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'''リアーヌ・ド・プジー''' ('''Liane de Pougy''', [[1869年]][[7月2日]] - [[1950年]][[12月26日]])は、[[フォリー・ベルジェール]]のダンサーで、[[パリ]]で最も美しく最も悪名高い高級[[娼婦]]の一人である。小説『[[失われた時を求めて]]』の登場人物、「オデット」のモデルの一人と思われる。
本名はアンヌ・マリー・シャッセーニュ(Anne Marie Chassaigne)といい、[[サルト県]][[ラ・フレーシュ]]で生まれた。
赤子はマルコ・プールプ(Marc Pourpe)と命名されたし、回想録では彼女自身は「恐ろしい母親」であったという。「息子は少女に与えられた生きた人形のようであった」。彼女は「ドレスと巻毛のために」赤子は女の子のほうを望んだであろう。(マルコは成長して第1次世界大戦の志願航空兵となり、1914年12月2日、ヴィレス・ブルトヌー(Villers-Brettoneux)付近で戦死した。)
幸福な結婚ではなかった。アンヌ・マリーはのちに回想録によれば、新しい夫は新婚初夜に乱暴で、そのことは彼女に感情的な傷跡を残した。言われているところによれば、花婿は獣のような人で、彼女を虐待した--彼女の片方の乳房にはその後死ぬまで打擲の傷跡が残った。アルマン・プールプがマルセイユの宿舎に行ったとき、彼女は恋人シャルル・ド・マクマホン侯爵(the Marquis Charles de MacMahon)ができた。二人がベッドにいっしょにいるのを見つけたとき、彼はリヴォルヴァーで彼女を撃ち、彼女の手首を傷つけた。夫と離れる決心をしてアンヌ・マリーは紫檀のピアノを、即金で400フラン支払う若者に売った。1時間もしないうちに彼女は、幼い息子を父に残してパリに行く途中であった。今度は父が息子をスエズに居る男児の祖父母と暮らすために遣った。
彼女はパリへ移り、フォリー・ベルジェールにおいて[[ラ・ベル・オテロ]]のライヴァルと目されるほどの地位に上がった。彼女は自身の上得意であるプジー伯(もしくは子爵)の姓をとって名乗るようになった。女優[[サラ・ベルナール]]は、リアーヌに演技をつける務めに直面すると、『舞台に上がったら、その可愛らしい口を閉じておくようにしたら良い』と助言した。リアーヌは、作家[[ナタリー・クリフォード・バーネイ]]と[[同性愛]]の関係にあり、1901年に出版された小説に2人が互いに愛し合っていたことを記録している。▼
結婚の失敗とともに彼女はおもしろ半分に女優業と売春に手を出したし、今や、彼女はコカインと阿片の両方の多用者であったことが知られる。
彼女は高級娼婦としての経歴をヴァルテス・ド・ラ・ビーニャ伯爵夫人(the Countess Valtesse de la Bigne)とともに始めたが、公爵夫人はアンヌ・マリーに職業を教え、公爵夫人の記念となるベッドは光沢のある青銅製であった。自分自身を虚栄心が強いが愚か者ではないと言って、アンヌ・マリーは、絵画や書物、詩に対する興味を養ったが、知的深みを避けたが、彼女はそれを退屈だと見なしたからである。彼女はウィリアム・シェークスピアやリチャード・ワーグナーよりはカフェ演奏会や流行歌を選び、パリのフォリー・ベルジェールで、サンクトペテルブルクで、ローマやフランスのリヴィエラのキャバレー・クラブで、合唱に小さく出演した。彼女は良心的な帳簿係であった。
▲彼女はパリへ移ったのち、有名な高級娼婦となり、フォリー・ベルジェールにおいて[[ラ・ベル・オテロ]]のライヴァルと目されるほどの地位に上がった。彼女は
1920年、リアーヌは[[グルジア]]のプリンス
彼女は聖アグネス養護所に関わり、先天的欠損症を持つ子供たちの世話をした。リアーヌはスイスの[[ローザンヌ]]で亡くなった。
▲1920年、リアーヌは[[グルジア]]のプリンスだというジョルジェ・ギカと結婚し、自身もプリンセスとなった。この結婚は別居状態となったが正式な離婚はしなかった。[[第一次世界大戦]]で、一人息子マルコが飛行士として不慮の死を遂げると、リアーヌは信仰の生活に入り、[[修道女]]アンヌ・マリーとして[[ドミニコ会]]に入った。彼女は聖アニェス養護所の運営に関わり、生まれながらに障害を持つ子供たちの世話をした。リアーヌは[[ローザンヌ]]で亡くなった。81歳であった。
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