1994-21"/>。
こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された<ref name="2011-170"/>。これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり<ref name="1985-52"/>、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した<ref name="1985-52"/>。
戦時体制に入ってからは、[[1942年]]5月30日付で[[五島慶太]]が社長に就任する<ref name="g100-88"/>などの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった<ref name="g100-57"/>。終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両が進駐軍専用車両となった<ref name="g100-57"/>。[[1948年]]9月15日には[[アイオン台風]]が上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失<ref name="1995-175"/>、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり<ref name="g100-58"/>、復旧は翌[[1949年]]7月6日までずれ込んだ<ref name="g100-58"/>。
=== 小田急が箱根湯本へ乗り入れ ===
これより少し遡る[[1946年]]には東京急行電鉄([[大東急]])が策定した「鉄軌道復興3カ年計画」の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた<ref name="2009-a-118119"/>。1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップ特急の運行を開始していた<ref name="2000-18"/>が、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え<ref name="2000-6869"/>、この乗り入れ計画を推進することになった。
しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。
{{Double image aside|right|Kazamatsuri Dualgauge switch 1.jpg|160|Kazamatsuri Dualgauge switch 2.jpg|160|三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造}}
鉄道線の[[軌間]]は国際的な標準である1,435mmであった<ref name="g100-61"/>が、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067mmであった<ref name="1995-176"/>。どちらかに統一しようにも、80‰の急勾配を上る能力のある電動機は当時の技術では1,067mmの規格では収まらなかった<ref name="2011-63"/>ため、鉄道線の軌間を1,067mmに[[改軌]]することは不可能であった<ref name="2011-63"/>。また、小田急を1,435mmに改軌するのは、車両数が多く膨大な費用が必要で<ref name="2000-69"/>、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった<ref name="2000-69"/>上、国鉄との貨物輸送において貨車の直通が不可能となり<ref name="2011-63"/>、貨物収入が激減してしまうことになる<ref name="2011-63"/>。そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設する[[三線軌条]]を採用することとなった<ref name="g100-61"/>。なお、共用するレールについては山側(小田原を発車すると進行方向右側)とされた<ref name="1981-187"/>が、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、国道1号が併走)への転落を防ぐためである<ref name="1981-187"/>。通常の[[分岐器]]は可動箇所が2箇所である<ref name="2011-64"/>が、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり<ref name="2011-64"/>、当初は手動で梃子によって切り替えを行っていた<ref name="1988-i-107"/>が、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという<ref name="1981-186"/>。その後分岐器の切り替えは電動化された<ref name="1988-i-107"/>。
[[ファイル:Difference of OER and Tozan.jpg|thumb|小田急(軌間1,067mm)と箱根登山(軌間1,435mm)の車両規格の相違。片側のレールを共用すると、車体の位置がこれだけずれてしまう]]
三線軌条の導入によって、問題になったのは車両の[[連結器]]であった。登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急では[[連結器#自動連結器|自動連結器]]を使用していた<ref name="2000-71"/>。通常ならアダプターの役割を果たす[[連結器#中間連結器|中間連結器]]を介して非常時の連結に備えることになる<ref name="2000-71"/>が、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない<ref name="2000-7172"/>。このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった<ref name="2000-72"/>。車体中心のずれは駅のプラットホームと車両の間にも影響し<ref name="2000-71"/>、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800mmであるのに対し<ref name="dj93-38"/>、登山電車の車体幅は2,520mmと狭い<ref name="dj93-38"/>ことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30cm以上の隙間ができてしまうことになった<ref name="dj93-38"/>。
また、鉄道線の架線電圧は当時直流600Vであった<ref name="2011-70"/>が、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500Vであった<ref name="1995-177"/>ため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500Vに昇圧し<ref name="g100-61"/>{{refnest|group="注釈"|name="小田急湯本変電所"|直流1,500Vの電源は、小田急が設置した湯本変電所からの給電である<ref name="rp405-117"/>。}}、箱根湯本駅構内には[[デッドセクション|架線死区間(デッドセクション)]]が設置され<ref name="2011-73"/>、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった<ref name="2000-72"/>。ただし、これによって直流600Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり<ref name="g100-59"/>、箱根湯本から送電線による給電をせざるをえなくなった<ref name="g100-60"/>。
その上、軌道条件も異なっていた。小田原と箱根湯本の間は最急勾配は40‰で、箱根湯本から先の80‰と比べれば緩い勾配であったため、箱根登山ではこの区間を「平坦線」と称していた<ref name="1987-85"/>。しかし、当時の小田急における最急勾配は25‰で<ref name="2011-72"/>、40‰という勾配はそれをはるかに超えており、小田急の車両にとっては平坦どころではない<ref name="1985-10"/>。そのような勾配が1km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった<ref name="1987-85"/>。このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった<ref name="2011-72"/>。
このほか、風祭駅に列車交換設備を新設したり<ref name="2000-72"/>、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた<ref name="2000-72"/>。
技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた<ref name="2000-72"/>。これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった<ref name="2000-73"/><ref group="注釈" name="小田急湯本変電所"/>。
これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。東京芝浦電気と[[汽車会社]]の労働争議によって車両関係の改造が遅れるという障害もあった<ref name="2011-71"/>が、[[1950年]]8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された<ref name="2000-72"/>。乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してアーチが飾られ<ref name="1995-176"/>、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた<ref name="1995-176"/>。この乗り入れ開始によって、小田急を利用して箱根を訪れる利用者は倍増<ref name="2011-73"/>、鉄道線の利用者数も前年と比較して27%の増加をみる<ref name="2011-73"/>など、利用者数は著しく増加した。
[[1964年]]にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設<ref name="g100-90"/>、[[1972年]]には[[列車集中制御装置|列車集中制御装置 (CTC)]] が導入された<ref name="g100-91"/>。1972年3月15日には[[箱根 彫刻の森美術館|箱根彫刻の森美術館]]最寄の二ノ平駅が[[彫刻の森駅]]に改称された<ref name="g100-91"/>。[[1980年]]からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され<ref name="g100-91"/>、[[1982年]]7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20mの車両による6両編成に増強された<ref name="rp546-148"/>。
=== 登山電車の3両編成化 ===
[[ファイル:Odawara Sta platform OER Tozan 19930504.jpg|thumb|登山電車に乗ろうとする人たちの長蛇の列(1993年のゴールデンウィーク)]]
鉄道線を利用する観光客は増加し、[[1991年]]には年間輸送人員が1千万人を超えた<ref name="rj324-75"/>。この当時、箱根を訪れる観光客のうち52%は何らかの形で箱根登山鉄道を利用していた<ref name="rj324-75"/>。当時の登山電車は2両編成で15分間隔が最大の輸送力であり<ref name="rj324-75"/>、[[ゴールデンウィーク]]や箱根[[大名行列]]が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた<ref name="rj324-75"/>。しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した<ref name="rj324-75"/>。
鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された<ref name="rj324-75"/>。もっとも難工事だったのは[[塔ノ沢駅]]の工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で<ref name="rj324-76"/>、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで<ref name="rj324-76"/>、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった<ref name="rj324-76"/>。このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり<ref name="rj324-76"/>、文字通り人海戦術での工事を余儀なくされた<ref name="rj324-76"/>。塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた<ref name="rj324-77"/>。
これ以外にも、変電所の増強や<ref name="rj324-75"/>、架線電圧を600Vから750Vへ昇圧<ref name="rj324-73"/>、一部車両の2両固定編成化などが行われた<ref name="rj324-75"/>。塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため<ref name="rj324-77"/>、当初は[[1993年]]10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された<ref name="rj324-77"/>。
=== 三線軌条区間の縮小 ===
{{Double image aside|right|Kazamatsuri-Door-Open.jpg|160|OER 5161.jpg|160|風祭駅での小田急電車は手動で扉を開いていた|2006年以降は小田原と箱根湯本の間は小田急の車両のみとなった}}
しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった<ref name="rp679-192"/>。このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車をすべて箱根湯本と強羅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた<ref name="rp679-192"/>。また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる<ref name="2011-64"/>上、途中の[[風祭駅]]ではホーム長が短いために、小田急の車両では[[ドアコック]]を使用して手動で扉を開ける<ref name="rp546-112"/>という状態であった。
さらに[[バリアフリー]]対応にも問題が生じた。小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]に抵触する可能性も出てきた<ref name="2011-64"/>。
こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ<ref name="rp829-206"/>、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった<ref name="rp829-206"/>。さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車はすべて小田急の車両に置き換えられることになった<ref name="rp829-214"/>。これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去された<ref name="rp829-214"/>が、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された<ref name="rp829-214"/>。2008年3月15日のダイヤ改正からは風祭駅の改良工事が完了し<ref name="rp829-215"/>、小田急の車両は特急ロマンスカー以外は4両編成での運行となった<ref name="rp829-215"/>。
== 運行形態 ==
=== 軌道条件 ===
{{Double image aside|right|Hakone-Tozan-80permillage-sign.jpg|160|Hakone-Tozan-Curve-R30-1.jpg|160|80[[パーミル|‰]]の勾配標|半径30mの急カーブ}}
箱根湯本駅 - [[強羅駅]]間は、[[車輪]]と[[軌条|レール]]の間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配(80[[パーミル|‰]])を登る<ref name="rp405-117"/>。この区間に3か所([[出山信号場]]・[[大平台駅]]・[[上大平台信号場]])ある[[スイッチバック]]も山岳鉄道的な特徴である<ref name="rp405-117"/>。このほか、カーブの最小半径も30mと小さい<ref name="rp405-117"/>。
全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50kgレール<ref name="dj93-38"/>{{refnest|group="注釈"|name="50kgレール"|1mあたりの重さが50kgのレール<ref name="dj93-38"/>。}}であるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10m<ref name="dj93-38"/>の37kgレール<ref name="dj93-38"/>{{refnest|group="注釈"|name="37kgレール"|1mあたりの重さが37kgのレール<ref name="dj93-38"/>。}}を使用している。37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること<ref name="dj93-38"/>、通過トン数にも十分対応している<ref name="dj93-38"/>といった理由が挙げられている。
小田原駅 - 箱根湯本駅間の最高速度は55km/h<ref name="rf240-64"/>、箱根湯本駅 - 強羅駅間での最高速度は40km/hである<ref name="rf240-64"/>。また、下り勾配においては、30‰以下では55km/h<ref name="rj324-73"/>、40‰以下では50km/h<ref name="rj324-73"/>、50‰以下では40km/h<ref name="rj324-73"/>、60‰以下では35km/h<ref name="rj324-73"/>、70‰以下では30km/h<ref name="rj324-74"/>、80‰以下では25km/h<ref name="rj324-74"/>までに速度が制限されている。半径30mの曲線における速度制限は15km/hである<ref name="rj324-74"/>。
=== 運行体制 ===
運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており{{refnest|group="注釈"|1919年8月20日改正の時刻表で確認できる<ref name="1988-i-93"/>。}}、軌道線の市内電車との接続が図られていた<ref name="1988-i-94"/>。
戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車は特急が3往復と急行が7往復であった<ref name="rp405-18"/>。その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復<ref name="arc1-45"/>、日中の急行は30分間隔での運転で<ref name="arc1-47"/>、これに登山電車が接続していた。
その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原と強羅を直通する登山電車が毎時2本<ref name="rp405-119"/>、これに[[小田急小田原線]]から乗り入れてくる[[特別急行列車|特急]][[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]]と急行がそれぞれ毎時2本ずつとなっており<ref name="rp405-119"/>、箱根湯本駅 - 強羅駅間は箱根湯本と強羅の間を運行する列車が毎時2本設定されており<ref name="rp405-119"/>、小田原からの直通電車とあわせて毎時4本という運行形態であった<ref name="rp405-119"/>。
しかし、登山電車は小型の車両で輸送力が低く、輸送力にやや難があったため<ref name="rp532-43"/>、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原始発の箱根湯本行きが設定された<ref name="rp532-43"/>。さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は毎時2本から4本に倍増<ref name="rp829-206"/>、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった<ref name="rp829-206"/>。さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた<ref name="rp829-214"/>。これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった<ref name="2011-64"/>。
2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転の[[各駅停車]]が毎時4本<ref name="t2012-9497"/><ref name="t2012-168171"/>、[[小田急小田原線]][[新宿駅|新宿]]、[[東京地下鉄千代田線]][[北千住駅|北千住]]方面から特急ロマンスカーが毎時2本<ref name="t2012-9497"/><ref name="t2012-168171"/>という運行体制が基本となった。箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中毎時4本で運行される<ref name="t2012-9497"/><ref name="t2012-168171"/>。
=== 箱根駅伝への対応 ===
[[ファイル:Ticket Tozan from Kazamatsuri to Yumoto.jpg|thumb|風祭から箱根湯本ゆき乗車券。このような短い区間であっても、2日間有効で途中下車可能だった]]
[[小涌谷駅]]に隣接する小涌谷踏切は[[東京箱根間往復大学駅伝競走|東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)]]のコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する<ref name="2011-30"/>。これに対応して、開催日の[[1月2日]](往路)昼頃と[[1月3日]](復路)午前8時台は踏切に係員を待機させ<ref name="2011-30"/>、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる<ref name="2011-31"/>。これは選手が踏切で足止めされ、遮断機をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である<ref name="2011-31"/>。
=== 乗車券・座席券 ===
鉄道線の開業当初より{{refnest|group="注釈"|1925年3月22日発行の乗車券で、「通用発行日共二日間」という表記が確認できる<ref name="1988-i-133"/>。}}、線内の乗車券は片道でも2日間有効で[[途中下車]]可能であった<ref name="rp532-42"/>が、[[2002年]]4月1日よりこの取り扱いは廃止され<ref name="rj431-73"/>、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された<ref name="rj431-73"/>。
特急ロマンスカーについては箱根登山線内のみの利用はできなかった<ref name="1988-u-117"/>が、[[2005年]][[10月1日]]から座席券(大人200円)の発売が開始され、空席がある場合に限り利用可能になった<ref name="Romancecar"/>。この座席券は、小田原駅・[[箱根湯本駅]]のホームにおいて、当日のみ購入可能である<ref name="Romancecar"/>。
== 沿線概況 ==
=== 概略 ===
[[小田原駅]]から[[箱根湯本駅]]までの区間における最急勾配は40‰、急曲線の半径も160m程度と、箱根登山鉄道としては緩やかである<ref name="dj93-38"/>。箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており<ref name="1985-10"/>、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたという<ref name="1985-10"/>が、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である<ref name="dj93-38"/>。箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる<ref name="rj324-73"/>。
箱根湯本駅から[[強羅駅]]まで8.9kmの区間のうち、半分近い4.2kmが80‰の勾配となる区間である<ref name="rj324-71"/>。箱根湯本駅と強羅駅の標高差は445mで<ref name="rj467-53"/>、この区間の平均勾配は50‰と計算される<ref name="rj275-140"/>。この区間では大半の区間で樹木に囲まれており<ref name="dj93-34"/>、夏季には併走する[[国道1号]]からでさえも電車の姿は見えなくなる<ref name="1985-23"/>。
==== 小田原 - 箱根湯本 ====
[[ファイル:OER 10000 Odawara Hakoneitabashi.jpg|thumb|小田原 - 箱根板橋間の半径160mの急カーブ(2009年3月17日)]]
標高26mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJR[[東海道本線]]と並行して南に下る<ref name="rp532-43"/>。平坦線では唯一のトンネルである小峰隧道を抜けると<ref name="rp532-4344"/>、半径160mのカーブで右にカーブ<ref name="1988-i-6"/>、同時に20‰の坂を下って<ref name="dj93-38"/>[[東海道新幹線]]をくぐり<ref name="rp532-44"/>、標高27mの[[箱根板橋駅]]に到着する。ここからは[[早川 (神奈川県)|早川]]沿いを国道1号と併走して[[箱根湯本駅|箱根湯本]]に向かうが、箱根板橋駅を発車するとすぐに40‰の上り勾配となり<ref name="rp532-44"/>、国道1号を跨ぎ、しばらく国道1号と併走した後に33.3‰の下り勾配となるが、強羅へ向かう方向ではこれが最後の下り勾配である<ref name="rp532-x"/>。この下り勾配を下りきって[[小田原厚木道路]]の高架橋をくぐる<ref name="dj93-34"/>と標高48mの[[風祭駅]]である。風祭駅を過ぎると最大28.5‰の上り勾配が続き<ref name="1988-i-6"/>、勾配が緩くなると標高66mの[[入生田駅|入生田]]で、登山電車の車庫が併設されている<ref name="2009-u-135"/>。
入生田駅を
==== 箱根湯本 - 大平台 ====
箱根湯本を発車すると、急勾配を登る前の助走区間のようなものは存在せず<ref name="
塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル (317.9m) である大ヶ嶽隧道に入る<ref name="rp532-44"/>が、トンネルの中でも80‰の勾配が続く<ref name="rp532-44"/>。トンネルの出口はかなり上の方にあり<ref name="
==== 大平台 - 強羅 ====
{{Double image aside|right|Tozan Kowakidani cross Ekiden Yamanashigakuin.jpg|160|Hakone-Tozan-Curve-R30-2.jpg|160|箱根駅伝の開催時には、選手を通すため踏切で電車を停止させる|小涌谷 - 彫刻の森間のカーブを曲がっているところ}}
大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる<ref name="rp532-45"/>。66.67‰の勾配<ref name="hf1-21"/>を500mほど進むと標高359mの[[上大平台信号場]]<ref name="1988-i-7"/>。ここもスイッチバックで、さらに進行方向が変わり<ref name="rp532-45"/>、上り80‰勾配の線路を登る<ref name="hf1-25"/>。強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると<ref name="rp532-45"/>、標高410mの[[仙人台信号場]]である<ref name="1988-i-7"/>。仙人台からは再び国道1号と並行する<ref name="hf1-26"/>が、この辺りでは随所に半径30mから40m程度の急カーブが連続する<ref name="1988-i-7"/>。3両編成の列車(全長45m)の場合、先頭車と後尾車では120度の角度の差がつく<ref name="hf1-26"/>。50‰から55‰程度の勾配で徐々に高度を上げ<ref name="1988-i-7"/>、標高448mの[[宮ノ下駅]]に到着する。ホームの向こうには[[明星ヶ岳]]が一望できる<ref name="hf1-27"/>。
宮ノ下駅を発車すると、
小涌谷駅を発車すると、
=== あじさい電車 ===
[[ファイル:Tozan 103 Hydrangea.jpg|thumb|線路沿いにはあじさいが植えられている]]
沿線の線路沿いには1万株以上の[[アジサイ|紫陽花(あじさい)]]が植えられている<ref name="hf1-12"/>。これは、元来は土止めの目的で植えられたもので<ref name="rp532-44"/>、開業当時には存在しなかったものである<ref name="rp532-44"/>。しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため<ref name="1985-34"/>、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである<ref name="1985-34"/><ref name="hf1-12"/>。
紫陽花の花が見ごろとなる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり<ref name="g100-65"/>、1975年ごろからは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見ごろになる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている<ref name="rp532-44"/>。1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において環境庁長官賞を受賞した<ref name="g100-65"/>。
1990年代からは夜間に紫陽花のライトアップも行われており<ref name="2011-37"/>、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、座席指定制の「夜のあじさい電車」の運行も行なわれるようになった<ref name="rj383-46"/>。また、ライトアップ期間中には定期列車でも紫陽花のみどころで臨時停車が行われることがある<ref name="2011-37"/>が、臨時停車する地点は80‰勾配の途中にも設定されている<ref name="2011-37"/>。
== 車両 ==
=== 登山電車の特徴 ===
箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80[[パーミル|‰]]の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。
==== レール圧着ブレーキ ====
保安ブレーキとして設けられているもので<ref name="dj93-39"/>、空気圧により作動し台車から[[炭化ケイ素|カーボランダム]]のブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである<ref name="rp405-118"/>。通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触である<ref name="rf240-63"/>が、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールは面接触によって<ref name="rf240-63"/>ブレーキが作動する仕組みである<ref name="rf240-63"/>。このブレーキは他の常用ブレーキ(空気ブレーキ・電気ブレーキ・手ブレーキ)とは別系統となっており<ref name="dj93-39"/>、300‰の坂でも停止できる性能を備えている<ref name="1993-56"/>。
レールに使用される鋼とカーボランダムの静止摩擦係数(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0.30<ref name="1994-24"/>{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.30"|角度に直すと約17度<ref name="1994-24"/>、鉄道の勾配では300‰に相当する<ref name="1994-24"/>。}}、撒水した状態では0.42である<ref name="1994-24"/>{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.42"|角度に直すと約25度<ref name="1994-24"/>、鉄道の勾配では420‰に相当する<ref name="1994-24"/>。}}。これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0.15{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.15"|角度に直すと約8.5度<ref name="1994-24"/>、鉄道の勾配では150‰に相当する<ref name="1994-24"/>。}}、撒水時で0.123{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.123"|角度に直すと約7度<ref name="1994-24"/>、鉄道の勾配では123‰に相当する<ref name="1994-24"/>。}}であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており<ref name="1994-24"/>、大きな摩擦力が働くことが分かる。
開業時の1919年に導入されたチキ1形では電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため<ref name="1994-41"/>、全車両がレール圧着ブレーキに統一された<ref name="1994-41"/>。一時期はカーボランダムの代わりに[[酸化アルミニウム|アランダム(アルミナ)]]が使用されたことがある<ref name="1994-31"/>。
====
鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。レールと車輪では車輪の方が硬く<ref name="1985-41"/>、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり<ref name="1985-41"/>、台車側に塗油を設けることによってレールの磨耗を抑える<ref name="dj93-39"/>。
しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して空転や滑走が発生し<ref name="rf240-57"/>、極めて危険な状態となる<ref name="2011-20"/>。そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした<ref name="rf240-57"/>。このため、各車両とも車両の両端部に容量360l(リットル)の水タンクを設け<ref name="dj93-39"/>、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している<ref name="dj93-39"/>。片道1回の運行でおよそ50lから80lの水を消費する<ref name="dj93-39"/>。
開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという<ref name="1985-41"/>。このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けた<ref name="1994-17"/>が、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した<ref name="1994-17"/>。
==== 連結器 ====
開業当時に製造されたチキ1形では[[連結器#リンク式連結器|リンク式連結器]]を装備しており<ref name="rj467-5455"/>、1927年に登場したチキ2形では[[連結器#自動連結器|自動連結器]]を装備していた<ref name="rj467-55"/>。しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発される<ref name="1985-38"/>までは、連結して運用されることはなかった<ref name="1985-38"/>。
この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため<ref name="rj467-54"/>、上下左右に大きく振れる構造となっている<ref name="rj467-54"/>。ただし、「サン・モリッツ号」の編成中間部では半永久連結器が使用されている<ref name="rj467-54"/>。また、連結器の突き出し部分は長くとられており<ref name="rj467-54"/>、連結面間距離においても通常の20mの通勤電車で500mm程度なのに対して<ref name="1988-i-84"/>、「ベルニナ号」では860mmも空いている<ref name="1988-i-84"/>。
なお、車両間の[[貫通扉|貫通路]]は非常用であり<ref name="rj467-54"/>、貫通幌も設置されておらず<ref name="rj324-71"/>、通常は施錠されている<ref name="dj93-45"/>。
====
電車の走行・ブレーキに使用する[[抵抗器]]は下り坂での[[発電ブレーキ]]で使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している<ref name="rp405-118"/>。開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていた<ref name="1988-i-66"/>が、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた<ref name="1988-i-68"/>。その後、旅客車両ではすべて屋根上に抵抗器を搭載している<ref name="1988-i-83"/>。
=== 車両各説 ===
==== 自社車両 ====
===== 旅客車両 =====
; [[小田原電気鉄道チキ1形電車|チキ1形(チキテ1形)→モハ1形]]:1919年の開業当時に7両が製造された<ref name="1988-i-77"/>。電装品と台車はアメリカ製<ref name="1994-14"/>、車体は[[日本車両製造]]による木造車体である<ref name="1994-14"/>で、全車両が車両中央に手荷物室を設けていた<ref name="1988-i-78"/>。1926年にチキ5が[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#箱根登山鉄道電車脱線転落事故|脱線転落事故]]により廃車<ref name="1994-26"/>。1934年にはチキ1・チキ2・チキ6・チキ7の4両が荷物室を撤去し<ref name="1988-i-78"/>、荷物室が残った車両はチキテ1形に称号変更を行いチキテ3・チキテ4となる<ref name="1994-30"/>。1950年に全車両について車体の鋼体化と複電圧化改造が行われ、同年に全車両がモハ1形に称号変更<ref name="1994-30"/>、番号は元の番号に100を加算した<ref name="1988-i-80"/>。その後、1993年の3両編成化に伴い全車両が片側の運転台を撤去して2両固定編成化<ref name="rj324-77"/>。2002年に2両が廃車。
; [[小田原電気鉄道チキ2形電車|チキ2形(チキテ2形)→モハ2形(モハニ2形)]]:1927年に3両が製造された<ref name="1988-i-79"/>。電装品と台車はスイス製<ref name="1994-17"/>、車体は日本車両製造による木造車体である<ref name="1994-17"/>で、番号はチキ1形に続いてチキ8からチキ10とされた<ref name="1994-17"/>。1934年にはチキ8・10の4両が荷物室を撤去し<ref name="1994-30"/>、荷物室が残った車両はチキテ2形に称号変更を行いチキテ9となる<ref name="1994-30"/>。1935年には保管されていた電装品と台車を使用し、車体を[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車両]]の鋼製車体を架装したチキ111・チキ112が増備された<ref name="1994-29"/>。1950年に複電圧化改造と同時期に称号変更が行われモハ2形・モハニ2形となり<ref name="1988-i-80"/>、モハ8・モハニ9・モハ10は元の番号に100を加算した<ref name="1988-i-80"/>。1955年から1957年にかけて木造車体の車両については鋼体化が行われ<ref name="1994-31"/>、同時に全車両ともモハ2形に揃えられた<ref name="1994-30"/>。1991年に2両が廃車<ref name="rj324-76"/>。
; [[箱根登山鉄道チキ3形電車|チキ3形→モハ3形]]:1935年に川崎車両で3両が製造された<ref name="1994-29"/>。電装品・台車も日本製で<ref name="1994-29"/>、当初より番号はチキ113からチキ115となっている<ref name="1994-29"/>。1984年に2両が廃車<ref name="rj324-76"/>、1997年に残る1両も廃車となり全廃<ref name="2011-75"/>。
; [[箱根登山鉄道1000形電車|1000形「ベルニナ号」]]:約45年ぶりとなる新型車両として1981年に登場<ref name="rp405-118"/>、[[1984年]]には1編成が増備<ref name="g100-92"/>、2004年には冷房改造と同時に後述する[[箱根登山鉄道2000系電車|「サン・モリッツ号」]]の中間車を組み込んで3両編成となった<ref name="hf1-32"/>。第25回[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞車両<ref name="BL88-28"/>。
; [[箱根登山鉄道2000系電車|2000系「サン・モリッツ号」]]:登山電車では初の冷房車として1989年に登場<ref name="rj275-141"/>。1991年に1編成が増備され<ref name="1994-33"/>、1993年には3両編成化のため中間車2両を増備<ref name="1994-42"/>、1997年には3両編成1編成が増備された<ref name="rj467-55"/>。2004年には2編成が2両編成となり<ref name="rj467-55"/>、捻出された中間車は前述の[[箱根登山鉄道1000形電車|「ベルニナ号」]]に組み込まれた<ref name="hf1-32"/>。
=====
; [[箱根登山鉄道ユ1形電車|ム1形]]:開業より早い1916年に2両が製造された電動無蓋貨車<ref name="1994-17"/>で、建設時から資材輸送に使用されていた<ref name="dj93-45"/>。1952年に1両が廃車された<ref name="1988-i-86"/>が、その後も1両が車庫での入換用に残されていた<ref name="dj93-45"/>。1992年に全廃。
; [[箱根登山鉄道ユ1形電車|ユ1形]]:1921年に2両が製造された電動有蓋貨車<ref name="1994-18"/>で、箱根の旅館で使用する食材や資材などの運搬に使用されていた<ref name="1994-18"/>。1952年に1両が廃車された<ref name="1988-i-87"/>が、その後も保線用に残されていた<ref name="1988-i-87"/>。1976年に全廃<ref name="1988-i-87"/>。
===== 導入予定の車両 =====
; 3000形<!--現時点のプレスリリースで「形」となっているので-->:2000系の増結用として2014年に2両が製造される予定<ref name="rj550-149"/>。箱根登山鉄道では初の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]車両となる<ref name="tozan120514"/>ほか、[[回生ブレーキ]]・LED照明を採用する<ref name="tozan120514"/>。デザイン設計は、「VSE」・「MSE」をデザインした実績のある[[岡部憲明|岡部憲明アーキテクチャーネットワーク]]に依頼<ref name="rj550-149"/>。
====
1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は[[小田急1600形電車|1600形]]・[[小田急1900形電車|1900形]]などの30両に限定されていた<ref name="1988-i-107"/>。これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである<ref name="1988-i-108"/>。その後[[小田原急行鉄道201形電車|1400形]]<ref name="1988-i-102"/>や[[小田急2200形電車|2200形]]・[[小田急2400形電車|2400形]]なども乗り入れるようになった<ref name="2000-75"/>。
その後、1982年ごろまでは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両は[[小田急2400形電車|2400形]]に限定されるようになった<ref name="rp405-117"/>。これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであった<ref name="rp405-117"/>が、1982年7月からは[[小田急5000形電車|5200形]]・[[小田急9000形電車|9000形]]などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった<ref name="2000-75"/>。ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された<ref name="rp532-43"/>。
2000年ごろには側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い<ref name="2000-75"/>、通勤車両は6両編成までならすべての形式が乗り入れ可能となった<ref name="2000-75"/>。2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両以外は4両編成の車両のみが乗り入れている<ref name="rp829-215"/>。
なお、特急車両については、[[小田急1900形電車|1910形(2000形)]]以降のすべての特急車両が乗り入れている<ref name="2000-74"/><ref group="注釈">10両編成の[[小田急30000形電車|30000形「EXE」]]と[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]については、小田原で切り離しを行って6両編成となって乗り入れている。</ref>。
==
=== 駅一覧 ===
* 全駅[[神奈川県]]に所在。
* 入生田 - 箱根湯本間は、軌間1,067mm(狭軌)と軌間1,435mm(標準軌)の[[三線軌条]]区間。
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{|class="wikitable" rules="all"
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!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px red;"|所在地
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|[[小田原駅]]
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|rowspan="11"|[[足柄下郡]]<br/>[[箱根町]]
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|-
|[[塔ノ沢駅]]
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* 箱根湯本駅:[[箱根登山鉄道小田原市内線|軌道線]](1919 - 1935年)
* 箱根板橋駅:[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原町内線 - 小田原市内線]](1935 - 1956年)
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
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<ref name="1985-27">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.27]]</ref>
<ref name="1985-31">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.31]]</ref>
<ref name="1985-34">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.34]]</ref>
<ref name="1985-38">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.38]]</ref>
<ref name="1985-40">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.40]]</ref>
<ref name="1985-41">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.41]]</ref>
<ref name="1985-51">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.51]]</ref>
<ref name="1985-52">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.52]]</ref>
<ref name="1987-85">[[#吉川1987|吉川文夫編 『小田急 車両と駅の60年』 (1987) p.85]]</ref>
<ref name="1988-i-6">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.6]]</ref>
<ref name="1988-i-7">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.7]]</ref>
<ref name="1988-i-43">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.43]]</ref>
<ref name="1988-i-44">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.44]]</ref>
<ref name="1988-i-45">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.45]]</ref>
<ref name="1988-i-66">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.66]]</ref>
<ref name="1988-i-68">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.68]]</ref>
<ref name="1988-i-77">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.77]]</ref>
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<ref name="1988-i-84">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.84]]</ref>
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<ref name="1988-i-94">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.94]]</ref>
<ref name="1988-i-102">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.102]]</ref>
<ref name="1988-i-107">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.107]]</ref>
<ref name="1988-i-108">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.108]]</ref>
<ref name="1988-i-133">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.133]]</ref>
<ref name="1988-u-6">[[#生方1988|生方良雄 『日本の私鉄1 小田急』 (1988) p.6]]</ref>
<ref name="1988-u-117">[[#生方1988|生方良雄 『日本の私鉄1 小田急』 (1988) p.117]]</ref>
<ref name="1993-52">[[#加藤1993|加藤一雄 『小田急よもやま話(下)』 (1993) p.52]]</ref>
<ref name="1993-56">[[#加藤1993|加藤一雄 『小田急よもやま話(下)』 (1993) p.56]]</ref>
<ref name="1993-59">[[#加藤1993|加藤一雄 『小田急よもやま話(下)』 (1993) p.59]]</ref>
<ref name="1994-10">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.10]]</ref>
<ref name="1994-14">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.14]]</ref>
<ref name="1994-17">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.17]]</ref>
<ref name="1994-18">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.18]]</ref>
<ref name="1994-21">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.21]]</ref>
<ref name="1994-24">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.24]]</ref>
<ref name="1994-26">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.26]]</ref>
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<ref name="1994-41">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.41]]</ref>
<ref name="1994-42">[[#荒井1994|荒井文治 『箱根登山鉄道への招待』 (1994) p.42]]</ref>
<ref name="1995-89">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.89]]</ref>
<ref name="1995-91">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.91]]</ref>
<ref name="1995-92">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.92]]</ref>
<ref name="1995-93">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.93]]</ref>
<ref name="1995-94">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.94]]</ref>
<ref name="1995-9596">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) pp.95-96]]</ref>
<ref name="1995-95">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.95]]</ref>
<ref name="1995-96">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.96]]</ref>
<ref name="1995-97">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.97]]</ref>
<ref name="1995-98">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.98]]</ref>
<ref name="1995-101">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.101]]</ref>
<ref name="1995-142">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.142]]</ref>
<ref name="1995-165">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.165]]</ref>
<ref name="1995-175">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.175]]</ref>
<ref name="1995-176">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.176]]</ref>
<ref name="1995-177">[[#加藤1995|加藤利之 『箱根山の近代交通』 (1995) p.177]]</ref>
<ref name="2000-18">[[#生方2000|生方良雄 『小田急物語』 (2000) p.18]]</ref>
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<ref name="tozan120514">{{cite press release|author=|date=2012-05-14|url=http://www.hakone-tozan.co.jp/info/20120514.pdf|title=2014年春 新型登山電車が誕生します|publisher=[http://www.hakone-tozan.co.jp/ 箱根登山鉄道]|language=日本語|format=PDF|accessdate=2012-05-15}}</ref>
<ref name="Romancecar">{{cite web|author=|date=2012-05-14|url=http://www.odakyu.jp/romancecar/charges/|title=小田急ロマンスカー 料金表|publisher=[http://www.odakyu.jp/ 小田急電鉄]|language=日本語|accessdate=2013-02-14}}</ref>
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=== 雑誌記事 ===
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* {{Cite journal|和書|author=楠居利彦 |coauthors =|year=1992 |month=1 |title=特集 箱根登山鉄道 |journal=[[鉄道ダイヤ情報]] |issue=93 |pages= 26-47 |publisher=[[交通新聞社|弘済出版社]] |ref =楠居93 }}
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* {{Cite journal|和書|author=[[種村直樹]] |year=1998 |month=9 |title=箱根山に挑む観光鉄道|journal=鉄道ジャーナル |issue=383 |pages= 40-49 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 種村383}}
* {{Cite journal|和書|author=種村直樹 |year=2002 |month=9 |title=関東の駅百選を歩き、遊ぶ 4|journal=鉄道ジャーナル |issue=431 |pages= 70-75 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 種村431}}
* {{Cite journal|和書|author=一寸木正長|coauthor=生方良雄 |year=1981 |month=4 |title=箱根登山鉄道1000形登場|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=240 |pages= 54-64 |publisher=交友社 |ref = 登山240}}
* {{Cite journal|和書|author=西口靖宏|coauthor=岸上明彦 |year= 1982|month=6 |title=箱根登山鉄道の車両と運転 |journal= 鉄道ピクトリアル|issue=405 |pages=117-119 |publisher=電気車研究会 |ref = 西口405}}
* {{Cite journal|和書|author=細野詠一|coauthor= |year= 1989|month=9 |title=箱根登山鉄道 サン・モリッツ号が征く |journal= 鉄道ジャーナル|issue=275 |pages=136-141 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 細野275}}
* {{Cite journal|和書|author=本多聡志 |year=1991 |month=7 |title=小田急電鉄列車運転の興味 |journal=鉄道ピクトリアル |issue= 546|pages= 106-112 |publisher=電気車研究会|ref = 本多546 }}
* {{Cite journal|和書|author=本多聡志 |year=1999 |month=12 |title=小田急電鉄 列車運転の興味 |journal=鉄道ピクトリアル |issue= 679|pages= 189-193 |publisher=電気車研究会|ref = 本多679 }}
* {{Cite journal|和書|author=三浦衛|coauthor= |year= 1993|month=10 |title=天下の険を攀じ登る 箱根登山鉄道 箱根湯本-強羅間3両編成運転化で輸送力増強 |journal= 鉄道ジャーナル|issue=324 |pages=70-77 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 三浦324}}
* {{Cite journal|和書|author = |authorlink = |coauthors = |year= 2010|month=5|title =日本一の登山鉄道を誌上体験|journal= 鉄道ひとり旅ふたり旅|issue=1 |pages=10-30|publisher = 枻出版社|ref = ひとり1|id = |isbn = 9784777916238}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2012 |month=8 |title=RAILWAY TOPICS |journal=鉄道ジャーナル|issue=550 |pages=145-153|publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ550}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=1990|month=9 |title=箱根登山鉄道路線図 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=532 |pages= 24-25 |publisher=電気車研究会 |ref =RP532}}
== 外部リンク ==
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