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== 概要 ==
ドイツ民主共和国は[[社会主義国]]<ref>[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr.html#KAPITEL%201-1 東ドイツ憲法第1条]「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」({{lang|de|Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.}}) </ref>であった。政治体制は[[ソ連型社会主義]]で典型的な[[一党制]]ではなく反[[ファシズム]]を最大公約数とした複数政党による[[間接民主制|議会制民主主義]]国([[人民民主主義]])の形態を採っていたが、実際は[[ドイツ社会主義統一党]] (SED) が[[寡頭政治]]政党として[[党の指導性|指導権]]を有していた<ref>[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr.html#KAPITEL%201-1 東ドイツ憲法第1条]「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とその[[マルクス・レーニン主義]]政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」({{lang|de|Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.}}) </ref>。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、[[衛星政党]]としての性格が強かった([[ヘゲモニー政党制]])。多数の[[ソビエト連邦軍]]が駐屯する[[冷戦]]の最前線でもあり、[[政治]]的・[[軍事]]的にはソビエト連邦の[[衛星国]]であった。
 
また、[[秘密警察]]である「国家保安省([[シュタージ]])」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった<ref>憲法には言論の自由、集会・結社の自由などが規定されていたが、それらはすべて「憲法に反しない」範囲とされており、結局第1条に規定されているSEDによる国家の指導権によって制約を受け。また、刑法の規定ではSEDやソ連を批判するだけで1年から8年の[[懲役刑]]が科された(仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P74-75。</ref>。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互[[監視]]の網を張り巡らせた。
 
経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、中・[[東ヨーロッパ]]の[[社会主義]]諸国でも最も発展し、一般家庭への[[家庭用電気機械器具|電化製品]]の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の[[香港]]人一般庶民程度)を実現したと言われる。そんなういった事もあって「'''社会主義の優等生'''」「'''東欧の[[日本]]'''」とも呼ばれていた。また[[女性]]の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。
 
[[1980年代]]には、裁判において[[陪審員]]制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、[[徴兵制]]導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも[[良心的兵役拒否]]が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。[[1987年]]には[[死刑]]を廃止した。
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== 歴史 ==
{{ドイツの歴史}}
=== 概要 ===
第二次世界大戦を経て、ドイツは[[アメリカ合衆国|米]]・[[イギリス|英]]・[[フランス|仏]]・ソの四か国による[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下に置かれた]]。しかし、戦後の[[冷戦]]構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。[[1948年]]より、米・英・仏の占領地域による[[通貨改革]]を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側も[[ベルリン封鎖]]で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。[[1949年]]9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。
 
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しかし、[[1973年]]の[[オイルショック]]などによって[[東側諸国]]全体の経済が停滞する中、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の[[東欧革命]]により他の中東欧の[[社会主義国|共産主義国]]が次々と[[民主化]]すると、[[オーストリア]]との[[国境]]を開放した[[ハンガリー]]などを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した([[汎ヨーロッパ・ピクニック]])。1989年10月9日、南部の都市[[ライプツィヒ]]での反政府運動「[[月曜デモ]]」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年[[11月9日]]、[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁の開放]]に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には[[通貨統合]]、そして[[10月3日]]にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。
 
=== 東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961) ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-19000-3301, Berlin, DDR-Gründung, Wahl Pieck, Grotewohl.jpg|thumb|東ドイツ建国時の[[ヴィルヘルム・ピーク]]と[[オットー・グローテヴォール]](撮影:[[1949年]]10月7日)]]
 
東ドイツは、[[1948年]]10月に[[ドイツ民主共和国憲法]]を起草、[[1949年]]10月7日({{仮リンク|共和国の日_(ドイツ民主共和国)|label=共和国の日|de|Tag der Republik (DDR)}})に建国した。{{仮リンク|第二次ドイツ人民議会|de|Deutscher Volksrat#Zweiter Deutscher Volksrat}}が、暫定的な[[人民議会_(東ドイツ)|人民議会]]として成立し、[[オットー・グローテヴォール]]が首相として政府創設の任に当たった。10月11日、グローテヴォールの同僚である[[ドイツ社会主義統一党|SED]]議長の[[ヴィルヘルム・ピーク]]が、{{仮リンク|東ドイツ大統領|de|Präsident_der_DDR}}に選出された。
 
東ドイツは、{{仮リンク|現実社会主義|de|Realsozialismus}}の[[人民共和国]]であったが、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]だけでなく、[[ドイツ自由民主党|自民党]]や[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|キリスト教民主同盟]](CDU)のような「[[中道右派]]」政党の活動も許されていた。ただし、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]や[[ドイツ民主農民党|民主農民党]]、[[ドイツ自由民主党|自民党]]、[[ドイツ国家民主党 (東ドイツ)|国家民主党]]は、[[衛星政党]]として[[ドイツ社会主義統一党|SED]]と共に[[国民戦線]]を組んでいた。公式的には{{仮リンク|閣僚評議会_(東ドイツ)|label=閣僚評議会|de|Ministerrat_der_DDR}}が東ドイツの政府であったが、実際には{{仮リンク|SED中央委員会政治局|de|Sozialistische Einheitspartei Deutschlands#Zentralkomitee}}が権力の中枢であった。[[ヴァルター・ウルブリヒト]]は、政治局のメンバーであり、[[1950年]]以降は、{{仮リンク|SED中央委員会|de|Sozialistische Einheitspartei Deutschlands#Zentralkomitee}}の[[書記長]]となった。さらに[[ドイツ駐留ソ連軍]]の総司令部陸軍大将であった[[ワシーリー・チュイコフ]]の{{仮リンク|ソ連管理委員会|de|Sowjetische Kontrollkommission}}は強い権力を持っていた{{#tag:ref|[http://www.krr-faq.net/verwueb.htm ''Erklärung des Vorsitzenden der Sowjetischen Kontrollkommission zur Übergabe von Verwaltungsfunktionen an deutsche Behörden vom 11. November 1949''], aus: [[:de:Ingo von Münch|Ingo von Münch]], ''Dokumente des geteilten Deutschlands'', S.&nbsp;325&nbsp;ff.}}。ソ連政府は[[1954年]]3月25日に、「[[ソ連]]は、他の主権国家と同様に、東ドイツとも平等な関係」を望んでいると説明したが、東ドイツの[[主権]]<ref>[http://www.krr-faq.net/souvddr.htm ''Erklärung der Regierung der UdSSR über die Gewährung der Souveränität an die Deutsche Demokratische Republik vom 25. März 1954''], aus: Ingo von Münch, ''Dokumente des geteilten Deutschlands'', S.&nbsp;329&nbsp;ff.</ref>は制限されたままであった。社会史家の{{仮リンク|ハンス=ウルリッヒ・ヴェーラー|de|Hans-Ulrich Wehler}}は、当時の東ドイツは「ソ連帝国の西部戦線の[[サトラップ]](地方総督)」であったとしている{{#tag:ref|Hans-Ulrich Wehler: ''Deutsche Gesellschaftsgeschichte.'' Bd. 5: ''Bundesrepublik und DDR 1949–1990'', C.H. Beck, München 2008, [http://books.google.com/books?id=4PzvV1qadMMC&pg=PR15 S. XV], 342, 425, Zitat auf [http://books.google.com/books?id=4PzvV1qadMMC&pg=PA23 S. 23]}}{{#tag:ref|[[:de:Henning Köhler (Historiker)|Henning Köhler]], ''Deutschland auf dem Weg zu sich selbst. Eine Jahrhundertgeschichte.'' Hohenheim-Verlag, Stuttgart 2002, S. 486&nbsp;ff.; [[:de:Wichard Woyke|Wichard Woyke]] (Hrsg.), ''Handwörterbuch Internationale Politik'', 11. Aufl., UTB, Opladen 2008, S. 64.}}。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-S90339, Berlin, DDR-Gründung, Regierung bei Tschuikow.jpg|thumb|ソ連管理委員会の委員長として陸軍大将[[ワシーリー・チュイコフ|チュイコフ]]が、東ドイツ政府の要人たちを迎えている(撮影:[[1949年]]11月11日)]]
 
人民議会の最初の選挙は、[[1950年]]10月15日に決まり、統一名簿に基づいて行われた。憲法発行後1年以上たって期日とその選挙方法がやっと決まったことに対して、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]や[[ドイツ自由民主党|LDPD]]の[[中道右派]]の政治家たちは反発したが、代わりに新政府での高い職位を得ることで決着した。[[ドイツ自由民主党|LDPD]]党首の{{仮リンク|ハンス・ロッホ|de|Hans Loch}}は財務大臣に、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]党首の{{仮リンク|オットー・ヌシュケ|de|Otto Nuschke}}は副首相に、その党友である{{仮リンク|ゲオルグ・ドルティンガー|de|Georg Dertinger}}は外務大臣になった。彼らの在任中、東ドイツの外交政策で重要だったのは二つある。[[1950年]]7月6日、[[ポーランド人民共和国]]と{{仮リンク|ゲルリッツ協定|de|Görlitzer Abkommen}}を結んで、[[オーデル・ナイセ線]]を国境線として確定したこと、[[1950年]]9月29日、[[経済相互援助会議]](RGW/COMECON)に加盟したことである。
 
東ドイツは西ドイツと同様に、{{仮リンク|ドイツの正当な継承国|de|Alleinvertretungsanspruch#Deutsche Demokratische Republik}}であることであると主張していた。当初は東側の憲法も民主的であることが強調され、東西ドイツが協調する可能性が模索されたが失敗した。非武装中立国としてドイツを独立させることを提唱した{{仮リンク|スターリン・ノート|de|Stalin-Noten}}([[1952年]])に対し、西側諸国が全ドイツでの自由選挙による独立を最低条件としたことで折り合いがつかなかったように、双方にとって納得できない提案を双方が押し付け合ったためである。
 
その後、[[ヨシフ・スターリン]]は[[1952年]]7月にウルブリヒトを中心とした[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部に{{仮リンク|社会主義建設|de|Aufbau des Sozialismus}}のための全権を与えた。経済では、工業産業の[[国有化]]が進められ、農業においては、{{仮リンク|農業協同組合_(ドイツ民主共和国)|label=農協|de|Landwirtschaftliche Produktionsgenossenschaft}}をモデルとした[[集団農場]]が称揚された。また、全ての敵対者、特に{{仮リンク|東ドイツのキリスト教と教会|label=教会|de|Christen und Kirchen in der DDR}}に対して政治的な弾圧が加えられた。[[1952年]]5月に遮断されていた{{仮リンク|ドイツ国内国境|de|Innerdeutsche_Grenze}}では、{{仮リンク|害虫駆除作戦|de|Aktion Ungeziefer}}が実行され、逃亡の可能性があると疑われた国境付近の住民が強制的に移住させられた([[:de:Vertreibung|Vertreibung]]){{#tag:ref|Heiner Emde: [http://www.focus.de/politik/deutschland/aktion-ungeziefer-vergessene-opfer-an-der-grenze_aid_142635.html ''Vergessene Opfer an der Grenze'']. In: ''[[:de:Focus Online|Focus Online]]'', 1993年2月22日, 参照:2012年1月15日}}。
 
[[File:Stamp Germany 2003 MiNr2342 17. Juni.jpg|thumb|ベルリン{{仮リンク|ライプツィヒ広場|de|Leipziger_Platz}}でのソ連軍戦車への投石([[1953年]]6月17日)を現した切手([[2003年]]に発行)]]
 
[[1953年]]3月にスターリンが死去したあと、ソ連指導部は{{仮リンク|6月17日蜂起_(東ドイツ)|label=方針転換|de|Aufstand des 17. Juni#Neuer Kurs}}し、強制的な社会主義化と政治的弾圧をやめるようになった。[[ドイツ社会主義統一党|SED]]はこの方針に従ったが、しかしノルマを達成しない労働者の賃金をカットする「労働規範([[:de:Arbeitsnorm|Arbeitsnorm]])」は撤回しなかったことで、[[東ベルリン]]で抗議デモが起こり、それが発展して[[1953年]]6月17日に[[東ベルリン暴動]]が起こった。東ドイツ国内に駐留していたソ連軍による鎮圧によって、少なくとも55人が死亡した<ref>[http://www.17juni53.de/tote/recherche.html Tote des 17. Juni 1953]. In: 17. Juni 1953. 2004年, 参照:2008年11月12日</ref>。
 
ソ連は、東ドイツへの賠償を放棄し、東ドイツ国内にあった{{仮リンク|ソ連法人|de|Sowjetische Aktiengesellschaft}}を国営企業へと変えるなどして財政援助を行った。このことによって物資不足は緩和され、かなり国内で疑問視されていた[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]政権下の[[ドイツ社会主義統一党|SED]]体制も安定するようになった。[[1956年]]11月の[[ハンガリー動乱]]で、ソ連軍が鎮圧にあたった際には、数千人の死者が出ただけでなく、さらに2,000人以上が処刑された。これに応じて、東ドイツでも、体制批判的な学生や学者に対して新たに[[弾圧]]が行われた。[[1959年]]、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]は「社会主義建設」のための第二段階を実行するようになった。まず[[ドイツ社会主義統一党|SED]]はあらゆる手段を使って、[[1960年]]の第一四半期に農業面積の約40%を「自発的な」加入によって農協の所有物にし、農産物の90%を集団農場で作ることの必要性を喚起した<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;135–145 (Originalausgabe 1998).</ref>。そのことによって{{仮リンク|ソ連軍占領地域および東ドイツからの難民|label=難民|de|Flucht_aus_der_Sowjetischen_Besatzungszone_und_der_DDR}}の数は飛躍的に増大し、47,433人が[[1961年]]8月初めに東ドイツから逃亡した。
 
=== 壁建設と緊張緩和政策(1961–1971) ===
[[File:Mauer axb01.jpg|thumb|[[ベルリンの壁]]]]
[[File:Innerdeutsche Grenze beim Grenzmuseum Schifflersgrund - Flucht v. Heinz-Josef Große.jpg|thumb|[[ヘッセン]](左)・[[チューリンゲン]](右)のあいだにある国境]]
 
多数の国民の海外流出、とくに比較的高い教育を受けた若者たちの逃亡は、東ドイツの存在そのものを脅かした。これに対応するため、8月12日と13日の夜に[[国家人民軍|人民軍]]、[[ドイツ人民警察|人民警察]]、[[労働者階級戦闘団]]は、ソ連指導部の後ろだてもあって、西ベルリンの周囲を有刺鉄線と武力で封鎖し始めた。東西[[冷戦]]の象徴となった[[ベルリンの壁]]建設の始まりである。壁、[[地雷原]]、{{仮リンク|自動発射装置|de|Selbstschussanlage}}が大規模に設置され、国境警備兵には、逃亡者に対する{{仮リンク|射殺命令|de|Schießbefehl}}が下された。ベルリンの壁は「反ファシズム防壁」というプロパガンダで呼ばれた。この防御システムを切り抜けようとした数百の難民が東西ドイツ国境で殺された。東ドイツで行われた[[人権蹂躙|人権侵害]]は、西ドイツの[[ザルツギッター]]にある{{仮リンク|国家司法局中央記録センター|de|Zentrale Erfassungsstelle der Landesjustizverwaltungen}}で記録された。
 
壁建設が始まってから2ヶ月、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部は、国外逃亡に失敗した反体制者を弾圧していたが、このことに対して[[1961年]]10月にモスクワから警告を受けた。この頃のソ連は、書記長[[ニキータ・フルシチョフ]]が[[非スターリン化]]の第二段階を始めていた最中であった。東ベルリンでは、[[個人崇拝]]に対する拒絶反応が起こり、スターリンの名が入った通り・広場・施設が改名された{{#tag:ref|しかしそれにも関わらず、[[1963年]]にはウルブリヒトが「明快で、誠実で、質素で、率直で、立派で、清潔である」ことから、60歳の誕生日会が行われた。そして、「高貴な人間性」を持った「新しいタイプの政治家」であると吹聴された。Hermann Weber: ''DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990.'' Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S.&nbsp;100 (Originalausgabe 1976).}}。反抗的な一部の住民に対する弾圧は行われなくなり、政治的な宣伝活動と、[[生活水準]]を上げる経済政策が始まった。国外に逃亡しようとしていた人びとは、この新しい状況のなかでやりくりし、仕事に打ち込んで、生活水準と出世可能性を可能な限り高めるよう模索するようになった。「このような態度は、経済成長というポジティブな結果を生み、それによって物質的豊かさが改善され、反体制的な意見は無くなり、指導部と国民との関係は徐々に冷静なものになった<ref>Hermann Weber: ''DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990.'' Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S.&nbsp;98 (Originalausgabe 1976).</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J1231-1002-002 Walter Ulbricht, Neujahrsansprache.jpg|thumb|[[ヴァルター・ウルブリヒト]] (1970)]]
 
[[1968年]]、[[プラハの春]]が起こると、ふたたび弾圧の空気が生じた。東ドイツ国民は自由を重視した{{仮リンク|改良社会主義|de|Reformsozialisten}}を期待したが、ソ連の影響下にあった[[ワルシャワ条約機構]]軍が、[[チェコスロバキア共産党]]第一書記[[アレクサンデル・ドゥプチェク]]の改革モデルを軍事力で鎮圧すると、改革の機運はすぐに打ち砕かれることになった。それに対して、東ドイツの4つの町で主に若者たちによる小規模な抗議デモが行われたが、公安当局によって摘みとられた。[[シュタージ]]は、[[1968年]]11月までに、この件に関する2,000以上の「敵対行為」を確認している<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;187 (Originalausgabe 1998).</ref>。なお同年4月には憲法が改正され、「ドイツ民主共和国はドイツ民族の社会主義国家である({{lang|de|Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat deutscher Nation.}})」「労働者階級とマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」と規定され、公式に社会主義国であると規定されている。
 
モスクワからの東ドイツ指導部に出される要望には依然として決定的な影響力があり、そのことは[[1970年]]に始まった[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]と[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]]の権力闘争にも見られる。ホーネッカーは、自分が東西ドイツの緊張緩和政策に関するソ連の要望を理解している政治家であるとアピールし、ウルブリヒトの経済政策を批判することで[[ドイツ社会主義統一党|SED]]政治局を支持をとりつけた。ウルブリヒトは成長産業や研究、工業の助成に関心を持っていたのに対し、ホーネッカーは個人消費向け産業の計画が遅れていたこと、その生産量が減少していたことを問題にしていた。[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]の協力で、最終的に[[1971年]]4月にウルブリヒトを辞任させることになった<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;208–210 (Originalausgabe 1998).</ref>。
 
=== 新たな裂け目から停滞へ (1971–1981) ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1986-0421-044, Berlin, XI. SED-Parteitag, Erich Honecker.jpg|thumb|[[エーリッヒ・ホーネッカー]]]]
 
[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]がホーネッカーの工作と「健康上の理由」によりSEDの第一書記と国防評議会議長の職から辞任したあと<ref>ウルブリヒトはこれらの職を追われ、実権をホーネッカーに奪われた後も国家元首である国家評議会議長の職には死去するまで在任していた。</ref>、彼は[[1973年]]8月1日に死去した。[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]]は、すでに[[1971年]]6月の党大会で、方針転換を決定しており、「国民の物質的・文化的な生活水準をさらにあげること」を党の「主要課題」にした。「{{仮リンク|経済政策と社会政策の両立|de|Einheit von Wirtschafts- und Sozialpolitik}}」が中心的なスローガンになった。重点が置かれたのは、住宅建設と住宅環境の整備であった。予定では[[1990年]]までこの住宅問題は解決されることになっていた。女性の労働参加は、ワークシェアリングや産休期間の延長、[[保育所]]や[[幼稚園]]の拡充によって促進された。[[1976年]]まで最低賃金が400[[東ドイツマルク|マルク]]、最低年金が200[[東ドイツマルク|マルク]]のまま変わらなかったとはいえ、冷蔵庫やテレビなどの電化製品に代表される家庭向け製品に生産が集中したことで、東ドイツの生活環境は大きく変わり、豊かさへの期待も膨らんでいった。経済と消費の刺激が可能だったのは、西側からの[[対外債務]]を増大させたことも大きい<ref>Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S.&nbsp;117–119; Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;219 f. (Originalausgabe 1998).</ref>{{#tag:ref|Einen Milliardenkredit fädelte 1983 Franz Josef Strauß ein; vgl. hierzu [[:de:einestages|einestages]] ([[:de:Spiegel Online|Spiegel Online]]): [http://einestages.spiegel.de/static/topicalbumbackground/2408/milliardenspritze_fuer_den_mauerbauer.html ''Milliardenspritze für den Mauerbauer''].}}
 
[[1971年]]12月にホーネッカーは[[文化政策]]でも一時的に自由化する傾向を見せたが、[[1970年]]半ばから徐々に硬直していった<ref>Manfred Jäger: ''Kultur und Politik in der DDR 1945–1990.'' Köln 1995, S.&nbsp;140.</ref>。
{{Quote|もし社会主義が確固たる地位を築いているということを前提にするなら、私の考えでは芸術にも文学にもタブーはありえない。もちろん、このことは内容の問題にもスタイルの問題にも当てはまるし、一言でいえば、何が芸術的な傑作かという問題にも当てはまる。}}
 
対外関係において、ホーネッカーは、ウルブリヒトとの権力闘争を繰り広げていた時に主張したように、ソ連との緊密な関係を構築する方針を取り、「社会主義国家共同体のなかに着実と根を下ろすこと」を約束した。ソ連との関係は、[[1974年]]の公式見解によれば、「実際、日常生活でソ連との友好関係が現れないような場所はない」ほどに成熟していた<ref>Hermann Weber: ''DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990.'' Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S.&nbsp;147 (Originalausgabe 1976).</ref>。
 
[[1970年]]、西ドイツ首相の[[ヴィリー・ブラント]]は、{{仮リンク|エアフルト首脳会談|de|Erfurter Gipfeltreffen}}を皮切りに新[[東方外交]]政策を打ち出し、東西ドイツの対話をもたらした。東西緊張緩和の背景には東ドイツが外貨を獲得しようとしたも大きい。{{仮リンク|トランジット協定|de|Transitabkommen}}は、東ドイツを通過する際の手続き簡略化を保証し、西ベルリンの交通路の状況を改善した。[[1972年]]に[[東西ドイツ基本条約]]が結ばれ、両国([[ボン]]と[[東ベルリン]])に大使館を設置することが決まり([[:de:Ständige Vertretungen der Bundesrepublik Deutschland und der Deutschen Demokratischen Republik|Ständige Vertretungen]])、両国が平和的に共存するために相互承認が行われた。それに基づき、[[1973年]]に両国は[[国際連合|国連]]に加盟した。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J0814-0008-001, Leipzig, "Altes Rathaus", Parkplatz.jpg|thumb|「''東ドイツは貿易相手国として国際的に承認された''」<br />– [[1970年]][[ライプツィヒ]]のプロパガンダポスター]]
 
[[1975年]]、[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]署名により、確かに東ドイツ指導部は外交的な評価を受けたが、しかし[[人権]]に関する国際的な要求にも対処しなければならなかった。[[国際連合|国連]]や[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|全欧安全保障協力会議]]加盟国の立場からすれば、東ドイツが{{仮リンク|出国申請|de|Ausreiseantrag}}を認めないのは[[逮捕・監禁罪|監禁罪]]にあたるのではないかと非難した市民がいたが、その市民は[[1976年]]10月に逮捕され、「{{仮リンク|国家反逆扇動罪|de|Staatsfeindliche Hetze}}」の判決を受け、一年後に西ドイツへの{{仮リンク|国外追放法|label=国外追放|de|Abschiebung (Recht)}}となった。[[連邦政府_(ドイツ)|西ドイツ政府]]は、[[1964年]]~[[1989年]]までのあいだに東ドイツ刑務所にいた33,753人の[[政治犯]]に対して、合計34億マルクの{{仮リンク|囚人釈放金|de|Häftlingsfreikauf}}を支払っていた。歴史家の{{仮リンク|ステファン・ヴォレ|de|Stefan_Wolle}}は、この件に関して、[[絶対王政]]時代の[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[フリードリヒ2世_(ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]の{{仮リンク|ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の傭兵売買|label=傭兵売買|de|Soldatenhandel unter Landgraf Friedrich II. von Hessen-Kassel}}と全く同じであると見ている{{#tag:ref|Zitiert bei [[:de:Heinrich August Winkler|Heinrich August Winkler]]: ''Der lange Weg nach Westen.'' Bd. 2: ''Deutsche Geschichte vom „Dritten Reich“ bis zur Wiedervereinigung''. C.H. Beck, München 2010, S. 364.}}。他方で、囚人になることで国外へ脱出してしまおうという運動も広がるようになり、ホーネッカーはそれを断固として阻止しようとし、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]の地方議会書記長に、次のような指示を与えた。
{{Quote|最近、西ドイツの報復主義的なグループがいわゆる西ドイツの市民権運動を組織しようと躍起になっている。……これらのグループには断固として反対するべきである。ヘルシンキ宣言や他の言い訳を持ち出して、東ドイツ国籍を解消し、西ドイツへの出国を申請する人すべてを当局は拒否する必要がある。}}
ホーネッカーは、そのような出国申請者を職場から解雇すること、[[1977年]]4月の刑法改正の枠組において違法とすることを命令した<ref>Zitiert nach Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;235 (Originalausgabe 1998).</ref>。
 
同様に[[1976年]]、[[ケルン]]でのコンサートで[[ヴォルフ・ビーアマン]]は、東ドイツの幹部とその共産主義的な忠誠に対する思い切った批判を行ったことで国外追放処分となった。もっとも、かねてよりビーアマンの市民権剥奪は予定されており、その絶好の機会がたまたま来ただけであった。これによって、ホーネッカーの時代とともに始まった文化政策の開放は終了したことが鮮明になった。[[ドイツ社会主義統一党|SED]]上層部にとっては予見できなかったことであるが、この{{仮リンク|市民権剥奪|de|Ausbürgerung}}に対しては、もちろん、東ドイツの有名な作家たちの抗議活動も生じ、それは大きな共感を得るものだった。しかし、[[1976年]]11月17日に12名の作家たちが抗議文書を作成し、共同署名したが、[[1978年]]5月に行われた{{仮リンク|東ドイツ作家協会|de|Deutscher Schriftstellerverband}}の第8回作家会議に出席したのはわずか2名であった。他の作家たちは出席許可を得なかったか、自分から諦めてしまった。<ref>Manfred Jäger: ''Kultur und Politik in der DDR 1945–1990.'' Köln 1995, S.&nbsp;165–167.</ref>
 
東ドイツ国家の対外的な立場は、1970年代後半には難しいものになった。[[西ヨーロッパ]]では、ソ連型の共産主義モデルとは距離を置き、[[自由]]と[[民主主義]]を擁護した[[ユーロコミュニズム]]が台頭し、[[チェコスロバキア]]では[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]順守を求めた人権団体[[憲章77]]が設立され、1980年代になると[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガン侵攻]]に対する国際的非難が高まり、[[1980年]]、[[ポーランド]]では[[独立自主管理労働組合「連帯」]]が結成された。
 
=== 凋落・変革 (1981–1990) ===
{{main|[[:de:Wende und friedliche Revolution in der DDR|東ドイツの転換と平和革命]]{{de icon}}}}
 
[[1979年]]の第二次[[オイルショック]]で、東ドイツの不景気はさらに加速するようになった。経済的困難から抜け出せなかったソ連指導部は、東ドイツへの優遇条件での石油供給量を年間1900万トンから1700万トンに減らした<ref>Joachim Kahlert: [http://epub.ub.uni-muenchen.de/2197/1/Kahlert_2197.pdf ''Die Energiepolitik der DDR – Mängelverwaltung zwischen Kernkraft und Braunkohle'', Bonn 1988].</ref>。それに対してホーネッカーは何度も抗議をし、[[ブレジネフ]]に「200万トンの石油に、東ドイツを不安定にし、党と国家に対する国民の信頼を壊すほどの価値があるのか」と問いただした{{#tag:ref|Zitat in [http://www.focus.de/politik/deutschland/honecker-er-meint-die-mauer_aid_150526.html ''Honecker: „Er meint die Mauer“''], [[Focus]] Magazin, Nr. 22, 1995.}}。その間、東ドイツは、ソ連の石油を{{仮リンク|シュヴェート・オーデル|label=オーデル|de|Schwedt/Oder}}、{{仮リンク|ベーレン_(ザクセン)|label=ベーレン|de|Böhlen_(Sachsen)}}、{{仮リンク|リュッツケンドルフ|de|Lützkendorf}}、{{仮リンク|ロイナ|de|Leuna}}([[:de:Leunawerke|Leunawerke]])の石油精製所での加工しており、それらを西ヨーロッパの市場で販売して外貨を獲得していた。ホーネッカーの抗議に効果はなく、むしろソ連と共に苦労を分かち合おうという激励に応えるものであった。そうしなければ「完璧な社会主義共同体制」の世界的立場が危ういものになってしまうからである。そのため、東ドイツの財政は、「不安と絶望の袋小路」になった<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;269–271.</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1007-402, Berlin, 40. Jahrestag DDR-Gründung, Ehrengäste.jpg|thumb|東ドイツの党と国家の指導部メンバーと、外国の代表者。ベルリンの{{仮リンク|カール・マルクス・アレー|de|Karl-Marx-Allee}}にある貴賓用観覧席([[1989年]]10月7日の東ドイツ第40回建国記念日)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1104-437, Berlin, Demonstration am 4. November.jpg|thumb|[[東ベルリン]]の{{仮リンク|アレクサンダープラッツ・デモ|de|Alexanderplatz-Demonstration}}([[1989年]]11月4日)]]
[[File:Stamps of Germany (DDR) 1990, MiNr 3315.jpg|thumb|{{仮リンク|1990年の東ドイツ郵便局切手|de|Briefmarken-Jahrgang 1990 der Deutschen Post der DDR}}のうちの「''{{仮リンク|我々が国民だ|de|Wir sind das Volk}}''」切手([[1990年]]2月28日発行)]]
 
[[1982年]]に東ドイツは財政破綻の危機をむかえた<ref>Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S.&nbsp;137.</ref>。それを防いだのは、[[1983年]]と[[1984年]]の2回にわたる西ドイツからの何十億マルクもの出資であったが、それには{{仮リンク|アレクサンダー・シャルク=ゴロットコフスキー|de|Alexander Schalck-Golodkowski}}の尽力も大きかった。彼は外貨獲得を担当していた{{仮リンク|貿易調整部_(ドイツ民主共和国)|label=貿易調整部|de|Kommerzielle Koordinierung}}の所長であり、それと同時にシュタージの{{仮リンク|特務将校|de|Offizier_im_besonderen_Einsatz}}も兼任していた。彼は、特に東ドイツの国境の規制緩和を約束することで、バイエルン州首相の[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]]を調停者として味方につけることに成功した<ref>東ドイツの発表によれば、貿易調整部は、[[1967年]]~[[1989年]]までに410億[[ドイツマルク]]を調達しており、そのうち270億マルクが直接企業を経営したり、他のビジネスで得たものであり、140億マルクが西ドイツに払ってもらったものである。(Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S.&nbsp;272.)</ref>。それ以前にも、[[ヘルムート・シュミット|第三次シュミット内閣]](1980-1982)が、[[チューリッヒ]]の「偽装銀行」(Strohbank)を通じて30億から50億[[ドイツマルク]]を貸し出すかどうかを検討していた{{#tag:ref|[http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-13490556.html Ganz spitze Finger.] In: [[:de:Der Spiegel|Der Spiegel]]. Nr. 36, 1991, S. 31–35.}}{{#tag:ref|[http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-13497127.html Der Zorn wird täglich größer.] In: [[:de:Der Spiegel|Der Spiegel]]. Nr. 50, 1989, S. 30–37 (11. Dezember 1989).}}。しかし、高額な消費財を国民に提供することは、満足にはできなかった。西側と同水準のカラーテレビや冷凍庫付き冷蔵庫、全自動洗濯機は、高かっただけでなく、長い待ち時間をも必要とした。「全自動洗濯機の納品期間は3年近くかかり、[[トラバント]]は最低でも十年近く待たなければならなかったが、トップクラスと誇れるほどの質はないままだった」<ref>Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S.&nbsp;134.</ref>。
 
東西ドイツ間で結ばれた特別協定は、東ドイツ指導部に対するソ連の不信を解消させることにもなった{{#tag:ref|[[:de:Hans-Hermann Hertle|Hans-Hermann Hertle]], [[:de:Konrad Jarausch|Konrad H. Jarausch]] (Hrsg.): ''Risse im Bruderbund. Die Gespräche Honecker – Breshnew 1974 bis 1982.'' Links, Berlin 2006.}}。それゆえ[[1987年]]にホーネッカーの西ドイツ訪問が初めて実現し、東ドイツの国際的承認の晴れ舞台となった。[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]は[[ペレストロイカ]]と[[グラスノスチ]]で改革方針をすでに打ちだしており、[[東側諸国]]で良好な関係にある党と国家に、国内統治に対する自由裁量を認めていたが、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]上層部は、ながいあいだソ連指導部を東ドイツの権力基盤の保証人であると思うことに慣れていたため、外交方針は大きく揺らぐことになった。
 
他の中東欧の社会主義国と違い分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、民主化や経済の自由化は西ドイツとの差異を無くし、ひいては国家の存在意義の消滅を意味することを東ドイツの指導部は知っていたため<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』([[岩波新書]] 1992年 ISBN4004302560)P3-4</ref>、ゴルバチョフのモデルに従うことを彼らは強く拒絶し、ソ連メディアの情報にさえ検閲をかけ<ref>1988年には、ソ連の雑誌「スプートニク」を発禁処分にしている。(南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 講談社現代新書 1990年 P106) </ref>、「{{仮リンク|東ドイツカラーの社会主義|de|Sozialismus_in_den_Farben_der_DDR}}」というプロパガンダを打ちだした。
 
このことは、東ドイツ国民には理解されず、ますます反感を買うようになった。抗議は、主に1980年以降に成立した平和運動のなかに見られる。これらの平和運動は、地域で集まった小さなグループから成り、環境の大切さと[[第三世界]]の重要性を訴えた。そのグループのいくつかには、教会の支援と説得もあった。[[1989年]]5月に行われた地方自治体選挙の結果が改ざんされたことが明らかになると、それに対する抗議が行われ、それが[[ドイツ社会主義統一党|SED]]への不満をいっそう明確に可視化させ、多様な公民権運動へとつながった。SEDにとってより重大だったのは、[[ハンガリー]]が、[[1989年]]2月[[オーストリア]]への国境を解放し、[[1989年]]8月19日には非公式にハンガリー当局は東ドイツ国民のオーストリアへの出国を許し([[汎ヨーロッパ・ピクニック]])、さらには9月11日には正式に東ドイツ国民にオーストリアへの出国を許可したことで、[[ベルリンの壁崩壊#.E6.9D.B1.E3.83.89.E3.82.A4.E3.83.84.E5.9B.BD.E6.B0.91.E3.81.AE.E5.A4.A7.E9.87.8F.E8.84.B1.E5.87.BA|大量国外脱出]]が始まったことだった。秋に定期的に開催された[[月曜デモ]]で、公民権運動で改革を目指した抗議が行われた。[[東ベルリン]]で10月7日に建国40周年記念祝典が行われていたので、デモは治安部隊によって解散させられていたが、2日後に大規模抗議デモが[[ライプツィヒ]]で起こると、東ドイツの{{仮リンク|東ドイツの転換と平和革命|label=平和革命|de|Wende_und_friedliche_Revolution_in_der_DDR#Triumph_der_friedlichen_Demonstranten}}が爆発した。10月18日にホーネッカーは退任、後任の[[エゴン・クレンツ]]と新[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部は国民との対話を提案したが、国家と党の体制崩壊を引き止めることはできなかった。[[1989年]]11月9日の夜、SED政治局員[[ギュンター・シャボウスキー]]が誤って西側への出国許可が「遅滞なく」下りると発表すると、[[ベルリンの壁]]に市民が殺到し、[[ベルリンの壁崩壊|壁は崩壊]]した。
 
11月に成立した[[ハンス・モドロウ]]政権は、[[円卓会議]]で国民との対話を行い、政治の民主化、シュタージの解体を進め、12月にはSEDの国家に対する指導権を規定した憲法第1条の規定も削除された。しかし、壁崩壊後出国者は1日2,000人を超え、通貨も暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36</ref>。[[月曜デモ]]の参加者のスローガンは、かつて国家権力を挑発するときに使った「{{仮リンク|我々が国民だ|de|Wir sind das Volk}}!」({{lang-de-short|Wir sind das Volk!}})から、ドイツ再統一を訴える「{{仮リンク|我々はひとつの国民だ|de|Wir sind ein Volk}}!」({{lang-de-short|Wir sind ein Volk!}})に変わっていった。
 
西ドイツの[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]]の支援を受けた{{仮リンク|ドイツのための連立|de|Allianz für Deutschland}}が[[ドイツ民主共和国人民議会1990年選挙|1990年3月18日の選挙]]で勝利すると、ドイツ再統一への方針が決まった。初の自由選挙で就任した[[ロタール・デメジエール]]の連立政権は、第三次[[ヘルムート・コール]]内閣からの支援を受け、[[ドイツ連邦共和国基本法]]第23条に基づいて東ドイツを[[ドイツ連邦|西ドイツ]]へと加盟させることを決定した。{{仮リンク|通貨・経済・社会の連合|de|Währungs-, Wirtschafts- und Sozialunion}}を[[1990年]]7月1日に施行、8月31日に[[統一条約]]に批准、9月12日に第二世界大戦戦勝国との[[ドイツ最終規定条約]]に調印したあと、東ドイツは[[1990年]]10月3日に[[ドイツ連邦]]へと吸収された。
 
== 政治 ==
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==== その他 ====
* [[オットー・グローテヴォール]] - 初代首相。東地区の[[ドイツ社会民主党]]出身。
* [[ギュンター・シャボウスキー]] - [[ベルリンの壁崩壊]]の直接のきっかけを作ったSED政治局員。政府報道官SEDベルリン地区委員会第一書記
* [[エーリッヒ・ミールケ]] - ベルリンの壁崩壊直前まで32年間にわたりシュタージのトップ(国家保安省長官)を務めた。SED政治局員候補
* [[マルゴット・ホーネッカー]] - エーリッヒの妻。保健人民教育相を務め、エーリッヒの後継者候補と目されていた。
* [[ロタール・デメジエール]] - キリスト教民主同盟党首。1990年の自由選挙から再統一による国家消滅まで、最後の東ドイツ首相。再統一後は自党を西側の党へ吸収合併させ、コール政権へ入閣したが、1991年、シュタージの協力者だった経歴が発覚して失脚。
 
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「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」「東ドイツは約26万人([[東欧革命]]より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う[[思いやり予算]]の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では[[西側諸国|西側]][[報道機関|マスコミ]]による[[プロパガンダ]]だったというのが通説となっている。
 
[[国家人民軍]]のほかの軍事組織としては[[ドイツ民主共和国国境警備隊|国境警備隊]](国防省所属だが国家人民軍とは別に置かれた)と、[[民兵]]組織である[[労働者階級戦闘団 (Kampfgruppen der Arbeiterklasse) ]]が存在した。また、国家保安省や[[ドイツ人民警察]]は[[準軍事組織]]としての側面を持っていた(国家保安省は[[フェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊]]という部隊を保有していた)ほか、[[民間防衛]]組織として[[民間防衛隊 (東ドイツ)|民間防衛隊]]があった。
 
[[1973年]]、西ドイツと同時に[[国際連合]]に加盟。なお、ドイツ民主共和国は[[ナチス・ドイツ]]と戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争や[[ホロコースト]]に対する責任を負う立場にないとしていた。
====西ドイツとの関係====
東ドイツ政府は建国当初は全ドイツを統一するという目標を持っており、東西が分断されたのは西の責任であると主張していた(西ドイツ側もドイツの唯一の正統政府を自認し、[[ハルシュタイン原則]]に基づき、東ドイツと国交を結ぶ国とは国交を結ばない方針を取っていた)。そのために、[[ドイツ国営鉄道 (東ドイツ)|国有鉄道]]の名称もあえて戦前の[[ドイツ国有鉄道]]の名称を継承し、西に対抗する形で「[[ルフトハンザドイツ航空 (ドイツ民主共和国)|ルフトハンザドイツ航空]]」を設立したりしていた<ref>先に戦前の名称を継承して設立された西側の[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ]]と対抗したものの結局敗れ、新たに設立された[[インターフルーク]]が国営航空会社としての役割を継承した。</ref>。また、東西お互いに相手を非難する[[プロパガンダ]]放送(東側では「黒いチャンネル」、西側では「赤いレンズ」)を流し合っていた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P98</ref>。
 
しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』([[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』([[NHK出版|日本放送出版協会]] 1990年)P80-81</ref>。
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==== 日・東独関係 ====
日本と東ドイツは[[1973年]]に正式な国交を結んだ[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPEU/19730515.O1J.html]。東ドイツ駐日[[大使館]]は東京都港区赤坂7丁目にあった。
 
=== 女性・家族政策 ===
東ドイツにおける女性と家族政策に関する法律は、[[1950年]]に決議された「{{仮リンク|母子保護および女性の権利に関する法律|de|Gesetz über den Mutter- und Kinderschutz und die Rechte der Frau}}」である。[[仕事]]と[[家族]]の両立は、東ドイツの女性にとっては、あたりまえのことと考えられており、重点的に助成されていた。[[1989年]]までに約92%の女性が職業に就いており、[[西ドイツ]]の女性よりも[[就職率]]は明らかに高かった。女性の就業は、男女同権という社会主義の考えを反映してものであったが、他方では、東ドイツの労働需要を補うためのものであった。不釣合いなほどに多くの男性の専門労働者が、早い段階で東ドイツを見限って逃亡していたのである<ref>Mary Fulbrook, ''Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR.'' Darmstadt 2008, S.&nbsp;167 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).</ref>。もっとも、管理職の地位についている女性は、明らかに男性よりも低かった。
 
女性の職業参加を促進するために、例えば託児所・保育園の大規模な拡充が行われたり、家族をもつ学生に対する特別な教育や就学プランが作られたりした。{{仮リンク|家族政策|de|Familienpolitik}}という枠組みで、国家は、まず第一に子供のいる[[夫婦]]に対して、特殊なローンや優先的な住居の割り当てなどを行うことで、促進した。中絶問題に関しては、女性には[[1972年]]に導入された中絶法によって、最初の12週間以内での中絶が許可されるようになった。しかしそれにも関わらず、[[1973年]]から[[1980年]]のあいだに出生数は、3分の1ほど増加した<ref>[[1973年]]は180,336人だったが、[[1980年]]には245,132人となった。参照:Mary Fulbrook: ''Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR.'' Darmstadt 2008, S.&nbsp;173 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).</ref>。
 
就業による男女同権化は、日常では多くの場合、仕事と家事・家族という二つの重荷を背負わされることになった。従来通りの男性の仕事が、たんに伝統的な女性の役割に追加されただけだからである。[[1970年]]に行われた世論調査によると、平均的な週の家事時間である47時間のうち、女性が引き受けたのはそのうち37時間であり、男性は6時間、「その他」が4時間であった<ref>Mary Fulbrook: ''Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR.'' Darmstadt 2008, S.&nbsp;161, 178 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).</ref>。
 
=== 環境政策 ===
戦後の再工業化は、東西ドイツとも極めて強い環境破壊を引き起こした。その頂点を極めたのは、初めて環境政策が経済政策にとって重要であると考えられるようになった1970年代であったが、東ドイツでは環境政策は取られなかった。投資の柔軟性は欠如しており、すでに商品の生産も不充分であったため、迅速に環境保護を始めることは不可能であった。さらに東ドイツ指導部は、環境のために何かしたいと思っている積極的な市民たちを無視した。それでも1980年代には、自転車クラブなどの環境保護運動が増大した。[[2009年]]の新しい研究では、東ドイツの環境保護の状況は「破滅的」であったとされている<ref name="schroeder_initiativeNSM_22-27">Klaus Schroeder: ''20 Jahre nach dem Mauerfall – eine Wohlstandsbilanz''. In: [http://www.insm.de/dms/insm/textdokumente/pdf/Einheitsbilanz-Deutschland/090821_gutachten_schroeder_finale.pdf ''Gutachten für die Initiative Neue Soziale Marktwirtschaft'']. (PDF), S. 22–27.</ref>。石炭資源が不足していたため、たくさんの[[二酸化硫黄]]を排出する[[褐炭]]を利用したことで、ヨーロッパで最も高い粉塵汚染が生じた。[[大気汚染]]によって、男性の[[気管支炎]]、[[肺気腫]]、[[気管支喘息]]の死亡率は、ヨーロッパ平均よりも2倍以上であった。およそ120万人の人びとが、生活に欠かせない[[飲料水]]にありつけなかった。[[1989年]]の時点で、汚染されていない湖は1%、河川は3%であった。その時まで、[[下水処理場]]に排水できたのは、全国民のうち58%だけであった。森林の52%が「損害」を受けていると見なされた。ゴミの40%以上が、適切な方法では処理されなかった。{{仮リンク|危険ごみ|de|gefährliche Abfälle}}に必要な高温焼却施設は存在していなかった。環境に関する情報は、階級の敵が東ドイツの信用を落とすために利用するであろうという理由で、[[1970年]]から「機密情報」となり、1980年代には「極秘情報」となり、一般には公開されなかった。環境政策への批判は、容赦なく弾圧された<ref name="schroeder_initiativeNSM_22-27" />。
 
西側諸国、とくに[[西ドイツ]]からのごみの輸入は、東ドイツにとって利益をもたらすものであり、西側の客(企業、地方自治体、国家)にとっても経費節減となった。東ドイツのダンピング価格は、[[西ドイツ]]で普通に運営されているゴミ処理場でかかる費用よりも10分1も安かった。ごみ処理代行ビジネスで獲得した外貨獲得には、{{仮リンク|貿易調整部_(ドイツ民主共和国)|label=貿易調整部|de|Kommerzielle Koordinierung}}と[[シュタージ]]が関与しており、その金額の一部は、[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]]と[[エーリッヒ・ミールケ|ミールケ]]の口座にも振り込まれていたし、党幹部の居住区であるヴァンドリッツにも使われたといわれている。1980年代終わりごろにシュタージは、西ドイツだけでなく東ドイツの住民のあいだでも環境意識が高まっており、東ドイツのごみ輸入に対する批判的な態度もあったと記録している。それに対して、東ドイツで西ドイツのごみを処理する際、西ドイツの環境基準は履行されていなかった。ある種の「歴史の皮肉」と見られているのは、これらの(環境負荷をかけた)ごみ焼却場は、[[1990年]]には[[ドイツ連邦]]の責任となったということだ{{#tag:ref|[[Peter Krewer]]: ''Geschäfte mit dem Klassenfeind. Die DDR im innerdeutschen Handel 1949–1989.'' Trier 2008, S. 216 ff., 299.}}。
 
東ドイツで生産された[[トラバント]]や[[ヴァルトブルク_(自動車)|ヴァルトブルク]]のような[[乗用車]]は、時代に合わない[[2ストローク機関]]で動き、青い排気ガスを出したが、それらは環境汚染を感じさせることになった。2ストローク機関の排気ガスは、高い[[炭化水素]]を含んでいたため、はっきりと見ることも嗅ぐこともできるものであった。[[酸性雨]]や[[スモッグ]]の原因となる[[窒素酸化物]]は、[[トラバント]]は同時代の[[4ストローク機関]]に比べて、10分の1しか排出しなかった<ref>''Kraftfahrzeugtechnik'', Heft 2/1990, S. 46–47.</ref>。
 
=== 地方制度 ===
178 ⟶ 271行目:
 
==== 東ベルリン以外 ====
当初は5つの[[州]] ({{lang|de|Land}}) が置かれた[[連邦|連邦制]]で、旧西ドイツの[[連邦参議院]]にあたる参議院<ref>『ドイツ憲法集【第6版】』翻訳:高田敏、初宿正典(2010年 信山社)P13の表記に拠った。原語を直訳すると「諸州院」</ref>(Landeskammer) も存在したが、[[1952年]]以降は14の[[県]] ({{interlang|de|Bezirk}}) に再編されて参議院は廃止され、[[中央集権]]化が進められた。
 
* [[ドレスデン県]]({{lang|de|Bezirk Dresden}}, 県都は[[ドレスデン]])
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== 経済 ==
{{See also|[[ドイツ民主共和国の経済]]}}
上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツは[[ルール工業地帯]]を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた<ref>ただし、[[ビール]]や[[コーヒー]]などの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代には[[チコリ]]の根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずに[[ビール純粋令]]を遵守出来ないような物しか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。</ref>。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159</ref>。
 
248 ⟶ 342行目:
** [[トラバント]](東ドイツの[[大衆車]])
* [[アイゼナハー・モトーレンヴェルク|アウトモビールヴェルク・アイゼナハ]]
** ソ連が[[BMW]]アイゼナハ工場を接収、[[在独ソ連軍政府]](SMAD)が管轄するソビエト企業SMAD社 (Sowjetische AG)の1つ、Awtowelo機械工業 (Maschinenbau Awtowelo) アイゼナハBMW工場 (Werk BMW Eisenach) に改組。その後、アイゼナハー・モトーレンヴェルク (Eisenacher Motorenwerk: EMW) として東ドイツ企業化、最終的にアウトモビールヴェルク・アイゼナハ (VEB Automobilwerk Eisenach: AWE) に改称。
** 東西ドイツ統合後、多くの東西分裂企業は分裂前の企業同士で再統合(或いは吸収)されたが、同社はBMWではなく[[オペル]]([[ゼネラルモーターズ|GM]]傘下)に吸収される道を選んでいる。
** [[ヴァルトブルク (自動車)|ヴァルトブルク]]
260 ⟶ 354行目:
* [[MZモトラッド]] ([[オートバイ]])
** [[DKW]]の東ドイツ地域内企業インフラ・企業法人を継承。
* [[PIKO]](東ドイツの国営玩具企業)
** 総合玩具製造企業。東側を中心に製造されていた鉄道模型は西側での販売に耐えうる製品であったので、西ドイツの契約企業を経由して西側にも輸出されていた。現在は民営化のうえ、操業。国営企業時代の製品はコレクターズアイテム。
 
== 宗教 ==
東ドイツには、様々な信仰団体があった。最も大きかったのは、[[キリスト教]]である。[[1969年]]から政治的な理由で[[プロテスタント]]の8つの{{仮リンク|地方教会_(ドイツ)|label=地方教会|de|Landeskirche}}が東西ドイツの統一組織であった[[ドイツ福音主義教会]]を離れ<ref>[[ベルリンの壁]]が建設される1961年までは、東西ドイツ間の移住は比較的容易であった。(フランク・リースナー著 菅野智明監修 生田幸子訳『私は東ドイツに生まれた』2012年 東洋書店 P171)ため、東西間で聖職者の移動も行われており、例えば福音主義教会の牧師だった[[アンゲラ・メルケル]]の父親も1954年に[[ハンブルク]]から妻子とともに東ドイツへ赴任・移住している。</ref>、{{仮リンク|東ドイツ福音教会連盟|de|Bund der Evangelischen Kirchen in der DDR}}に統合された。これらの[[プロテスタント]]教会の他には、[[カトリック教会]]があり、他にも{{仮リンク|東ドイツ福音主義自由教会連盟|de|Bund Evangelisch-Freikirchlicher Gemeinden in der DDR}}、{{仮リンク|ドイツ自由福音主義教会連盟|de|Bund Freier evangelischer Gemeinden in Deutschland}}、{{仮リンク|メソジスト福音主義教会|de|Evangelisch-methodistische Kirche}}、[[モラヴィア兄弟団]]、[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]、[[メノナイト]]、[[クエーカー]]などの[[自由教会]]も存在していた。{{仮リンク|ルター派自由教会|de|Evangelisch-Lutherische_Freikirche}}、{{仮リンク|ルター派(旧ルーテル)教会|de|Evangelisch-lutherische (altlutherische) Kirche}}、東ドイツ福音改革派教会などもあった<ref>[http://www.kas.de/wf/de/71.6606/ Konrad-Adenauer-Stiftung: ''Freikirchen in der ehemaligen DDR'']</ref>。
 
[[信仰の自由]]は東ドイツでは[[ドイツ民主共和国憲法|憲法]]で公的に保証されていた。しかし東ドイツは、教会の影響力を抑え、特に若者を教会から遠ざけようとしていた<ref>教会の青年組織の存在は社会主義統一党の青年組織[[自由ドイツ青年団]]にとっては目の上のコブであったため、教会組織を弱めようとしていた(仲井斌『もうひとつのドイツ』P111)</ref>。[[1953年]]に{{仮リンク|教会青年団|de|Junge_Gemeinde_(evangelisch)}}の活動が犯罪となり、学校や大学で退学者や逮捕者を出した。この措置は[[1953年]]6月には撤回されたものの、信仰を公言したキリスト教徒は、大学進学や、国家のキャリアコースを歩む可能性が限定されることになった{{#tag:ref|Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Geschichte und Strukturen der DDR.'' München 1998, S.&nbsp;474.}}。
 
このため国民の大部分は、信仰を持たなかった。[[1949年]]の時点では全国民の92%が何らかのキリスト教会に属していたのに対し、[[1988年]]になると、全国民の約40%(約660万人)となった<ref>Gerhard Krause, Gerhard Müller (Hrsg.): ''Theologische Realenzyklopädie.'' (TRE). DeGruyter, Berlin 1993, S. 601.</ref><ref name="Heise">Joachim Heise: ''Kirchenpolitik von SED und Staat''. In: Günther Heydemann, Lothar Kettenacker (Hrsg.): ''Kirchen in der Diktatur: Drittes Reich und SED-Staat.'' Vandenhoeck und Ruprecht, Göttingen 1993, ISBN 3-525-01351-5, S. 136.</ref>。
 
それ以外にも、[[ユダヤ教]]の教会があり、1980年代以降には、散発的ではあるが[[仏教]]や[[ヒンドゥー教]]、[[イスラム教]]の信仰団体も存在していた。
 
信仰を持つ人の数は著しく減少したものの、東ドイツの政治は、キリスト教会の独自性を完全に妨げることはできなかった<ref>[http://www.kas.de/wf/de/71.6657/ Konrad-Adenauer-Stiftung: ''Mythos: „Die Kirchen waren in das System der SED-Diktatur integriert“'']</ref>。多くの人びとは教会を半ばオープンな集会所であると思っており、全く信仰とは関係なく教会のスペースを利用する人もいた。彼らは{{仮リンク|東ドイツの転換と平和革命|de|Wende und friedliche Revolution in der DDR}}の担い手になった。
 
== 文化 ==
音楽・演劇・スポーツなどでは、「西ドイツを大きくリードする目覚しい成果が挙げられた」とされている。しかし、東ドイツ出身の[[作曲家]]イェルク・ヘルヘットは、「何年に[[十二音技法]]が解禁、何年には[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]が解禁などという謎のルールに縛られた奇妙な文化政策」であったことを告白している。また、[[ヴォルフ・ビアマン]]のように反体制的な人物は西ドイツへ国外追放された(他の東側諸国と違って西ドイツと言う同言語の国があり、西ドイツは東ドイツ国民には自動的に西ドイツ国籍を付与していたため、反体制派は追放してしまえばいいという政策がとれた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P100-101</ref>)。
東西両ドイツともかつての伝統的文化を受け継いでいたが、西ドイツでは西欧やアメリカの影響を強く受け、国際的な文化が育まれた。対照的に東ドイツでは伝統的文化に対して保守的で、ソ連型の社会主義的思想が刷り込まれていった。しかし東ドイツの多くの地域で西ドイツのテレビやラジオの放送が受信ができたこともあり、東ドイツの若者の多くは西側特にアメリカにあこがれを抱いていた。
 
 東西再統一後、旧西ドイツ国民にとっては生活環境にほとんど変化はなかったが、旧東ドイツ国民にとってはそれまでの日常のスタイル・文化が一掃されて様変わりした。そのため、再統一後は[[オスタルギー]]という東ドイツの文化を懐かしむ風潮も生まれた。
東西再統一後、旧西ドイツ国民にとっては生活環境にほとんど変化はなかったが、旧東ドイツ国民にとってはそれまでの日常のスタイル・文化が一掃されて様変わりした。そのため、再統一後は[[オスタルギー]]という東ドイツの文化を懐かしむ風潮も生まれた。
 
=== 文学 ===
ナチス・ドイツ党政権に抵抗した[[文学者]]たちの中で、[[アンナ・ゼーガース]]、[[アルノルト・ツヴァイク]]や[[ベルトルト・ブレヒト]]は東ドイツで活動を続けた。また、[[クリスタ・ヴォルフ]]は「引き裂かれた空」で、ベルリンの壁のできる前後の時代の東ドイツの生活を描いた。
 
=== 音楽 ===
音楽では[[シュターツカペレ・ドレスデン|ドレスデン国立歌劇場管弦楽団]]、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]、[[ベルリン国立歌劇場]]などの伝統あるオーケストラや[[オペラハウス]]が活動し、[[クルト・ザンデルリング]]、[[オトマール・スウィトナー]]、[[ヘルベルト・ケーゲル]]、[[クルト・マズア]]、[[ペーター・シュライアー]]といった[[指揮者]]や演奏家が活躍していた。国際化されない、比較的伝統的なドイツ風のサウンドが保存され、オーストリア人のスウィトナーのほか、同じく[[カール・ベーム]]、西ドイツ人の[[ルドルフ・ケンペ]]らもしばしば指揮台に立った。なお、[[クラウス・テンシュテット]]は東ドイツでの活動に疑問を感じ、[[1971年]]に[[西側諸国|西側]]に[[亡命]]している。
 
作曲家では、ナチス・ドイツ党政権時代にアメリカに亡命していた[[ハンス・アイスラー]]や[[パウル・デッサウ]]が戦後に帰国し、楽壇の中心的存在として活動した。
 
音楽のジャンルでは[[ロック (音楽)|ロック]]は他の東欧各国と同様に'''「西側諸国の退廃の象徴」'''として原則禁止の政策が取られていた。しかしながら、ダンス音楽としての名目で軽音楽は認可されており、Karat、[[:de:Stern-Combo_Meißen|Stern Combo Meißen]]、[[:de:Electra_(Band)|Electra]] などのロック・バンドが活動し、国営レーベル Amiga からレコードも出版されていた。[[ハンガリー]]の Omega などのロック・バンドも東ドイツでコンサートを開催し、東ドイツでもその名は知られていた。
 
=== 映画 ===
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===マスコミ===
{{See also|ドイツ民主共和国における検閲}}
 
[[File:West german tv penetration.svg|thumb|250px|東ドイツにおける[[ドイツ公共放送連盟|第一ドイツテレビ(ARD)]]の視聴可能地域(灰色)、黒い部分が受信不能地域で「無知者の谷({{lang|de|Tal der Ahnungslosen}})」と呼ばれた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P97</ref>。赤い四角は西ドイツ側の電波送信所]]
新聞は最有力紙である社会主義統一党[[機関紙]]『ノイエス・ドイチュラント(新しいドイツ)』をはじめ、いくつかの日刊紙が存在した。また、『ジビレ』などの女性ファッション誌なども発行されていた。『ジビレ』はハンガリーなどでも読まれる、社会主義諸国の最先端ファッション雑誌であった<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51</ref>。
 
東ドイツでも日常的にマスメディアが浸透していた。1980年代半ばには、たいていの家庭がラジオ(99%)とテレビ(93%)を持っており、郵便ポストには毎日1つか2つの新聞が入っていた{{#tag:ref|[http://www.bpb.de/izpb/7560/blick-ueber-die-mauer-medien-in-der-ddr Blick über die Mauer: Medien in der DDR, In: [[:de:Bundeszentrale für politische Bildung|Bundeszentrale für politische Bildung]], 2011年6月8日, 参照:2013年2月17日]]}}。新聞は情報手段ではあったものの、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]や[[大衆組織]]の管理下にあり、[[プロパガンダ]]装置でもあった。検閲は、公式上は([[1949年]]の憲法で)禁止されていることになっていたが、実際には、直接的な検閲があり、また著者に「自己検閲」をさせるような微妙な検閲も行われた{{#tag:ref|[http://www.kas.de/wf/de/71.6619/ In der DDR gab es keine freien und unabhängigen Medien, es herrschten staatliche Kontrolle und Genehmigungspflicht], In: [[:de:Konrad-Adenauer-Stiftung|Konrad-Adenauer-Stiftung]], 参照:2013年2月17日}}。
放送局としては東ドイツ国営放送({{lang|de|Fernsehen der DDR}})が2つのチャンネルを使って[[テレビ放送]]を行っていた。ラジオ放送はラジオDDR({{lang|de|Rundfunk der DDR}}: [[DDRラジオ放送局]])、DDRの声、ベルリン放送、[[ラジオ・ベルリン・インターナショナル]]の4つの放送局があった<ref> [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268</ref>。
 
新聞としては最有力紙である社会主義統一党[[機関紙]]『ノイエス・ドイチュラント(新しいドイツ)』をはじめ、いくつかの日刊紙が存在した。また、『[[ズィビレ (雑誌)|ジビレ]]』などの女性ファッション誌なども発行されていた。『ジビレ』はハンガリーなどでも読まれる、社会主義諸国の最先端ファッション雑誌であった<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51</ref>。
 
放送局としては[[ドイツテレビジョン放送|東ドイツ国営放送]]({{lang|de|Fernsehen der DDR}})が2つのチャンネルを使って[[テレビ放送]]を行っていた。ラジオ放送はラジオDDR({{lang|de|Rundfunk der DDR}}: [[DDRラジオ放送局]])、DDRの声、ベルリン放送、[[ラジオ・ベルリン・インターナショナル]]の4つの放送局があった<ref> [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268</ref>。
 
大半の地域では西ドイツのテレビ放送が[[スピルオーバー]]していたため、多くの東ドイツ国民は当局の監視から隠れて(見つかった場合は罰則が科された)西側の放送を見ていた。ライプツィヒの中央青少年研究所によれば、1976年から88年までの間に毎日西ドイツのテレビだけを見る若者の数は14パーセントから56パーセントにまで増加している。ザクセン地方など一部では西ドイツの電波が届かなかったが、ドレスデン市民の中には西ドイツのテレビを見るために様々な団体の協力を受けて衛星放送の受信装置を設置した者までいた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P96-97</ref>。
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* 小説『[[元首の謀叛]]』(作: [[中村正軌]] [[文藝春秋]])
* 小説・映画『[[007 オクトパシー]]』
* 映画『NVA』 (2005年ドイツ): 1980年代後半に[[国家人民軍|東ドイツ陸軍 (NVA)]]へ入隊した若者たちの目を通して、軍隊生活と東ドイツ崩壊を描く。
* 演劇『[[国境のない地図]]』(1995年 [[宝塚歌劇団]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]) [[ベルリンの壁]]に翻弄された母子の別れと再会を描く。
 
== 参考文献 ==
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* 伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』[[社会評論社]]、2009年
* メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』[[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年
* 永井清彦・[[南塚信吾]]・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』[[NHK出版|日本放送出版協会]] 1990年
* [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)
 
==脚注==
{{Reflist|2}}
<references />
 
== 関連項目 ==
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* [[トロイハントアンシュタルト]] ([[:de:Treuhandanstalt|Treuhandanstalt]]) - 旧東ドイツ国営企業整理のため、東西統一後のドイツ政府により設立された[[信託公社]]。独自の調査で「旧西ドイツの2倍の労働者数で2分の1の労働成果しか果たしていない(つまり生産効率が旧西ドイツの25%にしか達していない)」と断言し、多数の旧東ドイツ国営企業を解体・改組、失業を生んだ。現在も旧東ドイツ地域の失業率は、西側先進国の4~5倍近い20%前半台である。3代目長官であった[[デトレフ・ローヴェダー]] ([[:de:Detlev Karsten Rohwedder|Detlev Karsten Rohwedder]]) は旧東ドイツ側失業者の恨みを一身に背負い、東西ドイツ統一のわずか半年後である1991年4月に暗殺された。
* [[DDRラジオ放送局]]
*[[ドイツテレビジョン放送]]
* [[ベルリンSバーン#電車|ベルリンSバーン485型電車]] - 東ドイツの[[地下鉄]]車両。
* [[SVT(Schnellverkehrstriebwagen)]] - [[BR175]]、[[675系]](旧称は「[[VT16系]]」、及び「[[VT18系]]」)。旧[[東ドイツ]]で開発され、1964年より運行が開始された特急電車。時速は160km。外見は日本の初代新幹線である[[新幹線0系電車]]に似ている。
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[[vec:Repùblica Democràtica Todèsca]]
[[vi:Cộng hòa Dân chủ Đức]]
[[war:Sinirangan nga Alemanya]]
[[xmf:გერმანიაშ დემოკრატიული რესპუბლიკა]]
[[yi:מזרח דייטשלאנד]]