|campaign=フランス革命戦争
|image=[[Image:Loutherbourg, The Glorious First of June.jpg|300px|]]
|caption=「ハウ卿の戦い、または栄光の6月1日」<br/>Philippe-Jacques de Loutherbourg画フィリップ=ジャック・ド・ルーテンブール作(1795年)
|conflict=[[フランス革命戦争]]
|date=[[1794年]][[6月1日]]
|casualties2= 7 隻喪失、死傷 4,000 名、捕虜 3,000 名
|}}
'''栄光の6月1日'''(えいこうの6がつついたち、{{lang-en-short|The Glorious First of June}})は、[[1794年]][[6月1日]]、大西洋上で[[イギリス]](大グレートブリテン王国)と[[フランス第一共和政|第一共和政下のフランス]]との間で行われた、[[フランス革命戦争]]における最初にして最大級の[[海戦]]である。第3次ウェサン島の海戦とも呼ばれ、フランスにおいてはBataille du 13 prairial an 2または''Combat de Prairial''と称される。「栄光」とはイギリス側が勝利を祝って付けたものであるが、この海戦は英語でもフランス語でも、その場所でなく日付によって呼ばれている。英語名とフランス語名の暦の相違は、当時のフランスが世界共通の[[グレゴリオ暦]]でなく独自の[[フランス革命暦]]を使用していたためで、フランス側からの呼称は'''共和暦2年プレリアル13日の海戦'''({{lang-fr-short|Bataille du 13 prairial an 2}})または単に'''プレリアルの海戦'''({{lang-fr-short|Combat de Prairial}})となる。海戦は、慣例では、通常その最も近い陸地の名か、付近で特徴的な陸標の名によって名づけられるのであるが、この「栄光の6月1日」の場合は、最も近い陸地であるフランス領[[ウェサン島]]からも740キロも離れており、関連づけられる陸地が存在しなかった。'''第3次ウェサン島の海戦'''({{lang-en-short|Third Battle of Ushant}}, {{lang-fr-short|Troisième bataille d'Ouessant}})という名は、かろうじて最も近い地名を用いたものであるが、ウェサン島付近で行われた英仏間の海戦が[[アメリカ独立戦争]]中に2回あったため「第3次」となる。
[[リチャード・ハウ]]指揮下のイギリスの[[海峡艦隊]]は、フランスがアメリカから、国民生活のために輸入した穀物を搭載した護送船団の航路を阻止する計画を立てていた。この護送軍団の指揮官は{{仮リンク|ルイ・トマ・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ|en|Louis Thomas Villaret de Joyeuse}}[[提督]]だった。英仏両艦隊は大西洋上の、ウェサン島の約400[[海里]]西(741キロ)の地点で、1794年6月1日に交戦した。
==名称==
「栄光」とはイギリス側が勝利を祝って付けたものであるが、この海戦は英語でもフランス語でも、その場所でなく日付によって呼ばれている。英語名とフランス語名の暦の相違は、当時のフランスが世界共通の[[グレゴリオ暦]]でなく独自の[[フランス革命暦]]を使用していたためで、フランス側からの呼称は'''共和暦2年プレリアル13日の海戦'''({{lang-fr-short|Bataille du 13 prairial an 2}})または単に'''プレリアルの海戦'''({{lang-fr-short|Combat de Prairial}})となる。
この海戦は[[1794年5月の大西洋方面作戦]]の終着点だった。この作戦は、この年の5月に両艦隊が[[ビスケー湾]]を縦横に横切って、多くの[[商船]]や小型の軍艦を拿捕し、一部の艦が交戦したものだったが、艦隊の交戦としては勝負がはっきりしなかった。この戦闘の間、ハウは自らの艦隊にフランスに立ち向かって、個々の艦に、直近の敵艦と交戦して掃射するという命令を出し、海戦の慣習に挑んだ。この予期せぬ命令をすべての艦長が理解したわけではなく、結果として、イギリス艦隊の攻撃は、ハウが意図したものよりも断片的なものとなった。それにもかかわらず、フランス艦隊はイギリス艦は戦術の上では大きな完敗を喫することになった。海戦の後、両艦隊は疲弊し、その後の戦闘ができる状態ではなく、ハウとヴォラレーはそれぞれの母港へ戻った。フランス艦隊は7隻の艦を失ったが、ヴィラレーは、穀物輸送の護送船団が、戦術面での成功を確保したイギリス艦隊に邪魔されることなしに母国に戻れるだけの時間稼ぎをした。しかしヴィラレーは、戦争が終わるまで、イギリスに封鎖作戦をさせたまま、母港に撤退しなければならなかった。開戦直後はそれぞれが勝利を主張し、戦闘の結果は、この戦いの結果は、両国の報道機関によって、それぞれの[[海軍]]の能力と勇敢さの輝かしい現われとして称揚された。しかし一方、イギリス艦隊に以後の封鎖作戦を行う余力を残してしまったことで、彼は艦隊を港に留め置かざるを得ないことになった。
海戦は、慣例では、通常その最も近い陸地の名か、付近で特徴的な陸標の名によって名づけられるのであるが、この「栄光の6月1日」の場合は、最も近い陸地(ウェサン島)からも740 kmも離れており、関連づけられる陸地が存在しなかった。'''第3次ウェサン島の海戦'''({{lang-en-short|Third Battle of Ushant}}, {{lang-fr-short|Troisième bataille d'Ouessant}})という名は、かろうじて最も近い地名を用いたものであるが、[[ウェサン島]]付近で行われた英仏間の海戦が[[アメリカ独立戦争]]中に2回あったため「第3次」となる。
栄光の6月1日は、フランス革命戦争の始まりに当たって、英仏の海軍双方に内在するいくつもの大きな問題を示した。両艦隊の提督は、艦長たちの不服従に直面し、乗員は訓練がますく、鍛えられていなかった。戦闘の真っ最中に、彼らは艦をうまく制御することができず、乗員と信頼できる士官が不足していたため、より多くの損害を受けた。イギリスでは、多くの士官の指揮が後に疑問視され、うち一人は[[軍法会議]]にさえ出廷した。彼の采配はイギリス海軍に消えることのない、苦渋の伝説を残した。
ハウ提督の率いるイギリス[[海峡艦隊]]は、アメリカ合衆国からやってきた、きわめて重要なフランスの穀物輸送船団の通過を阻もうとした。その船団はルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズが指揮するフランス大西洋艦隊によって護衛されていた。両軍はフランス領のウェサン島の西400海里(約740 km)の大西洋上で激突した。
その戦闘は、1794年5月に、ビスケー湾において縦横に繰り広げられた一連の戦闘のクライマックスだった。それまでは両軍とも多数の商船や小型軍艦を捕獲して、別々の、しかし決定的でない戦いを進めていた。1794年6月1日の戦闘は、両方の艦隊に更なる戦闘を行うことができないような甚大な影響を与えた。両軍ともそれぞれ勝利を主張した。7隻の戦列艦を失ったにもかかわらず、ヴィラレーは穀物輸送船団が安全に目的地に達する十分な時間を稼ぐことができた。しかし一方、イギリス艦隊に以後の封鎖作戦を行う余力を残してしまったことで、彼は艦隊を港に留め置かざるを得ないことになった。
[[1792年 ]]前半から、フランスは 3つの隣国と2つの正面において戦争状態にあった。その相手とは、{{仮リンク|オーストリア領 オネーデルラン ダ方面のオースト リア|en|Austrian Netherlands}}と [[プロイセン 王国]]、そして [[イタリア 方面半島]]の [[サルデーニャ で王国]]と戦闘状態にあ るった。 [[1793年 ]][[1月2日 ]]、フランス革命戦争が始まってほぼ1年が経った時期、 [[共和主義 ]]者たちに占拠された [[ブルターニュ ]]の [[ブレスト ]]の 要塞が砦から、イギリス海軍のブリッグ「チルダース」 に発は砲 し撃を受けた <ref>{{refnest|group="注釈"|このとき「チルダース」を指揮していたロバート・バーロウ海尉は、「栄光の6月1日」の海戦にフリゲート「ペガサス」の艦長として参加する。 </ref>}}。 こその 数週間後、 収監されていたルイ16世とその妻マリー・アントワネットの処刑から始まる恐怖政治によって、イギリスとフランス の国交は 断たれた。フランスがイギリスとオランダに宣戦布告 するのは、それからまもなくのことである。フランスはし、それらの [[君主制|君主制国家 ]]に革命の精神を広めようとしてい た<ref name>Williams, p. 373</ref>。[[英仏海峡]]によって直接の侵攻から守られているイギリスは<ref name="PP15">Padfield, p. 15</ref>、1793年が終わるまで、北方の海域や[[地中海]]、また、両国がともに植民地を置いた[[西インド諸島]]と[[インド]]において、フランスと小規模な戦闘を繰り返した。 ▼
1794年のヨーロッパの状況は不安定なままであった。フランス北方海域にあったフランス大西洋艦隊では、食 料糧の配給と賃金支払の遅延が原因となって反乱が発生した。 そ必然の結果 として、反逆の決定を受けた を多くの熟練した水兵が、処刑、収監、あるいは解雇されて姿を消し、フランス海軍将校団は、[[恐怖政治]]の影響で大いに苦しむこととなった <ref name="WJ122">James, p. 122</ref> 。しかし食料の不足は、海軍の問題にとどまるものではなかった。その前年の社会的な大変動に厳しい冬が重なり、フランス全体が飢えていた <ref name="HM381"/>。そしてフランスはすべての隣国と戦争状態にあり、新鮮な食料を陸路で輸入する手立てを持たなかった。結局、[[国民公会]]で決定された解決策は、フランスの海外植民地で生産される食料をすべて[[チェサピーク湾]]に集められる商船隊に船積みし、さらにアメリカ合衆国からも食物と商品を購入するというものだった <ref name="NT89">Tracy, p. 89</ref>。1794年4月から5月にかけて、商船隊は護送船団を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]まで大西洋を横断することとなった <ref name="NM132">Mostert, p. 132</ref>。 ▼
「栄光の6月1日」は、フランス革命戦争開始当時の[[フランス海軍]]と[[イギリス海軍]]それぞれに固有な大きな問題のいくつかを明らかにした。どちらの海軍の提督たちも、部下の艦長たちの不服従や、乗組員の統制や訓練の不足に直面しており、効率的に艦隊を動かすことができなかった。また両軍とも、兵員と信頼できる士官の不足で苦しんでいた。この戦いの結果は、両国の報道機関によって、それぞれの海軍の能力と勇敢さの輝かしい現われとして称揚された。
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▲1792年前半から、フランスは3つの隣国と2つの正面において戦争状態にあった。その相手とは、オーストリア領オランダ方面のオーストリアとプロイセン、そしてイタリア方面のサルデーニャである。1793年1月2日、フランス革命戦争が始まってほぼ1年が経った時期、共和主義者たちに占拠されたブルターニュのブレストの要塞が、イギリス海軍のブリッグ「チルダース」に発砲した<ref>このとき「チルダース」を指揮していたロバート・バーロウ海尉は、「栄光の6月1日」の海戦にフリゲート「ペガサス」の艦長として参加する。</ref>。この数週間後、収監されていたルイ16世とその妻マリー・アントワネットの処刑から始まる恐怖政治によって、イギリスとフランスの国交は断たれた。フランスがイギリスとオランダに宣戦布告するのは、それからまもなくのことである。フランスは、それらの君主制国家に革命の精神を広めようとしていた。
イギリス海峡によってひとまず侵攻から守られているイギリスは、広範囲な海軍作戦行動を準備するとともに、フランスに対抗してオランダに軍隊を派遣していた。1793年の残りを通して、イギリスとフランスの海軍は、北方の海域や地中海、また、両国がともに植民地を置いた西インドと東インドにおいて、小規模な小競り合いを繰り返した。唯一の大きな衝突は「トゥーロン攻囲戦」と呼ばれる流血と混乱の事件だった。トゥーロンはイギリス軍がスペイン、サルディニア、オーストリアの各国軍およびフランスの王党派軍とともに占拠していたが、フランス共和派の軍によって打ち破られ、イギリス海軍による撤退作戦が行われた。この包囲戦のあと、同盟国の間では裏切りと臆病に対する非難と告発が繰り返され、それは結局、2年後にスペインがサン・イルデフォンソ条約に署名して敵陣営に乗り換える結果を招いた。それでも、包囲は1つの大きな成果をもたらした。サー・シドニー・スミスは、退却するイギリス艦隊から水兵の一団とともに上陸して、トゥーロンの豊富なフランス海軍軍需品と輸送手段の破壊を行った。スミスに同行したスペイン隊がフランス艦隊の破壊を遅らせるようにとの秘密命令を受けていなければ、より大きな戦果が得られたはずだった。
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▲1794年のヨーロッパの状況は不安定なままであった。フランス北方海域にあったフランス大西洋艦隊では、食料の配給と賃金支払の遅延が原因となって反乱が発生した。その結果、反逆の決定を受けたを多くの熟練した水兵が、処刑、収監、あるいは解雇されて姿を消し、フランス海軍将校団は、[[恐怖政治]]の影響で大いに苦しむこととなった。しかし食料の不足は、海軍の問題にとどまるものではなかった。その前年の社会的な大変動に厳しい冬が重なり、フランス全体が飢えていた。そしてフランスはすべての隣国と戦争状態にあり、新鮮な食料を陸路で輸入する手立てを持たなかった。結局、[[国民公会]]で決定された解決策は、フランスの海外植民地で生産される食料をすべて[[チェサピーク湾]]に集められる商船隊に船積みし、さらにアメリカ合衆国からも食物と商品を購入するというものだった。1794年4月から5月にかけて、商船隊は護送船団を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]まで大西洋を横断することとなった。
== 両国艦隊 ==
イギリスとフランス両国の海軍は、1794年時点で非常に異なる段階にあった。数的にはイギリス艦隊が優位に立っていたが、フランス艦はより大きく、よりて強く、イギリスに比べると[[砲弾]]も重い砲を備えていかった<ref name="FJ96"/>。フランスの[[1等級艦]]は三層甲板にで、110ないし120門の砲を備えていたのに対し、イギリス艦は最大のものでも100門艦であった。しかし、士気や要員配置や規律は、1794年の春では、海軍力にも影響を及ぼしていた<ref name="WJ127"/>。
=== イギリス海軍 ===
[[Image:Richard Howe, 1st Earl Howe - Project Gutenberg eText 18314.jpg|thumb|upright200PX|right|リチャード・ハウ<br/>(ジョン・シングルトン・コプリーの絵画の作、後にR・ダンカートンによるり[[メゾチント)]]化されたもの。]]
[[1790年]]の{{仮リンク|スペイン戦軍備<ref>"''Spanish|en|Nootka Armament''Crisis}}{{refnest|group="。注釈"|スペインとの開戦を見越して行われた軍備拡張の事</ref>。}}(から3年以上にわたって、イギリス海軍は、海上での軍事行動への準備が整った状態にあった<ref name="WJ48">James, p. 48</ref>。海軍大臣[[チャールズ・ミドルトン]]の下の、広範囲な準備によって、海軍の造船所はフル稼働し、いつ戦争の準備は整が起こっても出動できる態勢になっていた。それは10年前の[[アメリカ独立戦争のとき]]時の失敗から学んだ教訓であった。アメリカ独立戦争時、イギリス海軍は準備不足であり、完璧な状態にたどり着くのにあまりにも長い期間を要した。その結果、海軍は[[北アメリカ]]における軍事行動を支援することが出来ず、物資の不足によって[[ヨークタウンの戦い]]の敗北を招くことになった<ref name="NR429">Rodger, p. 429</ref>。今や、イギリスの造船所は[[大砲]]、砲弾、[[帆]]、食糧その他の必需品の供給が可能になったが、唯一残された問題は、数百隻に上る艦船に乗り込ませる兵員であった<ref name="FJ94"/>。
<!--当時、イギリス海軍は準備不足であり、完全な状態にたどり着くのにあまりにも長い期間を要した。その結果、海軍は北アメリカにおける軍事行動を支援することが出来ず、物資の不足によってヨークタウンの戦いの敗北を招くことになった。その時すぐに、イギリスの造船所は大砲、砲弾、帆、食料その他の必需品の供給が可能になったが、唯一残った問題は、数百隻に上る艦船に乗り込ませる兵員であった。
要兵員不足の問題はつのる一方で、フランス革命戦争の全期間を通して要定員が満たされに足りることはなった。船乗りの兵員不足はの結果、[[強制徴募]]隊が海のは、船に乗った経験の無い何千人もの男を徴募することにつながった。そして彼らへの乗員としての訓練や、海軍生活への準備心構えをさせるには、ほ相当の年月を必要とんどなされなかっしたはずである<ref name="FJ94"/>。[[海兵隊]]の不足はさらに深刻であり、[[イギリス陸軍|陸軍]]の兵士が海上での勤務のために艦隊に送られた。{{仮リンク|クイーンズ・ロイヤル連隊|en|Queen's Royal Regiment (West Surrey)}}と{{仮リンク|第29歩兵連隊|en|29th (Worcestershire) Regiment of Foot}}は、このフランス革命戦い争の際に軍間は艦に乗って勤上で任務しており、彼らについた。この両部隊の後継部隊は、今でも「なお1794年6月1日の栄戦闘名誉」章を維保持している<ref name="Worcs">[http://www.worcestershireregiment.com/wr.php?main=inc/h_glorious_first The Glorious First of June 1794], ''[[Worcestershire Regiment]]'', Retrieved 23 December 2007 </ref><ref name="QRSR">[http://www.queensroyalsurreys.org.uk/1661to1966/gloriousfirst/gloriousfirst.html The Glorious First of June 1794], ''Queen's Royal West Surrey Regiment'', Retrieved 1 January 2008 </ref>。
これらのような困難があったにもかかわらず、海峡艦隊は当代最高の指揮官を何人も抱えていた。司令長官のリチャード・ハウは、サー・エドワード・ホークの下で仕事を学び、[[キベブロン湾の海戦]]に従軍した。--<ref name="ODNBHowe">[http://www.oxforddnb.com/view/article/13963?docPos=2 Howe, Richard], ''[[Oxford Dictionary of National Biography]]'', Roger Knight, Retrieved 23 December 2007</ref>。
1794年の春、フランスの護送船団が[[ヨーロッパ]]海域に到着するのを目前に対して、ハウは彼の艦隊を3つのグループに分けた。軍艦「[[ヘクター」]]の指揮官{{仮リンク|ジョージ・モンタギュー|en|George Montagu (Royal Navy officer)}}は6隻の戦列艦と2隻の[[フリゲート]]で、東インド、西インド、諸島および[[ニューファンドランド島]]へ行く向かう護送船団を[[フィニステレ岬]]まで護衛する任務を与えられた。軍{{仮リンク|サフォーク (戦列艦「)|label=サフォーク」|en|HMS Suffolk (1765)}}の指揮官{{仮リンク|ピーター・レーニア|en|Peter Rainier, junior}}は、他の6隻を指揮して残りの船団を護衛することになった。3番目の部隊はハウが直率し、26隻の[[戦列艦]]と数隻の支援艦から成っていた。彼らは、到着するフランス船団を[[ビスケー湾]]で待ち受けることになっていべく湾内で巡回をした<ref name="WJ125">James, p. 125</ref>。
=== フランス海軍 ===
[[Image:Villaret-Joyeuse.jpg|thumb|upright|leftright|ルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ<br/>(ジャン=バティスト・ポーリン・グエリン画)作]]
敵国イギリスと対照的に、フランス海軍は混乱のさなかにあった。艦隊の船の品質は高かったが、艦隊の指揮系統は5年前の[[フランス革命|革命]]の開始以来、フランス全体に及んだものと同じ危機によって切り裂かずたずたにされていた<ref name="FJ94">Jane, p. 94</ref>。従って、船艦と[[兵器]]の質の高さは、それを使用する乗組員の質と全くマッチし釣り合っておらず、兵員はほとんどが訓練不足で未熟だった。恐怖政治はによって多くの熟練した水夫と兵や士官のが死に追いやられ、または追放に帰されるという結し果を招き、政治的な理由で任命された士官や徴兵された兵(そでフランスの多く[[大西洋艦隊]]はま一杯になったが、徴兵された兵の多くは海に出たことがなかった)が大西洋艦隊を満たした<ref name="RG16">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 16</ref>。
<!--フランス全土を覆っていた食糧問題は 、兵員の供給の問題をさらに複雑にしていた。当時、何 ケか月もの間、艦隊の [[給与 ]]は払われず、食事も満足 なものではに行きわたっていなかった <ref name="WJ58">James, p. 58</ref>。 1793年8月に、これらの問題は 1793年8月に、ブレスト の艦隊で頂点に達した。食 料糧不足により、正規の 欠如が平水兵の 間で反 抗を招い乱がおこった。乗組員は士官を退け、食 料糧捜しのために 船艦を港に入れたので、フランスの海岸は無防備となった <ref name="WJ59">James, p. 59</ref>。 [[国民公会 ]]は上級士官と [[下士官 ]]の一部を直ちに処刑することで答 これに応えた 。さらに数百人もの士官と兵が収監され、あるいは海軍から追放または解雇された。 そのよこう な厳罰の実施いった粛清行為がもたらした効果は 破壊 滅的 な影響を及ぼしだった。 最も有用な将兵の多くを一挙に排除することによって、艦隊の戦闘能力は深刻な低下を見せた <ref name="WJ122"/>。彼らの空席には、革命への情熱に燃える下級士官、商船の船長、さらには 単なる一般の市民 でさえもが 昇進し取り立てられたが、彼らのうち海上で艦隊戦闘を指揮する能力を持ったものは 極めてわずほとんどいなか であった <ref name = "WJ123"/><ref name="PP13">Padfield, p. 13</ref>。 ▼
この問題を抱えた艦隊の司令官に新たに任命されたのは、ヴィラレー・ド・ジョワイユーズだった。彼はそれまでは[[海尉]]にすぎなかったが、高度な戦術的才能を備えていること で知られており<ref name="FJ96">Jane, p. 96</ref> 、アメリカ独立戦争中には[[インド洋]]で、[[ピエール・アンドレ・ド・シュフラン]]のもとで訓練を 実証し受けていた <ref name="NM133">Mosert, p. 133</ref>。しかし、効率的に戦 うことのえる出来る新しい将校団を形成しようとするヴィラレーの試みは、新たに任命されたもう一人の人物に 絶えず妨げられた。それは、国民公会が 代理副官として送り込んだ[[ジャン=ボン・サン =アタンドレ]]という男で、その任務は、艦隊と提督それぞれの、革命への熱意の程を国民公会に直接報告することであった。彼はしばしば戦略の立案や作戦の実行に口を挟んだ<ref name="WJ123"> James, p. 123</ref>。サン =アタンドレは着任の直後、戦闘中に艦 の防衛への熱を守る意 思が不十分であったと認められる士官はすべて、帰国の際に処刑されるべしと いう命指示する法令を 出そ交付するよう とに提案した。しかしこの あまりにも物 騒な規則が議を醸す法令は、どうやら実行 に移され た形跡はな い。かったようである< ref name="WJ123"/ ref>。 もっとも、こうしたサンタンドレの干渉はヴィラレー のを悩 みのませる一 方で員とはなったが、 サン=アンドレこの 副官がパリへ の送る報告は定期的に 「{{仮リンク|ル・モニトゥール (''|en|Le Moniteur '')」 Universel}}に発表され、国内での海軍の 大衆化に評判を大いに 役立っ高めた <ref name="WJ124">James, p. 124</ref>。 ▼
▲<!--フランス全土を覆っていた食糧問題は兵員の供給の問題をさらに複雑にしていた。当時、何ケ月もの間、艦隊の給与は払われず、食事も満足なものではなかった。1793年8月に、これらの問題はブレストの艦隊で頂点に達した。食料の欠如が平水兵の反抗を招いた。乗組員は士官を退け、食料捜しのために船を港に入れたので、フランスの海岸は無防備となった。国民公会は上級士官と下士官の一部を直ちに処刑することで答えた。さらに数百人もの士官と兵が収監され、あるいは海軍から追放または解雇された。そのような厳罰の実施は破壊的な影響を及ぼした。有用な将兵の多くを一挙に排除することによって、艦隊の戦闘能力は深刻な低下を見せた。彼らの空席には、革命への情熱に燃える下級士官、商船の船長、さらには単なる市民が昇進したが、彼らのうち海上で艦隊戦闘を指揮する能力を持ったものは極めてわずかであった。
-->
▲この問題を抱えた艦隊の司令官に新たに任命されたのは、ヴィラレー・ド・ジョワイユーズだった。彼はそれまでは[[海尉]]にすぎなかったが、高度な戦術的才能を備えていることを実証していた。しかし、効率的に戦うことの出来る新しい将校団を形成しようとするヴィラレーの試みは、新たに任命されたもう一人の人物に絶えず妨げられた。それは、国民公会が代理として送り込んだ[[ジャン=ボン・サン=アンドレ]]という男で、その任務は、艦隊と提督それぞれの、革命への熱意の程を国民公会に直接報告することであった。彼はしばしば戦略の立案や作戦の実行に口を挟んだ<ref>サン=アンドレは着任の直後、戦闘中に艦の防衛への熱意が不十分であったと認められる士官はすべて、帰国の際に処刑されるべしという命令を出そうと提案した。しかしこの物騒な規則が実行された形跡はない。</ref>。もっとも、こうしたヴィラレーの悩みの一方で、サン=アンドレのパリへの報告は定期的に「ル・モニトゥール(''Le Moniteur'')」に発表され、国内での海軍の大衆化に大いに役立った。
フランス大西洋艦隊は、1794年の春にはイギリスの大西洋艦隊よりも分散して配置されていた。[[{{仮リンク|ピエール・ヴァンスタブル]]|en|Pierre Jean Van Stabel}}少将は、2隻の戦列艦を含む5隻を率いて、待望久しい自国民に何よりも必要なアメリカからの[[穀物]]輸送船団を迎えるためにアメリカ東部沿岸まで出向いていた。[[{{仮リンク|ジョセゼフ=マリー・ニエリ]]|en|Joseph-Marie Nielly}}[[少将]]は、5隻の戦列艦と随伴の艦を率いて[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]を出発し、輸送船団との会合流のために中部大西洋中部まで進出航海した。ヴィラレーはハウ提督のイギリス艦隊のと対処するために、25隻の戦列艦とともにブレストに残り、ハウ提督のイギリス艦隊の脅威と対峙しった<ref name="WJ127"/>。
=== 護送船団 ===
1794年の早春、フランスのは悲惨な状況は最悪だっに置かれていた。収穫の失敗凶作とフランス港湾と及び通商の封鎖とで、飢饉が迫っており、フランス政府は、生きるて行くためには海外に目を向けるしかなかった<ref name="NR429"/>。アメリカ大陸のフランス植民地とアメリカ合衆国の農業力の豊かさに目を向けた国民公会は注目し、ヴァンスタブル提督が待つ[[チェサピーク湾]]の[[ハンプトン・ローズ]]において貨物船を集結させ、大規模な船団を組むように命じた。現代ヴァンスタブル提督はその船団の待機状態に入っていたと思われる。その当時の歴史家{{仮リンク|ウィリアム・ジェームズ|en|William James (naval historian)}}によれば、この船団の規模について言われてきた総勢350隻以上という数字は正しくなく、論争の結果、軍艦も含めて117隻であったると述べていうことである<ref name="WJ127">James, p. 127</ref>。
その船団にはアメリカ合衆国政府の意向により、アメリカの貨物と船も加わった。それはアメリカ独立革命戦争の時にフランスから受けた財政的、精神的、そしてまた軍事的な支援への返礼であった。これは駐仏大使[[ガバヌーア・モリス|ガバニーア・モリス]]の強い進言によるもので、このようにいう形でフランス革命を支援することにより、アメリカ政府は10年来の債務を返済したのである<ref name="HM381">Williams, p. 381</ref> 。しかし、2国間の友好関係は恐怖政治の残虐さの前1796年に長続きせず有効となった[[ジェイ条約]]で途切れてしまい、4[[1798年後]]には、両国は「[[擬似戦争]]」に突入することとなる<ref name="RG148">Gardiner, ''Nelson Against Napoleon'', p. 148</ref>。
== 1794年5月 ==
{{Main|1794年5月の大西洋方面作戦}} [[Image:First of June 1794 Map.png|thumb|upright230px|right|栄光の6月1日の海戦の位置を示す大西洋の地図]]
ヴァンスタブルによって護衛されたフランス護送船団は[[4月2日]]に[[バージニア]]を出発した。そしてハウは[[5月2日]]、西方航路(Western Approaches)[[ウェスタンアプローチズ]]を行くイギリス船団を護衛しつつ、かつフランス船団を捕捉阻止するために、全艦隊を率いて[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]から出帆した<ref name="NM132" />。ヴィラレーがまだブレストにいることを確認したハウは、2週間かけてビスケー湾で穀物輸送船団を求めてビスケー湾を捜すことに2週間を費やした。そして、[[5月18日]]にブレストに戻り、ヴィラレーが前日に出航したことを知った<ref>ハウは大西洋に戻り{{refnest|group="注釈"|歴史家のピーター・パッドフィールドによれば、これはヴィラレーのブレスト脱出港を促すハウの慎重意図的な戦略の一部であったと言われている。開けた外海にヴィラレーを誘導することによりができれば、ハウは、よく自艦隊の訓練されを積み、戦術面でも優勢な艦隊によってフランス艦隊を撃破できるたからである。そまたもしてそれが成功すれば、以後長い間、何年にもわたってフランス大西洋艦隊の脅威を取り除くことができるのである。になった<ref name="PP17">Padfield, p. 17</ref>。ハウは大西洋}}、ビスケー湾の奥深くはるかかなたでヴィラレーを追跡した。この時、海上にはニエリのフランス艦戦隊とモンタギューのイギリス艦戦隊もいて、それぞれ若干のわずかながら戦果を上げていた。ニエリは何隻かのイギリス商船を[[拿捕え]]し、またモンタギューはそのいくつかイギリス船を何隻か奪還していた。ニエリは5月の第2週、大西洋の奥深くかなたで穀物船団に出会った。モンタギューが実り最初の戦隊とない南方の捜索を行っている間に、た。ニエリはそれ船団を護送してつつヨーロッパに近づ大陸との距離を狭める一方で、モンタギューはビスケー湾南部の方を探しまわっていたが、何の成果も得られなかった<ref name="WJ128">James, p. 128</ref>。
フランス主力艦隊もまた、ハウの追跡にもかかわらず、成果を上げていた。ヴィラレーは外海に出た初日にオランダ船団と遭遇して20隻を捕獲した。その翌週、ハウはフランスに拿捕されたオランダ船や、フランスの[[コルベットなど]]を捕獲し、あるいはそれらを焼き払いつつ、フランス艦隊を追い続けた<ref name="RG27">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 27</ref>。[[5月25日]]に、ハウはヴィラレーの艦隊からの落伍者はぐれた艦を見つけて追跡した。その艦「{{仮リンク|オーダシュー(''|en|French ship Audacieux'')」 (1784)}}は、ハウをフランス艦隊の位置へ導く結果と案内してしまなった<ref name="WJ130">James, p. 130</ref>。5月28日、ハウはついにヴィラレーの艦隊を捕捉発見したハウは、5月28日、最も速い艦によるって編成した遊撃戦隊を繰り出して、フランス艦隊の最後尾にいた「[[ブルターニュ (戦列艦・初代)|レヴォリュシヨネール(''Révolutionnaire'')」を襲]]と何度にもわたって交戦させた。この1等級艦は6隻のイギリス艦に次々と攻撃されて大きな損害を受け、戦いの最後終わりの方にはもはや降伏しかするのではないほどの大損害を被っかと思われた<ref name="WJ132">James, p. 132</ref> 。暗闇日が訪れ落ちたのでため、イギリスとフランスの艦隊は離脱したが、「レヴォリュシヨネール」と、この艦が最後のに交戦したイギリス軍艦「[[オーダディシャス(''Audacious'')」となる「 (戦列艦)|オーダディシュー」ャス]]とは完全に艦隊から切り離され、イギリスなおも英仏両艦隊の後方に残されたたずんでいた。この2隻はその夜の間にそれぞれの艦隊を離れ、最終的に母港に戻った<ref name="RG28">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 28</ref>。この段階でヴィラレーは哨戒、護送船団の監視のために派遣していたフリゲートから、穀物輸護送船団が間近にいることを聞いてい知らされた。そこで彼は、自分の艦隊をあえて意図的に西に移動させ、ハウがそれにつおびきよせられてハウが極めて重要、大事な輸送船団から距離れるを置くように仕向けした<ref name="HM381"/>。
そヴィラレーの目論見に乗はまったハウは翌日も攻撃を続けた。しかし、フランス艦隊を2二分するという彼の試みは、彼の艦隊の先頭艦である軍艦「{{仮リンク|シーザー」 (戦列艦)|label=シーザー|en|HMS Caesar (1793)}}が命令のを遂行に失敗しなかったためにうまくいかなかった。双方ともに大きな損害を被ったが、決定的な戦いとはならず、どちらも勝敗再び決着を確認すつけることなく分離しに離れて行った。しかしハウは戦闘の過程で風上側を取るった、ことれはイギリス側に成功しは大きな利点だった。これによっており、以後、自分の望むときにヴィラレーを攻撃できる利点を持っていたからである<ref name="NR430">Rodger, p. 430</ref>{{refnest|group="注釈"|帆船時代の海戦においては風上を取ることは決定的な意味を持つ。帆走軍艦が攻撃の主導権を握るためには適切な風量と風向を必要とするからである。帆船は逆風が不適当な方向から吹いていてもの場合、帆の開き艦を変え上手回しにすることで針路を調節することその埋め合わせが可能だったができる。しかし、風上に位置するということは、複雑な帆の操作戦術をすること用いなくても、風を利して直接敵を攻撃することができるということを意味するのである。</ref>}}。3隻のフランス艦が損害のを受けたために母港に送り返されたが、その損失はニエリが分遣した増援の戦隊が次の日に到着したことで相殺さ埋め合わせられた<ref name="PP16">Padfield, p. 16</ref>。続く2翌30日と翌々日の31日間は、濃霧のために戦いは行われなかった。そして[[1794年]][[6月1日]]、ついに霧が晴れたとき、両艦隊の戦列の間隔はわずか6マイル(10 km)キロ)であり、ハウには決戦の用意が出来てい覚悟を決めた<ref name="PP16"/>。
== 6月1日 ==
[[Image:June 1 1794 Order of Battle Map.png|thumb|400px|right|1794年6月1日の、英仏両艦隊の配置図]]
好適な位置風上にいたハウと異なり、ヴィラレーは夜どおし多忙だった。彼は自分の艦隊をイギリス艦隊から遠ざけようとして、それはある程度ほとんど成果を上げ功していた。午前5時に夜が明けたとき時、彼は、十分な風を受ければ2、3時間で[[水平線]]の向こうに逃げ込める位置にいた<ref name="WJ146"/>。ハウは部下に朝食を取とらせつつ、風上に関すいると言う有利な立場を存分に利用してヴィラレーのフランス艦隊に迫った。そして、8時12分にはフランス艦隊まで4マイル(6.4 km)キロ)まで近づいた。この時、ハウの艦隊はフランス艦隊と平行なに1本の戦列を形成しており、数隻のフリゲートが司令官の命令を中継するための複数隻のフリゲートが共に従っていた<ref name="FJ95">Jane, p. 95</ref>。フランス艦隊も同じ向き様に1本の戦縦列を作っ形成していた。2つのおり、両艦隊は9時24分に長距離での発砲を開始した。そのときハウは革斬新的な戦術を繰り出し思いついた<ref name="WJ146">James, p. 146</ref>。
18世紀の艦隊戦闘においては、敵味方の戦列が長距離から砲火を交わしつつ、そして針路を変えつつ粛々と並走するのが普通であり、どちらの側にも艦の喪失や拿捕獲が発生しないことがしばしばだった<ref name="PP18">Padfield, p. 18</ref>。しかしハウは対照的に、部下の将兵の敢闘精神と、有利な風向きを頼みとし味方につけていた。その日の風向きは、フランス艦隊を攻撃するのみならずそ敵の戦列を横切ることも可能であっに期待していた<ref name="FJ94"/>。しかし彼ハウは、28、29両日の遭遇戦のように(そして[[ジョージ・ロドニー|ロドニー]]が12年前の[[セインツの海戦]]で行ったように)、各艦が前の艦の航跡をたどりつつ、敵艦隊を貫く戦列を形成するという作戦をとるつもりはなかった<ref name="RG31">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 31</ref> 。その代わりにハウは、列艦のそれぞれが個々にフランス戦列の防御線に向かうように命じた。そしって、あらゆる箇所でそれを分断し、フランス艦をこの船首とごとく艦首船尾から縦双方を掃射しするようとしに命じた。そこでイギリス艦隊の艦長たちは敵艦の反対舷に回りこみ近づき、風下への逃亡を防いで断ち切って直接攻撃交戦し、うまくいけばそれぞれを降伏させて、フランス大西洋艦隊を壊滅させることができられるはずだった<ref name="NR430"/>。
== イギリス艦隊の戦列突破 ==
しかし信号を発し、旗艦「[[クイーン・シャーロット」 (戦列艦・初代)|クイーン・シャーロット]]を回頭方向転換させてさせてわずか数分のうちに、ハウの計画は早くもぐらつまずき始めた。艦長たちの多くは[[国際信号旗|信号]]を誤解読し、あるいは信号に気付かずに、元々の戦列の位置にとどまってで二の足を踏んでいた<ref name="PP22">Padfield, p. 22</ref>。また前日までの損害の回復に取り組んでいるを修復中の艦もあり、十分なハウの戦術に見合う素早速さで行動に移ることができなかった。結果として形成された、イギリス軍の陣形は、ヴィラレーの艦隊に対し「て、クイーン・シャーロット」が不規則に突出した無様なものだった。しかし彼らフランス軍は敵艦隊の接近に対して砲撃で応えたフランス艦隊の砲撃はが、訓練とも連携も不十分なの欠如がは明らかなものだった。ハウの命令に従ってフランス艦隊に突撃した艦の多くは、さしたる損害もなく近しに接近戦闘を開始した<ref name = "WJ155"/>。
=== 前衛部隊 ===
[[File:The 'Defence' at the Battle of the First of June, 1794.jpg|thumb|230px|right|交戦するディフェンス(中央)]]
「クイーン・シャーロット」は総ての帆を張り上げて進んだったが、敵の戦列防御を最初に突破したのは別の艦だった。そ一番乗りの栄誉を受けたのは、{{仮リンク|トマス・グレイーヴズス|en|Thomas Graves, 1st Baron Graves}}提督の前衛戦隊に属する[[ジェームズ・ガンビア]]艦長(同時指揮の軍艦[[ディフェンス (戦列艦・初代)|ディフェンス]]だった。この艦長は気難しいことで有名で、当時の人々からは「陰気なジミー」とあだ名された、気難しいことで有名な士官)指揮の軍<ref name="RG32">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 32</ref>。イギリス艦「ディフェンス」だった。隊戦列の7番目にいた「ディフェンス」は、フランス艦隊戦列の6隻目「{{仮リンク|ミュシュース(''Mucius'')」|en|French ship Orion (1787)}}と7隻目「{{仮リンク|トゥールヴィル」|en|French ship Tourville (1788)}}の間を巧みに突破した。両側の敵を攻撃掃射しつつ、「ていたディフェンス」は、間もなく、他の味方艦がそ自分の後に付きちんとついて来るこられなかったため孤とができず、自分が窮地に立したされていることに気づいた<ref name="WJ158">James, p. 158</ref>。「このためフランス艦隊の標的となったディフェンス」は「ミュシュース」、「トゥールヴィル」およびその後続艦を相手に死に物狂いの戦闘で一斉射撃を開始した。前衛戦隊でフランスの戦列を突破したのは「ディフェンス」だけではなかった。数分後、軍[[マールバラ (戦列艦「・2代)|マールボロ」バラ]]の艦長{{仮リンク|ジョージ・クランフィールド=バークレリー|en|George Cranfield Berkeley}}はハウの指示した艦隊運動を完全に実遂行し、フランス艦「{{仮リンク|アンペテュウー」|en|French ship Impétueux (1787)}}を攻撃掃射し、混その後この艦を交戦に持ち巻き込んだ<ref name="PP29">Padfield, p. 29</ref><ref name="WJ157">James, p. 157</ref>。
残りマールバラの前にいたその他の艦の、成功の度合いはさまざまだった。「[[ベレロフォン」 (戦列艦)|ベレロフォン]]と「[[レヴァイアサン」に (戦列艦・2代)|レヴァイアサン]]は数日前の奮戦闘での受けた損傷の影響がにまだ残っ悩まされており、敵の戦列を陣突破ることができなかった。その代わり、彼らはそれぞれフランス艦「{{仮リンク|エオル」|en|French ship Éole (1789)}}および「{{仮リンク|アメリカ」 (戦列艦)|label=アメリカ|en|French ship America (1788)}}に苦心しつつ接近し、風上舷から近接砲戦に持ち込んだ。「この砲撃が始まって間もないころ、ベレロフォン」に座乗していた{{仮リンク|トーマス・パスペイズリー|en|Sir Thomas Pasley, 1st Baronet}}少将はその初めの段階で負傷し、片脚を失った。グレーヴスズの旗艦「[[ロイヤル・サソブリン」 (戦列艦・3代)|ロイヤル・ソブリン]]の交戦はあまりうまく戦え行かなかった。距離の判断を誤ってフランス戦列から遠い位置に占位したため、敵艦「{{仮リンク|テリブル」|en|French ship Terrible (1779)}}から激しい砲火を浴びることとになった<ref name="WJ157"/>。「テリブル」に接近戦を挑めるまでに近づいた時には、「ロイヤル・サソブリン」はしたたかに打ちすえられなりの砲撃を受けており、グレーヴス提督も重傷を負っていた<ref name="WJ157"/>。
ハウにとってより不本意だがもっと当惑したのは「[[ラッセル」 (戦列艦・2代)|ラッセル]]と「シーザー」の行動だった。「ラッセル」の艦長{{仮リンク|ジョン・ウィレット・ペイン|en|John Willett Payne}}は、そこの時、敵に近付いて組みつく砲火を交えることができず、敵艦「{{仮リンク|テメレール (戦列艦)|label=テメレール」|en|French ship Téméraire (1782)}}から早いうちに帆艤装に損害を与えられたことで非難された。ただし、「ラッセル」の初動の鈍さについては、後世の評論家は、{{仮リンク|1794年5月29日に受けた損害にその原因を求める声も海戦|en|Frigate action of 29 May 1794}}のせいであると述べている<ref name = "WJ156"/>。しかし、「シーザー」の{{仮リンク|アンソニー・モロイ|en|Anthony James Pye Molloy}}艦長には弁解の余地はなかった。モロイは敵との交戦義務をすべての点で怠った。彼はハウの信号を全く無視し、イギリス戦列がフランス艦隊に襲いかかっていを直接攻撃するにもどころかかわらず、まるで自らが戦列艦隊を率いているかのように前進し続けた<ref name="PP24">Padfield, p. 24</ref>。「シーザー」はフランスの先頭艦「トラヤン」と、とりとめのない砲戦を行っていたが、それがほとんど効果を上げないうちに、「トラヤン」によって帆艤装に損害を受けたため、「トラヤン」は引き続き「次いでベレロフォン」を攻撃しすることができた。ベレロフォンは混戦が高まりつつあった戦列の先頭では乱戦は発生、野放しなかの状態でさまよっていた<ref name="WJ155">James, p. 155</ref>。
=== 中央戦隊 ===
両艦隊の中央部の戦闘は、イギリス戦列の2つの独立した戦隊によって分かたれていた。前半部は{{仮リンク|ベンジャミン・コールドウェル|en|Benjamin Caldwell}}提督と{{仮リンク|ジョージ・ボウヤー|en|Sir George Bowyer, 5th Baronet}}の部隊、そして後半部はハウ卿の直率部隊である。「クイーン・シャーロット」座乗のハウがフランス艦隊に迫と接近戦を行ったているにもかかわらず、前半部の彼のにいる部下たちの動きは不活発だっ精彩を欠いていた。前半の部隊は並走する敵艦に直に突撃する代わりに、戦縦列陣形を維持した組んだまま整然粛々と遠距離法を撃って、フランス艦隊に接近し遠距離砲と交戦を行っしていた。その結果が、前を行く「先頭に立つディフェンス」ばかりが敵の攻撃にさらされるのを阻止することにはできなかった<ref name="WJ158"/>。この戦隊の全艦のうち、{{仮リンク|トーマス・パペケナム|en|Thomas Pakenham (Royal Navy officer)}}艦長の「[[インヴィンシブル (戦列艦・2代)|インヴィンシブル」]]だけがフランス戦列に接近した。「インヴィンシブル」の突撃には支援する艦がおらず、大きな損傷害を受けながらも、どうにかして自分より大きい敵艦「{{仮リンク|ジュスト」|en|French ship Deux Frères}}に攻撃を仕掛けようとした<ref name="WJ159">James, p. 159</ref>。ボウヤー指揮の「[[バーフラー」 (戦列艦・2代)|バーフラー]]は遅れて戦闘に加わったが、そのとき参戦時ボウヤーの姿はい艦上に見えなかった。彼は戦いの冒頭で闘開始直後に片脚を失っていた<ref name = "PP32"/>。
ハウと「クイーン・シャーロット」は艦隊を率先垂範し、フランスの旗艦「[[エタ・ド・ブルゴーニュ (戦列艦)|モンターニュ」]]へと突進した。「モンターニュ」と後続する「{{仮リンク|ヴァンジュール・ドゥ・プープル」|en|French ship Vengeur du Peuple}}の間を横切ると、「クイーン・シャーロット」は両舷この砲2隻を発掃射し、さらに近接砲戦を挑むべく「モンターニュ」へと進路を向けた<ref name="PP24"/>。そうしながら「てクイーン・シャーロット」は、モンターニュにしたのと同様に、フランス艦「{{仮リンク|ジャコバン」と (戦列艦)|label=ジャコバン|en|French ship Auguste}}をも交戦に巻き込み、短い時間砲火を交わした。そして両艦ともに重大きな損害を与えた<ref name="PP31"/>。
「クイーン・シャーロット」の右側では「方向にいる[[ブランズウィック」 (戦列艦)|ブランズウィック]]は、当初は参戦しようとあが行動開始に手こずっいていた。旗艦の真後にいろで苦心惨憺しており、艦長{{仮リンク|ジョン・ハーヴェイ|en|John Harvey (Royal Navy officer)}}はその遅れについてハウから非難譴責を受けた。こハウの非難譴責信号に奮い立ったハーヴェイは一気に艦を前に押し出し、「クイーン・シャーロット」をもう少しで追い越しすところだった。「ブランズウィック」はこれが側についたため、一時的により「クイーン・シャーロット」の東側のからフランス艦隊の視界を遮東にいること半数が一時的に見えなったためくなり、今度はクイーン・シャーロットがフランス艦隊の集中砲火を浴びで重大きな損傷害を被っ受けた。ハーヴェイは「ジャコバン」に乗り込んで提督ハウを直接支援しようとしたが、そこジャコバンに行き追いつくほどブランズウィックは速くなかったため、敵艦「{{仮リンク|アシレ」ル|en|French ship Annibal (1779)}}と「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」の間を横切ろうとした。しかし「ブランズウィック」の錨が「、ヴァンジュール」の索具艤装に絡んでこの操作戦略は失敗した。ハーヴェイブランズウィックの[[航海長]]は「、ヴァンジュール」を切り離す必要があると訴えべきかハーヴェイに助言を求めたが、ハーヴェイは「ノーいや、ヴァンジュールは我々は乗り込んでが奪い取るって我々のだものにする」と答えた<ref name="ODNBJHarvey"/>。2隻の艦はあまりに接近していており、「ブランズウィック」のは砲門を開けるくことができず、蓋を閉じたままで発砲した。2隻はたかだか数フィート(60センチから90センチ)の距離でを置いてお互いを撃ち合った<ref name="WJ161">James, p. 161</ref>。
この戦闘と並行しての後方で、中央部隊の他の艦はフランス戦列を攻撃した。「{{仮リンク|トマス・プリングル|en|Thomas Pringle (Royal Navy officer)}}艦長の[[ヴァリアント」 (戦列艦・初代)|ヴァリアント]]は逃げようとしているフランス艦「{{仮リンク|パトリオッート」 (戦列艦)|label=パトリオート|en|French ship Patriote (1785)}}の近くを通過した。「パトリオッート」のは後退していた、乗組員はが[[伝染病]]に苦しんでおり、戦闘に加わることができなかったのである.<ref name="WJ165">James, p. 165</ref> 。「代わりにヴァリアント」はその代わりに「アシレ」ルに向かい、すでに「クイーン・シャーロット」と「、ブランズウィック」の攻砲撃を受けていた同艦に深刻大きな打撃損害を与えて、敵艦に囲まれた前衛部隊の戦闘に加わるために前進した<ref name="PP31"/>。{{仮リンク|ジョン・トーマス・ダックワース|en|Sir John Duckworth, 1st Baronet}}艦長の「[[オライオン」 (戦列艦)|オライオン]]と{{仮リンク|アラン・ガードナー|en|Alan Gardner, 1st Baron Gardner}}提督座乗の「[[クイーン」 (戦列艦・2代)|クイーン]]は両方とも共に同じ敵艦を攻撃した。「クイーン」はすでに先行する最初の方の戦闘でマストに深刻な損傷害を受け、{{仮リンク|ジョン・ハット|en|John Hutt (Royal Navy officer)}}艦長は致命傷を負っていた<ref name="PP31">Padfield, p. 31</ref>。両艦はフランス艦「{{仮リンク|ノーサンバーランド (戦列艦)|label=ノーサンバーランド」|en|French ship Northumberland (1780)}}に襲いかかった。「ノーサンバーランド」はすぐにマストを失い、マストの根元の部分だけの状態になったマストで逃げようとしているままに捨て置かれた。「クイーン」は「、オリライオン」のように「ノーサンバーランド」に近接近するには大きく速度が遅れていかったため、すぐに「出くわした{{仮リンク|ジェマップ」に目標を変えた。そして|en|French ship Jemmapes (1794)}}と、両艦はお互いに激しい砲火を交わした<ref name="NT99"/>。
=== 後衛戦隊 ===
イギリスの後衛戦隊のうち、フランス戦列陣を突破する断ために確固とした行動る努力をとっしたのはわずか2隻だった。フッド提督の旗艦「{{仮リンク|ロイヤル・ジョージ」|en|HMS Royal George (1788)}}はフランス艦「{{仮リンク|レプブリカン」|en|French ship Royal Louis (1780)}}と「{{仮リンク|サン・パレイユ」|en|French ship Sans Pareil}}の間を突破して両艦と近接近戦を行い、また「{{仮リンク|グローリー (戦列艦)|label=グローリー」|en|HMS Glory (1788)}}は「サン・パレイユ」の後方で戦列を横切って、やはり乱闘に突入した。そこれら2隻以外の両艦隊の後衛はこの近接戦に参加しなかった。イギリス艦「[[モンタギュー」 (戦列艦・4代)|モンタギュー]]は、著戦において艦長{{仮リンク|ジェームズ・モンタギュー|en|James Montagu (Royal Navy officer)}}を失っており、指揮官は[[海尉]]{{仮リンク|ロス・ドネリー|en|Ross Donnelly}}にゆだねられていて<ref name="ODNB">[http://www.oxforddnb.com/view/article/7823 Donnelly, Sir Ross], ''[[Oxford Dictionary of National Biography]]'', [[John Knox Laughton|J. K. Laughton]] and [[Andrew Lambert]], (subscription required), Retrieved 10 May 2012</ref>、フランス艦「{{仮リンク|ネプテューヌ」|en|French ship Neptune (1778)}}と遠距離砲戦を行ったが。しかしどちらにもさしたる損害は発生しなかった<ref name="WJ167">James, p. 167</ref>。軍次の戦列に位置する[[ラミリーズ (戦列艦「・3代)|ラミリーズ」]]は完全に敵を無視しており、艦長ヘンリー・ハーヴェイのは、兄弟ジョンが艦長を務める「ブランズウィック」(「クイーン・シャーロット」の傍で混戦に加わっていた)を探して西に移動した<ref name="WJ163">James, p. 163</ref>。
その他3隻のイギリス艦はいずれもハウの信号に応えられずにいた。「[[アルフレッド」 (戦列艦)|アルフレッド]]はフランス戦列と交戦したがあまりに遠距離でが離れていて、効果を上げられなかった。「[[マジェスティック」 (戦列艦)|マジェスティック]]の{{仮リンク|チャールズ・コットン|en|Sir Charles Cotton, 5th Baronet}}艦長も同様に何も知りこと、決着がつくまできほとんど何もせず、その位置で、すでに撃破された数隻のフランス艦の降伏を受け入れただけだった<ref name="WJ167"/>。{{仮リンク|アルベマール・バーティ|en|Sir Albemarle Bertie, 1st Baronet}}艦長の「[[サンダラー」 (戦列艦・2代)|サンダラー]]はまったく、結局に初期の戦闘にはまったく参加しなかった。「サンダラー」は戦列イギリス艦隊からかなり離れた位置におり、敵との近接近戦を命じる信号がメインマストからはっきだらり読み取れなかと下がっていたためにもかかわらず、敵との交戦の機会を逸してしまった。フランス艦隊の後衛部隊は戦闘まぎれもなく仕事を避けしておりらず、「{{仮リンク|アントレプレナン」|en|French ship Entreprenant (1787)}}も「{{仮リンク|ペルティエ」|en|French ship Séduisant (1783)}}も、射程内のイギリス艦に砲撃ちかを仕掛けてはいたが、いずれの艦隊の近接戦闘や乱戦に入加わることはもしなかった<ref name="WJ167"/>。フランス艦隊戦列最後尾の「{{仮リンク|シピオン」|en|French ship Saint-Esprit (1766)}}もまた戦闘に加わろうとしなかったが、「ロイヤル・ジョージ」と「レプブリカン」の周囲の戦闘に巻き込まれるのを避けられず、大きな損傷害を被った<ref name="WJ168">James, p. 168</ref>。
== 混戦 ==
[[Image:Combat-de-prairial.jpg|thumb|230px|right|戦いの後のマストを失った船<br/>Lithograph after Meyer(リトグラフ)]]
最初の砲戦から1時間のうちに、イギリスとフランスの交戦列は絶望的どうしようもな混戦いほどにもつれ込んで混乱していた。それはお互いの視界に見える範囲内で戦う、3つの異なるグループに分かれが交戦している有様が飛び込んでいた。前衛部隊では「シーザー」がついにやっと戦いに加わろうとしたが、「トラヤン」によって重要大事な円材[[マスト|帆柱]]を吹き飛ばされただけで、なんら戦いにさしたる貢献をすることなく2、互いに包囲された両艦隊の戦闘の場から脱落した<ref name="WJ154">James, p. 154</ref>。「ベレロフォン」と「リレヴァイアサン」は交戦いのただ只中にいあった。そして多数の敵艦から攻撃された「ベレロフォン」は帆艤装に重大容易ならない損傷害を受けた。これのためベレロフォンは同艦を操作制御不能で危険とな状態り、敵艦に置い囲まれて窮地に立たされたが、「その敵艦の1隻であるエオル」もまた深刻な被害を受けていた。「ベレロフォン」の{{仮リンク|ウィリアム・ジョンストン・ホープ|en|William Johnstone Hope}}艦長は自艦を危険な位置機から脱出逃れさせるため助け支援を呼んだ求めた。[[エドワード・ソーンバラ]]艦長のフリゲート「、{{仮リンク|ラトーナ」|en|HMS Latona (1781)}}が救助に駆け付けた<ref name="WJ155"/>。ソーンバラは、フランスの戦列艦の間に自らの小型のフリゲート艦を持ち込んで「入れて、エオル」を砲撃し、3隻の戦列艦の脱出を助けるとともに「、ベレロフォン」を曳航して救出した。「レヴァイアサン」艦長の{{仮リンク|ヒュー・シーモア卿|en|Lord Hugh Seymour}}は「ベレロフォン」よりもうまく戦っ敵を切り崩しており、通過する「エオル」と「トラヤン」から砲撃を受けつつも「、アメリカ」のマストを打倒した。「レヴァイアサン」は2時間の砲戦ののち、11時50分、「アメリカ」をその場に置い残して、中央戦隊の「クイーン・シャーロット」に加勢するために離脱した<ref name="WJ156">James, p. 156</ref>。
「ラッセル」はフランス戦列陣を突破しなかった。せず、対戦相手だったのフランス艦「テメレール」はより効果的に戦い、ラッセルのトップマストを打ち倒叩き落として勝利を収め、「トラヤン」や「エオル」とともに風上に逃げた。「ラッセル」は通過する数隻のフランス艦に砲撃を加えたのち、フランスの中央戦隊を攻撃する「レヴァイアサン」と行動をとも共にした。「ラッセル」のボート部隊がアメリカを降服させ、拿捕賞金を目当てに「的でアメリカ」に乗り込みんだが、降服させた(乗り込み隊員はその後刻「ロイヤル・サソブリン」の兵乗員と交替しが彼らに取って代わった)<ref name="NT98">Tracy, p. 98, ''Biographical Memoir of Rear-Admiral John Willett Payne''</ref>。「ロイヤル・サソブリン」は、グレーブス提督を重傷で欠いていたが、敵も同様だった。「その間にテリブル」は戦列を風上に抜けて、戦闘場の反対側においてかなたで新たに戦列を形成しつつあるフランス艦隊に向かっていった。ヴィラレーは「クイーン・シャーロット」から一旦逃げた旗艦「モンターニュ」で指揮を執っていたが、彼の次に「なる相手はロイヤル・サソブリン」と戦うことになだった。「モンターニュ」に続くを先頭とする、新しいフランス戦列には「追随したヴァリアント」がは、ロイヤル・ソヴリンを戦列近くまで追随跡し、長距離戦を開始した<ref name="WJ157"/>。
「ロイヤル・サソブリン」の後ろに続いて「たマールボロ」バラも、フランス艦「アンペティユュー」と近接相入り乱れた交戦を行い、状態となった。アンペテューは多大のな損害を与え受けて今にも降伏寸前まで持ち込せんばかりだったが、砲煙を抜けかいくぐって「ミュシュース」が現れ、両艦に突入しぶつかってきたため「、アンペティユュー」は束の間しばし救われた<ref name="PP33">Padfield, p. 33</ref> 。3隻の軍艦はもつれ合ったまま数度にわたって、しばらくの間砲撃を交わして続け、3隻とも多大なくの死傷者を出し「、マールボロ」バラと「アンペティユュー」はすべてのマストを失った。この戦闘は数時間の間続いた。「マールボロ」バラのバークレリー艦長は重傷を負って甲板下に降りざるをえなくなり、指揮権は{{仮リンク|ジョン・モンクトン|en|John Monkton}}海尉が引き継いだ。モンクトンは予備艦のフリゲートの救援を信号で要請し<ref name="WJ158"/>、フリゲート「{{仮リンク|アキロン」 (軍艦)|label=アキロン|en|HMS Aquilon (1786)}}の{{仮リンク|ロバート・ストップフォード|en|Robert Stopford (Royal Navy officer)}}艦長が「これに応えた。ストップフォードは繰り返し信号を挙げるように指示し、マールボロ」を曳航した。そして自由戦列の外になっ出した「。これでミュシュース」は自由に動けるようになり、再編成されたフランス艦隊に合流するため北に向かった。「アンペティユュー」はまった損害が非常に大きく打ちのめされて動けず、まもなくなっていたため、すぐに「ラッセル」の兵によって拿捕された<ref name="NT98"/>。
「ディフェンス」はマストを失って、どんな敵に対しても戦闘を維持長引かせることができなくなっていたがおり、13時には、損害を受けて東から移動してきた「レプブリカン」に脅かされより危険が増した。レプブリカンもまた損害を受けていた。「レプブリカン」はしばらくしてヴィラレーに合流するため離れて、北へ針路を向かっけたが、「ディフェンス」のガンビア艦長はフリゲート部隊に援助を要請し、{{仮リンク|ウィリアム・ベンティンク|en|William Bentinck (governor)}}艦長のフリゲート「、[[フェートン」 (帆走フリゲート)|フェートン]]が駆けつけた。「アンぺテューが通過しざまにフェートン」の通過の際に「アンペティユー」が砲撃を加えたが、ベンティンクは数度の片舷斉射でそれをアンペテューに応え返した<ref name="WJ158"/>。前衛戦部隊から唯一敵艦との近接戦に突入した艦「インヴィンシブル」は「、クイーン・シャーロット」の周辺の乱混戦の中に巻き込まれていた。「インヴィンシブル」は砲撃によって「、ジュスト」を「クイーン・シャーロット」の片舷斉射のもと側に追いやり、さジュストはそこで、インヴィンシブルからにボートで来た{{仮リンク|ヘンリー・ブラックウッド|en|Henry Blackwood}}海尉のボート隊によって降伏に追い込んだせざるを得なくなった<ref name="WJ159"/>。前衛部隊の他の艦では犠牲者はほんのわずかだった。「{{仮リンク|インプレグナブル」|en|HMS Impregnable (1786)}}は数本の帆桁マストを失ったが、2人の下級士官、{{仮リンク|ロバート・オトウェイ|en|Robert Otway}}海尉と{{仮リンク|士官候補生|label=士官候補生|en|Midshipman}}の{{仮リンク|チャールズ・ダッシュウッド候補生の素早い反応|en|Charles Dashwood (Royal Navy officer)}}がこれによってすばやく対応したため戦列に復帰しできた<ref name="ODNBOt">[http://www.oxforddnb.com/view/article/20943 Otway, Sir Robert], ''[[Oxford Dictionary of National Biography]]'', [[J. K. Laughton]], Retrieved 2 January 2008 </ref>。
「クイーン・シャーロット」と「モンターニュ」の旗艦同士の戦闘は、奇妙なことに一方的なものだった。フランスの旗艦「モンターニュ」は下層甲板の砲を使用することができず、圧倒的に大きな損害と犠牲者を出していた<ref name="WJ149"/>。「モンターニュ」が残りの帆を張って、生き残りのフランス艦隊の再集結のために北に脱落し逃げた時、「クイーン・シャーロット」は方向転換のときに際近くの敵艦から砲火を浴びてそれモンターニュを追うことができなかった<ref name="WJ149">James, p. 149</ref>。「クイーン・シャーロット」はまた、トーマス・マッケンジー艦長の僚艦「{{仮リンク|ジブラルタル」 (戦列艦)|en|Spanish ship Fenix (1749)}}からも砲撃された。「ジブラルタル」は敵との近接戦を行う戦うことに失敗して、その代わりに旗艦を囲んでいる煙の壁に回りのたなびく煙めがけて無差別に発砲したのである。「クイーン・シャーロット」の{{仮リンク|アンドリュー・スネイプ・ダグラス|en|Andrew Snape Douglas}}艦長は、この砲撃によって重傷を負った<ref name="PP32">Padfield, p. 32</ref>。「モンターニュ」の脱出逃走に続いて、「クイーン・シャーロット」は通過する「ジャコバン」および「レプブリカン」と交戦し、また「ジュスト」をに降伏させを強いることに成功した<ref name="PP37"/>。「クイーン・シャーロット」の東では、「ブランズウィック」と「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」が激闘を続けており、お互いに組みつ身動きが取れないて零まま、至近距離からの射撃を繰り返していた。「ブランズウィック」のハーヴェイ艦長は「ヴァンジュール」からの散弾射撃によって、この戦闘の初期に致命傷を負っていたが、甲板を去ることを拒否し、敵を徹底的にもっと砲撃するよう命じた<ref name="ODNBJHarvey">[http://www.oxforddnb.com/view/article/12525?docPos=3 Harvey, John], ''[[Oxford Dictionary of National Biography]]'', J. K. Laughton, Retrieved 24 December 2007</ref>。「ブランズウィック」はまた、フランス艦「アシレ」ルが反対舷から介入しより込もうとしたとき、それを追い払うことに成功した。「アシレ」ルは交戦ですでにマストを失う損害を受けており、ただち一時的に降伏しかけたが、アシルの乗組員らは「、ブランズウィック」に「がアシレ」ルを確保す手に入れられる余裕がだけの有利な位置にないこと知るやただちにがはっきりして、これを撤回した<ref name="WJ163"/>。「アシレ」ルは再び旗を掲げ、できるかぎり北に進んでヴィラレーに合流しようとした。粉砕され疲弊した「ヴァンジュール」と「、ブランズウィック」が引き離されたのは、ようやく12時45分になってのことだった。両艦とも、主たるマストの大部分を失い、惨憺たるひどく打ちのめさまだっれていた。「ブランズウィック」は「ラミリーズ」に助けられてイギリス側に戻るのが精一杯であり、「ヴァンジュール」はまったく動くことができなかった<ref name="PP37">Padfield, p. 37</ref> 。「ラミリーズ」は短い連続砲撃で「ヴァンジュール」を降伏させたが、ヴァンジュールに乗り込むことがは不可能できず、その代わりに逃走する「アシレ」ルを追跡し、アシルもヴァンジュール同様にすぐに降伏させした<ref name = "WJ164"/>。
東部の方では「オライオン」と「クイーン」が、フランス艦「ノーサンバーランド」と「ジェマップ」をに降伏させを強いたが、「クイーン」は「ジェマップ」の安全を確保することが証できなかったためず、後に放棄せざるを得なかった。「クイーン」は特に損害がひどく損傷しており、再び戦列に戻ることはできなかったので、他の数隻の粉砕され損害を受けた艦と一緒に、新たに形成されたフランス艦隊戦列とイギリス戦列の中間で波にもまれているしかなかった<ref name="NT99">Tracy, p. 99, ''Biographical Memoir of Captain James Manderson''<br/>(Manderson served as a lieutenant aboard HMS ''Queen'')</ref> 。「ロイヤル・ジョージ」と「グローリー」は、両艦の間に、激戦の末に行動制御不能にしとなった「シピオン」を「とサン・パレイユ」を確保していたが、彼ら自身2隻のイギリス艦の方も損害がひどく損害、拿捕したフランス艦を受けていて確保することができなかった。4隻の艦は、両艦隊の戦列の切れ間であてにいる、押し流された何隻のもなく漂っ艦に囲まれていた<ref name="WJ168"/>。
== フランス艦隊の逆襲 ==
「モンターニュ」のヴィラレーは、イギリスの旗艦の接触から近をうまく脱し断ち切って北に退避し、周囲の11隻の戦列艦を集結整列させて新しい戦列に再を編成した<ref name="NT99"/>。11時30分、主たるな戦闘がは収束しつつあるときに向かっており、彼ヴィラレーは、彼の艦隊が被った戦術的な敗北を回復軽減するための行動を開始し改修戦略に踏み切った。新しい戦隊はまず、損傷害の激していた「クイーン」に向かった。ヴィラレーがこの艦に与えた攻撃は、第2次二度目の戦闘の準備ができ整っていなかったイギリス艦隊を驚愕呆然とさせた<ref name="PP38">Padfield, p. 38</ref>。しかし、ハウもヴィラレーの意図を知ったハウもまた察し、艦を集めて新たな部隊を編成した。再編成した戦この部隊は「クイーン・シャーロット」、「ロイヤル・サソブリン」、「ヴァリアント」、「リヴァイアサン」、「バーフラー」および「サンダラー」で構成されていた<ref name="WJ151">James, p. 151</ref>。ハウは「クイーン」の救援のためにこの戦隊を差し向け、クイーンから離れた。海域でこの2つの小戦隊が交戦を開始するとしたが、ヴィラレーはそれこの戦略を取りやめ、マストが折れた数隻のフランス艦を失集結させるために立ち去ってた。これらのフランス艦は、イギリス艦の追跡を逃れようと努力し懸命になっていた数隻のフランス艦を集結させようとした<ref name="RG38">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 38</ref>。ヴィラレーはまず、打ちそのめされながらも拡散後、テリブルと合流した。テリブルは散り散りになったイギリス艦隊の間をまっすぐ抜けてフランス艦隊に到達した「テリブル」と合流しきた。そしてさらにマストを失った「シピオン」、「ミュシュース」、「ジェマップ」そして「レプブリカン」を救出取り戻した。それらシピオン以下の艦は、いずれも交戦しに加わっていないイギリス艦の手の届く範囲射程内にいたものだった。そして彼ヴィラレーは東に回頭して向きを変え、母国フランスに向かった<ref name="WJ169">James, p. 169</ref><ref name="RW36">(Woodman, p. 36)</ref> これらのフランス艦のいくつ何隻かは、すでに旗を降ろすことによっして降伏の意思を示していたが、それは危険から機を脱したと見るや時に旗を再びそれを掲揚しげるための準備にすぎなかった。これは当時の海戦慣習のにおいては重大な違反であり、イギリスの海軍当局はこれを非難した。</ref>。70歳であったハウは、戦い闘のこの段階で70歳のハウは甲板下でさに下がり、イギリス艦隊の指揮統合は{{仮リンク|艦隊先任艦長|en|Captain of the Fleet}}であるサー・{{仮リンク|ロジャー・カーティス|en|Roger Curtis}}に委ねられた。カーティスは後日、マストを失ったフランス艦をそれ以上捕獲しなかったことについて、海軍の一部から非難され、さらにはそれ以上の追跡を思いとどまるよう積極的にハウを説得したとして訴えられた<ref name="FJ96"/>。
[[Image:Vengeur du Peuple-Prairial.png|thumb|250px|right|ヴァンジュール・ドゥ・プープルの沈没<br/>P. Ozanneのオザンヌによる版画]]
[[File:Bataille du 13 prairial an II.jpg|thumb|200px|right|沈みゆくヴァンジュールの浮彫彫刻(パリ)]]
実際のところ、イギリス艦隊はヴィラレーのわずか11隻の艦隊を追撃することはできなかった。フランス艦と戦うことのできるのは12隻であったし、戦場にはマストを失って確た艦や、保または捕獲護するべき拿捕艦が数多く残されていかった。イギリス艦隊はそれらを回収し、て再編成し、また応急とりあえずの修理を施して、褒賞拿捕艦を確保した。捕獲艦は甚だしい損害を受けた「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」を含めて7隻に及んだ。「ヴァンジュール」は「、ブランズウィック」の直射砲撃により、船底に穴をあけられており、また降伏後、にイギリス艦からは捕獲員が乗り込んでだ乗員はいなかった。置き去りにされた「ヴァンジュール」の、負傷していないわずかな乗組員は全力を尽くして艦を救おうとしていたが、その一部の乗員が酒類の保管室庫に押乱入し入って飲み始めるへべれけに及んでなり、その達成作業は甚だしくかなり困難になった<ref name="WJ164"/>。最後ついには船のポンプも使用不能になり、「ヴァンジュール」は沈み始めた。かろうじて、そこに無傷だった軍艦「アルフレッド」と「カロドーデン」のボートおよび、また[[カッター「 (船)|カッター]]船ラトラー」が到着し、「ラトラー」の指揮で、沈みゆく「ヴァンジュール」の乗組員を何人か溺死から救った。その数は全艇で500人に上り<ref name="RG33">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 33</ref>、「ラトラー」を指揮していたジョン・ウィン海尉はこの危険な仕事について特別に賞賛をうけた<ref name="WJ164">James, p. 164</ref>。18時15分までに「ヴァンジュール」は艦上に死者と見込みのない負傷者、そして泥酔者を残して救出を終えた。残された水兵たちは沈みゆく船首で[[フランスの国旗|三色旗]]を振り、「祖国万歳、共和国万歳("Vive la Nation, vive la République!")」と叫んだと伝えられている<ref>{{refnest|group="注釈"|「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」の最後の数分に関して伝えられている事柄は悲痛な美談としについては広く知られ、激しい議論が続いている。フランス側の報告に基づく文献では<ref>Williams, p. 381</ref>愛国的な逸話行為とされているが<ref>[http://www.bartleby.com/268/7/28.html On the Heroism of "Vengeur's" sailors], 9 July 1794 ''The World's Famous Orations'', Retrieved 29 May 2008</ref>。主にベルタラン・バレールによる国民公会でのこの海戦によせられた著名な演説による証言ではそうである、ハウ卿は徹底的にこれの証言の欺瞞を徹底的に反駁し暴き、事実無根であると主張している(Tracy, p. 95)。そしてイギリス側の文献も多くはそれに従っている(Jane, p. 95)。この話に関して面白い手がかりが投げかけられている。トマス・カーライルは、フランス革命戦争に冠する自分の作品にこの伝説を含めている。また、当時カローデンの海尉だったジョン・グリフィス提督は、沈没を目撃しており、カーライルの著作に公然と立ち向かい、バレールの演説もカーライルの私的許容も退け、カーライルはことの真相を突き止めることに着手し始めた。カーライルは最終的にヴァンジュールのジャン・フランソワ・レノーダン艦長から公的報告書を入手するに至り、バレールの演説を「狡猾に作られた話」と結論付け、その後の像半分で、ヴァンジュール沈没に関する記述を変えた<ref>{http://carlyleletters.dukejournals.org/cgi/content/full/10/1/lt-18381210-TC-MRI-01# Letter to Mary Rich], 10 December 1838 ''The Carlyle Letters'', Retrieved 29 May 2008</ref> 。ウィリアム・ジェームズは、この出来事は多分実際にあったことであろうという見解を理由をつけて表明している。彼は、沈みゆく船にいる人なら誰も、アルコールの影響下でこのようにふるまうことはありうると言う二者択一の理論を提案している。クロード・フェリエールは彼の著書『フランス海兵隊員の記録』(''Histoire de la Marine française'')の中で、沈没の原因を被害を受けた下層甲板の砲門を閉めなかった乗組員の怠慢によるものとし、負傷していない乗組員が船を放棄して脱出したと述べたうえで、愛国的な叫び声は、救出の希望を失い、沈む船に取り残さ閉じ込められた負傷者の叫びであるとしている。<ref>Farrère, p. 271</ref>。}}。
東に逃げたヴィラレーはちりぢりになっ損害を受けた艦隊を集めてのうちフランスに戻れるようにしだけの艦を見積もり、また数隻のフリゲートを輸送船団の捜索に振り向け派遣した。ヴィラレーはまた、、ウェサン島沖の岬を哨戒していたピエール=フランソワ・コルニク提督の8隻の戦列艦の増援も望んでいた。彼の後方である西側の方では、イギリス艦隊が彼らの船と艦を拿捕獲し、褒賞金を確保す得るために夜を徹していた。そして[[6月2日]]の午前5時までになってようやくイギリス本国に戻ろうとはしなかっり始めた<ref name="WJ169"/>。
この戦いの犠牲者数は、特にフランス側の情報の極端な不足のために、正確に計算するのがきわめて困難である.<ref name="Casualties">フランス側の損失は、著述者や歴史家によってさまざまに推定されている。N・A・M・ロジャーは死者4,200名、捕虜3,300名としている。ディグビー・スミスは死者4,270名、捕虜3,254名とする。またパドフィールドは死者3,500名をリストアップした。ガーディナーによる 死者は3,500名で捕虜も同数。サン=アタンドレは公式な急送報告行文書で死傷者3,000名としており、またジェームズは死傷者・捕虜合せて7,000名は下らないと推定した。イギリスの犠牲者数は記録が残っているので算出はより容易であるが、ここにも矛盾はある。公式数値は、一連の戦闘を通じて死者287名、負傷者811名となっているが、ジェームズがリストアップした個々の艦の数字を合計すると1,148名となる。大部分の資料は総死傷者数がおよそ1,200名であることで一致している。</ref>。「シピオン」を唯一の例外として、フランスの艦長によって正確な損失が記録されることはなかった。利用可能な唯一の犠牲者数の記録はサン=アタンドレの概略報告である。他の記録は捕獲艦に乗り込んだイギリス士官が作ったが、いずれも完全に信頼できるものではない<ref name="WJ153">James, p. 153</ref>。大部分の資料は一連の戦闘のフランスの犠牲者が約3,000名の不慮を含めておよそ7,000名であるとしている。しかし、これらは漠然としていて、詳細ではしばしば互いに食い違っている。<ref>たとえば、沈没した「ヴァンジュール」の損失はさまざまな報告が行われており、「わずかな重傷者を除いて」150名の生存者としているもの、「600名以上が沈んだ」としているものなどがある。</ref>。イギリスの犠牲者数は、イギリス艦隊に残された航海日誌から確かめることができるためより簡単だが、ここにも矛盾はある。しかし、イギリスの犠牲者は合計でおおよそ1,200名とされている<ref name="Casualties"/>。
== 船団の到着 ==
ハウの艦隊は大部分がもはや戦える状態になく、ビスケー湾でのフランス護送船団の捜索を再開することは不可能だった。海軍本部は海戦がおこなわれたことを(、ハウのが置かれた詳細な状況を知らないまでも)軍艦「、オーダシャス」のポーツマス到着によって知っており、[[ジョージ・モンタギュー]]による第2段階の作戦を準備していた。モンタギューは不成功に終わった5月の巡航の後、イングランドギリスに帰国して、ポーツマスで修理と補給を受けつつ海に出る機会を待っていた<ref name="WJ169"/>。10隻の戦列艦からなる彼の艦隊の任務は、ハウのビスケー湾からの撤退を支援するとともに、かつフランスの穀物輸送船団を発見し、攻撃することだった。[[6月3日]]に出航したモンタギューは、フランス船団かハウ艦隊をもとめて、[[6月8日]]にはウェサン島沖に進出した。彼はどちらもまだヨーロッパ沿岸に到達していないことを知らなかった。6月8日の15時30分、モンタギューは帆影を見つけて、すぐに敵であることを確認した。それはコルニクの戦隊であり、同じく輸護送船団と、共に帰還する艦隊を探しているもたのだった。モンタギューはコルニクを追跡してビスケー湾に追い込み、翌日の海戦を期待して一晩中フランス戦隊を封鎖した.<ref name="WJ171">James, p. 171</ref>。しかし[[6月9日]]、モンタギューは西方に、ヴィラレー艦隊の生き残りと思われる19隻のフランス戦列艦を発見した。彼は急いで回頭し向きを変えて、2つの艦隊に挟み撃ちにされて圧倒さねじ伏せられることのを避けるため、南に避退避した<ref name="HM382">Williams, p. 382</ref>。ヴィラレーとコルニクは1日かけてそれを追跡し、その後東に転身し向きを変えて、安全なフランスの港を目指した<ref name="WJ171"/>。
ハウはモンタギューの避退避によって助けられた。ハウはその疲弊した艦隊を率いてこの、6月10日の引き分けのに、フランスを撃退した場面所の近くを通過したのである。彼は、イギリス海峡に向けて北進した<ref name="WJ172"/>。ヴィラレーとコルニクが思いがけず、偶然にも南にモンタギューを追跡している隙に、ハウは苦もなくやすやすとウェサン島を通過して、[[6月12日]]に[[プリマス]]沖に到着し、そほどなくして間もなく、モンタギューと合流した。ヴィラレーとコルニクはその前日Bertheaumeベルテオーム湾{{refnest|group="注釈"|ブルターニュ半島、フィニステレ岬にあるベルテオーム砦周辺の海域のことか。}}に錨泊した、しかし、サン=アタンドレは、ブレストの住民の、共和制に対する市民党員の態度を確認す意見が査定されるまでは、ヴィラレーのブレストへの入港を許可しなかった。アメリカからの輸送船団は、[[6月12日]]についにフランス沖に到着した<ref name="WJ172"/>。喪航行中に失われた船は、嵐のためによる行方不明になった1隻だけだった<ref name="WJ172">James, p. 172</ref>。
== 戦後日談の英仏両国 ==
イギリスもフランスも、この海戦の勝利を主張した。イギリスは終始戦場の主導権を握りつつ、自国の艦を1隻も失わずにフランス艦7隻を捕獲または撃沈した。フランスは必要自国に不可欠なな輸送船団を、重要大きな損失もなく大西洋を通過させフランスに到着させた<ref name="NT89"/>。2つの艦隊は、それぞれの国において賞賛と批判を浴びることとなった。批判は戦い闘にあまり貢献したと思われない艦長に向けられたものだった.<ref name="WJ173">James, p. 173</ref> 。イギリス艦隊は、[[スピットヘッド]]へのイギリス艦隊は、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世国王]]をはじめと全するすべての王族の訪問でという厚遇されを受けた<ref name="NT95">Tracy, p. 99, ''The Biographical memoir of Lord Howe''</ref>。
=== フランスの場合 ===
フランスでは革命による平等の原則から、大々的な褒賞は広範囲に排除されていたが、ヴィラレーは[[9月27日]]に[[中将]]に昇進し<ref name=levot544>Levot, p.544</ref>、また艦隊の他の提督にもそれなりの表彰が行われた。それに加えて、艦隊の士官はブレストから[[パリ]]までの祝賀パレードに参加した。そのパレードにでは、到着したばかりの食物供給糧も伴ってい配給された。戦いの結果に関するフランス国内の意見は分裂した。多くはサン=アンドレの誇張した、「ル・モニテール」の戦果に掲載された、サンタンドレによる誇張された証言を称えるものだったが、海軍の上級士官はそうではなかった<ref name="WJ174">James, p. 174</ref>。その一人はに、非常に経験豊かであるにもかかわらず最、直近に解雇された{{仮リンク|イヴ=ジョゼフ・ド・ケルゲレン=トルマレク|en|Yves-Joseph de Kerguelen-Trémarec}}提督だっがいた。ケルグレンはヴィラレーが戦隊を再編成したあと、戦いを再開しなかったことに憤りをおぼえており、ハウの艦隊の残りに戦いを挑んでいれば、戦略的成功のみならず戦術的にも大きな成果を収めていただろうと考えていた<ref name="WJ175">James, p. 175</ref>。フランス海軍はその6月1日、1日の戦闘の損害としては、[[1692年]]の[[バルフルール岬とラ・オーグの海戦]]以来最悪の大損害を被ったのだった<ref name="NR430"/>。
また、当時の度を過ぎた革命的な行き過ぎはが、フランス海軍にとって壊滅的な災いをものであったらすこともわかった。乏しいリーダーシップ、矛盾した曖昧な命令、そして熟練した水兵の不足は、フランス将校団に消極悲観的な空気を蔓延させた.<ref name="PP163"/>。フランス艦隊は二度と、北ヨーロッパにおけるイギリスの優位覇権に挑もうとはしなかったし、彼らが繰り返した掠奪戦も、より自信に満ち安定したイギリス艦隊と厳しい大西洋の気候によって、結局失敗に終わった。[[1805年]]に、最後の大フランスの大艦隊が[[トラファルガーの海戦]]で壊滅したとき、フランス海軍は、20年前には考えることも出来なかったレベルまでその効率を下げていた<ref name="PP163">Padfield, p. 163</ref>。
=== イギリスの場合 ===
[[Image:Glorious First of June, Daniel Orme.jpg|thumb|200px|right|ハウ伯爵の指揮する下のイギリス艦隊の、フランス艦隊に対する栄光の1794年6月1日の勝利<br/>ダニエル・オーム,作 1795(1795年)]]
イギリス国では多くの栄誉が艦隊とその指揮官に授けられた。ハウはすでに[[伯爵]]であり、いかなる昇格も辞退した。ジョージ3世国王は彼ハウを[[ガーター勲章|ガーター勲爵士]]にと考えたが、ハウの政敵の1人によってがそれを思いとどまらされせた<ref name="WJ179"/> 。グレーブズス提督はアイルランド貴族のグレーブス[[男爵]]に叙せられ、フッド提督がブリッドポート[[子爵]]となった<ref>{{refnest|group="注釈"|フッド子爵の称号は彼の、いとこのである[[サミュエル・フッド]]提督がすでに得ていた。</ref>}}。下位の提督[[少将]]であるボウヤー、ガードナー、パスリーとカーティスはいずれも[[准準男爵]]に叙せられ、またボウヤーとパスリーは、重傷を負ったその補償として1,000ポンドの年金を受けた.<ref name="WJ179">James, p. 179</ref> 。すべての艦の副長が海尉艦長に昇進し、その他多くの海尉がその行動戦闘の結果として昇進した。戦いに参加した全員に対して議会の感謝が捧げられ、その他さまざまな寄贈り物品と栄誉賞金が艦隊に分配された.<ref name = "RG39"/>。戦傷がもとで共に[[6月30日]]に亡くなったジョン・ハット艦長とジョン・ハーベヴェイ艦長は[[ウェストミンスター寺院]]で顕彰された<ref name="ODNBJHarvey"/>。
しかし、表彰に関する苦々しい出来事もあった。それは戦闘に関するハウの、[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]への戦闘に関する急送公文書に基づくもので、そのうちいくつかの部分は実はカーティスによって書かれたものだった<ref name="NR430"/> 。ハウは、戦い闘で果たしたその役割が、特別褒賞に値すると考えた士官の名前を含む名簿を報告書に名簿を追加した。そのリストにはグレーブズ、フッド、ボウヤー、ガードナー、パスリーの各提督と、シーモア、パケナム、クランフィールド=バークレー、ガンビア、ジョン・ハーベイ、ペイン、ヘンリー・ハーベイ、プリングル、ダックワース、エルフィンストーン、ニコルズおよびホープの各艦長が含まれていた。また、モンクトン海尉とダネリー海尉も言及されていた<ref name="WJ181">James, p. 181</ref>。
このリストには戦い闘に参加した何人分かの士官の名前がなかった。そしてその士官名の省略のが正当性であるか否かが、海軍内で大きな論争を引き起こした.<ref name="NT90">Tracy, p. 90</ref>。海軍本部は各艦の航海日誌と戦況報告を精査した後、そのリストに載っていて、生存している艦長の数だけメダルを鋳造した(「。また、オーダシャス」のウィリアム・パーカー艦長は別個も同様に認められた)<ref name="NR430"/>。リストから除外された艦長は憤激し、この人選抜を巡る憤懣っての騒ぎは何年も続いた。[[1795年]]にはコールドウェル提督が「激怒した,<ref name="ODNBCald">[http://www.oxforddnb.com/view/article/4383 Caldwell, Sir Benjamin], ''[[Oxford Dictionary of National Biography]]'', J. K. Laughton, Retrieved 8 December 2007</ref>。バーフラー」の旗艦艦長であった[[カスバート・コリンウッド]]にメダルが授与されなかったことに憤激してからで、「栄光の6月1日」のメダルが彼に授与されるまですべての褒賞を辞退し、任務も拒否するとした。結局コリンウッドは結局、[[1797年]]の[[サン・ビセンテ岬の海戦]]の後でそれメダルを受けた.<ref name="ODNBColl">[http://www.oxforddnb.com/view/article/5930?docPos=1 Collingwood, Cuthbert], ''[[Oxford Dictionary of National Biography]]'', C. H. H. Owen, Retrieved 31 December 2007 </ref>。それから50年以上が経った[[1847年]]、この戦闘はサービスメダルの授与対象と認められ、略章と共に、その時点で存命であった、イギリス人の参戦者すべてにメダルが授与された.<ref name="LG4">{{London Gazette|issue=20939|startpage=236|endpage=245|date=26 January 1849|accessdate=19 July 2009}}</ref>。
軍艦「シーザー」艦長のアンソニー・モロイへの中傷攻撃は最も激しかった。モロイは、5月29日と6月1日のハウの命令への不服従について、仲間の士官から臆病のであるという告発を受けた。軍法会議の公式記録から、名前を消去するというモロイの要求は認められなかった。そして、彼モロイの個人の的な勇気については問わ題視されなかったが、専門能力を問われることとなった.<ref name="RG39">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 39</ref>。モロイは、罰として艦の指揮権を失うという刑罰に処せられ、実質的に海軍から解雇された。
捕獲された艦のうちいくつか、数隻はイギリス海軍でに購入され、かなりの長い経歴を持つこととなっ間就役した。特に「サン・パレイユ」はイギリス軍艦「[[サンス・パレイル (戦列艦)|サンス・パレイル]](HMS ''Sans Pareil'')」として長く使用された。「ジュスト」(イギリス軍艦「ジャスト(HMS ''Juste'')」)は[[アミアンの和約]]によって退役するまで現役にとどまっていた<ref name="RG41">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 41</ref> 。他の捕獲艦のうち「、アシレ」と「ノーサンバーランド」は就役不能として、イギリス到着後すぐに解体された。「アンペティユュー」は、修理中に造船所の火災で破壊された。最後の「アメリカ」は、イギリス軍艦「インペテューズ(HMS ''Impetueux'')」として就役し、[[1813年]]まで現役だった<ref name="RG40">Gardiner, ''Fleet Battle and Blockade'', p. 40</ref>。これらの艦の拿捕で得られた賞金は20万1096ポンド(2013年現在の価格で1億8千万ポンド)にもなり、ハウの艦隊の艦に分配された<ref name="TW64">Wareham, p. 64</ref>。
== 6月1日の参戦艦 ==
:; (前衛戦隊)
::* シーザー(Caesar)[80]:死14/傷53
::* [[ベレロフォン (戦列艦)|ベレロフォン]](Bellerophon)[74]:<ref>トマス・パスリー少将旗艦</ref>死4/傷27、マストおよび帆装(艤装)を大破
::* [[レヴァイアサン (戦列艦・2代)|レヴァイアサン]](Leviathan)[74]:死11/傷32
::* [[ラッセル (戦列艦・2代)|ラッセル]](Russell)[74]:死8/傷26
:* フリゲート、コルベット、ブリッグ、カッター等16隻
<references group="注釈" />
== 注記 ==
<references />
[[Category:海戦]]
[[Category:18世紀の戦闘]]
[[Category:1794年]]
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