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{{redirect|チャーチル}}
{{複数の問題|ソートキー=人1965年没___世界史
| 出典の明記 = 2012年2月9日 (木) 12:58 (UTC)
| 参照方法 = 2012年2月9日 (木) 12:58 (UTC)
}}
{{政治家
|人名 = サー・ウィンストン・チャーチル
|各国語表記 = Sir Winston Churchill
|画像 = Churchill HU 90973.jpg
|画像説明 = [[1944年]][[8月2日]]のチャーチル
|国略称 ={{GBR}}
|生年月日 = [[1874年]][[11月30日]]
|出生地 = [[イギリス]]、[[オックスフォードシャー]]・[[ブレナム宮殿]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1874|11|30|1965|1|24}}
|死没地 = イギリス、[[ロンドン]]・[[ハイドパーク]]
|出身校 = [[ハーロー校]]<br />[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]
|前職 = [[軍人]]、[[ジャーナリスト従軍記者]]
|所属政党 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]([[1900年]]~[[1904年]]、[[1924年]]~[[1964年]])<br />[[自由党 (イギリス)|自由党]](1904([[1904~1924]]~[[1924]])<br/>保守党([[1924年]]~[[1964年]]
|称号・勲章 = [[ガーター勲章|ガーター勲章士]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]
|称号・勲章 =
|親族(政治家) = [[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公爵ジョン]](祖父)<br/>[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]](父)<br/>{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル (1911-1968)|label=ランドルフ|en|Randolph Churchill}}(長男)
|親族(政治家) =
|配偶者 = {{仮リンク|クレメンティーン・チャーチル|en|Clementine Churchill, Baroness Spencer-Churchill}}
|サイン = Sir Winston Churchill signature.svg
|国旗 = GBR
|職名 = 第61代[[イギリスの首相|首相]]
|就任日 = [[1940年]][[5月10日]] - [[1945年]][[7月26日]]<ref name="秦(2001)511">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.511</ref><br />[[1951年]][[10月26日]]
|退任日 = [[19451955年]][[74265日]]<ref name="秦(2001)514">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.514</ref>
|元首職 = [[イギリスの君主|王]]<br />女
|元首 = [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]<br />[[エリザベス2世]]
|国旗2 = GBR
|職名2 = {{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}
|職名2 = 第63代首相
|内閣2 = [[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]内閣(自由党)<br/>[[ネヴィル・チェンバレン|チェンバレン]]内閣(保守党)
|就任日2 = [[1951年]][[10月26日]]
|就任日2 = [[1911年]][[10月23日]] - [[1915年]][[5月26日]]<ref name="秦(2001)512">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.512</ref><br/>[[1939年]][[9月3日]]
|退任日2 = [[1955年]][[4月7日]]
|退任日2 = [[1940年]][[5月10日]]<ref name="秦(2001)512"/>
|元首職2 = 国王
|元首2 = ジョージ6世<br />[[エリザベス2世]]
|国旗3 = GBR
|職名3 = 第49代{{仮リンク|内[[財務大臣 (イギリス)|label=内務大蔵大臣|en|Home Secretary}}]]
|内閣3 = 第2次[[ハーバート・ヘスタンリー・アスキスボールドウィン|アスキスボールドウィン]]内閣]](保守党)
|就任日3 = [[19101924年]][[211196日]]
|退任日3 = [[19111929年]][[106244日]]<ref name="秦(2001)512">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.512</ref>
|国旗4 = GBR
|職名4 = 第65代[[財{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣]]|en|Home Secretary}}
|内閣4 = [[スタハーバート・ヘンリー・ボールドウィンアスキス|ボールドウィン内閣アスキス]]内閣(自由党)
|就任日4 = [[19241910年]][[112614日]]
|退任日4 = [[19291911年]][[6104日]]<ref name="秦(2001)511"/>
|国旗5 = GBR
|職名5 = 第4代[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首
|就任日職名5 = 1940年[[10月9日庶民院]]議員
|就任日5 = [[1900年]][[10月1日]] - [[1908年]][[4月24日]]<ref name="HANSARD">[http://hansard.millbanksystems.com/people/mr-winston-churchill/ HANSARD 1803–2005]</ref><br/>[[1908年]][[5月9日]] - [[1922年]][[11月15日]]<ref name="HANSARD"/><br/>[[1924年]][[10月29日]]
|退任日5 = 1955年4月7日
|退任日5 = [[1964年]][[10月15日]]<ref name="HANSARD"/>
|選挙区5 = {{仮リンク|オールダム選挙区|en|Oldham (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/><br/>{{仮リンク|マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区|en|Manchester North West (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/><br/>{{仮リンク|ダンディー選挙区|en|Dundee (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/><br/>{{仮リンク|エッピング選挙区|en|Epping (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/><br/>{{仮リンク|ウッドフォード選挙区|en|Woodford (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/>
|その他職歴1 = [[保守党 (イギリス)|保守党]]党首
|就任日6 = [[1940年]][[10月9日]]
|退任日6 = [[1955年]][[4月5日]]<ref name="秦(2001)542">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.542</ref>
|国旗7 = GBR
|その他職歴2 = [[国防担当閣外大臣]]
|就任日7 = [[1940年]][[5月11日]] - [[1945年]][[7月27日]]<ref name="秦(2001)513">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.513</ref><br />[[1951年]][[10月28日]]
|退任日7 = [[1952年]][[3月1日]]<ref name="秦(2001)516">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.516</ref>
|その他職歴3 = {{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}
|国旗8 = GBR
|就任日8 = [[1921年]][[2月14日]]
|退任日8 = [[1922年]][[10月19日]]<ref name="秦(2001)513"/>
|その他職歴4 = {{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣|en|Secretary of State for War}}
|国旗9 = GBR
|就任日9 = [[1919年]][[1月10日]]
|退任日9 = [[1921年]]2月<ref name="秦(2001)512">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.512</ref>
|その他職歴5 = {{仮リンク|航空大臣 (イギリス)|label=航空大臣|en|Secretary of State for Air}}
|国旗10 = GBR
|就任日10 = [[1919年]][[1月10日]]
|退任日10 = [[1921年]][[2月13日]]<ref name="秦(2001)512"/>
|その他職歴6 = {{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}
|国旗11 = GBR
|就任日11 = [[1917年]][[7月17日]]
|退任日11 = [[1919年]][[1月10日]]<ref name="秦(2001)514">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.514</ref>
|その他職歴7 = {{仮リンク|ランカスター公領担当大臣|en|Chancellor of the Duchy of Lancaster}}
|国旗12 = GBR
|就任日12 = [[1915年]][[5月28日]]
|退任日12 = [[1915年]][[11月11日]]<ref name="ペイン(1993)395">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.395</ref>
|その他職歴8 = {{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}
|国旗13 = GBR
|就任日13 = [[1908年]][[4月12日]]
|退任日13 = [[1910年]]2月<ref name="秦(2001)513">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.513</ref>
}}
'''サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル'''(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[メリット勲章|OM]], [[:en:Order of the Companions of Honour|CH]], [[:en:Territorial Decoration|TD]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[:en:Deputy Lieutenant|DL]], [[王立協会|FRS]], [[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|Hon. RA]]}}、[[1874年]][[11月30日]] - [[1965年]][[1月24日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[作家]]。
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1953年|ノーベル文学賞| }}
{{thumbnail:end}}
'''サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル'''(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, [[1874年]][[11月30日]] - [[1965年]][[1月24日]])は[[イギリス]]の[[政治家]]。[[1940年]]から[[1945年]]にかけてイギリス戦時[[内閣]]の[[イギリスの首相|首相]]としてイギリス国民を指導し、[[第二次世界大戦]]を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。コマンド部隊創設者<ref>白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)7-8頁</ref>。
 
はじめ[[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家だったが、[[1904年]]に[[自由党 (イギリス)|自由党]]へ移籍し、自由党政権で閣僚職を歴任した。[[第一次世界大戦]]時には{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}、{{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}として戦争を指導した。[[1925年]]に保守党へ復党し、[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]を務める。[[1930年代]]の停滞期を経て、[[第二次世界大戦]]の開戦とともに海軍大臣となる。[[1940年]]に[[イギリスの首相|首相]]となり、[[1945年]]に退任するまでイギリスの戦争を主導した。チャーチルの半ば独裁的な指導のもとにイギリスは戦争を戦い抜き、[[アメリカ]]と[[ソ連]]のおかげで戦勝国に名を並べた。しかしイギリス軍は戦時中に[[アジア]]や[[アフリカ]]で[[ドイツ軍]]や[[日本軍]]に惨敗して威信を傷つけられることが多く、[[植民地]]での反英闘争激化を招いた。その結果、イギリスは戦後に植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。[[1951年]]に再び首相を務め、米ソに次ぐ[[原爆]]保有を実現した。[[1955年]]4月に[[アンソニー・イーデン]]に首相職を譲って政界の第一線から退いた。
彼の[[姓|家名]](ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式には「'''スペンサー=チャーチル'''」という複合姓(二重姓)である。[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ダグラス・マッカーサー]]とは遠戚関係にある。
 
[[ノンフィクション]]作家としても活躍し、[[1953年]]には[[ノーベル文学賞]]を受賞している。
[[2002年]]、[[英国放送協会|BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人|偉大な英国人]]」投票で第1位となった。
 
== 概要 ==
[[1874年]]に[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公爵]]の三男で政治家の[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]]の長男として生まれる。母は[[アメリカ人]]の[[ジャネット・ジェローム|ジャネット夫人]]<ref name="河合(1998)20">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.20</ref><ref name="山上(1960)3-4">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.3-4</ref>。
 
祖父が{{仮リンク|アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|label=アイルランド総督|en|Lord Lieutenant of Ireland}}に任じられ、また父がその秘書となった関係で[[アイルランド]]で幼少期を過ごす<ref name="河合(1998)23">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.23</ref><ref name="ペイン(1993)45">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.45</ref>。
 
[[1888年]]に[[パブリックスクール]]の[[ハーロー校]]に入学するも、成績が悪かったため、大学に進学せず、[[1893年]]6月に[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]に入学した<ref name="河合(1998)38">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.38</ref><ref name="ペイン(1993)392">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.392</ref>。父の死後の[[1895年]]4月に{{仮リンク|第4女王所有軽騎兵連隊 (イギリス)|label=第4女王所有軽騎兵連隊|en|4th Queen's Own Hussars}}の騎兵将校となった<ref name="河合(1998)348">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.348</ref><ref name="ペイン(1993)392"/>。
 
1895年11月には[[スペイン軍]]に従軍して蘭領[[キューバ]]の反乱軍と戦い、初めての実戦経験を得る<ref name="河合(1998)44-45">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.44-45</ref><ref name="山上(1960)14-15">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.14-15</ref><ref name="ペイン(1993)392"/>。[[1896年]]より連隊とともに[[英領インド]]に派遣され、インド人召使に囲まれた生活を送る<ref name="ペイン(1993)76">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.76</ref>。[[1897年]]にはインド西北部の[[パシュトゥーン人]]の反乱の鎮圧戦に参加した。この時の戦争体験を初めての著作『{{仮リンク|マラカンド野戦軍物語|en|The Story of the Malakand Field Force}}』に記した<ref name="河合(1998)52-53">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.52-53</ref><ref name="山上(1960)18">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.18</ref>。1898年の[[スーダン]]侵攻にも{{仮リンク|第21槍騎兵連隊|en|21st Lancers}}に所属して従軍し、[[オムダーマンの戦い]]に参加した。戦後この戦いについての『{{仮リンク|河畔の戦争|en|The River War}}』を著した<ref name="河合(1998)56-58">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.56-58</ref><ref name="山上(1960)19-20">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.19-20</ref>。
 
[[1899年]]に一度除隊し、{{仮リンク|オールダム選挙区|label=オールダム選挙区|en|Oldham (UK Parliament constituency)}}の[[庶民院]]議員{{仮リンク|1899年オールダム補欠選挙|label=補欠選挙|en|Oldham by-election, 1899}}に[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬するも落選した<ref name="山上(1960)22">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.22</ref>。[[1900年]]の[[ボーア戦争#第二次ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]には[[従軍記者]]として従軍したが、[[ボーア人]]の捕虜となる。しかし同年のうちに捕虜収容所から脱走し、これが話題となって知名度を上げる<ref name="山上(1960)22-26">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.22-26</ref>。その後再び騎兵将校として再入隊し、ボーア戦争の第1段階の終わりである[[トランスヴァール共和国]]首都[[プレトリア]]の占領まで戦った。この後の[[ゲリラ]]戦と化した第2段階には従軍せず、帰国。ボーア戦争に関する『{{仮リンク|ロンドンからレディスミスへ|en|London to Ladysmith via Pretoria}}』と『{{仮リンク|ハミルトン将軍の行進|en|Ian Hamilton's March}}』の2作を著した<ref name="河合(1998)63-64">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.63-64</ref>。
 
ボーア戦争中の[[カーキ選挙]]である1900年の{{仮リンク|1900年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1900}}にオールダム選挙区から保守党候補として出馬し、初当選を果たす<ref name="ペイン(1993)393">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.393</ref><ref name="山上(1960)26-27">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.26-27</ref>。しかし{{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}[[ジョゼフ・チェンバレン]]が[[大英帝国]]外に対する[[保護貿易]]論である{{仮リンク|帝国特恵関税制度|en|Imperial Preference}}の導入を主張するようになると、[[自由貿易]]主義者としてそれに反発し、自由貿易護持の立場を明確にしようとしない[[アーサー・バルフォア]]首相や保守党を見限り、[[1904年]]5月には[[自由党 (イギリス)|自由党]]へ移籍した<ref name="山上(1960)31-32">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.31-32</ref><ref name="河合(1998)78-81">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.78-81</ref>。
 
関税問題に揺れるバルフォア保守党政権は[[1905年]]12月に総辞職し、[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]の自由党政権が発足すると、{{仮リンク|イギリス植民地省政務次官|label=植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for the Colonies}}に就任した<ref name="河合(1998)84-85">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.84-85</ref>。また直後の[[1906年]]初頭の{{仮リンク|1906年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1906}}で{{仮リンク|マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区|en|Manchester North West (UK Parliament constituency)}}に転区し自由党議員として当選<ref name="河合(1998)85-86">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.85-86</ref><ref name="山上(1960)33">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.33</ref>。植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人に対する融和政策や[[中国人]][[奴隷]]問題の処理など英領南アフリカにまつわる問題に取り組み、また[[英領東アフリカ]]の視察旅行を行った<ref name="河合(1998)93-98">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.93-98</ref>。
 
[[1908年]]、33歳のときには[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]内閣の{{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}に就任した。これは当時イギリス史上2番目に若い閣僚であった<ref name="河合(1998)102">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.102</ref>。しかし、当時は閣僚となった場合1度辞職して再選挙に臨まねばならない法律があり、この再選挙に敗れて[[スコットランド]]の{{仮リンク|ダンディー選挙区|en|Dundee (UK Parliament constituency)}}へと転区して、そこで勝利を収めた<ref name="河合(1998)103-108">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.103-108</ref>。
 
[[デビッド・ロイド・ジョージ]]とともに急進派閣僚として[[社会改良]]政策に尽力し、イギリスの[[社会福祉]]の基礎を築いた。。[[1909年]]には{{仮リンク|1909年職業紹介所設置法 (イギリス)|label=職業紹介所設置法|en|Labour Exchanges Act 1909}}制定を主導し<ref name="河合(1998)115-116">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.115-116</ref><ref name="坂井(1967)385">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.385</ref><ref name="村岡(1991)235">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.235</ref>、また[[社会保障]]費を乏しくするとして[[自由帝国主義]]派閣僚たちの主張する海軍増強案に反対した<ref name="坂井(1967)397-398">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397-398</ref>。[[1908年]]、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した<ref name="河合(1998)129">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.129</ref>。夫婦仲は良好で、1男4女を儲けた<ref name="山上(1960)241-242">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.241-242</ref>。
 
[[1910年]]2月に{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}に就任。[[1911年]]には{{仮リンク|1911年国民保険法 (イギリス)|label=国民保険法|en|National Insurance Act 1911}}第2部の[[失業保険]]制度の構築を担当した<ref name="河合(1998)122-123">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.122-123</ref>。一方で{{仮リンク|トニパンディの暴動|en|Tonypandy Riots}}をはじめとする[[ストライキ]]運動の鎮圧を指揮したことで[[社会主義]]への敵意を強めるようになり、社会改良政策に取り組んだ急進派政治家としての面はこの頃から無くなっていく。またこの事件での強硬な対応は尾を引き、「トニイパンディを忘れるな」との悪評が付きまとうこととなった。もっともこの事件の際、実際にはチャーチルは軍を後衛に控えさせて警官を投入した<ref name="河合(1998)129">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.129</ref>。
 
[[ドイツ]]との[[建艦競争]]が激化する中の1911年10月に{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}に就任。ドイツとの戦争準備を進めた。[[1914年]]8月に[[第一次世界大戦]]が開戦すると陸軍を大陸へ輸送させつつ、海軍からも航空部隊や水兵を上陸させ、[[ベルギー]]の[[アントワープ]]の防衛に当たろうとしたが、失敗。同年12月の[[フォークランド沖海戦]]には勝利したものの、[[1915年]]3月より開始させた[[ガリポリの戦い|ガリポリ上陸作戦]]には惨敗を喫した。[[第一海軍卿]][[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]がチャーチルに抗議して辞職するとチャーチル批判が強まっていき、1915年5月に自由党と保守党の大連立政権として再発足したアスキス[[挙国一致内閣]]では、海軍大臣を外され、{{仮リンク|ランカスター公領担当大臣|en|Chancellor of the Duchy of Lancaster}}に左遷された。ガリポリ作戦の中止が決定された後の同年11月に閣僚職を辞した。
 
[[1916年]]12月にアスキスが失脚し、ロイド・ジョージが首相となると転機が訪れ、[[1917年]]7月に{{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}として再入閣を果たした。[[戦車]]の増産に努め、イギリスの勝利に貢献した。戦後の1919年1月には{{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣|en|Secretary of State for War}}兼{{仮リンク|航空大臣 (イギリス)|label=航空大臣|en|Secretary of State for Air}}に転任。動員解除を指揮しつつ、[[ロシア革命]]を阻止すべく反ソ干渉戦争を主導した。ロシアの共産化は防げなかったが、赤化ロシア軍の[[ポーランド・ソビエト戦争|ポーランド侵攻]]は撃退できた。だが、干渉戦争を快く思わないロイド・ジョージにより[[1921年]]1月に{{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}に転任させられた。イギリスの委任統治領となった[[イラク]]や[[パレスチナ]]の[[アラブ人]]を懐柔すべく、{{仮リンク|カイロ会議|en|Cairo Conference (1921)}}を主宰し、[[ハーシム家]]の者たちをイラク王や[[ヨルダン]]王に据える一方、[[国際連盟]]の委任状に基づき、裕福なユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。[[1922年]]10月の保守党の政権離脱に伴うロイド・ジョージ内閣の総辞職につき、閣僚職を辞した。さらに同年11月の[[1922年イギリス総選挙|総選挙]]で落選。この頃に一次大戦に関する『世界の危機』を著した。
 
1923年11月の[[1923年イギリス総選挙|総選挙]]で保守党、[[労働党 (イギリス)|労働党]]、自由党のいずれも単独で政権が取れない状況となると、自由党は労働党に接近し、[[ラムゼイ・マクドナルド]]内閣の成立に協力した。チャーチルは反社会主義の立場からこれに反発し、自由党を離党。1924年10月の[[1924年イギリス総選挙|総選挙]]には保守党候補として出馬し、反共演説で人気を博し、当選を果たした。
 
同選挙の保守党の圧勝で[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣が成立すると[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]として入閣した。新興国[[アメリカ]]や[[日本]]の勃興でイギリス貿易が弱体化し、また戦争の影響で海外投資が減少し、貿易外収支も大幅に減る中、イギリス金融を再び世界をリードする地位に戻そうと戦前レートでの[[金本位制]]復帰を行った。だがこれは[[ポンド]]の過大評価であったため、石炭産業をはじめとするイギリス輸出業に更なる打撃を与える結果となり、炭鉱労働者を中心とした[[ゼネスト]]を招いた。[[1929年]]の[[1929年イギリス総選挙|総選挙]]の保守党の敗北でボールドウィン内閣は総辞職し、マクドナルドの労働党政権となった。
 
その後の[[世界大恐慌]]の中で保守党はマクドナルドと挙国一致内閣を組むも、チャーチルは閣僚職から遠ざけられた。1930年には『{{仮リンク|我が前半生|en|My Early Life}}』、1931年には『{{仮リンク|マールバラ公 その生涯と時代|en|Marlborough: His Life and Times}}』を出版した。1930年から1935年頃にかけてインド総督{{仮リンク|E.F.L.ウッド (初代ハリファックス伯爵)|label=アーウィン卿|en|E. F. L. Wood, 1st Earl of Halifax}}やマクドナルド挙国一致政権が推し進めようとしたインド自治に強く反対し、保守党執行部との対立を深めた。1935年にマクドナルドが退任し、保守党首班政権となるもチャーチルは干され続けた。この間、[[ナチ党]]党首で1933年にドイツ首相に就任した[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]による軍拡・領土拡張方針に対する融和政策に反対し続けた。
 
[[1939年]]9月に[[ネヴィル・チェンバレン]]が融和政策を破棄してドイツに宣戦布告したことで[[第二次世界大戦]]が勃発。これを機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰した。[[1940年]]4月の[[ヴェーザー演習作戦|北欧戦]]を主導したが、惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレンに帰せられ、1940年5月にその後任として[[イギリスの首相|首相]]職に就いた。同時期に[[西方電撃戦]]を開始したドイツ軍に惨敗し、6月にフランスは陥落した。1940年8月から9月にかけてイギリス本土の[[制空権]]を狙うドイツ空軍の攻撃を受けるも、撃退することに成功した([[バトル・オブ・ブリテン]])。
 
1940年11月に[[フランクリン・ルーズベルト]]がアメリカ大統領に三選したことでアメリカの反独姿勢が強まり、1941年3月には[[武器貸与法]]が制定され、アメリカのイギリス支援が本格化した。
 
一方チャーチルはドイツの同盟国[[イタリア]]による[[ギリシャ]]侵攻、イギリス[[非公式帝国|半植民地]][[エジプト]]への侵攻の撃退に力を注ぐも、精強なドイツ軍の介入で苦戦を強いられ、ギリシャではドイツ軍に惨敗([[ギリシャ・イタリア戦争]])、[[北アフリカ戦線]]でも[[エルヴィン・ロンメル]]将軍率いるドイツ軍に追い込まれていった。しかし[[1941年]]6月からヒトラーが[[バルバロッサ作戦]]を発動して[[独ソ戦]]を開始したことで、[[スターリン]]が独裁する[[ソビエト連邦]]と同盟関係になった。1941年8月にはソ連とともに[[イラン]]へ[[イラン進駐 (1941年)|侵攻]]し、同国の石油資源を確保するとともにソ連支援ルートを作った。
 
1941年8月に[[カナダ]]の[[ニューファンドランド島]]沖に停泊する[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|戦艦プリンス・オブ・ウェールズ]]上でルーズベルトと会談を行い、「[[民族自決権]]」を盛り込んだ「[[大西洋憲章]]」と呼ばれる合意を行うも、チャーチルはナチス支配下のヨーロッパ諸国限定と解釈し、[[アジア]]や[[アフリカ]]への適用は拒否した。またドイツの同盟国日本に強硬な要求を突き付けることもこの会談で確認され、1941年12月にアメリカの強硬要求を拒否した日本がアメリカの[[真珠湾]]を攻撃したことでアメリカとも同盟関係となった。
 
[[1942年]]3月には[[日本軍]]が[[シンガポール]]を陥落させ、また7月には[[ドイツ軍]]が[[トブルク]]を陥落させるなど、イギリスの威信が傷付く事態が連発。これによりインド人やエジプト人の間に独立の希望が広がり、反英闘争が激化、大英帝国のアジア・アフリカ支配体制は根幹から揺るがされた。しかし[[1943年]]からは敵国への空襲を強化して相手の足腰を弱め、北アフリカからドイツ軍を駆逐し、イタリア上陸を開始するなど攻勢に転じた。イタリア戦線はドイツ軍の勇戦で膠着状態となったが、1943年11月の[[テヘラン会談]]でチャーチル、ルーズベルト、スターリンの「三巨頭」は英米軍のフランスへの上陸作戦、それに乗じたソ連の攻勢を約し、これに基づき[[1944年]]6月に[[ノルマンディー上陸作戦]]が決行され、膠着状態は崩れた。1944年11月には三巨頭で[[ヤルタ会談]]を行い、ドイツの分割占領、[[ポーランド]]のソ連支配が約束されるとともに、ソ連の対日参戦の密約が結ばれた。
 
[[1945年]]5月にドイツが[[無条件降伏]]すると、労働党が挙国一致内閣を解消。7月に[[1945年イギリス総選挙|解散総選挙]]を行うも、保守党は惨敗し、政権を失った。野党党首に落ちたものの、以降も自らの知名度を生かして独自の反共外交を行い、[[ヨーロッパ合衆国]]構想などを推し進めた。[[1946年]]3月にはアメリカの[[フルトン]]で「[[鉄のカーテン]]」演説を行う。また労働党政権がインドをはじめとする植民地を次々と手放していくことを[[帝国主義]]者の立場から批判した。また二次大戦の回顧録『{{仮リンク|第二次世界大戦 (ブック・シリーズ)|label=第二次世界大戦|en|The Second World War (book series)}}』全6巻を1948年から1巻ずつ出版して話題となり、[[1953年]]には[[ノーベル文学賞]]を受賞している。
 
[[1951年]]10月の[[1951年イギリス総選挙|総選挙]]での保守党の勝利で政権を奪還。[[1953年]]のスターリンの死で米ソが[[雪解け]]時代に向かう中、チャーチルも共産主義国に対する融和的態度を取るようになった。一方で核武装、[[東南アジア条約機構]](SEATO)参加など反共政策も粛々と進める。また植民地独立を阻止することに力を注いだが、時代の趨勢には抗えず、ほぼ失敗に終わった。老衰が酷くなっていたため、[[1955年]]4月に[[アンソニー・イーデン]]に首相職を譲って引退した。
 
『{{仮リンク|英語圏の人々の歴史|en|A History of the English-Speaking Peoples}}』を出版した後、[[1965年]]に死去した。
{{-}}
== 生涯 ==
=== と出自につ立ち ===
==== 誕生 ====
1874年11月30日に[[オックスフォードシャー]]・[[ウッドストック]]の[[ブレナム宮殿]]に生まれる。ブレナム宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が、[[スペイン継承戦争]]中の[[ブレンハイムの戦い]]で立てた戦功によって当時の[[アン (イギリス女王)|アン女王]]から贈られた大邸宅である。
[[1874年]][[11月30日]]、午前1時30分頃、[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・スペンサー=チャーチル卿]]とその夫人[[ジャネット・ジェローム|ジャネット]]の長男として[[ウッドストック]]にある[[マールバラ公爵]]家の自邸[[ブレナム宮殿]]で生まれた<ref name="サンズ(1998)18">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.18</ref><ref name="ペイン(1993)42">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.42</ref><ref name="山上(1960)3">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.3</ref>。
 
父ランドルフ卿は第7代マールバラ公爵[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル]]の三男であり<ref name="ペイン(1993)27">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.27</ref>、1874年春にマールバラ公爵家の領地である{{仮リンク|ウッドストック選挙区|en|Woodstock (UK Parliament constituency)}}から出馬して[[庶民院]]議員に初当選し、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家になっていた人物である<ref name="ペイン(1993)38">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.38</ref><ref name="河合(1998)20">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.20</ref>{{#tag:ref|父[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル]]は「Lord(卿)」の称号を持っているが、これは公爵の庶子だからである<ref name="ペイン(1993)45">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.45</ref>。イギリスでは法律上貴族であるのは爵位を持つ家の当主のみであり、それ以外はその息子であっても当主の地位を継ぐまでは平民である。伯爵以上の貴族の場合は従属爵位をもっており、その貴族の[[嫡男]]は、当主になるまで従属爵位を[[儀礼称号]]として使用する。また公爵家・侯爵家の場合は、嫡男の弟たちも「Lord(卿)」の儀礼称号を使用する。ただしどちらも儀礼称号に過ぎず、法的身分は平民である<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.14-15</ref>。ちなみにチャーチルは公爵の庶子の子供に過ぎないから何の称号も持っていなかった<ref name="ペイン(1993)45"/>。|group=注釈}}。
父[[w:Lord Randolph Churchill|ランドルフ・チャーチル]]は第7代マールバラ公の息子(3男)で、後に[[保守党 (イギリス)|保守党]]の領袖となり[[財務大臣 (イギリス)|蔵相]]などをつとめた有力政治家であった。また、母は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の銀行家{{仮リンク|レナード・ジェローム|en|Leonard Jerome}}の次女で、[[社交界]]の花形であった[[ジャネット・ジェローム|ジャネット]](ジェニー)である。チャーチル誕生時は、それぞれ25、20歳であった。
 
母ジャネット(愛称ジェニー)は[[アメリカ人]]投機家{{仮リンク|レナード・ジェローム|en|Leonard Jerome}}の次女であった<ref name="ペイン(1993)34">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.34</ref>。
幼年時代に寄宿学校([[ハーロー校]])に入れられ、厳格な[[教育]]を受けた。生来は[[左利き]]だったが[[右利き]]になることを強要され、後遺症に苦しめられる。成績はビリから三番目、彼より下位の二人は病気などの理由で退学。あまりの成績の悪さに、ギリシア語、ラテン語は身につかないだろうということで、特別補修のクラスで教師のソマヴェルから、英語の構文を徹底的に教えられた。<ref>W・チャーチル著、中村祐吉訳『わが半生』誠光社, 1950 p.24-25;角川文庫,1965</ref>彼の学校時代の成績は終始ふるわなかったが、フェンシングは大会で優勝するほどの腕前であった。[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]を3度受験してようやく合格した。ハーロー校入学自体が校長の特別な計らいだったともいわれる。
 
父母は普段はロンドンで暮らしているが<ref name="河合(1998)22">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.22</ref>、この日は{{仮リンク|聖アンドリューの日|en|St. Andrew's Day}}であり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催の舞踏会が予定されていた<ref name="ペイン(1993)42">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.42</ref>。
=== 従軍 ===
[[ファイル:Churchhill 03.jpg|180px|thumb|left|将校時代のチャーチル]]
[[1895年]]にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、[[騎兵]]隊[[少尉]]に任官した。その後、[[軍事顧問]]として[[キューバ]]や[[インド]]におもむき、本国の雑誌に記事を寄せた。特に、インドでの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられて評判となり、ときの首相である[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯]]に面会を求められている。
 
スペンサー=チャーチル家の伝統で[[代父]](祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付けられた<ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.26-27</ref>。
1899年には陸軍を退官し、ランカシャー州のオーダムから保守党候補として出馬するも敗北。[[1899年]]の[[ボーア戦争]]には[[従軍記者]]として参加。[[ナタール州|ナタール]]の[[レディスミス]]においての戦闘に向かう途中で敵に捕われ、捕虜となるが脱走に成功。[[ポルトガル]]領ロレンソ・マルケス(現[[マプト]])の領事館に無事到着した。チャーチルの脱走はボーア戦争で敗戦続きだったイギリスにとって、久しぶりに明るいニュースとして伝えられ、チャーチルの知名度を飛躍的に高めた。その後、アフリカ軽騎兵連隊に入隊し、記者の活動を続けながら戦闘にも従事した。除隊後、これらの体験を著書として発刊し、4,000ポンドの収益と名声を手に入れた。
 
[[12月27日]]にブレナム宮殿内の礼拝堂で[[洗礼]]を受けている<ref name="サンズ(1998)27">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.27</ref>。新年を迎えるとランドルフ卿一家はロンドンの自邸へ帰り、チャーチルは[[乳母]]エリザベス・エヴェレスト(Elizabeth Everest)によって養育されることになった<ref name="サンズ(1998)27">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.27</ref><ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.5-6</ref>{{#tag:ref|[[ヴィクトリア朝]]の上流階級では子供の養育は乳母に任せ、親と子供はほとんど関わりを持たず、時々顔を見るだけという関係であることが多かった。チャーチルの両親の場合、政界と社交界での活動が忙しかったので特にその傾向が強かった<ref name="河合(1998)33">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.33</ref><ref name="サンズ(1998)35">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.35</ref>。|group=注釈}}。
=== 政界進出 ===
[[1900年]]に再びオーダム選挙区より[[保守党 (イギリス)|保守党]]から[[庶民院|下院]]議員選挙に出馬し、初当選を果たした。[[1904年]]に、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、[[自由党 (イギリス)|自由党]]に移籍した。1905年、自由党が政権を握ると[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]内閣で植民地相次官に就任した。
 
{{Gallery
[[1906年]]の総選挙で[[マンチェスター]]市に転区し当選。1908年、33歳のときには[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]内閣で商務相に就任した。これは当時イギリス史上二番目に若い閣僚であった。しかし、当時は閣僚となった場合一度辞職して再選挙に臨まねばならない法律があり、この再選挙に敗れて[[スコットランド]]の[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]市へと転区して、そこで勝利を収めた。商務相としては労働交換所の設立を行い、続いて1910年に就任した内務相としても[[失業保険]]制度を導入して、イギリスの[[社会福祉]]の基礎を築いた。しかし、1910年に南[[ウェールズ]]にあるトニイパンディの町で炭鉱夫の大ストライキがおき、内相チャーチルが早々と軍を出動させたことから非難を浴びた。もっともこの事件の際、実際にはチャーチルは軍を後衛に控えさせて非武装の警官を投入し<ref>「チャーチル 増補版」p129 河合秀和著 中公新書 1998年1月25日発行</ref>、死者を出さずに事態を収拾することに成功している。しかし、この事件での強硬な対応は尾を引き、「トニイパンディを忘れるな」との悪評が付きまとうこととなった。[[1908年]]、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した。夫婦仲は良好で、1男4女をもうけた。末子のメアリー(1922年 - )のみが、2010年現在も存命である。彼女は父と[[ポツダム]]に同行しており、1979年には母の伝記を出版している。
|File:Randolph churchill.jpg|父の[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]]。
|File:JennieChurchill0001.jpg|母の[[ジャネット・ジェローム|ジャネット夫人]]
|File:Blenheim Palace, Woodstock, Oxon. - geograph.org.uk - 801177.jpg|チャーチルが生まれた祖父の居城[[ブレナム宮殿]]
}}
 
==== 第一次世界大戦期父の家系について ====
[[File:1st Duke of Marlborough arms.png|180px|thumb|マールバラ公爵の紋章。]]
[[1911年]]、チャーチルは{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|en|Lords Commissioners of the Admiralty}}となり、在任のまま[[第一次世界大戦]]を迎えた。しかし、敵国となった[[オスマン帝国]]の首都[[イスタンブル]]の入り口である[[ダーダネルス海峡]]制圧をねらって彼を推進した[[ガリポリの戦い]]([[1915年]])は、意見対立から陸軍の援護も無いまま連合軍兵士にとって最も死に近い激戦地[[ガリポリ]]への侵攻作戦を強行。無謀とも言えたこの強引な上陸作戦は三度実行されるも五万五千人もの戦死者を出しイギリス軍の惨憺たる敗北に終わった。それは連合国軍側にとって第一次大戦史上最大の失敗であり愚行でもあった。チャーチルは「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、閑職である{{仮リンク|ランカスター公領大臣|en|Chancellor of the Duchy of Lancaster}}に移された後、内閣を去らねばならなかった。この敗戦はしばらく尾を引き、議会で何か提案すると「またダーダネルスか」と野次られ、皮肉られた。
チャーチル家が栄進するきっかけを作ったのは、[[17世紀]]の[[ウィンストン・チャーチル (1620-1688)|ウィンストン・チャーチル]]だった。このウィンストンは[[弁護士]]の息子で、自身も弁護士になったが、[[清教徒革命]]の際に[[王党派]]の騎兵将校として戦ったこと、また[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズ]]の姪を妻としたことで[[1660年]]の[[王政復古]]後に成功を掴んだ。{{仮リンク|イングランド庶民院|en|House of Commons of England}}の議員に当選し、また宮内庁の会計官となり、[[ナイト爵]]を与えられたのだった<ref name="森(1987)240-242">[[#森(1987)|森(1987)]] p.240-242</ref><ref name="臼田(1979)18-23">[[#臼田(1979)|臼田(1979)]] p.18-23</ref>。
 
その息子である[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が一気に公爵にのし上がった人物である。[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の三代に軍人として仕えた彼は、[[モンマスの反乱]]を鎮圧し、[[名誉革命]]ではジェームズ2世を裏切って革命の成功に貢献し、[[大同盟戦争]]や[[スペイン継承戦争]]では対仏同盟軍の総司令官として数々の戦功をあげるという活躍をした<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.11-15</ref><ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.248-253</ref>。アン女王の寵愛を受けた女官[[サラ・ジェニングス]]と結婚したことで、とりわけアン女王から引き立てられ、スペイン継承戦争の戦功により初代マールバラ公爵に叙され、また{{仮リンク|ウッドストック (オックスフォードシャー)|label=ウッドストック|en|Woodstock, Oxfordshire}}に広大な所領と、同地に[[ブレンハイムの戦い]]の戦勝を記念するブレナム宮殿(ブレンハイムの英語読み)を建設するための資金30万ポンドを下賜された<ref name="河合(1998)14-15">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.14-15</ref><ref name="サンズ(1998)24">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.24</ref><ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.252-254</ref><ref name="山上(1960)3"/>。これは戦功に対する恩賞としては前代未聞の大盤振る舞いだった<ref name="森(1987)255">[[#森(1987)|森(1987)]] p.255</ref>。
また、戦死者の中には愛国心から出兵に志願した科学者[[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|ヘンリー・モーズリー]]もいた。モーズリーは[[原子番号]]の意義を確立し、当時数十年にも及んだ科学者達による未知元素の発見競争に終止符を打つほどの科学的業績にも関わらず、自然科学関連では「存命中の人物だけを対象とする」という規定により、モーズリーは九分九厘確実とされていたノーベル物理学賞を逃している。
 
初代マールバラ公爵には無事成人した男子がなかった。議会はマールバラ公爵位を存続させるため特例として[[女系]]での継承を許可した<ref name="臼田(1979)192">[[#臼田(1979)|臼田(1979)]] p.192</ref><ref name="サンズ(1998)24">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.24</ref>。これにより初代マールバラ公爵の死後、長女[[ヘンリエッタ・チャーチル (第2代マールバラ公)|ヘンリエッタ]]が第2代マールバラ女公爵となったが、彼女の息子も早世したため、彼女の死後、マールバラ公爵位は、彼女の妹である{{仮リンク|アン・スペンサー (サンダーランド伯爵夫人)|label=アン|en|Anne Spencer, Countess of Sunderland (1683–1716)}}と[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー]]の間の子[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|第5代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー]]に継承されることになった<ref name="臼田(1979)192"/><ref name="サンズ(1998)24"/>。
余暇のできたチャーチルは絵筆をとり、以後の50年間に500点以上の作品を残した。繊細で穏やか、かつカラフルな風景画が特色である。1930年代の「荒野の10年」と自ら呼んだ時代の作品が多い。「Painting As a Pastime」という著書もある。[[1917年]]にチャーチルは[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]内閣の軍需相として政権に復帰し、戦争推進のために意欲的に働いた。
 
以降このチャールズ・スペンサーの直系男子がマールバラ公爵位を継承していくことになるが、チャールズはスペンサーの家名を使い続けたのでチャーチルの家名はこの時に一度消えた<ref name="臼田(1979)192"/>。しかしチャールズの孫であり、[[1817年]]に当主となった{{仮リンク|ジョージ・スペンサー=チャーチル (第5代マールバラ公爵)|label=第5代マールバラ公爵ジョージ|en|George Spencer-Churchill, 5th Duke of Marlborough}}は、[[ワーテルローの戦い]]の戦勝ムードの中で武勲ある家名チャーチルを復活させることを許可され、以降「スペンサー=チャーチル」の二重性を使用するようになった<ref name="臼田(1979)194">[[#臼田(1979)|臼田(1979)]] p.194</ref><ref name="森(1987)255">[[#森(1987)|森(1987)]] p.260</ref>。
===大戦間===
終戦後以降は[[ロシア革命]]に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。[[1919年]]1月10日からは{{仮リンク|戦争大臣|en|Secretary of State for War}}に転じ、{{仮リンク|航空大臣 (イギリス)|en|Secretary of State for Air}}を兼任した。
[[1921年]]にチャーチルは植民地相に転じ、[[アイルランド自由国]]の独立を認めた[[英愛条約]](イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。
 
このジョージの孫にあたるのがチャーチルの祖父である第7代マールバラ公爵[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|ジョン・スペンサー=チャーチル]]である。彼の代には歴代当主の浪費と、産業化に伴う地主の没落という世相を反映してマールバラ公爵家の家計は相当苦しくなっていた<ref name="臼田(1979)194">[[#臼田(1979)|臼田(1979)]] p.194</ref><ref name="河合(1998)19">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.19</ref>。所領や家財を売り飛ばしてなんとか生計を保つという有様だった<ref name="臼田(1979)194"/><ref name="河合(1998)19"/><ref name="ペイン(1993)27">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.27</ref>。
[[1922年]]には[[落選]]して政権を去ったが、この間「反[[社会主義]]」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。さらに補欠選挙で2度落選した後、[[1924年]]の選挙では[[エセックス州]]のエッピングから保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣の[[財務相]]に就任した。チャーチルは落選が多かった政治家であるが、これ以後は常に議席を守り続けた。
 
第7代マールバラ公爵には5人の息子があったが、うち3人は早世し、2人が無事成長した。長男{{仮リンク|ジョージ・スペンサー=チャーチル (第8代マールバラ公)|label=ジョージ|en|George Spencer-Churchill, 8th Duke of Marlborough}}と三男[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]]である<ref name="ペイン(1993)27"/>。この三男ランドルフ卿がチャーチルの父親である。
[[1929年]]に、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、[[1931年]]に発足した[[ラムゼイ・マクドナルド]]挙国一致内閣にも入閣せず、1939年に海軍大臣となるまで10年間閣僚の椅子から遠ざかっていた。のちに自ら「荒野の10年」と呼んだこの不遇の時期、彼は先祖の[[マールバラ公]]の[[伝記]]執筆などの[[著作]]や描画に専念した。
 
==== 母の家系について ====
[[1934年]]-[[1936年]]にチャーチルは、[[ラルフ・ウィグラム]] ([[:en:Ralph_Wigram|Ralph_Wigram]]) によって入手された、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]政権下のドイツの再軍備化の情報を[[デスモンド・モートン]] ([[:en:Desmond_Morton_(officer)|Desmond_Morton_(officer)]]) より得た。その情報を元にチャーチルは[[スタンリー・ボールドウィン]]内閣を攻撃した。
一方アメリカ人の母ジャネットは、[[1709年]]頃にイングランド・[[ワイト島]]から{{仮リンク|英領アメリカ|en|British America}}に移民した開拓者ティモシー・ジェロームの子孫である<ref name="サンズ(1998)24">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.24</ref><ref name="ペイン(1993)31">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.31</ref>。
 
ティモシーは[[コネチカット州]]{{仮リンク|ウォリングフォード (コネチカット州)|label=ウォリングフォード|en|Wallingford, Connecticut}}で一財産を築いた<ref name="ペイン(1993)32">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.32</ref>。ティモシーの末子であるサミュエルは{{仮リンク|ストックブリッジ (マサチューセッツ州)|label=ストックブリッジ|en|Stockbridge, Massachusetts}}の地主としてさらに成功を収め、その息子アーロンは[[アメリカ合衆国]]初代[[アメリカ大統領|大統領]][[ジョージ・ワシントン]]の親戚の娘と結婚した<ref name="ペイン(1993)32">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.32</ref>。アーロンの息子にアイザックがおり、そのアイザックの息子がチャーチルの祖父にあたる{{仮リンク|レナード・ジェローム|en|Leonard Jerome}}だった<ref name="ペイン(1993)32"/>。
ラルフ・ウィグラムの情報は[[:en:Robert_Gilbert_Vansittart|Robert Gilbert Vansittart]]の懸念を裏付けるものだった。[[:en:Other_Club|Other Club]]の仲間で後[[1945年]]に新しい[[フィナンシャル・タイムズ]]を設立する[[:en:Brendan_Bracken|Brendan Bracken]]も同意見で、チャーチルの閣僚入りを大いに助けた。しかし1936年にラルフ・ウィグラムは不審な死を遂げた。後にチャーチルは五巻の第二次世界大戦の本のなかで彼を「great unsung hero」と述べている(この事件を描いた[[映画]]が "[[:en:The_Gathering_Storm_(2002)|The Gathering Storm]]" である)。
 
レナードは南北戦争後の復興事業で大儲けし、先祖たちよりも大きな成功を収めた。銀行経営者、[[ウォール街]]の投機家、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』の株主、[[サンフランシスコ]]と[[横浜]]を繋ぐ{{仮リンク|パシフィック・メール汽船会社|en|Pacific Mail Steamship Company}}の所有者、競馬場経営者、そして馬主にもなった<ref name="河合(1998)21">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.21</ref><ref name="ペイン(1993)32">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.32</ref>。彼はニューヨーク州議会議員を1年だけ務めた小金持ちアンブローズ・ホールの娘クラリッサ・ホールと結婚した。ホール家の伝承によるとホール家には[[インディアン]]の[[イロコイ族]]の血が流れているというが、正確なところは不明である<ref name="ペイン(1993)33">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.33</ref>。
1936年にはボールドウィンに対する支持が減退し始め、対抗馬としてチャーチルを推す動きが高まっていたが、同時期に国王[[ジョージ5世]]が死去し、あとを継いだ[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]が[[ウォリス・シンプソン]]との結婚の意志を固めると、退位を迫るボールドウィンに対し国王を擁護する姿勢をとったため世論の支持を失い、ボールドウィンはネヴィル・チェンバレンへと政権を移譲した。チェンバレン政権の下では一時政権批判を控えたものの、アドルフ・ヒトラーとナチスドイツの台頭を警戒し、宥和政策をとるチェンバレンへの批判を強めていった。[[ミュンヘン協定]]にも反対し、宥和政策の失敗が明らかになるにつれてチャーチルの声望が高まっていった。
 
レナードとクラリッサ夫妻は4人の娘を儲けた。そのうちの次女がチャーチルの母ジャネットであった。ジェローム一家はやがて[[パリ]]に移住し、フランス皇帝[[ナポレオン3世]]から厚遇された<ref name="ペイン(1993)34">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.34</ref>。レナードはまもなくパリを離れたが、クラリッサと娘たちはパリで暮らし続け、ジャネットもパリで育つことになった<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.34-35</ref>。一家は[[普仏戦争]]で一時フランスを離れたものの、戦後パリに戻った<ref name="ペイン(1993)35">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.35</ref>。
=== 第二次世界大戦 ===
[[ファイル:Churchill V sign HU 55521.jpg|200px|thumb|[[Vサイン]]をするチャーチル]]
[[ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|200px|thumb|ヤルタ会談にて、左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン]]
[[File:Wc0279.jpg|200px|thumb|[[北大西洋条約機構|NATO]]本部にて、左からチャーチル、アイゼンハワー、モントゴメリー([[1951年]])]]
 
1873年8月12日にワイト島の{{仮リンク|カウズ|en|Cowes}}に停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿は初めて知り合い、その場で惹かれあった二人は、3日後には婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ちであることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚した<ref name="河合(1998)21-22">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.21-22</ref><ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.37-38</ref>。
[[1939年]]9月に[[ポーランド]]に侵攻した[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ドイツ]]に[[宣戦布告]]し、[[第二次世界大戦]]がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた (Winston is back)」と艦隊に発信している)。[[1940年]]には[[ネヴィル・チェンバレン]]の後任として首相に任命され、みずから[[国防相]]を兼任して陸海空の[[参謀総長]](海軍については第一海軍卿)を直接指揮する形をとり、[[挙国一致内閣]]を率いて戦時指導にあたった。この頃の個人秘書が[[:en:Jock_Colville|Jock Colville]]である。
 
ランドルフ卿とジャネットは結婚して7カ月半という早産で長男チャーチルを儲けたのだった<ref name="河合(1998)22">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.22</ref>
イギリスは英仏海峡の対岸ヨーロッパで主力配備し敵を阻む伝統であったが、ドイツの急激な進軍により人員、機材の多くを失った。このためヨーロッパに於ける大規模な攻勢は当分不可能になった。攻撃は最大の防御と考えていたチャーチルは局地的な反撃を行うため、[[ダッドレー・クラーク]] ([[w:Dudley Clarke|Dudley Clarke]]) 陸軍中佐の発案による[[コマンド部隊]]の創設を命令した。これにはボーア戦争でチャーチルが敵部隊を見聞した経験も生かされている<ref>白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)7-8頁</ref>。
 
=== アイルランドでの幼少期 ===
チャーチルは[[ラジオ]]や議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していき、[[ドイツ空軍]]による「[[バトル・オブ・ブリテン]]」を勝利に導いた。さらに[[1941年]]には、中立を保っていた[[アメリカ合衆国]]の[[フランクリン・D・ルーズベルト]]大統領との協力の下、[[レンドリース法|武器貸与法]]に基づきアメリカからの武器貸与を受ける手はずを整えた。
[[File:Churchill 1881 ZZZ 7555D.jpg|180px|thumb|7歳の頃のチャーチル(アイルランド・ダブリン)]]
[[1876年]]にランドルフ卿は兄{{仮リンク|ジョージ・スペンサー=チャーチル (第8代マールバラ公)|label=ブランドフォード侯爵ジョージ|en|George Spencer-Churchill, 8th Duke of Marlborough}}と[[プリンス・オブ・ウェールズ|皇太子]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード・アルバート]](愛称バーティ、後の英国王エドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで、皇太子の不興を買い、皇太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界における立場を失った<ref name="河合(1998)23">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.23</ref><ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.43-44</ref><ref name="森(1987)265-266">[[#森(1987)|森(1987)]] p.265-266</ref>。
 
時の[[イギリスの首相|首相]]・保守党党首[[ベンジャミン・ディズレーリ]]が皇太子との関係を仲裁してくれたものの、ディズレーリからほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう言われ、ランドルフ卿の父第7代マールバラ公爵が{{仮リンク|アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|label=アイルランド総督|en|Lord Lieutenant of Ireland}}に任命され、ランドルフ卿もその秘書として妻や2歳の息子チャーチルを伴って[[1877年]][[1月9日]]に[[アイルランド]]に赴任することになった<ref name="河合(1998)23">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.23</ref><ref name="ペイン(1993)44">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.44</ref><ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.28-29</ref>。
{{仮リンク|参謀本部委員会|en|Chiefs of Staff Committee}}議長[[ヘイスティングス・イズメイ]] ([[:en:Hastings Ismay, 1st Baron Ismay|Hastings Ismay]]) の協力もあり、強力な指導力を見せることが出来た。しかし[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦に伴い[[日本]]と対決した[[マレー沖海戦]]では、[[大日本帝国海軍]]の攻撃により東洋艦隊の新造戦艦を含む2隻の戦艦を失った。チャーチルは後に著書で「第二次世界大戦中もっとも衝撃を受けたことだ」と記している。その後もイギリス軍は日本軍に対して敗退を続け、[[海峡植民地]]や[[香港]]、[[ミャンマー|ビルマ]]を失った上に、[[セイロン沖海戦]]でも敗退し空母を失うなど大打撃を受けた。
 
アイルランドにおいて公爵夫妻は[[フェニックス・パーク]]の総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くの{{仮リンク|リトル・ラトラ|label=リトル・ロッジ|en|Little Ratra}}で暮らした<ref name="ペイン(1993)45">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.45</ref>。
また、[[エル・アラメインの戦い]]や[[ハスキー作戦]]で勝利を収めたものの、[[アメリカ陸軍]]の[[ジョージ・パットン]]将軍と個人的な衝突をおこした他、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]将軍とも対立した[[バーナード・モントゴメリー]]陸軍[[少将]]の処遇にはかなり手を焼いている(この頃を描いた[[映画]]が "[[:en:Into_the_Storm_(film)|Into the Storm]]" である)。更に日本軍の侵攻の危機にさらされた[[オーストラリア]]の防衛を巡って、ロンドンに派遣されていたオーストラリア外相の[[ハーバート・エバット]]とも衝突した。
 
チャーチルが物心をついたのもアイルランドであり、彼は回顧録の中で「私が記憶している最初の場所はアイルランドだ」と書いている<ref name="河合(1998)23">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.23</ref>。
しかしその後、アメリカや[[ソビエト連邦]]などの他の連合国との協力関係を元に戦局を挽回した。チャーチルはアメリカのルーズベルトとソ連の[[スターリン]]と共に連合国の三巨頭であり、米英ソ中で構成される「[[四人の警察官構想]]」の一員でもあったが、[[蒋介石]]の[[中華民国]]を「四人の警察官」に加える事に反対していた。しかし、中華民国が「四人の警察官」に加わったと共にチャーチルはド・ゴールのフランスも参加させ、これにより国連の常任理事国が5か国になった。戦争が終結に近づくと、[[ヤルタ会談]]や[[ポツダム会談]]などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の[[1945年イギリス総選挙|1945年7月におこなわれた総選挙]]で保守党は[[クレメント・アトリー]]率いる[[労働党 (イギリス)|労働党]]に敗北した。
 
アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストがチャーチルの養育にあたっていた<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.45/47</ref>。チャーチルは彼女のことを「ウーマニ」と呼んで慕い、8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった<ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.27/32</ref><ref name="ペイン(1993)47">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.47</ref>。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り<ref name="河合(1998)34">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.34</ref>、「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしていたという<ref name="ペイン(1993)47"/>。またこの頃から[[家庭教師]]が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという<ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.33-34</ref>。
敗北が確定したのは[[ポツダム会談]]中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった<ref>投票自体は7月5日であったが、戦争で全世界に駐留する将兵の不在者投票分の集計に手間取り、このような形になった。</ref>。このためチャーチルは第二次世界大戦のイギリスの勝利のみならず、連合国の勝利に大きく貢献したにもかかわらず、勝利の瞬間を首相として祝うことは叶わなかった。
 
[[1879年]]の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社[[フェニアン]]の暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと常に気を揉んでいたという<ref name="河合(1998)24">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.24</ref><ref name="サンズ(1998)30">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.30</ref>。
=== 冷戦期 ===
その後、[[ハリー・S・トルーマン]]の招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、[[1946年]][[3月5日]]に[[ミズーリ州]][[フルトン]]で行った演説で[[ヨーロッパ]]の東西分断を評した「[[鉄のカーテン]]」演説を行い、自由主義陣営の盟主のアメリカと、[[共産主義]]陣営のソビエトを軸にした[[冷戦]]の到来を予言した。また、この時期に「第二次世界大戦回顧録」の執筆にとりかかり、[[1948年]]に1巻を出版し、以後1年ごとに一巻を上梓し、最後の一巻は首相就任のため出版が遅れたものの、[[1953年]]に第6巻を出して完結させた。この著書により、チャーチルは1953年にノーベル文学賞を受賞した。
 
1880年2月4日、弟{{仮リンク|ジョン・ストレンジ・スペンサー=チャーチル|label=ジョン・ストレンジ|en|John Strange Spencer-Churchill}}がダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二人のみである<ref name="サンズ(1998)34">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.34</ref><ref name="ペイン(1993)48">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.48</ref>{{#tag:ref|チャーチルは基本的にこの弟と仲良く育った<ref name="サンズ(1998)68">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.68</ref>。ただチャーチルが幼いころに集めていた1500個のおもちゃの兵隊で弟と遊ぶ時、白人兵士のおもちゃはチャーチルが独占してしまい、弟にはわずかな黒人兵士のおもちゃしか与えなかったという。チャーチルは黒人兵士のおもちゃに小石をぶつけたり、溺れさせたりし、弟の黒人軍隊が蹴散らされて終わるというのがこの遊びのお約束だった<ref name="ペイン(1993)49">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.49</ref>。|group=注釈}}。
[[1951年]]の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、2度目の政権は国際問題に悩まされ、[[イギリス帝国|大英帝国]]の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。また、[[脳卒中]]の発作にも悩み、[[アンフェタミン]]を服用しなければ演説が出来ないほどまでに体力は低下していた。アトリー労働党政権とは逆に、[[鉄鋼]]や[[運輸]]分野において非国有化を行った。
 
この直後に{{仮リンク|1880年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1880}}が行われることとなり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、一家そろってイングランドに帰国した<ref name="サンズ(1998)34">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.34</ref>。この総選挙でランドルフ卿は再選を果たしたものの、保守党全体としては大敗し、ディズレーリ内閣は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した<ref name="河合(1998)25">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.25</ref><ref name="サンズ(1998)34"/>。
また、選挙の年にはイランで[[モハンマド・モサデク]]首相がイギリス系の石油会社[[ブリティッシュ・ペトロリアム|アングロ・イラニアン石油]]の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。植民地[[ケニア]]では[[キクユ族]]による抵抗運動から[[1952年]]に非常事態宣言が発令されて[[マウマウ戦争]]に発展し、イギリスは[[植民地政策]]の転換を迫られた。[[マレーシア]]でも[[独立]]の機運が高まって反英[[ゲリラ]]の闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。
=== 学生生活 ===
==== 聖ジョージ・スクール ====
[[File:Churchill at School in Hove C. 1884 s.jpg|180px|thumb|1884年のチャーチル]]
1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父ランドルフ卿の決定で{{仮リンク|アスコット (バークシャー州)|label=アスコット|en|Ascot, Berkshire}}の{{仮リンク|聖ジョージ・スクール (アスコット)|label=聖ジョージ・スクール|en|St. George's School, Ascot}}に入学した<ref name="河合(1998)348">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.348</ref><ref name="サンズ(1998)41">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.41</ref><ref name="ペイン(1993)52-53">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.52-53</ref>。
 
この学校でのチャーチルは落ちこぼれだった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児だった<ref name="ペイン(1993)54">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.54</ref>。校長からもよく[[鞭打ち]]に処された<ref name="ペイン(1993)56">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.56</ref><ref name="サンズ(1998)54">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.54</ref>{{#tag:ref|この学校の生徒である作家{{仮リンク|モーリス・ベアリング|en|Maurice Baring}}によると、チャーチルは食堂から砂糖を盗んだ廉で校長から鞭打ち刑に処された際、反省するどころか、校長が大事にしていた麦わら帽子を踏み潰すという暴挙にでたという。ベアリングは「チャーチルはあの学校にいた間ずっと権力と衝突してばかりだった」と語っている<ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.48-49</ref><ref name="ペイン(1993)56"/>。|group=注釈}}。
[[1955年]]、チャーチルは首相職を[[アンソニー・イーデン]]に譲り引退した。1952年に即位した[[エリザベス2世]]は新たにロンドン公爵位を創設しチャーチルに与えようとした。父と同じく政治家を目指していた息子のランドルフは下院議員となる資格を失うことを恐れ反対したためこの話は実現しなかった。[[1963年]]にはアメリカから[[アメリカ名誉市民|名誉市民権]]を贈られたが、その頃には頻繁に[[心臓発作]]をくり返すようになり、式典に出ることができなかった。次第に恍惚状態になることが多くなり、一日に頭がはっきりしているのは2、3時間という有様であったという。1965年1月15日に脳卒中で倒れ1月24日午前8時(日本時間午後5時)頃に息を引き取った。その後、平民としては史上初となる[[国葬]]によって葬られた。
 
チャーチル自身もこの学校については良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している<ref name="サンズ(1998)48">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.48</ref>。
== 評価 ==
チャーチルは非常に[[英雄]]主義的な考えを持った政治家であり、政治や[[文学]]にその才能を発揮した。第二次世界大戦の困難な時期に、彼は強い意志と楽観主義をもって、憔悴したイギリス国民を激励した。戦意を保ち、軍事戦略を立案し、ついにはアメリカ・ソ連と同盟しイギリスを勝利に導いた。彼はたぐいまれな軍事的知識を持ち、その戦略家としての名声は卓越したものがある。しかし、批判者のなかには「彼の提案する壮大で無謀な作戦戦略は、しばしば現場と衝突し、混乱させた」と主張する者もある。これは、チャーチルには、幼少時から、[[ハンニバル]]や[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]などの英雄に対する強い憧れがあり、それに後述する躁うつ症状が重なったことが大きく影響したとする。ナポレオンへの思い入れは深く、少年時は錫製のナポレオン時代の兵士の人形をコレクションしていた。
 
1884年夏に聖ジョージ・スクールを退学した。乳母エヴェレストがチャーチルの身体に鞭で打たれた跡があるのを見つけて、それを母ジャネットに報告した結果、ジャネットの判断で退学することになったのだという。アメリカ人であるジャネットはイギリス上流階級の[[サディスティック]]な教育方法に慣れておらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという<ref name="サンズ(1998)54">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.54</ref>。
彼の政治キャリアは長きにわたるが、そこにはいくたびかの不遇期があった。特に、戦間期にはチャーチルは古い帝国主義的幻想にしがみついた時代遅れの政治家と考えられていた。また、彼はマールバラ公家特有の[[躁うつ病]]を患い、生涯に心臓発作を含むさまざまな病と闘った(彼は自身の躁うつ病のことを『私の中の黒い犬』と呼んでいた)。
 
==== ブライトン寄宿学校 ====
また、彼の文才と[[ユーモア]]とウィットのセンスは広く認められたものであった。彼はその政治家としてのスタートをさまざまな[[戦記]]を執筆することからはじめた。彼は下院議員に当選後も積極的に執筆活動を続け、海軍大臣として第一線で活躍した第一次世界大戦を書いた作品や自分自身の先祖ジョン・チャーチルや父ランドルフ・チャーチルを書いた伝記など多数を執筆。特に、第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名であり、それらの筆業は彼にノーベル文学賞をもたらした。日常ではジョークの名手かつ[[毒舌家]]であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名で、女性議員を悔しがらせたと伝えられる。
つづいて[[ブライトン]]にある名もなき寄宿学校に入学した<ref name="サンズ(1998)56">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.56</ref><ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.56-57</ref>。
 
チャーチルにとってこの学校は聖ジョージ・スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わったことのない、親切と共感があった。」と幸せそうな回顧をしている<ref name="サンズ(1998)56">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.56</ref>。この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響していると思われる<ref name="河合(1998)35">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.35</ref>。
なお、彼が優秀な政治家の条件として挙げたのは「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを弁解する能力」である。
 
この学校でのチャーチルの成績表によると、品行はクラス最低だが、[[英語]]、古典、図画、[[フランス語]]はクラスで7番目から8番目ぐらいだった<ref name="ペイン(1993)56-57">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.56-57</ref>。[[乗馬]]や[[水泳]]に熱中し<ref name="河合(1998)35">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.35</ref><ref name="ペイン(1993)57">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.57</ref><ref name="山上(1960)7">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.7</ref>、作文に関心をもったのもこの頃だという<ref name="河合(1998)35"/>。
== 備考 ==
* [[昼寝]]をすることが日課であり、他人にも勧めていた。[[国会]]会期中であっても昼寝ができるように議事堂内にチャーチル専用の[[ベッド]]が用意されていた。医学的にも適度な昼寝は心身の疲れを取り[[ストレス (生体)|ストレス]]解消につながることが指摘されており、チャーチルが不健康であったにもかかわらず長命であったのも昼寝の効用であったとする専門家もいる。
* トレードマークの[[葉巻]]は[[キューバ]]産の「[[ロメオ・イ・フリエタ]]」や[[フィリピン]]産の「[[タバカレラ]]」を愛用した。それを由来として、長さ178ミリ、直径18.65ミリ以上の葉巻を「チャーチルサイズ」と呼んでいる。しかし、大きいサイズを好んだものの、煙は吸わず、噛んでいるだけのことが多く、大方は半分あたりまでしか吸わなかったという。また、葉巻はロンドンにある[[ダンヒル]]など有名たばこ店から購入していたが、第二次世界大戦中にダンヒルの店が[[ドイツ空軍]]による爆撃にあった際、ただちにマネージャーが首相官邸に「あなたの葉巻は大丈夫です」と電話をしたという。
* [[1929年]][[10月24日]]、たまたま[[ウォール街]]を見学に訪れていたため、[[世界恐慌]]の引き金となった、いわゆる「[[暗黒の木曜日]]」を目の当たりにした。
* 競馬にも造詣が深く、[[オリオール]](1950年 - 1974年)の産駒ヴィエナを所有していたことでも知られる。ヴィエナ自身はそれほど活躍しなかったが、のちに産駒[[ヴェイグリーノーブル]]が競走馬だけでなく種牡馬としても活躍し、1980年代の競馬界におけるオリオール系の繁栄の一端を担った。
* 政治家としては早くから顕職を歴任したが、落選することも多かった。これは彼が特定の選挙区に地盤を持たず、各地の選挙区に転区を繰り返していたためである。そのため、自分自身の後援会組織を作ることができずに個人人気のみで勝負せざるを得ず、実績のわりに多くの落選を経験することとなった。
 
チャーチルは巷で自分の父が「[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]首相のライバル」などと大政治家視されているのを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「[[ノンポリ]]はバカなのだろう」などと公言していた<ref name="山上(1960)7">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.7</ref>。
== 語録 ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年11月23日 (火) 16:42 (UTC)|ソートキー=人1965年没}}
*「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」
*「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」
*「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」
*「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」
*「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に」
*「我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない」
*「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」(あらゆる政治体制に民主制が打ち勝ってきたことを挙げて)
*「戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー]]や、[[ガイウス・ユリウス・カエサル|シーザー]]や、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもう、なくなった」(第一次世界大戦に際して、『世界の危機』)
*「これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて、書記官達に取り囲まれて座る。一方何千という兵士達が、電話一本で機械の力によって殺され、息の根を止められる。これから先に起こる戦争は、女性や、子供や、一般市民全体を殺すことになるだろう。やがてそれぞれの国には、大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊のためのシステムを生み出すことになる」(同上)
*「人類ははじめて自分たちを絶滅させることのできる道具を手に入れた。これこそが人類の栄光と苦労のすべてが最後の到達した運命である」(同上)
*「政治は戦争と同じくらいエキサイティングで危険である。戦争では君を一度しか殺せないが、政治では君を何度も殺せることができる」
*「将軍は自分を[[ジャンヌ・ダルク]]か、あるいは[[ナポレオン]]かと思っている。だが誰も彼を火炙りにすることも、島流しにすることもできない」([[フランクリン・ルーズベルト]]に[[シャルル・ド・ゴール]]の排除を持ちかけられたとき)
*「実のところ我が軍の最高の秘密兵器はヒトラーだ」(ドイツがバルバロッサ作戦を開始した直後の言葉)
*「イギリス以外の国は全部仮想敵国だ」(第二次世界大戦中、「イギリスにとっての仮想敵国とはどこですか?」という質問への返答)
*「もしヒトラーが地獄に攻め入ったら私は議会で悪魔を助けるよう演説するだろう」
*「私が歴史を書くのだから、歴史は私に好意的だろう」
*「戦争での成功を保証できる者などいない。いるのは成功を収める権利を勝ち取った者だけだ」
*「人類の戦闘において、かくも多数の人々が、かくも少数の人々によって、これほど多くの恩恵をうけたことはかつてない。」([[バトル・オブ・ブリテン]]を振り返った時の言葉)
*「うちのボンクラ息子よりはマシな奴だよ」(息子の嫁が、[[フィアット]]の[[ジャンニ・アニェッリ]]と不倫し、それが報道された時、アニェッリを評して)
*「その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況がわかる」
*「これは我が党の長い歴史の中で蒙った最悪の厄災だ」(ポツダム会談直後の総選挙惨敗を受けて)
*「私はイギリスが今や世界のおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」(アメリカ名誉市民権を贈られたとき)
*「何もかもウンザリしちゃったよ」([[臨終]]の際の最後の言葉)
* ある人が「一度も絵を描いたことのない者が名士というだけで美術展の審査員を務めています。如何なものでしょうか?」と尋ねるとチャーチルは「私はタマゴを産んだことは一度もありませんが、タマゴが腐っているかどうかは分かります」
 
その父ランドルフ卿は[[1886年]]成立の[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]内閣で[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]・[[庶民院院内総務]]に就任し、次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職する羽目になり、事実上失脚することとなった<ref name="山上(1960)11">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.11</ref><ref name="神川(2011)406">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.406</ref><ref name="サンズ(1998)175">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.175</ref>。
== 架空の名言 ==
{{-}}
チャーチルが「20歳までに[[左翼]]に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」と発言したという事が巷間に伝わっているが、これは誤った情報であり、チャーチルがこのような発言をしたという公式文書などは存在しないことが指摘されている<ref>http://www.winstonchurchill.org/learn/myths/myths/quotes-falsely-attributed-to-him</ref>。
同じイギリスの首相である[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の発言「16歳で[[自由党 (イギリス)|自由党]]員にあらざる者は、心を持たぬ。60歳で[[保守党 (イギリス)|保守党]]員にあらざる者は、頭を持たぬ」が上記の言葉の元となったともいう説もあるが、この「名言」には年齢の部分などにさまざまな異種があると同時に、誰が言ったかについても明確な根拠がなく、出典は不明である。ディズレーリの他にも[[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[アリスティード・ブリアン]]、[[ウッドロー・ウィルソン]]、[[オットー・フォン・ビスマルク]]、[[ジョルジュ・クレマンソー]]、[[フランソワ・ギゾー]]、[[バートランド・ラッセル]]、[[デイヴィッド・ロイド=ジョージ]]といった大物の発言に擬せられたことがある<ref>[http://www.geocities.com/Athens/5952/unquote.html]</ref>。
 
==== ハーロー校 ====
また、[[競馬]]関連の名言としてよく引き合いに出される「[[ダービーステークス|ダービー]]馬のオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」という発言も出典がなく、現在では作り話とされている。この言葉は本国であるはずのイギリスではほとんど知られておらず、競馬ライターの高崎武大は著書の中で、自らが創作したとする元[[日本中央競馬会|JRA]]職員の証言を載せている。
[[File:Jennie Churchill with her sons.jpg|230px|thumb|1889年の弟{{仮リンク|ジョン・ストレンジ・スペンサー=チャーチル|label=ジョン・ストレンジ|en|John Strange Spencer-Churchill}}(左)、母[[ジャネット・ジェローム|ジャネット]](中央)、チャーチル(右)]]
[[1888年]]3月、[[パブリック・スクール]]の[[ハーロー校]]の入試を受けた。入試試験の出来はいまいちで、苦手な[[ラテン語]]にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、学校側としても落とすわけにもいかず、校長の判断で合格ということになった。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた<ref name="ペイン(1993)58">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.58</ref><ref name="山上(1960)8">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.8</ref><ref name="河合(1998)35-36">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.35-36</ref>{{#tag:ref|スペンサー=チャーチル家は代々[[イートン校]]に入学することが多かったが、チャーチルが病弱だったため、テムズ川河畔にあって湿気がひどいイートン校は避けられたようである<ref name="山上(1960)8">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.8</ref><ref name="河合(1998)35">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.35</ref>。|group=注釈}}。
 
ハーロー校での成績は悪かった<ref name="ペイン(1993)58">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.58</ref><ref name="山上(1960)9">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.9</ref>。無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し始めたかと思うと全くやらなくなるという気分のムラが激しかったという<ref name="ペイン(1993)58">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.58</ref>。ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された<ref name="サンズ(1998)149">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.149</ref>。また当時のハーロー校では下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという<ref name="ペイン(1993)60">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.60</ref>。
== 著書 ==
 
*『サヴローラ』(小説)
しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃や[[フェンシング]]や[[水泳]]も得意だった<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.59/62</ref><ref name="山上(1960)9">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.9</ref><ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.133/170</ref>。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた<ref name="河合(1998)36">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.36</ref><ref name="山上(1960)8">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.8</ref>。「ハーローヴィアン」という校内の雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才能を磨いていった<ref name="ペイン(1993)60"/>。
*『マラカンド野戦軍』(戦記)
 
*『河畔の戦争』(戦記)
当時のハーロー校には[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]への進学を目指す「軍人コース」という教育コースがあり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは軍人コースに入れるしかないと考えていた<ref name="河合(1998)38">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.38</ref><ref name="ペイン(1993)62">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.62</ref>。チャーチルによればチャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時にランドルフ卿が部屋に入って来て、チャーチルに「陸軍に入る気はないか」と聞いたが、それに対してチャーチルがイエスと答えたことで最終的にこの進路が決まったのだという<ref name="河合(1998)38"/><ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.124-125</ref>。
*『ランドルフ卿』(父ランドルフの伝記)
 
*『世界の危機』(第一次世界大戦の回想録)
しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった<ref name="河合(1998)38"/><ref name="ペイン(1993)62"/>。ハーロー校の校長の薦めでチャーチルはサンドハースト王立陸軍士官学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった<ref name="河合(1998)38"/><ref name="サンズ(1998)187">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.187</ref>。
*『第二次世界大戦回想録』([[1953年]]に[[ノーベル文学賞]])
{{-}}
**毎日新聞翻訳委員会訳. 毎日新聞社, 1949-55. 「抄」のち中公文庫 
=== 軍人・従軍記者として ===
*『第二次世界大戦』(『第二次世界大戦回想録』を、自身で戦記を中心に短くまとめた)
==== サンドハースト王立陸軍士官学校 ====
**日本語版:[[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]訳(全4巻:[[河出書房新社]]、1972 のち文庫)
[[File:Winston Churchill 1874 - 1965 ZZZ5426F.jpg|180px|thumb|1895年2月、第4女王所有軽騎兵連隊に入隊したチャーチル]]
*『わが半生』(若き日の回想録)
18歳の時の[[1893年]]6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので{{#tag:ref|この時のチャーチルの成績は製図72点、自由製図68点、国史64点、数学62点、英作文62点、フランス語61点、化学41点、ラテン語18点で総受験者数389人中95位となっている<ref name="ペイン(1993)64">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.64</ref>。|group=注釈}}、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった<ref name="ペイン(1993)64">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.64</ref><ref name="サンズ(1998)187">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.190</ref><ref name="山上(1960)12">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.12</ref>{{#tag:ref|騎兵将校は給料をはるかに超える毎年600ポンドもの金がかかり、さらに騎兵将校たるもの[[ポロ]]を趣味とすることを半ば強要されていたため、その費用がまた膨大であった<ref name="河合(1998)47">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.47</ref>。そのため騎兵将校は人気がなく、経済的に困窮していた父ランドルフ卿もチャーチルを歩兵将校にさせたがっていた<ref name="ペイン(1993)66">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.66</ref><ref name="河合(1998)38">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.38</ref>。|group=注釈}}。
**中村祐吉訳 保育社、1950 のち[[角川文庫]]
 
**若き日の回想 佐藤亮一訳. ポプラ社, 1968. 世界の名著
幼時から軍隊に憧れていたチャーチルはここに[[ヴィクトリア女王]]の軍隊の軍人となったのであった<ref name="ペイン(1993)64">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.64</ref>。
**わが青春記(佐藤亮一訳) ノーベル賞文学全集. 22 主婦の友社, 1972. のち旺文社文庫 
 
*大戦後日譚 外交秘録 西村二郎訳. 万里閣書房, 1930.
つまらない数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中することができるようになった<ref name="山上(1960)12">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.12</ref><ref name="ペイン(1993)66">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.66</ref>。とりわけ[[アメリカ独立戦争]]と[[普仏戦争]]に強い興味を持ち、その研究に明け暮れた<ref name="ペイン(1993)66">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.66</ref>。
*世界大戦. 第1-9巻 広瀬将等訳. 非凡閣, 1937.
 
*描く楽しさ 林謙一訳. 美術出版社, 1951.
ただしこの頃、父ランドルフ卿の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなくなっていた<ref name="サンズ(1998)208">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.208</ref>。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしている<ref name="河合(1998)41">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.41</ref><ref name="ペイン(1993)66">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.66</ref>。
*わが思想・わが冒険 中野忠夫訳. 新潮社, 1956.
 
*人生と政治に関する我が意見 ツァルノムスキー編 [[石川欣一]]訳. 東京創元社, 1957.
1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校の卒業試験に合格した<ref name="河合(1998)42">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.42</ref><ref name="ペイン(1993)69">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.69</ref>。{{仮リンク|アルダーショット|en|Aldershot}}駐留の{{仮リンク|第4女王所有軽騎兵連隊 (イギリス)|label=第4女王所有軽騎兵連隊|en|4th Queen's Own Hussars}}に配属された<ref name="ペイン(1993)69">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.69</ref>。
*血と涙と 中野忠夫訳. 新潮社, 1958.
 
*チャーチル・ウィット アダム・サイクス,アイエン・スプロート編 金子登訳 ダイヤモンド社, 1965.
==== 父の死 ====
*チャーチル名演説集 チャーチル研究会編訳. 原書房, 1965.
父ランドルフ卿の健康状態は数年前から悪化し続けていた。1894年6月には最後の思い出作りでジャネットとともに[[アメリカ]]や[[日本]]、また英領[[香港]]、英領[[シンガポール]]、英領[[ラングーン]]などアジア植民地を歴訪する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという<ref name="河合(1998)41">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.41</ref>。医者の予言通り、父は旅行から帰国した直後の[[1895年]][[1月24日]]に死去した。45歳という若さだった<ref name="山上(1960)12"/><ref name="河合(1998)42">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.42</ref><ref name="ペイン(1993)70">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.70</ref>{{#tag:ref|なおチャーチルはこの70年後、父と全く同じ日に死去することになる<ref>[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.264-265</ref>。|group=注釈}}。
*チャーチル名言集 [[加瀬英明]]編 講談社, 1965. ハウ・ツウ・ブックス
 
*チャーチル名言集 コーリン・R.クート編 天野亮一訳. 原書房, 1965.
チャーチルは自伝の中で父の死について「父と同志になりたいという夢、つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。私に残された道は父の思い出を大切にし、父の意志を継ぐことだけだった」と書いている<ref name="河合(1998)42">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.42</ref><ref name="サンズ(1998)267">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.267</ref>。
*葉巻とパレット 青山四郎訳. グロリヤ出版, 1977.7.
 
父の死によって家長となったチャーチルは、逼迫したチャーチル家の家計をしょって立たねばならなくなった。父は晩年に[[ロスチャイルド家]]から融資を受けて南アフリカ金鉱株を買っていたが、これを相続したチャーチルは南アフリカ金鉱株の高騰で早々に莫大な利益をあげることができた。しかし相続した借金額も巨額だったので、結局その利益はほとんど返済に充てるより他になかった<ref name="河合(1998)47">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.47</ref>。
 
同年7月には乳母エヴェレストも死去した。チャーチルは彼女のことを「私の20年の人生で最も親密な友人だった」と評し、その死を大いに悲しんだ<ref name="サンズ(1998)267">[[#サンズ(1998)|サンズ(1998)]] p.267</ref><ref name="山上(1960)13">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.13</ref>。彼女の葬儀はチャーチルが一切を手配した<ref name="ペイン(1993)70"/>。
 
==== 初訪米とキューバ反乱鎮圧戦への参加 ====
騎兵将校になったチャーチルは、戦争が起きる気配がないことを残念がっていた。[[ナポレオン戦争]]時代に生まれたかったとよく愚痴をこぼしていた<ref name="山上(1960)14">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.14</ref>。
 
そんな中の[[1895年]]、{{仮リンク|スペイン領キューバ|es|Capitanía General de Cuba}}で[[スペイン]]の支配に抗する{{仮リンク|マキシモ・ゴメス|es|Máximo Gómez}}や[[ホセ・マルティ]]らの反乱が勃発した({{仮リンク|キューバ独立戦争|es|Guerra de Independencia cubana}})。関心を持ったチャーチルは軍から2ヶ月半の長期休暇をもらい{{#tag:ref|騎兵将校はかなり暇な仕事であり、毎年5ヶ月休暇がもらえる<ref name="ペイン(1993)71">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.71</ref>。|group=注釈}}、さらにスペイン政府にキューバの反乱鎮圧に協力したいと申し出て、キューバ渡航の許可を得た<ref name="山上(1960)14"/>。
 
こうして1895年11月初め、レジナルド・バーンズという同僚とともにキューバへ向けて出港した。途中アメリカ・[[ニューヨーク]]に立ち寄り、母方の祖父レナード・ジェロームの友人である[[アメリカ合衆国下院|アメリカ下院議員]]{{仮リンク|ウィリアム・バーク・コクラン|en|William Bourke Cockran}}から歓迎された<ref name="河合(1998)44">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.44</ref><ref name="ペイン(1993)71">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.71</ref>。チャーチルはこの頃すでに政界進出の野望を持っていたので<ref name="河合(1998)43">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.43</ref>、コクランから演説手法について色々と手ほどきを受けた<ref name="河合(1998)44"/><ref name="ペイン(1993)72">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.72</ref>。またコクランの紹介でニューヨーク市内の各所を見学したが、とりわけ裁判所に驚いた。法廷が普通の部屋であり、裁判官も検事も弁護士もイギリスのようにカツラや法服を着用せず平服で出廷してきたからである。チャーチルは「伝統や威厳などまったくなかった。それでも絞首刑判決を下せるというのは、大したことだ。」と感心している<ref name="ペイン(1993)72"/>。
 
キューバに到着した後はスペイン軍と行動を共にした。チャーチルはこの従軍中にキューバ製[[葉巻]]と昼寝の習慣を身につけたという<ref name="河合(1998)45">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.45</ref><ref name="ペイン(1993)73">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.73</ref><ref name="山上(1960)15">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.15</ref>。またこの戦争中、チャーチルは『{{仮リンク|デイリー・グラフィック|en|Daily Graphic}}』紙と特派員契約をしており、報告書を同新聞社に送っている<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.45-46</ref><ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.71/74</ref>。この経験で特派員として戦地に赴くことは、いい小遣い稼ぎになると味をしめたようだった<ref name="河合(1998)46">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.46</ref>。
 
21歳の誕生日である1895年11月30日に初めて「実戦」経験を得た。道で朝食をとっていたところ、ゲリラの銃弾が顔のすぐ近くをかすめたのだった。その敵たちはすぐに姿を消した<ref name="河合(1998)45">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.45</ref><ref name="ペイン(1993)74">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.74</ref><ref name="山上(1960)14-15"/>。その数日後にはさらに激しい銃撃戦に遭遇した。敵は30分ほど銃撃を続けてすぐに撤退したので、チャーチルが戦功を立てることはできなかったが、この戦闘で彼は初めて戦死者を見ることになった<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.74-75</ref>。
 
チャーチルは口には出さなかったが、圧政に抗しようという今回の反乱の精神には一定の理解を持っていた<ref name="河合(1998)45"/><ref name="ペイン(1993)73">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.73</ref>。だが、その一方で彼はゲリラの野蛮な戦法は嫌っており、それに勇敢に立ち向かうスペイン軍人たちを尊敬していた<ref name="ペイン(1993)73"/>。またスペイン軍人と話しているうちにスペイン人は決してキューバ人を憎んでおらず、イングランド人がアイルランド人に対して持っているような感情をキューバ人に対して持っていると考えるようになった<ref name="河合(1998)45"/>。
 
チャーチルの後年の帝国主義思想は、このキューバでの経験が背景になって形成されたと考えられる。すなわち、他国を支配することでイギリス人の支配民族としての責任感を強くしていけば、その支配は被支配民族を搾取するためではなく、被支配民族に慈悲を与えるためのものとなっていくであろうという考え方である<ref name="河合(1998)45"/>。
{{-}}
==== 英領インド勤務 ====
[[File:Churchillpoloindia0001.jpg|250px|thumb|1897年インド勤務時代のチャーチル。[[ポロ]]用の馬とインド人召使とともに。]]
イギリスに帰国したチャーチルは更なる従軍経験と特派員としての原稿料を渇望していた(母の借金が膨らんでおり、チャーチル家の家計はますます苦しくなっていた)。[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]の支配に抗して蜂起した[[クレタ島]]、{{仮リンク|ジェームソン侵入事件|en|Jameson Raid}}が発生した南アフリカなどに特派員として赴く事を希望し、母を通じて各方面に手をまわしたが、実現しなかった<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.46-47</ref>。
 
そんな中の1896年冬に所属する第4女王所有軽騎兵連隊とともにチャーチルは英領インドに転勤となった<ref name="河合(1998)48">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.48</ref><ref name="山上(1960)15">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.15</ref>。
 
インド駐留のイギリス軍将校はまるで王侯のように暮らし、日常生活をすべてインド人召使に任せていた。チャーチルもインドでそのような生活を送った<ref name="河合(1998)48">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.48</ref><ref name="山上(1960)16">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.16</ref>。インド人召使はかなり薄給で雇うことができるが<ref name="山上(1960)16"/>、困窮していたチャーチルにはそれでも厳しく、インド人金融業者から借金している<ref name="河合(1998)48">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.48</ref>。
 
インドは平穏すぎて退屈な時間が多く、チャーチルにとって面白いものではなかった。彼はこのインド勤務時代を利用して多くの読書をした<ref name="河合(1998)49">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.49</ref><ref name="山上(1960)16">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.16</ref>。[[アリストテレス]]の『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』、[[プラトン]]の『[[国家 (対話篇)|共和国]]』、[[エドワード・ギボン|ギボン]]の『[[ローマ帝国衰亡史]]』、[[トマス・ロバート・マルサス|マルサス]]の『[[人口論]]』、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の『[[種の起源]]』、[[トーマス・マコーリー|マコーリー]]の『{{仮リンク|イングランド史 (マコーリー)|label=イングランド史|en|The History of England from the Accession of James the Second}}』などに影響を受けたという<ref name="河合(1998)49">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.49</ref><ref name="山上(1960)17">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.17</ref><ref name="ペイン(1993)76">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.76</ref>。
 
インド勤務時代に唯一参加した実戦は、1897年夏にインド西北の国境付近で発生した[[パシュトゥーン人]]の反乱の鎮圧戦だった。この反乱が発生するとチャーチルは鎮圧に派遣されたマラカンド野戦軍に入隊を希望し、はじめ新聞の特派員、将校に欠員が生じた後にはその後任として戦闘に参加した<ref name="河合(1998)52-53">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.52-53</ref>。しかしチャーチルは勲章を得ようと焦るあまり、しばしば独断で無謀な行動に出たたため、やがて帰隊させられた<ref name="河合(1998)53">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.53</ref>。
 
この時の体験談を処女作『{{仮リンク|マラカンド野戦軍物語|en|The Story of the Malakand Field Force}}』としてまとめた。この作品の評判が良かったため、チャーチルは続いて『{{仮リンク|サヴロラ|en|Savrola}}』という地中海沿岸の某国の革命運動を舞台にした小説を書いた。これも好評を博し、かなりの収入になった<ref name="山上(1960)18">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.18</ref><ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.53-56</ref>。
 
[[1898年]]夏に休暇をとってイギリスに帰国した<ref name="河合(1998)56">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.56</ref>。
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==== スーダン侵攻に従軍 ====
[[File:Churchillkairo18980001.jpg|180px|thumb|1898年のチャーチル([[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]・[[カイロ]])]]
この頃、イギリスでは[[スーダン]]問題が再浮上していた。スーダンはもともとイギリスの傀儡国家[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]の属領だったが、1881年に発生した[[マフディーの反乱]]により、時の英国首相[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]が放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれ、英国支配から離れた独立国家となっていた({{仮リンク|マフディー国家|en|History of Mahdist Sudan}})。しかし[[ロシア帝国|ロシア]]と[[フランス第三共和政|フランス]]の[[エチオピア帝国|エチオピア]]への野心が高まる中、首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]はそれに先手を打つべく、エチオピアに隣接するマフディー国家へ侵攻することを決定したのだった<ref>[[#川田(2009)|川田(2009)]] p.423-426</ref>。
 
戦争を渇望していたチャーチルはこの侵攻にも従軍することを希望した。『マラカンド野戦軍物語』を高く評していた首相ソールズベリー侯爵と会見できたのを好機としてエジプトの実質的統治者だったイギリス駐エジプト総領事{{仮リンク|エヴェリン・バーリング (初代クローマー伯爵)|label=クローマー伯爵|en|Evelyn Baring, 1st Earl of Cromer}}を紹介してもらい、彼の決定により従軍できることとなった<ref name="河合(1998)56">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.56</ref>。この戦争でも『{{仮リンク|モーニング・ポスト|en|The Morning Post}}』紙と特派員契約を結んだ<ref name="山上(1960)19">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.19</ref>。
 
1898年8月に[[ホレイショ・キッチナー]]将軍率いるイギリス軍に加わって、ナイル河を遡って進軍した<ref name="河合(1998)56">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.56</ref>。キッチナー軍は9月1日にはマフディー国首都[[オムドゥルマン|オムダーマン]]を包囲し<ref name="川田(2009)428">[[#川田(2009)|川田(2009)]] p.428</ref>、翌9月2日、マフディー軍4万が打って出てきて、[[オムダーマンの戦い]]が始まった。キッチナー将軍は{{仮リンク|第21槍騎兵連隊|en|21st Lancers}}に突撃を行わせた(歴史上最後の騎兵突撃とされる)<ref name="河合(1998)57">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.57</ref>。チャーチルはインド勤務時代に肩を[[脱臼]]していた関係で、他の騎兵将校たちのように剣ではなく拳銃を使用して突撃したため、比較的安全に戦うことができた<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.57-58</ref><ref name="山上(1960)20">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.20</ref>。戦いは多くの戦死傷者を出しながらもイギリス軍の勝利に終わり、マフディー国家は滅亡し、スーダンはイギリスとその傀儡国家エジプトの主権下に戻った。
 
インドの第4女王所有軽騎兵連隊に帰隊したチャーチルは、今回の戦争についてまとめた『{{仮リンク|河畔の戦争|en|The River War}}』を著した。この著書の中でチャーチルはキッチナー将軍を批判的に書いている。特に戦い方が犠牲を問わなすぎることや、兵士たちが{{仮リンク|ムハンマド・アフマド|ar|محمد أحمد المهدي}}{{#tag:ref|ムハンマド・アフマドは[[マフディーの反乱]]を起こした人物。マフディー国家を建国した後、1885年に病死し、カリファ・アブドゥラヒが新しいマフディーとなっていた<ref name="川田(2009)426">[[#川田(2009)|川田(2009)]] p.426</ref>。|group=注釈}}の墓を暴いたのを止めなかったことを批判している。チャーチルはすでに政界に転じる決意を固めていたため、キッチナーに遠慮する必要がなかったのだと思われる<ref name="河合(1998)58">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.58</ref>。
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==== 軍を除隊、選挙に初挑戦 ====
[[1899年]]春に陸軍を除隊した<ref name="河合(1998)59">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.59</ref>。これは作家としてだいぶ名前が売れて文筆で生計を立てていく自信が付いたので、金がかかってしょうがない騎兵将校はこの際やめてしまおうという判断だったと思われる<ref name="山上(1960)20">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.20</ref>。
 
1899年6月に{{仮リンク|オールダム選挙区|en|Oldham (UK Parliament constituency)}}の[[庶民院]]議員{{仮リンク|1899年オールダム選挙区補欠選挙|label=補欠選挙|en|Oldham by-election, 1899}}に[[保守党 (イギリス)|保守党]]候補として出馬した<ref name="山上(1960)22">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.22</ref>。[[オールダム]]は繊維産業の町で労働者が有権者の中心だったため、保守党としては[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していたランドルフ卿の息子を候補に担ごうとしたのだった<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.65-66</ref>。
 
チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識した選挙戦を展開し、「帝国を維持するには自由な人民、教育ある人民、飢えない人民が必要だ。だからこそ我々は[[社会政策]]を支持する」と演説した<ref name="河合(1998)67">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.67</ref>。だが補欠選挙の最大の争点は社会政策ではなく、国教会に地方税を投入するソールズベリー侯爵の政策に対する賛否だった。自由党はこれを徹底的に批判して選挙戦を有利に展開し、チャーチルも選挙戦後半でつい「私が当選したらこの法案には反対する」という失言をしてしまい、変節者という批判を受けてますます不利な立場に追いやられた<ref name="河合(1998)68">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.68</ref>。
 
イギリスの選挙区は1884年の第3次選挙法改正以来、原則として[[小選挙区]]になっていたが<ref name="神川(2011)360">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.360</ref><ref name="村岡(1991)182">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.182</ref>、オールダム選挙区は数少ない2議席選出の[[大選挙区]]だった<ref name="河合(1998)65">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.65</ref>。しかし選挙の結果は、2議席とも自由党がとり、チャーチルは今一歩のところで落選となった<ref name="河合(1998)69">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.69</ref>。
 
==== 第2次ボーア戦争に従軍 ====
[[File:Churchill gallery2.jpg|250px|thumb|1899年、第二次ボーア戦争時の従軍記者チャーチル]]
南アフリカの[[ボーア人]]国家[[トランスヴァール共和国]]と[[オレンジ自由国]]を併合せんと目論むソールズベリー侯爵内閣{{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}[[ジョゼフ・チェンバレン]]はボーア人を戦争に追い込もうとあらゆる手で挑発を続け、とうとう1899年10月に[[ボーア戦争#第二次ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]が勃発した<ref name="坂井(1967)187-195">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.187-195</ref><ref name="山上(1960)22">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.22</ref>。
 
チャーチルは再び『モーニング・ポスト』紙の特派員となり、今回は民間ジャーナリストとして戦地に赴いた<ref name="山上(1960)23">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.23</ref>。戦闘が発生している[[ナタール]]へ向かい、11月15日には装甲列車に乗せてもらったが、この列車は途中ボーア人の攻撃を受けて脱線し、チャーチルを含めて乗っていた者らのほとんどが捕虜になってしまった<ref name="河合(1998)69">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.69</ref><ref name="山上(1960)23">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.23</ref>。
 
トランスヴァール首都[[プレトリア]]の捕虜収容所に収容された。チャーチルは今の自分は民間人の立場なのだからすぐに釈放されると思っていたが、英字新聞が「『チャーチル中尉』の勇気ある行動」を称える記事を載せたせいで、釈放されるどころか、下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺される可能性も出てきた<ref name="河合(1998)60">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.60</ref>。
 
チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱走した<ref name="山上(1960)23">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.23</ref>。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後、貨車に乗って[[ポルトガル領モザンビーク]]の[[マプト|ロレンソ・マルケス]]のイギリス領事館にたどりついた<ref name="河合(1998)61">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.61</ref><ref name="山上(1960)24">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.24</ref>。
 
この間、新聞報道などで「チャーチルが捕虜収容所を脱走したが、再逮捕されて銃殺された」という噂が流れていたため、チャーチルの生存が判明したことへの反響は大きかった<ref name="河合(1998)61"/><ref name="山上(1960)25">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.25</ref>。この頃、戦況は{{仮リンク|レッドヴァース・ブラー|en|Redvers Buller}}将軍率いるイギリス軍が全滅したり、各地でイギリス軍が包囲されたり、イギリス軍が劣勢であった<ref name="坂井(1967)196">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.196</ref>。そのためチャーチルのこの脱走劇は戦意高揚のいい英雄譚となった<ref name="河合(1998)62">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.62</ref>。
 
この後、チャーチルはブラー将軍のおかげでケープ植民地で新編成された南アフリカ軽騎兵連隊に中尉階級のまま再入隊できた<ref name="河合(1998)63">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.63</ref><ref name="ペイン(1993)85">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.85</ref>。[[レディスミス]]で包囲されるイギリス軍の救援作戦に参加し、ついで{{仮リンク|フレデリック・ロバーツ (初代ロバーツ伯爵)|label=ロバーツ卿|en|Frederick Roberts, 1st Earl Roberts}}の指揮下で[[ヨハネスブルク]]や[[プレトリア]]への侵攻作戦に従軍した<ref name="河合(1998)63">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.63</ref><ref name="ペイン(1993)85"/>。[[1900年]][[6月5日]]<ref name="坂井(1967)198">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.198</ref>のプレトリア占領の際にはチャーチルは真っ先に自分が収容されていた捕虜収容所に向かい、そこにイギリス国旗を掲げて復讐を果たした<ref name="河合(1998)63"/>。
 
国土が占領されてもボーア人が屈することはなく、この後、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していくのだが、チャーチルはそれを体験することなく、プレトリア占領とともにイギリスへ引き上げた<ref name="河合(1998)63"/>。
 
帰国後ただちにボーア戦争に関する『{{仮リンク|ロンドンからレディスミスへ|en|London to Ladysmith via Pretoria}}』と『{{仮リンク|ハミルトン将軍の行進|en|Ian Hamilton's March}}』の2作を著した<ref name="河合(1998)64">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.64</ref>。
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=== 保守党の新米議員として ===
==== 庶民院議員に当選 ====
[[File:Winston Churchill Vanity Fair 1900-09-27.jpg|180px|thumb|1900年9月27日の『{{仮リンク|ヴァニティ・フェアー (イギリス雑誌)|label=ヴァニティ・フェアー|en|Vanity Fair (British magazine)}}』誌のチャーチルの[[戯画]]。]]
トランスヴァール共和国首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と植民地相[[ジョゼフ・チェンバレン|チェンバレン]]は、いま解散総選挙すれば有利な議会状況を作れると踏んで、1900年9月1日に総司令官[[ホレイショ・キッチナー]]将軍にトランスヴァール併合宣言を出させるとともに、9月25日に議会を解散した<ref name="坂井(1967)198">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.198</ref>。
 
こうして「[[カーキ選挙|カーキ(軍服の色)選挙]]」と呼ばれた{{仮リンク|1900年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1900}}が行われた<ref name="河合(1998)69">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.69</ref><ref name="山上(1960)26">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.26</ref>。
 
チャーチルはこの総選挙に再び{{仮リンク|オールダム選挙区|en|Oldham (UK Parliament constituency)}}から保守党公認候補として出馬した。今度の選挙は、捕虜収容所からの脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった<ref name="河合(1998)69">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.69</ref><ref name="山上(1960)26">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.26</ref>。与党([[保守党 (イギリス)|保守党]]と{{仮リンク|自由統一党 (イギリス)|label=自由統一党|en|Liberal Unionist Party}})の選挙戦を取り仕切っていた植民地大臣チェンバレンもチャーチル応援のため選挙区入りしてくれた<ref name="山上(1960)26"/>。
 
選挙の結果は自由党候補{{仮リンク|アルフレッド・エモット (初代エモット男爵)|label=アルフレッド・エモット|en|Alfred Emmott, 1st Baron Emmott}}が最も得票したものの、チャーチルも第2位の得票を得た。オールダム選挙区2議席を選出するため、チャーチルも次点当選できた<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.70-71</ref>。こうしてチャーチルは26歳にして庶民院議員となったのだった<ref name="山上(1960)27">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.27</ref>。
 
総選挙全体の結果も与党保守党と自由統一党が野党[[自由党 (イギリス)|自由党]]と{{仮リンク|アイルランド国民党|en|Irish Parliamentary Party}}に134議席差をつけて勝利した<ref name="坂井(1967)200">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.200</ref>。
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==== 講演会と処女演説 ====
[[File:Wc0042-3b13159r.jpg|180px|thumb|1900年末の保守党議員チャーチル。訪米時の写真。]]
保守党の庶民院議員となったチャーチルは早速イギリス各地で講演会を行って金を稼いだ。さらに1900年末には[[北アメリカ大陸]]に渡り、アメリカや英領カナダで同じような講演会を開いてさらに稼いだ<ref name="河合(1998)64">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.64</ref><ref name="山上(1960)27">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.27</ref>。
 
アイルランド系アメリカ人はアイルランド魂で反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もどちらかというとボーア人寄りの人が多かった。そのためチャーチルもアメリカ人からしばしばボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャーチルも侵略戦争であることは否定できず、「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない」と弁明している<ref name="河合(1998)64">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.64</ref>。しかし後援会の人の集まりはよく、かなりの収入にはなった<ref name="河合(1998)64">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.64</ref>。
 
1901年1月に[[ヴィクトリア女王]]が崩御し、[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]が国王に即位した<ref name="山上(1960)29">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.29</ref>。チャーチルは、新国王のもとで1901年2月から開会された庶民院に初登院した<ref name="河合(1998)72">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.72</ref>。
 
チャーチルの{{仮リンク|処女演説|en|Maiden speech}}は、自由党急進派でボーア戦争に反対する[[デビッド・ロイド・ジョージ|デビッド・ロイド=ジョージ]]議員の激しい反戦論に対抗して、政府を擁護するものだった<ref name="河合(1998)73">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.73</ref>。ただその演説の中でチャーチルは「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」とボーア人を擁護するかのような発言も行い、植民地大臣チェンバレンをいらだたせた<ref name="河合(1998)74">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.74</ref>。
 
==== 「ヒューリガンズ」結成 ====
チャーチルが最初に目指したのは父ランドルフ卿が大蔵大臣として取り組もうとした陸軍予算の削減だった。{{仮リンク|戦争大臣 (イギリス)|label=戦争大臣(陸軍大臣)|en|Secretary of State for War}}{{仮リンク|セント・ジョン・ブロドリック (初代ミドルトン伯爵)|label=セント・ジョン・ブロドリック|en|St John Brodrick, 1st Earl of Midleton}}が常備軍を現行の二個軍団から三個軍団に増設したいという方針を示したのに対して、チャーチルは1901年5月に反対演説に立ち、「非ヨーロッパの野蛮人を相手にするのは一個軍団で十分だし、ヨーロッパ人を相手にするには三個軍団でも不十分だ。イギリスには世界最強の海軍があればよい」と述べた<ref name="河合(1998)75">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.75</ref>。この演説は、野党自由党からは喝采が送られたが、保守党執行部は新米議員の造反に驚き、「親孝行と公務を混同してはならない」と批判した<ref name="河合(1998)75">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.75</ref><ref name="山上(1960)30">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.30</ref>。
 
これをきっかけにチャーチルは保守党執行部に造反することが増えていく。父が「{{仮リンク|第四党|en|Fourth Party}}」と呼ばれる党執行部に造反する小グループを作っていたのに倣い、首相ソールズベリー侯爵の末子である{{仮リンク|ヒュー・セシル (初代クイックスウッド男爵)|label=ヒュー・セシル卿|en|Hugh Cecil, 1st Baron Quickswood}}らとともに反執行部的小グループを形成しはじめた。やがてこのグループは「[[フーリガン|フーリガンズ]]」と「ヒュー・セシル」の名前を組み合わせて、「{{仮リンク|ヒューリガンズ|en|Hughligans}}」と呼ばれるようになった<ref name="河合(1998)76">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.76</ref>。
 
チャーチルとしては保守党左派と自由党右派([[自由帝国主義|自由帝国主義者]])を一つにまとめ、政界再編のきっかけとすることを考えていたという<ref name="河合(1998)76-77">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.76-77</ref>。
 
==== ジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論への抵抗 ====
[[File:Joseph Chamberlain.jpg|180px|thumb|[[保護貿易]]を主張した[[ジョゼフ・チェンバレン]]]]
1902年7月11日、長らく首相を務めてきたソールズベリー侯爵が病により退任し、代わって[[アーサー・バルフォア]]が大命を受けた。この頃からボーア戦争が客観的に評価されるようになったことで世論は政権に批判的になっていき、政権与党内の結束力も乱れていった。こうした中で関税問題をめぐって政権与党内の分裂が始まることとなった<ref name="池田(1962)152">[[#池田(1962)|池田(1962)]] p.152</ref>。
 
第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政が赤字となった。それを補うために各種増税が行われ、その一環で穀物関税再導入も暫定的にという条件で実施された<ref name="坂井(1967)205">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.205</ref>。こうした中、チェンバレンは[[大英帝国]]内に{{仮リンク|帝国特恵関税制度|en|Imperial Preference}}を導入する関税改革を行うべきと主張するようになった。これはすなわち帝国外に対する穀物関税を永続させよという[[保護貿易|保護貿易論]]であった<ref name="坂井(1967)208">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.208</ref><ref name="池田(1962)153">[[#池田(1962)|池田(1962)]] p.153</ref>。
 
チェンバレンの保護貿易論をめぐってイギリス世論は二分された。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった<ref name="坂井(1967)212">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.212</ref>。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し<ref name="池田(1962)156">[[#池田(1962)|池田(1962)]] p.156</ref>、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった<ref name="坂井(1967)212"/><ref name="河合(1998)79">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.79</ref>。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した<ref name="池田(1962)157">[[#池田(1962)|池田(1962)]] p.157</ref><ref name="坂井(1967)211-212">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.211-212</ref>。
 
この論争は政界にも大きな影響を及ぼし、第二次ボーア戦争の評価をめぐって小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた野党自由党が自由貿易支持・反チェンバレンのもと一つに団結した。一方政権与党内は自由貿易派と保護貿易派に分裂した<ref name="池田(1962)156">[[#池田(1962)|池田(1962)]] p.156</ref><ref name="坂井(1967)211">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.211</ref>。
 
チャーチルやヒュー・セシル卿ら「ヒューリガンズ」は自由貿易を支持し、チェンバレン批判を展開した<ref name="坂井(1967)211">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.211</ref>。自由貿易を支持することは父ランドルフ卿の魂を継承することでもあったし<ref name="山上(1960)32">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.32</ref>、またチャーチルの選挙区であるオールダム選挙区の主要産業である木綿産業を満足させる効果もあった<ref name="河合(1998)79">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.79</ref>。
 
チェンバレンが関税改革案を明確に提示した1903年5月にはチャーチルはバルフォア首相に対して「首相がチェンバレン植民地相の保護貿易論を明確に否定する声明を出されないのであれば、私としては党を変える必要が出てきます」という内容の手紙を送った<ref name="河合(1998)79">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.79</ref>。
 
さらに同年11月にはチェンバレンの本拠である[[バーミンガム]]に乗り込んで、チェンバレンの保護貿易論を批判するという挑発行動をとった<ref name="河合(1998)80">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.80</ref>。
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=== 自由党の政治家として ===
==== 自由党へ移籍 ====
[[File:Churchill19040001.jpg|180px|thumb|1904年の自由党議員チャーチル]]
チャーチルは自由貿易支持を明確にしない保守党を見限り、[[自由党 (イギリス)|自由党]]への移籍を希望するようになった。しかし自由党への移籍は容易ではなかった。世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては今さら保守党内自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかったからである<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.80-81</ref>。
 
しかし1904年5月に自由党から{{仮リンク|マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区|en|Manchester North West (UK Parliament constituency)}}からなら自由党候補としての出馬を認めるという打診を受け、チャーチルはこれに飛びついた<ref name="河合(1998)81">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.81</ref>。この選挙区は保守党が強く、自由党ははなから当選を諦め、1900年の解散総選挙の際にも対立候補を立てなかった選挙区だったが、元保守党議員のチャーチルなら当選の見込みもあるのではと自由党執行部は考えたのである<ref name="河合(1998)81">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.81</ref>
 
こうしてチャーチルは1904年5月から保守党を離党して自由党に移ることとなった<ref name="坂井(1967)218">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.218</ref>。この移籍について彼は「我が父に酷い仕打ちをした保守党から離れる機会に恵まれて本当にうれしい」と述べている<ref name="山上(1960)32">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.32</ref>。
 
以降チャーチルはバルフォア政権や保守党に激しい攻撃を加えるようになった<ref name="河合(1998)82">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.82</ref>。並行して父ランドルフ卿の伝記『{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル卿 (伝記)|label=ランドルフ・チャーチル卿|en|Lord Randolph Churchill (book)}}』の執筆を開始した。父に関する資料を徹底的に集め、元首相で自由党自由帝国主義派の領袖[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|ローズベリー伯爵]]や敵対する元植民地大臣チェンバレンからも協力してもらった<ref name="河合(1998)83">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.83</ref>。1905年末に完成したこの伝記は、ランドルフ卿を美化し、またチャーチル自身に我田引水を図ろうという意図も見えるが、ことさらバルフォア首相やチェンバレンを批判的に扱うような露骨なことはしなかったので、好評を得た<ref name="河合(1998)84">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.84</ref><ref name="山上(1960)33">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.33</ref>。
 
==== キャンベル=バナマン内閣植民地省政務次官 ====
1905年12月、関税問題で閣内不一致となったバルフォア内閣は総辞職し、自由党党首[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]に大命降下があり、自由党政権が発足した<ref name="山上(1960)32">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.32</ref><ref name="河合(1998)84">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.84</ref><ref name="坂井(1967)319">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.319</ref>。この内閣にチャーチルは自ら希望して{{仮リンク|イギリス植民地省政務次官|label=植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for the Colonies}}として参加した<ref name="山上(1960)32">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.32</ref><ref name="河合(1998)85">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.85</ref>。
===== 1906年の解散総選挙 =====
キャンベル=バナマンは少数与党政権の状態から脱するべく、1906年初頭にも{{仮リンク|1906年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1906}}に打って出た。この選挙でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬したチャーチルは保守党候補からの「裏切り者」との批判に対して「私は保守党にいた時、バカなことをたくさん言いました。そしてこれ以上バカなことを言いたくなかったので自由党へ移ったのです」と反論して笑いをとった<ref name="河合(1998)85">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.85</ref>。そして自由貿易支持を訴えて手堅く支持を広げていき、当選を果たした<ref name="河合(1998)86">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.86</ref><ref name="山上(1960)33">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.33</ref>。
 
この総選挙は全国的に自由党の圧勝に終わった選挙であり、改選前に401議席をもっていた保守党と自由統一党は157議席に激減した。一方自由党は一気に377議席を獲得し、自由党の友党アイルランド国民党も83議席を獲得した<ref name="坂井(1967)340">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.340</ref>。自由党としては1886年以来の安定政権を作ることが可能となった選挙であった<ref name="河合(1998)86-87">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.86-87</ref>。最大の勝因は自由党候補たちの自由貿易支持の主張である。前述したように、庶民は食品の値段が上がる保護貿易には断固反対だった。チャーチルも「この選挙ははじめから自由党有利だった」と分析している<ref name="坂井(1967)342">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.342</ref>。
 
===== 英領南アフリカにまつわる問題の処理 =====
植民地省政務次官となったチャーチルは、まず全土がイギリス領となった南アフリカの問題にあたった。前保守党政権は[[ボーア人]]を強圧的支配下に置こうとしたのに対して、チャーチルはボーア人とイギリス人が協力して成り立つ自治政府の樹立を目指した。[[英語]]と[[オランダ語]]の平等を認め、またボーア人とイギリス人ともに100ポンド以上の財産を持つ成年男子に選挙権を認めることとした<ref name="河合(1998)90">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.90</ref>。一方で先住民である黒人の権利は無視され、「ボーア人とイギリス人が協力してつくる自治政府」に強圧的に従わされることとなり、[[人種隔離政策]]などが推し進められていくことになる<ref name="河合(1998)90">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.90</ref>。
 
1906年総選挙で関税問題以外にもう一つ争点になっていたのが、英領南アフリカの鉱山で働いている中国人移民労働者の問題だった。南アフリカでは1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人が[[清]]から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていたが<ref name="市川(1982)156">[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.156</ref>、このように大量の人間を船に詰め込み、鉱山で重労働をさせる行為は、イギリスが禁止している「[[奴隷貿易]]」に該当するのではという問題だった。1906年総選挙では自由党候補の一部が中国人奴隷が虐待されている姿を描いたポスターを使用して国民に衝撃を与えた<ref name="河合(1998)91">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.91</ref>。
 
庶民院で植民地省を代表するチャーチルは、はじめ「中国人労働者たちは自発的な雇用契約で南アフリカの鉱山で働いている。極端に解釈したとしても奴隷には分類できない。」と答弁してこうした批判を一蹴していた<ref name="河合(1998)92">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.92</ref>{{#tag:ref|中国人が自発的契約で南アフリカに来ていることを裏付ける材料として、中国人にとって中国本国で働くより南アフリカで働いた方が15倍も給料が高いという事実がある<ref name="ブレイク(1979)207">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.207</ref>。|group=注釈}}。
 
ところが、この後[[ケープ植民地]]総督[[アルフレッド・ミルナー]]が中国人労働者に対する鞭打ちを許可したことが判明し、この問題への批判が再燃した。ミルナー批判動議が提出されたが、チャーチルは自由党議員を結束させてこの動議を否決させることに成功した<ref name="河合(1998)92">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.92</ref>。しかし批判熱はなかなか収まらず、さらにキリスト教の観点から「送られてくる中国人たちが船の中で同性愛をしているのでは」という批判も出てきて、問題はさらに紛糾した<ref name="河合(1998)86-87">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.86-87</ref>。
 
結局植民地省は1906年11月に中国人労働者輸入を停止させた<ref name="市川(1982)157">[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.157</ref>。その後、この問題の処理は1907年に設置された{{仮リンク|トランスヴァール植民地|en|Transvaal Colony}}自治政府に任せられることとなり、同政府の決定で中国人労働者の新規移民は禁止され、移民が認められない者は契約期間満了次第、清へ送り返すこととなった<ref name="河合(1998)93">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.93</ref>。
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===== 英領東アフリカ視察旅行 =====
[[File:Churchillwatchtower0001.jpg|180px|thumb|1907年、[[イギリス領東アフリカ|英領東アフリカ]]。即席の観測台で辺りを見回すチャーチル]]
1907年にチャーチルは植民地大臣{{仮リンク|ヴィクター・ブルース (第9代エルギン伯爵)|label=エルギン伯爵|en|Victor Bruce, 9th Earl of Elgin}}の許可を得て、[[イギリス領東アフリカ]]へ視察旅行に出た<ref name="河合(1998)97">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.97</ref>。
 
[[マルタ島]]、[[キプロス島]]、[[スエズ運河]]を通過して1907年10月に[[モンバサ]]に到着した<ref name="河合(1998)97">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.97</ref><ref name="ペイン(1993)113">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.113</ref>。当時の東アフリカは完全にイギリスの支配下にあり、現地のイギリス人たちは現地民に対して絶対的支配者としてふるまっていた。それを見たチャーチルはそうした統治でも平和を保つことができるイギリスの支配の偉大さを再確認したという<ref name="ペイン(1993)114"/>。
 
チャーチルは[[ウガンダ]]へ向かい、[[ヴィクトリア湖]]と[[アルバート湖]]を繋ぐ鉄道建設予定地を通りながら、視察を行った<ref name="河合(1998)97">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.97</ref>。先住民とも触れ合い、[[ブガンダ]]王{{仮リンク|ダウディ・チュワ2世|en|Daudi Cwa II of Buganda}}の引見も受けた。王は当時11歳の少年だったが、チャーチルはその気品に気後れして「イエス」「ノー」しか答えられなかったという。王はチャーチルに「戦の踊り」を披露してくれた。先住民たちはチャーチルを紳士的に歓迎し、チャーチルの方もアフリカ人が気に入ったようだった<ref name="ペイン(1993)114-115">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.114-115</ref>。
 
狩猟も楽しみ、[[サイ]]や[[イボイノシシ]]を仕留めた。[[ライオン]]も狙ったが、成功しなかったという<ref name="ペイン(1993)114">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.114</ref>。
 
チャーチルはアフリカの風景の美しさに魅了され、『[[ストランド・マガジン]]』に寄稿した『アフリカ旅行記』の中でも風景をよく描写している<ref name="ペイン(1993)116">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.116</ref>。また「鉄道が完成すればウガンダは[[ランカシャー]]の綿産業の原料供給地にできるだろう。」という野望を書きつつ、「この地の開発が進むとともに白人やインド人の移住者が増え、先住民の黒人との間に摩擦が増えてくるであろう」という懸念も書いている<ref name="河合(1998)98">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.98</ref>。
{{Gallery
|lines=3
|File:ChurchillwhiteRhino0001.jpg|1907年、[[シロサイ]]を仕留めたチャーチル
|File:Churchillcarafrica19080001.jpg|1907年、車が泥濘にはまって動かなくなり、立ち往生するチャーチル。
|File:Churchilldaudi19080002.jpg|1907年、「戦の踊り」を見学するチャーチルと[[ブガンダ]]王{{仮リンク|ダウディ・チュワ2世|en|Daudi Cwa II of Buganda}}
}}
{{-}}
 
==== アスキス内閣商務大臣 ====
[[1908年]]1月にイギリスに帰国した<ref name="ペイン(1993)117">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.117</ref>。この年の4月にキャンベル=バナマン首相が退任し、大蔵大臣[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]に大命降下があり、{{仮リンク|アスキス内閣|en|Liberal Government 1905-1915}}が成立した<ref name="坂井(1967)376">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.376</ref>。
 
この内閣においてチャーチルは{{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}として入閣した。これは通商大臣ロイド・ジョージがアスキスの首相就任で空いた大蔵大臣に就任したことによる玉突き人事だった<ref name="河合(1998)102">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.102</ref><ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.33-34</ref>。
===== 補欠選挙と社会主義への敵意 =====
当時のイギリスには入閣する際に議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため{{#tag:ref|この法律は国王の閣僚任免権に対して立法権の独立を守る意図で1705年に制定された法律である。国王の閣僚任免権が形骸化し、議会の情勢に基づいて首相に任命されることが慣例化していたこの時代にあってはほとんど意味のない制度と化していた。1929年になって廃止されている<ref name="河合(1998)103-104">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.103-104</ref>。|group=注釈}}、チャーチルも議員辞職し、それに伴うマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区の補欠選挙に出馬した。前回の総選挙と異なり、今回は自由党に風は吹いておらず、しかも元来保守党が強い選挙区であるから、チャーチルは苦しい選挙戦を強いられた。保守党も「裏切り者」チャーチルを落とすために全力をあげた<ref name="河合(1998)104-105">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.104-105</ref><ref name="山上(1960)34">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.34</ref>。選挙の結果、チャーチルは僅差で落選した<ref name="河合(1998)106">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.106</ref><ref name="山上(1960)35">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.35</ref>。
 
しかしチャーチルは知名度の高い議員だったので彼に出馬要請する選挙区は他にもあった。 [[スコットランド]]・{{仮リンク|ダンディー選挙区|en|Dundee (UK Parliament constituency)}}で前職議員の叙爵(貴族院入り)に伴う{{仮リンク|1908年ダンディー選挙区補欠選挙|label=補欠選挙|en|Dundee by-election, 1908}}が行われることになり、同選挙区の自由党組織から出馬を要請されたチャーチルはこれを承諾した。この補欠選挙にはチャーチルの他に保守党候補、[[労働党 (イギリス)|労働党]]候補、禁酒主義者の{{仮リンク|エドウィン・スクリムジャー|en|Edwin Scrymgeour}}の3候補が出馬した<ref name="河合(1998)107">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.107</ref>。
 
ダンディー選挙区は2議席選出する大選挙区であり、前回の総選挙では自由党と労働党が議席を確保していた。そのためこの選挙区の自由党員には労働党のせいで1議席しか取れなかったと恨む者が多く、チャーチルも自由党票を固めるため労働党批判を中心的に行った<ref name="河合(1998)107">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.107</ref>。その結果、チャーチルはこの選挙で初めて[[社会主義]]への本格的な敵意を露わにした。「社会主義は裕福な者を引きずり落とす。[[自由主義]]は貧困者を持ち上げる。」「社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃する」「社会主義は支配を高める。自由主義は人を高める」といった対比型の社会主義攻撃を展開した。この演説が功を奏し、チャーチルは大勝で当選した<ref name="河合(1998)108">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.108</ref>。
 
===== 結婚 =====
[[File:Winston Churchill (1874-1965) with fiancée Clementine Hozier (1885-1977) shortly before their marriage in 1908.jpg|180px|thumb|1908年のチャーチルと{{仮リンク|クレメンティーン・チャーチル|label=クレメンティーン|en|Clementine Churchill, Baroness Spencer-Churchill}}。]]
1908年9月、33歳の時に{{仮リンク|クレメンティーン・チャーチル|label=クレメンティーン・ホージェー|en|Clementine Churchill, Baroness Spencer-Churchill}}と結婚した<ref name="山上(1960)35">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.35</ref><ref name="河合(1998)110">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.110</ref>。
 
彼女は礼儀作法はしっかりしていたが、財産は特になく、フランス語の家庭教師をして生計を立てている女性だった。父親はサー・ヘンリー・ホージェー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人であり、母親は{{仮リンク|デヴィッド・オギルビー (第10代エアリー伯爵)|label=第10代エアリー伯爵|en|David Ogilvy, 10th Earl of Airlie}}の娘であった<ref name="ペイン(1993)118">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.118</ref>。
 
二人は1908年3月の晩餐会で知り合い、チャーチルの方が最初に彼女に惹かれたという。チャーチルは彼女に自分の著作『ランドルフ・チャーチル卿』を読んだか聞いてみたが、読んでいないようだったので本を送ると約束したが、チャーチルは本を送り忘れたという。しかし後日再開した時には彼女の方もチャーチルに惹かれるようになっていたという<ref name="河合(1998)109">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.109</ref><ref name="ペイン(1993)118"/>。
 
そして8月に従兄弟マールバラ公のブレナム宮に彼女を招いた際にチャーチルの方からプロポーズし、受け入れられたという<ref name="河合(1998)110">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.110</ref><ref name="ペイン(1993)118"/>。二人の結婚式は[[ウェストミンスター大寺院]]で行われた<ref name="ペイン(1993)118"/>。チャーチル夫妻は娘4人と息子1人(長男{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル (1911-1968)|label=ランドルフ|en|Randolph Churchill}})に恵まれる<ref name="ペイン(1993)119">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.119</ref>。
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===== 職業紹介所設置法 =====
[[File:Churchillkaiser0001.jpg|180px|thumb|ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]と英国商務大臣チャーチル(1909年、ドイツ陸軍演習の視察)]]
チャーチルが商務大臣となった頃のイギリスの経済状況は悪かった。1907年後半から[[不況]]が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた<ref name="ピーデン(1990)21">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.21</ref>。こうした中で労働党の「[[労働権]]の確立」を訴える運動が盛り上がっていき<ref name="坂井(1967)383">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.383</ref>、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と主張して再攻勢をかけてきていた<ref name="ピーデン(1990)21">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.21</ref>。
 
自由党としては伝統的支持層である中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来[[自由放任主義]]の立場である自由党が[[社会政策]]を実施する背景となった<ref name="ピーデン(1990)19-21">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.19-21</ref>。チャーチル自身も1906年総選挙の遊説の際に[[スラム街]]を見て、下層民の悲惨な生活にショックを受け、社会政策の必要性を痛感するようになったといわれる<ref name="坂井(1967)385-386">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.385-386</ref>。
 
アスキス内閣によって実施された社会政策には「老齢年金法」や「国民保険法」([[健康保険]]と[[失業保険]])、「炭鉱夫8時間労働制」、「職業紹介所」などがある<ref name="村岡(1991)235">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.235</ref>。このうちチャーチルが商務大臣として主導したのが「職業紹介所」と「失業保険制度」である<ref>[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.25-26/34</ref>。
 
チャーチルは1909年秋にドイツ陸軍大演習の視察として[[ドイツ]]を訪問したが、この際にドイツの職業紹介所を視察して回った。当時ドイツも多くの失業者を抱えていたが、チャーチルはドイツの労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したという<ref name="河合(1998)115">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.115</ref>。
 
帰国したチャーチルは[[ウィリアム・ベヴァリッジ]]とともに{{仮リンク|1909年職業紹介所設置法 (イギリス)|label=職業紹介所設置法|en|Labour Exchanges Act 1909}}を起草して、これを成立させた<ref name="河合(1998)115-116"/><ref name="坂井(1967)385"/><ref name="村岡(1991)235"/>。この法律により、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所は中央政府が直接設置運営することになり、職業紹介所を全国に大幅に増やすことが可能となった<ref name="坂井(1967)387">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.387</ref><ref name="村岡(1991)235"/>。この法律は失業にあえぐ国民から歓迎され、チャーチルは至るところで「親愛なるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声を受けたという<ref name="坂井(1967)387"/>。
 
しかし実は職業紹介所の設置は労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくすることを主眼としていた<ref name="坂井(1967)387"/><ref name="ピーデン(1990)26">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.26</ref>。労働組合もこれを見抜き、「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」としてこの法律に反対した<ref name="坂井(1967)387"/>。労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.387-388</ref>。
 
チャーチルは1909年に労働党議員の要請を受け入れて、失業保険法案(Unemployment insurance bill)を議会に提出するも、この法案は貴族院で廃案にされた<ref name="高橋(1985)167">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.167</ref>。
 
結果、労働党の「労働権」確立を求める運動は弱まるどころかますます強まっていったのである<ref name="坂井(1967)388">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.388</ref>。
 
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===== 海軍増強論争をめぐって =====
[[File:ChurchillGeorge0001.jpg|180px|thumb|アスキス内閣の二大急進派閣僚[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド=ジョージ]](左)とチャーチル(右)]]
イギリスの国際的地位は[[1870年代]]以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけドイツがイギリスに急追していた。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は[[1890年代]]後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して[[帝国主義]]外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった<ref name="坂井(1967)394">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.394</ref>。
 
これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.393-396</ref>。
 
しかし[[1908年]]2月に[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年[[弩級戦艦]]を3艦、[[巡洋艦]]を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦を計58艦の保有を目指すことになった<ref name="坂井(1967)397">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.397</ref>。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった<ref name="坂井(1967)397-398"/>。
 
こうした中で発足したアスキス内閣は、発足後ただちに自由帝国主義派と急進派の閣僚の間で海軍増強論争が起こった<ref name="坂井(1967)393">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.393</ref>。{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}{{仮リンク|レジナルド・マッケナ|en|Reginald McKenna}}や外務大臣[[エドワード・グレイ]]ら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対して大蔵大臣ロイド=ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障費の財源確保を優先させるべきと主張した<ref name="坂井(1967)397-398"/>。チャーチルは1908年8月15日の[[スウォンジ]]での演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している<ref name="坂井(1967)398">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.398</ref>。
 
チャーチルのこの行動について{{仮リンク|ウィンザー城管理長官|en|Constables and Governors of Windsor Castle}}の代理である{{仮リンク|レジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)|label=イーシャ子爵|en|Reginald Brett, 2nd Viscount Esher}}は「チャーチルは信念や主義で海軍増強に反対しているわけではなく、自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対している」と分析した<ref name="坂井(1967)403">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.403</ref>。
 
しかしグレイ外相が「海軍増強が受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド=ジョージがドイツ脅威論をある程度認めるようになったことでチャーチルも立場を変更せざるをえなくなった。ロイド=ジョージとチャーチルは1909年と1910年の2年間に4艦の弩級戦艦を建艦することを認めるに至り、これにより閣内対立は一時収束した<ref name="坂井(1967)398">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.398</ref>。
 
しかし[[1909年]]1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド=ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した<ref name="坂井(1967)403-404">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.403-404</ref>。ロイド=ジョージとチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦を建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した<ref name="坂井(1967)404">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.404</ref>。
 
結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で[[1910年]]にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた<ref name="坂井(1967)407">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.407</ref>。
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===== 「人民予算」をめぐって =====
大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を議会に提出した。この予算はドイツとの[[建艦競争]]や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった<ref name="村岡(1991)238">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.238</ref>。「人民予算」の増税案は[[所得税]]率の引き上げ、[[相続税]]の引き上げと[[累進課税]]性の強化、そして土地課税制度導入など富裕層から税金を取り立てるものだった<ref name="村岡(1991)239">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239</ref><ref name="坂井(1967)414">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.414</ref>。しかし野党保守党は「富裕層から取るのではなく、関税改革によって歳入増加を図るべき」と主張して人民予算に反対した<ref name="ピーデン(1990)26-29">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.26-29</ref>。
 
この論争でイギリス社会は二分された。チャーチルは「人民予算」を支持する者たちを糾合して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成した。一方保守党の{{仮リンク|ウォルター・ロング|en|Walter Long, 1st Viscount Long}}らはこれに対抗して「{{仮リンク|予算反対同盟|en|Budget Protest League}}」を結成した。両組織とも激しい大衆取り込み・動員を行ったが、世論の支持はチャーチルの「予算賛成同盟」にあった<ref name="村岡(1991)239">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239</ref><ref name="坂井(1967)421">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.421</ref>。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟のマールバラ公から圧力を受けており、「人民予算」にいまいち熱心ではなかったという<ref name="河合(1998)120">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.120</ref>。
 
「人民予算」は1909年11月4日に庶民院を通過したが、保守党・地主貴族が牛耳る貴族院から「土地の[[国有化]]を狙う社会主義予算」として徹底批判を受け、11月30日に圧倒的大差で否決された。これを受けてアスキス首相は議会を解散した<ref name="村岡(1991)239-240">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.239-240</ref><ref name="坂井(1967)428">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.428</ref>。
 
[[1910年]]1月に行われた{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910}}でチャーチルは再びスコットランドのダンディー選挙区から出馬したが、スコットランドでは地主貴族や保守党に対する反発が強かったので、チャーチルの当選は安泰だった。選挙戦中、チャーチルは自分の選挙区よりも他の選挙区の自由党候補の応援演説に駆け回っていた<ref name="河合(1998)122">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.122</ref>。全国的には自由党は苦戦を強いられ、選挙の結果は、自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も失った<ref name="坂井(1967)434">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.434</ref>。国民のムードとしては人民予算については自由党を支持するが、海軍増強問題では大増強を訴える保守党を支持する者が多かったのが原因だった<ref name="坂井(1967)433">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.433</ref>。
 
この選挙で自由党は過半数を失い、以降アイルランド国民党と労働党の[[閣外協力]]を得て政権を維持することとなった<ref name="河合(1998)122">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.122</ref>。この両党の支持を得て「人民予算」は可決成立した<ref name="坂井(1967)435">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.435</ref>。
 
==== アスキス内閣内務大臣 ====
[[File:Winston Churchill Vanity Fair 8 March 1911.jpg|180px|thumb|内務大臣チャーチルの戯画(1911年3月8日の『ヴァニティ・フェアー』誌)]]
この選挙後、チャーチルは重要閣僚職である{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}に就任した。若干35歳での内務大臣就任であり、これは歴代内務大臣で第2位の若さである(1位は[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]の33歳)<ref name="河合(1998)122">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.122</ref>。
 
===== 議会法制定をめぐって =====
キャスティング・ボートを握るアイルランド国民党はアイルランド自治法案成立の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する貴族院改革を主張するようになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.443-444</ref>。労働党党首[[ケア・ハーディ]]はさらに過激に貴族院廃止を主張した<ref name="河合(1998)123">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.123</ref>。
 
こうした情勢の中、自由党も政権維持のため否応なしに貴族院改革に乗り出さねばならなくなった。[[1910年]][[4月14日]]に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対しても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった<ref name="坂井(1967)447">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.447</ref>。
 
チャーチルは庶民院におけるこの法案の審議を任された<ref name="河合(1998)125">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.125</ref>。
 
ちょうどその審議の最中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が新国王に即位した。政界に「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が広まり、自由党、保守党双方の話し合いの場が設けられた(「憲法会議(Constitutional conference)」)<ref name="村岡(1991)241">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.241</ref><ref name="坂井(1967)448">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.448</ref>。
 
この時の融和ムードを利用してロイド=ジョージは自由党と保守党の[[大連立]]さえ計画し、バルフォアら保守党幹部に折衝を図った<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.449-452</ref>。チャーチルもこの計画に乗り気であり<ref name="高橋(1985)174">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.174</ref>、保守党内の知り合いの議員に折衝を図ったが、保守党のチャーチルへの嫌悪感は強く、相手にされなかった。ロイド=ジョージの大連立構想にとってチャーチルはむしろ邪魔な「極端分子」に該当したようである<ref name="河合(1998)125">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.125</ref>。
 
結局大連立構想も「憲法会議」も決裂し、首相アスキスは国王から「貴族院改革を問う解散総選挙に勝利したならば国王大権で貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した<ref name="村岡(1991)241">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.241</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.452-453</ref>。
 
こうしてこの年二度目の総選挙が行われることとなった。自由党は貴族院改革、保守党は関税改革を争点にして選挙戦を戦った<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.453-454</ref>。チャーチルは前回選挙と同様、自分の選挙区より他の選挙区の自由党候補の応援に駆け回り、貴族の特権をはく奪すべきことや、生活費の上昇をもたらす保守党の関税改革を批判する演説を行った<ref name="河合(1998)126">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.126</ref>。
 
結局、{{仮リンク|1910年12月イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, December 1910}}の結果は自由党272議席、統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらないものだった<ref name="坂井(1967)455">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.455</ref>。しかし自由党とアイルランド国民党をあわせれば過半数を得たことから、アスキス首相は議会法案を再度提出し、新貴族院議員任命をちらつかせて貴族院をけん制した。[[1911年]][[8月10日]]に[[議会法]]は成立し、庶民院の優越が確立した<ref name="坂井(1967)460">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.460</ref><ref name="村岡(1991)242">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.242</ref>。
 
チャーチルは国王への報告書の中で「長期に及んだ不穏な憲法危機がやっと収束しました」と報告している<ref name="河合(1998)127">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.127</ref>。
 
===== 失業保険制度の構築 =====
この[[議会法]]制定で蔵相ロイド・ジョージは{{仮リンク|1911年国民保険法 (イギリス)|label=国民保険法|en|National Insurance Act 1911}}を制定させることができた<ref name="高橋(1985)168">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.168</ref>。
 
この法律は第1部と第2部に分かれており、第1部は賃金労働者のほとんどを加入対象とする[[健康保険]]制度、第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした[[失業保険]]制度を定めたものであり、廃案になった先のチャーチルの失業保険法を再導入したものだった<ref name="高橋(1985)168">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.168</ref><ref name="ピーデン(1990)30">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.30</ref>。失業保険は一部の職種の労働者に限定されているが、これは実験的導入であるためであり、成功した場合には他の業種の労働者にも拡大させるとしていた<ref name="ピーデン(1990)30"/>。
 
チャーチルは商務大臣だった頃から引き続いて失業保険問題を担当し、同法第2部の具体的制度の構築にあたった<ref name="河合(1998)123">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.123</ref><ref name="ピーデン(1990)34">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.34</ref>。ロイド・ジョージが主導する健康保険の方は既存の民間保険団体や医療関係者の既得権とぶつかり合い、大揉めになったが、チャーチルの主導する失業保険の方はほとんど抵抗を受けなかったという。資本家は自分たちが必要としない労働者を失業保険が面倒を見てくれるということで基本的に歓迎し、労働組合も失業した組合員を持てあましていたため、反対の声は小さかったのである<ref name="ピーデン(1990)33-34">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.33-34</ref>
 
===== 「シドニー街の戦い」 =====
[[File:Sidney street churchill.jpg|250px|thumb|{{仮リンク|シドニー街の戦い|en|Siege of Sidney Street}}の直接指揮を執る内務大臣チャーチル(丸で顔を囲ってある人物)]]
1910年11月16日、[[ロンドン]]の[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イースト・エンド]]・{{仮リンク|ハウンズディッチ|en|Houndsditch}}にある宝石店で警官殺しを伴った強盗事件が発生した<ref name="ペイン(1993)121">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.121</ref>。
 
チャーチルは死亡した警察官たちの国葬を執り行いつつ、逃げた犯人の捜索を命じた。捜査を進めていくと、どうやらこの事件は[[ロシア]]から亡命してきた反帝政革命家グループの犯行である可能性が濃厚となった。[[1911年]]1月初めになってそのグループの隠れ家がシドニー街にあることが判明し、警察が踏み込もうとしたが、銃で応戦され、{{仮リンク|シドニー街の戦い|en|Siege of Sidney Street}}と呼ばれる銃撃戦が勃発した<ref name="河合(1998)130">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.130</ref><ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.121-122</ref>。
 
この報告を受けたチャーチルは現場に行って、警官隊の直接指揮を執った<ref name="河合(1998)130">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.130</ref><ref name="山上(1960)45">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.45</ref>{{#tag:ref|庶民院では保守党党首バルフォアが「内務大臣が自ら事件現場に赴くのは軽率」という批判を展開したが、チャーチルは「そう怒るなよ。面白かったんだから」と答弁したという<ref name="河合(1998)130">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.130</ref>。|group=注釈}}。やがてその家から火の手が上がると、チャーチルは消火しようとする消防隊を押しとどめて、その家が燃え尽きるまで待機を続けた。家が焼け落ちた後、警察がその跡を調べたが、犯人の焼死体は2体しか出ず、他の者がどうなったかは不明だった<ref name="ペイン(1993)124">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.124</ref>。
 
この事件によりチャーチルの脳裏には社会主義への恐怖が焼きついたという<ref name="ペイン(1993)125">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.125</ref>。社会政策に取り組み、軍拡に反対したチャーチルの急進性もこの頃から弱まっていくことになる<ref name="山上(1960)47">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.47</ref>
 
===== ストライキの弾圧 =====
[[File:Tonypandy riots 1.jpeg|250px|thumb|1910年、チャーチル内務大臣の命令で{{仮リンク|トニパンディの暴動|en|Tonypandy Riots}}を鎮圧すべく出動した警察官たちが道を閉鎖している。]]
暴動的[[ストライキ]]に対しては事情のいかんを問わず厳しい弾圧の姿勢で臨んだ<ref name="ペイン(1993)120">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.120</ref>。
 
1910年11月8日に南[[ウェールズ]]・{{仮リンク|ロンダ渓谷|en|Rhondda}}で苛酷な炭鉱労働を行っていた労働者たちが{{仮リンク|トニパンディの暴動|en|Tonypandy Riots}}を起こした。これに対してチャーチルは、戦争大臣{{仮リンク|リチャード・ホールデン (初代ホールデン子爵)|label=リチャード・ホールデン|en|Richard Haldane, 1st Viscount Haldane}}を通じて{{仮リンク|ネヴィル・マックレディ|en|Nevil Macready}}将軍率いる軍隊や警察部隊を鎮圧に派遣し、炭鉱夫労働組合指導者に対して「軍事力を行使することも躊躇しない」と恫喝した<ref name="河合(1998)129">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.129</ref><ref name="ペイン(1993)120">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.120</ref><ref name="坂井(1967)478">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.478</ref>。この軍事的恫喝のおかげで炭鉱夫2人の殺害だけでストを鎮圧することに成功した<ref name="ペイン(1993)120">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.120</ref>。
 
ちなみにチャーチルは個人的には炭鉱夫たちに同情していたが、内務大臣として法令の遵守を第一とし、また従来の戦争好きの性格と相まってこういう決断を下すこととなった<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.129-130</ref><ref name="ペイン(1993)120">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.120</ref>。それでも鎮圧軍を派遣するにあたっては軍隊に対し、「軍は炭鉱経営者たちの個人的使用人ではない」ことや「労働争議に介入したり、[[スト破り]]の役割を果たしてはならない」ことを訓令した<ref name="坂井(1967)478">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.478</ref>。
 
だからといってチャーチルが労働者たちから免責されることはなかった。この事件以降チャーチルは労働者の激しい憎悪の対象となり、「トニパンディを忘れるな」は労働運動の合言葉になっていったのである<ref name="河合(1998)129">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.129</ref>。労働党もチャーチルやロイド=ジョージら「自由党急進派」なる者たちへの不信を高めていった<ref name="山上(1960)43">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.43</ref>。
 
前述した国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのものであったが、それもむなしく、1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こしたことで再び盛り上がった<ref name="坂井(1967)479-480">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.479-480</ref>。
 
1911年7月の[[第二次モロッコ事件]]{{#tag:ref|1911年7月にフランスが植民地化を推し進めている[[モロッコ]]・[[アガディール]]港にドイツ軍艦が派遣されるという[[第二次モロッコ事件]]が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣の[[エドワード・グレイ]]外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキス首相はこの事件を機に対独戦争準備を急がせるようになった<ref name="坂井(1967)466">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.466</ref>。|group=注釈}}によりドイツとの戦争準備に入ることが決定された中での大ストライキであり、政府としては緊急に処理しなければならなかった<ref name="坂井(1967)479">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.479</ref>。
 
チャーチルは弾圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキの弾圧を行った。労働者たちは軍隊派遣に強く反発し、むしろ軍隊が派遣された場所で積極的な暴動ストライキが発生した。イギリスは混乱の極致に陥り、ロンドン、リヴァプール、{{仮リンク|ラネリー|en|Llanelli}}では軍隊の発砲で多数の労働者が死傷する事態となった<ref name="坂井(1967)480-481">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.480-481</ref>。
 
ここに至ってチャーチルも自分の弾圧路線が誤りであったことを認めざるをえなくなった。{{仮リンク|ルーシー・マスターマン|en|Lucy Masterman}}はこの頃のチャーチルについて「打ちのめされたようだった」と語っている<ref name="坂井(1967)481">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.481</ref>。結局このストライキはロイド・ジョージが経営者たちを説得して回り、ドイツとの戦争が不可避かつ間近だということを理解させ、労働者に対して融和的態度を取らせたことで収束に向かった<ref name="坂井(1967)481">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.481</ref>。労働党議員[[ラムゼイ・マクドナルド]]は「この危機に際して、チャーチル内務大臣が、民衆操作に通じていたなら、市民的自由の意味を理解していたなら、内相の権限を機能的に行使できる能力があったなら、こんな大混乱には陥らなかっただろう」と評している<ref name="坂井(1967)481">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.481</ref>。
 
チャーチルは1911年8月15日の庶民院で「軍隊は国王陛下の物であるから、本来は労働争議にも干渉できる。しかし労働争議の仲裁は商務省に任せられているので、軍隊は労働争議が犯罪を伴った場合のみ治安維持目的で出動するべきだ」と述べ、自分が軍隊を出動させたのはあくまで治安維持のためであったことを強弁した<ref name="坂井(1967)484">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.484</ref>。だが労働組合側にこのような弁を信じる者はなく、チャーチルに対する労働組合の嫌悪感はいよいよ決定的な物となり、以降チャーチルと労働組合の熾烈な闘争がはじまる。このことは労働者層に支持を拡大したいアスキス内閣にとって[[アキレス腱]]となった<ref name="坂井(1967)484">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.484</ref>。
{{-}}
==== アスキス内閣海軍大臣 ====
内閣の中に置かれている{{仮リンク|帝国防衛委員会|en|Committee of Imperial Defence}}の席上、戦争大臣ホールデン子爵が海軍にも陸軍の{{仮リンク|帝国参謀本部|en|Imperial General Staff}}に相当する組織を設置すべきであると主張した。{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|label=海軍大臣|en|First Lord of the Admiralty}}{{仮リンク|レジナルド・マッケナ|en|Reginald McKenna}}はこれに反対したが、委員のほとんどはホールデン子爵を支持し、首相アスキスもホールデン子爵を支持したことで、マッケナは海軍大臣を辞することとなった<ref name="坂井(1967)468-469">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.468-469</ref>。
 
1911年10月23日、マッケナと役職を交換する形でチャーチルが海軍大臣に就任した。閣僚としての地位は内相の方が上だが、ドイツとの開戦が迫っている情勢だけにこの閣僚職への就任は責任重大であった<ref name="河合(1998)133">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.133</ref>。
 
チャーチルは内務大臣として海軍火薬庫に警備を派遣するなどドイツとの戦争準備にも尽力し、また帝国防衛委員会の会合にも積極的に参加してきた。こうした活動を通じてチャーチルは海軍の軍備や組織の問題点に関心を持つようになっており、その熱意をアスキスに認められた形であった<ref name="河合(1998)133">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.133</ref>。またアスキスとしてはチャーチルを急進派から切り離したがっており、彼を海軍大臣とするのはその観点からもちょうどよいと考えられた<ref name="坂井(1967)469">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.469</ref>。
 
===== ドイツとの建艦競争 =====
[[File:Winston Churchill - 1914 Cartoon - Project Gutenberg eText 12536.png|180px|thumb|野党である保守党(TORY)から支持を受けるチャーチル海相の海軍予算増額案を風刺した絵(1914年1月14日『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』誌)]]
海軍大臣となったチャーチルは、[[バッテンベルク家]]の[[ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン|ルイス王子]]を[[第一海軍卿]]に任じつつ、70歳過ぎですでに引退していた[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]元提督を自らの相談役として重用した<ref name="河合(1998)135">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.135</ref><ref name="ペイン(1993)133">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.133</ref><ref name="山上(1960)56">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.56</ref>。フィッシャーの提案をほぼそのまま受け入れながら、海軍軍備増強を進めた<ref name="ペイン(1993)133"/>。
 
13半インチ砲にかわって15インチ砲を導入し、[[クイーン・エリザベス級戦艦]]に搭載した<ref name="河合(1998)136">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.136</ref>。またフィッシャーは装甲よりスピード重視の軍艦製造を目指したため、燃料を[[石炭]]から[[重油]]に転換する必要性に迫られ、フィッシャーが委員長を務める[[王立委員会]]のもとに{{仮リンク|アングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー|en|Anglo-Persian Oil Company}}を創設し、19世紀以来イギリスが握っている中東の石油利権をより強力に掌握した<ref name="河合(1998)136">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.136</ref><ref name="ペイン(1993)133-134">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.133-134</ref><ref name="山上(1960)56">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.56</ref>。また海軍航空隊の創設と育成にもあたった。そのためチャーチルを「[[イギリス空軍]]の父」とする主張もある。チャーチル本人によれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空用語を作ったのは彼なのだという<ref name="山上(1960)57">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.57</ref>。
 
一方首相アスキスは建艦競争の緩和を目指し、1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこれ以上海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をヴィルヘルム2世にもちかけた({{仮リンク|ホールデン使節|en|Haldane Mission}})<ref name="坂井(1967)491">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.491</ref>。
 
このホールデン子爵訪独中の1912年2月9日、チャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を行った<ref name="河合(1998)137">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.137</ref><ref name="坂井(1967)491">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.491</ref><ref name="ペイン(1993)134">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.134</ref>。チャーチルとしてはホールデン子爵をサポートするつもりでこの演説を行ったのだが、かえってヴィルヘルム2世の心証を悪くし、ホールデン子爵の提案はドイツ海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶されてしまった<ref name="坂井(1967)492">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.492</ref>。
 
チャーチルは、1912年春にポーランド沖で150隻の軍艦と王室ヨットを動員した[[観艦式]]を開催し、ドイツを威圧した<ref name="ペイン(1993)135">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.135</ref>。さらに王室船「エンチャントレス」号(HMS Enchantress)で[[地中海]]の視察旅行を行った。チャーチルは第一次世界大戦前の海軍在任期間のうち実に4分の1をこの船の上で過ごしている<ref name="ペイン(1993)135">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.135</ref>。[[古代ギリシアの演劇|古代ギリシャ劇場跡]]を訪問した際にチャーチルは{{仮リンク|シチリア遠征|en|Sicilian Expedition}}を思い起こし、ドイツ軍は[[アテナイ]]軍と同じ運命をたどるだろうと思い込むようになったという<ref name="ペイン(1993)135"/>。
 
海軍予算の面では1912年は巨額を要求したが、1913年は控えめだった<ref name="河合(1998)138">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.138</ref>。1913年3月26日には、英独両国の建艦競争を1年間休戦するという「海軍休日案」をドイツに提案しているが、相手にされなかった<ref name="河合(1998)138">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.138</ref><ref name="坂井(1967)492">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.492</ref>。そのため1914年1月には海軍予算の大幅増額を要求し、軍事費拡大に慎重な急進派閣僚ロイド・ジョージと対立を深めた<ref name="河合(1998)138"/><ref name="山上(1960)55">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.55</ref><ref name="坂井(1967)508">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.508</ref>。結局この論争はアスキス首相の決定によりチャーチルの言い分が認められた<ref name="河合(1998)138"/><ref name="坂井(1967)508">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.508</ref>。
 
1914年3月の庶民院でチャーチルが海軍予算案を発表した際には、与党自由党からではなく、海軍増強を主張していた野党保守党から喝采されるという珍現象が発生した<ref name="河合(1998)139">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.139</ref>。
 
===== アイルランド問題をめぐって =====
1912年から1914年にかけてアイルランド自治法をめぐって議会が紛糾する中、アイルランド北部[[アルスター]]の[[プロテスタント]]や保守党員たちは「アルスター義勇軍」を結成し、アイルランド自治にアルスターが含まれることに抵抗した。これに対抗して[[カトリック]]が大多数の南アイルランドもアイルランド義勇軍を結成した。この両軍が睨みあう状態となり、アイルランドは内戦寸前の状態に陥った{{#tag:ref|アイルランドにはカトリックが多く、カトリックはアイルランド自治を求める者が多いが、北部アイルランドの[[アルスター]]は複雑だった。アルスターは9つの州からなるが、[[プロテスタント]]が多数な州とカトリックが多数派な州、両方が混在している州があったのである<ref name="坂井(1967)494">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.494</ref>。またアルスターはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一[[産業革命]]を経た地域であったため、アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいことだった<ref name="村岡(1991)250">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.250</ref>。|group=注釈}}。
 
そうした中、チャーチルは1914年3月19日に独断で艦隊を[[アラン島 (スコットランド)|アラン島]]に出動させてアルスター義勇軍を牽制した<ref name="坂井(1967)508">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.508</ref>。チャーチルの父ランドルフ卿はかつて「アルスターは戦うだろう。そしてアルスターは正しいだろう」と述べたことのある親アルスター派であり、チャーチルもそれに影響されていた<ref name="河合(1998)144">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.144</ref>。そのため逆にチャーチルこそがアルスターを牽制する役にふさわしいと考えられたのである<ref name="河合(1998)146">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.146</ref>。
 
アイルランド自治法案は1914年5月26日に3度目の庶民院可決が成り、議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。しかし内乱誘発を恐れたアスキス首相は、アルスターを6年間自治の対象から除外する修正案も提出した。その修正案について各方面との交渉中に第一次世界大戦が勃発し、保守党党首[[アンドルー・ボナー・ロー]]との交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになった。内乱の危機は世界大戦のおかげで回避されたのだった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.512-513</ref><ref name="河合(1998)149">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.149</ref><ref name="山上(1960)59">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.59</ref>。
 
===== 第一次世界大戦勃発 =====
1914年6月の[[サラエボ事件]]を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]対ロシア、[[フランス]]の[[第一次世界大戦]]が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれ、とりわけロイド=ジョージが参戦に反対した。しかしチャーチルは、熱烈に参戦を希望し、ドイツがロシアに宣戦布告した8月1日には独断で海軍動員令を出した<ref name="河合(1998)150">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.150</ref>。自由党以外では保守党とアイルランド国民党が参戦を支持していた<ref name="河合(1998)151">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.151</ref>。これを見たチャーチルはもし戦争賛成・反対で内閣や自由党が分裂するなら、反戦派は容赦なく追放し、保守党と連立政権を作るべきことを主張した<ref name="山上(1960)63">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.63</ref>
 
8月2日にドイツ軍が[[ベルギー]]の中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド=ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。参戦反対派の{{仮リンク|枢密院議長 (イギリス)|label=枢密院議長|en|Lord President of the Council}}{{仮リンク|ジョン・モーリー (初代ブラックバーン子爵)|label=ブラックバーン子爵ジョン・モーリー|en|John Morley, 1st Viscount Morley of Blackburn}}によればロイド=ジョージの転向はチャーチルの影響であったという<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.150-151</ref>。
 
8月4日にイギリス政府はドイツにベルギーからの撤退を求める最後通牒を発したが、午後11時までの期限になってもドイツからの返信はなく、同時刻から参戦を決定する閣議が首相官邸で開催されたが、アスキス首相夫人{{仮リンク|マーゴット・アスキス (オックスフォード及びアスキス伯爵夫人)|label=マーゴット|en|Margot Asquith, Countess of Oxford and Asquith}}によると、この時チャーチルは幸せそうな顔つきで大股でずんずんと歩いて閣議室へ向かっていたという<ref name="河合(1998)151">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.151</ref><ref name="山上(1960)63">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.63</ref>。
 
この頃の妻への手紙の中でチャーチルは「全てが破滅と崩壊に向かっているが、私は興味津津で、調子がよく、幸せな気分だ。恐ろしいことかもしれないが、私は戦争準備が大好きだ。」と書いている<ref name="河合(1998)151"/>。
 
===== 一進一退の戦況 =====
[[File:Churchillfisher19140001.jpg|180px|thumb|引退した[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]元提督を[[第一海軍卿]]に任じるチャーチル海相の風刺画(『パンチ』誌)]]
英独の最初の海戦は8月5日に[[イギリス海軍|王立海軍]]の[[軽巡洋艦]]「[[アンフィオン (偵察巡洋艦)|アンフィオン]]」が{{仮リンク|ドイツ帝国海軍|de|Kaiserliche Marine}}[[機雷敷設艦]]「[[ケーニギン・ルイゼ (機雷敷設艦)|ケーニギン・ルイゼ]]」を撃沈するも機雷に接触し、「アンフィオン」も沈没したという小規模戦闘だった。以降、このような小規模戦闘が繰り返されることになり、両国とも主力艦隊は軍港に温存して決戦を避けた<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.142-143</ref>。
 
チャーチルは艦隊を[[英仏海峡]]から[[北海]]へ移し、陸軍を安全に大陸へ輸送することに貢献した<ref name="ペイン(1993)170">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.170</ref>。また海兵部隊を[[ダンケルク]]に送りこみ、ここに海軍航空部隊の基地を置き、ドイツ軍の爆撃飛行船[[ツェッペリン]]の英本土飛来を阻止しようとした。またこの飛行場を防衛するため、陸軍兵器の開発にも携わり、装甲自動車や無限軌道自動車の開発・研究を行い、これらの研究が後に[[戦車]]を生み出すことになった<ref name="河合(1998)154">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.154</ref>。
 
10月初めには予備水兵から成る師団をドイツ軍に包囲される[[アントワープ]]防衛に送り、かつ彼自身もアントワープに入り、防衛戦の直接指揮を執った<ref name="河合(1998)154-155">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.154-155</ref><ref name="ペイン(1993)146">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.146</ref><ref name="山上(1960)66">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.66</ref>。しかし結局アントワープ防衛には失敗し、イギリス軍のうち二個大隊がドイツ軍の捕虜となった<ref name="ペイン(1993)147-148">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.147-148</ref>。チャーチルは何の戦果もあげられずに、アントワープ陥落の4日前の10月6日にイギリス本国へ逃げ戻ってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党から「無駄な犠牲を出した愚かな作戦」「ヒーロー気取り」と激しい批判を受けた<ref name="河合(1998)154-155">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.154-155</ref><ref name="ペイン(1993)148">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.148</ref><ref name="山上(1960)67">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.67</ref>。
 
チャーチルは、開戦以来マスコミの評判が悪かった第一海軍卿ルイス王子(ドイツ人の血をひいていた)にアントワープ事件の責任を取らせて辞職させ、その後任としてフィッシャーを第一海軍卿に任じた<ref name="ペイン(1993)150">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.150</ref><ref name="河合(1998)156">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.156</ref>。
 
この直後の12月には[[フォークランド沖海戦]]が勃発し、王立海軍が勝利した。チャーチルは勝利に浮かれ、更なる大規模海戦を希望したが、ドイツ海軍はますます軍港に閉じこもってしまい、以降チャーチルの海相在任中には大規模な海戦は起こらなかった<ref name="ペイン(1993)151-152">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.151-152</ref><ref name="山上(1960)68">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.68</ref>{{#tag:ref|この戦い以外ではチャーチルの海相退任後の1916年5月31日に起こった[[ユトランド沖海戦]]が唯一大海戦と呼べるものであった<ref name="山上(1960)80">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.80</ref>。|group=注釈}}。
 
===== ガリポリの戦い =====
[[File:Illustration par Carrey pour le journal Le Miroir en 1915.jpg|180px|thumb|1915年、[[ガリポリの戦い]]のイラスト。]]
{{main|ガリポリの戦い}}
1914年10月には反露親独的な[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]がドイツ側で参戦しており、[[1915年]]1月にロシア帝国軍最高司令官[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ大公]]はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請した<ref name="河合(1998)156">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.156</ref>。
 
閣内にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争いがあったが、このロシアからの要請を期に戦争大臣[[ホレイショ・キッチナー]]は東方派に転じた。チャーチルも東方派になり、王立海軍を[[ダーダネルス海峡]]に送りこむことを閣議で主張するようになった。閣議の結果、膠着状態の西部戦線打開策としてこの作戦が承認され、海軍だけではなく陸軍兵力を{{仮リンク|ガリポリ半島|tr|Gelibolu Yarımadası Tarihî Millî Parkı}}から上陸させる作戦も決定された<ref name="河合(1998)156-157">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.156-157</ref>。
 
この作戦は1915年3月18日に英仏連合軍で実施に移された。合計18隻の英仏艦隊でもってダーダネルス海峡沖に攻めよせ、トルコ軍の要塞に次々と砲撃を加えて潰す事に成功した。ところが戦闘中に英仏軍の戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大被害を受けたため、{{仮リンク|ジョン・ド・ロベック|en|John de Robeck}}提督はエジプトからの増援の到着するまで作戦を延期すべしとの判断を下した<ref name="河合(1998)157">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.157</ref><ref name="ペイン(1993)157">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.157</ref><ref name="山上(1960)70">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.70</ref>。
 
その報告を受けたチャーチルは激怒し、ただちに再攻撃を行い、ダーダネルス海峡を突破し、[[マルマラ海]]にいるトルコ艦隊を撃破すべしと主張したが、ド・ロベックの判断を支持するフィッシャーらが反対し、再攻撃を要求しつつも最終判断は提督に任せるという返信を送ることとなった<ref name="ペイン(1993)157">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.157</ref><ref name="山上(1960)70">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.70</ref>。
 
既に上陸を開始していた陸上部隊は海上からの援護なきまま戦う羽目となり、しかも一気に大軍を上陸させず、少しずつ上陸させたために、英仏海軍の攻撃から立ち直ったトルコ軍から攻撃を受けて大損害を被った<ref name="河合(1998)157">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.157</ref><ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.70-71</ref>
 
チャーチルは後年までこの時に迅速な行動を起こさなかったことを後悔し、「もし英国艦隊がこの時に[[コンスタンティノープル]]に砲塔を向けられていれば、トルコは戦争から脱落し、バルカン半島諸国はすべて連合国側につき、1915年までには連合軍の勝利で終わり、[[ロシア革命]]が起こる事もなかったであろう」と推測している<ref name="ペイン(1993)158">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.158</ref><ref name="山上(1960)71">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.71</ref>。
{{-}}
===== 罷免 =====
5月半ば、もともとダーダネルス海峡での作戦に乗り気ではなかったフィッシャーが抗議の意味を込めて辞職した。チャーチルは慰留したが、拒否された。フィッシャーは保守党党首ボナー・ローに宛てて送った手紙の中で「海相が我々を破滅に導いています。あの男はドイツ人より危険です」と書いている<ref name="山上(1960)72">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.72</ref>。もともとチャーチルを激しく嫌っていた保守党は開戦以来、チャーチルを「素人海相」「専門家に対抗する策士」などとこき下ろして批判してきたが、そこにこのガリポリの戦いの失態とフィッシャー辞職が来たので、チャーチル批判の機運は最高潮に達した<ref name="山上(1960)72">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.72</ref>。
 
また保守党は膠着状態の西部戦線の弾薬不足も批判しており、その批判動議が議会で可決された。これによりアスキス内閣は総辞職を余儀なくされた<ref name="村岡(1991)258-259">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.258-259</ref>。しかし戦時の政治危機を危惧したアスキスやロイド・ジョージ、保守党のボナー・ローらが交渉した結果、保守党内で目の敵にされているチャーチルを海軍大臣から外すことを条件として自由党と保守党が[[大連立]]政権を樹立することで合意した<ref name="河合(1998)157">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.157</ref><ref name="山上(1960)73">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.73</ref><ref name="高橋(1985)181">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.181</ref>。
 
チャーチルは5月17日にこれを知ったが、非常にショックを受けた。保守党党首ボナー・ローに再考を願う手紙も書いたが、効果はなかった<ref name="山上(1960)73">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.73</ref>。
 
「貴方のように素晴らしい才能を持った人が40歳やそこらで終わるわけはないですよ」と励ましてくれた者もいたが、それに対してチャーチルは「いや、私が望んでいた事は完全に失われたのだ。それは戦争を遂行し、ドイツを負かすことだ。」と語った<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.73-74</ref>。
 
==== アスキス連立内閣ランカスター公領担当大臣 ====
こうして[[挙国一致内閣]]としての{{仮リンク|第2次アスキス内閣|en|Second Asquith ministry}}が成立した。この政権には自由党と保守党のみならず、労働党からも戦争賛成派{{#tag:ref|労働党は第一次世界大戦開戦以来、反戦派と「ドイツ軍国主義に対する戦い」として戦争を支持する戦争賛成派に分離していた<ref name="山上(1960)74">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.74</ref>。|group=注釈}}議員の一部が参加した<ref name="山上(1960)74"/>。
 
保守党前党首バルフォアがチャーチルに代わる海軍大臣に就任し、チャーチルは閑職の{{仮リンク|ランカスター公領担当大臣|en|Chancellor of the Duchy of Lancaster}}に左遷された。ただ閣僚として戦争会議には残ることができ、チャーチルはこれが目的で閑職であっても閣僚職を引き受けたのだった<ref name="河合(1998)159-160">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.159-160</ref>。
 
戦争会議はダーダネルス委員会と改称され、ダーダネルスでの作戦指導を専門とするようになった。チャーチルはダーダネルス作戦の続行を主張して受け入れられ、8月に改めてガリポリ上陸作戦が決行されたが、更なる犠牲者を出しただけに終わった。結局10月末にはガリポリ半島から撤退することが委員会で決定された。ダーダネルス作戦は25万人に及ぶ英仏軍将兵の死傷者を出しただけで何も得る物なく終わった。ダーダネルス委員会も解散することとなった。アスキス首相は少数の閣僚で構成する戦争委員会を新設したが、もはやチャーチルはそこには入れてもらえなかった<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.159-161</ref><ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.71/75</ref>。
 
閣内に留まる意味がなくなったチャーチルは11月15日をもってランカスター公領担当大臣を辞し、内閣から離れた<ref name="河合(1998)161">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.161</ref><ref name="山上(1960)75">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.75</ref>。
 
==== 西部戦線に従軍 ====
[[File:WinstonChurchill1916Army.gif|180px|thumb|1916年、{{仮リンク|王立スコット・フュージリアーズ連隊|en|Royal Scots Fusiliers}}所属のチャーチル少佐(中央)。]]
とにかく行動をしていないと済まないチャーチルは、閣僚職を辞職してまもない1915年11月19日には西部戦線に従軍しようと、フランスへ向かった。[[イギリス海外派遣軍 (第一次世界大戦)|イギリス海外派遣軍]]総司令官[[ジョン・フレンチ]]将軍は、チャーチルに陸軍少佐の地位と{{仮リンク|王立スコット・フュージリアーズ連隊|en|Royal Scots Fusiliers}}所属の大隊司令官の地位を与えた(チャーチルは一応元騎兵中尉であり、{{仮リンク|オックスフォードシャー民兵|en|Oxfordshire Militia}}では中佐の階級を持っていた)<ref name="河合(1998)165">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.165</ref><ref name="ペイン(1993)165">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.165</ref><ref name="山上(1960)78">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.78</ref>。もっとも軍部内では「政治家崩れの軍人」と批判が強く、また本国議会でも保守党がチャーチルの行動を批判し、チャーチルの旅団長就任を妨害した<ref name="河合(1998)165">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.165</ref><ref name="山上(1960)78">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.78</ref>。
 
チャーチルは着任早々、部隊の[[シラミ]]に宣戦布告して、その駆除キャンペーンを実施した。さらにブリキの風呂を作らせて塹壕の中での生活の改善を図り、一日に三回は塹壕の状況の確認に回ったという<ref name="河合(1998)165">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.165</ref><ref name="山上(1960)78">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.78</ref>。またなるべく早期に塹壕戦を終わらせねばならないと考え、塹壕を突破できる戦車の開発を急ぐべきと覚書の中で書いている<ref name="河合(1998)165">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.165</ref>。
 
チャーチルの副官によればチャーチルは「戦争とは笑顔で楽しみながらやるゲームである」とよく語っていたという<ref name="河合(1998)165">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.165</ref><ref name="山上(1960)79">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.79</ref>。
 
[[1916年]]4月、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し過ぎたため、他の大隊と合併され、チャーチルも大隊指揮官から解任された<ref name="河合(1998)167">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.167</ref>。結局チャーチルは主要な会戦に参加することなく<ref name="ペイン(1993)167">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.167</ref>、5月にロンドンに帰国することとなった<ref name="山上(1960)80">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.80</ref>。
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==== 再起を狙って ====
[[File:Chuchillpunch19160001.jpg|180px|thumb|失脚して文筆で生計を立てるチャーチルの風刺画(1916年『パンチ』誌)]]
イギリスに帰国したチャーチルは新聞に投書する文筆業で生計を立てるようになった<ref name="河合(1998)167">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.167</ref>。また政界では再起を狙って大連立に否定的な野党的議員と連携して政界再編を起こそうと尽力した<ref name="河合(1998)167"/>。
 
1916年9月から「ダーダネルス調査委員会」が開催され、ダーダネルス作戦についての文書公開と調査が行われ、チャーチルも聴聞会に召喚された。チャーチルは自分が常に海軍の専門家から同意を得て作戦を実行したことを強調した<ref name="河合(1998)167"/>。
 
同年12月にはより強力に[[総力戦]]体制を構築できる政府の樹立を求めていたロイド・ジョージが、保守党の支持も得て、「戦争委員会の再編成を行い、少数の閣僚のみで構成するようにし、その委員長は自分にすべき」と首相アスキスに要求した。アスキスは首相である自分を委員長にするよう要求したが、ロイド・ジョージは拒否し、名目上の首相になるのを嫌がったアスキスが辞職したことで、{{仮リンク|ロイド・ジョージ内閣|en|Lloyd George ministry}}が成立することとなった<ref name="河合(1998)168">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.168</ref><ref name="高橋(1985)184-185">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.184-185</ref><ref name="村岡(1991)261">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.261</ref>。
 
チャーチルはこの機に再入閣を希望し、ロイド・ジョージもチャーチルを入れてやろうと骨折りしてくれたが、保守党党首ボナー・ローがチャーチルの入閣に強く反対し、ロイド・ジョージも当面はそれを受け入れざるを得なかった<ref name="河合(1998)169">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.169</ref><ref name="山上(1960)83">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.83</ref>。
 
チャーチルはそれでも諦めることはなく、延々と入閣工作を進めた<ref name="ペイン(1993)167">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.167</ref>。
 
一方ロイド・ジョージ首相はダーダネルス調査委員会の報告でチャーチルの名誉が回復されるまで入閣を辛抱するようチャーチルを説得していた。この報告は1917年3月に発表され、ダーダネルス作戦の失敗の責任はチャーチル一人のせいにされるべきものではなく、アスキス元首相にも重大な責任があるとしていた<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.169-170</ref>。
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==== ロイド・ジョージ内閣軍需大臣 ====
1917年7月にチャーチルは{{仮リンク|軍需大臣 (イギリス)|label=軍需大臣|en|Minister of Munitions}}としてロイド・ジョージ内閣に入閣した<ref name="山上(1960)83">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.83</ref>。ただし{{仮リンク|戦争内閣|en|War Cabinet}}(戦争委員会)のメンバーには加えられず、必要に応じて召集され、意見を述べるだけとされた<ref name="河合(1998)173">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.173</ref>。
 
それでも保守党やマスコミのチャーチルの閣僚就任への憂慮は強く、ロイド・ジョージの回顧録によると彼はチャーチルを閣僚に任命した直後の数日間は保守党に離反されて政権が潰れることも覚悟しなければならなかったという<ref name="河合(1998)170">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.170</ref><ref name="山上(1960)83">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.83</ref>。
 
この閣僚就任でチャーチルは再び議員辞職し、それに伴って行われたダンディー選挙区補欠選挙に出馬した。大連立の建前から保守党は対立候補を立てることを見送ったが、禁酒派のスクリムジャーが禁酒に加えて反戦も訴えて出馬し、労働者層の票はかなり彼に流れた。一応チャーチルが再選したものの、この選挙区におけるチャーチルの安泰にも陰りが見えてきたことを物語る結果となった<ref name="河合(1998)171">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.171</ref>。
 
===== 戦車の開発 =====
[[File:British tank crossing a trench.jpg|250px|thumb|塹壕を越えるイギリス軍戦車。]]
1917年4月にはアメリカが連合国側で参戦していた。アメリカはそれ以前から金融や物資の面で英仏を支援していたが、アメリカ参戦以降はその支援が更に増加した<ref name="山上(1960)84">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.84</ref>。
 
軍需大臣となったチャーチルはこれを全力で活用し、塹壕を突破するための新兵器「[[戦車]]」の開発を急いだ。11月の[[カンブレーの戦い]]では400台近い戦車を投入し、その有用性を証明できた。これ以降ロイド・ジョージ首相も戦車開発の拡大を支持した<ref name="河合(1998)174">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.174</ref>。戦争末期には1万台もの戦車製造計画を立てている<ref name="ペイン(1993)170">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.170</ref>。
 
このためチャーチルはしばしば「戦車の父」と呼ばれるようになり、彼自身もこのあだ名を好んでいた<ref name="ペイン(1993)170">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.170</ref>。
 
チャーチルは後に「政府が1915年の段階で戦車の有用性を理解できていれば戦争は1917年に終わらせられた」と評している<ref name="河合(1998)174">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.174</ref><ref name="山上(1960)85">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.85</ref>。
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===== クレマンソー仏首相を尊敬 =====
[[File:Clemenceau.jpg|180px|thumb|フランス首相・陸相[[ジョルジュ・クレマンソー]]]]
1917年3月、厭戦気分が高まるロシアで帝政が打倒され、混乱のすえに[[ウラジーミル・レーニン]]のソビエト政権が樹立された。11月に革命ロシアはドイツと[[ブレスト=リトフスク条約]]を締結して戦争から離脱してしまった<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.85-86</ref>。フランスでも厭戦気分が高まり、反戦ストライキなどが多発するようになったが、1917年11月にフランス首相・陸相に就任した[[ジョルジュ・クレマンソー]]は反戦ストライキを徹底的に弾圧することで、なんとか戦争遂行体制を維持した<ref name="山上(1960)86">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.86</ref>。
 
ロイド・ジョージはフランスの状況が不安になり、チャーチルをフランスに派遣した<ref name="河合(1998)175">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.175</ref><ref name="山上(1960)86">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.86</ref>。チャーチルはクレマンソーとともに英仏両軍の前線を視察して回り、両国の結束を将兵たちに示した<ref name="河合(1998)175-176">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.175-176</ref><ref name="山上(1960)86">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.86</ref>。
 
クレマンソーは70代の高齢でありながら血気盛んな人で、しばしば砲火に身をさらすことも厭わなかった<ref name="河合(1998)175-176">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.175-176</ref>。チャーチルは他の政治家を尊敬するということがほとんどない人だったが、その唯一の例外はこのクレマンソーであった。特にクレマンソーが「私は何の政治的原則もない男だ。私は現実に起こる事象を経験に照らし合わせて処理するだけだ。」と語ったことにチャーチルは共感を持ったようである<ref name="ペイン(1993)169">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.169</ref>。
 
チャーチルは23年後にクレマンソーの「私はパリの前面で戦い、パリ市中から戦い、パリの後方でも戦い続ける」という言葉を拝借することになる<ref name="ペイン(1993)169">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.169</ref>。
{{-}}
===== 第一次世界大戦の終結 =====
1918年3月からドイツ軍の最後の攻勢([[1918年春季攻勢]])があり、英仏軍・ドイツ軍双方に多くの犠牲者が出たが、7月頃からアメリカ軍の本格参戦でドイツ軍が劣勢となっていった<ref>[[#ベッケール(2012)|ベッケール、クルマイヒ(2012)]] p.145/154</ref>。9月終わりにはドイツ軍の実質的指導者[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]大将も休戦を考えるようになり、ドイツ政府にアメリカ大統領[[ウッドロー・ウィルソン]]との交渉を開始させた<ref>[[#ベッケール(2012)|ベッケール、クルマイヒ(2012)]] p.163-164</ref>。11月初めには[[ドイツ革命]]が勃発し、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命する事態となった<ref>[[#ベッケール(2012)|ベッケール、クルマイヒ(2012)]] p.164-165</ref>。11月9日から宰相になっていた[[ドイツ社会民主党]]党首[[フリードリヒ・エーベルト]]は休戦協定の締結を急ぎ、11月11日に連合国軍総司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥との間に講和条約を締結し、第一次世界大戦を終結させた<ref>[[#ベッケール(2012)|ベッケール、クルマイヒ(2012)]] p.165/170</ref>。
 
ロンドンでは11月11日午前11時に終戦を告げる[[ビッグ・ベン]]の鐘が鳴らされた。この音を聞いたチャーチルは妻とともに首相官邸へ向かったが、その際に勝利に喜びかえる群衆を見た。中にはチャーチルの車の上に乗ってきた者もあったという。チャーチルはこの時の光景を「何千人という群衆が喜びのあまり走りまわっていた。ドアというドアが開き、誰もが仕事を放り出した。国旗があちこちに掲げられた。鐘が鳴り終わらぬうちにロンドンは勝ち誇る落花狼藉の街となった。世界を縛る鎖は断たれたのだ。」と書いている<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.87-88</ref>。
 
もっとも戦争に勝利しても、海外投資の縮小、軍需産業以外の産業の減退、アメリカと日本の台頭、ロシア革命やアイルランド民族運動の脅威などイギリスの受けた打撃・地位の低下は取り返しのつかないものがあった<ref name="山上(1960)105">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.105</ref>。
 
===== クーポン選挙 =====
ロイド・ジョージ首相はこの戦勝気分が冷めぬうちに戦時中延期され続けていた総選挙を行うことを決意した<ref name="河合(1998)177">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.177</ref><ref name="山上(1960)88">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.88</ref>。
 
戦争終結翌月の12月に[[1918年イギリス総選挙|解散総選挙]]が実施され、大連立政権は「[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|カイザー]]を縛り首にしよう」「ドイツ人から賠償金を取り立てよう」といったスローガンを掲げて国民の愛国心を煽る選挙戦を展開した。大連立政権支持の候補者にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ローから推薦書(クーポン)が与えられた(このためクーポン選挙と呼ばれる)<ref name="村岡(1991)281">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.281</ref>。チャーチルは引き続きダンディー選挙区から出馬し、「反戦派、敗北主義者、臆病者」を罵りつつ、今後は[[国際連盟]]創設によって平和を維持しようと訴えた<ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref>。
 
選挙の結果は大連立政権が大勝をおさめ、チャーチルも大差で再選を果たした<ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref>。一方「敗北主義者」とされたアスキス元首相ら自由党アスキス派、[[ラムゼイ・マクドナルド]]ら労働党反戦派などクーポンをもらえなかった議員たちは惨敗した<ref name="村岡(1991)282">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.282</ref><ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref><ref name="山上(1960)89">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.89</ref>。
 
大連立の中でもとりわけ保守党が大勝し、彼らが今後の政局の主導権を握る事となった<ref name="河合(1998)179-180">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179-180</ref><ref name="山上(1960)88-89">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.88-89</ref><ref name="高橋(1985)190">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.190</ref>。保守党はこの大勝後もしばらく自由党のロイド・ジョージを首相のままにして大連立政権を継続するが、これは戦争直後は挙国一致を続けるべきという空気が強かったためと言われている<ref name="ブレイク(1979)234">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.234</ref>。
 
==== ロイド・ジョージ内閣戦争大臣 ====
[[File:Churchill and Pershing in London for Victory Parade July 1919 IWM Q 67721.jpg|250px|thumb|1919年7月19日、ロンドンで行われた戦勝パレードでアメリカ軍の[[ジョン・パーシング]]大将と会見するチャーチル戦争大臣。]]
チャーチルは[[1919年]]1月から戦争大臣兼{{仮リンク|航空大臣 (イギリス)|label=航空大臣(空軍大臣)|en|Secretary of State for Air}}任じられた<ref name="河合(1998)180">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.180</ref><ref name="ペイン(1993)170">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.170</ref>。
 
チャーチルが「戦争終結後に戦争大臣になってもな」と愚痴ると、保守党党首ボナー・ローから「戦時中にお前を戦争大臣に任命する変わり者はいないよ」と皮肉られたという<ref name="河合(1998)180">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.180</ref>。
 
===== 動員解除をめぐって =====
チャーチルの戦争大臣としての最初の仕事は動員の解除であった。兵士たちは一日も早く動員解除されて帰国することを希望していたが、後述する干渉戦争の影響もあって動員解除はゆっくりと行われ、しかも雇用者から重要労働者と認められた者から順番に動員解除するという方針をとったため、兵士たちの間に不満が高まった<ref name="村岡(1991)282">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.282</ref>。
 
1919年1月3日、港町{{仮リンク|フォークストン|en|Folkestone}}でフランスに向かわされるのを嫌がった兵士3000人から4000人が乗船命令を拒否して、動員解除を求める集会を開く事件が発生した。こうした動員解除に関する運動はイギリス各地、各部隊に急速に広がっていった<ref name="村岡(1991)282">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.282</ref>。それでなくても長引く戦争でイギリス国内は貧困化しており、ストライキと暴動と扇動が多発し、[[赤旗]]があちこちに掲げられている状況だった。動員解除を適切に行わねば大変な事態に進展する可能性があった<ref name="ペイン(1993)170">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.170</ref>。
 
チャーチルは評判の悪い重要労働者から動員解除という方針を変更し、入隊が早い者から順に動員解除という反発が少ない方式に切り変えた。これによって動員解除に関する蜂起は沈静化していった<ref name="河合(1998)180-181">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.180-181</ref>。
 
他方、労働運動系のストライキは高まっていく一方で2月には[[グラスゴー]]で[[ゼネスト]]があり、市役所が労働者に乗っ取られ、赤旗が立てられる事件が発生した。チャーチルは軍隊と戦車を派遣してこれを鎮圧した<ref name="河合(1998)181">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.181</ref>。7月に発生した炭鉱ストライキは首相ロイド・ジョージが「イギリスにもソビエト政権誕生か」と恐怖したほど拡大した<ref name="河合(1998)181">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.181</ref>。この時もチャーチルはラインに駐留している4個師団を呼び戻し、ストライキ参加者を徹底的に掃討することを主張したが、この時はロイド・ジョージ首相により却下された(もし4個師団を呼び戻していたとしてもその4個師団がストライキに参加して余計に目も当てられない状況になる可能性の方が高かった)<ref name="ペイン(1993)170">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.170</ref>。
 
===== 反ソ干渉戦争 =====
[[File:BritishInterventionPoster.jpg|250px|thumb|「赤の化け物」との戦いを支援することをロシア人に訴えるイギリスのポスター。]]
[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]に対しては大戦中の1917年末頃からイギリス、フランス、アメリカ、日本などが[[干渉戦争]]を仕掛けて、共産革命の阻止を図ろうとしていた<ref name="山上(1960)93">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.93</ref>。イギリスは北ロシアに駐留する部隊を通じて[[アントーン・デニーキン]]、[[アレクサンドル・コルチャーク]]ら帝政派ロシア軍人から成る[[白軍]]を支援していた<ref name="河合(1998)182">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.182</ref>。
 
戦後、ロイド・ジョージ首相は反ソ干渉戦争から撤退することを希望し、アメリカのウィルソン大統領とも協力して関係主要国及びロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、白軍の反対により流産となった。イギリス国内でもチャーチルや保守党が[[ボルシェヴィキ]]との妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張した<ref name="河合(1998)182">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.182</ref>。
 
そんな中、戦争大臣に就任したチャーチルは早速、各部隊司令官に対して兵士たちがロシア出兵可能な状況かどうかを問う秘密質問状を送ったが、各司令官とも否定的な返答をした。そのためイギリスの干渉戦争はロシア国内の反ソ勢力の支援継続以外には不可能であった<ref name="河合(1998)183">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.183</ref>。ロイド・ジョージが[[パリ講和会議]]出席のためにイギリス不在の間、チャーチルはこれに全精力を注ぎ<ref name="河合(1998)182">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.182</ref><ref name="山上(1960)94">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.94</ref>、チャーチルが白軍に行った支援は実に1億ポンドにも及ぶ<ref name="河合(1998)184">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.184</ref><ref name="ペイン(1993)171">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.171</ref>。
 
さらにアメリカ大統領ウィルソンから「各国が出兵するなら干渉戦争に反対しない」との言質を取ったチャーチルは、連合国ロシア委員会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた<ref name="河合(1998)183">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.183</ref>。
 
チャーチルは「歴史上のあらゆる専制の中でもボルシェヴィキの専制は最悪であり、最も破壊的にして、最も劣等である。『ドイツ軍国主義よりはマシ』などというのもデマだ。ボルシェヴィキ支配下のロシア人は帝政時代よりずっと悲惨な状態に置かれている。[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]や[[レフ・トロツキー|トロツキー]]の残虐行為はカイザーのそれを軽く超える。」「ボルシェヴィズムは政策ではなく、疫病である。思想ではなく、[[ペスト菌]]である。」「私がボルシェヴィキを嫌悪しているのはその愚かな経済政策や不合理な主義の故ではない。奴らが侵入した土地にはその犯罪的体制を支えるために[[赤色テロ]]が行われるからだ」などとソビエト・ロシアへの敵意を煽る演説を盛んに行った<ref name="山上(1960)94-95">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.94-95</ref><ref name="河合(1998)186">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.186</ref>。
 
こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった<ref name="村岡(1991)284">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.284</ref>。労働党はチャーチルがイギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした<ref name="山上(1960)97">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.97</ref>。
 
こうした声に押されて、チャーチルも1919年秋までには英軍をほぼ撤退させざるをえなくなり<ref name="村岡(1991)284">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.284</ref>、[[1920年]]春までには[[ロシア内戦]]はソビエトの勝利で事実上終了した<ref name="河合(1998)184">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.184</ref>。また同年7月頃には[[ポーランド・ソビエト戦争]]の戦況もソビエト有利に傾いていった。ソビエト軍によるポーランド侵攻が開始されるようになると、チャーチルはポーランド側で参戦することさえ計画したが、労働者がゼネストを起こして抵抗したため、物資支援に留まらざるを得なかった。チャーチルは軍需品を[[ダンツィヒ]]から大量にポーランド軍に送り、ついにソビエト軍は[[ワルシャワ]]攻略に失敗してロシア本国に敗走していった<ref name="山上(1960)98">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.98</ref>。ロシアの赤化は阻止できなかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大は食い止めることができ、チャーチルも干渉戦争に一定の成果があったと評価したようである<ref name="山上(1960)98">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.98</ref>。
 
しかしロイド・ジョージは干渉戦争や反共闘争に否定的であり、チャーチルを植民地大臣に転任させることでこの問題から引き離し、同年3月16日にはソビエトと通商協定を締結することで世界に先駆けてソビエトの存在を容認した<ref name="村岡(1991)284">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.284</ref>。
 
一方チャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷すぎる[[ヴェルサイユ条約]]を課したことでドイツを「[[反共の防波堤]]」にすることに失敗したと批判的に見ていた<ref name="河合(1998)187">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.187</ref>。チャーチルは「ボルシェヴィキが強くならないうちに倒しておかなかったことを、いつか諸列強は後悔する時が来るだろう」と予言している<ref name="山上(1960)97">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.97</ref>。
 
この干渉戦争以降、チャーチルは保守党から好意的な目で見られるようになっていった<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.184-185</ref>。
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==== ロイド・ジョージ内閣植民地大臣 ====
[[File:Churchillhatter0001.jpg|180px|thumb|ロイド・ジョージから色々な役職を与えられるチャーチルの風刺画。今は植民地大臣の帽子をかぶっている(『パンチ』誌)]]
1921年1月にチャーチルは植民地大臣に転任した<ref name="河合(1998)188">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.188</ref><ref name="ペイン(1993)171">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.171</ref><ref name="山上(1960)99">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.99</ref>。
 
第一次世界大戦に勝利したイギリスは敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を国際連盟からの[[委任統治領]]という形で獲得したため、大英帝国は過去最大の領土を領有するに至った<ref name="河合(1998)188">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.188</ref>。しかしそれに伴い問題も多く抱えることになった。
 
===== 中東の委任統治領をめぐる問題 =====
イギリスは大戦時、アラブ人にトルコに対する反乱([[アラブ反乱]])を起こさせるため、彼らに戦後の独立を約束していた([[フサイン=マクマホン協定]])。これにより[[ハーシム家]]の[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル王子]]らアラブ勢力は『[[アラビアのロレンス]]』として知られるイギリス軍人[[トーマス・エドワード・ロレンス]]らとともにトルコと戦った。一方でイギリスは大戦中にユダヤ人の協力を引き出すため、[[パレスチナ]]にユダヤ人国家建設も認めており([[バルフォア宣言]])、さらに他方でフランスとの間に「[[肥沃な三日月地帯]]」を英仏で分割統治するという[[サイクス・ピコ協定]]も結んでいた([[三枚舌外交]])<ref name="山上(1960)99-100">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.99-100</ref><ref name="河合(1998)189">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.189</ref>。
 
結局、戦後にはサイクス・ピコ協定が最優先され、パレスチナ([[イギリス委任統治領パレスチナ]])と[[イラク]]([[イギリス委任統治領メソポタミア]])はイギリス委任統治領、[[シリア]]([[フランス委任統治領シリア]])と[[レバノン]]([[フランス委任統治領レバノン]])はフランス委任統治領になったから、ファイサル王子の立てていた大アラブ帝国構想は粉々になり、アラブ人の間に不満が起こり、イラクやシリアで暴動が発生するようになった<ref name="河合(1998)189">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.189</ref><ref name="山上(1960)100-101">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.100-101</ref>。
[[File:Cairo Conference 1921.jpg|250px|left|thumb|1921年5月18日のカイロ会議。中央に座っている人物がチャーチル植民地大臣。]]
これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年に{{仮リンク|カイロ会議|en|Cairo Conference (1921)}}を主宰した。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄[[アブドゥッラー1世]]もパレスチナから切り離した[[トランスヨルダン]]王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、また[[イラン]]との通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった<ref name="河合(1998)189">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.189</ref><ref name="山上(1960)101">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.101</ref>。またイラクに駐留するイギリス軍を陸軍から王立空軍に変更し、駐留費の節約も実現した<ref name="河合(1998)189">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.189</ref>。
 
一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた<ref name="ヒルバーグ(1997)下339">[[#ヒルバーグ(1997)下|ヒルバーグ(1997)下巻]] p.339</ref>。
 
この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた<ref name="ヒルバーグ(1997)下339"/>。以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった<ref name="村岡(1991)360">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.360</ref>。
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===== アイルランド自由国をめぐって =====
大戦中の1916年4月に[[ダブリン]]でアイルランド民族主義者が蜂起を起こすも鎮圧され、その指導者が即決の軍事裁判で処刑されるという事件があった([[イースター蜂起]])<ref name="村岡(1991)275">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.275</ref>。この事件を機にアイルランド民族主義が燃え上がり、1918年の総選挙でもアイルランド国民党に代わって急進的なアイルランド独立政党[[シン・フェイン党]]が躍進した<ref name="村岡(1991)286-287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.286-287</ref><ref name="河合(1998)179">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.179</ref>。
 
シン・フェイン党はロンドンの議会に入ることを拒否し、ダブリンに独自の国民議会を形成した。アイルランド義勇軍の武装抵抗も激化し、まもなくシン・フェイン党の政治的抵抗と合流した<ref name="村岡(1991)286-287"/>。ロイド・ジョージ政権はこうした運動を[[白色テロ]]で厳しく弾圧し<ref name="村岡(1991)287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.287</ref>、シン・フェイン党も禁止処分とした<ref name="山上(1960)102">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.102</ref>。だがシン・フェイン党は屈さず、ゲリラ戦を続行した<ref name="山上(1960)102">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.102</ref>。
 
国王ジョージ5世の北アイルランド訪問で対立関係が一時的に緩和して休戦が成り、その間の1921年10月からロイド・ジョージやチャーチルらイギリス政府と[[アーサー・グリフィス]]や[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]らシン・フェイン党代表者の交渉の場が設けられた<ref name="河合(1998)190">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.190</ref>。この交渉の際、コリンズはイギリス政府が自分に5000ポンドの懸賞金をかけたことを批判したが、それに対してチャーチルは「5000ポンドもの価値をつけられれば十分ではないかね。私は25ポンドだぞ。」と述べ、ボーア戦争で捕虜収容所から脱走した際に付けられた自分の懸賞金の額を引き合いに出したという<ref name="河合(1998)191">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.191</ref>。
 
この交渉の結果、アルスターのうち統一派が多い6州にはイギリスに残るかアイルランドに加わるかの選択権を残しつつ、それ以外のアイルランドは大英帝国自治領[[アイルランド自由国]]として独立することで妥協に達した([[英愛条約]])<ref name="河合(1998)191">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.191</ref><ref name="村岡(1991)287">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.287</ref><ref name="坂井(1974)17">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.17</ref>{{#tag:ref|その後この条約の是非をめぐってアイルランド内で[[アイルランド内戦]]が勃発するも条約支持派が勝利している<ref name="河合(1998)191"/>。|group=注釈}}。
 
チャーチルは庶民院でアイルランド自由国法案の説明を行い、その中で「半世紀にわたるイギリス政治の苦しみであり、対外的にはアメリカや自治領諸国との関係悪化の原因だったアイルランド問題がこれで消滅する。」と宣言した<ref name="河合(1998)191">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.191</ref>。だが保守党のうち60名ほどの議員はこの法案に反対した<ref name="河合(1998)191">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.191</ref>。未来の保守党党首である[[スタンリー・ボールドウィン]]は、この法案は自由党ロイド・ジョージ派と保守党内法案賛成派を統合して新たな党を作ろうというロイド・ジョージの布石ではと疑いを持つようになった<ref name="坂井(1974)17">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.17</ref>。
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===== チャナク危機 =====
[[File:Atatürk in Izmir, 1922.jpg|180px|thumb|1922年の[[ムスタファ・ケマル・パシャ]]。]]
敗戦国トルコは[[セーヴル条約]]によりギリシャに領土の一部を引き渡すことになったが、トルコ国民軍を率いる[[ムスタファ・ケマル・パシャ]]はこれを無視してギリシャ占領軍に攻撃を仕掛けて駆逐した([[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]])。のみならずケマル軍は1922年9月にダーダネルス海峡(第一次世界大戦後、中立化されていた)付近まで侵攻してきて、[[チャナク]]に駐屯するイギリス軍を攻撃する構えを見せた([[チャナク危機]])<ref name="河合(1998)193">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.193</ref><ref name="山上(1960)104">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.104</ref><ref name="坂井(1974)18">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.18</ref>。
 
ロイド・ジョージ首相は、現地イギリス軍に持ち場の死守を命じた。チャーチルははじめトルコに同情的だったが、ケマルの恫喝的な態度を見て、危険人物と察知し、ロイド・ジョージの方針を支持した。チャーチルの主導で大英帝国自治領にも対トルコ開戦のときには出兵することを求める政府決議が出された<ref name="坂井(1974)19">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.19</ref><ref name="山上(1960)104">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.104</ref>。さらにロイド・ジョージはトルコが侵略を辞めない場合にはイギリス地中海艦隊を派遣することを決定し、ギリシャにも支援を約束し、ケマルに最後通牒を突きつけた<ref name="坂井(1974)19">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.19</ref>。
イギリスの強硬な態度を恐れたケマルはギリシャとの休戦に同意し、希土戦争を終結させた<ref name="河合(1998)193-194">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.193-194</ref><ref name="山上(1960)104">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.104</ref>。
 
ただこの件は国民の批判を集めた。大戦から解放されたばかりなのに新たな戦争を招きそうな外交をするなという世論が強かったのである。この世論を背景に労働党のみならず大連立相手の保守党もロイド・ジョージ批判やチャーチル批判を行った<ref name="河合(1998)194">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.194</ref>。またボールドウィンら保守党内の反大連立派はロイド・ジョージとチャーチルはキリストVSイスラムの戦争を起こして解散総選挙することで自分たちに有利な議会状況を作ろうとしているのでは、という疑いを持っていた<ref name="坂井(1974)20-21">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.20-21</ref>。
 
===== 政権崩壊 =====
チャナク事件はきっかけに過ぎず、自由党と保守党の大連立はすでにガタが来ていた。保守党議員たちはロイド・ジョージのワンマン政治にうんざりしていたし、アイルランド自由国に承服しかねる思いの者も多くいた。このまま大連立を組んでいたら保守党は次の総選挙で惨敗し、党が分裂すると考えている者もいた<ref>[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.235/239-241</ref>。
 
ただ保守党党首は1921年3月にボナー・ローが病で退任してから[[オースティン・チェンバレン]](ジョゼフ・チェンバレンの長男)が務めており、彼は大連立維持派だった。チェンバレンは1922年9月の閣議でのロイド・ジョージ首相の早期解散方針にも賛同を与え、保守党内でひんしゅくを買った<ref name="ブレイク(1979)240">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.240</ref>。そしてついに10月19日、保守党社交界{{仮リンク|カールトン・クラブ|en|Carlton Club}}で開催された保守党庶民院議員274名の会合の席上でボールドウィンが大連立を解消すべき旨の動議を提出したところ、185対88で可決されるに至った。前党首ボナー・ローも連立解消に賛成していた<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.193-194-195</ref><ref name="ブレイク(1979)241">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.241</ref><ref name="坂井(1974)24-28">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.24-28</ref>。
 
これを受けてチェンバレンは保守党首職を辞し、首相ロイド・ジョージも辞職した<ref name="ブレイク(1979)241"/><ref name="君塚(1999)191">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.191</ref>。後任の保守党党首にはボナー・ローが就任し、大命も彼が受けた<ref name="河合(1998)194">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.194</ref>。
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==== 総選挙に落選して議員失職 ====
首相となったボナー・ローは1922年11月にも[[1922年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た<ref name="山上(1960)107">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.107</ref><ref name="村岡(1991)289">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.289</ref>。
 
チャーチルはこの頃、[[盲腸]]の手術のために入院中だったが、これまで通りダンディー選挙区から出馬した。しかし今回は自由党候補がもう一人出馬していた。また労働党候補として出馬した[[エドモンド・モレル (ジャーナリスト)|エドモンド・モレル]]とは連携が成らず、彼は対立候補として出馬した。結党されたばかりの[[イギリス共産党]]も対立候補を送りこんできた。禁酒主義者のスクリムジャーも再び対立候補として出馬した<ref name="河合(1998)195">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.195</ref>。チャーチルは病室から「私は自由党員、自由貿易主義者として出馬するが、有権者におかれては進歩的で理性的な保守党員とは協力していただきたい」という選挙区民に向けてのメッセージを出した。このメッセージの効果もあり保守党は対立候補を立てなかった<ref name="河合(1998)195">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.195</ref>。
 
チャーチルは投票日直前に椅子ごと運ばれて選挙区入りし、自由貿易擁護や反共の演説を行ったが、「好戦派閣僚」との噂が尾を引き、選挙区民からの評判は悪かったという<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.107-108</ref>。また共産党員たちが「{{仮リンク|赤旗 (歌)|label=赤旗|en|The Red Flag}}」を歌ったり、「アイルランド共和国万歳」の叫び声をあげるなどしてチャーチルの演説を妨害した。チャーチルは怒りのあまり「この爬虫類どもが!」と叫んだという<ref name="河合(1998)196">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.196</ref>。
 
選挙の結果、ダンディー選挙区は、スクリムジャーとモレルが当選し、チャーチルは落選した。これについてチャーチルは「私は一瞬にして、官職、議席、党、おまけに盲腸を失ったのである」と回顧している<ref name="河合(1998)196"/><ref name="山上(1960)108">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.108</ref>。
 
選挙全体の結果は保守党が345議席、労働党が142議席、自由党ロイド・ジョージ派が62議席、自由党アスキス派が54議席を獲得し、保守党の大勝に終わった<ref name="河合(1998)196">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.196</ref>。
 
==== チャートウェル邸購入 ====
[[File:Chartwell02.JPG|250px|thumb|チャーチルが購入した[[チャートウェル]]邸]]
落選後、南フランスの[[カンヌ]]へ移住し、世界大戦に関する著作『世界の危機(The World Crisis)』の執筆と絵を描くことに精を出した<ref name="山上(1960)109">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.109</ref><ref name="河合(1998)197">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.197</ref>。『世界の危機』は全5巻であり、1923年から1931年にかけて順次発売された<ref name="山上(1960)109">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.109</ref>。
 
この作品は「世界史を装ったチャーチルの自伝」「ダーダネルス作戦自己弁明の書」などの批判もあったものの<ref name="河合(1998)198">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.198</ref><ref name="山上(1960)109">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.109</ref>、チャーチルにかなりの[[印税]]をもたらし、これによって[[ケント州]]の[[チャートウェル]]邸と広大な土地を購入することができた<ref name="河合(1998)198-199">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.198-199</ref><ref name="山上(1960)110">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.110</ref>。以降チャーチルは週末にはこのチャートウェル邸で過ごすようになった<ref name="山上(1960)110"/>。子供たちもこの屋敷が気に入ったようだった<ref name="ペイン(1993)176">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.176</ref>。
 
もっともこの屋敷は古ぼけていたので手直しが必要であり、チャーチルも職人たちとともに[[煉瓦]]積みに参加し、やがてそれが趣味の一つとなっていった<ref name="河合(1998)199">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.199</ref><ref name="山上(1960)111">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.111</ref>。
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==== 総選挙に再落選、自由党との亀裂 ====
[[File:Churchill by Matt0001.jpg|180px|thumb|1923年に描かれたチャーチルのイラスト]]
[[1923年]]5月にボナー・ローが喉頭癌で首相を退任した。後任の候補としてボールドウィンか[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵]]の二人が考えられたが、国王ジョージ5世は、庶民院を優先してボールドウィンに大命を与えた<ref name="坂井(1974)34">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.34</ref>。しかし同年11月、党を固めきれていなかったボールドウィンは、党をまとめる効果を狙って、また世論も保護貿易に傾いてきたと判断して、関税改革を掲げた[[1923年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た<ref name="河合(1998)200">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.200</ref><ref>[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.37-41</ref>。
 
チャーチルはこの選挙に{{仮リンク|レスター・ウェスト選挙区|en|Leicester West (UK Parliament constituency)}}の自由党候補として出馬した。チャーチルは保守党が対立候補を立てるのを控えてくれるのでは、という期待を抱いていたが、保守党は対立候補を立ててきた。労働党からの攻撃も激しく、とりわけダーダネルス作戦に関する『世界の危機』第2巻が出版された直後であったため、ダーダネルス作戦を批判する野次が盛んに飛んだという。結局、労働党候補が勝利し、チャーチルは再び落選した<ref name="河合(1998)201">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.201</ref>。
 
この総選挙では自由党ロイド・ジョージ派とアスキス派が自由貿易擁護で共闘していた<ref name="ブレイク(1979)257">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.257</ref>。選挙戦で保守党は食料には関税をかけないと約束していたが、自由党と労働党が煽った結果、結局「高いパンか安いパンか」が争点になっていった<ref name="坂井(1974)42">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.42</ref>。その結果、保守党は87議席も落として257議席となり、労働党は191議席、自由党は151議席を獲得した。どこも単独では政権を作れない状態となったのである<ref name="ブレイク(1979)257"/><ref name="坂井(1974)42">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.42</ref>。
 
自由党の指導者に復帰していたアスキスは、労働党政権を誕生させる意向であった。チャーチルは「社会主義政権など誕生させたら重大な国家危機が生じる」としてこれに強く反対し、保守党・自由党連携による反社会主義政権の樹立を求めたが、受け入れられなかった。ここに至ってチャーチルは反社会主義の信条を失わぬため、自由党を離党する決意を固めた<ref name="河合(1998)202">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.202</ref>。
=== 保守党の政治家として ===
==== 保守党復党と議員再選まで ====
1924年1月に労働党議員提出の内閣不信任案が自由党の賛成を得て可決され、ボールドウィンは辞職し、かわって労働党の[[ラムゼイ・マクドナルド]]が大命を受け、史上初の労働党政権が誕生した<ref name="坂井(1974)42">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.42</ref>。
 
同年2月、総選挙に敗れたボールドウィンは関税改革を保守党の方針から取り下げた。これにより自由貿易主義者のチャーチルも保守党へ戻りやすくなった<ref name="河合(1998)202"/>。
 
3月の{{仮リンク|ウェストミンスター寺院選挙区|en|Westminster (UK Parliament constituency)}}で行われた{{仮リンク|1924年ウェストミンスター寺院選挙区補欠選挙|label=補欠選挙|en|Westminster Abbey by-election, 1924}}に「無所属の反社会主義候補」として出馬した。ここは保守党のニコルソン家の地盤であった。チャーチルは「私は保守党と争うつもりはない。それどころか私は保守党こそが反社会主義者の集合場所になるべきだと考えている」と演説した<ref name="河合(1998)202-203">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.202-203</ref>。保守党内では正式な保守党候補がいる選挙区にチャーチルが出馬したことへの怒りの声も多かったが、チャーチルの反社会主義姿勢を評価する声もあり、複数の保守党議員から選挙協力を受けることができた<ref name="河合(1998)204">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.204</ref>。オースティン・チェンバレンやバルフォアのような保守党大物政治家もチャーチルに推薦書を書いてくれた<ref name="山上(1960)115">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.115</ref>。だが結局、選挙の結果は、僅差でニコルソン家の者の当選となり、チャーチルは三度目の落選を喫した<ref name="河合(1998)204"/><ref name="山上(1960)115"/>。
 
チャーチルは保守党に接近を続け、食料以外の関税導入にも前向きになっていった。そしてとうとう1924年9月には{{仮リンク|エッピング選挙区|en|Epping (UK Parliament constituency)}}の保守党候補に指名されたのであった<ref name="河合(1998)204-205">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.204-205</ref>。ただしチャーチルが正式に保守党員となったのは1925年であり<ref name="ブレイク(1979)266">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.266</ref>、この選挙区への届け出で党派について「立憲派」という保守党組織がよく使っている名前を使用している<ref name="河合(1998)205">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.205</ref>
 
政界ではマクドナルド労働党政権の[[ソ連]]との国交正常化{{#tag:ref|後にボールドウィン内閣に政権交代後、イギリス政府はソ連との国交を断絶した<ref name="坂井(1974)76">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.76</ref>。|group=注釈}}やキャンベル起訴撤回問題など労働党左派に配慮した政策に保守党や自由党が批判を強めていった。10月8日に自由党のアスキスからこれらの政策を批判する動議が提出され、保守党がこれに賛成票を投じたことで可決され、マクドナルド内閣は[[1924年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出ることになった<ref>[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.47-49</ref><ref name="ブレイク(1979)263">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.263</ref>。
 
この選挙でもチャーチルは激しい社会主義攻撃を展開し、「社会主義者が[[ブリタニア (女神)|ブリタニア]]に着せようとしているドイツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女の[[盾]]は汚らしい[[赤旗]]ではなく、[[ユニオン・ジャック]]の旗でなければならない」と演説した。エッピング選挙区は反共主義が強いため、チャーチルの反共演説も聴衆を熱狂させ、チャーチルは圧勝しての当選を果たすことができた<ref name="河合(1998)206">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.206</ref>。
 
総選挙全体の結果も投票日直前にジノヴィエフ書簡問題が発生したことで有権者の社会主義への恐怖が高まり、保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席と反共を掲げる保守党の圧勝に終わった<ref>[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.50-52</ref>。
 
==== 第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣 ====
1924年11月4日にボールドウィンに大命があり、第2次ボールドウィン内閣が発足した<ref name="坂井(1974)53">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.53</ref>。
 
ボールドウィンはチャーチルがロイド・ジョージと組んで保守党と自由党の中道派による「中央党」を結成する事態をかねてから恐れていた。そのためチャーチルを閣内に取り込んでおこうと考え、大蔵大臣という重要閣僚職を彼に提示した。チャーチルはそれほど高い地位の閣僚職に任命されるとは思っていなかったから、ボールドウィンから「チャンセラー(Chancellor)にならないか?」と聞かれた時、はじめランカスター公領担当大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)のことかと思ったという。だが大蔵大臣(Chancellor of the Exchequer)のことだと聞かされた時、感動のあまり、チャーチルの目から涙が溢れたという<ref name="河合(1998)207">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.207</ref><ref>[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.265-266</ref>。
 
この閣僚職は父ランドルフ卿が務めていた地位であり、次期首相最有力候補の閣僚職であった<ref name="河合(1998)207">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.207</ref>。
===== 金本位制復帰 =====
大蔵大臣チャーチルの事績として最も知られているのが第一次世界大戦の勃発で中断されていた[[金本位制]]への復帰である。
 
大戦後、イギリスの輸出産業は新興国アメリカや日本に押されて弱体化を続けていた。またイギリスの海外投資の多くも戦争で手放すこととなり、イギリスの国際収支を支えてきた貿易外収入は大きく減少していた<ref name="村岡(1991)292">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.292</ref>。因みにイギリスの海外投資の多くはアメリカによって買い取られており、これによって世界金融の中心はイギリスの[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]からアメリカのウォール街に移ろうとしていた。ドルはポンドに先んじて大戦終結直後に金本位制に復帰し、世界通貨の地位を確立していった<ref name="河合(1998)209">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.209</ref>。
 
こうした国際的地位の低下に焦っていたシティの金融業界はイギリスの国際投資と国際貿易の再興を狙って戦前レート(1ポンド=4.86ドル)での金本位制復帰を主張するようになった<ref name="ピーデン(1990)60">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.60</ref><ref name="村岡(1991)292">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.292</ref>。
 
1918年の膨大な政府支出のために戦後直後のイギリスは[[インフレ]]的な[[国内信用]]拡大が起こっていた<ref name="ピーデン(1990)62">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.62</ref>。しかし1920年以降は[[デフレ]]になり、需要は低下し、物価は下がり、失業率は高まっていった。ポンド高も進み、1922年末には1ポンド=4.63ドル、1924年総選挙後には1ポンド=4.79ドルとなった。戦前レートでの金本位制復活を行っても大きな混乱なく実施できそうな相場であり、いい機会に見えた<ref name="河合(1998)209">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.209</ref><ref>[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.63-65</ref>。
 
チャーチルはもともと国際投資より国内信用の拡大を志向してインフレ政策を希望していたが、大蔵官僚や[[イングランド銀行]]{{仮リンク|イングランド銀行総裁|label=総裁|en|Governor of the Bank of England}}{{仮リンク|モンタギュー・ノーマン (初代ノーマン男爵)|label=モンタギュー・ノーマン|en|Montagu Norman, 1st Baron Norman}}の説得を受けて、戦前の輝かしい地位にイギリスを戻したいという願望が強まり、ほとんど何の準備もなく、1925年4月に金本位制復活を宣言した<ref name="ピーデン(1990)66">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.66</ref><ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.209-210</ref><ref name="関嘉彦(1969)137">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.137</ref>。
 
===== 賃金切り下げ反対ゼネストの弾圧 =====
[[File:Rally in Hyde Park during the General Strike of 1926.jpg|250px|thumb|1926年の[[ゼネスト]]の際の[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]での集会。]]
戦前レートでの金本位制復帰はポンドの過大評価であったので、イギリスの輸出競争力は低下し、輸出産業、とりわけ石炭産業が大きな打撃を受けることとなった。炭鉱経営者たちから成るイギリス鉱山協会は1925年6月に賃金協定を破棄して賃金切り下げを行うことを宣言した<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.211-212</ref><ref name="坂井(1974)59">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.59</ref><ref name="関嘉彦(1969)137"/><ref name="村岡(1991)293">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.293</ref><ref name="ピーデン(1990)68">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.68</ref>。これに対抗して炭鉱組合や{{仮リンク|労働組合会議 (イギリス)|label=労働組合会議|en|Trades Union Congress}}は[[ゼネスト]]の意思を表明した<ref name="河合(1998)213">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.213</ref><ref name="村岡(1991)293">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.293</ref><ref name="坂井(1974)60">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.60</ref>。
 
経済学者[[ジョン・メイナード・ケインズ]]はこのゼネストに共鳴し、チャーチル批判の小冊子『チャーチル氏の経済的帰結』を著し、シティの声ばかり聞いて炭鉱労働者を犠牲にすることがチャーチルの経済政策の帰結と論じている<ref name="ピーデン(1990)60">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.60</ref><ref name="河合(1998)212">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.212</ref><ref name="ペイン(1993)186">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.186</ref>。
 
このゼネストに対してボールドウィン首相は、「王立委員会を設置して調査するので、その調査が終わるまで賃金切り下げ分の補助金を政府が出す」ことを約束して懐柔した。しかし王立委員会は1926年3月に多少の労働環境の緩和を盛り込みながらも、賃金切り下げと補助金打ち切りを求める報告書を提出したため、再びゼネスト突入の危機が高まった<ref name="ピーデン(1990)68-69">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.68-69</ref><ref name="坂井(1974)63">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.63</ref><ref name="関嘉彦(1969)138">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.138</ref>。労働組合会議幹部の間には交渉を求める声が多かったが、政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否、労働組合会議の総評議会は1926年5月3日からゼネストに突入することとなった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.293-294</ref><ref name="河合(1998)212">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.212-213</ref><ref>[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.65-66</ref><ref name="関嘉彦(1969)138"/>。
 
このように1926年のゼネストは政府の挑発によるところが大きかったので、王立委員会の設置はスト破りなどゼネストを骨抜きにする体制を整えるための政府の時間稼ぎで、態勢が整うや政府は挑発してゼネストを起こさせたという批判がある<ref name="ピーデン(1990)69">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.69</ref>。そしてその立場からは挑発を行わせた閣僚はチャーチルだという見方が多かったが、定かではない<ref name="河合(1998)213-214">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.213-214</ref>。
 
いずれにしてもボールドウィン首相は非常事態法を制定して労働運動弾圧を開始した<ref name="山上(1960)119">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.119</ref>。そしてその弾圧を最も強力に支持したのは労働運動の背後に常に共産主義者の陰謀を見ているチャーチルであった<ref name="山上(1960)119">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.119</ref><ref name="河合(1998)215">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.215</ref>。チャーチルは政府機関紙として『{{仮リンク|ブリティッシュ・ガゼット|en|British Gazette}}』を創刊し、ゼネストが違法であることを訴えた<ref name="坂井(1974)67-68">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.67-68</ref>。こうした政府の攻撃は奏功し、ゼネストは大衆の支持を得ることはできなかった<ref name="関(1969)139">[[#関(1969)|関(1969)]] p.139</ref>。
 
政府と資本家による労働運動切り崩し工作も成功し、労働組合会議は若干の賃金切り下げを認めるに至り、5月11日にはゼネスト中止を宣言した<ref name="村岡(1991)294">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.294</ref><ref name="関(1969)138">[[#関(1969)|関(1969)]] p.138</ref>。鉱山労働組合のみ従おうとせず、単独での労働争議を続けたが、彼らも11月までに資本家の要求をすべて受け入れる無条件降伏に追い込まれてストは集結した<ref name="村岡(1991)294">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.294</ref><ref name="ピーデン(1990)69">[[#ピーデン(1990)|ピーデン(1990)]] p.69</ref><ref name="坂井(1974)68">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.68</ref><ref name="関(1969)139">[[#関(1969)|関(1969)]] p.139</ref>。
{{-}}
===== ムッソリーニ伊首相を尊敬 =====
[[File:Duceeburzagli.JPG|250px|thumb|1928年のイタリア首相[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]。]]
イギリスの半植民地エジプト訪問の帰路の1927年1月に[[イタリア]]を訪問し、1922年以来政権を掌握していた[[ファシスト党]]党首で[[イタリアの首相|首相]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]と会見した<ref name="山上(1960)122">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.122</ref>。
 
イタリアを離れる際、イタリアの新聞記者たちに対してチャーチルは、「もし私がイタリア人だったら、レーニン主義の獣欲と狂気に対抗する貴方達の戦いを支持し、行動をともにしただろう。だが、イギリスにおいては死闘を演じる必要がなく、我々には我々流の物事の進め方がある。しかし最終的には我々が共産主義と戦い、その息の根を止めることに成功すると確信している。」と語った<ref name="河合(1998)216">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.216</ref><ref name="山上(1960)122">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.122</ref><ref name="ペイン(1993)192">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.192</ref>。
 
さらに「ファシズムの国際的価値」として「破壊的な勢力に対抗して、文明社会の名誉と安定を守ろうという大衆の意思を正しく導く方法を世界に示した」ことを指摘し、「ロシア革命の毒に対する最も有効な解毒剤」であると評価した<ref name="山上(1960)122">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.122</ref><ref name="ペイン(1993)192-193">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.192-193</ref>。
 
チャーチルはムッソリーニに非常な興味を持ち、彼の著作を読み、その生涯を調べることに熱心だった。とりわけ彼の[[ローマ帝国]]を復活させて「劣等の文明」を支配して導こうという「帝国の使命」の思想には同じ帝国主義者として強い共感を持っていた。後の[[第二次エチオピア戦争]]と[[イタリア領東アフリカ帝国]]建設も高く評価していた。1940年にフランス戦役が勃発して英伊が交戦関係となった後にさえも「(ムッソリーニが)偉大な男であることは否定しない」と述べていた<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.193/209/212</ref>。
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===== 総選挙の敗北で政権崩壊 =====
[[1929年]]5月の[[1929年イギリス総選挙|総選挙]]でチャーチルはエッピング選挙で再選を果たすも、選挙全体の結果は失業対策を訴えた労働党が289議席を獲得して第一党に躍進した。保守党は260議席、自由党は59議席しか獲得できず、保守党政権は崩壊、チャーチルも大蔵大臣を退任することとなった。代わって自由党の協力を受ける労働党政権、第2次マクドナルド内閣が発足した<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.122-123</ref>。
 
もっともこの選挙に保守党が勝利していたとしてもチャーチルは大蔵大臣から罷免されていたといわれる。というのもボールドウィン首相が選挙戦中に「チャーチルは再入閣させない」と周囲に漏らしているからである。チャーチルはこの段階でも自由党と保守党の連合構想を持っており、自由貿易を捨てきれないでいた。そのため党内保護貿易主義者から不満を買っており、孤立しつつあったのである。また個人的にもボールドウィン首相は大蔵省の管轄外のことにまで口を出して閣議の和を乱しがちなチャーチルを嫌っていた<ref name="河合(1998)218">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.218</ref><ref name="山上(1960)123">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.123</ref>。
 
==== 10年に亘って干される ====
[[File:ChurchillChaplin0001.jpg|230px|thumb|1929年、チャーチルと[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]]]
以降チャーチルは10年にわたって閣僚職に就くことができなかった。
 
1929年秋のアメリカ・[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の暴落]]に端を発する[[世界大恐慌]]はイギリスも襲い、1929年5月に115万人だったイギリスの失業者数が1930年12月には250万人に倍増した。失業手当が膨大となる中、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、1931年8月に総辞職を余儀なくされた<ref name="山上(1960)123">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.123</ref><ref name="村岡(1991)297-298">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.297-298</ref>。
 
困難な時局に対応できる強力な政府が求められた結果、マクドナルドを首相のままとした保守党、自由党、労働党大連立派(労働党は大連立反対派が主流であり、マクドナルドらは事実上助命された形であった)の3党の大連立による[[挙国一致内閣]]が成立した<ref name="山上(1960)123">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.123</ref><ref name="村岡(1991)298">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.298</ref>。しかしチャーチルは入閣できなかった<ref name="山上(1960)124-125">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.124-125</ref>。
 
挙国一致内閣はチャーチルが再導入した金本位制を停止し、大英帝国を排他的なブロック経済圏にする保護貿易を推し進めた。これはイギリスが1世紀近く前に自由貿易に移行して以来の歴史的な保護貿易への回帰だった<ref name="山上(1960)124">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.124</ref>。
 
チャーチルは自由貿易主義者だったが、あまりの失業者数の増大に彼の信念も揺らぎ、新聞社経営者{{仮リンク|マックス・エイトキン (ビーバーブルック卿)|label=ビーバーブルック卿|en|Max Aitken, Lord Beaverbrook}}らが唱える「帝国自由貿易」という自由貿易の名を借りた帝国特恵関税制度を支持するようになった<ref name="河合(1998)220">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.220</ref>。
 
1930年には『{{仮リンク|我が前半生|en|My Early Life}}』を出版し、庶民院議員となるなるまでの自分の人生を振り返った。冒険活劇調であり、インド人を「蛮族」呼ばわりし、「蛮族」が自分の活躍でばたばたと倒されていった事を自慢げに書いている<ref name="ペイン(1993)194">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.194</ref>。1931年からは『{{仮リンク|マールバラ公 その生涯と時代|en|Marlborough: His Life and Times}}』の執筆を開始した。これは先祖である初代マールバラ公爵の全6巻の伝記であり、マールバラ公を「貪欲で道徳とは無縁の人物」とするマコーレーの評価に反駁したものだった<ref name="ペイン(1993)195">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.195</ref>。
{{-}}
 
==== インド自治に反対 ====
[[File:Gandhi portrait 1931.jpg|180px|thumb|チャーチルが憎悪した[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]([[1931年]])。]]
第一次世界大戦中にロイド・ジョージ内閣はインド人から積極的な戦争協力を得るために戦後のインド自治を約束していた。しかし戦争が終わっても自治の見通しは立たず、[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]の非暴力抵抗運動が盛り上がりを見せていた<ref name="山上(1960)125">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.125</ref>。これを懐柔すべく、インド総督{{仮リンク|E.F.L.ウッド (初代ハリファックス伯爵)|label=アーウィン卿(後のハリファックス子爵)|en|E. F. L. Wood, 1st Earl of Halifax}}は、1929年にインドの大英帝国自治領化が最終目標であり、そのためのロンドンの{{仮リンク|円卓会議 (インド)|label=円卓会議|en|Round Table Conferences (India)}}にインド人代表団が参加できるようにすることを宣言した<ref name="河合(1998)220">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.220</ref>。
 
首相マクドナルドや保守党党首ボールドウィンは、アーウィン卿の宣言を支持したが、熱心な帝国主義者であるチャーチルは反対した。インド人には自治は尚早であること、インドの支配層はインドの民を代表しているとはとても言えない者たちであること、大英帝国の繁栄の根源であるインドに自治を与えることは自分で自分の手足を切り捨てているも同然であること、一度でもインド・ナショナリズムに譲歩したら、なし崩し的に独立まで突き進んでしまうであろうことなどを指摘した<ref name="河合(1998)221">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.221</ref><ref name="山上(1960)125">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.125</ref>。
 
ガンジーは、はじめアーウィン卿の宣言に対して歩み寄ろうとしなかったので1930年5月に投獄されたが、1931年1月には釈放されてアーウィン卿との交渉に応じることになった<ref name="河合(1998)222">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.222</ref><ref name="坂井(1988)88">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.88</ref>。しかしガンジーを嫌悪するチャーチルは、ガンジーを釈放したり、交渉に応じるアーウィン卿を批判した<ref name="坂井(1988)88-89">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.88-89</ref>。二人の交渉が行われた2月には「アジアによくいる[[托鉢]]に成り済ました英国法学院卒業の扇動家ガンジー弁護士が、半裸姿で陛下の名代たるインド総督と対等交渉している。このような光景を許していればインドの不安定と白人の危機を招く」と警鐘を鳴らし、さらにガンジーを「狂信的托鉢」と断じた<ref name="河合(1998)222">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.222</ref><ref name="ペイン(1993)200">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.200</ref><ref name="坂井(1988)89">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.89</ref>。
 
またインド自治の危険性を感じ取ろうとしない大衆にも怒りを感じており、「彼らは失業と増税の心配ばかりしている。あるいはスポーツと犯罪報道に夢中だ。今、自分たちが乗っている大型客船が静かに沈みつつあるというのが分からないのか。」と憂慮した<ref name="河合(1998)222"/>。
 
しかしチャーチルのこうした強硬なインド自治反対論は党首ボールドウィンに嫌われた。1931年1月にボールドウィンが「インド政治指導層の支持を得たインド政策ならば支持する」と宣言したことがきっかけでチャーチルはボールドウィンと完全に袂を分かち、「[[影の内閣]]」からも離脱した<ref name="河合(1998)222">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.222</ref><ref name="ブレイク(1979)274-275">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.274-275</ref><ref name="坂井(1988)90">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.90</ref><ref name="マッケンジー(1965)188">[[#マッケンジー(1965)|マッケンジー(1965)]] p.188</ref>。
 
1933年3月17日にマクドナルド挙国一致内閣は、後のインド統治法の叩き台となる白書を発表した。そこにはインド各州に自治権を付与すること、インド人が参加する連邦政府を創設し、インド総督の権限の一部を連邦政府に移すこと、またインド総督が責任を負う立法議会を設置することなどが盛り込まれていた<ref name="坂井(1988)91">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.91</ref>。チャーチルはこの白書に反対し、1933年4月には自らを副総裁とした{{仮リンク|インド防衛連盟|en|India Defence League}}を結成した<ref name="坂井(1988)93-94">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.93-94</ref>。その創設大会でチャーチルは「ガンジー主義の粉砕」を訴える演説を行ってイギリスでもインドでも注目された<ref name="河合(1998)225">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.225</ref>。
 
インド防衛連盟は加入者数こそ少なかったが、父ランドルフ卿が創設した{{仮リンク|プリムローズ連盟|en|Primrose League}}と同様、保守党議会外大衆組織に大きな影響を及ぼしていた<ref name="河合(1998)225">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.225</ref>。1933年6月の{{仮リンク|保守党協会全国同盟|en|National Union of Conservative and Constitutional Associations}}の会合では参加者の3分の1からインド自治反対の票を獲得し、さらに1934年秋の保守党大会ではインド自治賛成543票に対して、インド自治反対派520票とかなり僅差にまで持ち込んでいる<ref name="河合(1998)225">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.225</ref>。
 
しかし1935年1月にマクドナルド挙国一致内閣がインド統治法を提出するとチャーチル派の情勢は悪くなった。チャーチルが1935年1月30日に[[英国放送協会|BBC]]のラジオ放送で行ったインド自治反対の演説は評判が悪く、また同年2月には長男{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル (1911-1968)|label=ランドルフ|en|Randolph Churchill}}がインド統治法反対を公約に掲げて保守党公認候補に対抗する形でウェイヴァトリー選挙区の補欠選挙に出馬するも落選した<ref name="坂井(1988)102-104">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.102-104</ref>。インド統治法案の庶民院での審議においても第三読会までのどの投票でもチャーチル派は90票以上の票を集められなかった。最終的には1935年6月5日の庶民院の採決で264票差の大差をつけられて、チャーチルは敗北し、インド統治法が可決されることとなった<ref name="坂井(1988)107-109">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.107-109</ref>。
 
しかし結局インド統治法に定められた「インド連邦」は[[藩王国]]が反発して加盟を拒否したため、施行されることはなかった<ref name="坂井(1988)109">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.109</ref>。またヨーロッパ情勢が緊迫化している中、チャーチルもこれ以上この件で保守党執行部と対立を深めるのは好ましくないと判断し、自分の選挙区に宛てて闘争終了宣言を出した。その中で元首相ソールズベリー侯爵が1867年に選挙法改正をめぐって敗れた際の「政治的敗北を受け入れることは、あらゆるイギリス人や政党の義務だ」という言葉を引用した<ref name="坂井(1988)109">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.109</ref>。
 
==== ヒトラーへの危機感 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 102-12922, Adolf Hitler.jpg|180px|thumb|1932年の[[ヒトラー]]。]]
チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ・[[バイエルン州]]・[[ミュンヘン]]に立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは[[ドイツ国会1932年選挙 (7月)|国会議員選挙]]が行われ、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が第一党となり、その党首である[[アドルフ・ヒトラー]]が近いうちに[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より[[ドイツの首相|首相]]に任命される可能性が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部[[エルンスト・ハンフシュテングル]]と知り合い、彼からヒトラーと会談してみないかと勧められ、それを承諾した<ref name="ルカーチ(1995)58">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.58</ref>。
 
ただチャーチルは反共主義者ではあっても、[[反ユダヤ主義]]者ではなかった。チャーチルはユダヤ人の友人を多く持っており、彼らからしばしば助けてもらっていたし{{#tag:ref|たとえば1938年にチャーチルは借金がかさみすぎて、チャートウェル邸の売却を検討せねばならない家計難に陥ったことがあったが、ユダヤ金融業者サー・ヘンリー・ストラコッシュがその借金を肩代わりしてくれたおかげで危機を乗り切っている<ref name="ルカーチ(1995)42">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.42</ref>。|group=注釈}}、またかなり早期から[[シオニズム]]を支持している政治家だった<ref name="ルカーチ(1995)72">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.72</ref>。そのためチャーチルはハンフシュテングルに「なぜヒトラーは[[ユダヤ人]]を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけている。どうやらこの質問がヒトラーの耳に入って機嫌を損ねたらしく、会見はヒトラーの方から拒否された<ref name="河合(1998)229">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.229</ref>。後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作って断った。」と回顧している<ref name="河合(1998)229-230">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.229-230</ref><ref name="山上(1960)127-128">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.127-128</ref>。
 
この半年後の[[1933年]]1月に首相に任じられたヒトラーは、その年のうちに独裁体制を整え、国際連盟からも脱退し、1935年3月には念願のヴェルサイユ条約ドイツ軍備制限条項の破棄を宣言して再軍備を開始した<ref name="山上(1960)127-128">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.127-128</ref>。
 
イギリスでは一般に保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けられては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党と[[ドイツ共産党]]以外の政党がほとんど力を失っている今のドイツでは、もしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権につくのは恐らく共産党だった。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融和派が多かった<ref name="山上(1960)133">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.133</ref>。保守党党首ボールドウィンやその後任の党首となる[[ネヴィル・チェンバレン]]も同様であった。
 
ところがチャーチルはこうした立場に立たず、対独強硬論者となった。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備えようとするだろうし、反ソ防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅かすというリスクの方が大きそうに思えた<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.134-135</ref>。またチャーチルはヒトラーを歴史的文脈で捉えており、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]といったイギリスが常に戦ってきた「ヨーロッパの[[勢力均衡]]を崩す者」に連なる存在だと考えていたのである<ref name="坂井(1974)139">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.139</ref><ref name="山上(1960)134">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.134</ref>。
 
また1930年代のチャーチルは干されていたことから、あえて保守党主流と一線を画す対独強硬論に立つことで、ドイツ脅威論が盛り上がってきたところを保守党中枢に返り咲こうという政治的狙いだった可能性もある<ref name="山上(1960)135">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.135</ref>。
 
チャーチルはドイツの再軍備要求は断固拒否しつつ、イギリス自身は軍備増強を行うべきであると主張した<ref name="山上(1960)131">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.134-131</ref>。また次の戦争では海軍ではなく空軍が決定的役割を果たすと見ていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らし続けた<ref name="河合(1998)235">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.235</ref><ref name="山上(1960)132">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.132</ref>。
 
1936年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められていた[[ラインラント]]にドイツ軍を[[ラインラント進駐|進駐]]させた。フランス政府は対独開戦すべきかどうか判断に迷い、イギリス政府に窺いを立てたが、ボールドウィン首相(マクドナルドは1935年6月に退任し、保守党党首ボールドウィンが再び首相となった)は融和政策に基づき、放置すべしとした。イギリス国内の世論も「ドイツの領土にドイツ軍が入っていっただけ」という融和的空気が強かった。だがチャーチルは一人激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮ることなく、ただちに戦争を開始しただろう」と述べ、フランスの人材不足を嘆いたという<ref name="山上(1960)138">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.138</ref>。
 
一方でヒトラー以外のファシズム指導者には好意的であり、1935年にムッソリーニのエチオピア侵攻について帝国主義者の立場から「エチオピア人はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種」として熱烈に支持した<ref name="ペイン(1993)212">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.212</ref>。同じく1936年のスペインの[[フランシスコ・フランコ|フランコ将軍]]による左翼との戦い([[スペイン内戦]])も反共主義者としての立場から共感を持ち、労働党が左翼政府を支持しようとするのに対してチャーチルはボールドウィン内閣の不干渉方針を支持した<ref name="ペイン(1993)213">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.213</ref><ref name="山上(1960)139-140">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.139-140</ref>。
{{-}}
==== エドワード8世の退位をめぐって ====
[[File:King Edward VIII and Mrs Simpson on holiday in Yugoslavia, 1936.jpg|180px|thumb|[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]と[[ウォリス・シンプソン]](1936年ユーゴスラビア)]]
1936年1月に国王ジョージ5世が崩御し、皇太子エドワードが[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]として即位した。エドワード8世は即位時すでに40過ぎだったが、いまだ王妃を持っていなかった。ただ皇太子時代からアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]と付き合っていた。この女性は1936年10月まで{{仮リンク|アーネスト・シンプソン|en|Ernest Aldrich Simpson}}と結婚しており、つまりエドワード8世は人妻と交際していたのだった<ref name="山上(1960)141">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.141</ref>。
 
1936年10月27日にシンプソン夫妻の離婚が法的に決まると、エドワード8世は彼女と結婚したいという意思をボールドウィン首相に伝えた。だが伝統を重んじるボールドウィン以下保守党の政治家たちには二度も離婚歴のあるアメリカ人女性との結婚には反対の声が根強かった<ref name="山上(1960)142">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.142</ref>。またエドワード8世は外交への介入が目立つ王であり、ラインラント問題の際にも親独派としてドイツの邪魔をしないようイギリス政府をけん制するなどしてきた<ref name="坂井(1974)193">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.193</ref>。ボールドウィン首相としてはこういう自己主張の強い王より、気の弱い王弟[[ジョージ6世 (イギリス王)|ヨーク公アルバート]]の方がイギリスの王位に向いていると考えるようになり、エドワード8世に結婚するつもりなら退位するよう迫った<ref name="河合(1998)246">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.246</ref><ref name="山上(1960)142">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.142</ref>。
 
これを知ったチャーチルは、王室への忠誠心、またボールドウィンへの敵意もあってエドワード8世の擁護に回った<ref name="山上(1960)142">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.142</ref><ref name="ペイン(1993)216">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.216</ref>。
 
エドワード8世も11月16日にボールドウィン首相を引見した際には退位の意思を伝えていたが、11月25日になって保守党議員の一部が主張していた[[貴賎相婚]](シンプソン夫人を正式な王妃としてではなく、[[コーンウォール公]]夫人としてエドワード8世に嫁がせる)を可能とする法整備を要求するようになった<ref name="坂井(1974)201-202">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.201-202</ref>。これを聞いたボールドウィンは自分を辞職させてチャーチルを首相にする陰謀と確信し、「退位されないつもりなら辞職させていただきます。その場合『王VS政府』の戦いがはじまり、イギリスは未曽有の危機に陥るでしょう」と奏上した<ref name="坂井(1974)202">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.202</ref>。
 
これに対してチャーチルは「王が臣下の助言を拒否したら、退陣すべきは臣下であって王ではない。臣下が王に圧力をかける権利などない」と君主主義の立場からボールドウィン批判を展開した<ref name="ペイン(1993)216">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.216</ref>。チャーチルは自分を支持する議員たちをかき集めたが、40人程度しか糾合できなかった<ref name="坂井(1974)203">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.203</ref>。
 
12月2日にボールドウィン首相はエドワード8世に最後通牒を付きつけた。世論も自治領政府もボールドウィンを支持しているとのことだった<ref name="坂井(1974)204-205">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.204-205</ref>。それでもエドワード8世はチャーチルと相談してから決断したいとその場での即断は避けた<ref name="河合(1998)246">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.246</ref>。12月4日にエドワード8世の引見を受けたチャーチルは退位を思いとどまるよう説得にあたったが、もうエドワード8世にはチャーチルとともに王党派を率いて政府と戦う意思はなくなっていた<ref name="ペイン(1993)216">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.216</ref>。
 
結局エドワード8世はこの二日後の12月6日に弟ヨーク公に譲位することを国民に発表し<ref name="山上(1960)143">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.143</ref>、12月9日には正式に退位文書に署名した<ref name="坂井(1974)205">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.205</ref>。
 
チャーチルの立場はなくなり、12月7日のチャーチルの庶民院での演説は批判の野次で轟々となった。激怒したチャーチルは、ボールドウィン首相に向かって「貴方は陛下を叩きのめさなければ気が済まないのですか」と叫んだ<ref name="ペイン(1993)216">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.216</ref>。
{{-}}
 
==== ネヴィル・チェンバレンの対独融和政策への反対 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R69173, Münchener Abkommen, Staatschefs.jpg|230px|thumb|1938年9月の[[ミュンヘン会談]]。左から英首相チェンバレン、仏首相[[ダラディエ]]、独首相ヒトラー、伊首相ムッソリーニ、伊外相[[ガレアッツォ・チャーノ|チアーノ]]。]]
1937年5月にボールドウィン首相は政界引退し、代わって[[ネヴィル・チェンバレン]]が保守党党首・首相に就任した<ref name="河合(1998)247">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.247</ref><ref name="坂井(1974)205"/>。チェンバレンもボールドウィンと同様「閣議の和を乱す危険分子」チャーチルを入閣させる意思はなかった<ref name="河合(1998)248">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.248</ref>。
 
1937年中、チャーチルは駐英ドイツ大使[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]と会見したが、彼の東ヨーロッパに対する領有権主張を聞いて、ドイツの領土的野心が強まっているとの確信を強めたという<ref name="ペイン(1993)217">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.217</ref>。
 
実際この頃からヒトラーはかつてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が領有していた領土のうちドイツ系住民が多数派の地域の割譲を要求するようになっていた。1938年3月にはドイツ民族国家の[[オーストリア]]がドイツに[[アンシュルス|併合]]された。チェンバレンは許容範囲内と判断し無視したが<ref name="ペイン(1993)222">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.222</ref>、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合計画を批判する演説を行った。これについて妻クレメンティーンの親族である[[ミットフォード姉妹]]の四女[[ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード]](ヒトラーとナチズムに惹かれてドイツに飛び、ヒトラーの側近になっていた)がオーストリア人はみんな併合を望んでいるという手紙をチャーチル宛てに送ってきたが、チャーチルは翻意することなく、「公正な国民投票が行われていたらオーストリア人はナチスの支配下にはいることを拒否したはずだ」と返信した<ref name="ラベル(2005)285">[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.285</ref>。
 
つづいてヒトラーは旧オーストリア=ハンガリー帝国領[[ズデーテン地方]](当時は[[チェコスロバキア]]領)のドイツへの割譲を要求するようになった<ref name="河合(1998)250">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.250</ref>。さすがに心配になってきたチェンバレンは1938年9月15日にドイツ・バイエルン州・[[ベルヒテスガーデン]]のヒトラーの別荘を訪問し、ヒトラーを直に説得しようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツ人がいかにチェコスロバキア政府によって酷い弾圧を受けているかをとうとうと語り、逆にチェンバレンを口説き落とした<ref name="ペイン(1993)224-225">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.224-225</ref>。結局チェンバレンはフランスを説き伏せて、9月29日に英仏独伊の四国首脳による[[ミュンヘン会談]]を行い、正式にズデーテンのドイツ領有を認めた<ref name="坂井(1977)135-137">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.135-137</ref><ref name="山上(1960)146">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.146</ref>。
 
これを聞いたチャーチルは「我々は敗北した」<ref name="坂井(1977)145">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.145</ref>、「これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが」と語ったという<ref name="ペイン(1993)225">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.225</ref>。チャーチルとチャーチル派の議員30名ほどはミュンヘン協定に抗議すべくその批准決議に欠席した<ref name="山上(1960)148">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.148</ref>。ちなみにこの頃にはヒトラーの方もイギリス国内で対独強硬論をまき散らしているチャーチルの存在を意識するようになっており、チャーチルを「戦争挑発屋」と呼んで批判している<ref name="山上(1960)148">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.148</ref><ref name="河合(1998)252">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.252</ref>。
 
しかしミュンヘン協定もむなしく、1939年3月にはチェコスロバキアの内紛でチェコとスロバキアが分離したのを利用してドイツはチェコを[[ベーメン・メーレン保護領|保護領]]とした([[チェコスロバキア併合]])<ref name="山上(1960)148-149">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.148-149</ref>。これにより政界も世論も融和政策は失敗だったとの認識が強まった<ref name="坂井(1977)161-162">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.161-162</ref>。ここに至って労働党は英仏とソ連の同盟を主張するようになり<ref name="坂井(1977)176">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.176</ref>、反共主義者のチャーチルまでもがそれに賛成した(チャーチルの場合はイデオロギーからではなく[[勢力均衡]]論からだが)<ref name="山上(1960)149-150">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.149-150</ref>。
 
だがチェンバレン首相はソ連との同盟には否定的だった。彼はソ連をイデオロギー的に嫌っていたし、ソ連は英仏とドイツを潰し合わせようとしているという疑念を強く持っていた。それに[[ソ連共産党]]の軍隊である[[赤軍]]は[[スターリン]]の[[大粛清]]によって[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]元帥をはじめとする高級将校のほとんどが抹殺されていたため、同盟を結んだところでまともな戦力として勘定できないと考えられた<ref name="坂井(1977)183-184">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.183-184</ref>。
 
一方スターリンも独ソを反目させようという英仏の陰謀を警戒しており、ドイツと協定を結んでおく必要性を感じていた<ref name="坂井(1977)193-194">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.193-194</ref>。ヒトラーも[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]以来のドイツの二正面作戦回避戦略であるロシアとの接近を考えていた<ref name="坂井(1977)192">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.192</ref>。こうして利害が一致したスターリンとヒトラーは、1939年8月23日に[[独ソ不可侵条約]]を締結した。この条約の秘密協定において東ヨーロッパを独ソ両国で分割支配することが取り決められた<ref name="坂井(1977)194">[[#坂井(1977)|坂井(1977)]] p.194</ref>。
 
イデオロギー上相いれないはずの両国の握手に世界は驚いたが、チャーチルはスターリン支配下のソ連はレーニン時代に比べて、共産主義がお題目化しており、他の列強と大差がなくなってきていると考えていたため、さほど驚かなかったという。それよりみすみすソ連をドイツにくれてやったチェンバレンの外交センスの無さに批判的だった<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.253-254</ref>。
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==== チェンバレン内閣海軍大臣 ====
===== 第二次世界大戦開戦と海相就任 =====
英仏とソ連の挟撃の危機を回避したドイツ軍は1939年9月1日に[[ポーランド]]へ[[ポーランド侵攻|侵攻]]を開始した。閣僚からも対独開戦を要求されたチェンバレンは、9月2日にドイツに宣戦布告した<ref name="河合(1998)254">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.254</ref>。フランスは平和を望んでいたが、イギリスに引きずられてフランスも対独参戦させられた<ref name="山上(1960)151">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.151</ref>。ここに[[第二次世界大戦]]が開戦した。
 
開戦した以上、チェンバレンとしても対独強硬派の代表格チャーチルを登用しないわけにはいかず、チャーチルを海軍大臣に任じた。チャーチルは24年ぶりに海軍省大臣執務室に復帰した<ref name="山上(1960)152">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.152</ref>。全艦隊に「ウィンストン帰る」と書いた電報を送っている<ref name="河合(1998)254">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.254</ref>。
 
チャーチルは長らく政権から離れていたとはいえ、コネを使って政府の軍事情報を収集するのを怠らなかったし、1935年からは帝国防衛委員会付属の防空研究委員会に所属していたので航空機の最新知識もそれなりに持っており、役職をこなすうえで難はなかった<ref name="河合(1998)255">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.255</ref>。
 
チェンバレン首相は開戦後も早期の平和実現を願っており、今度の戦争は第一次世界大戦のような徹底抗戦ではなく、経済圧力を主眼にしようと考えていた。ドイツをやせ細らせて、領土拡大が「割に合わない」ことをヒトラーに思い知らせ次第、早期講和に持ち込む考えである<ref name="ルカーチ(1995)44">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.44</ref>。だが「戦争屋」チャーチルは第一次世界大戦の時と同様イギリスかドイツ、どちらかが倒れるまで徹底的に戦うつもりだった。これについて閣僚の一人{{仮リンク|サミュエル・ホア (初代テンプルウッド子爵)|label=サー・サミュエル・ホア|en|Samuel Hoare, 1st Viscount Templewood}}は「奴は100年でも戦うつもりでいる」とチャーチルを批判している<ref name="ルカーチ(1995)45">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.45</ref>。
 
海戦の状況は一進一退だった。開戦間もない1939年10月13日から14日にかけてドイツ海軍の潜水艦[[Uボート]]によって[[ロイヤル・オーク (戦艦)|戦艦ロイヤル・オーク]]が沈められた<ref name="ルカーチ(1995)47">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.47</ref><ref name="ペイン(1993)228">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.228</ref>。しかし12月には逆にイギリス戦艦がドイツ海軍の[[アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)|装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー]]を自沈に追い込んだ<ref name="ルカーチ(1995)47"/><ref name="ペイン(1993)228"/>。
 
===== 北欧での戦い =====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-L03926, Drontheim, britische Kriegsgefangene.jpg|180px|thumb|北欧戦でドイツ軍の捕虜になったイギリス将兵。]]
{{main|ヴェーザー演習作戦}}
一方陸戦の方では、ポーランドが開戦からわずか4週間にしてドイツ軍とソ連赤軍によって蹂躙され、独ソ分割占領をうけていた。しかし英仏軍とドイツ軍の間に本格的な戦闘は発生していなかった([[まやかし戦争]])。
 
そんな中、沈黙を破ったのはソ連だった。1939年11月から赤軍が[[フィンランド]]侵攻を開始したのである([[冬戦争]])。西欧を主戦場にするのを嫌がっていた英仏首脳は、フィンランドに遠征軍を送り、ここを独ソとの主戦場にすることを考えた。チャーチルも基本的にそれに賛成しつつ、フィンランド遠征の途中に[[ノルウェー]]北端の[[ナルヴィク]]港を占領し、またドイツの鉄供給地であるスウェーデンの鉄鋼鉱山を破壊するという計画を立案した。しかし結局フィンランドがソ連と講和して一時休戦したため、この作戦は流産した<ref name="ルカーチ(1995)47-48">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.47-48</ref><ref name="河合(1998)259-260">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.259-260</ref>。
 
実はチャーチルは冬戦争が起こる前からノルウェーの港の占領を目論んでおり、この計画はヒトラーにも察知されていた。ドイツ軍はイギリスの先手を打つ形で1940年4月9日から[[北欧侵攻]]を開始した<ref name="ペイン(1993)49-50">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.49-50</ref>。[[デンマーク]]を一日で陥落させたドイツ軍は、ノルウェーの港に次々と上陸してきた。チャーチルも対抗して英仏軍をノルウェーに上陸させたものの、チャーチルの作戦は全て裏目に出て、精強なドイツ軍によって散々に粉砕されてしまった<ref name="ペイン(1993)229">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.229</ref>。
 
チャーチルは回顧録で「我々の最も優れた部隊でさえ、活力と冒険心に溢れ、優秀な訓練を受けたヒトラーの若い兵士たちにとっては物の数ではなかったのだ」と書いている<ref name="ルカーチ(1995)53">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.53</ref>。
 
===== チェンバレンの首相退任をめぐって =====
ガリポリの戦い以来の惨敗っぷりにチャーチルも海相失脚を覚悟したが、5月7日から8日にかけて庶民院で行われたノルウェー作戦についての討議では、その批判はチャーチルではなく、首相チェンバレンに向かった。チャーチルは「ノルウェー戦の敗北は自分の責任だ」と主張してチェンバレンを擁護しようとしたが、自由党党首ロイド・ジョージは「防空壕になるのはやめときなさい」と言ってチャーチルを止めた<ref name="ルカーチ(1995)53-55">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.53-55</ref><ref name="河合(1998)260-261">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.260-261</ref>。
 
与党議員からも続々と造反者が出る中、チェンバレンは、労働党との[[大連立]]による[[挙国一致内閣]]で政権強化する道を模索するようになった。だが労働党の議員たちはチェンバレンよりチャーチルを首相とする大連立を希望する者が多かった。彼らはかつてチャーチルが行った労働運動弾圧の恨みを忘れていなかったが、左翼イデオロギーからヒトラーとの戦いを徹底的に遂行する者を希望していたのである<ref name="ペイン(1993)229-230">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.229-230</ref>。
 
世論もチャーチルの首相就任を支持する者が多かった。チャーチルは[[クリミア戦争]]時の[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、あるいは一次大戦時のロイド・ジョージのような立ち位置にあり、首相にふさわしい人物であった<ref name="ブレイク(1979)290">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.290</ref>。
 
だが、もう一人、首相候補として各方面から割と反発が少ない外相ハリファックス子爵(インド総督だったアーウィン卿)もいた<ref name="河合(1998)261-262">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.261-262</ref>。
 
5月9日にチェンバレンはチャーチルとハリファックス子爵の両方を召集した。チェンバレンはハリファックス子爵を首相にしたがっており、チャーチルに「ハリファックス卿の内閣で働く意思はあるか」と聞いたが、チャーチルは沈黙していた。そこへハリファックス子爵が「貴族院議員の私が首相になるのは望ましくないでしょう」と述べたことでチャーチルが首相に就任することが決まったという<ref name="ルカーチ(1995)55">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.55</ref><ref name="河合(1998)262">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.262</ref><ref name="君塚(1999)199">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.199</ref>。
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=== 首相・保守党党首として ===
==== 第1次チャーチル内閣 ====
[[File:Churchill.jpg|230px|thumb|第一次内閣時のチャーチル首相]]
1940年5月10日午後6時に[[バッキンガム宮殿]]で国王ジョージ6世より組閣の大命を受けたチャーチルは、{{仮リンク|第1次チャーチル内閣|en|Churchill war ministry}}を発足させた。労働党も参加を了承した挙国一致内閣であった<ref name="河合(1998)263">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.263</ref>。戦争を指導する{{仮リンク|戦時内閣|en|War Cabinet}}は5人で構成したが、2人は労働党の議員であり、そのうちの1人が後に首相[[クレメント・アトリー|アトリー]]だった<ref name="河合(1998)263">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.263</ref>。
 
5月13日に首相として初めて庶民院へ入り、「我々の目的が何かと言えば、一言で答えられる。勝利だ。どれだけ犠牲を出そうとも、どんな苦労があろうと、そこに至る道がいかに長く困難であろうとも勝利のみである」と演説した<ref name="ペイン(1993)232">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.232</ref><ref name="河合(1998)267">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.267</ref>。保守党はチャーチルを歓迎しない者が多かったが、労働党はチャーチルに拍手を送った<ref name="河合(1998)266">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.266</ref>。
 
首相就任時、チャーチルは65歳、対するヒトラーは51歳だった<ref name="ルカーチ(1995)55">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.55</ref>。以降5年に亘る2人の激闘が始まることとなった。
 
===== 言論弾圧の強化 =====
チャーチルは就任早々「内務大臣は、外国に従属している、または指導者が敵国政府指導者と関係を持っている、あるいは敵国政府のシステムに共感をもっていると認められる組織のメンバーを誰であろうとも裁判なしで無期限に投獄できるものとする」という{{仮リンク|防衛規則18B|en|Defence Regulation 18B}}の修正規則18(1a)を制定してイギリスを言論弾圧国家に変貌させ、ファシスト、共産主義者、適性外国人を次々と逮捕した<ref name="ラベル(2005)374-375">[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.374-375</ref><ref name="ルカーチ(1995)118">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.118</ref>。
 
[[イギリスファシスト連合]]指導者[[オズワルド・モズレー|サー・オズワルド・モズレー准男爵]]が「[[マグナカルタ]]以来保障された人権を侵している」と同規則を批判したが、チャーチルは取り合わず、彼を逮捕させた。他にも{{仮リンク|アーチボルト・ラムゼイ|en|Archibald Maule Ramsay}}([[反ユダヤ主義]]者の保守党庶民院議員)や{{仮リンク|タイラー・ケント|en|Tyler Kent}}([[モンロー主義]]者の駐英アメリカ大使館員)らを逮捕した。親族といえども容赦せず、ミットフォード姉妹の三女でモズレーの妻である{{仮リンク|ダイアナ・ミットフォード|label=ダイアナ|en|Diana Mitford}}も逮捕させ、夫と同じ牢獄に送った<ref name="ラベル(2005)375-376">[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.375-376</ref><ref name="ルカーチ(1995)118">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.118</ref>。
 
===== フランス敗北 =====
{{main|ナチス・ドイツのフランス侵攻}}
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-126-0350-26A, Paris, Einmarsch, Parade deutscher Truppen.jpg|230px|thumb|1940年6月、パリで戦勝パレードを行うドイツ軍騎兵。]]
チャーチルが首相に就任した5月10日はちょうど「まやかし戦争」が終わった日だった。同日早朝、フランスを陥落させるべくドイツ軍が[[ベルギー]]と[[オランダ]]へ侵攻を開始し、「[[西方電撃戦]]」がはじまったのである。
 
英陸軍は1939年9月以来、[[イギリス海外派遣軍 (第二次世界大戦)|海外派遣軍]]22万5000人をフランスに上陸させ、フランス・ベルギー北部に展開させていたが、ヒトラーはこの軍の包囲を狙って[[エーリヒ・フォン・マンシュタイン]]{{仮リンク|中将 (ドイツ)|label=中将|de|Generalleutnant}}立案の作戦に基づく攻勢をかけさせた。[[ハインツ・グデーリアン]]{{仮リンク|装甲大将 (ドイツ)|label=装甲大将|de|General der Panzertruppe}}らが率いるドイツ軍装甲部隊はフランス軍の盲点になっていた[[アルデンヌ]]を通過して、[[ディナン]]と[[セダン]]から[[マース川]]渡河に成功しフランス軍を一蹴しながら英仏海峡めがけて進軍した<ref name="ルカーチ(1995)96">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.96</ref>。王立空軍はフランス軍支援のため戦闘機を出撃させるも、その半数近くが撃墜されてしまった<ref name="ルカーチ(1995)98">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.98</ref>。
 
ヒトラーは、今は歩兵攻撃の時代ではなく、戦車や車両が最前線を突き進んでいく電撃戦の時代であることを見抜いていたが、チャーチルは一次大戦の観念を捨てきれていなかった。戦後チャーチルは「猛スピードで進軍する重装甲部隊の侵略が、どれほど先の大戦の大革新であったか私は全く理解できていなかった」と回顧録の中で述べている<ref name="ルカーチ(1995)97">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.97</ref>。
 
5月15日朝7時頃にチャーチルはフランス首相[[ポール・レノー]]からの電話で起こされた。電話口でレノーはいきなり「我が国は敗北しました。」と言いだした。寝ぼけていたチャーチルには意味がよく分からず、黙っていたが、レノーは「我々は敗北しました」を繰り返した。チャーチルはレノーを落ち着かせようとしたが、彼はパニック状態だった。チャーチルはとにかく明日にもパリを訪問することを約束した<ref name="ペイン(1993)232-233">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.232-233</ref><ref name="ルカーチ(1995)99">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.99</ref>。
 
5月16日午後にパリに到着したチャーチルは、レノーの言ってることが大げさでも何でもなかったことに気付かされた。連合国最高司令官[[モーリス・ガムラン]]仏参謀総長は真っ蒼な顔で小刻みに震えていたという。チャーチルは「フランス軍の本隊と予備隊はどこにいるんです」と聞いたが、ガムランは「そんなものはもうありません。」と答え、ただちに王立空軍10個飛行中隊を増援に送ることを要求した。チャーチルはフランス脱落を恐れてやむなく了承したが、恐らく独軍の電撃戦を空から阻止することはできないだろうと見抜いていたという。また、この増援によりイギリス本土に残る飛行中隊は25個だけになった。これはギリギリの線だった。これ以上出せばイギリス本土の制空権がドイツ空軍に脅かされる可能性が高かった<ref name="ペイン(1993)233">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.233</ref><ref name="ルカーチ(1995)99-100">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.99-100</ref>。
[[File:Dunkirk2.gif|230px|thumb|left|[[ダンケルクの撤退]]で船に乗り込む英軍兵士たち。]]
一方、海外派遣軍は英仏海峡に到達したドイツ軍によって南フランスのフランス軍主力と切り離されて、[[ダンケルク]]に追い込まれた。チャーチルは彼らの全滅も覚悟したが、なぜかヒトラーはグデーリアンらドイツ軍装甲部隊指揮官たちに追撃を許さなかったため、海外派遣軍とフランス軍部隊の一部を加えた33万8000人は5月29日から5日間にわたって行われたイギリス本土への撤退作戦に成功した([[ダンケルクの撤退]])。この謎の奇跡にイギリス国内はまるで勝利したかのように喜びに湧きあがった<ref name="ペイン(1993)234">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.234</ref><ref name="山上(1960)162-163">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.162-163</ref><ref>[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.127-156</ref>
 
ダンケルクの撤退成功で決定的破滅を免れたとはいえ、撤退は勝利ではなく、イギリスが追い込まれている状況に変わりはなかった。さすがのチャーチルにも弱気が覗いてきた。5月28日には親ナチ派のロイド・ジョージに入閣を要請しているが、これはドイツに和平交渉を提案しなければならなくなった場合に備えてのことともいわれる(この入閣要請はロイド・ジョージの方から拒否された)<ref name="ルカーチ(1995)153">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.153</ref>。ダンケルクの撤退成功後の6月4日の庶民院での演説では「万が一イギリス本土が占領されたとしても我々は戦いをやめないであろう。海の彼方にも広がる我が帝国は、[[新世界]]から海軍を使って[[旧世界]]の救援と解放を目指す。」と語り、アメリカの支援の期待と大英帝国植民地にイギリス政府を移す可能性を示唆している<ref name="ペイン(1993)235">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.235</ref><ref name="山上(1960)163">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.163</ref><ref name="河合(1998)270">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.270</ref>。
 
ドイツ軍の南フランスへの進軍が開始される中、フランス政界では和平派の声がますます強まっていった。チャーチルはフランスが降伏してフランス海軍力がドイツに接収されるのを恐れるあまり、「フランス艦隊を全てイギリスの港に送れ」だの、英仏を「英仏連邦」という名の一つの国家にしよう(=フランスの全船舶をイギリスが共同所有)だの身勝手な要求を行い、フランス人から顰蹙を買った。イギリスの敗戦も時間の問題と考えられていたので「死体(イギリス)と結合するくらいならナチスの占領下に入った方がマシ」というのがフランスの政治家・軍人の主流意見となった<ref name="ルカーチ(1995)191-193">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.191-193</ref><ref name="ペイン(1993)236-237">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.236-237</ref><ref name="山上(1960)166">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.166</ref>。
 
6月16日にフランス首相となった[[フィリップ・ペタン]]元帥はヒトラーに和平交渉の意思を伝え、6月22日にも[[独仏休戦協定]]の締結に応じた<ref name="山上(1960)167">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.167</ref>。こうして、[[シャルル・ド・ゴール]]など一部のイギリス亡命軍人を除き、フランスはドイツとの戦いから離脱したのだった。
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===== バトル・オブ・ブリテン =====
[[File:Back to the wall.jpg|180px|thumb|英国政府の戦意高揚プロパガンダ・ポスター。追い詰められながらも大英帝国の壁を守るチャーチルの図]]
[[File:Wc0107-04780r.jpg|180px|thumb|1940年、空襲警報でヘルメットをかぶるチャーチル]]
{{main|バトル・オブ・ブリテン}}
1940年夏のイギリスは破滅の一歩手前だった。西欧諸国や北欧諸国はほとんどがドイツに占領されるか、その衛星国家になっていた。東欧も独ソに分割占領され、またドイツは日本やイタリアと[[日独伊三国同盟|同盟]]関係を結んでいた。アメリカ参戦だけがイギリスの唯一の希望という状態だったが、アメリカの国民世論はモンロー主義が根強く、大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]も大統領選挙を前にしてチャーチルの誘いには簡単には乗ってこなかった。イギリスは独力で[[ブリテン島]]の守りを固め、ドイツ軍の攻撃を待つしかなかった。チャーチルはこの時の状況を後に「イギリスの最後の審判の時が刻まれたと全世界が思いこんでも何の不思議があろうか。」と評した<ref name="山上(1960)170">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.170</ref>。
 
フランスに勝利したのち、ヒトラーはイギリスに和平を提唱したものの、チャーチルは強硬路線を曲げようとせず、これを拒絶した<ref name="山上(1960)171">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.171</ref>。やむなくドイツ軍はイギリス上陸作戦「[[アシカ作戦]]」の立案を開始したが、これを成功させるためにはイギリス本土の[[制空権]]を握る必要があった。チャーチルもまず襲来してくるのはドイツ空軍と予期しており、イギリス本土を攻撃させておいて、敵の空軍力を粉砕するという方針を取った<ref name="ペイン(1993)242">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.242</ref>。
 
ドイツ空軍の空襲は8月10日から開始された<ref name="ペイン(1993)243">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.243</ref>。ドイツ空軍ははじめ港や基地、飛行場など軍事施設を中心に空襲をかけてきた<ref name="山上(1960)171">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.171</ref>。イギリス軍機がこれを迎え撃つべく出撃し、[[バトル・オブ・ブリテン]]と呼ばれるイギリス本土上空での激闘が始まった。最初の二週間はドイツ軍機が次々と撃墜されてイギリス優勢であったが、8月24日を境にイギリス軍機の撃墜も目立つようになり、消耗戦の様相を呈してきた。それでも王立空軍は最後までドイツ空軍に制空権を渡すことはなかった<ref name="ペイン(1993)243">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.243</ref>。
 
またこの間にチャーチルは1000機の爆撃機をもって最初の[[ベルリン空襲]]を敢行したが、戦果は乏しかった<ref name="ペイン(1993)245">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.245</ref>。ヒトラーはこの復讐で、まだ制空権を握れていないにも関わらず、9月7日からドイツ空軍爆撃機に[[ロンドン空襲]]を開始させた<ref name="山上(1960)173">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.173</ref><ref name="ルカーチ(1995)302">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.302</ref>。だが、これはドイツ側の重大な判断ミスとなった。これによってイギリス軍機に撃ち落とされるドイツ軍機の数が急増したのである。チャーチルも「戦闘機部隊司令官はドイツ空軍の攻撃目標がロンドンになったことに安堵していた」と書いている<ref name="山上(1960)173">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.173</ref>。
 
一方チャーチルは爆撃を受けた町を視察して回り、そこで葉巻をくわえながら[[Vサイン]]をして見せた。これはやがて彼のトレードマークとなった。この一連の視察でチャーチルの国民的人気は大いに高まり、独裁的地位を確立するに至った。チャーチルはなおも議会を重んじるかのような発言はしていたが、反対派の声はこのチャーチル人気の前に圧殺されるようになったのである。イギリスに独裁者が現れるのは[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]以来のことであるとされる<ref name="ペイン(1993)240">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.240</ref>。
 
バトル・オブ・ブリテンの航空機の損失の多さにヒトラーも動揺し、9月17日にはアシカ作戦の中止を決定した<ref name="河合(1998)273">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.273</ref><ref name="ペイン(1993)244">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.244</ref><ref name="ルカーチ(1995)302">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.302</ref>。
 
さらにこの年にはもう一つ、チャーチルにとって事態の好転の兆候があった。1940年11月に行われた[[1940年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]でルーズベルトが三選したことで、アメリカ政府が平和を求める国民世論を無視してモンロー主義を放棄するようになり始めたのである。ルーズベルトは1940年12月末のラジオ放送で「イギリスが敗れれば、全ヨーロッパ、全世界がドイツに征服され、人類の自由と幸福は失われるだろう」などと演説し、公然とドイツ批判、イギリス支持の主張を行った。そして1941年3月にはモンロー主義者の反対を押し切って[[武器貸与法]]を制定し、イギリスに武器や兵器を戦後払いで提供し始めたのである<ref name="山上(1960)176">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.176</ref>。
 
===== 北アフリカ戦線 =====
[[File:Rommel with his aides.jpg|180px|thumb|北アフリカのドイツ軍を指揮した[[エルヴィン・ロンメル]]。チャーチルは敵であっても彼には敬意を表していた<ref name="ショウォルター(2007)6">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.6</ref>。]]
[[File:Churchill Morshead (AWM 024764).jpg|230px|thumb|1942年8月5日、エジプト駐留イギリス軍を視察するチャーチル。]]
一方イタリア首相ムッソリーニは大戦初期には中立を保っていたが、フランス戦のドイツの勝利が確実となった1940年6月になってドイツ側で参戦した。しかしイタリア軍は貧弱でフランスのアルプス山脈防衛部隊に返り討ちにされてしまった。続くバトル・オブ・ブリテンにはイタリア空軍も一部参加していたが、やはりその働きは杜撰を極めた<ref name="ショウォルター(2007)209">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.209</ref>。だがムッソリーニは、地中海の覇権を目指し、ヒトラーの援助の申し出も拒否して独断で[[エジプト王国]](名目上独立国家だったが、実質的にはイギリスの軍事支配下にあった)とギリシャに侵攻を開始した<ref name="ショウォルター(2007)209">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.209</ref>。
 
チャーチルは乏しいイギリスの物資と戦力をこの地中海の戦いに注ぎこんだ。アメリカの参戦を促すためにイギリスの勝利が必要であったが、簡単に戦勝を上げられそうなのは目下この戦域だけだったからである<ref name="ショウォルター(2007)209-210">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.209-210</ref>。
 
この目論見は奏功し、1940年12月にエジプト駐留イギリス軍はエジプトへ侵攻してきたイタリア軍を返り討ちにし、逆にイタリア植民地リビアへ侵攻し、イタリア軍を[[トリポリ]]まで追い詰めた<ref name="ショウォルター(2007)210">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.210</ref>。イタリア軍を北アフリカから駆逐できればイギリスは地中海を自由に動けるようになり、物資確保の面で有利であった<ref name="ショウォルター(2007)211">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.211</ref>。またギリシャ戦線でもイタリア軍は敗北し、イギリスはここに空軍基地を設置してドイツの重要な資源地である[[ルーマニア]]の油田への空襲も狙えるようになった<ref name="ショウォルター(2007)211">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.211</ref>。
 
ヒトラーも看過できなくなり、地中海にドイツ軍部隊を派遣することを決定した。1940年12月にはギリシャのイタリア軍救出のための[[マリータ作戦]]を発動し、ついで1941年1月には[[ゾネンブルーメ作戦]]を発動して[[ドイツアフリカ軍団]]がトリポリへ送られるようになり、2月にはその指揮官として[[エルヴィン・ロンメル]]中将が派遣されてきた<ref name="ショウォルター(2007)212">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.212</ref>。
 
一方チャーチルは{{仮リンク|イギリス中東軍司令官|en|Middle East Command}}{{仮リンク|アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|label=アーチボルド・ウェーヴェル|en|Archibald Wavell, 1st Earl Wavell}}の訴えを無視して北アフリカの兵力を強引にギリシャに割いた。その結果は惨憺たるもので、イギリス軍はギリシャでドイツ軍に蹴散らされた<ref name="ペイン(1993)246">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.246</ref>。
 
ロンメル指揮下の北アフリカ・ドイツ軍もこれに乗じて1941年3月末からイギリス軍に対する攻勢を開始し、リビアのほとんどの地域からイギリス軍は駆逐された。[[トブルク]]だけはオーストラリア軍の勇戦でなんとか持ちこたえたが、そこも包囲された<ref>[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.218-225</ref>。チャーチルは6月にもトブルク包囲を解こうとイギリス中東軍司令官ウェーヴェル大将に命じて[[バトルアクス作戦]]を開始させたが、ドイツ軍に蹴散らされて惨敗に終わった<ref name="ショウォルター(2007)226-227">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.226-227</ref>。チャーチルはウェーヴェルを解任し、[[クルード・オーキンレック]]大将を後任とすると、11月にも[[クルセーダー作戦]]を開始させ、ドイツ軍を後退させた<ref>[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.229-241</ref>。しかし1942年5月からドイツ軍の反攻があり、6月までにリビアからイギリス軍は駆逐された([[ガザラの戦い]])。とりわけチャーチルはトブルクの陥落を恐れ、同市の守備軍に死守命令を下したが、司令官が独断で降伏してしまった<ref>[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.252-256</ref>。
 
トブルク陥落は、この数か月前のシンガポール陥落と相まって、イギリス国内に強い衝撃を与え、戦時中のチャーチル批判は1942年7月に最も強まった。議会では内閣不信任案が提出された。挙国一致内閣の[[オール与党]]だったため、不信任案自体は大差で否決されたものの、戦時の挙国一致内閣で内閣不信任案が提出されること事態が異例であった。こんなことは一次大戦時にも起きたことはなかった<ref name="河合(1998)288-289">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.288-289</ref>。チャーチルもこれを「深刻な挑戦状」と捉えたという<ref name="ショウォルター(2007)256">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.256</ref>。
 
19世紀以来続いているイギリスのエジプト占領体制も揺らぎ始めた。エジプト駐留イギリス軍は書類を焼き始め、パレスチナへの撤退準備を開始していた。これを見たエジプト民族主義者たちの間にはロンメルがイギリスの圧政から解放してくれるという期待感が広がり始めた<ref name="ショウォルター(2007)256">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.256</ref>。エジプト王[[ファールーク1世 (エジプト王)|ファールーク1世]]も独立のチャンスが来たと見て反英内閣の組閣を計画したが、エジプトの実質的支配者であるイギリス大使{{仮リンク|ミレス・ランプソン (初代キラーン男爵)|label=キラーン男爵|en|Miles Lampson, 1st Baron Killearn}}がエジプト王の宮殿を包囲し、「イギリスに逆らうつもりなら拉致する」と無法な脅迫をしたことでこの計画は水泡に帰した<ref name="モリス(2010)下225-227">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.225-227</ref>。
 
もしエジプトをドイツ軍に突破された場合、失われるのはエジプト支配権だけではなかった。北アフリカのドイツ軍が[[コーカサス]]に進軍している東部戦線のドイツ軍と合流することになり、イギリスの「インドの道」は閉ざされ、大英帝国アジア支配体制のすべてが崩壊する恐れがあった<ref name="ショウォルター(2007)257">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.257</ref>。
 
だが、ロンメルの快進撃はここまでだった。ドイツ軍が勢いに乗って開始したエジプトへの進軍は7月中に停滞した。チャーチルは8月3日にもエジプト首都カイロに入り、チュニジアに上陸予定の英米軍支援のための攻勢に出ることを拒否したオーキンレックを解任し、第8軍司令官に[[バーナード・モントゴメリー]]を任じて新体制を整えた<ref name="ショウォルター(2007)257">[[#ショウォルター(2007)|ショウォルター(2007)]] p.257</ref>。10月から11月にかけての[[エル・アラメインの戦い]]でモントゴメリー率いるイギリス軍はロンメルのドイツ軍を撃破し、さらに11月にモロッコとアルジェリアに英米軍の上陸が成功した<ref name="河合(1998)290">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.290</ref>。1943年3月にはロンメルは戦線を離脱し、北アフリカのドイツ軍は5月までに降伏した。
{{-}}
 
===== 独ソ戦勃発 =====
[[File:Posters11.jpg|230px|thumb|[[セルビア]]政府の[[陰謀論]]系のプロパガンダ・ポスター。[[フリーメーソン]]のユダヤ人に操られるスターリンとチャーチルの図]]
{{main|バルバロッサ作戦|独ソ戦|イラン進駐 (1941年)}}
北アフリカ戦中の1941年6月22日にヒトラーは[[バルバロッサ作戦]]を発動し、東ヨーロッパのソ連占領地域にドイツ軍が侵攻を開始した。これを見てチャーチルはその日のうちにスターリンに無条件の協力を約束する電報を送った。この時チャーチルは秘書に「ヒトラーが地獄へ攻めいれば、私は地獄の大王を支援するのだ」と語ったという<ref name="河合(1998)283">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.283</ref>。
 
1941年8月にもイギリスとソ連は共同で[[イラン]]へ[[イラン進駐 (1941年)|侵攻]]し、同国の石油資源を確保しつつ、ソ連支援ルートを作った<ref name="山上(1960)189">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.189</ref>。
 
当面イギリスがソ連に対して行える支援はこのルートを使っての物資支援に限られていた。スターリンはチャーチルにフランスへ上陸して「第二戦線」(西部戦線)を開くよう再三要求し<ref name="河合(1998)283">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.283</ref>、イギリス国内でも左翼が「即刻、第二戦線を」と街の壁のあちこちに落書きして歩くようになった<ref name="山上(1960)195">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.195</ref>。
 
だがチャーチルはこれを拒否し続けた。一度、駐英ソ連大使が「第二戦線を開け」とあまりにしつこかった時には、つい最近までの独ソの近しい関係を引き合いに出し、「貴方がたに何か要求される筋合いはない」と突っぱねたこともあった<ref name="河合(1998)283">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.283</ref>。アメリカ参戦後にはアメリカのルーズベルトが第二戦線論に乗り気だったが、チャーチルはルーズベルトに直談判して中止させ、北アフリカのアルジェリア・モロッコへの上陸作戦に変更させた<ref name="山上(1960)195-196">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.195-196</ref>。
 
結局、1944年6月のノルマンディー上陸作戦まで本格的な「第二戦線」が開かれることはなかった。
{{-}}
===== 大西洋憲章 =====
[[File:Franklin D. Roosevelt, F.D.R. jr. Churchill, and Elliott R. at the Atlantic Conference - NARA - 196902.tif|230px|thumb|1941年8月、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上のチャーチルとアメリカ大統領ルーズベルト。]]
{{main|大西洋憲章}}
1941年8月にはイギリス自治領カナダ・[[ニューファンドランド島]]沖に停泊中の[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|戦艦プリンス・オブ・ウェールズ]]上でアメリカ大統領ルーズベルトと会談した。ここで両首脳は「[[大西洋憲章]]」を締結した。これは第一次世界大戦時にウィルソンが発表した14カ条を真似たもので領土不拡大や民族自決を盛り込んでいた。後に[[国際連合憲章]]の原型になった米英の共同文書として知られている<ref name="山上(1960)188">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.188</ref>。
 
だがチャーチルはこの憲章の適用範囲はナチス支配下のヨーロッパ諸国のみであり、大英帝国が広がるアジアやアフリカは除外されるべきと主張した<ref name="河合(1998)287">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.287</ref><ref name="坂井(1988)163-164">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.163-164</ref>。そのことを憲章の民族自決に関する条項にも盛り込ませようとしたが、アメリカはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたため、拒否された<ref name="モリス(2010)下261">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.261</ref>。
 
ルーズベルトが「永久平和の手段」として世界自由貿易を提案したのに対して、チャーチルは「帝国内関税特恵制度を変更するつもりはない」とこれを拒絶した。だがルーズベルトはなおも食い下がり、「ファシスト奴隷制と闘いながら、同時に自分たちの18世紀的植民地支配体制から全世界を解放する気はないというのはいかがなものか」などとイギリス批判をはじめた。これを聞いたチャーチルは激昂のあまり卒倒しかけたという<ref name="河合(1998)286-287">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.286-287</ref>。
 
しかしアメリカがなんと言おうとチャーチルはアジアとアフリカは憲章の適用外という解釈を取り続け、憲章締結後も植民地の民族運動家に対する弾圧をやめようとはしなかった<ref name="山上(1960)188">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.188</ref>。また憲章のうち領土不拡大という理念もやがて英米ソの三国が領土分割を約束し合うようになったことで、完全に無視されるに至った<ref name="山上(1960)188"/>。
 
またこの会談の際、ドイツの同盟国であり、南西太平洋地域のフランス植民地に進駐した日本に対して戦争も辞さない強硬な姿勢をとるべきことがチャーチルの発案により米英両国で確認された<ref name="河合(1998)329">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.329</ref>。これに基づいてか、アメリカは11月に日本に対して「中国から撤兵せよ。[[満洲事変]]以前の状態に戻せ」というこれまでにない強硬要求を突き付けた。日本を戦争に追い込むための挑発だったという説もある<ref name="山上(1960)190">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.190</ref>。
 
===== アメリカと日本の参戦 =====
1941年[[12月7日]]の日本の[[真珠湾攻撃]]で日米が開戦した。この報告を聞いたチャーチルは大喜びし、早速ルーズベルトに電話した。ルーズベルトは「その通りだ。日本は真珠湾を攻撃した。これで我々は同じ船に乗ったわけだ。」とチャーチルに語ったという<ref name="ペイン(1993)273">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.273</ref>。チャーチルの回顧録は「その日の夜、興奮と感動で疲れ果てていたが、私は救われた人間、感謝の気持ちに溢れた人間として眠りに付くことができた」と書いている<ref name="河合(1998)331">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.331</ref><ref name="ペイン(1993)273-274">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.273-274</ref>。
 
チャーチルはその翌日にも日本に宣戦布告した。日英が交戦状態となったことを知らせる駐英日本大使への通知はやけに丁重で、「閣下の忠実なる僕、ウィンストン・S・チャーチル」という署名で結んでいた。チャーチルによればこれから殺す相手にはできるだけ丁重にした方がいいのだという<ref name="ペイン(1993)274">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.274</ref>。また、日本に付き合う義務はないのになぜかドイツもアメリカに宣戦布告した。これもチャーチルにとっては願ってもないことだった<ref name="山上(1960)191">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.191</ref><ref name="ペイン(1993)281">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.281</ref>。
 
回顧録の中でチャーチルはこの時に勝利を確信したと主張している。「ついにアメリカがその死に至るまで戦争に突入したのだ。これで我々は戦争に勝った。イギリスと大英帝国は滅亡を免れたのだ。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本人にいたっては粉微塵に粉砕されるだろう」と書いている<ref name="山上(1960)191">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.191</ref>。
 
1941年末に訪米したチャーチルは、アメリカ議会で「一体日本人は我々をどういう国民だと思っているのか」と反日演説を展開した<ref name="河合(1998)288">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.288</ref>。
 
なお日本との開戦により、数年前から日本と交戦状態にある[[中華民国]]総統[[蒋介石]]の政府とも連携関係に入ったが、チャーチルは蒋介石に「ドイツとの戦線が最優先であり、日本との戦線は二義的意味しかない」と通達している<ref name="ペイン(1993)289">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.289</ref>。蒋介石政府はすでにアメリカから大量の支援を受けていたにも関わらず、その多くを自らの私財として貯め込むような腐敗政権であり、このような政府を支援してもまともな戦いは期待できなかった。同盟国というよりもお荷物に近い存在だった<ref name="ペイン(1993)289">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.289</ref>。
 
===== アジア戦線 =====
[[File:BritishSurrender.jpg|230px|thumb|1942年2月15日、シンガポール。[[山下奉文]]中将と降伏交渉を行う[[アーサー・パーシバル|パーシバル]]中将]]
チャーチルの予想に反し、アジア戦線でもイギリスは惨敗続きだった。イギリスが[[阿片戦争]]で獲得した英領香港はわずか17日間で日本の手に落ちた<ref name="モリス(2010)下238">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.238</ref>。
 
さらに英領[[シンガポール]]沖ではイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと[[レパルス (巡洋戦艦)|巡洋戦艦レパルス]]が[[日本軍]]の爆撃機によって沈められた。1942年1月終わりからシンガポールは日本軍に包囲されたが、チャーチルは同市のイギリス軍に死守命令を下し、降伏を許さなかった<ref name="モリス(2010)下244">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.244</ref><ref name="ペイン(1993)278">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.278</ref>。また「アジア人に対するイギリスの威信が弱まる恐れがある」として「包囲」という言葉の使用を禁じた<ref name="モリス(2010)下244"/>。だが結局、現地司令官[[アーサー・パーシバル]]中将は独断で包囲軍司令官[[山下奉文]]中将に降伏を申し出、シンガポールは陥落、英軍12万人から13万人が捕虜となった<ref name="モリス(2010)下247">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.247</ref><ref name="ペイン(1993)278">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.278</ref>。
 
シンガポールはイギリスがほぼゼロから作り上げ、世界第四位の港にまで育て上げた大英帝国繁栄の象徴であっただけに、それが陥落した衝撃は大きかった<ref name="モリス(2010)下237">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.237</ref>。チャーチルもシンガポール陥落を聞いてショックのあまり、寝込んでしまったという<ref name="山上(1960)192">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.192</ref>。また「日本の勢いを侮り過ぎていた」と舌を巻いたという<ref name="河合(1998)288">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.288</ref>。
 
日本軍は更に英領インドに隣接する英領[[ビルマ]]にも進軍を開始した。こうした中でインドの{{仮リンク|全インド会議派委員会|en|All India Congress Committee}}は独立のチャンスが来たと見て1942年8月より反英闘争「{{仮リンク|インドから出て行け運動|en|Quit India Movement}}」を開始した。これに対してイギリス当局は徹底的な弾圧をもって臨んだ<ref name="モリス(2010)下237">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.237</ref><ref name="浜渦(1999)185">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.185</ref><ref name="坂井(1988)186-187">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.186-187</ref>。ガンジーや[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]、全インド会議派委員会幹部が次々と逮捕・投獄されていった<ref name="浜渦(1999)185">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.185</ref><ref name="坂井(1988)187">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.187</ref>。
 
この直後、またしてもアメリカから「インドに大西洋憲章を適用せよ」との横やりが入ったが、チャーチルは拒絶した<ref name="坂井(1988)188">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.188</ref>。この後もアメリカはしつこくイギリスのインド支配破壊を画策し続け、我慢の限界に達したインド総督{{仮リンク|ヴィクター・ホープ (第2代リンリスゴー侯爵)|label=リンリスゴー侯爵|en|Victor Hope, 2nd Marquess of Linlithgow}}は、1943年に本国インド担当省に対して「善意の干渉家がアメリカから流出してくるのを防いでほしい」と要請している<ref name="モリス(2010)下262">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.262</ref>。
 
一方アジア太平洋の戦局の方はますますアメリカの[[ダグラス・マッカーサー]]大将の独壇場と化しており、イギリスの出る幕はなくなっていった<ref name="ペイン(1993)279">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.279</ref>。この状況についてイギリスの外交文書も「マッカーサー将軍の一人遊び」「マッカーサー将軍の独裁」という表現をよく使用するようになる<ref name="河合(1998)332">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.332</ref>。
 
===== イタリア半島に上陸 =====
北アフリカ戦線に勝利した米英軍は、イタリア侵攻が可能となった。1943年7月に[[シチリア]]へ上陸作戦を決行して成功<ref name="山上(1960)200">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.200</ref>。連合国の激しい空襲でイタリア人の戦意は衰え、ストライキや暴動が多発し、ムッソリーニは失脚。後任の首相[[ピエトロ・バドリオ]]は9月にも連合国と講和し、イタリアは戦争から脱落した<ref name="山上(1960)200">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.200</ref>。
 
ムッソリーニを尊敬していたチャーチルは、回顧録の中で「この独裁者には共産主義からイタリアを守った功績がある。だが彼の失敗は1940年6月にヒトラーの勝利に惑わされてイギリスに宣戦布告してきたことだ。この時に彼は誤った道に進んでしまった。もしあの時に中立を保っていれば、この戦争を利用して更なる繁栄に至ったであろうに。」と惜しんでいる<ref name="山上(1960)201">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.201</ref>。
 
この後イタリアはドイツ軍によって占領されたため、結局戦場になった。米英軍は1943年[[9月9日]]に[[ナポリ]]の南方[[サレルノ]]への上陸に成功したが、[[アルベルト・ケッセルリンク]]元帥率いるドイツ軍の勇戦で米英軍は散々に蹴散らされてほとんど侵攻できなかった<ref name="ペイン(1993)307">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.307</ref>。
 
最終的にはノルマンディー上陸作戦に呼応した1944年5月の攻勢でようやくドイツ軍を押し込むことに成功し、1944年6月4日に[[ローマ]]を陥落させた<ref name="山上(1960)202">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.202</ref>。
 
===== カイロ会談とテヘラン会談 =====
[[File:American and Allied leaders at international conferences - NARA - 292624.tif|230px|thumb|[[カイロ会談]]の際の蒋介石、ルーズベルト、チャーチル。米英中の軍人たち]]
1943年11月、エジプト・カイロでルーズベルト、蒋介石と会談を行い、対日問題を協議した([[カイロ会談]])<ref name="山上(1960)201">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.201</ref><ref name="河合(1998)293">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.293</ref>。
 
ルーズベルトは蒋介石と仲が良く、以前から香港を日本から奪還したらイギリスではなく蒋介石に渡そうと目論んでいた(香港奪還後イギリス軍がただちに香港総督府にイギリス国旗を立てて植民地統治を再開したのでこの企みは阻止できた)<ref name="モリス(2010)下262-263">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.262-263</ref>。さらに戦後には中国を[[四人の警察官構想|第四の大国]]にしようなどという構想さえ思い描いていた<ref name="ペイン(1993)310">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.310</ref>。チャーチルは中国など全く興味がなかったし、蒋介石とも話はしたが、何の感銘も受けなかった。こんな国を第四の大国にしようなどというアメリカの考えには到底賛成できなかった<ref name="ペイン(1993)310"/>。
 
続けて、11月から12月にかけて英ソ占領下のイラン・[[テヘラン]]でルーズベルトとスターリン、チャーチルのいわゆる「三巨頭」うちそろっての初めての会談を行った([[テヘラン会談]])。ちょうどこの会議中にチャーチルは69歳の誕生日を迎えたため、3人は[[バースデーケーキ]]の前で会談した<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.201-202</ref>。この会議で翌年5月にも米英軍が北フランスと南フランスに上陸作戦を決行することと、それに呼応してソ連軍が攻勢に出ることが約束された<ref name="山上(1960)202">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.202</ref><ref name="河合(1998)292">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.292</ref>。またチャーチルは地中海のイギリスの覇権を確保しようと[[エーゲ海]]方面での作戦を提案したが、ルーズベルトにより阻止された<ref name="河合(1998)292"/>。
 
会議ではスターリンの高圧的な態度が目に付いた<ref name="ペイン(1993)312">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.312</ref>。だがルーズベルトは「スターリンはチャーチルと違い帝国主義者ではない」と思っており、スターリンに好感を持っていた<ref name="河合(1998)293">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.293</ref>。何百万人も殺戮してきたスターリン、そんなスターリンに好感を抱くルーズベルトとは感覚が違い過ぎることを痛感させられる場面もあった{{#tag:ref|戦後のドイツ軍将校たちの処分について三巨頭の間でこのような会話があったという<ref name="ペイン(1993)313">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.313</ref>。
*スターリン「5万人は銃殺すべきだな。特に参謀将校は全員銃殺だ。」
*チャーチル「そんな大量処刑は英国議会も国民も黙ってはいない。そんな非道を許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出されて銃殺された方がマシだ。」
*ルーズベルト「では、こう言う中間策でいこうではないか。4万9000人を銃殺だ」|group=注釈}}。
 
===== ノルマンディー上陸作戦と共産化阻止 =====
[[File:The British Army in North-west Europe 1944-45 BU2637.jpg|230px|thumb|ドイツへ侵攻するイギリス軍部隊を視察するチャーチルとモントゴメリー。]]
1944年6月6日には[[ドワイト・アイゼンハワー]]元帥率いる米英軍が[[ノルマンディー上陸作戦]]に成功し、ドイツにとっての西部戦線が形成された。これに呼応してイタリア半島戦線の米英軍や東部戦線の赤軍も攻勢を開始した。ドイツは1943年から本格化した米英軍の空襲に苦しめられて戦闘力を失っており、このような一斉攻勢を抑える力はもはやなかった。8月24日にはパリが陥落、1944年末までにはフランス全土からドイツ軍は駆逐された。11月11日にチャーチルはパリを訪問し、臨時政府大統領となったド・ゴールとともに無名戦士の墓に花をささげた<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.202-203</ref>。
 
一方チャーチルの懸念はもはやドイツではなく、戦後のソ連の脅威であった。ゲリラが多いバルカン半島は戦後共産化してソ連に呑み込まれる可能性が高かった。チャーチルは、これを阻止すべく1944年8月にもユーゴスラビアの[[チトー]]と会見し、ユーゴを共産化しないとの言質を得ている<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.204-205</ref>。10月にはモスクワを訪問し、スターリンとの間にバルカン半島諸国の英米ソの勢力割合を話し合った<ref name="山上(1960)205">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.205</ref><ref name="河合(1998)295">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.295</ref>。
 
同じ月にイギリス軍はギリシャへ上陸して同国を占領したが、12月には共産主義勢力ギリシャ人民解放軍が反乱を起こす。チャーチルはこれを徹底的に鎮圧させた。これには「イギリス人はドイツと戦ってきたギリシャの愛国者たちをアメリカの武器で殺している」としてアメリカやイギリス国内から批判が起こったが、この時のチャーチルの断固たる処置のおかげでバルカン半島の中でギリシャだけは共産化を免れた<ref name="山上(1960)206">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.206</ref>。
 
チャーチルは回顧録の中で「ナチズムとファシズム亡き今、文明が直面しなければならない危険は共産主義であることを私は見抜いていた」と書いている<ref name="山上(1960)206">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.206</ref>。
{{-}}
===== ヤルタ会談 =====
[[ファイル:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|230px|thumb|ヤルタ会談の三巨頭。左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。]]
{{main|ヤルタ会談}}
1945年2月、ソ連領[[クリミア半島]]の[[ヤルタ]]でスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三巨頭による[[ヤルタ会談]]が行われた。ドイツを無条件降伏させ、その後、英米ソ仏で分割占領することがこの会談で取り決められた。当初、ルーズベルトとスターリンは英米ソの三国だけで分割占領するつもりだったが、チャーチルの説得でフランスも入れられることになった<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.206-207</ref>。この会談で日本と中立条約を結ぶソ連が対日参戦する密約も結ばれた<ref name="山上(1960)208">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.208</ref>。
 
この会談で一番揉めたのはポーランド問題だったが、これは結局ソ連優位で妥協する形となり、ソ連が送る「民主的指導者」がポーランドを統治することが取り決められた<ref name="河合(1998)296">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.296</ref>。チャーチルは回顧録の中で「これが米英ソの同盟関係を破綻に導く最初の大きな原因となった」と書いている<ref name="山上(1960)207">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.207</ref>。
 
また[[国際連合]]に関する構想もヤルタ会談で本格的に具体化された。大国の[[拒否権]]制度もこの時に決まった。チャーチルも「我が国の帝国主義的利益を守るためには必要不可欠」として拒否権制度に賛成した<ref name="山上(1960)207">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.207</ref>。ちなみに国際連合はヤルタ会談で開催が決められた1945年5月のアメリカ・サンフランシスコでの[[サンフランシスコ会議|連合国会議]]において正式に創設されている<ref name="山上(1960)207">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.207</ref>。
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===== 形だけの「勝利」を得て =====
[[File:Churchill waves to crowds.jpg|230px|thumb|1945年5月8日、保健省のバルコニーから群衆に演説するチャーチル。]]
1945年春に米英軍と赤軍は東西からドイツ領へ侵攻を開始し、1945年4月28日にヒトラーは包囲されたベルリンで自殺に追い込まれた。ヒトラーの遺書の指名でドイツ大統領となった[[カール・デーニッツ]]提督は5月8日に無条件降伏し、ヨーロッパ戦争は終結した<ref name="山上(1960)211">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.211</ref>。
 
1918年の時のようにビックベンが鳴り、人々は街に繰り出してお祭り騒ぎとなった。庶民院議員たちはみんなで[[ウェストミンスター寺院]]に参拝し、神に感謝を捧げた<ref name="河合(1998)298">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.298</ref>。チャーチルは{{仮リンク|保健大臣 (イギリス)|label=保健省|en|Secretary of State for Health}}のバルコニーから群衆に「これは諸君の勝利である」と宣言し、皆で愛国歌「[[ルール・ブリタニア|ブリタニアよ、支配せよ]]」を熱唱した<ref name="山上(1960)211">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.211</ref>。
 
戦前の大英帝国は全て戻り、新たに北アフリカ全域、[[レヴァント]]地方、イランがイギリス軍の占領下に置かれていた。地中海の支配権も戦前以上に強力にイギリスが握っていた。さらにイギリス軍はドイツとイタリアとオーストリアを分割占領していた。チャーチルはそれをもって大英帝国衰退論を否定し、「大英帝国はそのロマンティックな歴史上、いつの時代よりも強力になっている」と宣言した<ref>[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.255-256</ref>。
 
しかしそれは幻想だった。もはやイギリスに大英帝国を維持する力はなくなっており、この後わずか数年の間に帝国のほとんどの地域に独立され、イギリスは一介の島国に没落する運命にある。ちなみにヒトラーも自殺の少し前に「大英帝国はすでに滅びる運命にある」と予言し、チャーチルを「帝国の墓掘り人」と呼んで批判していた<ref name="モリス(2010)下259">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.259</ref>{{#tag:ref|ヒトラーによればチャーチルがフランス戦後すぐにドイツとの講和に応じていれば、大英帝国は引き続き繁栄を謳歌していただろうという。そして「こんな大酒のみのユダヤ化した半アメリカ人(チャーチル)ではなく、[[小ピット]]のような人物がイギリスを差配するべきだった」と結論している<ref name="河合(1998)298">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.298</ref>。|group=注釈}}。
 
さらにイギリスの海外投資は戦前の四分の一に激減し(ケインズの試算によると米国の損失の35倍とされる)、イギリスの産業・貿易は衰退、国民生活は困窮した。アメリカの「武器貸与法」のせいで80億ポンドの負債を抱えることになったうえ、イギリスの工業産業は事実上兵器産業だけになってしまい、もはや世界の覇権国の地位をアメリカに奪われるのを防ぐ手段はなかった<ref name="山上(1960)222">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.222</ref><ref name="モリス(2010)下264">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.264</ref>。
 
勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、チャーチル自身も大戦中から自国の没落を肌で感じ取っていた。テヘラン会談の際に「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らしている<ref name="河合(1998)299">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.299</ref>。
 
自国の没落に加えてチャーチルが不安だったのは、スターリンの台頭であった。1945年4月、スターリンと仲よしのルーズベルトの死でアメリカ政府もようやく共産主義を危険視するようになったものの、すでに手遅れな感があり、東ヨーロッパの大半はスターリンの支配下に堕ちていた。チャーチルは回顧録の中で「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と書いている<ref name="山上(1960)214">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.214</ref>。
 
===== 解散総選挙に惨敗、退陣 =====
[[File:ChurchillTrumanYStalinEnLaConferenciaDePostdam23071945--BU 009195.jpg|230px|thumb|ポツダム会談の際のチャーチル、アメリカ大統領[[ハリー・トルーマン|トルーマン]]、スターリン。チャーチルは選挙戦中、この会議に出席したが、開票が近付くと帰国し、選挙に惨敗して再び出席することはなかった。]]
1935年以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた<ref name="山上(1960)215">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.215</ref>。労働党も1944年の党大会で戦争終結後の総選挙では、挙国一致内閣を解消して野党として戦うことを決定していた<ref name="コール(1957)347">[[#コール(1957)|コール(1957)]] p.347</ref>。
 
ドイツが降伏したことで労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否した<ref name="コール(1957)348">[[#コール(1957)|コール(1957)]] p.348</ref><ref name="村岡(1991)331">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.331</ref>。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった<ref name="コール(1957)348">[[#コール(1957)|コール(1957)]] p.348</ref>。チャーチルは6月15日にも庶民院を解散し、7月5日に[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]が行われた<ref name="山上(1960)215">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.215</ref>。
 
労働党は「未来に目を向けよう」をスローガンに社会保障政策やイングランド銀行、燃料・動力産業、鉄鋼業の国有化など社会改良主義政策を主張した。対するチャーチル率いる保守党も社会保障政策を公約に掲げていたが、その訴えはチャーチルの戦功を誇示し、また労働党と社会主義政策を批判することを中心としていた<ref name="村岡(1991)331-332">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.331-332</ref>。
 
チャーチルはラジオ演説で労働党やアトリーが主張する政策は「社会主義である」として批判し、「社会主義は全体主義や卑屈な国家崇拝と不可分の存在」「教条主義的社会主義者は自由な議会を敵視する」「社会主義のたどり着く先は[[ゲシュタポ]]の弾圧政治」と国民に訴えたが、つい先日まで彼の内閣の閣僚だったアトリーをゲシュタポ扱いする罵倒は評判が悪かった<ref name="ブレイク(1979)293-294">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.293-294</ref><ref name="河合(1998)302-303">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.302-303</ref><ref name="山上(1960)215-216">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.215-216</ref>。
 
またチャーチルは、保守党、労働党のどちらが政権を握ってもイギリスの外交上の一貫性が保たれるよう、ソ連占領下ドイツ・[[ポツダム]]で開催予定の米英ソ三国首脳による[[ポツダム会談]]にアトリーも連れていこうと考えていたが、これに対して労働党全国執行委員会委員長[[ハロルド・ラスキ]]は強く反対し、アトリーに行かないよう指示を出した<ref name="河合(1998)302">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.302</ref><ref name="関嘉彦(1969)232">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.232</ref>。アトリーは議会内労働党の党首だが、労働党の党規約では全国執行委員会が党内での地位が最も高く、議会内労働党もその指示に従わねばならなかった<ref name="河合(1998)302"/>。
 
チャーチル率いる保守党はこれを労働党の「党指導部絶対」「議会政治軽視」の体質と批判した<ref name="河合(1998)302">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.302</ref>。これは的はずれな批判というわけではなかったが、保守党はまたしても「ナチス総統ラスキ」などというどぎつい表現を使って批判運動を行ったため、逆に保守党の方が批判を招く結果となった<ref name="ブレイク(1979)295">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.295</ref>。
 
総選挙の結果は労働党394議席、保守党213議席、自由党12議席という労働党の大勝に終わった<ref name="村岡(1991)332">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.332</ref>。
 
この選挙結果については様々な説があるが、前述の個人攻撃への不評より、慢性的な保守党の人気の凋落が原因と考えられる<ref name="ブレイク(1979)295">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.295</ref>。[[ギャラップ]]の世論調査によれば、チャーチルの人気は高かったものの、労働党は1942年以降順調に支持率を上げており、それに勝てなかっただけということのようである<ref name="河合(1998)304">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.304</ref>。また労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していない<ref name="関嘉彦(1969)232">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.232</ref>。
 
ともかくこの議席差ではチャーチルは退任せざるを得ず、7月26日に国王ジョージ6世に辞表を提出した。国王からの慣例の次期首相の下問に対してアトリーを推挙した<ref name="関嘉彦(1969)233">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.233</ref>。またこの際に国王からガーター勲章を授与するとの叡慮があったが、「選挙に敗れた首相が、どうして陛下からガーター勲章を頂けますでしょうか」と述べ、拝辞した<ref name="山上(1960)230">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.230</ref>。
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==== 野党党首として ====
下野したチャーチルは70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった<ref name="河合(1998)305">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.305</ref>。
 
またこの時期に『{{仮リンク|第二次世界大戦 (ブック・シリーズ)|label=第二次世界大戦|en|The Second World War (book series)}}』を全6巻で著し、1948年から1年ごとに1巻ずつ出版されていった<ref name="河合(1998)305"/>。チャーチルの口述方式で著され、チャーチルの自画自賛が目立つが、陸海軍将官や歴史学者などを総動員した大著となった。この本はベストセラーとなり、チャーチルに莫大な富をもたらし、首相在任中の1953年には[[ノーベル文学賞]]の受賞にも至っている<ref name="山上(1960)235">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.235</ref>{{#tag:ref|しかしチャーチルは[[ノーベル平和賞]]を欲しがっていたので、文学賞の受賞には失望したという<ref name="山上(1960)235"/>。|group=注釈}}。
 
===== 反共闘争 =====
[[File:Photograph of President Truman waving his hat and Winston Churchill flashing his famous "V for Victory" sign from the... - NARA - 199350.jpg|230px|thumb|1946年3月、アメリカ・ミズーリ州へ向かう列車の中でVサインをするチャーチル。トルーマン大統領とともに]]
労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった<ref name="山上(1960)222">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.222</ref>。これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判した<ref name="山上(1960)223">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.223</ref><ref name="河合(1998)306">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.306</ref>。
 
老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは1946年3月にアメリカ・[[ミズーリ州]][[フルトン]]で「[[鉄のカーテン]]」演説を行った。
 
{{Quotation|[[バルト海]]の[[シュチェチン|シュテッティン]]から[[アドリア海]]の[[トリエステ]]まで、[[ヨーロッパ大陸]]を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中欧及び東欧の歴史ある首都は、全てその向こうにある。(略)これらの東欧諸国では弱小勢力であった共産党が、いまや優越して、その数にふさわしからぬ権力につき、いたるところで全体主義体制を敷いている。警察政府が君臨し、チェコスロバキアを除いては民主主義などどこにも存在しない<ref name="山上(1960)225">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.225</ref><ref name="河合(1998)307">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.307</ref>}}
 
さらにこれに対抗する「英語諸国民の兄弟としての団結」を訴えた。これ以降、スターリンはいよいよチャーチルを「戦争屋」「反ソ戦争挑発者」「ヒトラーのドイツ民族優越論に匹敵する英語圏国民優越論者」などと批判するようになった<ref name="山上(1960)225">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.225</ref>。
 
一方ルーズベルト時代の親ソ方針を全面破棄する事を決意していたアメリカ大統領トルーマンもチャーチルのフルトン演説にこたえて、1947年3月に[[トルーマン・ドクトリン]]を発表し、ソ連[[封じ込め]]の反共政策をアメリカの公式政策に決定した<ref name="山上(1960)226">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.226</ref><ref name="山上(1960)355">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.355</ref>。イギリス労働党政権は初めこうしたアメリカやチャーチルの反共姿勢に反対し、イギリスをアメリカとソ連の中間に立つ「第三勢力」にしようと考えていたが、二次大戦で消耗したイギリスは、[[マーシャル・プラン]]に参加してアメリカの援助を受けなければならない弱い立場だったため、最終的には労働党政権もアメリカに従って行動する路線を選択することになった<ref name="山上(1960)227">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.227</ref>。
 
チャーチルは共産主義に対抗するため、西側ヨーロッパ諸国を一つにまとめる必要性を痛感し、1945年11月から[[ヨーロッパ合衆国]]構想を盛んに主張するようになった。1946年夏、いまだ[[ヘルマン・ゲーリング]]らドイツ人戦犯に対する[[ニュルンベルク裁判]]が行われていたこの時期にドイツもこのヨーロッパ合衆国の中に加えるべきと提案して人々を驚かせた<ref name="河合(1998)308">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.308</ref>。この構想は1948年3月の[[西欧同盟]]、1949年5月の[[欧州評議会]]などで結実を見た<ref name="山上(1960)226">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.226</ref>。アメリカも1949年4月にはヨーロッパ反共体制の[[北大西洋条約機構]](NATO)を発足させている<ref name="村岡(1991)357">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.357</ref>
 
一方共産主義陣営も攻勢を強めていた。1948年2月には東欧で唯一西側に開かれていたチェコスロバキアでクーデタが発生し、同国が共産化された([[チェコスロバキア社会主義共和国]])<ref name="山上(1960)227">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.227</ref>。同年8月にはソ連が[[ベルリン封鎖]]を強行した<ref name="村岡(1991)356">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.356</ref>。1949年9月にはソ連の原爆保有が判明し、[[西側諸国]]に衝撃を与えた。同年10月には中国の[[国共内戦]]が[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]軍の勝利に終わり、総統蒋介石らは[[台湾]]へ追われ、中国が共産化した([[中華人民共和国]])<ref name="山上(1960)227"/>。
 
そしてついに[[1950年]]6月、[[北朝鮮]]が[[韓国]]に侵攻し、[[朝鮮戦争]]が勃発した。イギリス労働党政権は「韓国が侵攻を退けるのに必要な支援を行う」とした[[国連決議]]に基づき、マッカーサー元帥の指揮下にイギリス軍を派遣した<ref name="関嘉彦(1969)298">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.298</ref>。もちろん保守党もこの出兵を支持した<ref name="村岡(1991)363">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.363</ref>。
{{-}}
===== 大英帝国の崩壊 =====
この頃のイギリスにとって、共産主義と並ぶもう一つの脅威は植民地民族運動の激化であった。労働党政権時代にインド、[[パキスタン]]、[[スリランカ]]、[[ヨルダン]]、[[イスラエル]]などが続々と独立し、長きにわたる大英帝国のアジア中近東支配に終止符が打たれた。同時期フランスも植民地民族運動に悩まされて[[フランス植民地帝国|植民地帝国]]崩壊の瀬戸際に立たされていた。しかしフランスが強引に植民地を維持しようとして[[第一次インドシナ戦争|インドシナ]]や[[アルジェリア戦争|アルジェリア]]で泥沼の内戦に陥っていったのに比べると、イギリス労働党政権は「引き際を心得ていた」と評価されている<ref name="山上(1960)228">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.228</ref>{{#tag:ref|ただし英仏から独立しても、東西冷戦によりアメリカとソ連が影響下に置こうと進出してくるのが一般的だった<ref name="山上(1960)228">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.228</ref>。|group=注釈}}。
 
だが帝国主義者チャーチルにはもちろんそんなことは認められなかった。「大英帝国はアメリカの借款と同様に急速に減少している。その急速さには慄然とさせられる。『逃亡』、これが唯一ふさわしい言葉だ」「労働党は我らの先人たちが200年の時を費やして行ってきたことの全てを、[[インド帝国]]とともに投げ捨てた。」と批判した<ref name="山上(1960)228">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.228</ref>。
 
===== 政権奪還 =====
[[1950年]]2月の[[1950年イギリス総選挙|解散総選挙]]があった。争点はほとんど国内問題に集中した。というのも労働党政権の積極的な反共外交は保守党としても文句のつけようがなかったからである。植民地放棄には不満もあったが、今さら植民地回復は不可能であり、保守党も代替案は出せなかった<ref name="ブレイク(1979)309">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.309</ref>。選挙戦で労働党は5年間に行った社会改良政策の実績を誇り、対する保守党は労働党政権は国民全員に耐乏生活を押し付けただけと批判した<ref name="関嘉彦(1969)305">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.305</ref>。
 
選挙の結果は労働党315議席、保守党298議席、自由党9議席をそれぞれ獲得し、労働党と保守党の議席差は17議席差にまで縮まった<ref name="河合(1998)309">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.309</ref><ref name="ブレイク(1979)309">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.309</ref><ref name="山上(1960)229">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.229</ref>。保守党は大幅に失地回復したものの、政権を獲得できず、失望感が広がった<ref name="ブレイク(1979)309">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.309</ref>。
 
だが、過半数をわずか8議席上回ったに過ぎない労働党の政権維持は困難になった。落ち目になったことで労働党内の党内紛争も激化していった<ref name="関嘉彦(1969)306">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.306</ref>。政権運営に行き詰ったアトリーは1951年10月にも庶民院を解散して[[1951年イギリス総選挙|解散総選挙]]に打って出た<ref name="関嘉彦(1969)307">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.307</ref>。
 
この頃、チャーチルが40年前に創設したアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニーがイラン政府によって国有化された。激怒したチャーチルはイラン政府を激しく批判したので、チャーチルは「戦争挑発屋」か否かというのがこの選挙の争点の一つとなった<ref name="河合(1998)310">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.310</ref>。選挙戦でチャーチルは、労働党政権の北アフリカ政策や中近東政策の愚策を批判し、「[[スーダン]]、[[アーバーダーン危機|アーバーダーン]]、{{仮リンク|アニュエリン・ベヴァン|label=ベヴァン|en|Aneurin Bevan}}」は三大惨事であると主張した<ref name="ブレイク(1979)311">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.311</ref>
 
選挙の結果、保守党が321議席、労働党が295議席を獲得し、保守党が政権を奪還した<ref name="君塚(1999)200">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.200</ref>。得票数の上では労働党の方が上回っていたが、小選挙区制度の賜物で保守党が勝利した<ref name="関嘉彦(1969)308">[[#関嘉彦(1969)|関嘉彦(1969)]] p.308</ref><ref name="村岡(1991)368">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.368</ref>。
 
==== 第2次チャーチル内閣 ====
[[File:Churchillcabinet1955.png|230px|thumb|1955年、チャーチルとチャーチル内閣の閣僚たち]]
こうして6年ぶりに首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康な状態とは言い難かった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.365-366</ref>。
 
1952年2月にジョージ6世が崩御し、エリザベス王女が[[エリザベス2世]]として女王に即位した<ref name="山上(1960)230">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.230</ref><ref name="河合(1998)366">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.366</ref>。1953年には女王より[[ガーター勲章]]を授与され、以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる<ref name="山上(1960)230">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.230</ref>。
 
政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鋼鉄産業を[[民営化]]したが、一方でそれ以外の労働党政権の社会改良政策は継承した<ref name="村岡(1991)367">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.367</ref>。{{仮リンク|住宅及び地方政府担当大臣 (イギリス)|label=住宅及び地方政府担当大臣|en|Ministry of Housing and Local Government}}[[ハロルド・マクミラン]]は住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した<ref name="村岡(1991)367">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.367</ref><ref name="河合(1998)310">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.310</ref>。
 
1953年3月のスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチルの共産主義国に対する融和的態度が見られるようになった<ref name="君塚(1999)201">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.201</ref>。彼が軟化したのは原爆の時代に世界大戦を起こしたらイギリスの生存が危ういと考えたためだった<ref name="山上(1960)231">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.231</ref>。東西は「[[雪解け]]」と呼ばれる緊張緩和の時代へ向かっていき、同年7月には朝鮮戦争が終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐる[[ジュネーヴ協定]]が締結されたが、イギリスはアメリカの軍事介入を抑えてこの協定締結を成功させる役割を果たした<ref name="山上(1960)231">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.231</ref>。
 
しかしその一方でチャーチルは反共政策も粛々と進めた。[[西ドイツ]]を反共の防波堤にするために同国の再軍備を促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器を慎重に蓄えるよう命令を出したが、これはソビエトが前進してきた場合、ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話を暴露し、国際的な反響を呼んだ<ref name="山上(1960)232">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.232</ref>。また原爆開発を推進し、1952年10月にはオーストラリア沖で[[核実験]]を行った([[ハリケーン作戦]])。米ソに次ぐ第3の核保有国としての存在感を世界に知らしめた<ref name="山上(1960)233">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.233</ref>。1954年にはアジア反共体制の[[東南アジア条約機構]](SEATO)に参加した<ref name="山上(1960)233"/>。
 
一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代の趨勢には抗えず、前政権に引き続いて、失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係が緊迫する中、エジプトを反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍をエジプトから撤兵させることになった<ref name="山上(1960)233">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.233</ref>。イランとは引き続き、石油国有化をめぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった<ref name="山上(1960)233"/>。1952年に[[ケニア]]で[[マウマウ団の乱]]が勃発すると、チャーチルは空軍をも出動させて反英ゲリラの鎮圧にあたった。だが懐柔のために様々な植民地支配の緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にはチャーチル退任後の1963年12月にケニアは独立した<ref name="岡倉(2001)199-202">[[#岡倉(2001)|岡倉(2001)]] p.199-202</ref>。
 
1954年11月30日に80歳を迎え、[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]に次ぐ高齢首相となった<ref name="君塚(1999)201">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.201</ref>。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議で昔話をとりとめもなく語すばかりになっていた<ref name="村岡(1991)370-371">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.370-371</ref>。多くの閣僚がチャーチルを引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランがチャーチルに引退を勧めた。チャーチルは素直にこれを了承し、1955年4月に首相職を辞した<ref name="村岡(1991)371">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.371</ref>。後任の首相・保守党党首になったのは外相[[アンソニー・イーデン|サー・アンソニー・イーデン]]だった<ref name="河合(1998)312">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.312</ref><ref name="君塚(1999)201"/>。
 
退任にあたってエリザベス2世は伯爵位を与えるとの叡慮を示したが、チャーチルは庶民院議員として政治家を続けることを希望し、これを拝辞した<ref name="村岡(1991)367">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.367</ref>。
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=== 退任後 ===
退任後、第二次大戦前から著していた『{{仮リンク|英語圏の人々の歴史|en|A History of the English-Speaking Peoples}}』を出版した。英米の連携強化を意識して「英語圏の国民の歴史上の地位と性格を探る」とした著作であり<ref name="山上(1960)236">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.236</ref>、[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の[[ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)|ブリタニア侵攻]]からチャーチルが第二次ボーア戦争に立つまでを描いた作品だった<ref name="河合(1998)313">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.313</ref>。
 
首相退任後も1955年の[[1955年イギリス総選挙|総選挙]]、1959年の[[1959年イギリス総選挙|総選挙]]で当選を果たして庶民院議員を務め続けたが、政界の表に立つことはなかった。1956年にイーデン首相が[[第二次中東戦争]]の失敗で退任した際に一部にチャーチル待望論も出たが、実現はしなかった<ref name="山上(1960)243">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.243</ref>
 
1963年に[[アメリカ連邦議会]]からアメリカ[[名誉市民]]の称号を送られた。[[ホワイトハウス]]での授与式には長男ランドルフが代わって出席し、チャーチルはメッセージだけ送った。そこには「私はイギリスがおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」と書かれていた。これに対してアメリカの元国務長官[[ディーン・アチソン]]から「イギリスは帝国を失い、新しい役割は見つけられていない」と嫌味を返された<ref name="河合(1998)312">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.312</ref>。
 
チャーチル自身も最晩年には「私は非常に多くのことをやってきたが、結局何も達成することはできなかった」と語るようになった。チャーチルの二度の世界大戦の「勝利」は帝国の崩壊と米ソの世界支配をもたらしただけだった。「大ブリテンは神から選ばれ、世界を導く義務を負っている」というチャーチルの信念はついに崩れ去ったのだった<ref name="ペイン(1993)381-382">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.381-382</ref>。
 
=== 死去 ===
[[File:Winston Churchill Grave.jpg|180px|thumb|チャーチルの墓。]]
晩年のチャーチルはひどく老衰し、言葉の意味もよく分からなくなっていた<ref name="ペイン(1993)382">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.382</ref>。また頻繁に涙を流すようになったという<ref name="山上(1960)244">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.244</ref>。
 
老いてもチャーチル人気は健在で、毎年チャーチルの誕生日の前夜にはチャーチルのハイド・パーク・ゲートの屋敷の周りに人々が集まってきた。チャーチルも屋敷の窓に立ち、集まってくれた人々に向けてVサインを送っていた。1964年11月29日にもチャーチルは元気な姿を群衆に披露したが、これが公衆に見せた彼の最期の姿となった<ref name="ペイン(1993)384-385">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.384-385</ref>。
 
クリスマスを過ぎた頃からチャーチルの様子がおかしくなり、1965年1月8日になると[[脳卒中]]を起こし、左半身がマヒした。持ち直すことはなく、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠した。最後の言葉はなかったという<ref name="ペイン(1993)384-385">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.384-385</ref>。奇遇にもこの1月24日は父ランドルフ卿の命日であった<ref name="ペイン(1993)386">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.386</ref>。
 
エリザベス2世女王の叡慮により、チャーチルの遺体を入れた棺は3日間{{仮リンク|ウェストミンスター・ホール|en|Westminster Hall}}に安置された。国民の参拝が許可され、30万人もの人々が参拝に訪れたという<ref name="ペイン(1993)387">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.387</ref>。
 
その後、チャーチルの棺は国葬で[[セント・ポール大聖堂]]まで送られた<ref name="河合(1998)313">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.313</ref><ref name="ペイン(1993)387">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.387</ref>。セント・ポール大聖堂での葬儀にはエリザベス2世女王も出席した。イギリスには君主は臣民の葬儀に出席しないという慣例があり、これはその慣例が初めて破られた事例であった<ref name="ブレイク(1993)872">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.872</ref><ref name="ペイン(1993)388">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.388</ref>。
 
葬儀後、チャーチルの遺体はブレナム宮殿の近くになる{{仮リンク|ブラドン|en|Bladon}}の{{仮リンク|セント・マーティン教会|en|St Martin's Church, Bladon}}の墓地に葬られた<ref name="河合(1998)313">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.313</ref>。ここはチャーチルの両親が葬られた墓地であり、チャーチルも両親の墓の近くで眠っている<ref name="ペイン(1993)388">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.388</ref>。
{{Gallery
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|File:Winston Churchill statue, Parliament Square SW1 - geograph.org.uk - 1318986.jpg|ロンドン・{{仮リンク|パーラメント・スクエア|en|Parliament Square}}のチャーチル像
|File:Statues of Winston Churchill in Paris 2.jpg|フランス・パリの[[プティ・パレ]]にあるチャーチル像
|File:Toronto - ON - Winston Churchill Statue.jpg|[[カナダ]]・[[トロント]]にあるチャーチル像
|File:London - Marylebone - Allies.jpg|ロンドン・[[ウェストミンスター]]・{{仮リンク|ボンド・ストリート|en|Bond Street}}にあるルーズベルトとチャーチルの像
}}
{{-}}
 
== 人物 ==
{{保守}}
=== 帝国主義 ===
チャーチルはロイド・ジョージと並ぶ急進派のリーダーとして知られていたが、1909年頃からロイド・ジョージともども[[自由帝国主義]]者となった<ref name="坂井(1988)83">[[#坂井(1988)|坂井(1988)]] p.83</ref>。チャーチルの帝国主義はある程度の柔軟性があったものの、基本的には絶頂期の[[ヴィクトリア朝]]大英帝国が未だ続いているかのような幻想の帝国像を思い描いていた<ref name="モリス(2010)下217-218">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.217-218</ref>。
 
チャーチルは1942年11月に「私は大英帝国を清算するために首相になったのではない」と宣言したことで知られる<ref name="モリス(2010)下217">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.217</ref><ref name="山上(1960)194">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.194</ref>。これはかねてから大英帝国の破壊を目論んでいたアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]をけん制した演説だった<ref name="山上(1960)194">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.194</ref>。ルーズベルトはしばしばチャーチルの帝国主義精神を批判し、面と向かって「貴方の血には400年の植民地獲得の本能が流れている」などと言ってきたこともある<ref name="山上(1960)194">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.194</ref>。一方チャーチルの方もルーズベルトに「貴方は大英帝国を無くそうとしているとしか思えない」と言い返したことがある<ref name="山上(1960)194">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.194</ref>。
 
チャーチルが[[ヒトラー]]や[[ムッソリーニ]]に対して抱いていた共感の一つに「優等文明は劣等文明を支配・指導する」という理論があった。チャーチルは常々インド人やインド文明を劣等視し、イギリスによって支配されることが必要不可欠と確信していた。インド人に選挙制度を与えるべきか否か聞かれた際にチャーチルは「彼らはあまり無知なので誰に投票したらいいか分かるはずもない。彼らは人口45万人の村で4、5人が集まって村の共通の問題を討論するような簡単な組織さえ作ることができない身分の卑しい原始的人種なのだ。」と答えている<ref name="ペイン(1993)209">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.209</ref>。
 
一次大戦時には植民地住民は白人、有色人を問わず、ほとんどが帝国に忠実だった。だが、二次大戦時には、カナダ、オーストラリアなど白人自治政府は帝国に忠実だったものの、有色人被支配民たちは、もはや忠実ではなくなっていた。この頃には有色人たちも情報を多く入手するようになっており、戦争の意味や帝国に支配され続ける意味に疑問を感じはじめていた。そして彼らの多くが枢軸国と連携することでイギリスの植民地支配に立ち向かったのである<ref name="モリス(2010)下228">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.228</ref>{{#tag:ref|イギリス委任統治領パレスチナのイスラム教最高指導者([[大ムフティー]])である[[アミーン・フサイニー]]はドイツへ逃れ、「[[ムスリム解放軍]]」を組織してイギリスに反旗を翻した。英領ビルマの民族主義者[[アウンサン]]も日本へ逃れて「[[ビルマ防衛軍]]」を組織した。インドの[[チャンドラ・ボース]]もドイツで「{{仮リンク|自由インド部隊|de|Legion Freies Indien}}」、日本で「[[インド国民軍]]」を組織し、イギリスと戦った<ref name="モリス(2010)下228">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.228</ref>。|group=注釈}}。
 
1942年のシンガポール陥落は、アジアにおけるイギリスの威信を決定的に崩壊させた。勇気を得たインド人たちは、同年から反英闘争「インドから出て行け」運動を開始した。これに対してチャーチルは徹底的弾圧をもって臨み、ガンジーやネルー、ヒンズー教指導者など1万人以上の者を投獄した。だが、それもむなしく大戦が終わるまでにイギリスの植民地支配体制は根底から揺さぶられた。枢軸国と協力した[[チャンドラ・ボース]]やインド国民軍の兵士たちが殉教者としてインド国民の間で英雄視されていくことにイギリス人たちは落胆した<ref name="モリス(2010)下282-284">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.282-284</ref>。
 
チャーチルが恐れていた通り、戦後の労働党政権がインドの民族主義者たちに譲歩の姿勢を見せた時、後は全てが時間の問題となり、一気にインド独立まで突き進んでいった。イギリスがインドを放棄した時、他のアジア植民地もなし崩し的に独立していった<ref name="モリス(2010)下284">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.284</ref>。波及はアジアに留まらなかった。二次大戦中、イギリス軍はアフリカ植民地の黒人住民たちを駆りだしてドイツ軍や日本軍と戦わせていた。この戦いを通じて黒人兵たちは絶対的支配者だと思っていたイギリス人が無敵の存在でもなんでもないことを知った。彼らは復員した後、多くが職を見つけられなかったこともあって二次大戦での見聞を生かしてイギリス植民地支配との戦いの主力となり、ついにアフリカ各国の独立を実現した<ref name="岡倉(2001)186">[[#岡倉(2001)|岡倉(2001)]] p.186</ref>。
 
戦後のアジアとアフリカの独立の嵐が過ぎ去ったあと、イギリスに残されたものは[[イギリス連邦]]という加盟国を縛る規則が何もなく、女王を戴くか否かまでもが自由という奇妙な連邦だけだった<ref name="モリス(2010)下284">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.314-322</ref>。
 
=== 反共主義 ===
一次大戦前の自由党政権時代、チャーチルはロイド・ジョージとともに急進派閣僚として多くの社会改良政策に取り組んだが、一次大戦後に2人の道は隔てられた。ロイド・ジョージは生涯社会改良政策に情熱を捧げたが、チャーチルの方は「アカの恐怖」に捕らわれていったからである<ref name="高橋(1985)166">[[#高橋(1985)|高橋(1985)]] p.166</ref>。
 
一次大戦後の列強諸国による反ソ干渉戦争の最大の推進力はチャーチルであった。ロイド・ジョージは後年、チャーチルについて「彼は共産主義を心から憎悪していた。彼の公爵家の血が、ロシア大公皆殺しに強い怒りを感じさせたのだ。ロシア革命を病的に嫌悪する余り、帝政が凋落した原因を冷静に分析することができなかった」と評している<ref name="河合(1998)186">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.186</ref><ref name="山上(1960)97">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.97</ref>。
 
チャーチルの反共はその後、死ぬまでずっと続いた。彼の反共演説を上げれば切りがない。「ボルシェヴィズムはその誕生の時にくびり殺しておけば、人類にとって計り知れない幸福があったであろう」「共産主義者と議論をしても無駄だ。共産主義者を改宗させたり、説得しようとするのも無駄だ。もっと容赦なく実力を行使し、何が起ころうとも道徳的配慮などしないということをソ連政府に理解させることが唯一の平和への道だ。」「アメリカの原爆のみがソ連の軍事侵攻を抑えているのだ。」<ref name="山上(1960)231">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.231</ref>。
 
一方でチャーチルは共産主義者であっても[[レーニン]]だけは(忌み嫌いつつ)ある種の畏敬の念を抱くことがあった。レーニンについて「彼の慈愛は[[北極海]]のように冷たく広い。彼の憎悪は[[絞首刑]]執行人の首なわより固い。」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった。」「ロシア人の最大の不幸はレーニンが生まれてきたことだが、その次の不幸は彼が死んだことだ」と評している<ref name="ペイン(1993)181-182">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.181-182</ref>。
 
=== 議会主義 ===
ずっと議会政治の中で生きてきたチャーチルは基本的に[[議会主義]]者である。だが、1930年前後に世界各国で議会政治が終焉ないし後退していく中、チャーチルも議会主義はもう終わった思想であり、独裁政治にこそ未来があると考えた時期があった。1930年に出版された{{仮リンク|オットー・フォルスト・デ・バタグリア|de|Otto Forst de Battaglia}}著『試される独裁政治』の英語翻訳本でチャーチルは「イタリアのムッソリーニ、トルコのケマル、ポーランドの[[ユゼフ・ピウスツキ|ピウスツキ]]など権威ある国家指導者たちが、弱体にして非効率的、しかも民意を反映していない議会政治に取って代わる日は近い」という前書きを寄せている<ref name="ルカーチ(1995)81">[[#ルカーチ(1995)|ルカーチ(1995)]] p.25/81</ref>。
 
しかし1935年頃からヒトラーとの対決姿勢を強めていくにつれて再び議会主義を旗印とするようになった。ヤルタ会談の際、チャーチルはスターリンとルーズベルトに対して「ここにいる3人の中でいつでも選挙で国民から放り出される危険があるのは私だけだ。だがその危険があることを私は誇りに思っている」と述べたという<ref name="山上(1960)219">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.219</ref>。ただし戦時中にはチャーチルもほぼ独裁者であった<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.240/279</ref>。
 
1945年の総選挙において、議会外組織が議員を含めた党全体を指導するという労働党を「議会政治軽視」としてナチ党になぞらえて批判したことは前述したとおりである。
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=== 生活習慣 ===
葉巻をよく噛んでいたが、噛んでいるだけの時も多く、実際に吸った量はそれほど多くはなかったという<ref name="山上(1960)237">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.237</ref>。酒豪であるが、晩餐会などの席上では酒も飲んでいるふりをしているだけの時が多く、酔い潰れないよう注意を払っていた<ref name="山上(1960)238">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.238</ref>。
 
ヒトラーと同様、深夜型の生活を送っていた。通常は朝10時から活動を開始し、深夜2時に就寝していた。朝の眩しさから逃れるため、寝る時はいつも黒い目隠しをして寝ていた。また昼食後には2時間昼寝する習慣があった<ref>[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.237-239</ref>
 
[[猫背]]なうえに太っていた。猫背は小さい頃から、肥満は30代半ば頃からである。ダイエットのつもりで早足で歩く癖があった<ref name="河合(1998)140">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.140</ref>。
 
=== 嗜好 ===
チャーチルは一次大戦中にランカスター公領担当大臣に左遷された際に暇な時間がたくさんでき、それ以降、[[絵画]]を描くことを趣味とするようになった<ref name="河合(1998)163">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.163</ref><ref name="ペイン(1993)163">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.163</ref><ref name="山上(1960)76">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.76</ref>。戦争中にも、どこに行くにしても絵の道具一式を持参するほどの絵描き好きだった<ref name="山上(1960)236">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.236</ref>。
 
[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]から「なぜ風景画しか書かないのです」と聞かれた際にチャーチルは「風景ならモデルに似せる必要がないからです」と答えたという<ref name="山上(1960)236">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.236</ref>。絵のレベルはなかなか高かったらしく、政治思想からチャーチルにあまり好感を持っていない[[パブロ・ピカソ]]が「チャーチルは画家を職業にしても、十分食っていかれただろう」と評価している<ref name="山上(1960)237">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.237</ref>。
 
大変な読書家でもあり、大きな蔵書を残した。チャーチルは「本を全部読むことができぬなら、どこでもいいから目にとまったところだけでも読め。また本は本棚に戻し、どこに入れたか覚えておけ。本の内容を知らずとも、その場所だけは覚えておくよう心掛けろ」という言葉を残している<ref name="山上(1960)240">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.240</ref>。
 
映画では[[ホレーショ・ネルソン|ネルソン]]提督の悲恋を主題とした『[[美女ありき]]』(原題:That Hamilton Woman, Lady Hamilton)を愛した<ref name="山上(1960)181">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.181</ref>。
 
鼻歌を歌うのが好きだったが、[[口笛]]は嫌い、人がやっているのを聞くとすぐに止めにかかったという<ref name="山上(1960)181">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.181</ref>。
 
チャーチルは動物好きであり、[[犬]]、[[ネコ]]、[[キツネ]]、[[白鳥]]、[[金魚]]などを飼っていた。ペットたちのことで困るとすぐに[[ロンドン動物園]]に電話してどうしたらいいか尋ねたという<ref name="山上(1960)240">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.240</ref>。また競馬用としてではあるが、[[馬]]を多数所有していた。チャーチルはこの馬たちを大切にし、馬に向かって数分にわたって語りかける癖があったという。また馬が驚くという理由で[[自動車]]を嫌っていた<ref name="山上(1960)240-241">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.240-241</ref>
 
バトル・オブ・ブリテンの緒戦の頃、ロンドン動物園からロンドン空襲があった場合、動物は銃殺せねばならないとの意見が出たが、チャーチルはこの話にショックを受け、「ロンドン中に空襲があれば、火の海になり、死骸の山が累々だ。ライオンやトラはその死体を求めて吠え回る。それを君たちは銃を持って撃って回るのだよ。可哀そうじゃないか」と語ったという<ref name="ペイン(1993)245">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.245</ref>。
 
=== 偉大の追求と無謀さ ===
[[File:Churchill Shooting M1 Carbine.jpg|230px|thumb|第二次大戦中、射撃練習をするチャーチル首相]]
チャーチルは涙もろく、小鳥が死んだだけでも泣く人だったが、一方で真の同情は持っていないことが多かった<ref name="ペイン(1993)245">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.245</ref>。
 
チャーチルは「輝かしい栄光を残して滅びよ」という持論を持っており、ヒトラーと同じく[[死守命令]]を好んだ<ref name="ペイン(1993)277">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.277</ref>。また空襲で確実に敵国心臓部に打撃を与えていくという確実な戦法より、強襲、ゲリラ戦、おとり作戦、罠など派手な作戦を決行することを好んだ<ref name="ペイン(1993)305">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.305</ref>。
 
チャーチルが命じる数々の無謀な作戦には帝国参謀総長{{仮リンク|アラン・ブルック (初代アランブルック子爵)|label=アラン・ブルック|en|Alan Brooke, 1st Viscount Alanbrooke}}大将や[[アメリカ陸軍参謀総長]][[ジョージ・マーシャル]]大将も頭を抱えた<ref name="ペイン(1993)378">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.378</ref>。チャーチルの無謀な作戦のために多くの人間が死に追いやられていったが、彼は誰が死のうとほとんど関心を持たなかった<ref>[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.245/377-378</ref>。
 
チャーチルは戦争を騎士道的な決闘ゲームのように考えていたため、栄光を残すためだけにこういう不合理な作戦を平気でやった。対して合理主義の権化であるアメリカ人たちは戦争など物量と物量のぶつかり合いでしかないのだから、相手の物量を叩き潰す空襲だけが重要と考えて、チャーチルの無駄な行動には不満を抱く者が多かった<ref name="ペイン(1993)305">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.305</ref>。
 
チャーチルは自分が「選ばれた者」であり、全ての運命を決定する存在なのだと思い込んでいた<ref name="ペイン(1993)250">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.250</ref>。自分の「偉大さ」を追い求め、とりわけ先祖の初代マールバラ公に自分を重ねていた<ref name="ペイン(1993)376">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.376</ref>。たとえ自分や自国が実態の上でどれだけ没落していようとも顧みることもなく、自分を超大国の指導者と信じ、アメリカのルーズベルト大統領やソ連のスターリン大元帥と対等の存在だと思い込んでいた<ref name="モリス(2010)下218">[[#モリス(2010)下|モリス(2010) 下巻]] p.218</ref>。
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=== その他 ===
*チャーチルは第二次世界大戦を「不必要な戦争」と呼んでいた<ref name="山上(1960)152">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.152</ref>。
*その演説は誇張が目立ち、中身がないとも言われるが、演説に盛り込まれる報告は割と詳細だった<ref name="河合(1998)272">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.272</ref>。
*Vサインで知られるが、これは勝利のVictoryから来ている<ref name="山上(1960)177">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.177</ref>。
 
== 日本との関係、日本観 ==
チャーチルの生涯で最も大きなウェイトを占める外国はアメリカとドイツである。それには及ばないが、日本もチャーチルの中では一定の比重を占めている国であった<ref name="関榮次(1969)122">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.122</ref>。
 
チャーチルは基本的に東洋の国にはほとんど興味がなく、日本についても知識が多かったわけではない<ref name="ペイン(1993)277">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.277</ref>。だが、チャーチルは中国人については一切興味がなかったのに対し、日本人に対しては一定の親近感を持っていた<ref name="ペイン(1993)201">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.201</ref>。
=== 同盟国として ===
[[File:Churchhill 02.jpg|180px|thumb|若き日のチャーチル]]
確認できる限り、チャーチルが日本を最初に意識したのは父ランドルフ卿と母ジャネットが日本旅行をした[[明治]]27年(1894年)である。日本から送られてきた母の手紙の中に日本の写真が同封されており、チャーチルは母への返信で「お母さんからの手紙はとてもうれしいです。写真は美しく、日本の思い出の品として一生大事にしようと思っています」と書いている(この時に日本で撮られた写真が父ランドルフ卿が映っている最後の写真でもある)<ref>[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.315-316</ref>。
 
その次にチャーチルが日本を強く意識したのは明治37年(1905年)に[[日露戦争]]で日本が勝利した時である。チャーチルは「日露戦争の結果はただ一国をのぞいて全ての列強を驚かせた。ヨーロッパで唯一、冷静な目で日本の軍事力を測定できていたイギリスは、今度の戦争で得るところは大きかった。イギリスの同盟国日本が勝利したことで、フランスはイギリスとの友好を求めるようになった。ドイツ艦隊はまだ建造中だが、イギリス艦隊が無事中国から本国へ帰還できるようになったことは大きい。」と評した。イギリス艦隊が帰れるようになったのは、日本艦隊が中国におけるイギリスの権益の防衛を肩代わりしてくれたからであり、その代わり日本はイギリスから[[朝鮮半島]]を併合することと中国に一定の権益を持つことを許可されたのである<ref name="河合(1998)318">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.318</ref>。
 
一方でチャーチルは一次大戦後に[[日英同盟]]の破棄を主導した人物でもある。1936年にアメリカの{{仮リンク|コリアーズ|en|Collier's}}への寄稿文の中でチャーチルは「私はアメリカとの関係が悪くなるような外交をしないことがイギリスの最も大事な基本方針と心得ている。日英同盟の破棄は英米関係を悪化させないための辛い選択だった」と語っている<ref name="関榮次(1969)123">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.123</ref>。
 
ちなみに二次大戦前後になるとチャーチルは日英同盟を破棄したのは間違いだったと語るようになった<ref name="関榮次(1969)124-125">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.124-125</ref>。
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=== 日英離間・対立の中で ===
[[File:Winston Churchill cph.3b13157.jpg|180px|thumb|1941年のチャーチル。]]
[[昭和]]6年(1931年)9月の[[満洲事変]]の際には、これを「侵略」と批判する声もあった中、チャーチルは「日本人が中国で行っている事は我々がインドで行っていることと同じ」「これで中国も少しは収まるだろう」として満洲事変支持を表明している<ref name="河合(1998)233">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.233</ref><ref name="ペイン(1993)201">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.201</ref>{{#tag:ref|満洲事変は、チャーチルのみならず、当時イギリス世論・政界は一般的に支持する者が多かった。中国政府は統治能力がなく、また中国政府が日本の合法的な通商権益を無法に犯していると考えられていたからである<ref name="坂井(1974)120">[[#坂井(1974)|坂井(1974)]] p.120</ref>。|group=注釈}}。
 
一方昭和前期に起きた軍人による政治的諸事件、昭和7年(1932年)の[[五一五事件]]や昭和11年(1936年)の[[二二六事件]]には憂慮し、「偉大で名誉ある日本の政治家たちが次々と暗殺者の手にかかってしまった。尊厳と神聖性を持つミカドとその政府は懸命に犯罪者を処断したが、日本がこの不可欠の処置を取るのに悲痛な努力を必要としたこと自体に英米は注目している」と述べている<ref name="関榮次(1969)126">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.126</ref>。
 
また日本の右翼や軍人たちの間で高まる[[アジア主義]]にはより強く警戒し、「『日本人のアジア』を意味する『アジア人のアジア』というスローガンが実行に移されれば、英語圏の国で反発しない国は存在しないだろう。それは日本にとってあまりにも危険な道である。」と警告している<ref>[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.131-132</ref>。
 
だが、大戦中には日本に無条件降伏を突きつけてやると鼻息を荒くするアメリカに対して、チャーチルは柔軟な態度を取ってきた方である。ポツダム会談でもチャーチルは「日本軍人たちの軍人としての面子が立つよう、こちらからも何らかのアクションを取るべきだ」と主張したが、アメリカ大統領トルーマンは「真珠湾攻撃以降の日本軍人に名誉などない」と突っぱねた<ref name="関榮次(1969)181">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.181</ref>。
 
[[原爆投下]]については「原爆投下に関する時間をかけた討議はほとんどなかった。二、三回の原爆投下でより大きな際限のない殺戮を回避し{{#tag:ref|連合国はポツダム会談において、もし原爆を使わずに日本本土に上陸作戦を決行した場合、「100万人のアメリカ人とその半数のイギリス人が死ぬ」という見積りを立てている<ref name="山上(1960)218">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.218</ref>。|group=注釈}}、終戦へ導き、世界に平和をもたらすことができるのだから、それは奇跡のような手段だった。」と弁明している<ref name="関榮次(1969)182">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.182</ref>。
 
=== 皇太子明仁親王の訪英 ===
[[File:Crown Prince Akihito1952-11-10.jpg|230px|thumb|昭和27年の[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]、皇太子[[明仁]]親王]]
昭和28年(1953年)、日本が主権を回復したばかりの頃、エリザベス2世の戴冠式に出席するため、若き皇太子[[明仁]]親王([[今上天皇]])が[[昭和天皇]]の名代として訪英した。だが戦後まもないこの頃、イギリスのメディアでは反日報道が連発しており、日英関係が良好な時期とは言い難かった<ref>[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.186-189</ref>。首相チャーチルは日英両国が早急に憎しみの連鎖から抜け出すことが双方の国益と考え、明仁親王訪英でイギリス人が凶行を起こさないよう心を砕いた。明仁親王の警護に自ら陣頭指揮を取るチャーチルの姿はバトル・オブ・ブリテンの時を思わせたという<ref name="関榮次(1969)191">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.191</ref>
 
チャーチルは明仁親王のための午餐会の席で「英国民の生活が安定しているのは[[立憲君主制]]のおかげである。そんな英国民は一致して皇太子殿下を歓迎する。殿下の英国滞在が楽しいものとなり、また何か学ばれるものがあることを心から願う。日英両国は君主を冠するという点で共通の紐帯を持っている。」「この食卓に飾られている青銅の馬の置物は私の母が1894年に日本から持ち帰ったものだ。母によれば、母にこれを送ってくれた日本人は、『日本にはこうした美術を作れる文化があるのに西洋人は評価せず、野蛮国扱いし続けた。日本が何隻かの軍艦を所持してやっと一等国と認めた。』と語り、西洋諸国の価値基準を批判したという。これは含蓄のある言葉である。どの国も美術に力を入れ、軍拡をしなくてもよくなる時代が来ればと願う。平和を愛する日本のため、殿下のご健康をお祈りする」と演説し、慣例に反して女王陛下より先に天皇陛下に乾杯を捧げた<ref name="関榮次(1969)197-198">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.197-198</ref>。
 
またチャーチルと会談する明仁親王は79歳になり耳が遠くなっているチャーチルのために耳元で話すなどの配慮をし、その光景は孫が祖父に語りかけているようで出席者たちを和ませたという<ref name="関榮次(1969)195">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.195</ref>。
 
チャーチルはこの午餐会の席に反日の急先鋒のエクスプレス系新聞の社主であり、保守党の政治家でもある{{仮リンク|マックス・アトキン (ビーバーブルック卿)|label=ビーバーブルック卿|en|Max Aitken, Lord Beaverbrook}}も招いていたが、これは自分と明仁親王の親密な光景を見せることで反日報道を辞めさせる意図だった。ビーバーブルック卿もこの午餐会以来、反日報道を止めるよう傘下のメディアに指示を出した<ref name="関榮次(1969)194">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.194</ref>。
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=== 吉田茂や岸信介の訪英 ===
明仁親王の訪英に続いて、昭和29年(1954年)10月には[[内閣総理大臣]][[吉田茂]]の訪英があった。吉田はずっと訪英を希望していたが、反日機運の強いイギリス世論に配慮してイギリス政府から拒否され続けていた。だが前年の明仁親王の訪英中にチャーチルが吉田の訪英を許可し、実現に至った。明仁親王の訪英のおかげで日英関係は改善に向かい始めたとはいえ、未だ反日世論は根強く、歓迎ムードはなかった<ref name="関榮次(1969)200-201">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.200-201</ref>。
 
吉田を迎える晩餐会の席でもチャーチルは青銅の馬の像の話をした。またこの席上でチャーチルは戦時中の日本人の勇敢さを称賛し、戦争の良い面は再び友人に成れることであると語った<ref name="関榮次(1969)207">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.207</ref>。チャーチルと吉田は独裁政治に反対し、立憲君主制を支持する立場で一致し、共産主義問題を話し合った<ref>[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.207-208</ref>。また吉田から送られた[[安田靫彦]]の[[富士山]]の絵をチャーチルは非常に気にいった様子だったという<ref name="関榮次(1969)210">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.210</ref>。
 
昭和32年(1957年)に内閣総理大臣[[岸信介]]が訪英。岸は引退したチャーチルの私邸を訪問した。この時チャーチルは富士山の絵を指して、いつか訪日して自分で富士山の絵を描いてみたかったが、叶いそうもないと涙ぐみながら語ったという<ref name="関榮次(1969)210-211">[[#関榮次(1969)|関榮次(1969)]] p.210-211</ref>。
 
== 家族・親族 ==
[[File:Mr. and Mrs. Winston Spencer Churchill.jpg|180px|thumb|チャーチルと妻クレメンティーン(1915年)]]
[[File:Churchillwithsonandgrandson.jpg|180px|thumb|ガーター騎士団の正装をまとうチャーチル。子のランドルフ、孫の{{仮リンク|ウィンストン・チャーチル (1940年-)|label=ウィンストン|en|Winston Churchill (born 1940)}}とともに(1950年代)。]]
1908年9月に軍人の娘クレメンティーンと結婚した。チャーチルは収入は多いものの、金銭に無頓着で最高級の贅沢品ばかりを集める浪費癖があったのでクレメンティーンが代わって家計を支えた<ref name="山上(1960)241">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.241</ref>。チャーチルは公的にも妻を頼りにし、彼女の前で演説の予行練習をするのを習慣としたという<ref name="山上(1960)241">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.241</ref>。
 
夫妻は5子に恵まれた。1909年生まれの長女{{仮リンク|ダイアナ・チャーチル|label=ダイアナ|en|Diana Churchill}}、1911年生まれの長男{{仮リンク|ランドルフ・チャーチル (1911-1968)|label=ランドルフ|en|Randolph Churchill}}、1914年生まれの次女{{仮リンク|サラ・チャーチル (女優)|label=サラ|en|Sarah Churchill (actress)}}、1918年生まれの三女{{仮リンク|マリーゴールド・チャーチル|label=マリーゴールド|en|Marigold Churchill}}、1922年生まれの四女{{仮リンク|メアリー・ソームズ (ソームズ男爵夫人)|label=メアリー|en|Mary Soames, Baroness Soames}}である<ref name="山上(1960)241-242"/>。
 
長男ランドルフは一時期庶民院議員も務めたが、基本的にはジャーナリストとして働いた<ref name="山上(1960)242">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.242</ref>。父の影に隠れて目立たない人物だったという<ref name="ペイン(1993)383">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.383</ref>。チャーチルの死後まもなく、ランドルフも後を追うように死去した<ref name="ペイン(1993)386">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.386</ref>。
 
長女ダイアナは南アフリカの富豪サー・ジョン・ベイリー准男爵(Sir John Bailey, 2nd Baronet)と結婚したが、後に離婚して保守党の政治家{{仮リンク|ダンカン・サンデイス|en|Duncan Sandys}}と再婚。1963年に自殺した。ダイアナの自殺の時にはチャーチルも老衰しきって死を待つばかりだったので、娘の自殺を聞いてもさほど悲しんでいる様子はなかったという<ref name="ペイン(1993)383">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.383</ref>。
 
次女サラは女優になり<ref name="山上(1960)241">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.241</ref>、芸人{{仮リンク|ヴィク・オリバー|en|Vic Oliver}}と結婚したが、やがて離婚し、写真家アンソニー・ビューチャンプ(Anthony Beauchamp)と再婚するも死別。結局{{仮リンク|トーマス・トウケット=ジェソン (第23代オードリー男爵)|label=オードリー男爵|en|Thomas Touchet-Jesson, 23rd Baron Audley}}と三度目の結婚をした<ref name="ペイン(1993)383"/>。
 
三女マリーゴールドは幼くして死んだ<ref name="山上(1960)241">[[#山上(1960)|山上(1960)]] p.241</ref>。
 
四女メアリーは保守党の政治家{{仮リンク|クリストファー・ソームズ|en|Christopher Soames, Baron Soames}}と結婚している<ref name="ペイン(1993)383"/>。
 
チャーチルは家族に動物のあだ名をつけていた。サラは「のろま」という意味で「[[ラバ]]」、メアリーは子供の頃ブスだったので「[[チンパンジー]]」、妻クレメンティーンは「ネコ」だったという<ref name="ペイン(1993)176">[[#ペイン(1993)|ペイン(1993)]] p.176</ref>。
 
チャーチルの弟ジョン・ストレンジの娘{{仮リンク|クラリッサ・イーデン (エイヴォン伯爵夫人)|label=クラリッサ|en|Clarissa Eden, Countess of Avon}}はチャーチルの後任の首相イーデンに後妻として嫁いでいる<ref name="山上(1960)242"/>。
 
妻の親族は波乱万丈な生涯を送った人が多い。有名なところでは、妻の甥にあたる{{仮リンク|エズモンド・ロミリー|en|Esmond Romilly}}と、妻の[[従兄]]{{仮リンク|デビッド・フリーマン=ミットフォード (第2代リーズデイル男爵)|label=リーズデイル男爵|en|David Freeman-Mitford, 2nd Baron Redesdale}}の娘たち[[ミットフォード姉妹]]がいる。エズモンドは学生時代から共産主義者として鳴らし、「チャーチルのアカの甥」と呼ばれていた<ref name="ラベル(2005)201">[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.201</ref>。ミットフォード姉妹の五女である{{仮リンク|ジェシカ・ミットフォード|label=ジェシカ|en|Jessica Mitford}}(同じく共産主義者)と駆け落ちし、スペイン内戦に左翼陣営で参加<ref>[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.259-269/</ref>。その後、アメリカへ移住し、大戦がはじまるとカナダ空軍に入隊してドイツ空軍と戦ったが、1941年11月末に北海上で戦死した。チャーチルからジェシカにエズモンドの戦死を伝えたという<ref>[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.400/404</ref>。
 
ミットフォード姉妹の三女ダイアナと四女[[ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード|ユニティ]]はファシズム運動家となった。ダイアナは結婚していた貴族と離婚して[[イギリスファシスト連合]]指導者の[[オズワルド・モズレー]]と再婚したが、第二次世界大戦中にモズレーとともに投獄を受けた。四女ユニティはドイツへ飛び、ヒトラーとの関係が噂されるほどヒトラーの親密な側近となった。彼女は英仏開戦を阻止しようと努力していたが、開戦に至ってしまうと絶望して自殺未遂を起こした。その後イギリスへ戻されたものの、この時の傷がもとで後に死亡した<ref>[[#ラベル(2005)|ラベル(2005)]] p.344/473</ref>。
 
== 脚注 ==
{{reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|4}}</div>
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[池田清 (政治学者)|池田清]]|date=1962年(昭和37年)|title=政治家の未来像 ジョセフ・チェムバレンとケア・ハーディー|publisher=[[有斐閣]]|asin=B000JAKFJW|ref=池田(1962)}}
*ロード・モーラン『チャーチル 生存の戦い』[[新庄哲夫]]訳(河出書房新社、1967年) 主治医の日記が元
*{{Cite book|和書|author=[[市川承八郎]]|date=1982年(昭和57年)|title=イギリス帝国主義と南アフリカ|publisher=[[晃洋書房]]|asin=B000J7OZW8|ref=市川(1982)}}
*Jose Harris([[柏野健三]]訳)『その生涯』(ふくろう出版、1995-99年)
*{{Cite book|和書|author=[[臼田昭]]|date=1979年(昭和54年)|title=モールバラ公爵のこと チャーチル家の先祖|publisher=[[研究社出版]]|isbn=978-4327342098|ref=臼田(1979)}}
*[[大森実]]『チャーチル 不屈の戦士』(講談社 人物現代史4、1978年)
*{{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]]|date=2001年(平成13年)|title=アフリカの歴史 侵略と抵抗の軌跡|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750313726|ref=岡倉(2001)}}
*[[河合秀和]]『チャーチル イギリス現代史と一人の人物』(中公新書 1979年)のち増補版 
*{{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]、[[君塚直隆]]|date=2011年(平成13年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
*ジョン・ルカーチ 『ヒトラー対チャーチル 80日間の激闘』秋津信訳(共同通信社、1995年)
*{{Cite book|和書|author=[[河合秀和]]|date=1998年(平成10年)|title=チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版|series= [[中公新書]]530|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121905307|ref=河合(1998)}}
*ロバート・ペイン『チャーチル』佐藤亮一訳 文化放送開発センター出版部 1975. のち法政大学出版局/りぶらりあ選書
*{{Cite book|和書|author=[[川田順造]](編著)|date=2009年(平成21年)|title=アフリカ史|series=新版世界各国史10|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634414006|ref=川田(2009)}}
*ウィンストン・スペンサー=チャーチル(孫)『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』佐藤佐智子訳. 法政大学出版局, 1994.5. りぶらりあ選書
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
*ジョン・コルヴィル 『ダウニング街日記 首相チャーチルのかたわらで』[[都築忠七]]ほか訳(20世紀メモリアル/平凡社、1990年)
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|G.D.H.コール|en|G. D. H. Cole}}|date=1957年(昭和32年)|title=イギリス労働運動史 第3巻|translator=[[林健太郎]]、[[河上民雄]]、[[嘉治元郎]]|publisher=[[岩波書店]]|asin=B000JBBBHG|ref=コール(1957)}}
*祥伝社新書編集部編 『グレートスモーカー ― 歴史を変えた愛煙家たち』(祥伝社、2006年)
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=坂井(1967)}}
*[[山田風太郎]] 『人間臨終図鑑Ⅲ』(徳間文庫、1987年)
*{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1974年(昭和49年)|title=近代イギリス政治外交史3 スタンリ・ボールドウィンを中心として|publisher=創文社|asin=B000J9IXRE|ref=坂井(1974)}}
 
*{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1977年(昭和52年)|title=近代イギリス政治外交史4 人間・イメージ・政治|publisher=創文社|asin=B000J8Y7CA|ref=坂井(1977)}}
==関連書邦訳==
*{{Cite book|和書|author=坂井秀夫|date=1988年(昭和63年)|title=イギリス・インド統治終焉史 1910年~1947年|publisher=創文社|isbn=978-4423710401|ref=坂井(1988)}}
*ウィンストン・チャーチル 宮田峯一 新月社, 1946.
*{{Cite book|和書|author=[[シリア・サンズ]]|date=1998年(平成10年)|title=少年チャーチルの戦い|translator=河合秀和|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087732931|ref=サンズ(1998)}}
*チャーチル 現代の英雄 [[柴田錬三郎]] 偕成社, 1952. 偉人物語文庫
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|デニス・ショウォルター|en|Dennis Showalter}}|date=2007年(平成19年)|title=パットン対ロンメル 軍神の戦場|translator=大山晶|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562040858|ref=ショウォルター(2007)}}
*チャーチルと勇気 ビベスコ皇女 [[安堂信也]]訳 東京創元社, 1957.
*{{Cite book|和書|author=[[関嘉彦]]|date=1969年(昭和44年)|title=イギリス労働党史|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9KJV2|ref=関嘉彦(1969)}}
*ウィンストン・チャーチル [[鶴見祐輔]] 講談社, 1958.のち現代新書 
*{{Cite book|和書|author=[[関榮次]]|date=2008年(平成20年)|title=チャーチルが愛した日本|publisher=[[PHP研究所]]|series=[[PHP新書]]|isbn=978-4569693651|ref=関榮次(1969)}}
*チャーチル [[石川欣一]] 日本書房, 1959. 現代伝記全集
*{{Cite book|和書|author=[[高橋直樹 (政治学者)|高橋直樹]]|date=1985年(昭和60年)|title=政治学と歴史解釈 ロイド・ジョージの政治的リーダーシップ|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130360395|ref=高橋(1985)}}
*ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争 [[山上正太郎]] 誠文堂新光社, 1960. 歴史の人間像
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
*チャーチル物語 比佐友香 角川書店, 1960.
*{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}}
*サー・ウィンストン・チャーチル ライフ編集部編 [[井上勇]]訳 時事通信社, 1965.
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|G.C. ピーデン|en|G. C. Peden}}|translator=[[千葉頼夫]]、[[美馬孝人]]|date=1990年(平成2年)|title=イギリス経済社会政策史 ロイドジョージからサッチャーまで|publisher=[[梓出版社]]|isbn=978-4900071643|ref=ピーデン(1990)}}
*世紀の人チャーチル 佐藤亮一 あかね書房 1965. 少年少女20世紀の記録
*{{Cite book|和書|author=[[ラウル・ヒルバーグ]]|translator=[[望田幸男]]|date=1997年(平成9年)|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760115174|ref=ヒルバーグ(1997)下}}
*チャーチル Vマークの栄光の宰相 佐藤亮一 1965. 旺文社文庫
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=ブレイク(1979)}}
*チャーチル伝 L.ブロード 松原弘雄,山田純共訳 恒文社, 1965.
*{{Cite book|和書|author=ブレイク男爵|translator=[[谷福丸]]|editor=[[瀬尾弘吉]]監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=ブレイク(1993)}}
*チャーチル [[高村暢児]] ポプラ社 1966 世界伝記全集
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne (author)}}|translator=[[佐藤亮一]]|date=1993年(平成5年)|title=チャーチル|series=[[りぶらりあ選書]]|publisher=[[法政大学出版局]]|isbn=978-4588021466|ref=ペイン(1993)}}
*チャーチル 瀬川健一郎 国土社, 1966. 子ども伝記全集
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン=ジャック・ベッケール|fr|Jean-Jacques Becker}}、{{仮リンク|ゲルト・クルマイヒ|de|Gerd Krumeich}}|translator=[[剣持久木]]、[[西山暁義]]|date=2012年(平成24年)|title=仏独共同通史 第一次世界大戦(下)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000237970|ref=ベッケール(2012)}}
*チャーチル [[上笙一郎]] 潮出版社 1970.12. ポケット偉人伝
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・マッケンジー|en|Robert McKenzie (psephologist)}}|translator=[[早川崇]]、[[三沢潤生]]|date=1965年(昭和40年)|title=英国の政党〈上巻〉 保守党・労働党内の権力配置|publisher=有斐閣|asin=B000JAD4LI|ref=マッケンジー(1965)}}
*勇気ある人 チャーチル Q.レイノルズ [[斎藤数衛]]訳 学習研究社, 1971 世界の伝記
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次 (歴史学者)|村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*チャーチル 第二次世界大戦の指導者 山上正太郎 清水書院 1972. センチュリーブックス. 人と歴史シリーズ
*{{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=[[森護]]|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}}
*チャーチル [[木村武雄]] 土屋書店, 1978.12.
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャン・モリス|en|Jan Morris}}|translator=[[池央耿]]、[[椋田直子]]|date=2010年(平成22年)|title=帝国の落日 下巻|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062152488|ref=モリス(2010)下}}
*チャーチル アングロサクソンの世界戦略 [[大橋武夫]] マネジメント社, 1985.4.
*{{Cite book|和書|author=[[山上正太郎]]|date=1960年(昭和35年)|title=ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争|publisher=[[誠文堂新光社]]|asin=B000JAP0JM|ref=山上(1960)}}
*20世紀の陰謀 1 (チャーチルの謀略) 館長泰三 日本経済通信社, 1985.7.
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|メアリー・S. ラベル|en|Mary S. Lovell}}|translator=[[粟野真紀子]]、[[大城光子]]|date=2005年(平成17年)|title=ミットフォード家の娘たち 英国貴族美しき六姉妹の物語|publisher=講談社|isbn=978-4062123471|ref=ラベル(2005)}}
*ゆるしてやろうよチャーチルを 戦時下少年の綴方集より 小川静夫 新日本教育図書, 1993.8.
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ルカーチ (歴史学者)|ジョン・ルカーチ]]|date=1995年(平成7年)|title=ヒトラー対チャーチル 80日間の激闘|publisher=[[共同通信社]]|isbn=978-4764103481|ref=ルカーチ(1995)}}
*偽りの同盟 チャーチルとスターリンの間 秋野豊 勁草書房, 1998.12.
*戦時中のチャーチル称賛と非難 当時の人々は総理チャーチルをどう見ていたか? ブライアン・ガードナー 浜本正夫訳 私家版 2002.5.
*帝国に奉じたチャーチル 前田靖一 彩流社, 2007.9.
*チャーチルが愛した日本 [[関榮次]] 2008.3. PHP新書
*文武とチャーチル 日英文化の架け橋となりて 江川淑夫 清流出版, 2008.5.
*危機の指導者チャーチル 冨田浩司 2011.9. 新潮選書
 
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|ウィンストン・チャーチル}}
{{Commons|Winston Churchill}}
*[[イギリスの首相の一覧]]
*[[バトル・オブ・ブリテン]]
*[[保守党 (イギリス)]]
*[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)]]
*[[自由党 (イギリス)]]
*[[蒋介石]]
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]
*[[宋美齢]]
*[[ネヴィル・チェンバレン]]
*[[マハトマ・ガンディー]]
*[[アドルフ・ヒトラー]]
*[[フランクリン・ルーズベルト]]
*[[ヨシフ・スターリン]]
*[[ベニート・ムッソリーニ]]
*[[ピースサイン|Vサイン]] - チャーチルが始めたとされる。
*[[バトル・オブ・ブリテン]]
*[[日中戦争]]
*[[ガリポリの戦い]]
*[[中国国民党]]
*[[帝国主義]]
*[[反共主義]]
*[[鉄のカーテン]]
*[[ピースサイン|Vサイン]]
*[[ウィンストン・S・チャーチル (ミサイル駆逐艦)]]([[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦]]31番艦。フライトIIA)
*[[セカンダラバード]]([[インド]]の都市、軍隊時代に赴任)
 
== 外部リンク ==
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*[http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm The Sinews of Peace](1946年3月5日、いわゆる「鉄のカーテン」演説。英語)
*[http://www.hpol.org/churchill/ 鉄のカーテン演説(フルトン演説)(英語)]
 
 
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1951年]]-[[1955年]]| before = [[クレメント・アトリー]]| after = [[アンソニー・イーデン|サー・アンソニー・イーデン]]}}
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| after = [[クレメント・アトリー]]<br />[[アンソニー・イーデン]]
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]| years = [[1924年]]-[[1929年]]| before = {{仮リンク|フィリップ・スノーデン (初代スノーデン子爵)|label=フィリップ・スノーデン|en|Philip Snowden, 1st Viscount Snowden}}| after = {{仮リンク|フィリップ・スノーデン (初代スノーデン子爵)|label=フィリップ・スノーデン|en|Philip Snowden, 1st Viscount Snowden}}}}
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}| years = [[1921年]]-[[1922年]]| before = [[アルフレッド・ミルナー|ミルナー子爵]]| after = {{仮リンク|ヴィクター・キャヴェンディッシュ (第9代デヴォンシャー子爵)|label=デヴォンシャー公爵|en|Victor Cavendish, 9th Duke of Devonshire}}}}
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス植民地省政務次官|label=植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for the Colonies}}| years = [[1905年]] - [[1908年]]| before = [[チャールズ・スペンサー=チャーチル (第9代マールバラ公)|マールバラ公爵]]| after = {{仮リンク|ジョン・シリー (初代モティストーン男爵)|label=ジョン・シリー|en|J. E. B. Seely, 1st Baron Mottistone}}}}
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| after = フィリップ・スノーデン
{{Succession box| title = [[保守党 (イギリス)|イギリス保守党]]党首| years = [[1940年]]-[[1955年]]| before = [[ネヴィル・チェンバレン]]| after = [[アンソニー・イーデン|サー・アンソニー・イーデン]]}}
}}
{{Ss-ppoaca}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|アバディーン大学学長|en|Rector of the University of Aberdeen}}| years = [[1914年]] - [[1918年]]| before = [[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]| after = {{仮リンク|ウィートマン・ピアソン (初代コードレイ子爵)|label=コードレイ子爵|en|Weetman Pearson, 1st Viscount Cowdray}}}}
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{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|エジンバラ大学学長|en|Rector of the University of Edinburgh}}| years = [[1929年]] - [[1932年]]| before = {{仮リンク|サー・ジョン・ジルモア (第2代准男爵)|label=サー・ジョン・ジルモア|en|Sir John Gilmour, 2nd Baronet}}| after = {{仮リンク|イアン・スタンディッシュ・モンティス・ハミルトン|label=イアン・ハミルトン|en|Ian Standish Monteith Hamilton}}}}
| title = [[保守党 (イギリス)|保守党]]党首
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[ブリストル大学]]総長| years = [[1929年]] - [[1965年]]| before = {{仮リンク|リチャード・ホールデン (初代ホールデン子爵)|label=ホールデン子爵|en|Richard Haldane, 1st Viscount Haldane}}| after = [[ヘンリー・サマセット (第10代ボーフォート公)|ボーフォート公爵]]}}
| years = 第4代:1940年[[10月9日]] - 1945年7月26日
| before = ネヴィル・チェンバレン
| after = アンソニー・イーデン
}}
{{End box}}
 
{{ノーベル文学賞受賞者 (1951年-1975年)}}
{{イギリスの首相}}
{{ Normdaten | NDL = 00436010 | CINII = DA0065926X | VIAF = 94507588 | LCCN = n/78/085430 | PND = 118520776 | SELIBR = 181701 }}
 
{{DEFAULTSORT:ちやちる ういんすとん}}
[[Category:イギリスの首相]]
[[Category:国防担当閣外大臣]]
[[Category:イギリス保守党の政治家]]
[[Category:イギリス自由党の政治家]]
[[Category:イギリスの保守政治家]]
[[Category:イギリスの作家]]
[[Category:イギリスのノーベル賞受賞者]]
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