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{{神社
|名称 = 筑波山神社
|画像 = [[File:Tsukubasan-
|所在地 = [[茨城県]][[つくば市]][[筑波 (つくば市)|筑波]]1番地
|位置 =
|祭神 = 筑波男
|神体 = 神衣(本殿)<ref name="由緒"/><br />[[筑波山]]([[神体山]])
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]]1座、小1座)<br />旧[[県社]]<br />[[別表神社]]
|創建 = 不詳(有史以前)
|本殿 = 一間社[[流造]]2棟
|別名 =
|札所等 =
|例祭 = [[4月1日]]・[[11月1日]]([[#御座替祭|御座替祭]])
|神事 =
}}
{{座標一覧}}
[[File:Mount Tsukuba in winter.JPG|thumb|right|250px|[[神体]]とする[[筑波山]]<br />南方より。左峰が男体山頂、右峰が女体山頂で、山腹には大鳥居が立つ。]]
[[File:Tsukubasan-jinja ōtorii.JPG|thumb|right|200px|大鳥居]]
'''筑波山神社'''(つくばさんじんじゃ)は、[[茨城県]][[つくば市]][[筑波 (つくば市)|筑波]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]]一座、小社一座)。[[近代社格制度|旧社格]]は[[県社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
== 概要 ==
[[関東平野]]北東部、[[茨城県]]南西に立つ[[筑波山]]を[[神体山]]として祀る神社で、主要社殿は次の3ヶ所に形成されている。
* '''男体山本殿''' - 西峰頂上(男体山<なんたいさん>、標高871メートル)。
* '''女体山本殿''' - 東峰頂上(女体山<にょたいさん>、標高877メートル<ref group="注">女体山の標高は、平成11年(1999年)に876メートルから改訂された。</ref>)。
* '''拝殿''' - 山腹(標高270メートル)。両本殿を遥拝する。
筑波山は西峰
南面中腹にある拝殿周辺には、[[門前町]]とともに[[筑波 (つくば市)|筑波]]集落が形成されている。一般に「筑波山神社」という場合は、この拝殿周辺を指すことが多い。拝殿の西には[[筑波観光鉄道]]の[[筑波山鋼索鉄道線|筑波山ケーブルカー]]の宮脇駅があるほか、登山口も設けられており、参拝客のみならず登山客によっても賑わいを見せている。
筑波山は『[[常陸国風土記]]』に見える頃より神の山として信仰が深く、その神霊を祀る当社は公家・武家から崇敬が深い神社であった。また文化財では、銘吉宗の太刀が国の[[重要文化財]]に指定されているほか、社殿数棟が茨城県・つくば市の文化財に指定されている。
== 祭神 ==
主祭神は次の2柱<ref>祭神の記載は神社由緒書、[http://www.tsukubasanjinja.jp/about/about.html 筑波山神社由緒](公式サイト)による。</ref>。
* '''筑波男
*: 男体山 * '''筑波女
*: 女体山 本殿の[[神体]]は神衣で、御座替祭で取り替えられる<ref name="由緒"/>。なお『[[明治神社誌料]]』では神鏡とする{{Sfn|明治神社誌料|1912年}}。
=== 祭神について ===
筑波山は男体山・女体山からなる双耳峰で、その両峰にそれぞれ神があてられている。2峰が相並ぶ山容から、自然と男女2柱の祖神が祀られるようになったともいわれる<ref name="由緒書"/>。
『[[常陸国風土記]]』では筑波山について、西峰(男体山)は険しく、神の峰として登山が禁じられていたと記す<ref group="原" name="風土記">『常陸国風土記』筑波郡条。</ref>。一方、東峰(女体山)は険しいながら夏冬絶えず泉が流れ、春秋には男女が集い[[歌垣]]が行われたという<ref group="原" name="風土記"/>。このように男体山は禁足地、女体山は開放地とされており、風土記編纂当時にはすでに性格が大きく異なっていた{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}。祭祀遺物も、女体山付近において7世紀末から12世紀に渡って多数発見されている{{Sfn|筑波山(角)|1983年}}。
神名は、[[六国史]]では「筑波男神」「筑波女神」と記されている。[[江戸時代]]に入ると人格神をあてる説も散見され、文献には次の記載が見える{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}。
* 一社者[[ヤマトタケル|日本武尊]]、一社者[[弟橘媛|弟橘比売]]也、俗に陰陽二柱尊 (『神祇宝典』){{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}
* [[イザナギ|伊弉諾尊]]在陽峯、[[イザナミ|伊弉冉尊]]在陰峯 (『常陸国二十八社考』){{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}
* 陽峯[[ハニヤス|埴山彦神]]、陰峯[[ハニヤス|埴山姫神]] (『[[神名帳考証]]』){{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}
* 祭神不詳とし、伝に「伊弉諾尊在陽峯、伊弉冊尊在陰峯、通謂筑波大明神」 ([[明治]]12年([[1879年]])の『筑波山神社明細調書』){{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}
その後、六国史の記載に基づき、[[明治]]42年([[1909年]])1月に祭神名は「筑波男神」「筑波女神」と定められた{{Sfn|明治神社誌料|1912年}}。また[[大正]]11年([[1922年]])に交替した社司により、「筑波男神・筑波女神」に「伊弉諾尊・伊弉冊尊」を併記することが定められた{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}。なお、伊弉諾尊・伊弉冊尊とする伝承の起源・経緯に関しては詳らかでない。<!--この認識は、筑波郡案内記に「桓武天皇延暦元年僧徳一来りて神祠を起し、本地垂迹の説を立て、諾冊二神を祭る事としたり」とあり、延暦年間(787-806年)以来の歴史を持つ。:学術書でない文書をもって延暦年間に遡りうるとするのは牽強付会-->
== 歴史 ==
=== 創建 ===
創建は不詳。筑波山は『[[常陸国風土記]]』でも[[富士山]]と対照されるほどの山容を持っていることから、関東平野に人が住み始めた頃から崇められてきたともいわれる<ref name="由緒書"/>。
社伝(『筑波山縁起』)によると、『[[古事記]]』にある伊弉諾尊・伊弉冊尊による[[国産み]]で産み出された「[[オノゴロ島|おのころ島]]」が筑波山にあたるという{{Sfn|筑波山神社(角)|1983年}}。また『詞林采葉抄』([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])では、筑波山は[[天照大御神|天照大神]]が降臨した神山であるともいい<ref name="由緒">[http://www.tsukubasanjinja.jp/about/about.html 筑波山神社由緒](公式サイト)。</ref>、[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]]-[[1818年]])の『筑波山私記』でも同神の筑波から伊勢への遷座を伝える<ref name="由緒"/>{{Sfn|筑波山神社(角)|1983年}}。
祭祀氏族については、『常陸国風土記』に見える筑箪命(つくばのみこと、筑波命)が初代[[筑波国造]]に任じられて以来<ref group="注" name="国造"/>、筑波国造が祭政一致で奉仕したという<ref name="由緒書"/><ref group="注">近隣の[[蚕影神社]](つくば市神郡)の創祀伝承にも、[[成務天皇]]の代に筑波国造・阿閉色命が筑波大神を奉斎したと伝える。</ref>。筑波山麓には多くの古墳が残っており、うち[[八幡塚古墳 (つくば市)|八幡塚古墳]](つくば市沼田)は筑波国造の墓に比定されている{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}。
なお、現在の当社主要部は拝殿周辺にあるが、拝殿はあくまで明治8年([[1875年]])に中禅寺跡地に造営されたものである。そのため「元来の筑波山神社」とは「男体山頂祠・女体山頂祠」を指すものとされる{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=412}}<ref>『常陸国二十八社考』に「筑波山絶頂に在り」とある{{Harv|北畠 筑波山神社|1984年|p=412}}。</ref>。また創建時期は不明ながら、つくば市臼井の六所神社跡(現在は廃社)が両祠の里宮であった([[#関係地|関係地]]節参照)。
=== 概史 ===
==== 奈良時代から平安時代 ====
[[奈良時代]]の『[[万葉集]]』には筑波の歌25首が載せられており、筑波山は常陸国を代表する山であったといわれる<ref name="由緒書"/>。また[[奈良時代]]末から[[平安時代]]初め頃には、[[法相宗]]の僧・[[徳一]]が筑波山寺、のちの筑波山知足院中禅寺を開いた{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。これにより[[神仏習合]]が進み、筑波山は有数の[[修験道]]の道場に発展していく{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}(詳細は[[#中禅寺|中禅寺]]節)。この神仏習合の時代には「筑波両大権現(両部権現)」とも称されていた。
[[六国史|国史]]では、古くは[[弘仁]]14年([[823年]])に従五位下の筑波神を[[官社]]と為すという記事が見える<ref group="原" name="弘仁14"/>。その後の[[神階]]叙位により、筑波男神は従三位<ref group="原" name="貞観13"/>、筑波女神は従四位上(または正四位下<[[#神階|後述]]>)<ref group="原" name="貞観16"/>まで上った。
[[平安時代]]中期の『[[延喜式神名帳]]』では「[[常陸国]][[筑波郡]] 筑波山神社二座 一座名神大 一座小」と記載されて筑波郡では唯一の[[式内社]]に列しているが、うち[[名神大社]]が筑波男神、小社が筑波女神とされる{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=558}}。その後、[[治承]]4年([[1180年]])には正一位に達したという<ref name="山川97"/>。
==== 鎌倉時代から江戸時代 ====
[[鎌倉時代]]初期には[[常陸国]][[守護]]の[[八田知家]]([[小田氏]]祖)の子・八郎為氏が筑波国造の名跡を継ぎ、筑波別当となった{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=558}}。この筑波為氏(明玄)の子孫は以後筑波氏を称し、筑波神奉斎者・中禅寺別当を担った{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=558}}。中世の動向は明らかでないが、[[慶長]]5年([[1600年]])に[[徳川家康]]により筑波氏が外されるまで、筑波神・中禅寺は筑波氏の統率下にあったとされる{{Sfn|筑波山神社(角)|1983年}}。
[[江戸時代]]に入ると、幕府は中禅寺を篤く保護し、中禅寺境内には多くの堂塔が建立され、筑波山は神仏共立から仏教中心の霊地へと性格を変えた{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=558}}。こうした中禅寺に対する庇護の一方で筑波神の影は薄く、この間の筑波神の奉斎形態は明らかでない{{Sfn|筑波山神社(国史)|1983年}}(江戸時代の動向については[[#中禅寺|中禅寺]]節を参照)。
幕末には、[[元治]]元年([[1864年]])に天狗党が当地で挙兵し、[[天狗党の乱]]の舞台ともなった(筑波山事件)。
==== 明治以降 ====
<div class="NavFrame tright">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px; background:#a0f0a0">明治以降の変遷 </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left; font-size:85%; white-space: nowrap">
{{familytree/start|style=font-size:100%}}
{{familytree|border=0||||02|03|03|04| 01=|02='''[山頂]'''<br /> |03='''[山腹]'''<br />(つくば市筑波)|04='''[山麓]'''<br />(つくば市臼井)}}
{{familytree|border=0|01|02|03||||05| 01=<small>[[近世]]</small>|02=男体山本殿・女体山本殿|03=大御堂<br />(知足院中禅寺)|05=六所神社(里宮)}}
{{familytree|border=0||||!||||!||||||!|| 01=|02=|03=|04=}}
{{familytree|border=0|01|!|||03|||||!|| 01=<small>明治初年</small>|02=|03=(廃寺)|04=}}
{{familytree|border=0||||!||||||||||!|| 01=|02=|03=|04=}}
{{familytree|border=0|01|!|||03|||||!|| 01=<small>明治8年([[1875年]])</small>|02=|03=拝殿造営|04=}}
{{familytree|border=0||||!||||!||||||!|| 01=|02=|03=|04=}}
{{familytree|border=0|01|!||||!|||||04| 01=<small>明治43年([[1910年]])</small>|02=|03=|04=(廃社)}}
{{familytree|border=0||||!||||!||||||||| 01=|02=|03=|04=}}
{{familytree|border=0|01|!||||!||05||||| 01=<small>昭和5年([[1930年]])</small>|02=|03=|05=大御堂再興}}
{{familytree|border=0||||!||||!||!||||:|}}
{{familytree|border=0|01|02|03|04|05| 01=<small>現在</small>|02=男体山本殿・女体山本殿|03=拝殿|04=[[大御堂 (つくば市)|大御堂]]|05=六所神社跡}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
[[明治]]維新後、[[神仏分離]]によって中禅寺は廃寺とされた{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=559}}。これにより伽藍の多くが破壊されたが、数棟のみ破壊を免れて現在に文化財として残っている。また、この神仏分離により筑波山神社が復興され、その主要部は中禅寺の跡地を踏襲して形成され、現在に至っている。
* 明治2年([[1869年]])9月、白川伯王家の白川資義を祭主とする<ref name="由緒"/>。
* 明治6年([[1873年]])10月4日、[[近代社格制度]]において[[県社]]に列格<ref name="由緒"/>。
* 明治8年([[1875年]])、中禅寺本堂(大御堂)跡地に拝殿を造営{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=559}}。
* 明治41年([[1908年]])9月4日、神社整理により境内社春日神社に境内社84社を合祀{{Sfn|明治神社誌料|1912年}}。
* 戦後、[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列格。
* [[昭和]]30年([[1955年]])、男体山本殿を改築(現本殿)<ref name="haiden">拝殿の御造営由来記。</ref>。
* 昭和54年([[1979年]])、女体山本殿を改築(現本殿)<ref name="haiden"/>。
=== 神階 ===<!--概史節の可読性向上、神階の可読性向上のため、他の神社同様別節とする-->
<div class="thumb tright">
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:85%;background-color:#ffffff;white-space: nowrap"
|+
!年!!筑波男神!!筑波女神
|-
|823年||従五位下||--
|-
|849年||--||無位<br />→従五位下
|-
|858年||(従四位?)||(従四位?)
|-
|870年||従四位上<br />→正四位下||従四位下<br />→従四位上
|-
|871年||正四位下<br />→従三位||--
|-
|874年||--||従四位下<br />→従四位上<br /> (正四位下?)
|-
|[[延喜式神名帳|神名帳]]||[[名神大社|名神大]]||小
|-
|1180年||colspan=2|正一位
|}</div>
* 六国史における神階奉叙の記録
** [[弘仁]]14年([[823年]])1月21日、従五位下の筑波神を[[官社]]と為す (『[[日本紀略]]』)<ref group="原" name="弘仁14">『日本紀略』弘仁14年正月21日条。</ref>
** [[承和 (日本)|承和]]9年([[849年]])10月2日、筑波女大神を無位から従五位下 (『[[続日本後紀]]』)<ref group="原">『続日本後紀』承和9年10月2日条。</ref>
** [[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])5月2日、筑波山神二柱を四位 (『[[日本文徳天皇実録]]』)<ref group="原">『日本文徳天皇実録』天安2年5月2日条。</ref>
**: <small>従四位(上下不明)か<ref>[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/graph/20.pdf 常陸国神階推移グラフ](神道・神社史料集成)より。</ref></small>。
** [[貞観 (日本)|貞観]]12年([[870年]])8月28日、筑波男神を従四位上から正四位下、筑波女神を従四位下から従四位上 (『[[日本三代実録]]』)<ref group="原">『日本三代実録』貞観12年8月28日条。</ref>
** 貞観13年([[871年]])2月26日、筑波男神を正四位下から従三位 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観13">『日本三代実録』貞観13年2月26日条。</ref>
** 貞観16年([[874年]])11月26日、筑波女神を従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観16">『日本三代実録』貞観16年11月26日条。</ref>
**: <small>貞観12年条と同じ記載であるため、正四位下の叙位とする見方も強い{{Sfn|明治神社誌料|1912年}}{{Sfn|筑波山神社(角)|1983年}}。</small>
* 六国史以後の記録
** [[治承]]4年([[1180年]])、正一位<ref name="山川97">『茨城県の歴史』(山川出版社)p. 97。</ref><ref>『常陸国国郡考』{{Harv|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}。</ref>
== 境内 ==
当社の境内は、筑波山南面海抜270メートル以上の354[[ヘクタール]]に及ぶ<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。本殿は筑波山の男体山・女体山両山頂に鎮座し、山腹にそれらを遥拝する拝殿が立っている。
===
[[File:Tsukubasan-jinja nantaisan-honden.JPG|thumb|180px|right|男体山本殿]]
[[File:Mount Tsukuba Shrine on top.jpg|thumb|180px|right|女体山本殿]]
'''男体山本殿'''は[[昭和]]30年([[1955年]])、'''女体山本殿'''は昭和54年([[1979年]])の改築で、いずれも一間社[[流造]]。男体山頂には[[筑波大学]]の観測所である[[筑波山気象観測ステーション]](施設と土地は筑波山神社が所有<ref>林(2007):p. 7。</ref><ref>西村(2010):p. 559。</ref>)が、女体山頂には守札授与所、天の浮橋(平成21年(2009年)4月再建)がある。
両山頂間の鞍部は「御幸ケ原(みゆきがはら)」と呼ばれる。男体山まで約300メートル、女体山までは約600メートル。筑波山ケーブルカーの筑波山頂駅があり、土産物屋や食堂等が集積する。
また、山中には[[小倉百人一首]]の[[陽成天皇|陽成院]]の歌の題材として有名な「男女川(みなのがわ)」の源流があるほか、「紫峰杉(しほうすぎ)」<ref>[http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13408903050893 茨城新聞2012年6月29日記事]。</ref>の名のある推定樹齢800年の[[スギ]](男女川源流の近く)や、「弁慶七戻り」「母の胎内くぐり」「ガマ石」等の奇岩が多数ある。これらの岩場はかつて[[修験道]]の道場として使用されていた。
=== 拝殿周辺 ===
[[File:Tsukubasan-jinja zuishinmon.JPG|thumb|160px|right|随神門(市指定文化財)]]
[[File:Tsukubasan-jinja
拝殿周辺には[[門前町]]が形成され、当社の主要部を成している。ただし、明治以前の当地一帯は中禅寺を主とした仏教中心の霊地で{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=558-559}}、明治維新後に中禅寺が廃されるにあたって神社として復興し、拝殿が造営された。
'''拝殿'''は[[明治]]8年([[1875年]])の造営。この場所には明治以前には中禅寺の本堂(大御堂)があったが、神仏分離で大御堂が廃された後に新たに建てられた{{Sfn|筑波山神社(平)|1982年|p=559}}。拝殿前には礎石が残り、中禅寺の寺勢をしのばせている{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=418}}。なお、大御堂は拝殿の南西方に[[真言宗豊山派]]大御堂教会の[[大御堂 (つくば市)|大御堂]]として再建されている。
拝殿前に立つ'''随神門'''(ずいしんもん)は、間口5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模である<ref name="随神門">随神門説明板。</ref>。古くは[[寛永]]10年([[1633年]])に3代将軍徳川家光により寄進されたが、[[宝暦]]4年([[1754年]])に焼失、再建されるも明和4年([[1767年]])に再度焼失した<ref name="随神門"/>。現在の楼門は、その後の[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])の再建によるものである<ref name="随神門"/>。神仏習合時代には「仁王門」として仁王像を安置したが、分離後は「随神門」とされ、拝殿向かって左側に[[ヤマトタケル|倭健命]](やまとたけるのみこと)、右側に[[豊城入彦命|豊木入日子命]](とよきいりひこのみこと)の随神像を安置する。この随神門はつくば市の文化財に指定されている。
'''神橋'''(しんきょう)は、[[切妻造]]小羽葺屋根付、間口1間、奥行4間で、[[安土桃山時代]]の様式の反橋(そりはし)である<ref name="神橋説明板">神橋説明板。</ref><ref name="神橋"/>。寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされ、[[元禄]]15年([[1702年]])に5代将軍[[徳川綱吉]]により改修された<ref name="神橋説明板"/>。春秋の御座替祭の際には、神輿と従者がここを渡る<ref name="神橋"/>。参拝者の渡橋は通常禁止されており、春秋の御座替祭と2月の年越祭の時のみ許される<ref name="神橋説明板"/>。この神橋は茨城県の文化財に指定されている。
また、中禅寺の鎮守社として建てられた春日神社・日枝神社・厳島神社が、現在は当社の末社として残っている([[#末社|末社]]節参照)。春日・日枝神社そばには、つくば市の天然記念物指定のクスノキの変種・マルバクス(丸葉楠)が、楼門そばには樹齢約800年・樹高32メートルの大杉が立つ。
そのほか、境内には[[楠木正成]]の孫・[[楠木正勝]]の墓や、[[国際科学技術博覧会]](科学万博)で展示された宇宙の卵がある。なお、通常は一般非公開ながら、各パビリオンの成功祈願・成功感謝の際提供された各種資料を集めた蔵もある(2006年7月に、期間限定で公開されたことがある)。
<gallery>
File:Tsukubasan-jinja
File:Tsukubasan-jinja
File:UchuunoTamago.jpg|宇宙の卵
File:Tsukubasan-jinja torii.JPG|境内鳥居
</gallery>
== 摂末社 ==
=== 摂社 ===
[[File:Tsukubasan-jinja sessha (Inamura-jinja).JPG|thumb|right|170px|稲村神社]]
[[File:Tsukubasan-jinja sessha (koharagi-jinja).JPG|thumb|right|170px|小原木神社(後背は北斗岩)]]
[[File:Tsukubasan-jinja sessha (Watari-jinja).JPG|thumb|right|170px|渡神社]]
摂社は以下の4社<ref>摂社の記載は神社由緒書による。</ref>。いずれも筑波山中の白雲橋コース沿いに鎮座し、伊弉諾尊・伊弉冊尊の[[御子神]]([[三貴子]]と蛭子命)を祀っている。
* '''稲村神社''' (いなむらじんじゃ)
** 祭神:[[天照大神|天照大御神]](あまてらすおおみかみ)
*: 弁慶七戻りの先にある巨石の上に鎮座する。この巨石は「[[高天原]]」とも称される。
* '''安座常神社''' (あざとこじんじゃ)
** 祭神:[[スサノオ|素盞鳴尊]](すさのおのみこと)
*: 北斗岩の先にある「屏風岩」前に鎮座する。
* '''小原木神社''' (こはらぎじんじゃ)
** 祭神:[[ツクヨミ|月読尊]](つきよみのみこと)
*: 北斗岩([[弘法大師]]が[[妙見菩薩]]を見たという伝説に基づく)の下に鎮座する。
* '''渡神社''' (わたりじんじゃ)
** 祭神:[[ヒルコ|蛭子命]](ひるこのみこと)
*: 奇岩「裏面大黒」近くに鎮座する。
なお、旧六所神社(つくば市臼井:筑波山神社元里宮)、六所神社(つくば市泉)では、筑波男女神二座とともにこれらの摂社四座を加えた「六所」が祭神とされていた。
=== 末社 ===
末社には、春日神社、厳島神社、天満宮、稲荷神社四社、住吉神社、猿田彦神社、中岳神社、秋葉神社、天太玉神社、香取神社、雷神社、稲田姫神社、大洗神社、愛宕神社、三島神社、八幡神社、日本武神社、日枝神社がある{{Sfn|明治神社誌料|1912年}}。[[神社整理]]以前は百社以上があったという。その大半は山中にあり、拝殿周辺にあるのは次の六社である。
* 日枝神社・春日神社
**
** *: 両社は本社拝殿の左殿側に隣接して鎮座し、拝殿を共有する。東が日枝神社、西が春日神社である。祭神は、中禅寺の開基の際に鎮守社として勧請されたという<ref name="日枝春日"/>。現在の建物は、本殿・拝殿とも寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされる<ref name="日枝春日"/>(春日社からは寛永10年の墨書が発見<ref name="教育日枝春日"/>)。
*: 本殿は規模・構造とも同一の三間社[[流造]]で、間口2間・奥行2間<ref name="日枝春日">日枝神社・春日神社説明板。</ref>。向背中央の蟇股には、それぞれ日枝神社は猿、春日神社は鹿の[[神使]]が彫られている<ref name="教育日枝春日"/>。拝殿は割拝殿形式、桁行5間・梁間2間の[[入母屋造]]で、正面と背面に軒唐破風がつく<ref name="日枝春日"/>。両社本殿と拝殿は合わせて茨城県の文化財に指定されている。
* 厳島神社
*
*: 本社拝殿の南西にある池の中に鎮座する。祭神は[[琵琶湖]][[竹生島]]からの勧請という<ref name="厳島"/>。社殿は、寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされる<ref name="厳島"/>。間口1間半、奥行10尺の[[春日造]]<ref name="厳島">厳島神社説明板。</ref>。向拝蟇股には蛇の神使が彫られている<ref name="教育厳島"/>。この社殿は茨城県の文化財に指定されている。
*
** 祭神:太田命
*: 「出世稲荷」の別名がある。本社拝殿の裏手に鎮座する。[[嵯峨天皇]]第四皇子・常陸国太守[[忠良親王]]の創建とされる。
* 稲荷神社(稲荷社)
*: 朝日稲荷神社に隣接して鎮座する。
* 愛宕神社(愛宕山神社)
*: 本社拝殿の東側の奥に鎮座する。
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File:Tsukubasan-jinja massha (Kasuga-jinja, Hie-jinja).JPG|日枝神社本殿(手前)と春日神社本殿(奥)(ともに県指定文化財)
File:Tsukubasan-jinja massha (Kasuga-jinja, Hie-jinja) haiden.JPG|日枝神社・春日神社拝殿(県指定文化財)
File:Tsukubasan-jinja massha (Itsukushima-jinja).JPG|厳島神社<br />(県指定文化財)
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== 参道 ==
古くからの参道は「'''[[茨城県道139号筑波山公園線|つくば道]]'''」として知られる。つくば市北条を起点({{ウィキ座標|36|10|40.11|N|140|5|33.53|E|region:JP-08|位置|name=つくば道起点}})として拝殿に至る道で、現在は[[茨城県道139号筑波山公園線]]が踏襲する。その全区間が[[日本の道100選]]に選ばれている。またこの参道の途中、6丁目には一の鳥居が立っている({{ウィキ座標|36|12|22.82|N|140|5|48.33|E|region:JP-08|位置|name=一の鳥居}})。この鳥居は[[宝暦]]9年([[1759年]])の造営で、以前は「天地開闢 筑波神社」の額を掲げたという<ref>一の鳥居説明板。</ref>。春秋の御座替祭の際には拝殿からこの地点まで神幸がある。
一方、現在の主要ルートとしては[[筑波山口]]から至る[[茨城県道42号笠間つくば線]]が使用されている。筑波山口には過去に[[筑波鉄道]][[筑波鉄道筑波線|筑波線]]の[[筑波山口#筑波鉄道筑波駅|筑波駅]]も設置されており、その駅跡近くには大鳥居が立っている({{ウィキ座標|36|12|29.4|N|140|4|54.07|E|region:JP-08|位置|name=筑波山口鳥居}})。
なお、参道名物としては[[ガマの油]]([[軟膏]])が知られる。ガマの油売りの口上はつくば市の地域無形民俗文化財に認定され、保存活動が行われている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20131212/CK2013121202000129.html 「がま油売り口上」伝える つくば市 15年目の「保存会」](東京新聞、2013年12月12日)。</ref>。
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File:Tsukubasan-jinja ichinotorii.JPG|一の鳥居
File:Tsukuba-michi (Hojo, Tsukuba).JPG|つくば道起点
File:Tsukubasan-jinja Tsukubasanguchi-torii.JPG|筑波山口鳥居
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== 関係地 ==
[[File:Rokusho-jinja Ruins (Tsukuba) keidai.JPG|thumb|200px|right|六所神社跡(つくば市臼井)<br />筑波山神社の里宮跡。]]
[[File:Hachimanzuka-kofun (Tsukuba) zenkei.JPG|thumb|200px|right|[[八幡塚古墳 (つくば市)|八幡塚古墳]](つくば市沼田)]]
'''六所神社跡'''(ろくしょじんじゃあと) (つくば市臼井、{{ウィキ座標|36|12|2.18|N|140|6|38.53|E|region:JP-08|位置|name=元里宮:六所神社跡}})
: 里宮の跡で、現在は廃社。「六所皇大神宮跡」とも。「六所」とは、筑波男女神二座・摂社四座の総称である{{Sfn|六所神社跡(平)|1982年}}。かつては男女二神を祀る2殿を中心として拝殿・随身門・宝庫が建ち並んでいたという{{Sfn|六所神社跡(平)|1982年}}。当社は[[明治]]43年([[1910年]])に廃社となり、神霊は[[神郡 (つくば市)|神郡]]地区の[[蚕影神社]](蚕影山神社)に合祀された{{Sfn|六所神社跡(平)|1982年}}。
: 「蚕影山神徳記」によれば、[[延暦]]20年([[801年]])に[[坂上田村麻呂]]が蝦夷征討の帰路、当地に馬具・宝剣・神鏡を納めたという{{Sfn|六所神社跡(平)|1982年}}。明治3年([[1870年]])に鳥居が倒壊した際に銅鏡が出土し、その銅鏡には「石鳥居 征夷大将軍坂上田村麻呂 建立之」の銘があったという{{Sfn|六所神社跡(平)|1982年}}。
'''[[八幡塚古墳 (つくば市)|八幡塚古墳]]''' (つくば市沼田、{{ウィキ座標|36|12|23.54|N|140|4|41.24|E|region:JP-08|位置|name=八幡塚古墳}})
: 筑波山南西麓にある筑波地方最大級の[[古墳]]。全長90メートルの[[前方後円墳]]で、[[6世紀]]前半の築造と見られる<ref>八幡塚説明板。</ref>。初代[[筑波国造]]・阿閉色命(あべしこのみこと)<ref group="注" name="国造">筑波国造について、『[[常陸国風土記]]』筑波郡条では筑箪命(筑波命)が第10代[[崇神天皇]]の代に派遣、『[[先代旧事本紀]]』「国造本紀」筑波国造条では忍凝見命の孫・阿閉色命が第13代[[成務天皇]]の代に任命とする。これに関して、「忍凝見命-筑箪命-阿閉色命」と系図を取る説や、筑箪命は開拓者として初代は阿閉色命とする説がある{{Harv|筑波国(角)|1983年}}。</ref>の墓と伝えられ、筑波山の祭祀との関係が指摘される{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=414}}。筑波山南麓には本古墳のほかにも多くの古墳が残っている<ref>[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-14/12-14.html 八幡塚](茨城県教育委員会)。</ref>
== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
* 元旦祭 ([[1月1日]])<ref>年間祭事は[http://www.tsukubasanjinja.jp/about/index.html 年中行事](公式サイト)による。</ref>
* 元始祭 ([[1月3日]])
* 成人祭 (1月第2月曜)
* 年越祭 ([[2月10日]]・11日)
* 祈年祭 ([[3月4日]])
* 皇霊殿遥拝式 ([[春分の日]])
* 御座替祭 ([[4月1日]])
* [[大祓]] ([[6月30日]])
* 禅定 (8月下旬)
* 御座替祭 ([[11月1日]])
* [[新嘗祭]] ([[12月5日]])
* [[天長祭]] ([[12月23日]])
* [[大祓]] ([[12月31日]])
=== 御座替祭 ===
'''御座替祭'''(おざがわりさい)は、4月1日と11月1日の年2回行われる当社の例大祭。古くは冬至と夏至に行われており、夏・冬の神が神座を交替するとされる<ref name="年中行事"/>。祭事は次の3祭からなる。
*
*: 山頂本殿の神の衣替えを行う<ref name="年中行事">[http://www.tsukubasanjinja.jp/about/index.html 年中行事](公式サイト)。</ref>。
* 奉幣祭(ほうべいさい)
*: 拝殿に幣帛を奉納する<ref name="年中行事"/>。
* 神幸祭(じんこうさい)
*: 神衣祭で撤した前期の神衣を神輿に納め、一の鳥居まで渡御する<ref name="年中行事"/>。
この祭事両日には県指定文化財の神橋を渡ることが許される<ref name="年中行事"/>。
なお、現在の神幸祭は一の鳥居までの渡御であるが、明治43年(1910年)以前は里宮の六所神社(現・廃社)までの渡御であった{{Sfn|六所神社跡(平)|1982年}}。里宮と山宮で神が交替するという例は多く見られ、田の神・山の神の交替による豊穣祈願が根底にあるとされる{{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=419}}。
== 文化財 ==
=== 重要文化財(国指定) ===
* 太刀
*: [[鎌倉時代]]、備前一文字派の刀工・吉宗による作刀<ref name="吉宗"/>。ただし、備前一文字派に吉宗の名の人物は複数おり、いずれの作かは定かでない<ref name="吉宗"/>。本刀は、[[寛永]]
=== 茨城県指定有形文化財 ===
* 神橋(建造物) - 昭和54年11月1日指定<ref name="神橋">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/1-54/1-54.html 筑波山神社神橋](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 境内社春日神社本殿・日枝神社本殿 及両社拝殿(建造物) - 昭和54年11月1日指定<ref name="教育日枝春日">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/1-55/1-55.html 筑波山神社境内社春日神社本殿 日枝神社本殿及両社拝殿](茨城県教育委員会)。</ref>。
* 境内社厳島神社本殿(建造物) - 昭和54年11月1日指定<ref name="教育厳島">[http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/1-56/1-56.html 筑波山神社境内社厳島神社本殿](茨城県教育委員会)。</ref>。
=== つくば市指定文化財 ===
* 有形文化財
** 随神門(建造物)
* 天然記念物
** マルバクス(丸葉楠)
** [[ホシザキユキノシタ]] - 筑波山の[[固有種]]<ref>つくば新聞"[http://www.tsukubapress.com/mttnature.html 筑波山の自然 つくば新聞]"(2012年3月18日閲覧)。</ref>。境内の石垣に移植され生育する<ref>菅谷ほか 編(1998):p. 116。</ref>。
== 中禅寺 ==
'''中禅寺'''(ちゅうぜんじ)は、筑波山神社拝殿を主とする一帯に存在した[[真言宗]]の無本寺寺院{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。[[山号]]は筑波山、院号は知足院(ちそくいん)。本尊は[[千手観音]]。また、[[坂東三十三箇所]]第25番札所であった{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。
[[南都]][[法相宗]]の僧・[[徳一]]が'''筑波山寺'''を開いたことに始まるとされ、筑波山寺の記載は[[鎌倉時代]]の『[[元亨釈書]]』にもある{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。その開基年は、[[延暦]]元年([[782年]])<ref name="山川97"/>、延暦年間(782年-[[806年]]){{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}、[[天長]]元年([[824年]]){{Sfn|北畠 筑波山神社|1984年|p=416}}、天長年間(824年-[[834年]]){{Sfn|筑波山神社(角)|1983年}}等という。
この筑波山寺の開山に伴い、筑波山の男女二神は観音を[[本地仏]]とする「筑波山両部権現」として祀られるようになったという{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。筑波山は古くより山岳修行の場であったため、その後次第に寺勢が盛んになり、寺名も中禅寺('''筑波山知足院中禅寺''')と称するようになったとされる{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。[[中世]]には日光山([[輪王寺]])・相模大山([[大山阿夫利神社|大山寺]])・伊豆走湯([[伊豆山神社|伊豆山三所権現]])等とともに、関東では有数の[[修験道]]の霊場であったといわれる{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。その別当は筑波為氏(明玄)に始まる筑波氏が担った{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。
中世の様子は詳らかでないが、[[江戸時代]]に入ると幕府の[[鬼門]]の祈願所として庇護を受け、寺勢は再び隆盛した{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。[[徳川家康]]は[[慶長]]5年([[1600年]])に筑波山別当から筑波氏を廃し、新たに宥俊を任命して中興の祖とし、慶長7年([[1602年]])に神領として500石、慶長15年([[1610年]])には寺領として500石を寄進した{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。また3代将軍[[徳川家光]]は山頂の二社を修復するとともに、本堂(大御堂)、三重塔、鐘楼、楼門、神橋、日枝・春日・厳島の各境内社を造営した{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。また5代将軍[[徳川綱吉]]の時には「'''護持院'''」と改称され、寺領は1,500石を数えた{{Sfn|筑波山神社(角)|1983年}}。その後も江戸時代を通じて霊山として発展し、[[門前町]]も発達していった{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。
明治維新後、[[廃仏毀釈]]によって中禅寺の機能は停止し、一部の社殿を除いて堂塔は破壊され、法具も各地に散逸した{{Sfn|中禅寺跡(平)|1982年}}。昭和5年([[1930年]])、筑波山神社拝殿の南西に[[真言宗豊山派]]の寺院として'''[[大御堂 (つくば市)|大御堂]]'''(おおみどう)が再興され、現在に至っている。
== 現地情報 ==
* 拝殿・社務所:[[茨城県]][[つくば市]][[筑波 (つくば市)|筑波]]1番地
'''交通アクセス(拝殿まで)'''
* バス
** [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] [[つくば駅]]([[つくばセンター]])から、筑波山(直行)[[シャトルバス]]で「筑波山神社入口」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩約10分)
** 山麓の[[筑波山口|筑波山口バスターミナル]]から、[[関東鉄道#バス事業|関東鉄道バス]]で「筑波山神社入口」バス停下車 (乗車時間約15分、下車後徒歩約10分)
* 車
** 駐車場は直営・公営・私営ともに料金500円程度。最遠のつくば市営第一駐車場は無料開放(筑波山梅林の季節以外)されているが、車通りの多い県道沿いを長く歩く必要がある。
男体山・女体山本殿までの登山については、「'''[[筑波山#登山]]'''」を参照。
'''周辺'''
* [[大御堂 (つくば市)|大御堂]] - [[坂東三十三箇所]]第25番札所、[[真言宗豊山派]]。
* 夫女ヶ石 - 筑波ふれあいの里内。風土記に見える歌垣の場と伝えられる<ref>[http://www.hitachifudoki1300.jp/visit/09/index.html 夫女ヶ石](茨城県生活環境部生活文化課「常陸国風土記1300年記念」)。</ref>。
* [[飯名神社]]
* [[蚕影神社]]
* [[平沢官衙遺跡]] - 奈良時代・平安時代の[[筑波郡]][[郡衙]]跡。
<!--=== 登山情報 ===
: ''「[[筑波山#登山]]」も参照''
* 筑波山は筑波山神社の境内であるため、許可されたコース(表筑波4コース、裏筑波4コース、山頂連絡路、筑波山自然研究路)<ref>茨城県:[http://www.pref.ibaraki.jp/kankyo/02shizen/courseguide.htm 筑波山登山道コースマップ]。2013年11月22日閲覧。</ref>以外への立ち入りは禁止されている。
* 標高が低いとはいえ登山であり、遭難の危険があるほか、山麓と山頂とで気温・天気が異なる場合があるので注意が必要。
*筑波山神社拝殿からは、ほぼ筑波山ケーブルカーに沿って御幸ケ原(筑波山頂駅)に至る「御幸ケ原コース」と、直接女体山に至る「白雲橋コース」の2コースがある。御幸ケ原からは山頂連絡路を通じて男体山、女体山両峰に登ることができる。
*白雲橋コースからは、つつじヶ丘方面に至る「迎場コース」と「おたつ石コース」が分岐・合流する。「迎場コース」は山頂ではなく筑波山神社拝殿とつつじヶ丘を結ぶルートである。
*裏筑波のユースホステル跡地(標高約555m)から御幸ケ原に至る最短距離(約1.2km)のコースもある。裏筑波からは薬王院、筑波高原キャンプ場からも登山口がある。また、国民宿舎つくばねとつつじヶ丘を結ぶ東筑波ハイキングコースもある。--><!--筑波山神社に関する解説からは逸脱した内容。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{reflist|group="注"}}
'''原典'''
{{reflist|group="原"}}
'''出典'''
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
'''原典'''
* 『[[常陸国風土記]]』筑波郡条ほか
** [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/200201.html 筑波山神社二座](神道・神社史料集成)参照(一部)。
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165 武田祐吉編『風土記』](岩波書店、1937年、近代デジタルライブラリーより)27-43コマ参照(筑波郡は28-29コマ)。
* 『筑波山流記(つくばさんるき)』
*: [[天正]]18年([[1590年]])、知足院の俊在著。筑波山縁起が記されている(『茨城県の歴史』(山川出版社)p. 98より)。
'''出典'''
* 神社由緒書「筑波山神社栞」、各所説明板
* {{Cite book|和書|editor=明治神社誌料編纂所編|author=|year=1912|chapter=筑波山神社|title=明治神社誌料 府県郷社 上|publisher=明治神社誌料編纂所|isbn=|ref={{Harvid|明治神社誌料|1912年}}}}
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244 『明治神社誌料 府県郷社 上』](近代デジタルライブラリーより)602-603コマ参照。
* {{Cite book|和書|author=|year=1988|title=[[国史大辞典]] 第9巻|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4642005099|ref=}}
** {{Wikicite|reference=糸賀茂男「筑波山」|ref={{Harvid|筑波山(国史)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=糸賀茂男「筑波山神社」|ref={{Harvid|筑波山神社(国史)|1983年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1982|chapter=|title=日本歴史地名体系 茨城県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490085|ref=}}
** {{Wikicite|reference=「筑波郡」|ref={{Harvid|筑波郡(平)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=「筑波山」|ref={{Harvid|筑波山(平)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=「筑波山神社」|ref={{Harvid|筑波山神社(平)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=「中禅寺跡」|ref={{Harvid|中禅寺跡(平)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=「六所神社跡」|ref={{Harvid|六所神社跡(平)|1982年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1983|chapter=|title=[[角川日本地名大辞典]] 8 茨城県|publisher=[[角川書店]]|isbn= 4040010809|ref=}}
** {{Wikicite|reference=「筑波郡」|ref={{Harvid|筑波郡(角)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「筑波山」|ref={{Harvid|筑波山(角)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「筑波山神社」|ref={{Harvid|筑波山神社(角)|1983年}}}}、{{Wikicite|reference=「筑波国」|ref={{Harvid|筑波国(角)|1983年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=|year=1984|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 11 関東|publisher=[[白水社]]|isbn=4560025118|ref=}}
** {{Wikicite|reference=北畠克美「筑波山神社」|ref={{Harvid|北畠 筑波山神社|1984年}}}}
* 菅谷政司・小幡和男・倉持眞寿美・久松正樹・高橋淳・池澤広美・小池渉 編『茨城県自然博物館第1次総合調査報告書―筑波山・霞ヶ浦を中心とする県南部地域の自然―』[[ミュージアムパーク茨城県自然博物館]]、平成10年3月28日、349pp
* 西村公宏(2010)"中央気象台附属筑波山測候所山頂観測所の建築について"[[日本建築学会]]大会学術講演梗概集(北陸)2010年9月:559-560
* 林陽生(2007)"気象観測ステーションの概要と研究の視点"茗渓([[茗渓会]]).'''1055''':5-7
== 関連項目 ==
* [[筑波山]]
* [[筑波国造]]
== 外部リンク ==
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* [http://www.tsukubasanjinja.jp/ 筑波山神社](公式サイト)
* [http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/51/390/421/000422.html 筑波山神社](つくば市ホームページ)
* [http://www.ibarakiguide.jp/seasons/hatsumode/tsukubasanjinja.html 筑波山神社](茨城県観光物産協会「観光いばらき」)
* [http://www.oyashiro.or.jp/link/0015.html 筑波山神社](茨城県神社庁)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/200201.html 筑波山神社二座](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
{{神道 横}}
{{DEFAULTSORT:つくはさんしんしや}}
[[Category:茨城県の神社]]
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[[Category:都道府県指定有形文化財]]
[[Category:つくば市の建築物]]
[[Category:つくば市の歴史]]
[[Category:つくば科学万博]]
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