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[[画像:Barney, Natalie Clifford (1876-1972) in 1892.jpg|thumb|200px|ナタリー・クリフォード・バーネイ(1892年)]]
'''ナタリー・クリフォード・バーネイ'''(Natalie(Natalie Clifford Barney, [[1876年]][[10月31日]] - [[1972年]][[2月2日]])は、[[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]]生まれの[[フランス]]の作家。[[レズビアン]]であることを公言し、生涯にわたって女性遍歴を重ねたことで有名。父からイングランドの、母からオランダとドイツの血を引いている。
 
バーネイのサロンは、60年間超のあいだ、パリの左岸で開かれ、世界中から作家や芸術家を集めたが、そのなかには、失われた世代のアメリカやイギリスのモダニストに加えて、フランス文学の多くの中心人物も含まれていた。
 
彼女は、女性による執筆を推進するために働いたし、全員が男性であるアカデミー・フランセーズに対抗して「女性アカデミー」(Women's Academy)を結成し、その一方でレミ・ド・グールモンからトルーマン・カポーティに至る男性作家に支援と霊感を与えた。<ref>Schenkar, 161–181.</ref>
 
彼女は公然たる女性同性愛者であったし、醜聞を「厄介【若い男性からの異性愛的な注目を意味する】払いをする最上の方法」と考えて、早くも1900年に実名で女性への愛の詩を刊行し始めた。
 
彼女は、著作の中で、女権拡張男女同権主義や平和主義を支持した。
 
彼女は、単婚制には反対し、互いに重なり合う長期間短期間さまざまの多くの関係をもったが、そのなかには詩人ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien)や舞踊家アーメン・オハニアン(Armen Ohanian)との断続的なロマンス、画家ローメン・ブルックス(Romaine Brooks)との50年間の関係も含まれていた。
 
彼女の人生と恋愛事件は、多くの小説にとって霊感がわりになったが、その範囲はわいせつなフランスのベストセラーである『Sapphic Idyll』から、20世紀の最も有名な女性同性愛の小説である『The Well of Loneliness』に及ぶ。<ref>Barney's roles in ''Sapphic Idyll'' and ''The Well of Loneliness'' are discussed in Rodriguez, 94–95 and 273–275; regarding the fame of ''The Well'', see Lockard.</ref>
 
==前半生==
[[画像:Natalie and Missal.jpg|thumb|right|13歳ころのバーネイとミサ典書 アリス・パイク・バーネイ作]]
バーネイは、1876年にオハイオ州のデートンに、アルバート・クリフォード・バーネイとアリス・パイク・バーネイの子として生まれた。<ref>Rodriguez, 18–19.</ref>父親は裕福な鉄道車両製造業者の息子で、イギリス系で、母親はフランス、オランダ、ドイツ系であった。<ref>Rodriguez, 1–14.</ref>母方の祖父の父親は、ユダヤ人であった。<ref>Rodriquez, p. 5</ref>バーネイが5歳であったとき、一家はニュー・ヨークのロング・ビーチ・ホテルで避暑をしていたが、偶然、オスカー・ワイルドがアメリカ講演旅行中でそのホテルにいた。ワイルドは、少年の一団から自分の横を走って逃げる彼女をすくいあげ、彼らの手の届かぬところに彼女を置き、ひざに彼女を座らせ、物語を聞かせた。<ref>Rodriguez, 31. バーネイは''Adventures of the Mind'', 31で、この事件を詳細に物語った</ref>翌日、彼は浜辺で彼女と彼女の母といっしょになったが、そこでの会話が、夫の幾年後かの反対にもかかわらず、芸術を真剣に追求する霊感をアリスに与えて彼女の人生行路を変えた。<ref>Rodriguez, 30–31.</ref>
彼女はのちにカロリュス=デュラン(Carolus-Duran)やジェームズ・マクニール・ホイッスラーのもとで研究した。<ref>Haskell.</ref>
アリス・パイク・バーネイの絵画作品の多くは、現在、スミソニアン・アメリカ美術館にある。<ref>''Alice Pike Barney: Biography''.</ref>
 
当時の多くの少女と同様に、バーネイもでたらめな教育を受けた。<ref>Rodriguez, 62.</ref> 彼女のフランス語への関心は、ジュール・ヴェルヌの物語を音読してくれた女性家庭教師から始まったので、彼女はすぐにそれらを理解したのであろう。<ref>Secrest, 262.</ref>のちに彼女と妹ローラ・クリフォード・バーネイは、レ・ロシュに通学したが、ここは女権拡張男女同権論者のマリー・スーヴェストル(Marie Souvestre)が創設し、エレノア・ルーズベルトのような有名人が通学したフランスの全寮制学校である。<ref>Rodriguez, 39.</ref>成人として彼女はなまりのないフランス語を流暢に話し、パリに居を定めた。彼女のほとんどすべての刊行作品は、フランス語で書かれた。
 
彼女が10歳であったとき、一家はオハイオ州からワシントンDCに移り、メーン州のバー・ハーバー(Bar Harbor)で幾夏かを過ごした。町きっての裕福な家庭のひとつの、反抗的な、型にはまらない令嬢として、彼女はしばしばワシントンの諸新聞に名前が出た。20歳代初めに彼女は、ひもでつないだ2頭目のウマに自分の前を走らせつつバー・ハーバーを襲歩で走り抜けたり、両脚を片側に垂らす片鞍乗りをせずに脚を開いてまたがって乗ったりして、大ニュースになった。<ref>Rodriguez, 59–60, 191.</ref>
<!-- [[File:Liane de Pougy postcard.jpg|upright|thumb|right|[[リアーヌ・ド・プジー]]を描く郵便葉書]]うまく表示できません-->
 
バーネイは、自分が女性同性愛者であることを12歳までに知ったし<ref>Rodriguez, 52.</ref>、「率直に、何も隠さずに生きる」決心をした、とのちに言った。<ref>Benstock, 272.</ref>1899年、バーネイはパリのダンス・ホールで高級娼婦リアーヌ・ド・プジーを見たあと、小姓の衣裳でプジーの住まいに現われ、自分はサッポーが使わした「愛の小姓」であると伝えた。プジーは、肩書のある裕福な人々のあいだでいつもひっぱりだこの、フランスで最も有名な女性のひとりであったが、バーネイの大胆さは彼女を魅了した。 ふたりの短い情事は、プジーの、すべてを語るモデル実話小説『Idylle Saphique』(サッポーの田園詩)の題材となった。本書は1901年に刊行されて、パリのうわさになり、初年で69回にわたって重刷された。バーネイはまもなく作中人物のひとりのモデルとしてよく知られていた。しかしながら、このときまでに、ふたりは、高級娼婦の生活からプジーを救出したいというバーネイの望みをめぐって喧嘩が繰り返されたあげく、すでに別れていた。<ref>Rodriguez, 88–103.</ref>
 
バーネイ自身は、『Idylle Saphique』にひとつの章を寄稿したが、そこで彼女は、サラ・ベルナールの劇ハムレットを見物する、劇場の、仕切りを立てられたボックス席でプジーの足元で横になっているところを描写した。<ref>Rodriguez, 97.</ref>幕間の間中、バーネイは(「フロッシー」として)ハムレットの苦境を女性のそれと比較した:「無慈悲な運命が、行為への情熱を感じる女性を鎖につなぐとき、彼女らにとって何があるであろう? 承認される法律が男性の法律のみであるときに、運命がわれわれを女性にした」<ref>As translated in Wickes, 40.</ref>彼女はまた情事に関する彼女自身の書簡体小説『Lettres à une Connue』(『わたしの知っているある女性への書簡集』)を書いた。バーネイは本書の出版者を見つけられなかったし、のちにこれを世間知らずで下手だと考えたが、これは男性同性愛に関する議論で有名であって、バーネイは男性同性愛を自然なものと見なし、[[アルビノ]]にたとえた。<ref>Rodriguez, 95.</ref>「わたしの同性愛は悪徳ではないし、故意ではないし、誰にも危害を加えていない」と彼女は言った。<ref>As translated in Souhami (2005), 57.</ref>
 
==エヴァ・パーマー・シケリアノス==
[[File:Eva Palmer-Sikelianos.jpg|upright|thumb|left|エヴァ・パーマー・シケリアノス]]
 
バーネイの最初の親密な関係はエヴァ・パーマー・シケリアノスとのものであった。1893年、ふたりはメーン州のバー・ハーバーにおける避暑休暇中に知り合った。バーネイはパーマーを中世の処女にたとえたが、これは彼女の足首までの赤毛、海緑色の眼、白い肌への賛辞であった。ふたりは幾年にもわたって親密なままでいることになる。パリにおける若い成人として、ふたりはシャルグラン通り4番地のアパルトマンを共有することになる。のちにふたりはヌイイーにそれぞれ自分の場を持つことになる。<ref>Rodriquez, 150.</ref>バーネイは、別の女性らを、言い換えれば<!--原文namely(すなわち)。「たとえば」とすべきところ?-->ポーリン・ターンを、ロマンチックに追うことにしばしばパーマーの助力を求めることになる。<ref>Rodriquez, 149, 164-165.</ref>パーマーは最後にはギリシアに向けてバーネイのもとを去り、アンゲロス・シケリアノスと結婚することになる。ふたりの関係はこれらの事態の展開のあとは続かないことになるし、バーネイはアンゲロスをよく思わなかったし、激した手紙が交わされた。<ref>Rodriquez, 169-171.</ref>のちにふたりの人生において、友情関係は修復されることになるし、ふたりとも自分たちがたがいの人生において演じた役割について成熟した見方をした。<ref>Rodriquez, 308, 330.</ref>
 
==ルネ・ヴィヴィアン==
1899年11月、バーネイは、ルネ・ヴィヴィアンというペン・ネームのほうがよく知られる、ポーリン・ターンに会った。ヴィヴィアンにとってはこれは一目惚れであったが、バーネイは、彼女が詩作品のうち1篇を朗誦するのを聞いたのちヴィヴィアンに魅せられ、<ref>Rodriguez, 105–106.</ref>これを彼女は「死への願望に取り憑かれた」と描写した。<ref>Barney, ''A Perilous Advantage'', 15.</ref>ふたりのロマンチックな関係はまた、どちらにとっても執筆の霊感を与える創造的な交換でもあった。バーネイは、ヴィヴィアンが詩において探求した女権拡張男女同権論の理論的な枠組みを与えた。ふたりは、歴史と神話のなかに英雄的な女性の例を探すこともしながら、女性間の愛を記述する宮廷風恋愛の約束事に加えて、象徴主義詩人のイメージャリーを採用した。<ref>Jay, xii–xiv.</ref>サッポーは特別に重要な、影響を与える者であったし、ふたりは、サッポーの現存する断片を原文で読むためにギリシア語を研究した。ふたりともサッポーの人生に関する劇を書いた。<ref>Jay, 63, 67.</ref>
<!-- [[File:Natalie Barney and Renee Vivien.jpg|upright|thumb|right|[[ルネ・ヴィヴィアン(左)とバーネイ フランス総裁政府時代の衣裳で 1900年頃]]うまく表示されません-->
 
ヴィヴィアンはバーネイを[[ムーサ]]と見なし、バーネイが言うように、「彼女は、ほとんど私を知らないままに、わたしを通じて、新たな霊感を見出した」。バーネイは、ヴィヴィアンが彼女に[[ファム・ファタール]]の役を割り当ていたことや、彼女は彼女の芸術のために「もっぱら苦しむことに...没頭すること」を欲していることを感じた。<ref>Barney, ''A Perilous Advantage'', 19, 24–25.</ref>ヴィヴィアンはまた貞節の価値を信じたが、バーネイはそれに同意することには気が進まなかった。1901年、バーネイがワシントンD.C.にいる家族を訪問している間、ヴィヴィアンは彼女の手紙に返事を出すのをやめた。バーネイは幾年間にもわたって彼女を取り戻そうとし、あるとき友人であるオペラティック・メゾソプラノのエンマ・カルヴェを説得してヴィヴィアンの窓の下で歌わせて、彼女はバルコニーにいるヴィヴィアンに詩(花束に巻き付けた)を放り上げることができた。花も詩もどちらも女性家庭教師によって横取りされ、返された。<ref name="jay-11">Jay, 11–15.</ref>
 
1904年、彼女は『Je Me Souviens』(『わたしは憶えている』)を書いたが、これは、ヴィヴィアンを取り戻そうと企てて、彼女あてに贈られたたった一通の自筆の、ふたりの関係に関する、強烈に個人的な散文詩であるふたりは和解し、連れだってレスボス島に旅行したが、この島に二人は幸福に短い間、住んで、伝承ではサッポーが約2500年前に設立したような、女性のための詩の学校を始めることを語り合った。しかしながら、ヴィヴィアンはまもなく恋人のエレーヌ(ツイレン・ド・ニーヴェルト男爵夫人(the Baroness de Zuylen de Nyevelt))から手紙を受け取り、彼女と別れることを考えながらコンスタンティノープルに行った。ヴィヴィアンは、のちにパリでバーネイに会う計画であったが、そのかわりに男爵夫人の家に滞在し、今度は破綻は永続的であった。<ref name="jay-11" />
 
ヴィヴィアンの健康はこののち急速に衰えた。ヴィヴィアンの友人で隣人のコレットによれば、彼女はほとんど何も食べず、大酒を飲み、臭いを消すために香りをつけた水で口をゆすぐことをさえした。<ref>Colette, 83–103.</ref>コレットの記述は、一部の人々に、ヴィヴィアンを神経性無食欲症患者と称する気にさせるが、この診断は当時、存在しなかった。ヴィヴィアンはまた鎮静剤である抱水クロラールを常用していた。1908年、彼女は阿片チンキの過剰摂取のよる自殺未遂をし、<ref>Rodriguez, 116, 186–187.</ref>翌年、死去した。50年後に執筆された回想録でバーネイはこう言った、「彼女は救おうとしても救うことはできなかった。彼女の人生は、長い自殺であった。すべてのものが、彼女の両手においては塵と灰になった。」<ref>Barney, ''Souvenirs Indiscrets'', quoted in Souhami (2005), 52.</ref>
 
==詩と劇==
<!-- [[Image:Quelques Portraits-Sonnets de Femmes.jpg|upright|thumb|right|『Quelques Portraits-Sonnets de Femmes』の1900年版の表紙]] うまく表示されません-->
 
1900年、バーネイは、処女作を刊行したが、それは『Quelques Portraits-Sonnets de Femmes』(『女性たちの肖像ソネット数編』)という詩集であった。それらの詩作品は、バーネイが自由詩を好まなかったので、伝統的なフランス語韻文と形式的な、旧式のスタイルで書かれた。これらの詩作品は「徒弟の作品」と記述されてきたが、この刊行によってバーネイは、サッポー以後、女性の愛について公然と書いた最初の女性となった。<ref>Rodriguez, 115.</ref>彼女の母は、彼女のためにモデルとなる4人の女性のうち3人が娘の恋人たちであることを全く気づかずに、詩作品の題材のパステルによる挿絵を寄与した。<ref>Kling, 137.</ref>
 
書評は全般的に肯定的で、詩作品の女性同性愛的主題を曲解し、なかには誤解さえしたものもある。「ワシントン・ミラー」によれば、バーネイは「男性の唇と眼へのオードを書く。初心者のようにでもない。」<ref>''Washington Mirror'', March 9, 1901. Quoted in Rodriguez, 121.</ref>しかしながら、社交界ゴシップ紙の見出しは「ワシントンのサッポーが歌う」とわめきちらし、これは彼女の父に警戒させ、彼は出版社の残っている在庫と印刷版を買い求め、破壊した。<ref>Rodriguez, 123.</ref>
 
[[Image:Alice Pike Barney - Waterlily.jpg|thumb|left|
『睡蓮』 アリス・パイク・バーネイ作 パステル/紙 1910年 バーネイのいとこであるエレン・ゴワンの肖像 『Quelques Portraits-Sonnets de Femmes』の挿絵のひとつ スミソニアン・アメリカ美術館所蔵]]
 
父の統治を避けるためにバーネイは次の書物『Cinq Petits Dialogues Grecs』(『短いギリシアの対話5篇』)をトリフェ(Tryphé)という偽名で刊行した。この名前はピエール・ルイスの諸作品に由来したが、彼は原稿を編集・改訂するのを手伝った。バーネイはまた本書を彼に捧げた。対話のうち第一の舞台は古代ギリシアで、サッポーの長い描写を含むが、彼女は、「他のひとが自分の誠実さに忠実である以上に、自分の移り気に忠実」である。もうひとつのは、キリスト教に対する異教の優位を議論する。<ref>Wickes, 50–52.</ref>1902年の父の死亡は、彼女に相当の財産を遺し、彼女が、書物の著者であることをかくす必要を無くした。彼女は二度と偽名を使わなかった。<ref>Rodriguez, 150–151.</ref>
 
『Je Me Souviens』は、ヴィヴィアンの死後、1910年に刊行された。<ref>Rodriguez, 203–204</ref>同年、バーネイは『Actes et Entr'actes』(『幕と幕間劇』)を刊行したが、これは短い劇と詩作品の選集である。劇のうち1篇は『Equivoque』(『曖昧』)であったが、これはサッポーの死の伝説の修正主義版である。サッポーは、船員ファオンへの愛のために絶壁から身を投げるのではなく、ファオンが、自分が愛する女性と結婚しようとする悲しみからそのようにする。劇は、サッポーの断片からの引用を、バーネイ自身のギリシア語による脚注と合体させる。<ref>Benstock, 291.</ref>
 
バーネイは、「もしわたしにひとつの野望があったなら、それはわたしの人生を詩にすることであった」と言って、ヴィヴィアンほどには詩を真面目に受け止めていなかった。彼女の劇は、彼女の庭でアマチュア劇団によって上演されたにすぎない。カーラ・ジェイによれば、それらの大半は首尾一貫した筋を欠き、「いかに共感的な観客であっても十中八九、彼らを困惑させるであろう。」<ref>Jay, 53.</ref>1910年以降、彼女は主としてエピグラムと回想録を執筆し、彼女はそれによってよく知られている。彼女の最後の詩集は『Poems & Poemes: Autres Alliances』といい、フランス語と英語と両方でのロマンチックな詩を集めて、1920年に刊行された。バーネイは、エズラ・パウンドにこれら詩作品の刊行を依頼したが、その一方で彼が作った詳細な推薦状を無視した。<ref>Rodriguez, 255–256.</ref>
 
==サロン==
60年間超にわたってバーネイは文学サロンを主催したが、これは、人々が集まって社交し、文学、美術、音楽その他の重要な話題を議論する、週に1回の集まりである。バーネイは女性の執筆のために努力した一方で、また当時、最も有力な男性作家のうち幾人かに対して主人役としてもてなした。彼女は、国外に追放されたモダニストらと、アカデミー・フランセーズの構成員らをたくみにまとめた。ジョアン・シェンカー(Joan Schenkar)はバーネイのサロンを、「女性同性愛の、学者らとの密会の約束と面会の約束とが、一種の陽気な、他家受粉している、不協和音において共存し得る場所」と描写した。<ref>Schenkar, 164–165; see also Rodriguez, 183.</ref>
 
1900年代にバーネイはヌイイーにある家屋でサロンの初期の会合を開いた。娯楽のなかには、詩の朗読やしろうと芝居(コレットが時々演じた)もあった。マタ・ハリが一度ダンスを演じたが、彼女はゴダイヴァ夫人のように、七宝焼きのトルコ石の輓具をつけた白馬に乗って庭に入ってきた。<ref>Schenkar, 144.</ref>
 
[[Image:Atget - Pavillon at 20 Rue Jacob.jpg|thumb|right|
60年間サロンが開かれた2階建ての「パヴィリオン」 ジャコブ通り20番地]]
 
劇『Equivoque』が、1909年にバーネイにヌイイーを去る気にさせたかもしれない。当時の新聞記事によれば、家主<!--地主?-->が、サッポーに関する劇の屋外上演に反対した。<ref>''Dayton Journal'', November 14, 1909. Quoted in Rodriguez, 172.</ref>バーネイは、賃貸借契約を取り消し、パリのカルチェラタンのジャコブ通り20番地のパヴィリオンを賃借し、そこで1960年代後半までサロンは開かれた。これは、通りに接する母屋から三面が隔てられた、小さな2階家であった。パヴィリオンの隣には、一隅にドリス様式の「友情の寺院」が押し込まれた、草木が生い茂った大きな庭があった。この新たな場所で、サロンは、詩の朗読と会話のある、一層とりすました外観を見せたが、ひょっとするとこれは、バーネイがパヴィリオンの床はもし大きなダンシング・パーティーが行われればそれを支えないであろうと言われていたからであるかもしれない。この期間中の常連には、ピエール・ルイス、ポール・クローデル、フィリップ・ベルトロ、J.C.マルドリュスも含まれていた。<ref>Wickes 108–109.</ref>
 
第2次世界大戦中、サロンはこれら戦争に反対する人々にとって避難所となった。アンリ・バルビュスは、その反戦小説『砲火』から朗読したし、バーネイはジャコブ通りで平和女性会議(Women's Congress for Peace)を主催した。戦争中のサロンの訪問者には、オスカー・ワイルド、オーギュスト・ロダン、そして詩人アラン・シーガー、彼は賜暇中にフランス外人部隊から来た。<ref>Rodriguez, 221–223.</ref>
 
[[Image:Atget - Temple of Friendship at 20 Rue Jacob.jpg|upright|thumb|left|友情の寺院 ジャコブ通り20番地 1910年]]
 
1920年代初めに、エズラ・パウンドはバーネイの親友であったし、しばしば訪問した。ふたりは、ポール・ヴァレリーとT.S.エリオットが仕事をやめ、執筆に焦点を合わせることができるように助成補助金が与えられるように企んだが、ヴァレリーは他のパトロンを見つけたし、エリオットは交付金を拒否した。パウンドはバーネイを前衛作曲家ジョージ・アンタイルに紹介したし、彼女自身の音楽の趣味は伝統的なものに傾いたいっぽうで、彼女はアンタイルの『5台の楽器のための交響曲』と『弦楽四重奏曲』の初演において主人役を務めた。またパウンドが長年の情婦であるヴァイオリニストのオルガ・ラッジに会ったのは、バーネイのサロンにおいてであった。<ref>Conover, 2–3.</ref>
 
1927年、バーネイは、女性作家に光栄を与える「Académie des Femmes」(女性アカデミー)を始めた。これは17世紀にルイ13世によって創設され、当時その「不死者」にひとりも女性を含んでいなかった有力なアカデミー・フランセーズへの応答であった。アカデミー・フランセーズとはちがって、彼女の女性アカデミーは形式を重んじる組織ではなく、定期的な金曜日のサロンの一部として開かれる一連の朗読であった。栄誉を受けた人々には、コレット、ガートルード・スタイン、アン・ウィッカム(Anna Wickham)、ラシルド(Rachilde)、リュシー・ドラリュ=マルドリュス、ミナ<!--マイナ?-->・ロイ(Mina Loy)、ジューナ・バーンズ、そして死後にはルネ・ヴィヴィアンも含まれる。<ref>Wickes, 153, 167.</ref>
 
20年代のサロンのほかの訪問者には、フランスの作家アンドレ・ジイド、アナトール・フランス、マックス・ジャコブ、ルイ・アラゴン、ジャン・コクトー、英語作家フォード・マドックス・フォード、サマセット・モーム、F.スコット・フィッツジェラルド、シンクレア・ルイス、シャーウッド・アンダーソン、ソーントン・ワイルダー、T.S.エリオット、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、さらにドイツの詩人ライナー・マリア・リルケ、ベンガルの詩人ラビンドラナート・タゴール、外交官マチラ・ギカ、ジャーナリストのジャネット・フラナー、ナンシー・キュナード、刊行者メアリー・フェルプス・ジェイコブとハリー・クロスビー、美術収集家でパトロンのペギー・グッゲンハイム、シルヴィア・ビーチ(ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』を刊行した書店主)、画家タマラ・ド・レンピッカ、マリー・ローランサン、そして舞踊家イサドラ・ダンカンも含まれる。<ref>Rodriguez, 246–247.</ref>
<!-- [[Image:Natalie Barney - Aventures de L'Esprit.jpg|upright|thumb|right|『Aventures de l'Esprit』表紙]]うまく表示されません-->
 
1929年の著書『Aventures de l'Esprit』(『精神の冒険』)のために、バーネイは、サロンに出席した100人を超える人々の名前を、家、庭、「友情の寺院」の略地図に押し込んだ社会的図式を作った。前半は、多年にわたって彼女の知る、または会った男性作家13人の思い出で、後半は彼女の「Académie des Femmes」(女性アカデミー)の各構成員のために章があった。<ref>Rodriguez, 260.</ref>このジェンダー的に均衡の取れた構成は、書物の包装で貫かれてはいなかったし、包装は男性作家のうち8人を名簿に載せ、それから「...幾人かの女性」と付け加えた。
 
20年代後半に、ラドクリフ・ホールは、その小説『The Well of Loneliness』がイギリスで禁止されたのち、大勢の人々を引きつけた。<ref>Flanner, 48.</ref> 1932年、詩人エドナ・ミレイによる朗読は、サロンをいっぱいにした。1930年代の別の金曜日のサロンでは、ヴァージル・トムソンが、『3幕の4人の聖人』から歌ったが、これはガートルード・スタインによる台本に基づくオペラである。<ref>Rodriguez 249–50, 301.</ref>
 
パリで時間を過ごした有名なモダニスト作家のうち、アーネスト・ヘミングウェイは、ひとたびもサロンに姿を現さなかった。ジェームズ・ジョイスは、一二度現われたが、これを気にしなかった。マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて』のために調査をしている間に女性同性愛文化についてバーネイと話し合うために一度ジャコブ通り20番地に実際に来たが、金曜日のには一度も出席しなかった。彼の訪問は、彼の不健康のためにくりかえし延期されたし、会見が実際にやっと行われたとき、彼はあまりに神経質で、目的の話題を持出すことが出来なかった。<ref>Rodriguez, 250–251.</ref>
 
==エピグラムと小説==
『Éparpillements』(『四散したもの』1910年)はバーネイの最初の『パンセ』(「pensées」)--文字通りには、思考--の最初の選集であった。
この文学形式は17世紀以来フランスにおけるサロン文化と関係があったが、当時、このジャンルはサブレ夫人のサロンで完成された。<ref>Conley, 20.</ref>バーネイの『パンセ』は、サブレ自身の『格言集』と同様に、短く、しばしば一行のエピグラムすなわち「bon mot」(気の利いた言葉)であって、たとえば「悪い口よりも邪悪な耳が多い」、「結婚しているとは、ひとりでいることでも一緒にいることでもない」。<ref>Barney, ''A Perilous Advantage'', 97.</ref>
<!--
[[Image:Rouveyre - Le Philosophe Chez Ses Amies.jpg|thumb|right|300px|Remy de Gourmont with Elisabeth de Gramont and Barney in 1913. Drawing by [[André Rouveyre]].]]
André Rouveyre (1879-1962)による線画で、日本語版では著作権上不可かもしれないのでコメントにします。お詳しい方よろしく
-->
 
彼女が『Éparpillements』を一部、レミ・ド・グールモンに送ったのち、彼女の文学的経歴は後押しをうけたが、彼はフランスの詩人、文芸批評家、哲学者で、30歳代に美観を損なう疾病である尋常性狼瘡にかかったのち隠者になっていた。<ref>Wickes (120), Rodriguez (190), and Jay (26) はいずれも、ド・グールモンの病気を単に「lupus(狼瘡)」と言及するが、Denkiger (1148) その他のフランスの源はそれを「lupus tuberculeux(結核性狼瘡)」と称する--見たところlupus vulgaris(尋常性狼瘡)であり、これは皮膚の結核の一形式であり、全身紅斑性狼瘡(systemic lupus erythematosus)とは関係は無く、いま一般にlupus(狼瘡)として知られる。</ref>彼は今や、彼女を家庭の日曜日の会合に招待するほど感動したが、そこで彼は通例、少人数の旧友のみを迎えていた。彼女は、彼の人生において回春の影響を与える者であったし、彼をなだめすかして晩の乗用車の遠乗り、ジャコブ通りでの晩餐、仮面舞踏会、そしてセーヌ川での短い船旅にさえ外出させた。彼は、広範囲にわたる会話のうちいくつかを、『メルキュール・ド・フランス』で一連の手紙にして公表したが、彼は彼女を「l'Amazone」と呼んだが、これは女性騎馬者をも、[[アマゾーン]]をも意味し得るフランス語単語である。その諸書簡はのちに単行本に集められた。彼は1915年に死去したが、彼が彼女につけたあだ名は、生涯、彼女とともに生きることになる--彼女の墓石すら、彼女の身元を「レミ・ド・グールモンのアマゾン」と確認する--そして彼の『アマゾン宛ての手紙』は読者を、彼らに霊感を与えた女性に関してもっと知りたいままにしておいた。<ref>Rodriguez, 191–196, 199–201.</ref>
 
バーネイは、1920年に最も公然たる政治的な作品『Pensées d'une Amazone』(『アマゾンの思考』)をありがたくも出してくださった。第1部「性的逆境、戦争および女権拡張男女同権論」において、彼女は女権拡張男女同権主義と平和主義を展開し、戦争を「男性によって定められる不随意的集団的自殺」と記述した。<ref>Benstock, 296.</ref>彼女は、戦争において男性たちは、「女性が生命の母となるように、死の父となる」と言った。<ref>Jay, 29.</ref>エピグラム的形式は、バーネイの見解の細部を決定することを困難にしている。思想は結局は抜け落ちているし、なかには相互に矛盾している「パンセ」もあるように思われる。<ref>Rodriguez, 257–258.</ref>批評家のなかには、彼女は、戦争に至る侵略は、すべての男性関係において可視的であると言っていると解釈するものもいる。しかしながらカーラ・ジェイは、彼女の哲学はそれほど広範囲なものではないし、「戦争を『愛する』人々は、適切な気晴らしの愛を--生活の技術を--欠いている」というエピグラムによく要約されていると主張する。
 
『Pensées d'une Amazone』の別の部「誤解、あるいはサッポーの訴訟」は、同性愛に関する歴史的文書を、彼女自身の注釈とともに集めた。<ref>Rodriguez, 259.</ref>また彼女は、「小説は人生よりも長い」<ref>Barney, ''A Perilous Advantage'', 118.</ref>そして「ロマン主義は幼年時代の病気である。若くしてこれにかかる人々は強壮である」<ref>Barney, ''A Perilous Advantage'', 123.</ref>と書いて、アルコールや友情、老年、文学のような論題を取り扱った。第3巻『Nouvelles Pensées de l'Amazone』(『アマゾンの新思考』)は1939年に現われた。
 
『The One Who is Legion, or A.D.'s After-Life』(1930年)は、バーネイのただ一つの小説であるうえに、全文、英語で書かれたただ一つの本であった。これはローメン・ブルックスの挿絵入りで、A.D.としか知れない自殺者に関係するが、彼女は半陰陽的存在として生き返らせられ、彼女自身の人生の書を読む。この書物内書物は『A.D.の生涯』という題名で、バーネイ自身の著作とほぼ同じように、賛歌や詩作品、エピグラムの選集である。
 
==主な関係==
バーネイは非単婚制を実践し、そして擁護した。早くも1901年に『Cinq Petits Dialogues Grecs』において、彼女は多角的な関係に賛成し、嫉妬に反対した。<ref>Rodriguez, 139</ref>『Éparpillements』において彼女は書いた、「ひとは、魅力がたんなる習慣にならない目的で愛するひとには、非誠実である」。<ref>Barney, ''A Perilous Advantage'', 103.</ref>彼女自身は嫉妬することがあったが、そのうえ、彼女は、少なくとも自分の恋人のうち幾人かを、非単婚的であるように積極的に鼓舞した。
 
ひとつには、英語で『Portrait of a Seductress』として刊行されたジーン・シャロン(Jean Chalon)の初期の伝記のおかげで、彼女は、執筆やサロンでよりも、多くの関係で、より広く知られた。彼女はかつて一覧表を完全に書きあげ、3つの範疇に分けた。すなわち、密通(liaisons)、半密通(demi-liaisons)および冒険(adventures)。
コレットは半密通であったが、画家・家具デザイナーのエア・ド・ラヌックス(Eyre de Lanux)は、彼女は彼と幾年間か断続的な情事があったが、冒険として名簿に載せられた。密通--彼女が最も重要と見なした関係--のうちには、オリーヴ・カスタンス(Olive Custance)、ルネ・ヴィヴィアン、エリザベート・ド・グラモン、ローメン・ブルックス、ドリー・ワイルドがいた。<ref>Schenkar, 156, and Rodriguez, 298, give slightly different accounts of this list.</ref>これらのうち3つの最長の関係は、ド・グラモン、ブルックス、そしてワイルドとのものであった。1927年から彼女はこれら3人全員と同時に関係を持ったが、これはワイルドの死によってようやく終った。コレットやリュシー・ドラリュ・マルドリュスとの情事のような、彼女のより短い情事は、しばしば終生の友情に展開した。
 
===エリザベート・ド・グラモン===
[[Image:Elisabeth de Gramont - Nadar - 1889.jpg|upright|thumb|right|エリザベート・ド・グラモン 1889年 ナダール撮影]]
 
クレルモン=トネール公爵夫人エリザベート・ド・グラモンは、人気のある回想録で最もよく知られる作家であった。<ref>(Antonia Corisande) エリザベート・ド・グラモンは1875年4月23日にナンシーに生まれ、1954年12月6日にパリで死んだ。彼女はアントワーヌ・アルフレッド・アジェノール・ド・グラモン(1851年-1925年)と妻、旧姓イザベル・ド・ボーヴォ・クラオン(1852年-1925年)の娘であった。彼女は(エーメ・フランソワ)フィリベルト・ド・クラーモント=トネール、ド・クラーモント=トネール第8代公爵、と1896年6月3日に結婚した。二人には1920年の離婚の前に2人の娘がいた。</ref>フランスのアンリ4世の子孫である彼女は、貴族の間で成長した。彼女が子供であったとき、ジャネット・フラナーによれば、「彼女の農場の農夫が...彼女に、われわれの家の中に入る前に靴を洗わないようにと懇願した。」<ref>Flanner, 43.</ref>彼女は、富と特権の失われたこの世界をふり返ってもほとんど残念に思わず、社会主義の支持で「赤い公爵夫人」として知られるようになった。
彼女がバーネイに会った1910年に、彼女は結婚して娘が2人いた。彼女の夫は暴力的で暴君的であったと言われている。<ref>Rodriguez, 196–199.</ref>ふたりは最後には別れたし、1918年に彼女とバーネイは婚姻契約を書き上げたが、そこでは「この結婚ほど、強い結婚は無く、優しい結婚は無いし、--長続きする関係は無い」<ref name="rapazzini">Rapazzini.</ref>
 
ド・グラモンはバーネイの非単婚を--ひょっとすると最初はいやいや--受入れ、わざわざ他の恋人たちに親切にしたが、<ref>Rodriguez, 227–228</ref>そのなかには、彼女がバーネイを田園の休暇に招いたときのローメン・ブルックスが含まれていた。関係は1954年のド・グラモンの死去まで続いた。
<!-- [[Image:Natalie Barney and Romaine Brooks.jpg|thumb|left|バーネイとローメン・ブルックス 1915年ころ]]うまく表示されません-->
 
===ローメン・ブルックス===
バーネイの最も長い関係は、アメリカの画家であるローメン・ブルックス(1874年 - 1970年)とのものであったが、彼女は彼女に1914年ころに会った。ブルックスは、肖像画が専門であったし、グレーや黒、白というくすんだパレットで有名であった。1920年代に彼女は、バーネイの交際範囲内の幾人かの構成員の肖像画を描いたが、そのなかにはド・グラモンやバーネイ自身も含まれる。ブルックスは、バーネイのゆきずりの情事を、そのことで彼女をからかえるくらいよく我慢したし、そして長い年月にわたる自分自身のが幾つかあったが、しかし新たな恋が真剣になると嫉妬深いことがあった。
いつもは彼女は町を立ち去るだけであったが、あるとき彼女はバーネイに、彼女かドリー・ワイルドかのいずれかを選ぶ最後通牒を発した--かつて優しいバーネイが発していた。<!--relenting once Barney had given in-->。<ref>Rodriguez, 295–301.</ref>それと同時に、ブルックスはバーネイを熱愛していながら、フルタイムのカップルとして彼女と共に暮らしたくはなかった。彼女はパリを嫌い、バーネイの友人たちを軽蔑し、バーネイが成功している絶え間ない交際をきらい、ひとりきりでいるときにしか完全に自然にふるまっていないと感じた。<ref>Souhami (2005), 137–139, 146, and Secrest, 277.</ref>ブルックスの孤独の必要をみたすために、ふたりは、二つの翼をダイニング・ルームでつなぐサマー・ハウスを建てたが、ふたりはそれを「Villa Trait d'Union」、ハイフンでつないだヴィラ、と呼んだ。またブルックスは年の大部分をバーネイから離れて、イタリアで過ごすか、ヨーロッパの他の場所を旅行して過ごした。ふたりは50年余の間たがいに熱愛し合ったままでいた。
 
===ドリー・ワイルド===
ドリー・ワイルド(1895年 - 1941年)はオスカー・ワイルド(彼にナタリー・バーネイは少女のときに会った<ref>[http://www.oscarwildeinamerica.org/lecture-tour/0805-a-scene-at-long-beach.html When Natalie Barney met Oscar Wilde]</ref>)の姪で、ワイルドの名前を帯びた最後の家族であった。彼女はエピグラム的な機知で有名であったが、有名なおじとはちがって、天賦の才を出版可能な執筆に向けられなかった。彼女の遺産は手紙だけであった。彼女は翻訳者として相当の仕事をしたが、1927年に会ったバーネイをふくむ他人にしばしば支えられていた。<ref>Schenkar, 7–14, 359.</ref>
 
ヴィヴィアンと同様に、ワイルドは自己破壊を決心しているように見えた。彼女は大酒を飲み、ヘロイン常用者になり、そしていくたびか自殺未遂をした。バーネイは中毒者更正施設に資金を調達したが、それは決して効果的ではなかった。彼女は、当時、医師の処方が不要なまま入手し得る催眠薬であるパラアルデヒドの依存症に新たになって、或るナーシングホームの滞在から現われた。
 
1939年、彼女は乳癌と診断され、外科手術を拒み、代替治療を探した。<ref>Schenkar, 269.</ref>翌年、第2次世界大戦が彼女をバーネイから離した。彼女はイングランドに向けてパリを発ち、バーネイはブルックスとともにイタリアに行った。<ref>Rodriguez, 318.</ref>
1941年、彼女は十分に説明されない死因で死亡したが、ことによるとパラアルデヒドの過量投与であるかもしれない。<ref>Schenkar, 37–48.</ref>
 
==第2次世界大戦以降==
バーネイの第2次世界大戦中の態度は、論議の的となってきた。1937年、ウナ・ヴィチェンツォ(Una Vincenzo)であるレイディ・トラブリッジ(Lady Troubridge)は、バーネイはファシズムの暴政について頭の弱い、わけのわからないことをたくさん話していると不平をこぼした。バーネイ自身は8分の1がユダヤ人であったし、彼女は戦争中をローメン・ブルックスとともにイタリアで過ごしたので強制収容所に強制移送される危険を冒した--これは彼女が姉妹ローラに打電することによってのみ回避する運命であった。が、それにもかかわらず、戦争に関する他の情報源が無いために、彼女は、連合国を侵略者として描く枢軸の宣伝を信じ、それで親ファシズムが彼女の平和主義の論理的結論であるように彼女には思われた。彼女が戦争中に執筆した未刊の回想録は親ファシスト的で、反ユダヤ主義的で、ヒトラーの演説を、見たところでは賛同して、引用した。<ref name="Livia-1992">Livia (1992), 192–193</ref>
 
彼女の回想録の反ユダヤ主義的な諸節が、彼女がユダヤ人ではないことの証拠として用いられるつもりであったということはあり得る。<ref>Livia (1992), 191. Rodriguez, 315, calls this a plausible theory.</ref>あるいはまた、彼女はエズラ・パウンドの反ユダヤ主義的ラジオ放送に影響されていたかもしれない。<ref>Rodriguez, 317.</ref>いずれにせよ、彼女は、合衆国行きの船への乗船権<!--passage-->を提供して、ユダヤ人夫婦がイタリアから逃れるのを実際に手助けした。終戦までに彼女の共感は再び変わっていたし、彼女は連合国を解放者と考えた。<ref>Rodriguez, 326–327.</ref>
 
「Villa Trait d'Union」は爆撃によって破壊された。戦争ののち、ブルックスはバーネイとともにパリに住むのを断った。彼女はイタリアに残ったし、ふたりはたがいにしばしば訪問し合った。<ref>Secrest, 368.</ref>ふたりの関係は、1950年代半ばまで単婚的のままであったが、そのときバーネイは最後の新たな恋人、ジャニーン・ラホヴァリー、引退したルーマニア大使の妻に出会った。ラホヴァリーは、ローメン・ブルックスの友情を必ず得ようと考え、バーネイはブルックスに、関係はまだ最優先であると安心させ、三角形は安定しているように見えた。<ref>Rodriguez, 341–344.</ref>
 
[[Image:Carolus-Duran---Natalie-at-.jpg|upright|thumb|right|カロリュス=デュランによって描かれた、10歳のバーネイの絵は、ジャコブ通り20番地のサロンの壁に掛けられた。<ref>Schenkar, 177.</ref>]]
 
サロンは1949年に再開し、若い作家たちを引きつけ続けたが、これは彼らにとっては、文学的名声を博した場所と同じくらいに、歴史の一片であった。トルーマン・カポーティは、ほとんど10年間にわたって、断続的な招待客であった。彼は、装飾を「完全に世紀の初め」と描写し、バーネイが彼を、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の幾人かの作中人物のモデルに紹介することを憶えていた。<ref>Wickes, 255–256</ref>アリス B.トクラスは、ガートルード・スタインの1946年の死亡ののち、常連になった。1960年代の金曜日は、メアリー・マッカーシーとマルグリット・ユルスナールに栄誉を与えたが、マルグリット・ユルスナールは、--バーネイの死の8年後--1980年に、アカデミー・フランセーズの初の女性構成員となった。<ref>Rodriguez, 336, 353–4.</ref>
 
バーネイはエピグラムの執筆には戻らなかったが、自分が知る他の作家2人の回想録を2巻出版した、すなわち、『Souvenirs Indiscrets』(『Indiscreet Memories』1960年)と『Traits et Portraits』(『Traits and Portraits』1963年)。彼女はまたブルックスの回想録の出版者を見つけるためと、彼女の絵画作品を画廊に置くことのために努力した。<ref>Souhami, 194.</ref>
 
1960年代後半にブルックスはますます隠遁的な、偏執症患者になった。彼女はふさぎ込み、バーネイがよこした医師に会うことを拒んだ。彼女はふたりが晩年を同時に排他的に過ごすことを希望していたが、晩年にはラホヴァリーの存在に苦々しく感じて、彼女は最後にはバーネイとの関係を断った。バーネイは彼女宛てに手紙を書き続けたが、返事は無かった。ブルックスは1970年12月に、バーネイは1972年2月2日に心不全で、死去した。<ref>Rodriguez, 362–365.</ref>
 
==遺産==
[[File:Natalie barney w dog.jpg|upright|thumb|若きバーネイの肖像写真 飼いイヌとともに]]
バーネイの人生の終わりまでに、彼女の作品の大半は忘れ去られていた。1979年、ナタリー・バーネイは、ジュディ・シカゴの女権拡張男女同権の芸術作品である『ディナー・パーティ』で席の設定という栄誉を与えられた。1980年代、バーネイは、後期の女権拡張男女同権論者の作家たちの関心事の、カーラ・ジェイのいわゆる「ほとんど不気味な予想」をもってその価値が認識され始めた。彼女の回想録やエッセイ、エピグラムのうちいくつかの英訳が1922年に現われたが、しかし劇や詩の大半はまだ未だ英訳されていない。
 
サロンや多くの文学上の交友を介しての、文学への彼女の間接的な影響は、作品のなかで彼女に話しかけたあるいは肖像を描いた作家の数に見られ得る。コレット作『去り行くクローディーヌ』(1903年)は、「ミス・フロッシー」としてのバーネイの短い出現を含むが、<ref>Wickes, 98.</ref>これは、小説『Idylle Saphique』のなかで彼女がより早い時につけたあだ名をこだまさせている。ルネ・ヴィヴィアンは、彼女に関する多くの詩作品を書き、それからもちろん象徴主義小説『Une Femme M'Apparut』(ある女性がわたしに現われた、1904年)を書き、そのなかで彼女は「刃なみに鋭くかつ青い...眼...」を持ち、「危険の魅力が彼女から発せられ、わたしを容赦なく引きつけた」と描写されている。<ref>Jay, 9, 13.</ref>レミ・ド・グールモンは、その『Letters to the Amazon』で彼女に呼びかけ、トルーマン・カポーティは最後の未完の小説『Answered Prayers: The Unfinished Novel』で彼女の名前を挙げた。彼女はまた、彼女に一度も会ったことの無い作家ののちの小説2作に現われる:フランチェスコ・ラパッツィーニ(Francesco Rapazzini)の『Un Soir chez l'Amazone』(2004年)はバーネイのサロンの歴史小説であり、アンナ・リヴィアの『Minimax』(1991年)は、彼女とルネ・ヴィヴィアンの両者を生ける吸血鬼として描く。
 
リリアン・フェーダーマン(Lillian Faderman)によれば、「1928年と1960年代後半と間の40年間に、英語や本書が翻訳された11言語のいずれかを読む能力があり、『The Well of Loneliness』に親しんでいない女性同性愛者は、十中八九、いない。」その小説の著者であるラドクリフ・ホールは、彼女のいわゆる性倒錯の議論を意図したけれども、主人公の自己嫌悪と「freak(フリーク)」や「mistake of nature(自然の間違い)のような語法について、女性同性愛の読者からしばしば批判されてきた。<ref>Love, 115–116.</ref>バーネイは、サロンの女性主催者であるヴァレリー・シーモアとして、異なった態度の象徴として、小説に登場する。<ref>Stimpson, 369–373.</ref>
「自信のある穏やかなヴァレリーは、勇気のある雰囲気を作りだした。だれもが、ヴァレリー・シーモア方に集まったときは、すこぶる平常な、勇敢な気がした。」<ref>Hall, 352.</ref>
 
リュシー・ドラリュー=マルドリュスはこの世紀の初年にバーネイ宛てに愛の詩を書き、1930年に小説『L'Ange et les Pervers』(『天使たちと倒錯者たち』)で彼女を描いたが、そのなかで彼女は彼女が、「彼女がわたしを加入させた生活はもちろん、ついにナタリーをも分析し描写した」と言った。この小説の主人公はマリオンという半陰陽者で、この人物は女装して文学サロンに通ったり、スカートからズボンに着替えたりして、二重生活を送っている。バーネイはサロンの女性主催者のローレット・ウェルズであり、彼女は小説の大部分を、ルネ・ヴィヴィアンに基づく元恋人を取り戻すことに費やしている。<ref>Livia (1995), 22–23.</ref>本書の彼女の描写は、ときには、厳格なほどに批判的であるが、マリオンが一緒に居て楽しい人物は彼女だけである。彼が/彼女がウェルズに語るところでは、彼女は「倒錯して...自堕落で、自己中心で、不公平で、かたくなで、ときに貪欲で...[しかし]本物の反逆者で、他人を煽動して反逆をさせる用意がある...あなたはひとを、泥棒をさえ、あるがままを愛することができる--その点にあなたの唯一の誠実さがある。それだからわたしはあなたを尊敬している。」<ref>Delarue-Mardrus, 80–81.</ref>
 
1930年代にバーネイに会ったのち、ロシアの詩人であるマリーナ・イヴァノヴナ・ツヴェターエワは、『Letter to the Amazon』(1934年)で彼女に呼びかけ、女性同士の愛に関する葛藤した感情を表現した。その結果は、テリー・キャッスル(Terry Castle)によれば、「まったく隠蔽的で、妄想性の, 圧倒的な夢想の一片」である。<ref>Castle, 658. English translations of Tsvetaeva's ''Letter to the Amazon'' can be found in Castle's anthology and in {{cite journal | last = Tsvetaeva | first = Marina | authorlink = | coauthors = trans. Sonja Franeta | title = Letter to an Amazon | journal = The Harvard Gay & Lesbian Review | volume = 1 | issue = 4 | publisher = | date= October 31, 1994 | url = | page = 9 }}</ref>
 
[[Image:Ncbarneyhistoricalmarker.jpg|thumb|バーネイに栄誉を与える歴史的標識 デイトンのクーパー公園で]]
バーネイとその交際範囲内の女性たちは、ジューナ・バーンズの『貴婦人年鑑』(1928年)の主題であって、これはモデル実話小説であって、エリザベス朝の板目木版画の様式によるバーンズ自身の挿絵とともに、古風なラブレーふうの文体で書かれている。彼女はデイム・エバンジェリン・ミュッセという主役であって、「彼女は心では、後部と前部で、そして最も彼女らを苦しめた部分ならどこででも、ひどく嘆き悲しむ少女たちの、追求と休息と気晴らしのための一大赤十字であった<!-- この部分難解-->」<ref>Barnes, 6.</ref>デイム・ミュッセは、若いときは「先駆者で厄介者」であったが、「ウィットがあり学識のある50歳」に達している。<ref>Barnes, 34, 9.</ref>彼女は苦悩する女性を救い、知恵を授け、死の時は聖人に叙せられている。同様に偽名で現れるのは、エリザベート・ド・グラモン、ロメーヌ・ブルックス、ドリー・ワイルド、ラドクリフ・ホールとそのパートナーのウナ、トラブリッジ夫人、ジャネット・フラナーとソリータ・ソラノ、そしてミナ・ロイである。<ref>Weiss, 151–153.</ref>『貴婦人年鑑』の曖昧な言葉遣い、うちわの冗談および両義性のために、批評家はこれが愛情のこもった風刺であるのかそれとも辛辣な攻撃であるのか論議を続けているが、バーネイ自身はこの本を愛し、一生、読み返した<ref>Barnes, xxxii–xxxiv.</ref>
 
2009年10月26日、バーネイはオハイオ州、デイトンの故郷で歴史的標識を授けられた。この標識は、性的志向に注目する、オハイオ州で、最初のものである。<ref>[http://www.dispatch.com/live/content/local_news/stories/2009/10/26/dat.html Lesbian literary figure honored with Ohio historial marker noting sexual orientation]</ref>この飾り銘板は、2010年6月に蛮行によって破損させられた。<ref>[http://www.whiotv.com/news/24197732/detail.html?cxntlid=cmg_cntnt_rss Historic Marker Vandalized In Cooper Park – News Story – WHIO Dayton]</ref>
 
==作品==
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* ''A Perilous Advantage: The Best of Natalie Clifford Barney'' (New Victoria Publishers, 1992); edited and translated by [[Anna Livia Julian Brawn|Anna Livia]]
* ''Adventures of the Mind'' (New York University Press, 1992); trans. John Spalding Gatton
 
==注釈==
{{reflist|colwidth=26em}} <!-- in other words, "dump the footnotes here" -->
 
==参考文献==
===ナタリー・バーネイにかんする書物===
<div class="references-small">
*{{cite book | last = Jay | first = Karla | coauthors = | title = The Amazon and the Page | publisher = [[Indiana University Press]] | year= 1988 | location = Bloomington | isbn = 0-253-20476-3}}
*{{cite book | last = Rodriguez | first = Suzanne | year = 2002 | title = Wild Heart: A Life: Natalie Clifford Barney and the Decadence of Literary Paris | location = New York | publisher = [[HarperCollins]] | isbn = 0-06-093780-7 | url=http://books.google.com/books?id=96UOHm9Edy0C&pg=PA114&dq=Quelques+Portraits-Sonnets+de+Femmes&hl=en&ei=Xe62TpfBKIqQsQK9wOT1Aw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CDkQ6AEwAg#v=onepage&q&f=false }}
*{{cite book| last= Souhami | first = Diana| title= Wild Girls: Paris, Sappho, and Art: The Lives and Loves of Natalie Barney and Romaine Brooks| publisher = St. Martin's Press | year= 2005 | location = New York | isbn = 0-312-34324-8 | url=http://books.google.com/books?id=ZW8uTYWkY8kC&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false }}
*{{cite book | last = Wickes | first = George | year = 1976 | title = The Amazon of Letters | location = New York | publisher = Putnam | isbn = 0-399-11864-0 }}
</div>
 
===他の参考文献===
<div class="references-small">
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*{{cite book | last = Barnes | first = Djuna | coauthors = with an introduction by Susan Sniader Lanser | year = 1992 | title = Ladies Almanack | location = New York | publisher = New York University Press | isbn = 0-8147-1180-4 }}
*{{cite book | last = Barney | first = Natalie Clifford | coauthors = trans. John Spalding Gatton | year = 1992 | title = Adventures of the Mind | location = New York | publisher = New York University Press | isbn = 0-8147-1178-2 }}
*{{cite book | last = Barney | first = Natalie Clifford | coauthors = ed and trans. Anna Livia | year = 1992 | title = A Perilous Advantage: The Best of Natalie Clifford Barney | location = Norwich, VT | publisher = New Victoria Publishers Inc | isbn = 0-934678-38-3 }}
*{{cite book | last = Benstock | first = Shari | year = 1986 | title = Women of the Left Bank: Paris, 1900–1940 | location = Texas | publisher = [[University of Texas Press]] | isbn = 0-292-79040-6 }}
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*{{cite web | last = Lockard | first = Ray Anne | title = Brooks, Romaine | work = glbtq: An Encyclopedia of Gay, Lesbian, Bisexual, Transgender, and Queer Culture | publisher = | year= 2002 | url = http://www.glbtq.com/arts/brooks_r,2.html | accessdate =September 21, 2006 }}
*{{cite journal | last = Love | first = Heather | authorlink = | coauthors = | title = Hard Times and Heartaches: Radclyffe Hall's ''The Well of Loneliness'' | journal = Journal of Lesbian Studies | volume = 4 | issue = 2 | publisher = | date = Summer 2000 | url =| pages = 115–128| doi = 10.1300/J155v04n02_08 }}
*{{cite journal | last = Rapazzini | first = Francesco | authorlink = | coauthors = | title = Elisabeth de Gramont, Natalie Barney's 'eternal mate' | journal = South Central Review | volume = 22 | issue = 3 | publisher = [[Johns Hopkins University Press]] | date = Fall 2005 | url = http://muse.jhu.edu/login?uri=/journals/south_central_review/v022/22.3rapazzini.html | doi = 10.1353/scr.2005.0053}}
*{{cite book | last = Schenkar | first = Joan | authorlink = | coauthors = | title = Truly Wilde: The Unsettling Story of Dolly Wilde, Oscar's Unusual Niece | publisher = Basic Books | year= 2000 | location = New York | url = | doi = | isbn = 0-465-08772-8}}
*{{cite book | last = Secrest | first = Meryle | year = 1974 | title = Between Me and Life: A Biography of Romaine Brooks | location = Garden City, NY | publisher = Doubleday | isbn = 0-385-03469-5 | page = 275}}
*{{cite book | last = Souhami | first = Diana | year = 1999 | title = The Trials of Radclyffe Hall | location = New York | publisher = Doubleday | isbn = 0-385-48941-2 }}
*{{cite journal | last = Stimpson | first = Catharine R. | authorlink = | coauthors = | title = Zero Degree Deviancy: The Lesbian Novel in English | journal = Critical Inquiry | volume = 8 | issue = 2 | publisher = | date = Winter, 1981 | pages = 363–379 | month = December| doi = 10.1086/448159 | jstor=1343168}}
*{{cite book | last = Weiss | first = Andrea | year = 1995 | title = Paris Was a Woman: Portraits From the Left Bank | location = San Francisco | publisher = Harper San Francisco | isbn = 0-06-251313-3 }}
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== 関連作品 ==
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* [http://www.natalie-barney.com/ The Natalie Barney website]
* [http://www.ruevisconti.com/LaRueMysterieuse/TempleAmitie.html The Temple of Friendship at ruevisconti.com] (French language, dozens of photos)
*[http://www.ruevisconti.com/LaRueMysterieuse/TempleAmitie.html The Temple of Friendship at ruevisconti.com] (French language, dozens of photos)(フランス語、写真数点)
* [http://www.worldcat.org/oclc/23685681 Djuna Barnes Papers] (102 linear ft.) は、メリーランド大学マッケルディン図書館に収められている
* [http://www.aaa.si.edu/collections/romaine-brooks-papers-6290 Romaine Brookes Papers, 1940-1968] (1.1 linear ft.) は、スミソニアン博物館アメリカ美術公文書館に収められている。
{{sisterlinks|wikt=no|commons=Category:Natalie_Clifford_Barney|v=no|n=no|s=Author:Natalie_Clifford_Barney|b=no}}
*{{Worldcat id|lccn-n79-21406}}
{{commonscat|Natalie Clifford Barney}}