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== 琴棊書画 ==
中国文人は'''琴書画'''に代表されるような芸能を遊戯として嗜んだ。このほかにも、詩や篆刻などが文人の芸としてあげられよう。'''詩書画'''をよくする者を三絶と称賛したように多芸を「よし」とする風潮があり、絵画に詩を書して落款し印章を捺すという複数の技芸を総合した文人画のような芸術が生まれた。しかし、文人達はこれらの芸を飽くまで自らが文雅を楽しむための余技として捉え、他者から職業的な営みと見られることを極度に嫌った。金銭を目的とすることは雅を尊ぶ文人の価値基準には堪えない俗物的な行為とされたからである。やがてたとえ権力者であろうとみだりにこれらの芸を披露すべきものではないという'''気骨'''を生んだ。このような'''反骨精神'''をもった文人の逸話がいくつか伝えられている。琴の名手である[[東晋]]の[[戴逵]]・[[宋 (南朝)|宋]]の[[范曄]]、画芸に秀でた宋の[[鄭所南]]・[[元 (王朝)|元]]の[[倪雲林]]などは、ときの権力者に屈することなく自らの矜持を貫いた。ただし、実際には芸を売って糊口をしのぐこともこれを貪らないかぎりは下賤とは見做されず、貧窮にあえぐ文人の多くが[[書画]]を売って米に換えた。画芸では[[唐]]代の[[伯虎]]、元末の[[呉仲圭]]・[[王元章]]、書芸では[[明]]の[[祝枝山]]・[[王鐸]]などが作品を売って生計を立てている。時代が下がるほどそのような例が多くみえる。
 
===琴===
[[古琴|琴]]は[[瑟]]とともに『[[詩経]]』にもみられるほど古い[[弦楽器]]であるが、[[孔子]]やその門人たちが琴を奏でることを好み、楽器の中でももっとも重用していたことが『論語』や『[[礼記]]』にみえ、また『[[荘子 (書物)|荘子]]』にもその記述がある。それらによると孔子は諸国を漫遊する旅に琴を携えて歌の伴奏としており、[[子游]]や[[顔回]]ら弟子達も琴を愛用していたことがわかる。儒学の祖である孔子らのこの風習はやがて[[儒者]]が琴をもっとも尊び愛用することに繋がった。後漢の[[桓譚]]は『新論』で、[[応劭]]は『風俗通』にてそれぞれ琴の重要性を説いている。このような思潮の中、漢代から六朝までの間に琴を得意とする著名な文人が多数現れている。前述の桓譚に加え、[[後漢]]では[[馬融]]・[[蔡ヨウ|蔡邕]]、[[魏 (三国)|魏]]の[[ケイ康|嵆康]]、[[東晋]]の[[戴逵]]などである。[[陶淵明]]のごときは琴を奏でることができないにもかかわらず、無弦の琴を愛蔵して酒に酔うとこれを奏でるかのように玩んだという。このような琴の流行は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に最高潮になりやがて衰退するが、近世になっても文人の嗜むべき随一の楽器とされ続けた。
 
===棋(囲碁(棊)===
{{Main|囲碁の歴史}}
[[囲碁]]は既に『論語』の中に孔子の弁として述べられるほど古い遊びである。「博弈」のうちの「弈」が囲碁を差しているが「博」の方は[[スゴロク]]の事で『論語』ではこの二つが同等に扱われている。しかし、後世の儒家はスゴロクを低俗な遊びであるとして斥けたようだ。後漢の[[馬融]]の『囲棊賦』などで「博」(=スゴロク)は投機的で浅薄な賭事であるに対して囲碁は頭脳を使い戦略的・理知的であるとしている。文人の雅俗意識から囲碁は雅致がある遊戯として認められたのだろう。また囲碁の静かに対局する姿は傍観者から見て詩的な風情を誘い、詩にいくつも詠じられている。[[白居易]]や[[蘇軾]]は石を打つときの音に魅了されて詩を詠じている。
 
===詩===
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===画===
文人の[[書画|画芸]]というと[[文人画]]が有名である。これは明末の[[董其昌]]による画論『[[画禅室随筆]]』に「文人の画は[[王維]]から始まる」として唐代の王維をその始祖としたことによる。しかし、文人の画芸はさらにその淵源を遡ることができる。唐の[[張彦遠]]の『[[歴代名画記]]』には、画を得意とする文人が多数挙げられている。後漢では[[張衡 (科学者)|張衡]]・[[蔡ヨウ|蔡邕]]・[[趙岐]]、魏の[[楊脩]]・[[桓範]]・[[嵆康]]、[[蜀]]の[[諸葛亮]]、[[東晋]]の[[戴逵]]・[[王羲之]]・[[顧愷之]]など。いずれも著名な文人で専門の画工ではない。このように後漢以降に文人の中で画を得意とする者が多数存在したが、画の価値については一定の評価を得られていなかったと考えられる。盛唐の[[閻立本]]は殿中で画師として扱われたことを大いに恥じて顔を真っ赤にしたという逸話がある。宋以降にようやく文人の遊戯として定着した。画芸について晋の顧愷之の『[[論画]]』、宋代の[[宗炳]]の『画山水序』・[[王微]]の『叙画』、[[斉 (南朝)|斉]]の[[謝赫]]の『[[古画品録]]』などの画論でその理論が模索され、やがて'''気韻'''を貴ぶようになる。この価値基準の確立によって文人の画芸に対する関心は一層高まった。北宋の[[米芾]]は『画史』において書画鑑賞の本質的な意義は「清玩」することにあると述べているが書画の芸術性が社会に認識されたことを示している。このような背景の中、先の董其昌の画論では専門の画工によった[[院体画]]と対峙して文人画を位置づけている。文人画は飽くまで素人の余技であり、その精髄とも呼べる「気韻」は広く文人の間に受け入れられ、宋元以降、文人の趣味生活に深く浸透していった。
 
===琴===
[[古琴|琴]]は[[瑟]]とともに『[[詩経]]』にもみられるほど古い[[弦楽器]]であるが、[[孔子]]やその門人たちが琴を奏でることを好み、楽器の中でももっとも重用していたことが『論語』や『[[礼記]]』にみえ、また『[[荘子 (書物)|荘子]]』にもその記述がある。それらによると孔子は諸国を漫遊する旅に琴を携えて歌の伴奏としており、[[子游]]や[[顔回]]ら弟子達も琴を愛用していたことがわかる。儒学の祖である孔子らのこの風習はやがて[[儒者]]が琴をもっとも尊び愛用することに繋がった。後漢の[[桓譚]]は『新論』で、[[応劭]]は『風俗通』にてそれぞれ琴の重要性を説いている。このような思潮の中、漢代から六朝までの間に琴を得意とする著名な文人が多数現れている。前述の桓譚に加え、[[後漢]]では[[馬融]]・[[蔡ヨウ|蔡邕]]、[[魏 (三国)|魏]]の[[ケイ康|嵆康]]、[[東晋]]の[[戴逵]]などである。[[陶淵明]]のごときは琴を奏でることができないにもかかわらず、無弦の琴を愛蔵して酒に酔うとこれを奏でるかのように玩んだという。このような琴の流行は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に最高潮になりやがて衰退するが、近世になっても文人の嗜むべき随一の楽器とされ続けた。
 
===囲碁(棊)===
{{Main|囲碁の歴史}}
[[囲碁]]は既に『論語』の中に孔子の弁として述べられるほど古い遊びである。「博弈」のうちの「弈」が囲碁を差しているが「博」の方は[[スゴロク]]の事で『論語』ではこの二つが同等に扱われている。しかし、後世の儒家はスゴロクを低俗な遊びであるとして斥けたようだ。後漢の[[馬融]]の『囲棊賦』などで「博」(=スゴロク)は投機的で浅薄な賭事であるに対して囲碁は頭脳を使い戦略的・理知的であるとしている。文人の雅俗意識から囲碁は雅致がある遊戯として認められたのだろう。また囲碁の静かに対局する姿は傍観者から見て詩的な風情を誘い、詩にいくつも詠じられている。[[白居易]]や[[蘇軾]]は石を打つときの音に魅了されて詩を詠じている。
 
===篆刻===
{{Main|篆刻#歴史|篆刻}}
中国における[[印章]]の歴史は古く、確実には[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]までその起源を遡ることができる。極く初期の頃を除けばその発達は書と同じく文人の手中にあったといっても過言ではなく、その芸術性を求める[[篆刻]]においては当然文人の独擅場であった。唐代には既に[[印章]]を美術的に論じた文献がみられるが、[[北宋]]の[[米芾]]がはじめて篆刻した文人とみなされている。宋代に隆盛した文人画は総合芸術であり詩書画に加え印章にも同様の高い芸術性が求められ、文人の雅俗認識が鋭く及ぶようになった。しかし、硬い[[印材]]しか知られていなかったため自分で刻むことは難しく、字入れして職人に依頼して作成せざるを得なかった。このため米芾の後で、文人の余技として一般的になったのは遥かに時代が下がった明中期以降である。元末に[[王冕]]が印刻に適した柔らかい石材([[青田石]])を発見し自身で篆刻するようになる。明代になり流通の発達したことでこの柔らかい印材が容易に入手できるようになると、[[文彭]]らの努力もあってようやく篆刻が文人の余技として広まった。その後清末までに各地に諸流派が生まれ多くの優れた篆刻家が誕生した。たとえば清代最後の文人と言われる[[呉昌碩]]は詩書画に印を加えたすべてを能くしたことから四絶と讚えられた。
 
篆刻は最も後発の文人技芸といえるが、これは中国社会の経済的な興隆・産業の発達・技術革新と無縁ではない。
 
== 文房趣味 ==