「日本酒の歴史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
118行目:
 
== 江戸時代 ==
=== 他所酒・摂泉十二郷の形成 ===
=== 江戸時代前期 ===
僧坊酒を継ぐように台頭してきたのが、室町時代中期から[[他所酒]]を生産し始めていた、[[摂津国]][[猪名川]]上流の[[伊丹市|伊丹]]・[[池田市|池田]]・[[鴻池流|鴻池]]、[[武庫川]]上流の[[小浜流|小浜(こはま)]]・[[大鹿]]などの酒郷であった。これらの酒郷は、のちに[[摂泉十二郷]]と呼ばれる上方の一大酒造地として発展していく母体となった。[[池田市|池田郷]]については「遠く[[飛鳥時代]]などに朝廷で[[#朝廷による酒造り|造酒司]]の[[杜氏|酒部]]たちが細々と酒を造っていたが、室町時代に酒の需要が高まったためそれでは追いつかなくなり、縁者が摂津で酒造りを始めたところ良い出来であったので、その子孫が[[池田市|池田郷]]に住んで酒造家になった」と古文書にある<ref name="shibatakebunsho">[http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/syuzo/syuzo/10_pic_big.html 『柴田家文書酒造り始之由来』1783年刊(神戸市文書館)]<br/ref>
のちに天明3年([[1783年]])に書かれた『柴田家文書酒造り始之由来』によれば、「遠く[[飛鳥時代]]などに朝廷で[[#朝廷による酒造り|造酒司]]の[[杜氏|酒部]]たちが細々と酒を造っていたが、室町時代に酒の需要が高まったためそれでは追いつかなくなり、縁者が摂津で酒造りを始めたところ良い出来であったので、その子孫が[[池田市|池田郷]]に住んで酒造家になった」といった主旨の記述がある<ref name="shibatakebunsho">[http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/syuzo/syuzo/10_pic_big.html 『柴田家文書酒造り始之由来』1783年刊(神戸市文書館)]</ref>。
 
[[奈良流]]の[[諸白]]を改良し、効率的に清酒を[[伊丹酒#大量生産|大量生産]]する製法が、慶長5年([[1600年]])に[[伊丹市|伊丹]]の[[鴻池善右衛門]](こうのいけぜんえもん)によって開発され、これが大きな契機となって次第に酒が本格的に一般大衆にも流通するようになっていった。
 
=== 日本酒の輸出 ===
また日本酒は、[[朱印船貿易]]により東南アジア各地に作られた[[日本人町]]やその国の王族などへ輸出された。とくに[[オランダ東インド会社]](略称VOC)の根拠地であった[[バタヴィア]](現[[インドネシア]]の一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部として欠くべからざるものとなったが、ヨーロッパ(おもに[[オランダ]])から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数が若干高いがために、バタヴィアを始めとした東南アジアにおいては、日本酒は[[食前酒]]、ワインを[[食中酒]]として飲むという独自の食文化の伝統が生まれた。
 
=== 四季醸造 ===
いっぽう日本国内においては、江戸時代初期には、後世から[[四季醸造]]と名づけられる技術があり、[[新酒]]、[[四季醸造|間酒]](あいしゅ)、[[四季醸造|寒前酒]](かんまえざけ / かんまえさけ)、[[寒酒]](かんしゅ)、[[四季醸造|春酒]](はるざけ)と年に五回、四季を通じて酒が造られていた。
 
酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合する一面を持っている。そこで幕府は、ときどきの[[米相場]]や食糧事情によって、さまざまな形で[[酒造統制]]を行なった。まず明暦3年([[1657年]])、初めて'''[[酒株]]'''(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。寛文7年([[1667年]])伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した[[寒造り]]が確立されると、延宝1年([[1673年]])には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され('''寒造り以外の禁''')、これにより四季醸造はしばらく途絶えた。こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ[[杜氏]]を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。
まず明暦3年([[1657年]])、初めて'''[[酒株]]'''(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。
寛文7年([[1667年]])伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した[[寒造り]]が確立されると、延宝1年([[1673年]])には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され('''寒造り以外の禁''')、これにより四季醸造はしばらく途絶える形となった。
 
こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ[[杜氏]]を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。
 
=== 酒株改め ===
このころは全国各地で、一般的に造り酒屋によって[[製造]]・[[卸売]]の兼業が行われていたが、とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても[[江戸酒問屋|専門問屋仲間]]が成立した。そして江戸に着いた荷をさばく[[江戸酒問屋#寄合いの形成|問屋の寄合い]]も形成された。いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。
 
一方、酒によって多大な利益を得る商人から、いかにして租税をとりたてるかが幕府にとって頭の使いどころでもあり、頭の痛い問題でもあった。幕府から見れば、酒株制度には[[酒株#酒造石高|酒造石高]]をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそこをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。そのため幕府は寛文6年([[1666年]])を始めとして何回か[[酒株#酒株改め|酒株改め]]をおこなった。ことに[[酒株#元禄の酒株改め|元禄の酒株改め]]([[1697年]])は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年([[1709年]])まで酒屋には[[酒株#運上金の導入|運上金]](うんじょうきん)も課せられた。
 
=== 江戸時代中期伊丹酒・池田酒・灘酒 ===
[[伊丹酒]](いたみざけ)や池田酒の評判はつとに高まり、元文5年([[1740年]])には伊丹『[[剣菱]]』が将軍の[[御膳酒]]に指定された。江戸市中の酒の相場でも、伊丹酒や池田酒は他の土地の酒に比べはるかに高値で取引されていた。
 
しかしこのころから[[神戸市|神戸]]・[[西宮市|西宮]]あたりの[[灘五郷|灘目三郷]]が新興の醸造地域としてすでに注目を集め始める。後世、銘醸地の代表格となる灘が、最初に文献に登場するのは正徳6年([[1716年]])であるが、享保9年([[1724年]])の[[江戸酒問屋#下り酒と地廻り酒|下り酒問屋]]の調査では、灘目三郷の名が伊丹酒を追い上げる酒の生産地として報告書に記載されている。これが江戸時代後期の[[灘五郷]]である。
 
=== 下り酒 ===
これら[[摂泉十二郷]](せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘やその周辺地域で造られた酒は、'''天下の台所'''といわれた集散地[[大阪|大坂]]から、すでに人口70万人を擁していた大消費地[[東京|江戸]]へ船で海上輸送された。こうして上方から江戸へ送られた酒を'''[[下り酒]]'''と呼ぶ。
 
時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、[[摂泉十二郷]]産のもので、それ以外では[[尾張国|尾張]]、[[三河国|三河]]、[[美濃国|美濃]]で造られ伊勢湾から合流する'''中国もの'''、他には[[山城国|山城]]、[[河内国|河内]]、[[播磨国|播磨]]、[[丹波国|丹波]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[紀伊国|紀伊]]で造られた酒が下り酒として江戸に入っていった。いっぽう関東側では、[[中川]]と[[浦賀]]に幕府の派出所があり、ここで江戸に入る物資をチェックしていた。この調査結果は[[下り酒#江戸入津|江戸入津]]と呼ばれ、幕府が江戸市中の経済状態を[[市場操作]]したり、国内の[[移入]][[移出]]の実態を調べるのに活用された。下り酒は、はじめは[[菱垣廻船]]で[[木綿]]や[[醤油]]などと一緒に送られていたが、享保15年([[1730年]])以降は[[樽廻船]]として酒荷だけで送られるようになった。
 
下り酒は、はじめは[[菱垣廻船]]で[[木綿]]や[[醤油]]などと一緒に送られていたが、享保15年([[1730年]])以降は[[樽廻船]]として酒荷だけで送られるようになった。
 
宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年([[1754年]])に[[酒株#宝暦の勝手造り令|勝手造り令]]を出し、[[新酒]]を造ることも許可した。このため四季醸造は復活の機会があったのだが、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。
 
宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年([[1754年]])に[[酒株#宝暦の勝手造り令|勝手造り令]]を出し、[[新酒]]を造ることも許可した。このため四季醸造は復活の機会があったのだが、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。
=== 江戸時代後期 ===
天明3年([[1783年]])に[[浅間山]]が大噴火し[[天明の大飢饉]]が起こると、幕府は、天明6年([[1786年]])に諸国の酒造石高を五割にするよう[[酒株#天明の酒株改め|減醸令]](げんじょうれい)を発し、天明8年([[1788年]])にはまたしても[[酒株#天明の酒株改め|酒株改め]]をおこない、その結果にもとづいて[[酒株#天明の酒株改め|三分の一造り令]]などが示達された。
 
=== 江戸時代前期 ===
[[松平定信]]は[[寛政の改革]]の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。
天明3年([[1783年]])に[[浅間山]]が大噴火し[[天明の大飢饉]]が起こると、幕府は、天明6年([[1786年]])に諸国の酒造石高を五割にするよう[[酒株#天明の酒株改め|減醸令]](げんじょうれい)を発し、天明8年([[1788年]])にはまたしても[[酒株#天明の酒株改め|酒株改め]]をおこない、その結果にもとづいて[[酒株#天明の酒株改め|三分の一造り令]]などが示達された。[[松平定信]]は[[寛政の改革]]の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。
 
享和2年([[1802年]])水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。この米のことを[[酒株#寛政の改革と酒株制度|十分の一役米]]という。酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年([[1803年]])に廃止された。
160 ⟶ 155行目:
文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年([[1806年]])にふたたび[[酒株#文化の勝手造り令|勝手造り令]]を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な[[酒株#無株者と株持ち|内部抗争]]を起こさせることになる。
 
天保8年([[1837年]])()<ref>一説には天保11年([[1840年]])))</ref>、[[宮水|山邑太左衛門]](やまむらたざえもん)によって[[宮水]](みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた[[灘五郷|灘]]へと移っていった。
 
== 明治時代 ==