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第二次世界大戦が終わると、後発の[[凱旋門賞]]が賞金や権威の面で上回るようになり、ヨーロッパの3歳馬の大レースとしても[[アイリッシュダービー|アイルランドダービー]]と競合するようになった。
 
長い間3000メートル級の競走として行われてきたが、1980年代後半から幾度か距離の見直しが図られ、2012年の時点では2400メートルで行われている。
 
===対イギリス戦としての意義===
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モルニー公爵は、ロンシャン競馬場の春開催の名物となる新しい大競走を創設することにした。彼の構想では、新しい競走は、[[ダービーステークス|イギリスダービー]]と[[ジョッケクルブ賞|フランスダービー]]が対決する、フランスでは初の本格的な国際大競走になるはずだった<ref>『華麗なるフランス競馬』p231</ref>。
 
これにはいくつか解決しなければならない問題があった。一つめは資金の問題だった。競馬を主催するフランス馬種改良奨励協会は、フランス産馬の向上のための組織であり、外国馬が出走する競走には賞金を出すことができなかった。そこでパリ市長でもあったモルニー公は、市議会に諮ってパリ市の予算から5万フランを供出することに成功した。また、パリの5つの鉄道公社にそれぞれ2万フランづつ賞金を提供させることにも成功した(そのうち1社はモルニー公が社長を務めていた。)。ナポレオン3世も皇室から美術品を提供することに同意した。こうして、当時世界最高の賞金を誇っていたイギリスダービーを超える高額賞金が確保された<ref>『華麗なるフランス競馬』p231-232</ref><ref>『競馬の世界史』p180</ref>。
 
開催時期にも問題があった。ロンシャン競馬場の春季開催は4月と5月に行うことがパリ市との契約で定められていたが、イギリスダービーは5月の下旬に行われるため、この優勝馬が出走するためには開催を6月まで延ばす必要があると思われた。イギリスのジョッキークラブを独裁的に取り仕切っていたヘンリー・ラウス提督との協議を経て、新しい大競走はイギリスダービーの11日後の5月31日に行うことにした。イギリスとフランスのダービー(2400メートル)優勝馬以外にもチャンスを与えて競走をより面白いものにするために、競走の距離は3000メートルとすることになった<ref>『競馬の世界史』</ref>
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3歳時にパリ大賞典を勝ち、古馬になって凱旋門賞を勝ったものとしては、1945年のカラカラ(Caracalla)、1992年の[[:en:Subotica (horse)|スボティカ]]がいる。
 
===代表的な開催===
====1876年====
この年のパリ大賞には、オーギュスト・リュパン氏(Auguste Lupin)の生産馬、牝馬エンギュランド(Enguerrande)が出てきた。エンギュランドは、1864年に初めてフランスに勝利をもたらしたヴェルムートの子で、デビュー戦のフランス2000ギニー(プール・デッセ、牡馬と牝馬に分割になる以前の[[プール・デッセ・デ・プーラン]])で優勝した。2着は[[:en:Alphonse James de Rothschild|アルフォンソ・ロトシール男爵]]のキルト(Kilt)だった。エンギュランドは[[リュパン賞|プール・デ・プロデュ大賞]](Grande Poule des Produits、後にリュパン賞と改称)でクビ差の2着、[[ディアヌ賞|フランスオークス]]で3着になったあと、イギリスに渡って[[オークス|イギリスオークス]]に出た。イギリスオークスでは、[[1000ギニー|イギリス1000ギニー]]を勝ってきたラグランジュ伯のカメリア(Camélia)との接戦になり、同着優勝となった<ref>ラグランジュ伯は2頭の決勝戦に同意しなかったため、エンギュランドは1頭で走って名目上の優勝馬となった。ただし公式な記録としては2頭の同着である。[http://www.tbheritage.com/Portraits/Vermout.html#Enguerrande サラブレッド・ヘリテイジ エンギュランド]および[http://www.tbheritage.com/Portraits/Macaroni.html サラブレッド・ヘリテイジ カメリア]2013年2月26日閲覧。</ref>。エンギュランドはすぐにフランスに戻ってフランスダービーに出て、今度はキルトと接線の末、ハナ差の2着に敗れた<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Vermout.html#Enguerrande サラブレッド・ヘリテイジ エンギュランド]2013年2月26日閲覧。</ref>。
 
ヨーロッパ屈指の大国[[オーストリア=ハンガリー帝国]]からは、'''[[キシュベル|キシュベール]]'''がやってきた。キシュベールは既に5月のイギリスダービーで、本命の[[ペトラーク]](Petrarch)を破って優勝し、グラディアトゥール以来2頭目の外国馬によるダービー制覇を遂げていた。パリ大賞典に狙いを定めたキシュベールは、ロンシャン競馬場から1マイルほどにある、かつて皇帝ナポレオン1世が使った厩舎に入った<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Kisber.html サラブレッド・ヘリテイジ キシュベール]2013年2月26日閲覧。</ref>。
 
キシュベールはパリ大賞典を3分22秒の好タイムで楽勝した。2着のエンギュランドは5馬身離されていた。ロンシャンの大観衆にとってはこれは面白くない結果だった。というのも、彼らはキシュベールが1870年戦争でフランスを打ち負かしたドイツの馬だと勘違いをしていたのだった<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Kisber.html サラブレッド・ヘリテイジ キシュベール]2013年2月26日閲覧。</ref>。
 
====1881年====
1881年はアメリカ産のサラブレッドがヨーロッパを席巻した年だった。ペンシルヴァニア生まれのイロコイ([[:en:Iroquois (horse)|en:Iroquois]])はイギリス2000ギニーでペレグリン(Peregrine)の2着になったあと、ダービーではペレグリンをクビ差破って優勝した。
 
ケンタッキー産の'''フォックスホール'''([[:en:Foxhall (horse)|en:Foxhall]])はクラシック登録をしていなかったので、もっぱらハンデ戦を連戦した。4月末のエプソム競馬場のシティ・アンド・サバーバン・ハンデキャップ競走では91ポンドを背負って前年のイギリスダービー馬[[ベンドア]]に1馬身半先着した。イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」誌は、早くもフォックスホールがこの年の3歳馬の中で最も強いと報じた<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=AS18810530.2.21.1&srpos=7&e=01-01-1881-31-12-1881--10-AS-1----0Foxhall-- 1881年5月30日の記事]2013年2月26日閲覧。</ref>。
 
6月になると、フォックスホールはフランスに渡ってパリ大賞典に臨み、イギリス馬トリスタン([[:en:Tristan (horse)|en:Tristan]])を尻目に逃げ切って優勝した。フランスダービー馬のアルビオン(Albion 1878)は3着止まりだったが、ロンシャン競馬場のフランス人観衆は、イギリス馬の敗北をまるでフランスの勝利であるかのように狂喜し、星条旗を振って、フォックスホールを大喝采で迎えた。あまりの騒動のため、騎手が戻るために警官隊が介入しなければならないほどだった<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18810730.2.71&srpos=6&e=01-07-1881-31-07-1881--10-OW-1----0Foxhall-- RACING IN FRANCE]2013年2月26日閲覧。</ref><ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Spendthrift.html サラブレッド・ヘリテイジ フォックスホール]2013年2月26日閲覧</ref>。
 
その後フォックスホールはイギリスで最大ハンデ戦での「秋の二冠(Autumn Double)」戦の一つ、ロシア皇太子ハンデ([[:en:Cesarewitch Handicap]])を10馬身差で勝った。二冠目のケンブリッジシャー・ハンデでは126ポンドのハンデを背負い、107ポンドを背負ったトリスタンやベンドアに勝ち、二冠制覇を成し遂げた。
 
イロコイの方は秋に[[セントレジャーステークス]]を勝った。ダービーとセントレジャーに勝ち、2000ギニーが2着であったので、もう少しでクラシック三冠を達成するところだったということになる。
 
このあとフォックスホールとイロコイのマッチレースがアメリカで企画されたが、実現しなかった。イロコイは引退後アメリカで種牡馬になり、1892年のアメリカのチャンピオンサイヤーになった。フォックスホールは古馬になって2マイル半(約4800メートル)の[[ゴールドカップ]]に勝ったが、その後、ウォール街の株式仲買人であるアメリカ人馬主と、イギリス人の調教師の間で意見の相違が大きくなり、売却された。フォックスホールは種牡馬としては成功しなかった。
 
====1886年====
1886年のフランスダービーは、シコモール(Sycomore)とユパス(Upas)の同着優勝になった。両馬は決着をつけるため、揃ってパリ大賞典に出走してきた<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Dollar.html サラブレッド・ヘリテイジ ドラー]2013年3月2日閲覧</ref>。
 
イギリスからは、1000ギニーとオークスを勝った牝馬ミスジャミー(Miss Jummy)がやってきた<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Petrarch.html サラブレッド・ヘリテイジ ペトラーク]2013年3月2日閲覧。</ref>。イギリス牡馬の代表は、2000ギニーで2着の'''ミンティング'''([[:en:Minting (horse)|en:Minting]])だった<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Minting.html サラブレッド・ヘリテイジ ミンティング]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
人気を集めたのはイギリスの2頭で、ミンティングが2.5倍の本命、続いてミスジャミーが4.5倍だった。フランス代表のユパスは9倍、シコモールは17倍と、フランス人にも、まだイギリス馬上位であると思われていた<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18860730.2.72.10&srpos=1&e=01-07-1886-31-07-1886--10-OW-1----0minting-- 当日の結果を知らせる[[:en:Otago Witness]]紙の記事(1886年7月31日付)]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
初めてパリ大賞典に勝ったフランス馬ヴェルムートの孫にあたるポリュークト(Polyeucte)が、レースが始まると2番手のミスジャミーに20馬身差をつける大逃げをうった。残り1600メートルのあたりで、ミンティングは最後方にいた。雨で重たくなった馬場のせいで、他馬はポリュークトを追いかけることが難しくなった。1頭だけあがっていったのがミンティングで、ポリュークトを簡単に捉えて引き離した。最後はゴールする前から、手綱を緩める余裕があったが、それでも2着のポリュークトには2馬身の差があった。さらに2馬身遅れてシコモールが3着に入り、ユパスが3馬身差で4着だった。ミスジャミーは最下位だった。イギリス馬の勝利に、イギリスからの観客は沸き立った<ref>着差については、Otago Witnessの記事が「2馬身」、サラブレッド・ヘリテイジの記述が「5馬身」と齟齬がある。ここではOtago Witnessの記述を採用した。</ref><ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Minting.html サラブレッド・ヘリテイジ ミンティング]2013年3月2日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18860730.2.72.10&srpos=1&e=01-07-1886-31-07-1886--10-OW-1----0minting--]2013年3月2日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18860730.2.72.5&srpos=2&e=01-07-1886-31-07-1886--10-OW-1----0minting--]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
ミンティングは1866年のイギリス三冠馬ロードリヨン(Lord Lyon)の産駒で、母馬のミントソース(Mint Sauce)は既に2頭のイギリスのクラシックホースを出していた。ミンティングが2着に敗れた2000ギニーを勝ったのは[[オーモンド]]で、オーモンドはこの年ダービー、セントレジャーも勝って、ロードリヨン以来20年ぶりの三冠馬になった。ミンティングはダービーでオーモンドと対戦することを避けてパリ大賞典へやってきていたのだった。後にミンティングに与えられたフリーハンデは、これ以後9年間のイギリスダービー優勝馬よりも高かった<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Minting.html サラブレッド・ヘリテイジ ミンティング]2013年3月2日閲覧</ref>。
 
====1893年====
この頃、[[ビスマルク体制|1871年戦争の頃から続いてきたフランスの外交的孤立]]が緩和されて、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]や[[ロシア帝国]]
が再び親しい国となった。この年のイギリスの3歳馬には[[アイシングラス (競走馬)|アイシングラス]]が登場し、史上2頭目の無敗の三冠馬となった<ref>単なる「三冠馬」としては6頭目</ref>。しかしアイシングラスはロンシャンには遠征せず、この年のパリ大賞典はフランスダービー馬の'''ラゴツキー'''(Ragotsky)が勝った。ラゴツキーは、父方の祖父が1864年の優勝馬ヴェルムートで、母方の祖父が1876年にパリ大賞典を勝ったオーストリア=ハンガリーのキシュベールだった<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Vermout.html サラブレッド・ヘリテイジ ヴェルムート]2013年2月27日閲覧。</ref>。
 
それから7年後の1900年にラゴツキーの半妹のセメンドリア(Semendria)はプール・デッセ、ディアーヌ賞、パリ大賞典、ヴェルメイユ賞を勝って、フランス初の牝馬三冠馬になった<ref>[http://www.france-galop.com/All-the-races.233+M52087573ab0.0.html?&course_id=9133&no_cache=1&numero_id=26 フランス・ギャロ ヴェルメイユ賞の歴史]2013年2月27日閲覧。</ref>。また同じく半妹のハンガリア(Hungaria)はオーストリア=ハンガリーで子孫を残し、その中からロシアの名馬[[アニリン (競走馬)|アニリン]](Анилйн)が出た<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Vermout.html サラブレッド・ヘリテイジ ヴェルムート]2013年2月27日閲覧。</ref>。
 
====1904年====
1901年に新イギリス王に即位した[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]は親仏派だった。ドイツを敵視したフランスは、既にロシアとの間で[[露仏同盟]]を結んでいたが、1904年の春に長年の宿敵であったイギリスと和解して[[英仏協商]]を締結した。
 
フライングフォックスは、フランスを代表する生産者・馬主となるエドモン・ブラン氏(Edmond Blanc)によってフランスに輸入されて種牡馬になった。その最初の世代が1903年にデビューするといきなり名競走馬が登場し、フライングフォックスはたちまち成功種牡馬となった。
 
最初に頭角を表したのはグーヴェルナン(Gouvernant)で、2歳戦の[[ラロシェト賞]]([[:en:Prix_La_Rochette]])を勝った。3歳になると、4月のはじめにフランスダービーの前哨戦の一つであるジャンプラ賞<ref>この「ジャンプラ賞」は、現在の[[ジャンプラ賞]]とは全く別物である。フランスダービーの前哨戦であるビエンナル賞(Prix Biennal)が、1904年には「ジャンプラ賞」と呼ばれていた。[http://www.france-galop.com/All-the-races.233+M52087573ab0.0.html?&course_id=9121&no_cache=1&numero_id=20 フランスギャロ ジャンプラ賞の歴史]2013年2月28日閲覧。</ref>に勝った。5月には[[プール・デッセ・デ・プーラン|フランス2000ギニー(プール・デッセ・デ・プーラン)]]に勝ち、イギリスダービーへ乗り込んだ。
 
この年のイギリス3歳牡馬の3強<ref>しかしこの3頭は秋には牝馬[[プリティポリー]]にまとめて負かされることになる。</ref>、2000ギニー優勝のセントアマント(St.Amant)、ヘンリー1世(Henry the First)、ジョンノゴーント(John o'Gaunt)をおさえ、グーヴェルナンは2.75倍<ref>おそらくブックメイカーによって倍率に差があると思われるが、当時の新聞では倍率は7対4(2.75倍)や9対4(3.25倍)、9対2(5.5倍)などとばらつきがある。ここでは[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=HNS19040601.2.28.3&srpos=9&e=01-03-1904-31-08-1904--25--1----0St+Amant--]の2.75倍を採用した。</ref>で本命に迎えられた。レース前から降り始めた雨が強くなって競馬場は水浸しになり<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040720.2.241&srpos=4&e=01-07-1904-31-08-1904--25--1----0St+Amant+Derby+Thunderstorm--]2013年3月2日閲覧。</ref>、レースは激しい雷雨の中で行われた。スタートとともに先頭に立ったセントアマントは、最後までそのまま逃げ切って二冠馬となった。初めて雷雨に遭遇したグーヴェルナンはまるで走ろうとせず<ref>“it is stated that Gouvernant had never faced a thunderstorm accompanied by lightning until he went out at Wpsom to start for the Derby,and during the race he would never take hold or try to gallop.”[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=ODT19040714.2.9.1&srpos=6&e=01-07-1904-31-08-1904--25--1----0St+Amant+Derby+Thunderstorm-- Otago Daily紙。1904年7月14日付]2013年3月2日閲覧。</ref>、後ろから2頭目の7着でゴールした。<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040713.2.183&srpos=20&e=01-03-1904-31-08-1904--25--1----0Ajax-- 英国ダービーを伝えるOtago Witness紙の記事(1904年7月13日)]2013年3月2日閲覧。</ref>。パリに戻ったグーヴェルナンは、パリ大賞典で8倍の2番人気になった<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040727.2.120&srpos=3&e=01-07-1904-31-08-1904--25-OW-1----0ajax+grand+prix-- 結果を伝えるOtago Witness紙の記事(1904年7月27日付)]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
フライングフォックスを父に持つもう1頭の活躍馬が'''[[アジャックス (フランスの競走馬)|アジャックス]]'''<ref>「Ajax」を日本語でなんと表記するかは難しいところだが、ここでは[[アイアース]]のフランス語読み、[[アジャックス (フランスの競走馬)]]に従った。</ref>(Ajax)である。アジャックスは2歳のうちは1戦しかしなかったが、3歳になると[[ノアイユ賞]]、リュパン賞、フランスダービーと勝って4戦全勝でパリ大賞典に出てきた。
 
グーヴェルナンと差のない3番人気(9倍)には[[フォンテーヌブロー賞]]に勝ったロロー(Lorlot)。フランスダービーで2着に敗れたマクドナルド(Macdonald II)はベイロナルドの子で、パリ大賞典では12倍の4番人気だった<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040727.2.120&srpos=3&e=01-07-1904-31-08-1904--25-OW-1----0ajax+grand+prix-- 結果を伝えるOtago Witness紙の記事(1904年7月27日付)]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
スタート前にプロファネ(Profane)が、この頃普及し始めた新型の[[発馬機#バリヤー式|発馬バリヤー]]に抵抗を示したため、レースの開始は大きくずれ込んだ。最初にチュレンヌ(Turenne)が飛び出し、グーヴェルナンやアジャックスは後方に控えた。坂の下りでプロファネが先頭を奪ってペースを上げると、アジャックスやグーヴェルナンも上がっていったが、1マイルを過ぎる頃にはグーヴェルナンは苦しくなって後退を始めた。最後はチュレンヌが再び先頭に立ったが、アジャックスはこれを難なくかわして楽勝した。2着のチュレンヌから2馬身半遅れた3着にマクドナルドが入り、さらに1馬身遅れてグーヴェルナンが4着だった<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040803.2.122&srpos=1&e=01-07-1904-31-08-1904--25-OW-1----0ajax+grand+prix-- 結果を伝えるOtago Witness紙の記事(1904年8月3日付)]2013年3月2日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040727.2.120&srpos=3&e=01-07-1904-31-08-1904--25-OW-1----0ajax+grand+prix-- 結果を伝えるOtago Witness紙の記事(1904年7月27日付)]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
勝ったアジャックスは、母の父クラマール(Clamart)も1891年のパリ大賞典の優勝馬である<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Teddy.html サラブレッド・ヘリテイジ テディ]2013年2月28日閲覧。</ref>。
 
アジャックスはその後、調教中に怪我をして引退し、種牡馬となった。種牡馬になるとすぐにフランスのクラシック勝ち馬を出し始めたが、1914年に[[第一次世界大戦]]が始まり、フランス国内の競馬はほとんど開催できなくなってしまった。アジャックスはこの年早逝してしまうが、残された子のうち、[[テディ (競走馬)|テディ]]がスペインで走って良績を残し、種牡馬になって大成功した<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Teddy.html サラブレッド・ヘリテイジ テディ]2013年2月28日閲覧。</ref>。
 
2着のチュレンヌ(Turenne)はその後8月にドーヴィル大賞典([[:en:Grand Prix de Deauville]])を勝った。3着のマクドナルドは秋にロワイヤルオーク賞を勝った。
 
一方のグーヴェルナンはパリ大賞典の翌週に、新設された[[サンクルー大賞|共和国大統領賞]]で古馬と初対戦して勝った。グーヴェルナンは翌年も[[カドラン賞]]やドイツのバーデン大賞典に勝ち、1905年の古馬チャンピオンになった<ref>[http://www.france-galop.com/All-the-races.233+M52087573ab0.0.html?&course_id=9153&no_cache=1&numero_id=6 フランス・ギャロ サンクルー大賞典の歴史]</ref><ref>[http://www.tbheritage.com/HistoricDams/EngFoundationMares/Family25/Family25.html サラブレッド・ヘリテイジ 25号族・グーヴェルナン]</ref>。
 
この年のイギリスとフランスの3歳馬のフリーハンデで、アジャックスはフランス馬としては最上位となる4位にランクされた。首位はプリティポリー、イギリス二冠馬セントアマントが2位、何度かセントアマントを破ったヘンリーザファーストが3位で、セントレジャーで両馬をまとめて負かした[[プリティポリー]]が首位だった<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW19040720.2.165&srpos=2&e=01-07-1904-31-08-1904--25-OW-1----0ajax+grand+prix-- Otago Witness紙の記事(1904年7月20日付)]2013年3月2日閲覧。</ref>。
 
====1926年====
[[File:Hennessy-Longchamp-Take my Tip .jpeg|thumb|right|245px|1926年の優勝馬テイクマイチップの馬主、ジェームズ・ヘネシー氏]]
この年のパリ大賞典には空前の大観衆が押し寄せた。有料の入場者数だけで166,635人の観客がいて、40フランの駐車料が必要な駐車場は844台の馬車や自動車で溢れかえった。入場料の収入だけで145万フランになり、パリ大賞典だけで馬券の売り上げは790万フランほどになった<ref>『フランス競馬百年史』p75-76</ref>。貴賓席には[[:en:Gaston Doumergue|ガストン・ドゥメルグ大統領]]やスペインの[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]国王夫妻の姿もあった<ref>『凱旋門賞の歴史』第1巻p59</ref>。
 
主導権を握ったのは、イタリアから来たアペレ(Apelle)だった。アペレは[[フェデリコ・テシオ]]の生産馬で、[[デルビーイタリアーノ|デルビー・レアーレ]](Derby Reale、現在のイタリアダービー)と[[ミラノ大賞典]]を6馬身差で圧勝してきた。アペレはイタリア産馬だが、その父はフランスの名馬サルダナパル(Sardanapale)だった。アペレはスタートから先頭に立ち、残り100メートルのところまでは単騎で逃げることができた<ref>『凱旋門賞の歴史』第1巻p59</ref><ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Sardanapale.html サラブレッド・ヘリテイジ サルダナパル]2013年3月16日閲覧。</ref>。
 
フランス馬の本命はビリビ(Biribi)だった。ビリビは脚が曲がっていて1歳の時に競りで売られた。購入したのはアルゼンチンのシモン・グスマンだった。ビリビは3歳の春遅くに本格化し、5月の半ばに[[ノアイユ賞]]に勝った。5月末には[[リュパン賞]]も楽勝し、フランスダービーを迎えた。ところがこの年のフランスダービーは朝から降り続いた雨によって不良馬場となった。ビリビはゴールまであと僅かのところで、同厩舎の人気薄馬マドリガル(Madrigal)に差され、半馬身差で敗れてしまった。ビリビの騎手はこのとき病気の体で無理をして騎乗したのだったが、結果的にはゴール前の競り合いで体力が持たず、ろくに追うことができなかった<ref>『凱旋門賞の歴史』第1巻p59</ref><ref>『フランス競馬百年史』p74-76</ref>。
 
残り100メートルのところで、逃げるアペレにビリビほか数頭の後続馬が一斉に並んできた。5頭が横に並ぶ大接戦を制したのは、イギリスから来たテイクマイチップ(Take My Tip)で、63倍の大穴となった。ビリビはクビ差の2着、3、4着もそれぞれアタマ差、アタマ差の接戦だった<ref>『凱旋門賞の歴史』第1巻p59-60</ref><ref>[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/89789105 当時の結果を伝える新聞記事]2013年3月16日閲覧。</ref><ref>『フランス競馬百年史』p74</ref>。
 
==備考・その他==
479 ⟶ 552行目:
[[category:フランスの競馬の競走]]
{{Keiba-stub}}
 
[[en:Grand Prix de Paris]]
[[fr:Grand Prix de Paris (course de plat)]]