「黒船来航」の版間の差分

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→‎嘉永6年(1853年)来航: 西暦を前に、和暦をカッコ内に
→‎嘉永7年来航: 西暦を先に記載
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阿部はとりあえず江戸湾警備を増強すべく、[[8月26日]](嘉永6年7月23日)に[[江川英龍|江川太郎左衛門]]等に砲撃用の[[お台場|台場]]造営を命じた。江川は、[[富津]]-[[観音崎]]、[[本牧]]-[[木更津]]、[[羽田]]沖、品川沖の4線の防御ラインを提案していたが、予算・工期の関係からまず品川沖に11箇所の台場が造営されることとなった<ref>淺川2009、p55-p61。品川沖は遠浅であるため大口径砲を搭載した大型艦は接近できず、小型艦に対抗できれば十分と考えられた。また、正面だけでなく、突破された場合のことも考慮して背面にも砲台が設けられた。</ref>。[[12月14日]](嘉永6年11月14日)には建造途中の1~3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられた<ref>淺川2009、p64</ref>。また、[[大船建造の禁]]も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「[[鳳凰丸]]」を10月21日(嘉永6年9月19日)に[[浦賀船渠|浦賀造船所]]で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去った一週間後の[[7月24日]](嘉永6年6月19日)には決まっている<ref>翌嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、実際に 蒸気軍艦2隻([[咸臨丸]]及び[[朝陽丸]])が発注されている</ref>。12月7日(嘉永6年11月7日)には[[ジョン万次郎]]を旗本格として登用し、アメリカの事情等を述べさせた。
 
== 嘉永7年(1854年)来航 ==
[[ファイル:Kurofune_3.jpg|thumb|200px|[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン号]]]]
1854年[[2月13日]](嘉永7年1月([[1854年]]16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。ペリーは[[香港]]で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここに彼の外交手腕を見て取ることもできる。
 
1月14日(同年[[2月11日]](嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年[[2月13日]](嘉永7年1月16日)までに旗艦「[[サスケハナ (巡洋艦)|サスケハナ]]」、「ミシシッピ」、「[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン]]」 以上、[[蒸気船|蒸気]][[外輪船|外輪]][[フリゲート]])、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の六隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。[[3月4日]](嘉永7年2月6日に「サラトガ」(帆走スループ)、[[3月19日]](嘉永7年2月21日に「サプライ」(帆走補給艦)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥った。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。([[吉田松陰]]が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触したのは、1854年[[4月25日]]、下田沖に停泊していた折でありこの時ではない)
 
まず、アメリカ側が船上でフランス料理を振舞った。日本人は[[鯛]]を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、[[十手]]と[[孫の手]]を[[ナイフ]]と[[フォーク (食器)|フォーク]]に見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を[[懐紙]]に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いた、という([[本膳料理]]には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に[[本膳料理]]の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った<ref>『[[大日本古文書]]』の幕末関係資料に「右御料理百川に被仰付之」とあり、安政元年頃のかわら版『武州横浜於応接所饗応之図』にも百川とあるが、「大日本古文書」には賀宮ノ下岩井屋富五郎が請け負ったとする資料も含まれている</ref>。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで百を超える料理が出された。しかし、肉料理が出ないのは未開だから、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品当たりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
 
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日([[3月31日]](嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の兵員を以って[[武蔵国]][[神奈川宿|神奈川]]近くの横浜村(現[[神奈川県]][[横浜市]])に上陸し、全12箇条に及ぶ'''[[日米和親条約]]'''(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍[[徳川家光]]以来200年以上続いてきた、いわゆる[[鎖国]]が解かれた。その後、[[伊豆国]]下田(現[[静岡県]][[下田市]])の了仙寺へ交渉の場を移し、[[6月17日]](嘉永7年5月2522に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる'''下田条約'''を締結した。
 
ペリー艦隊は[[6月25日]](嘉永7年6月1日に下田を去り、帰路に立ち寄った[[琉球王国]]とも正式に通商条約を締結させた。ペリーは米国へ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の[[1858年]]に64歳で死去した。その後、米国は熾烈な[[南北戦争]]に突入し、日本や清に対する影響力を失い、これらの国は結局、[[イギリス|英国]]や[[フランス]]、[[ロシア]]が勢力を拡大してしまった。ちなみに、[[昭和]]20年([[1945年]])9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた銅鐘は[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]に飾られ、同学校[[フットボール]]優勝祝賀会で鳴らされていたが、近年沖縄に返還されている<ref>[[#次席将校]]p.66</ref>。
 
嘉永7年来航の艦艇の概要は以下の通り。