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'''|name = ジョン・ローレンス・シーゲンソーラー'''('''<BR />John Lawrence Seigenthaler'''、[[1927年]][[7月27日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[ジャーナリスト]]、著述家。政治活動にも参加した。
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'''ジョン・ローレンス・シーゲンソーラー'''({{lang|en|'''John Lawrence Seigenthaler'''}}、{{IPA-en|ˈsiːɡənθɔːlər}}、[[1927年]][[7月27日]] - 2014年7月11日)は、[[アメリカ合衆国]]の[[ジャーナリスト]]、著述家。政治活動にも参加した。彼は米国憲法修正第1条の擁護者としても知られていた<ref>{{cite book|last=Dalby|first=Andrew|title=The World and Wikipedia: How we are editing reality|year=2009|publisher=Siduri|location=Somerset|isbn=978-0-9562052-0-9|page=60}}</ref><ref name="champion">{{cite web|first=Maurice|last=Fliess|date=October 8, 1999|work=freedomforum.org|url=http://www.freedomforum.org/templates/document.asp?documentID=7821| title=Public dangerously unsupportive of free press, Seigenthaler warns|accessdate=May 18, 2006 |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWA0DQe |archivedate=January 3, 2002}}</ref>。発音は他に「ジョン・シーゲンセラー」、「ジョン・シーゲンセイラー」とも言う。
 
シーゲンソーラーは[[1949年]]に地元[[テネシー州]][[ナッシュビル]]に生まれる。ピーボディ大学を経て[[1949年]]に地元の新聞社『テネシアン(''[[::en:The Tennessean|The Tennessean]]'' ) 加わり入社し、1960年の退社後[[ロバート・ケネディ]][[司法長官]]の補佐官に就任した。[[1962年]]には同紙テネシアンに[[編集]]者として復帰し、[[1973年]]には発行人となった。者、[[1982年]]には会長に就任し、[[1991年]]に引退。現在は同紙会長職を辞職した後、名誉会長の地位にある。アメリカ新聞編集者協会会長も歴任した。[[1982年]]から[[1991年]]にかけては、自らが発起人となった[[USAトゥディ]]紙の論説主幹を務めた。またこの頃、アメリカ新聞編集者協会の重役となり、1988年から1999年、会長に就任した。
== 生い立ち ==
 
シーゲンソーラーは[[テネシー州]][[ナッシュビル]]に8人きょうだいの最年長の長男として生まれた。ファーザー・ライアン高等学校に進学し、1946年から1949年、[[アメリカ空軍]]に軍曹として勤務した<ref name="nyt">{{cite news|title=John Seigenthaler, Editor and Aide to Politicians, Dies at 86|work=The New York Times|url=http://www.nytimes.com/2014/07/12/business/media/john-seigenthaler-editor-and-aide-to-politicians-dies-at-86.html?_r=0|first=John|last=Schwartz|date=July 11, 2014}}</ref>。退役後テネシアンに入社し、在職中にピーボディ大学(現在[[ヴァンダービルト大学]]の一部となっている)で社会学と文学を学んだ。また[[コロンビア大学]]にも進学し、出版について学んだ<ref name="early">{{cite news|title=Seigenthaler Named Nieman Fellow|date=June 5, 1958|work=The Tennessean}}</ref>。
[[1955年]]に結婚したドロアズ・ワトソンとの間に生まれた子に、[[NBCニュース]]でアンカーを務める[[ジョン・マイケル・シーゲンソーラー]]がいる。兄のトーマス・シーゲンソーラーは広告企業「シーゲンソーラー・パブリック・リレーションズ」の創業者として知られている。
== 経歴 ==
 
=== 前半生ジャーナリズム ===
シーゲンソーラーは叔父のすすめもあり<ref name="early"/>、『テネシアン』の地元記事編集室で警察番記者としてジャーナリズムの経歴を開始した<ref name="mentor">{{cite news|first=Frank|last=Ritter|title=A Model and Mentor: Seigenthaler Leaves Mark at Newspapers Nationwide|date=December 6, 1991|work=The Tennessean}}</ref>。シーゲンソーラーは後に著名なジャーナリストとなる[[デイヴィッド・ハルバースタム]]や[[トム・ウイッカー]]などと次第に激しいライバル関係となっていった。
=== バンティン失踪事件 ===
シーゲンソーラーは[[1953年]]11月にトーマス・C・バンティン(現在ではトーマス・D・パーマーの名で知られる)と彼の妻にインタビューし、初めてジャーナリストとして脚光を浴びた。バンティンはナッシュビルの裕福な実業家の息子で、[[1931年]]9月に突然失踪し、行方不明となっていた(彼の秘書もその6週間後に失踪している)。バンティンが[[テキサス州]]ローン・スターのどこかに生存しているとの噂が囁かれるようになったのを受け、テネシアン紙はシーゲンソーラーを現地に派遣した。調査は何度となく行き詰まりをみせたが、ある日シーゲンソーラーはテキサス州オレンジでバスを降りる老人をみかけ。その老人が特徴ある左耳をしていたのに気付いたシーゲンソーラーは、老人のあとをつけて家を突き止 めようと試みた。3日間の調査ののち、ついに老人が家に帰ったところをおさえ、バンティンとその妻ベティー・マカディーおよび、6人の子供がそこにいることを確認した<ref name="couple">{{cite news|title=Visitors in Limbo|date=December 7, 1953|publisher=Time Magazine|url=http://www.time.com/time/archive/preview/0,10987,890714,00.html |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWBEHLa |archivedate=January 3, 2012}}</ref>。シーゲンソーラーはこの記事により全米新聞記者賞を受賞した<ref name="mentor"/>
 
=== 自殺志願者を救う ===
バンティン失踪事件の記事から1年未満の[[1954年]][[10月5日]]、シーゲンソーラーはナッシュビルのシェルビー橋から飛び降り[[自殺]]しようとした男性を助け、再び全米でニュースとなった。ジーン・ブラッドフォード・ウィリアムズという男がテネシアン紙編集部に電話で自殺を予告し、ニュースにしたいのなら記者とカメラマンを派遣するよう伝えてきた。シーゲンソーラーはウィリアムズと40分間にわたって話したのち、ウィリアムズが約30メートルの高さから飛び降りようとした瞬間をとらえて彼の襟首をつかみ、シーゲンソーラーと警察は[[カンバーランド川]]への落下を防いだぎ命を助けた。ウィリアムズはこのときシーゲンソーラーに向かって、「あなたを絶対に許さない」とつぶやいたという <span id="t1">[[#b1|[1]]]</span><ref name="bridge">{{cite news|page=6|title=Reporter Baks Man's Suicide From Bridge|date=October 6, 1954|publisher=Los Angeles Times}}</ref>。2014年4月29日、この橋はジョン・シーゲンソーラー歩道橋と改名された<ref>
{{cite web
 
| title = John Seigenthaler honored with renaming of bridge
| url = http://www.tennessean.com/story/news/2014/04/29/john-seigenthaler-honored-renaming-bridge/8494057/
| accessdate = 2014-07-12
}}
</ref>。
=== 国際トラック運転手組合の不正との戦い ===
[[1956年]]7月、シーゲンソーラーは国際トラック運転手組合(International Brotherhood of Teamsters, アメリカ最大のトラック運転手[[労働組合]])のある地方部会が行っていた不正に対し、戦いを挑んだ。この地方部会は、組合員の運転手に犯罪者がいるのを知りながらこれを雇い続け、このことを外部に漏らさないよう脅迫行為を行っていた疑いがあった。組合の幹部であるデイヴ・ベックと[[ジミー・ホッファ]]に接触したシーゲンソーラーだったが、二人は嫌疑に対して無知を装った。この一件は結局、シーゲンソーラーの一連の記事に動かされた[[チャタヌーガ]]刑事裁判所判事が告発する事態に至った<ref name="fightingtennessean">{{cite news|title=The Fighting Tennessean|date=September 14, 1962|publisher=Time Magazine|url=http://www.time.com/time/archive/preview/0,10987,874473,00.html |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWDHI7G |archivedate=January 3, 2012}}</ref>
1958年、シーゲンソーラーは[[ハーバード大学]]の著名なニーマン・フェロウシップのプログラムに参加するためテネシアンより1年の[[サバティカル]]を与えられた<ref name="early"/>。テネシアンに復帰後、シーゲンソーラーは地元記事編集アシスタントおよび特命記者となった<ref name="mentor"/>。
 
=== ロバート・ケネディの補佐官に ===
テネシアン紙発行人のサイルシリマン・エヴァンズ・ジュニアの方針に不満がつのっていたシーゲンソーラーは、[[1960年]]、テネシアン紙を辞職することを決意し、新任の[[ロバート・ケネディ]][[司法長官]]の補佐官に就任した。 [[1961年]][[4月21日]]にケネディが[[マーティン・ルーサー・キング]][[牧師]]と会見した際、ケネディ以外ではただ一人の司法省ス タッフとして会見に立ち合ったのがシーゲンソーラーだった。また、[[1961年]]に[[フリーダムライド]]が起こった際には、[[アラバマ州]]知事ジョン・マルコム・パターソンと協力し、政府の主任折衝担当者として問題に対処した。
また、[[1961年]]に[[フリーダムライド]]が起こった際には、公民権担当司法次官補の[[ジョン・ドア]]の補佐を務め<ref name=breslin>{{cite news|author=Jimmy Breslin|date=March 26, 1965|publisher=New York Herald-Tribune|title=Changing the South}} reprinted in {{cite book|editor=Clayborne Carson et al.|title=Reporting Civil Rights: American journalism, 1963–1973|url=http://books.google.com/books?id=E8HtAAAAMAAJ|accessdate=20 July 2012|year=2003|publisher=Library of America|pages=361–366}}</ref>、政府の主任折衝担当者として[[アラバマ州]]知事ジョン・マルコム・パターソンと協力しようと試みた。パターソンは数日間電話の応対を拒否したが、ついにライダースの保護に同意した。しかし1961年5月20日、ライダースが[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]に到着すると州警察はいなくなり、待ち構えていた白人暴動者の群集の前にライダースを晒し者にした<ref name="gitlin">{{cite book | last = Gitlin | first = Todd | authorlink = Todd Gitlin | title = The Sixties: Years of Hope, Days of Rage | publisher = [[::en:Bantam Books|Bantam Books]] | year = 1987 | isbn = 0-553-05233-0}}</ref>。
 
シーゲンソーラーは1ブロック向こうで暴動者達に追い掛けられていたフリーダム・ライダーのスーザンウィルバーを急いで救出に向かった<ref name="wilbur">{{cite news|title=Aide Hurt in Riots Returns to Capital|date=May 22, 1961|publisher=United Press International}}</ref>。シーゲンソーラーは彼女を車に押し込み、「下がれ。私は連邦政府の者だ」と叫んだ<ref>{{cite web |url=http://www.pbs.org/wgbh/amex/rfk/filmmore/pt.html |title=American Experience: RFK |accessdate=November 27, 2006 |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWEPQ9B |archivedate=January 3, 2012}}</ref>。しかしパイプで左耳の後ろを殴られ、10分後に警察が到着するまで意識を失ったままだった。モンゴメリー警察署長のレスター・B・サリヴァンは「私たちはトラブルメイカー達が町にやって来るのを保護するつもりはない」と語った<ref name="riot">{{cite news|title=President's Representative Hurt Helping a Girl Escape Violence|date=May 21, 1961|publisher=Associated Press}}</ref><ref name="riot2">{{cite book|last=Branch|first=Taylor|title=Parting the Waters: America in the King Years 1954–63|year=1988|publisher=Simon & Schuster|location=New York|isbn=0-671-68742-5|pages=428–452}}</ref>。
=== テネシーアン紙への復帰 ===
[[1961年]][[7月29日]]、サイルマン・エヴァンズ・ジュニアが[[心臓発作]]で急死したことをきっかけに、シーゲンソーラーの政府でのキャリアは終わりを告げることとなる。テネシーアン紙で長年にわたり記者として活躍したジョン・ナイが一時的に発行人を継いだのち、[[1962年]][[3月20日]]、新たにエヴァンズの兄弟であるアーモン・カーター・エヴァンズが発行人に就任した。新任のエヴァンズにとって最初に成すべきことは、シーゲンソーラーを編集人として呼び戻すことだった。シーゲンソーラーの復帰により刷新されたテネシーアン紙は、これをきっかけに急速にその名声を高めていった。特に[[1962年]]8月の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]予備選挙では、不在者投票にからんだ不正行為の証拠となる文書が発見されたことを報じ、有名となっている <span id="t2">[[#b2|[2]]]</span>。
 
=== テネシアン紙への復帰 ===
[[1968年]]の大統領選挙では民主党大統領候補として出馬したロバート・ケネディのもとで働き、同年[[7月6日]]にケネディが凶弾に倒れた後は、葬儀で彼の棺を担いだ。後にシーゲンソーラーは、『名誉ある告白:ロバート・ケネディに捧ぐ』(ISBN 0385471270) の編者の一人に名を連ねている。
[[1961年]][[7月29日]]、シリマン・エヴァンズ・ジュニアが[[心臓発作]]で急死したことをきっかけに、シーゲンソーラーの政府でのキャリアは終わりを告げることとなる。テネシアン紙で長年にわたり記者として活躍したジョン・ナイが一時的 に発行人を継いだのち、[[1962年]][[3月20日]]、新たにエヴァンズの兄弟であるエイモン・カーター・エヴァンズが発行人に就任した。
 
新任の エヴァンズにとって最初に成すべきことは、シーゲンソーラーを編集人として呼び戻すことだった。シーゲンソーラーは地元記事編集アシスタント、エヴァンズはジャーナリストをめざして2人は共に作業した。一説によると、この頃2人は一度だけ喧嘩になりそうだったことがある。
60年代のシーゲンソーラーはこの他に[[公民権運動]]への注目に精力を傾け、[[1969年]]にはジョーゼフ・ドゥリック司教がすすめていた[[人種差別]]撤廃運動を支援している。
 
1962年3月21日、エヴァンズはシーゲンソーラーを『テネシアン』紙の編集者に任命した<ref name="editor">{{cite news|pages=|title=Seigenthaler Editor Of Tennessean|date=March 22, 1962|work=Nashville Banner}}</ref>。この新しい編成により、刷新された『テネシアン』紙 は、これをきっかけに急速にその名声を高めていった。特に[[1962年]]8月の[[民主党 (アメリカ)|民主党]]予備選挙では、不在者投票にからんだ不正行為の証拠となる文書が発見されたことを報じ、有名となった<span id="t2">[[#b2|[2]]]</span><ref name="fightingtennessean"/>。
 
シーゲンソーラーのケネディとの友情はジミー・ホッファによる陪審員買収裁判の焦点の1つとなった。テネシアンの記事を「一方的な中傷」とし、ホッファの弁護士はシーゲンソーラーが個人的にホッファを有罪に仕立て上げようとしていると批判した。しかしシーゲンソーラーはジャーナリストとして感情に任せた記事を書いたことはないと語った。ホッファの弁護士は勝訴を目論みナッシュビルからチャタヌーガに裁判地を変更し、1964年の45日におよぶ裁判でホッファは有罪を逃れた。
 
翌年、『テネシアン』の記者のビル・コヴァックの特権を無効にするある決議が通った後、シーゲンソーラーはテネシー州上院会議での騒動を牽引した。コヴァックが後に非公開会議と呼ばれるよう になる委員会の傍聴席を離れることを拒んだことからこれが起きた。
 
1966年12月、シーゲンソーラーと[[リチャード・N・グッドウイン]]は歴史家の[[ウイリアム・マンチェスター]]による[[ケネディ大統領暗殺事件]]に関する著書『''[[::en:The Death of a President|The Death of a President]]'' 』についての批判が高まり、ケネディ家の代理人を務めた。シーゲンソーラーは[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス|ジャクリーン・ケネディ]]が不正確でプライベートの侵害であるとして訴えた初期の版を読んでいた。
 
[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙]]ではテネシアンでの職務を一時的に離れ、民主党大統領候補として 出馬したロバート・ケネディのもとで働いた。この期間、シーゲンソーラーはジャーナリストとして『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に「数少ない信頼できる人の1人。ケネディこそがその人である」と記した<ref name="advisor">{{cite news|first=Wallace|last=Turner|title=New Aides Try to Reverse Decline in Kennedy California Drive|date=May 10, 1968|work=The New York Times}}</ref>。カリフォルニア予備選の勝利の後、1968年7月6日[[7月6日]]にケネディが凶弾に倒れた。葬儀で彼の棺を担ぎ、後にシーゲンソーラーは、『名誉あ る告白:ロバート・ケネディに捧ぐ』(ISBN 0385471270) の編者の一人に名を連ねた。
 
60年代のシーゲンソーラーはこの他に[[公民権運動]]への注目に精力を傾け、[[1969年]]にはテネシー州のジョセフ・ドゥリック司教がすすめていた[[人種差別]]撤廃運動を支援していた。
『[[ザ・ニューヨーカー]]』誌はシーゲンソーラーについて「[[民主党 (アメリカ)|民主党]]と強い繋がりがある」と記した<ref name="Lemann">{{cite news|last=Lemann|first=Nicholas|title=Gore Without a Script; What would happen if we saw the man he really is?|publisher=The New Yorker|date=31 July 2000}}</ref>。ケネディ家と「家族ぐるみの付き合い」があり<ref>{{cite news|last=Ayres|first=B. Drummond|title=A Troubled Kennedy Makes Last Trip Home|newspaper=The New York Times|date=27 April 1984}}</ref>、ゴア家と「長年の家族ぐるみの付き合い」があり<ref>{{cite news|last=Turque|first=Bill|title=Al Gore's Patriotic Chore|publisher=Newsweek|date=6 December 1999}}</ref>、元民主党上院議員のジム・セザーとも友人である<ref name=NYTFeb81>{{cite news|last=Tolchin|first=Martin|title= Tennessee Senator Campaigns For 1982|newspaper=The New York Times|date=1 February 1981}}</ref>。
=== アル・ゴアの政界進出 ===
[[1976年]]、[[アル・ゴア]]の政界進出をすすめたシーゲンソーラー は<ref name="Henneberger">{{cite news|last=Henneberger|first=Melinda|title=The 2000 Campaign: The First Race; Birth of a Candidate: Al Gore Goes Into the Family Business|newspaper=The New York Times|date=11 August 2000}}</ref>、テネシー州選出[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員が次の選挙で立候補しないことをゴアに告げた<ref>{{cite news|last=Maraniss|first=David|title=As a Reporter, Gore Found A Reason to Be in Politics; Losing Verdict in 'Sting' Trial Motivated Him to Enter Law School|newspaper=The Washington Post|date=4 January 1998}}</ref>。1981年、シーゲンソーラーはセザー議員に民主党の「進歩的伝統」への回帰を促した。「私は彼にレーガンは素晴らしい進歩を遂げると言い続けた」<ref name=NYTFeb81/>。1984年、レーガンの再選チームはシーゲンソーラーが進歩的過ぎるとしてディベート・パネリストに就くことを拒否した<ref>{{cite news|last=Alter|first=Jonathan|title=The Media in the Dock|publisher=Newsweek|date=22 October 1984}}</ref>。
[[1976年]]2月、当時テネシーアン紙記者だった[[アル・ゴア]]を自宅に訪れたシーゲンソーラーは、テネシー州選出[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員ジョー・エーヴィンスが次の選挙で立候補しないことをゴアに告げた。これを知ったゴアは新聞社を辞め、ヴァンダービルト大学[[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロースクール]]も中退することを決意する。その後、父であるアルバート・ゴア・シニアが議席を占めていたテネシー州第4区から立候補したゴアは、[[政治家]]への道を歩むこととなる。
 
=== テネシアン ===
1973年2月、エイモン・カーター・エヴァンズがテネシアン社の社長となり、シーゲンソーラーは出版者に昇格した。
 
出版者時代、当時記者であったアル・ゴアと同僚であり、1970年代初頭のナッシュビル市議会の汚職について共に調査した<ref>{{cite journal |last=Wood |first=E. Thomas |authorlink=E. Thomas Wood |date=January–February 1993 |title=Al Gore's Other Big Week |journal=Columbia Journalism Review |url=http://archives.cjr.org/year/93/1/gore.asp |accessdate=2006-11-03 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20070309075204/http://archives.cjr.org/year/93/1/gore.asp |archivedate=March 9, 2007 }}</ref>。1976年2月、ゴアの自宅を訪れたシーゲンソーラーは、テネシー州選出[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員ジョー・エーヴィンスが次の選挙で立候補しないことをゴアに告げ<ref>{{cite news|last=Maraniss|first=David|title=As a Reporter, Gore Found A Reason to Be in Politics; Losing Verdict in 'Sting' Trial Motivated Him to Enter Law School|newspaper=The Washington Post|date=4 Jan 1998}}</ref>、ゴアに「私が何を考えているかわかるだろう」と語った<ref name="Lemann"/>。これ以前にシーゲンソーラーはゴアに政界進出を検討するようすすめていたのだ<ref name="Henneberger"/>。ゴアはテネシアン社を辞め、ヴァンダービルト大学[[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロースクール]]も中退することを決意する。その後、父であるアルバート・ゴア・シニアが議席を占めていたテネシー州第4区から立候補したゴアは、[[政治家]]への道を歩むこととなった。
=== FBIとの戦い ===
[[1976年]][[5月5日]]、シーゲンソーラーはテネシアン紙の原稿管理編集者ジャック・スラウジを解雇した。約10年間にわたりスラウジが[[連邦捜査局|FBI]]への情報提供者だったことが、上院中小企業・企業家委員会のエネルギー・環境委員会の前で原子力の安全性の調査について証言した後明るみに出たからである。FBI副長官補のホーマー・ボイ[[カレトンが、「(ーゲンソールクウッド]]の批判本を執筆していたスウジ)完全原子力批判潔白というわけではない」から「彼を調査するよう」[[ニュ1,000ペヨーク・タイムズ]]紙編集者指示したことおよぶFBI資料知っ詳細に調べシーゲンソーラーは。その後の証言で、FBIの持っている自分の調査ファイロウレンス・J・オを入手しようと奔走した。大幅に削除修正ソン・シニアは事務局加えられた調査ファイルをついに受け取ったシーゲンソーーは、そこにウジと若い女性との間に不道徳特別な関係結んで持ってる疑惑あり。匿名の情報提供者からの情報」などたこ書かれているの発見する知った『テネーゲソー』の記者達はスウジのクデター疑惑「FBI彼女の入社数ヶ月後から提供されたものは何であれ公にする」と公言し起きていたので、きもこのファイルの内容を公表しているが、疑惑気付ては端的に否定している後に司法長官はこれについて陳謝し、疑惑に関する記述ファイルから削除された。そ深夜「公表へ違法賭博や地元企業勇気」を讃え、1976年度シドニー・ヒルマン賞 (Sidney Hillman Prize) はシーゲンソーラーに贈ら詐欺行為の取り締まりのようなものも含まれてい<spanref idname="t3srouji">[[#b3{{cite news|[pages=|title=A Special Relationship|date=May 24, 1976|publisher=Time Magazine|url=http://www.time.com/time/archive/preview/0,10987,879750,00.html |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWGd7to |archivedate=January 3]]], 2012}}</spanref>。
その後FBIはシーゲンソーラーについての噂を聞き集めた。FBI副長官補のホーマー・ボイントンが、「(シーゲンソーラーは)完全に潔白というわけではない」から「彼を調査するよう」『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙編集者に指示したことを知ったシーゲンソーラー は、1年かけてFBIの持っている自分の調査ファイルを入手しようと奔走した。大幅に削除修正が加えられた調査ファイルをついに受け取ったシーゲンソーラーは、そこ に「若い女性達との間に不道徳な関係を結んでいる疑惑あり。匿名の情報提供者からの情報」などと書かれているのを発見した。シーゲンソーラーは「FBIから 提供されたものは何であれ公にする」と公言していたので、この時もこのファイルの内容を公表したが、疑惑については端的に否定した。後に司法長官はこれについて陳謝し、疑惑に関する記述はファイルから削除された。その「公表への勇気」を讃え、1976年度シドニー・ヒルマン賞 (Sidney Hillman Prize) はシーゲンソーラーに贈られた <span id="t3">[[#b3|[3]]]</span><ref name="fbi1">{{cite news|first=Anthony|last=Lewis|title=Not Entirely Pure|date=August 25, 1977|publisher=New York Times}}</ref><ref name="fbi2">{{cite news|title=Letter, The Silkwood Case|date=April 29, 1982|publisher=The New York Review of Books |url=http://www.nybooks.com/articles/6616 |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWIj0kZ |archivedate=January 3, 2012}}</ref>。
 
1982年5月、シーゲンソーラーは『USAトゥディ』紙の論説主幹に任命された。この告知の際、ガーネット社の社長アル・ニュウハースはシーゲンソーラーに関して「アメリカで最も思慮深く、尊敬されている編集者の1人」と評した<ref name="UASToday">{{cite news|first=Charles|last=Fontenay |title=Publisher Heads Editorial Voice For USA TODAY|date=May 14, 1982|work=The Tennessean}}</ref>。『USAトゥディ』紙に就任中、彼は『テネシアン』紙と両立させるためナッシュビルと[[ワシントンD.C.]]を頻繁に往復していた<ref name="commute">{{cite news|title=7 Staffers Taking Up Duties at 'USA Today'|date=September 7, 1982|work=The Tennessean}}</ref>。
 
1983年の作家ピーター・マーズの著書『''Marie: A True Story'' 』の出版により、元テネシー州知事レイ・ブラントンを巡る赦免スキャンダルの調査でシーゲンソーラーは再度監視されることとなった。マリー・ラジアンティはテネシー州仮釈放庁長を務めていたが、ブラントンの側近に賄賂を渡した受刑者の釈放を断ったため解雇された。『テネシアン』はブラントンを支持しており、当初不本意ながら調査を始め、この容疑には疑問が浮かんだ。編集者および記者達はラジアンティの主張する、ブラントンの主任顧問であるT・エドワード・シスクとの不倫の上の破局が彼女を駆り立てたのだと考えた<ref name="pardon">{{cite news|first=Jonathan|last=Friendly|title=Debate on Reporting of Nashville Scandal Reopens|date=July 22, 1983|publisher=The New York Times}}</ref>。
 
== 後半生 ==
[[1986年]]、州立中部[[ミドルテネシー州立大学]]は、「[[言論の自由]]の価値に対する長年にわたる貢献」を讃え、「ジョン・シーゲンソーラー記念[[権利章典 (アメリカ)#第1修正(信教、言論、出版、集会の自由、請願権)|憲法第1修正]]研究教授職」(John Seigenthaler Chair of Excellence in First Amendment Studies) を設置した。[[1991年]]にはヴァンダービルト大学に「憲法第1修正センター」を設立し、[[2001年]]には、[[2000年]]大統領選挙の反省を踏まえて設立された連邦選挙制度改革委員会<ref (Nationalname="chairmanship">{{cite Commissionweb|url=http://www.mtsu.edu/endowed_chairs.php|title=Middle onTennessee FederalState ElectionUniversity Reform)Chairs の委員に選ばれている。また彼は、[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けて設置された「自由と安全に関する憲法プロジェクト」of (ConstitutionExcellence|accessdate=June Project18, on Liberty and Security) のメンバーでもある2014}}</ref>
 
3年後、シーテンソーラーは巡回裁判所判事のギルバート・S・メリットから幼馴染でナッシュヴィル=デイヴィッドソン郡保安官であるラフィエット・"フェ イト"・トーマスが政府汚職のFBIによるおとり捜査のターゲットとなっていることを伝えられたとして、再度FBIの議論に巻き込まれた。シーゲンソー ラーは罪に問われなかったが、トーマスは後に郵便詐欺、政府所有物の盗用、脱税の罪で懲役5年となった。結果的に有罪判決となったが、トーマスの策略によ りFBIによる調査は長期間におよんだ<ref name="sheriff">{{cite news|first=James|last=Brosnan|pages=A4|title=Tenn. Judge in High-Court Pool Hampered Sting|date=June 4, 1993|publisher=The Commercial Appeal}}</ref>。
 
『USAトゥデイ』での任期を考慮していると発表した数ヶ月後の1991年12月、シーゲンソーラーは『テネシアン』を退社することを発表した{{cn|date=July 2014}}。
 
[[1991年]]12月15日にはヴァンダービルト大学に「憲法修正第1条センター」を設立し<ref name="center">{{cite web|url=http://www.firstamendmentcenter.org/biography.aspx?name=seigenthaler|title=John Seigenthaler Biography at First Amendment Center|accessdate=May 18, 2006 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20100423164910/http://www.firstamendmentcenter.org/biography.aspx?name=seigenthaler |archivedate=April 13, 2010}}</ref>、「ヴァンダービルト大学にこの施設を建てることが夢だった。この民主主義社会でこの施設が必要であることへの理解と施設への感謝が増すであろう」と語った。この施設は言論の自由、出版の自由、宗教の自由を含む憲法修正第1条について語り合うフォーラムとして使用される。
 
1996年、シーゲンセラーはイライジャ・ペリッシュ・ラヴジョイ賞、[[コルビー大学]]から名誉法学博士号を受賞した{{cn|date=July 2014}}。
 
[[2001年]]には、[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙]]の反省を踏まえて設立された連邦選挙制度改革委員会 (National Commission on Federal Election Reform) の委員に選ばれた。また彼は、[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けて設置された「自由と安全に関する憲法プロジェクト」 (Constitution Project on Liberty and Security) のメンバーでもあった{{cn|date=July 2014}}。
 
2002年、『USAトゥデイ』記者ジャック・ケリーが複数の記事を捏造したことが発覚し、『USAトゥデイ』はシーゲンソーラーにベテラン編集者のビル・ヒラードおよびビル・コヴァックと共に調査を監視することを依頼した<ref>{{cite web |url=http://www.editorandpublisher.com/eandp/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1000467855 |publisher=[[Associated Press]] |title='USA Today' Probe Finds Kelley Faked Stories |work=[[::en:Editor & Publisher|Editor & Publisher]] |date=March 19, 2004 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20040404111408/http://www.editorandpublisher.com/eandp/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1000467855 |archivedate=April 4, 2004|accessdate=April 4, 2004}}</ref>。
 
2002年、ヴァンダービルト大学はフリーダム・フォーラム、ファースト・アメンドメント・センター(憲法修正第1条センター)、ディヴァーシティ・インスティチュートを有する57,000平方フィート(5,300m2)の建物をジョン・シーゲンソーラー・センターと改名した。『USAトゥデイ』およびフリーダム・フォーラムを創立したアル・ニュウハースはシーゲンソーラーについて「憲法修正第1条の最高推進者」と評した<ref name="champion">{{cite web|first=Maurice|last=Fliess|date=October 8, 1999|work=freedomforum.org|url=http://www.freedomforum.org/templates/document.asp?documentID=7821| title=Public dangerously unsupportive of free press, Seigenthaler warns|accessdate=May 18, 2006 |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWA0DQe |archivedate=January 3, 2002}}</ref>。
 
2014年4月、彼の功績を称え、シェルビー橋はジョン・シーゲンソーラー歩道橋と改名された<ref>{{cite news|last1=Cass|first1=Michael|title=John Seigenthaler honored with renaming of bridge|url=http://www.tennessean.com/story/news/2014/04/29/john-seigenthaler-honored-renaming-bridge/8494057/|accessdate=11 July 2014|work=The Tennessean|date=April 29, 2014}}</ref>。
 
シーゲンソーラーは現在、ナッシュビルの[[公共放送]]局WNPTが放映している書評番組「ワード・オン・ワーズ」(''A Word on Words'') にホストとして出演してい。その他には、ジョン・F・ケネディ図書館基金の「勇気の人賞」(Profiles in Courage Award) 選考委員および、ロバート・ケネディ記念財団の「ロバート・ケネディ出版賞」(Robert Kennedy Book Award) 選考委員を務めていた{{cn|date=July 2014}}
 
シーゲンソーラーはジャーナリストとしての長いキャリアのなかで、幾度となく生命の危険に晒されている。[[1991年]]には[[拳銃]]を持った男につけねらわれる事件が発生し、[[1995年]]にはある兄弟によって誘拐事件が企てられた。この際には警察がシーゲンソーラーの自宅を警護する事態にまで発展し、その兄弟の自宅からは[[爆弾]]や[[火薬|爆薬]]が発見された <span id="t4">[[#b4|[4]]]</span>。
 
=== ウィキペディア論争 ===
[[2005年]]5月、[[インターネット]]上の[[百科事典]]「[[英語版ウィキペディア]]」にシーゲンソーラーの誤った経歴が投稿され、これをめぐって論争が生じた。{{main|ジョン・シーゲンソーラー ウィキペディア経歴論争}}
[[2005年]]5月、[[インターネット]]上の[[百科事典]]「[[英語版ウィキペディア]]」に匿名のユーザーにより5文のシーゲンソーラーの誤った経歴および中傷が投稿された<ref name="USA Today">{{cite news|first=Susan|last=Page|title=Author apologizes for fake Wikipedia biography|date=December 11, 2005|publisher=USA Today|url=http://www.usatoday.com/tech/news/2005-12-11-wikipedia-apology_x.htm |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWMocok |archivedate=December 3, 2012}}</ref>。9月、シーゲンソーラーはウィキペディアと連絡をとり、これらは削除された。彼は後に『USAトゥデイ』に[[Op-ed]]としてこれについて「私たちは世界中と繋がり、調べ物ができる驚異的な機会を得て新しいメディアの世界に生きているが、中傷を行う荒らしが生息している。連邦議会は彼らの行動を可能にし、保護してきた」と記し<ref name="wikipedia">{{cite news|first=John|last=Seigenthaler|title=A false Wikipedia 'biography'|date=November 29, 2005|publisher=USA Today|url=http://www.usatoday.com/news/opinion/editorials/2005-11-29-wikipedia-edit_x.htm |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWOeCKO |archivedate=January 3, 2012}}</ref>、新聞やテレビのようなメディアがコントロールされているのに対し、インターネット・プロバイダーは連邦法で守られているとする通信品位法230条に言及した。
 
この後、ウィキペディアは未登録のユーザーは新しいページを作成することを認めない<ref name="helm">{{cite news | title=Wikipedia: A work in progress | date=December 14, 2005 | author = Helm, Burt | publisher=BusinessWeek | url=http://www.businessweek.com/technology/content/dec2005/tc20051214_441708.htm?chan=db |archiveurl=http://www.webcitation.org/64PWQ5ZyC |archivedate=January 3, 2012}}</ref>、[[Wikipedia:存命人物の伝記|存命人物の伝記]]の指針{{cn|date=July 2014}}など新たな規制を設けた。
 
== 私生活 ==
[[1955年]]に結婚したドロアズ・ワトソンとの間に生まれた子に、[[NBCニュース]]でアンカーを務める[[ジョン・マイケル・シーゲンソー ラー]]がいる。兄のトーマス・シーゲンソーラーは広告企業「シーゲンソーラー・パブリック・リレーションズ」の創業者として知られている。
 
=== 逝去 ===
2014年7月11日、シーゲンソーラーは[[大腸癌]]の合併症により、自宅で家族が見守る中86歳で亡くなった<ref name="nyt">{{cite news|title=John Seigenthaler, Editor and Aide to Politicians, Dies at 86|work=The New York Times|url=http://www.nytimes.com/2014/07/12/business/media/john-seigenthaler-editor-and-aide-to-politicians-dies-at-86.html?_r=0|first=John|last=Schwartz|date=July 11, 2014}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.usatoday.com/story/news/nation/2014/07/11/john-seigenthaler-tennessean-editor-dies/12531011/ | title=Prominent editor, activist John Seigenthaler dies at 86 | work=[[USA Today]] | date=11 July 2014 | accessdate=11 July 2014 | author=The Tennessean}}</ref>。
 
== 主要著作 ==
52 ⟶ 115行目:
* <span id="b3">[[#t3|[3]]]</span> Lewis, Anthony, "'Not Entirely Pure'", ''New York Times'', August 25, 1977.
* <span id="b4">[[#t4|[4]]]</span> Fitzgerald, Mark, "Kidnap attempt", ''Editor & Publisher'', May 6, 1995.
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
 
== 外部リンク ==
* [http://www.firstamendmentcenter.org/biography.aspx?name=seigenthaler John Seigenthaler: Biography] - シーゲンソーラーの伝記記事(憲法第1修正センター公式サイト内)
* [http://www.wnpt.netorg/productions/wow/ A Word on Words] - シーゲンソーラーがホストを務める書評番組「ワード・オン・ワーズ」の公式サイト
*[http://www.mtsu.edu/masscomm/chair_mc.php ミドルテネシー州立大学]
*[http://civilrightsandthepress.syr.edu/panelist.html Civil Rights & the Press]
*[http://www.booknotes.org/Watch/179318-1/John+Seigenthaler.aspx ''Booknotes'' interview with Seigenthaler on ''James K. Polk'', January 18, 2004.]
* [http://docsouth.unc.edu/sohp/A-0330/ Oral History Interview with John Seigenthaler Sr.] at [http://docsouth.unc.edu/sohp Oral Histories of the American South]
 
{{Authority control|VIAF=112399752}}
{{Persondata <!-- Metadata: see [[Wikipedia:Persondata]] -->
|NAME = Seigenthaler, John Lawrence
|ALTERNATIVE NAMES =
|SHORT DESCRIPTION = American journalist, writer, political figure
|DATE OF BIRTH = 1927-07-27
|PLACE OF BIRTH = Nashville, Tennessee, United States
|DATE OF DEATH = 2014-07-11
|PLACE OF DEATH = Nashville, Tennessee, United States
}}
{{DEFAULTSORT:しけんそらしよんろれんす}}
[[Category:アメリカ合衆国のジャーナリスト]]
[[Category:新聞編集者]]
[[Category:ナッシュビル出身の人物]]
[[Category:コロンビア大学出身の人物]]
[[Category:ヴァンダービルト大学出身の人物]]
[[Category:ヴァンダービルト大学の教員]]
[[Category:ウィキペディアの批判者]]
[[Category:アメリカ合衆国空軍の軍人]]
[[Category:1927年生]]
[[Category:存命人物2014年没]]