「ウズベキスタン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sorakara023 (会話 | 投稿記録)
この項目は地図の宣伝場所ではありません。Yoshi Canopus (会話) による ID:47975803 の版を取り消し
Sorakara023 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
1行目:
{{基礎情報 国|
|略名 =ウズベキスタン|
|日本語国名 =ウズベキスタン共和国|
|公式国名 ='''{{Lang|uz|O'zbekiston Respublikasi}}'''|
|国旗画像 =Flag of Uzbekistan.svg|
|国章画像 =[[画像:Coat of Arms of Uzbekistan.svg|100px|ウズベキスタンの国章]]|
|国章リンク =([[ウズベキスタンの国章|国章]])|
|標語 =なし|
|位置画像 =Uzbekistan (orthographic projection).svg|
|公用語 =[[ウズベク語]]|
|首都 =[[タシュケント]]|
|最大都市 =タシュケント|
|元首等肩書 =[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]|
|元首等氏名 =[[イスラム・カリモフ]]|
|首相等肩書 =[[ウズベキスタンの首相|首相]]|
|首相等氏名 =[[シャヴカト・ミルズィヤエフ]]|
|面積順位 =55|
|面積大きさ =1 E11|
|面積値 =447,400|
|水面積率 =4.9%|
|人口統計年 =2008|2012
|人口順位 =41|45
|人口大きさ =1 E7|
|人口値 =2729,488559,000|100
|人口密度値 =59|61.4
|GDP統計年元 =2008|
|GDP値元 =36兆8,394億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=101&pr.y=8&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=927&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])</ref>|
|GDP統計年MER =2008|
|GDP順位MER =98|
|GDP値MER =279億<ref name="economy" />|
|GDP統計年 =2008|
|GDP順位 =72|
|GDP値 =715億<ref name="economy" />|
|GDP/人 =2,629<ref name="economy" />|
|建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;-&nbsp;日付|
|建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より<br/>[[1991年]][[9月1日]]|
|通貨 =[[スム]]|
|通貨コード =UZS|
|時間帯 =(+5)|
|夏時間 =なし|
|国歌 =[[ウズベキスタン共和国国歌]]|
|ISO 3166-1 = UZ / UZB|
|ccTLD =[[.uz]]|
|国際電話番号 =998|
|注記 =
|}}
'''ウズベキスタン共和国'''(ウズベキスタンきょうわこく)、通称'''ウズベキスタン'''は、[[中央アジア]]に位置する旧[[ソビエト連邦]]の[[共和国]]。首都は[[タシュケント]](タシケント)。
 
59行目:
 
国名は、[[ウズベク|ウズベク人]]の自称民族名 {{Lang|uz|O'zbek}}(オズベク)と、[[ペルシア語]]で「~の国」を意味する {{Lang|fa|-istan}} (ウズベク語では {{Lang|uz|-iston}})の合成語である。オズベクは、[[テュルク諸語|テュルク語]]で「自身が主君」を意味し、一説には[[ジョチ・ウルス]](キプチャク・ハン国)の[[ウズベク・ハン]](オズベク・ハン)の名に由来するといわれる。
 
== 地理 ==
{{main|ウズベキスタンの地理}}
[[Image:Uz-map-ja.png|thumb|300px|right|ウズベキスタンの地図]]
[[File:Uzbekistan satellite photo.jpg|thumb|left|250px|ウズベキスタンの衛星写真]]
 
ウズベキスタンはユーラシア大陸の中央に位置しており、全国土面積は44万7400[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]である。この国土面積は世界56位であり、人口は世界第42位である<ref>{{cite web|url=http://www.worldatlas.com/aatlas/populations/ctypopls.htm |title=www.worldatlas.com |publisher=www.worldatlas.com |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。[[独立国家共同体|CIS諸国]]のあいだでは、全面積は第5位、人口は第3位となっている<ref name=uzstat/>。
 
ウズベキスタンは[[北緯37度線|北緯37度]]から[[北緯46度線|46度]]、[[東経56度線|東経56度]]から[[東経74度線|74度]]の地域に存在している。東西の距離は1425km、南北の距離は930kmである。北および北西地域は[[カザフスタン]]との国境と[[アラル海]]に、南西部分は[[トルクメニスタン]]との国境に、南東部分は[[タジキスタン]]との国境に、北東部分は[[キルギス]]との国境に接している。ウズベキスタンは[[中央アジア]]でも有数の面積を持つ国家であり、他の4国すべてと国境を接する唯一の国家でもある。このほか、ウズベキスタンは南部150kmに渡り[[アフガニスタン]]と国境を接している。
 
ウズベキスタンは乾燥した[[内陸国]]である。ウズベキスタンは世界に2つしか無い[[二重内陸国]](もう一つは[[リヒテンシュタイン]])であり、海へとでるためには国を2つ越える必要がある。加えて、内陸国の河川流域という特性上、海へと直接つながっている国内河川はなく、領土の10%にも満たない灌漑農業用地や河川流域の[[オアシス]]に似た土地で集中的に農業が行われている。残りの領土は広大な[[砂漠]]([[キジルクム砂漠]])と険しい山々で占められる。
 
ウズベキスタンの最高点は[[スルハンダリヤ州]]と[[タジキスタン]]との境界付近、{{仮リンク|ギッサール山脈|en|Gissar Range}}にある[[ハズレット・スルタン山]]であり、標高は4643mである。タジキスタンの首都[[ドゥシャンベ]]の北西部に存在するこの山はかつては第22回共産党大会峰と呼ばれていた<ref name=uzstat>[http://enews.fergananews.com/article.php?id=2051 Uzbekistan will publish its own book of records Ferghana.ru]. 18 July 2007. Retrieved July 29, 2009.</ref>。
 
ウズベキスタン共和国内の気候はその大部分が[[大陸性気候]]であり、[[降水量]]は年間100~200mmと非常に少ない。夏季の平均最高気温はおよそ40°Cに達する一方で、冬の平均最低気温は約-23°Cと非常に低い<ref name="LoC:Climate">[http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+uz0029) Climate], Uzbekistan : Country Studies- Federal Research Division, Library of Congress.</ref>。
 
主要都市としては、首都の[[タシュケント]]のほか、[[アンディジャン]]、[[ブハラ]]、[[サマルカンド]]、[[ナマンガン]]などがある。
 
==環境==
[[File:Aral Sea 1989-2008.jpg|thumb|left|230px|1989年と2008年における[[アラル海]]の大きさの比較]]
 
[[アラル海]]に接しているが、旧[[ソ連]]時代に行われた国土の風土に合わない無茶な綿花栽培のため、アラル海の面積は急激に縮小している。
 
[[ソビエト連邦]]時代の政策により、ウズベキスタン国内では数十年に渡って[[綿花]]の過剰なまでの生産が行われ、結果として環境に非常に大きな悪影響を及ぼした。農業分野は国内で深刻化している水質汚濁や土壌汚染の被害の一番の被害者となっている<ref>{{cite web|url=http://countrystudies.us/uzbekistan/17.htm |title=Uzbekistan&nbsp;– Environment |publisher=Countrystudies.us |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
 
アラル海はかつて地球上で4番目に大きい湖であり、周辺地域の湿度を保ち乾燥した土地で農業が行える大きな要素となっていた<ref>{{cite web|url=http://www.msf.org/msfinternational/invoke.cfm?objectid=6589D208-DC2C-11D4-B2010060084A6370&component=toolkit.article&method=full_html |archiveurl=http://web.archive.org/web/20070930020327/http://www.msf.org/msfinternational/invoke.cfm?objectid=6589D208-DC2C-11D4-B2010060084A6370&component=toolkit.article&method=full_html |archivedate=2007-09-30 |title=Uzbekistan: Environmental disaster on a colossal scale |publisher=Msf.org |date=2000-11-01 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。1960年代以降の10年間でアラル海の水の過剰利用が行われ、アラル海は元の50%にまで面積が縮小、水量も3分の1にまで低下した。信頼出来る調査結果もしくは概算データは各国公的機関や組織においてまだ十分に発表されておらず、情報の収集も進んでいない。現在も水の大部分は綿花や栽培に大量の水分が必要とされる作物栽培の灌漑用水として使用され続けている<ref>[http://www.ejfoundation.org/page146.html Aral Sea Crisis] Environmental Justice Foundation Report</ref>。
 
この環境破壊の危機の責任の所在は明らかであり、1960年代に[[自然改造計画]]によって国内の河川に大量に[[ダム]]を建設しアラル海へ流入する水量の減少と河川の水の乱用を推し進めた旧ソ連の科学者や政治家、そしてソビエト連邦崩壊後ダムや灌漑システムの維持に十分な対策をせず環境問題対策に十分な費用をかけて来なかったウズベキスタンの政治家にある。
 
アラル海の問題のため、特にアラル海に近いウズベキスタン西部にある[[カラカルパクスタン共和国|カラカルパクスタン地域]]では土壌に高い[[塩分]]濃度が検出されている上、[[重金属]]による土壌汚染が広がっている。また、国内の他の地域においても水資源のほとんどは農業に使用されており、その割合は約84%にのぼる。これは土壌の塩分濃度上昇に拍車をかけている。また、収穫量増加のため綿花農場における[[防虫剤]]や[[化学肥料]]の乱用を行ったことで、深刻な[[土壌汚染]]がおきている<ref name="LoC:Climate"/>。
 
== 歴史 ==
80 ⟶ 110行目:
一方、カリモフ大統領はイスラム過激派による武力蜂起だとして欧米側による報道を批判し、国際調査団を受け入れる考えのないことを表明している。また、[[2001年]]の[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガン侵攻]]以来、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]の駐留を受け入れてきたが、2005年にこれを解消し、アメリカ軍は撤収することとなった。なお現在も、「反テロ作戦の一環」として[[ドイツ軍]]がテルメズ飛行場に駐留を続けている。現在は[[上海協力機構]]の関係を深めている。
 
== 地理政治 ==
[[ImageFile:Uz-map-jaOliy Majlis (Parliament of Uzbekistan).pngjpg|thumb|300px|right|250px|ウズベキスタンの地図[[国民議会 (ウズベキスタン)|国民議会]]]]
[[File:VueIslam dekarimov l'Aqua-Park - Tachkentcropped.jpg|thumb|280px|right250px|ウズベキスタン大統領の[[タシュケントイスラム・カリモフ]]]]
[[File:Samarkand view from the top.jpg|thumb|280px|right|[[サマルカンド]]]]
[[File:Bukhara - Panorama.jpg|thumb|280px|right|[[ブハラ]]]]
 
{{main|ウズベキスタンの地理政治|ウズベキスタンの政党|ウズベキスタンの大統領}}
 
ウズベキスタンはユーラシア大陸の中央に位置しており、面積は44万7千平方kmである。国土の80パーセントは[[キジルクム砂漠]]で覆われており、あとは非常に乾いた荒れ地が多く、まともに耕作できる地域は僅か10%ほどしかない。[[アラル海]]に接しているが、旧[[ソ連]]時代に行われた国土の風土に合わない無茶な綿花栽培のため、アラル海の面積は急激に縮小している。
国家元首である[[大統領]]は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であった[[イスラム・カリモフ]]が独立以来その職にある。首相と副首相は大統領が任命する。
 
議会はアリー・マジュリス(''{{lang|uz|Oliy Majlis}}'')と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。アリー・マジュリスの初の選挙は1994年の第16回[[最高会議|ソビエト最高会議]]にて承認された決議の元開催された。同年、ソビエト最高会議はアリー・マジュリスとその名称を変更した。ウズベキスタンはこれまで3回の大統領選挙を行なっているものの、すべて[[イスラム・カリモフ]]が選出されている。
 
議会は定員150名の[[下院 (ウズベキスタン)|下院]](日本の[[衆議院]]に相当)と定員100名の[[上院 (ウズベキスタン)|上院]](日本の[[参議院]]に相当)に分かれており、それぞれ任期は5年である。第3回の選挙は2009年12月27日に、第2回選挙は2004年12月から2005年にかけて行われたアリー・マジュリスは2004年まで1院制であったが、2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなった。議会に参加する議員数は1994年は69名であったが、2004~05年に120名へと増加、現在は下院の議員数は150名にまで増加している。
 
現在、旧[[ウズベキスタン共産党]]から改組された[[ウズベキスタン人民民主党]]を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ大統領の支持勢力として議会を支配している。カリモフ大統領はウズベキスタンの独立後、[[自己献身・国民民主党]]に所属していたが、2007年に[[ウズベキスタン自由民主党]]に党籍を移した。いずれの政党も、カリモフ政権の支持政党である。
 
[[行政|行政府]]は絶大な権力を握っており、[[立法府]]は法案成立の際に多少影響力を持つにすぎない。1995年12月27日に行われた国民投票の結果、イスラム・カリモフは2選を果たした。その後2002年1月に行われた国民投票の結果、大統領の任期は5年から7年に延ばされた。
 
国民投票の結果を受けて法案が成立し、イスラム・カリモフの任期は2007年12月まで任期が延長された。ほとんどの国際監視員は選挙の過程と結果に関して正当なものであると認めていない。2002年の国民投票には下院(Oliy Majlis)と上院(Senate)の2院制への移行計画に関する投票が含まれていた。下院の議員は「専業」の国会議員である。新たな2院制への移行に関する国民投票は12月26日に開催された。イスラム・カリモフの周囲では後継者の{{仮リンク|アクバル・アブドゥラエフ|en|Akbar Abdullaev}}の大統領選出に向けた動きが見られる。
 
[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)は制限された監視行動の中で、ウズベキスタン国内の選挙はOSCEやその他の民主主義選挙に関する国際基準を全く満たしていない。複数の政治政党が政府の承認を経て設立されたものとなっている。同様に、ラジオ・テレビ・新聞など様々な[[マスメディア|メディア]]が設立されているものの、これらのメディアは依然として政府のコントロール下にある、もしくはめったに政治的な話題を扱わないメディアとなっている。独立した政治政党の設立や党員募集、党大会や記者会見の開催は禁止されていないものの、登録手続きには制限が課されているため登録を拒否されている。
 
==人権==
{{Main|ウズベキスタンの人権}}
 
[[ウズベキスタン共和国憲法]]では「ウズベキスタン共和国の民主主義は個人の生命、自由、名誉、尊厳、その他の固有の権利を至上の価値とする基本的な人道にもとづく」と宣言している。
 
人権に対する公的な姿勢に関しては、「ウズベキスタン共和国政府は人権を提供し推奨するという見地に立つ」という方針に要約されており<ref>Embassy of Uzbekistan to the US, [http://www.uzbekistan.org/press/archive/283/ Press-Release: "The measures taken by the government of the Republic of Uzbekistan in the field of providing and encouraging human rights"], October 24, 2005</ref>、以下のように記述されている。「政府はウズベキスタン市民の人権を保護、保証するためにあらゆる手段を用いる。ウズベキスタンは人道的な社会の実現のため、継続的に法改正を行っていく。人々の基本的人権を規定するための300以上の法案が議会を通過した。例として、[[オンブズマン]]事務所は1996年に設立された<ref>Uzbekistan Daily Digest, [http://web.archive.org/web/20080904102609/http://www.eurasianet.org/resource/uzbekistan/hypermail/200304/0029.shtml "Uzbekistan's Ombudsman reports on 2002 results"], December 25, 2007</ref>。2005年8月2日、大統領のイスラム・カリモフは2008年1月1日よりウズベキスタンにおいて死刑を廃止する法令に調印した。
 
しかし、{{仮リンク|国際ヘルシンキ人権連盟|en|International Helsinki Federation for Human Rights}}(IHF)、[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]、[[アムネスティ・インターナショナル]]などの[[非政府組織]]の[[人権団体]]は[[アメリカ合衆国国務省]]や[[欧州連合理事会]]とともに、ウズベキスタンを「[[市民権]]が制限された権力主義国家」と定義しており<ref>US Department of State, [http://www.state.gov/j/drl/rls/hrrpt/2008/sca/119143.htm 2008 Country Report on Human Rights Practices in Uzbekistan], Bureau of Democracy, Human Rights, and Labour, February 25, 2009</ref>、「あらゆる[[基本的人権]]に対する大規模な違反に対し重大な懸念がある」と表現している<ref>IHF, [http://web.archive.org/web/20100129175624/http://www.ihf-hr.org/documents/doc_summary.php?sec_id=3&d_id=3860 Human Rights in OSCE Region: Europe, Central Asia and North America– Uzbekistan, Report 2004 (events of 2003)], 2004-06-23</ref>。
 
報告によると、最も広範囲で見られる人権侵害は[[拷問]]、恣意的な[[逮捕]]、そして、信教の自由、言論の自由、出版の自由など様々な自由の制限があげられる。また、地方のウズベキスタンの女性に対し強制断種を行うことは政府によって処罰の対象とされていると報告されている<ref>[http://www.newyorker.com/online/blogs/newsdesk/2013/01/tweets-from-gulnara-the-dictators-daughter.html reported]</ref><ref>OMCT and Legal Aid Society, [http://www.omct.org/files/2005/07/2984/omctlas_uzb_report_04_05.pdf Denial of justice in Uzbekistan– an assessment of the human rights situation and national system of protection of fundamental rights], April 2005.</ref>。また、宗教団体の会員、独立したジャーナリスト、人権活動家や禁止された敵対政党の党員を含む政治活動家などに対する人権侵害が頻繁に行われているとも報告されている。
 
[[2005年]]の[[アンディジャン事件]]では結果として数百人の死亡者が出たが、この事件はウズベキスタン国内の人権侵害の歴史の中でも大きな事件となった<ref>Jeffrey Thomas, US Government Info September 26, 2005 [http://web.archive.org/web/20070421032553/http://usinfo.state.gov/eur/Archive/2005/Sep/26-966275.html Freedom of Assembly, Association Needed in Eurasia, U.S. Says],
</ref><ref>{{cite web|last=McMahon |first=Robert |url=http://www.rferl.org/content/article/1059147.html|title=Uzbekistan: Report Cites Evidence Of Government 'Massacre' In Andijon- Radio Free Europe/Radio Liberty |publisher=Rferl.org |date=2005-06-07 |accessdate=2013-06-13}}</ref><ref>{{cite web|url=http://web.amnesty.org/library/Index/ENGEUR620152005?open&of=ENG-UZB |title=Uzbekistan: Independent international investigation needed into Andizhan events & Amnesty International |publisher=Web.amnesty.org |date=2005-06-23 |accessdate=2013-06-13 |archiveurl = http://web.archive.org/web/20071012171720/http://web.amnesty.org/library/Index/ENGEUR620152005?open&of=ENG-UZB |archivedate = 2007-10-12}}</ref>。
 
事件に関する深い懸念がアメリカ合衆国、欧州連合、[[国際連合]]、OSCE議長、OSCE民主主義人権研究事務所によって示され、これらの機関はウズベキスタン政府から独立した調査を要求した。
ウズベキスタン政府は人命を不法に奪い、市民の{{仮リンク|集会の自由|en|freedom of assembly}}と表現の自由を否定していることを非難した。政府は外国組織による非難を明確に拒絶した上で、必要最小限の軍隊を用いて反テロ活動を指揮したにとどまった<ref>{{cite web|url=http://www.press-service.uz/en/gsection.scm?groupId=5203&contentId=8868 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20080308115436/http://www.press-service.uz/en/gsection.scm?groupId=5203&contentId=8868 |archivedate=2008-03-08 |title=Press-service of the President of the Republic of Uzbekistan: |publisher=Press-service.uz |date=2005-05-17 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。さらに、公式政府により「ウズベキスタンにおいて情報戦争が宣言」され、政府はアンディジャンの人権侵害は、ウズベキスタンの敵対勢力がウズベキスタンに内政干渉を行うための便利な口実として引き起こしたものであると主張した<ref>{{cite web|author=Акмаль Саидов |url=http://www.kreml.org/interview/100931204 |title=Андижанские события стали поводом для беспрецедентного давления на Узбекистан |publisher=Kreml.Org |date=2005-10-27 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
 
ウズベキスタンはタジク人に彼らの母語である[[タジク語]]を学校で教えることを禁じており、タジク語(もしくは[[ペルシア語]])の文学作品が破壊された例が存在する<ref>{{cite web|url=http://www.cidcm.umd.edu/mar/assessment.asp?groupId=70402 |title=MAR (Minorities at Risk) report ''(retrieved February 21, 2010)'' |publisher=Cidcm.umd.edu |date=2006-12-31 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
 
== 外交 ==
[[File:Clarence Moore House.JPG|thumb|250px|[[ワシントンD.C.]]にある在アメリカ合衆国ウズベキスタン大使館]]
 
{{main|ウズベキスタンの国際関係}}
全方位的外交を展開し、ロシアと同盟関係条約を締結する一方で、CIS諸国を含む[[アジア]]諸国や[[ヨーロッパ]]諸国、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などとも友好関係を持っている。
 
[[日本]]との間も官民両面で友好関係を保っており、両国に[[大使館]]を持っている。第二次大戦後[[シベリア抑留]]を受けた日本人捕虜は首都タシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たる[[ナヴォイ劇場]]の工事などに従事した。1966年の[[タシュケント地震]]にも全くの無傷という、過酷な強制労働にも関わらず見事な仕事を為し、それが現在ウズベキスタンで親日感情が高いことに繋がっている。
 
ウズベキスタンは1991年12月に[[独立国家共同体]](CIS)に参加した。しかし、1999年にCIS集団安全保障体制から脱退した。これ以降、ウズベキスタンは時刻の安定に影響を及ぼすタジキスタンとアフガニスタン両国の紛争の解決の手助けをするためタジキスタンのCIS平和維持軍や国連により組織された平和維持軍に参加している。
 
かつてはアメリカ合衆国とウズベキスタンの関係は良好であった。2004年にはアメリカ合衆国はウズベキスタンに軍事費の約4分の1に当たる5億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]を援助、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国軍による[[アフガニスタン]]への空軍軍事作戦に際し[[カルシ・ハナバード空軍基地]]の使用を許可していた<ref>Erich Marquardt and Adam Wolfe [http://www.globalpolicy.org/component/content/article/153/26246.html Rice Attempts to Secure US Influence in Central Asia], Global Policy Forum. October 17, 2005</ref>。ウズベキスタンはアメリカ合衆国の掲げる世界規模の反テロ戦争の積極的な支持者であり、アフガニスタンとイラクの両地域において支援作戦を展開していた。
 
ウズベキスタンとアメリカ合衆国両国の関係は[[グルジア]]や[[ウクライナ]]で2000年ごろに起きた「[[色の革命]]」(後に[[キルギス]]へも影響が拡大した)の後、悪化が進んだ。アメリカ合衆国が[[アンディジャン事件|アンディジャン]]の流血事件に対して独立した国際調査団参加に名乗りを上げると、両国の関係は極めて悪化、大統領のイスラム・カリモフは外交路線を転換し、人権侵害非難を支持することのなかったロシアや中国に接近する姿勢を見せるようになった。
 
2005年7月後半、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国にアフガニスタン国境に近い[[カルシ・ハナバード空軍基地]]から180日以内に撤退するよう命じた。カリモフは[[9.11]]後の短期間、アメリカ合衆国に空軍基地使用を申し出ていた。ウズベキスタン人の中には、アンディジャン事件に対する抗議による、アンディジャン地区におけるアメリカ合衆国やイギリスの影響力増加への懸念が撤退命令につながったと考える者もいる。これもまたウズベキスタンと西洋諸国が対立した理由の一つに挙げられている。
 
ウズベキスタンは1992年3月2日より[[国際連合]]に加盟しているほか、[[欧州・大西洋パートナーシップ理事会]] (EAPC)、[[平和のためのパートナーシップ]] (PfP)、[[欧州安全保障協力機構]] (OSCE)のメンバーでもある。また、[[イスラム協力機構]] (OIC)や[[経済協力機構]] (ECO、中央アジアの5カ国と[[アゼルバイジャン]]、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[アフガニスタン]]、[[パキスタン]]で構成される)にも所属している。1999年、ウズベキスタンは[[GUAM]] ([[グルジア]]、[[ウクライナ]]、[[アゼルバイジャン]]、[[モルドバ]])のオブザーバーとなり、1997年に加盟してGUUAMとなったが、2005年に脱退している。
 
ウズベキスタンは[[上海協力機構]](SCO)のメンバーでもあり、タシュケントでSCO地方反テロ構造 (RATS)を開催している。ウズベキスタンは2002年に設立された[[ユーラシア経済共同体]](EAEC)に加盟している。EAECはウズベキスタン、[[タジキスタン]]、[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[ロシア]]、[[ベラルーシ]]から構成されている。CACOはキルギスとカザフスタンにより設立された[[中央アジア連合]]が発展改称する形で設立された組織であり、ウズベキスタンはEAECの創立メンバーとして加盟している。
 
2006年9月、[[UNESCO]]はイスラム・カリモフをウズベキスタンの豊かな文化や伝統を保存した功績により表彰した。批判はあるが、ウズベキスタンと西洋諸国の間の関係を発展させた1つの証として捉えられている。
 
2006年10月にはもうひとつウズベキスタンが西洋諸国からの孤立から脱する出来事があった。[[欧州連合|EU]]は人権や自由に関して対話を行うため、長きに渡り対立していたウズベキスタンに対して使節団を送る計画があると発表した。[[アンディジャン事件]]に関する政府の公式発表と非公式の数字どちらが正しいのかという点に関しては曖昧であったものの、EUは明らかにウズベキスタンに対する経済制裁を弱める意志を見せた。しかし、ウズベキスタンの人々の間では、ウズベキスタン政府は[[ロシア連邦]]と密接な関係を維持しようとしており、2004年から2005年にかけてのウズベキスタンでの抗議はアメリカ合衆国やイギリスにより引き起こされたものであると一般的に考えられている。
 
== 行政区画 ==
[[File:Uzbekistan provinces.png|thumb|right|350px|ウズベキスタンの行政区画]]
[[File:Vue de l'Aqua-Park - Tachkent.jpg|thumb|250px|right|[[タシュケント]]]]
[[File:Samarkand view from the top.jpg|thumb|250px|right|[[サマルカンド]]]]
[[File:Bukhara - Panorama.jpg|thumb|250px|right|[[ブハラ]]]]
[[File:Tashkent Downtown.jpg|thumb|250px|タシュケントの中心街]]
[[File:Samarkand view from the top.jpg|thumb|250px|[[サマルカンド]]]]
 
=== 地方行政区分 ===
{{Main|ウズベキスタンの地方行政区画}}
 
ウズベキスタンは12の州 (viloyat , (viloyat、ヴィラヤト)、1つの自治共和国 (respublika , (respublika、レスプブリカ)、1つの特別(shahar, (shahar、シャハル)に分かれる。
 
{| class="wikitable sortable"
* 州(viloyat) - 州都
|- style="background:#efefef;"
*# [[ホラズム州]] {{lang|uz|Xorazm}} - ウルゲンチ {{lang|uz|Urgench}}
! 番号 !! 行政区画名 !! ウズベク語表記 !! 都 !! ウズベク語表記 !! 地区面積<br />([[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]])!! 人口 (2008)<ref>{{cite web|url=http://www.stat.uz/STAT/2008year/doklad_eng_tab.pdf |archiveurl=http://web.archive.org/web/20101113143854/http://www.stat.uz/STAT/2008year/doklad_eng_tab.pdf |archivedate=2010-11-13 |title=Statistical Review of Uzbekistan 2008, p.176 |format=PDF |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>
*# [[ナヴァーイー州]] {{lang|uz|Navoiy}} - ナヴァーイー {{lang|uz|Navoiy}}
|-
*# [[ブハラ州]] {{lang|uz|Buxoro}} - ブハラ {{lang|uz|Buxoro}}
*#| 01 ||[[サマルカタシュケド州ト|タシュケント特別市]] ||{{lang|uz|SamarqandToshkent shahri}} -|| サマルカタシュケト||{{lang|uz|SamarqandToshkent}} || 335 || 2,192,700
|-
*# [[カシュカダリヤ州]] {{lang|uz|Qashqadaryo}} - カルシ {{lang|uz|Qarshi}}
*#| 02 ||[[アンディザフャン州]] ||{{lang|uz|JizzaxAndijon Viloyati}} - ||[[アンディザフ ャン]]||{{lang|uz|JizzaxAndijon}} ||4,200 || 2,477,900
|-
*# [[スルハンダリヤ州]] {{lang|uz|Surkhondaryo}} - テルメズ {{lang|uz|Termiz}}
*#| 03 ||[[シルダリヤブハラ州]] ||{{lang|uz|SirdaryoBuxoro Viloyati}} - グリスタン ||[[ブハラ]]||{{lang|uz|GulistonBuxoro}} || 39,400 || 1,576,800
|-
*# [[タシュケント州]] {{lang|uz|Toshkent}} - タシュケント {{lang|uz|Toshkent}}
*#| 04 ||[[ナマンフェル州]] ||{{lang|uz|NamanganFarg'ona Viloyati}} -|| ナマン[[フェルナ]]||{{lang|uz|NamanganFarg'ona}} || 6,800 || 2,997,400
|-
*# [[アンディジャン州]] {{lang|uz|Andijon}} - アンディジャン {{lang|uz|Andijon}}
*#| 05 ||[[ジザェルガナ州]] ||{{lang|uz|Farg'onaJizzax Viloyati}} -|| [[ジザェルガナ ]]||{{lang|uz|Farg'onaJizzax}} || 20,500 || 1,090,900
|-
| 06 ||[[ナマンガン州]]||{{lang|uz|Namangan Viloyati}} ||[[ナマンガン]]||{{lang|uz|Namangan}} ||7,900 || 2,196,200
|-
| 07 || [[ナヴァーイー州]]||{{lang|uz|Navoiy Viloyati}} || [[ナヴァーイー]]||{{lang|uz|Navoiy}} || 110,800 || 834,100
|-
| 08 || [[カシュカダリヤ州]]||{{lang|uz|Qashqadaryo Viloyati}} || [[カルシ]]||{{lang|uz|Qarshi}} || 28,400 || 2,537,600
|-
| 09 || [[サマルカンド州]]||{{lang|uz|Samarqand Viloyati}} || [[サマルカンド]]||{{lang|uz|Samarqand}} || 16,400 || 3,032,000
|-
| 10 ||[[シルダリヤ州]] ||{{lang|uz|Sirdaryo Viloyati}} || [[グリスタン]]||{{lang|uz|Guliston}} || 5,100 || 698,100
|-
| 11 ||[[スルハンダリヤ州]]||{{lang|uz|Surkhondaryo Viloyati}} || [[テルメズ]]||{{lang|uz|Termiz}} || 20,800 || 2,012,600
|-
| 12 ||[[タシュケント州]]||{{lang|uz|Toshkent Viloyati}} ||[[タシュケント]]||{{lang|uz|Toshkent}} || 15,300 || 2,537,500
|-
| 13 ||[[ホラズム州]]||{{lang|uz|Xorazm Viloyati}} ||[[ウルゲンチ]]||{{lang|uz|Urganch}} || 6,300 || 1,517,600
|-
| 14 ||[[カラカルパクスタン共和国]]||{{lang|uz|Qoraqalpog'iston Respublikasi}} ||[[ヌクス]]||{{lang|uz|Nukus}} || 160,000 || 1,612,300
|}
 
タシュケント州の統計データにはタシュケント市の統計データを含む。
* 自治共和国(respublika) - 首都
*# [[カラカルパクスタン共和国|カラカルパクスタン自治共和国]] {{lang|uz|Qoraqalpog'iston Respublikasi}} - ヌクス {{lang|uz|Nukus}}
 
各州及びタシュケント市は更に地区({{lang-uz|Tuman}})に別れる。
* 特別市(shahar)
*# [[タシュケント|タシュケント市]] {{lang|uz|Toshkent}}
 
=== 主要都市 ===
126 ⟶ 234行目:
* [[テルメズ]]
 
== 政治経済 ==
{{main|ウズベキスタンの政治|ウズベキスタンの政党経済}}
[[File:International Business Center (IBC).jpg|thumb|250px|タシュケントの国際ビジネスセンター]]
国家元首である[[大統領]]は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であった[[イスラム・カリモフ]]が独立以来その職にある。2002年1月に行われた国民投票の結果、大統領の任期は5年から7年に延ばされた。首相と副首相は、大統領が任命する。
[[File:Uzbekistan GDPgrowth1992-2008 cropped.jpg|thumb|250px|ウズベキスタンのGDP成長率(1992-2008年)]]
 
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2011年]]の[[国内総生産|GDP]]は453億ドルであり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=63&pr.y=11&sy=2010&ey=2017&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=927&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMF]</ref>、[[日本]]の[[香川県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>[http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 内閣府による県民経済計算]</ref>。一人当たりのGDPは1,572ドルであり、世界平均の20%に満たない水準である。[[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困層]]は1248万人と推定されており、国民の40%以上を占めている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update]</ref>。近年は豊富な[[天然ガス]]関連の投資を多く受け入れており、比較的好調な経済成長を遂げている。通貨は[[スム]]。
議会は、アリー・マジュリス(''{{lang|uz|Oliy Majlis}}'')と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなった。
現在、旧[[ウズベキスタン共産党]]から改組された[[ウズベキスタン人民民主党]]を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ大統領の支持勢力として議会を支配している。カリモフ大統領はウズベキスタンの独立後、[[自己献身・国民民主党]]に所属していたが、2007年に[[ウズベキスタン自由民主党]]に党籍を移した。いずれの政党も、カリモフ政権の支持政党である。
 
ウズベキスタンは世界第4位の[[金]]埋蔵量を誇る。国内では毎年約80トンの金が採掘されており、これは世界第7位の発掘量である。ウズベキスタンの[[石炭]]埋蔵量は世界第10位であり、[[ウラン]]の埋蔵量は世界第12位である。国内のウラン生産量は世界第7位である<ref>[http://www.world-nuclear.org/info/inf75.html World Nuclear Association]</ref><ref>[http://www.euronuclear.org/info/encyclopedia/u/uranium-reserves.htm European Nuclear Society]</ref><ref>[http://www.bgs.ac.uk/mineralsuk/statistics/worldStatistics.html British Geological Survey]</ref>。ウズベキスタンの国営ガス会社、[[ウズベクネフテガス]]は世界第11位の[[天然ガス]]生産量を誇り、年間600~700億[[立方メートル|m<sup>3</sup>]]を産出している。ウズベキスタンはまだ未開拓の石油や天然ガスの資源が多数存在しており、国内には194の[[炭化水素]]の鉱山があり、この内98が天然ガス田、96がガス田となっている。
== 外交 ==
{{main|ウズベキスタンの国際関係}}
全方位的外交を展開し、ロシアと同盟関係条約を締結する一方で、CIS諸国を含む[[アジア]]諸国や[[ヨーロッパ]]諸国、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などとも友好関係を持っている。
 
ウズベキスタン国内においてエネルギー関連事業に大きな投資をしている企業としては[[中国石油天然気集団]](CNPC)、[[ペトロナス]]、{{仮リンク|韓国石油公社|en|Korea National Oil Corporation}}(KNOC)、[[ガスプロム]]、[[ルクオイル]]、ウズベクネフテガスがある。
[[日本]]との間も官民両面で友好関係を保っており、両国に[[大使館]]を持っている。第二次大戦後[[シベリア抑留]]を受けた日本人捕虜は首都タシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たる[[ナヴォイ劇場]]の工事などに従事した。1966年の[[タシュケント地震]]にも全くの無傷という、過酷な強制労働にも関わらず見事な仕事を為し、それが現在ウズベキスタンで親日感情が高いことに繋がっている。
 
多くの[[独立国家共同体|CIS諸国]]と同じく、ウズベキスタンの経済はソビエト連邦時代の[[社会主義経済]]から[[資本主義|資本主義経済]]への移行期であった初期に一旦減少し、政策の影響が出始めた1995年より徐々に回復している。ウズベキスタンの経済は力強い成長を示しており、1998年から2003年までの間は平均4%の経済成長率を記録、以降は毎年7~8%の経済成長率を記録している。[[国際通貨基金|IMF]]の概算によると<ref name=imf>[http://www.imf.org/external/data.htm IMF World Economic Outlook Database], October 2007</ref>、2008年のウズベキスタンの[[国内総生産|GDP]]は1995年時点の約2倍である。2003年以降、年間の[[インフレーション|インフレ率]]は平均10%を下回っている。
== 経済 ==
 
[[File:Uzbekistan GDPgrowth1992-2008 cropped.jpg|thumb|280px|ウズベキスタンのGDP成長率(1992-2008年)]]
ウズベキスタンにおいて、一人あたりの[[国民総所得]](GNI)は非常に低く、2006年時点で610USドル、[[購買力平価説|PPP]]は2,250USドルとなっている<ref>[http://siteresources.worldbank.org/DATASTATISTICS/Resources/GNIPC.pdf GNI per capita 2006, Atlas method and PPP], World Development Indicators database, World Bank, September 14, 2007.</ref>。PPPと比較した一人あたりのGNIの数字は世界209カ国中169位と非常に低く、12の[[CIS諸国]]の中でウズベキスタンより下の値であるのはキルギスとタジキスタンだけである。経済的な生産は加工品ではなく生産品に集中している。2011年時点において、ウズベキスタンは世界で第7位の綿花生産国であり、世界第5位の綿花輸出国であり<ref>{{cite web|url=http://www.cotton.org/econ/cropinfo/cropdata/rankings.cfm |title=The National Cotton Council of America: Rankings |format= |year=2011 |accessdate=2013-06-13}}</ref>、同時に世界第7位の金採掘国でもある。他に生産量の多い製品としては、[[天然ガス]]、[[石炭]]、[[銅]]、[[石油]]、[[銀]]、[[ウラン]]等がある<ref>{{cite web|url=http://www.irinnews.org/country.aspx?CountryCode=UZ&RegionCode=ASI |archiveurl=http://web.archive.org/web/20100827203828/http://www.irinnews.org/country.aspx?CountryCode=UZ&RegionCode=ASI |archivedate=2010-08-27 |title=Country Profile: Uzbekistan |publisher=Irinnews.org |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
{{main|ウズベキスタンの経済}}
 
[[ウズベキスタンの農業|農業]]労働者はウズベキスタン総労働人口の28%にあたり、農業はGDP全体の約24%を占める(2006年のデータ)<ref name=uzstat/>。公式発表によると就業率は高いとされているものの、特に地方で就業率は低く、少なくとも20%以上が失職中であると推定されている<ref name=cia1/>。未だに、綿花収穫期には全ての学生と教師、公務員はボランティアで[[綿花]]の収穫に駆り出されている<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/7068096.stm |title=Programmes - Newsnight - Child labour and the High Street |publisher=BBC News |date=2007-10-30 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。[[ウズベキスタンの児童労働]]の使用は{{仮リンク|テスコ|en|Tesco}}<ref>{{cite web|url=http://www.ejfoundation.org/pdf/Uzbekistan_Cotton%20Tesco_letter_to_%20suppliers.pdf |title=Tesco Ethical Assessment Programme |format=PDF |accessdate=2013-06-13}}</ref>やC&A<ref>{{cite web|author=C&A |url=http://www.c-and-a.com/aboutUs/socialResponsibility/ |title=C&A Code of Conduct for Uzbekistan |publisher=C-and-a.com |accessdate=2013-06-13}}</ref>、Marks & Spencer、Gap、H&Mなどにより報告されており、これらの企業は綿花の収穫作業をボイコットしている<ref>{{cite news
| last = Saidazimova
| first = Gulnoza
| title = Central Asia: Child Labor Alive And Thriving
| publisher = Radio Free Europe/Radio Liberty
| date = 2008-06-12
| url = http://www.rferl.org/content/article/1144612.html
| accessdate = 2013-06-13}}</ref>。
 
独立達成後に多くの経済問題に直面したことで、政府は国による管理、輸入量の減少、エネルギー自給率の増加を軸とした進化のための改革戦略を採択した。1994年以降、国のコントロールを受けたメディアはこの「ウズベキスタン経済モデル」の成功を繰り返し喧伝しており<ref>Islam Karimov's interview to Rossijskaya Gazeta, 1995-07-07 [http://web.archive.org/web/20080922045122/http://2004.press-service.uz/rus/knigi/9tom/3tom_12.htm Principles of Our Reform] (ロシア語).</ref>、経済ショックや貧困、停滞を避けて市場経済へとスムーズに移行するための唯一の方法であると提案していた。
 
漸進的な改革戦略は重要な[[マクロ経済学|マクロ経済]]や構造改革を一旦中止していることからも読み取れる。[[共産貴族|官僚]]の手の中にある状態は依然として官僚の経済に対する影響が大きいことを示している。汚職が社会に浸透しているだけでなく、さらに多くの汚職が行われるようになっている。2005年度におけるウズベキスタンの[[腐敗認識指数]]は159カ国中137位であり、2007年時点の調査では179カ国中175位であった。2006年2月における[[国際危機グループ]]による報告によると、核となる輸出品、特に綿花、金、トウモロコシ、天然ガスから得られた収入はエリート支配層の少数の間にのみ還元され、人口の大多数には少量、もしくはまったく還元されない状況にあるとされている<ref>Gary Thomas [http://web.archive.org/web/20090825223014/http://www.voanews.com/english/archive/2006-02/New-Report-Paints-Grim-Picture-of-Uzbekistan.cfm?CFID=281017252&CFTOKEN=40626492&jsessionid=00308b85b39c112dba1e6241221e37211353 New Report Paints Grim Picture of Uzbekistan]. Voice of America. 16 February 2006</ref>。
 
[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]によると、「政府は国の手でコントロールできないような独立した民間企業の発展を敵視している。」<ref>{{cite web|url=http://www.eurasiacenter.org/Country%20reports/Central%20Asia/Uzbekistan%20Economic%20Highlights.doc |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110511170759/http://www.eurasiacenter.org/Country%20reports/Central%20Asia/Uzbekistan%20Economic%20Highlights.doc |archivedate=2011-05-11 |title=Uzbekistan: Economic Overview|work=eurasiacenter.org |accessdate=2013-06-13}}</ref>。従って、[[中産階級]]は経済的、そして結果的には政治的に低い地位にある。
 
経済政策は外国企業による投資に反発する姿勢を見せており、CIS諸国において最も国民一人あたりの外国企業による投資額が低い<ref>[http://www.state.gov/e/eb/rls/othr/ics/2011/157382.htm 2011 Investment Climate Statement – Uzbekistan]. US Department of State, March 2011</ref>。長年に渡り、ウズベキスタン市場に投資を行う外国企業に対する最大の障壁は通貨交換の困難さであった。2003年、政府は完全に通貨兌換性を保証するという[[国際通貨基金]](IMF)の第8条の義務を承認した<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/np/sec/pr/2003/pr03188.htm |title=Press Release: The Republic of Uzbekistan Accepts Article VIII Obligations |publisher=Imf.org |accessdate=2013-06-13}}</ref>。しかし、国内で使用する通貨に対する厳しい制限や通貨交換の量に制限がかけられていることから、外国企業による投資の効果は減少していると考えられている。
 
ウズベキスタンは独立後の1992年から1994年にかけて、年間1000%もの急激な[[インフレーション|インフレ]]を体験している。IMFの助けを借りた経済安定化の努力が行われ<ref>[http://mfa.uz/eng/inter_cooper/econ_org/Inter_MF/ Uzbekistan's Ministry of Foreign Affairs on IMF's role in economic stabilisation]. Retrieved on June 22, 2009</ref>、インフレ率は1997年に50%に減少、さらに2002年には22%にまで減少した。2003年以降、年間インフレ率は平均10%未満となっている<ref name=imf/>。2004年の緊縮財政政策は結果としてインフレ率の大幅な減少につながり、インフレ率は3.8%に減少した(しかし、代わりに{{仮リンク|マーケットバスケット方式|en|market basket}}による価格の上昇は約15%と概算されている<ref>{{cite web|url=http://www.adb.org/sites/default/files/ADO/2005/ado2005-part2-ca.pdf |title=Asian Development Outlook 2005- Uzbekistan |publisher=ADB.org |date=January 1, 2005-01-01 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。)インフレ率は2006年には6.9%に、2007年には7.6%に上昇したが、ひと桁台の数字を維持し続けている<ref>{{cite web|url=http://www.indexmundi.com/uzbekistan/inflation_rate_(consumer_prices).html |title=Uzbekistan CPI 2003–2007 |publisher=Indexmundi.com |date=2010-02-19 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
 
ウズベキスタン政府は高い[[関税]]を含む様々な方法で外国製品の輸入を制限している。地方の生産品を保護するため、非常に高い税金が課せられている。公式、非公式の関税が相まって、商品の実際の値段の1~1.5倍に相当する税金がかかることで、輸入品は仮想的に値段に見合わない高い商品となっている<ref>[http://web.archive.org/web/20080815015618/http://www.ustr.gov/assets/Document_Library/Reports_Publications/2004/2004_National_Trade_Estimate/2004_NTE_Report/asset_upload_file327_4803.pdf Uzbekistan]. NTE 2004 FINAL 3.30.04</ref>。輸入代替は公式に宣言されている政策であり、ウズベキスタン政府は輸入品目におけるこのファクターが減少していることに誇りを持って経済報告を行なっている。CIS諸国はウズベキスタンの関税を公式に免除されている。
 
{{仮リンク|タシュケント証券取引所|en|Tashkent Stock Exchange}}(共和国証券取引所、RSE)は1994年に取引を開始した。約1250のウズベキスタンの[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[株式]]や[[債券]]がRSEで取引されている。2013年1月時点において上場している企業の数は110に増加した。証券市場の発行済株式総数は2012年に2兆に達しており、証券取引所を通した取引に興味を持つ企業が増えていることからこの数字は急速に増大している。2013年1月時点における発行済株式総数は9兆を突破した。
 
ウズベキスタンの対外的地位は2003年以降次第に強くなっている。金や綿花(ウズベキスタンの主要輸出製品である)の世界市場価格の回復、天然ガスやその他生産品の輸出量の増加、労働力移入人数の増加という様々な要因により、現在の収支は大幅な黒字に転じ(2003年~2005年の間ではGDPの9~11%)、金を含む外貨準備高は約30億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]と2倍以上にまで増加している。
 
2010年時点の外貨準備高は約130億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]である<ref>{{cite web|url=http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/EXTRUSSIANHOME/EXTRUSSIANCOUNTRIES/ECAINRUSSIANEXT/EXTUZBEKISTANINRUS/0,,contentMDK:20546336~menuPK:1151287~pagePK:1497618~piPK:217854~theSitePK:1151265,00.html#contact|publisher=The world bank|language=ロシア語|title=Uzbekistan|accessdate=2013-06-13}}</ref>。
 
世界規模の銀行、HSBCの調査によると、ウズベキスタンは次の10年間で世界でも有数の成長速度の速い国家(トップ26)になると予測されている<ref>{{cite web|url=http://www.exhibitionpilot.com/sites/default/files/pdf/The%20World%20in%202050%20Top%2030%20to%20100.pdf|publisher=HSBC|title=the World in 2050|accessdate=2013-06-13}}</ref>。
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2011年]]の[[GDP]]は453億ドルであり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=63&pr.y=11&sy=2010&ey=2017&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=927&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMF]</ref>、[[日本]]の[[香川県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>[http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 内閣府による県民経済計算]</ref>。一人当たりのGDPは1,572ドルであり、世界平均の20%に満たない水準である。[[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困層]]は1248万人と推定されており、国民の40%以上を占めている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update]</ref>。近年は豊富な[[天然ガス]]関連の投資を多く受け入れており、比較的好調な経済成長を遂げている。通貨は[[スム]]。
 
=== 農業 ===
161 ⟶ 294行目:
シルクロードの中心地や、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]の宝庫として、青の街[[サマルカンド]]や茶色の町[[ブハラ]]、[[ヒヴァ]]、[[シャフリサブス]]、[[仏教]]文化の[[テルメズ]]などが世界的に有名。[[ソビエト連邦|ソ連]]からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの[[観光]]客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。これを受けて政府による観光客誘致が盛んに行われていることから、タシケントは海外の[[ホテル]]チェーンの大規模ホテルが多く運営されている。
 
== 交通 人口==
{{Main|ウズベキスタンの人口統計}}
[[ファイル:Tashkent Airport Wallner.jpg|thumb|[[タシュケント国際空港]]]]
{{main[[File:Termez, stallholders.JPG|thumb|250px|ウズベキスタンの交通}}女性]]
===[[File:Uzbek man from central Uzbekistan.jpg|thumb|250px|ウズベキスタン航空 ===の老人]]
 
[[ウズベキスタン航空]]が[[タシュケント国際空港]]と[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]の主要都市間を結んでおり、[[日本]]にも[[成田国際空港]]に週2便定期便を運航している。しかし、運休も多く、スケジュール通りに動くか当日にならないと判明しない事もあり、また、マイレージも独自のフライトのみでしか加算できないため、マニアックな人好みの航空会社となっている。
タシケント国際空港にはアジアやヨーロッパから各国の[[航空会社]]が乗り入れており、[[ソ連]]時代より中央アジアにおける[[ハブ空港]]的な存在となっている。
ウズベキスタン航空は、日本からウズベキスタンへの旅客輸送ではなく、[[イスタンブル]]や[[テルアビブ]]など、タシュケント以遠の都市への旅客輸送が、殆どである為、国会でも問題視されたが、法律で禁止されている事ではない。
 
=== 国内 ===
国内の移動にはウズベキスタン航空の国内線の他、[[バス (交通機関)|バス]]や[[鉄道]]も国土の広い範囲をカバーしている。なお鉄道はその多くが旧ソ連時代に建設されたものであり、老朽化が進んだ他、各地方を結ぶ基幹路線のいくつかは近隣国を経由しており、これを解消するために日本政府が[[円借款]]を行い、鉄道旅客輸送力の増強および近代化事業を進めている。近年、[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]も運行している。
 
== 国民 ==
{{main|ウズベキスタンの人口統計}}
{{bar box
|title=民族構成
186 ⟶ 310行目:
{{bar percent|その他|green|6}}
}}
ウズベキスタンは[[中央アジア]]で最も人口の多い国であり、[[2001年]]時点の人口は2515万人であった。2012年時点の人口29,559,100人<ref name="Stat2012">{{Cite web|url=http://www.stat.uz/press/1/3399/ |title=Official population estimation 2012-01-01|publisher=Stat.uz|date=2012-01-23|accessdate=2013-06-13}}</ref>は中央アジア全体の人口の約半数に相当する。
[[2001年]]に2515万人。[[ウズベク|ウズベク人]]が80%を占め、5.5%の[[ロシア人]]のほか、[[タジク人]](5%)、[[カザフ人]](3%)、[[カラカルパク人]](2.5%)などの多くの[[少数民族]]が住む。その他、ソ連時代に[[沿海州]]から強制移住させられた[[朝鮮民族]]が約20万人ほど在住しており、「[[高麗人]]」と自称している他、[[ヴォルガ・ドイツ人|ドイツ人]]や[[アルメニア人]]などもいる。ソ連時代に、ウズベク語を話すことのできるタジク人はウズベク人と分類されたため、タジク人は実際には相当数いるものとされる。実際には、人口の20~30%を占めているという調査もある。ソ連時代にはロシア人の割合は12.5%(1970年)を占め、タシュケントの人口の半数近くがロシア人・ウクライナ人であったが、現在はウズベク民族主義や経済的な理由により急減している。
 
ウズベキスタンの平均年齢は低く、全人口の約34.1%は14歳以下である(2008年の統計)<ref name=cia1>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uz.html |title=CIA&nbsp;– The World Factbook |publisher=Cia.gov |accessdate=2013-06-13}}</ref>。人口統計によると、主要民族の[[ウズベク人]]が全人口の80%を占める。その他、5.5%の[[ロシア人]]のほか、[[タジク人]](5%)、[[カザフ人]](3%)、[[カラカルパク人]](2.5%)、[[タタール人]](1.5%)など多くの[[少数民族]]が住む(1996年の統計)<ref name=cia1/>。ソ連時代に、ウズベク語を話すことのできるタジク人はウズベク人と分類されたため、タジク人は実際には相当数いるものとされる。実際には、人口の20~30%を占めているという調査もある。ソ連時代にはロシア人の割合は12.5%(1970年)を占め、タシュケントの人口の半数近くがロシア人・ウクライナ人であったが、現在はウズベク民族主義や経済的な理由により急減している。
 
タジク人の割合に関しては解釈の相違が見られる。ウズベキスタン政府による公式の数字は5%であるが、この数字は過小評価された数字であるとされており、西洋の学者にはタジク人の割合を20%~30%であると見積もる者もいる<ref name="cornellcaspian.com">{{cite journal|doi=10.1080/09662830008407454|url=http://www.cornellcaspian.com/pub/0010uzbekistan.htm|archiveurl=http://web.archive.org/web/20090505153156/http://www.cornellcaspian.com/pub/0010uzbekistan.htm|archivedate=2009-05-05|title=Uzbekistan: A Regional Player in Eurasian Geopolitics?|year=2000|last1=Cornell|first1=Svante E.|journal=European Security|volume=9|issue=2|page=115}}</ref><ref name=Foltz>{{cite journal|author=Richard Foltz|title=The Tajiks of Uzbekistan|journal=Central Asian Survey|volume= 15|issue=2|pages= 213–216 |year=1996|doi=10.1080/02634939608400946}}</ref><ref name="Karl Cordell 1999. pg 201">Karl Cordell, "Ethnicity and Democratisation in the New Europe", Routledge, 1998. p. 201: "Consequently, the number of citizens who regard themselves as Tajiks is difficult to determine. Tajikis within and outside of the republic, Samarkand State University (SamGU) academic and international commentators suggest that there may be between six and seven million Tajiks in Uzbekistan, constituting 30% of the republic's 22 million population, rather than the official figure of 4.7%(Foltz 1996;213; Carlisle 1995:88).</ref><ref name="Lena Jonson 2006. pg 108">Lena Jonson (1976) "Tajikistan in the New Central Asia", I.B.Tauris, p. 108: "According to official Uzbek statistics there are slightly over 1 million Tajiks in Uzbekistan or about 3% of the population. The unofficial figure is over 6 million Tajiks. They are concentrated in the Sukhandarya, Samarqand and Bukhara regions."</ref>。公式の統計でウズベク人とされている者の中には中央アジアのトルコ・ペルシア人であった[[サルト人]]のような他の民族も含まれている。[[オックスフォード大学]]による近年の[[遺伝子系図]]テストを用いた研究によると、ウズベク人には[[モンゴル人]]と[[イラン人]]の遺伝子混合が見られる<ref>{{cite journal |doi=10.1086/342096 |author=Tatjana Zerjal |title=A Genetic Landscape Reshaped by Recent Events: Y-Chromosomal Insights into Central Asia |journal=The American Journal of Human Genetics |year=2002 |volume=71 |issue=3 |pages=466–482 |pmid=12145751 |pmc=419996 |last2=Wells |first2=R. Spencer |last3=Yuldasheva |first3=Nadira |last4=Ruzibakiev |first4=Ruslan |last5=Tyler-Smith |first5=Chris}}</ref>。
 
ウズベキスタンの少数民族としては、1937年から1938年にかけて、[[ヨシフ・スターリン]]により[[極東ロシア|極東ソビエト]]の[[沿海州]]から中央アジア地域へと強制移住させられた[[朝鮮民族]]が約20万人ほど在住しており、「[[高麗人]]」と自称している。また、[[ドイツ]]系の[[ヴォルガ・ドイツ人]]や[[アルメニア]]系のウズベキスタン人もタシュケントやサマルカンドなどの都市部に多い。全人口の約88%がムスリム(ほとんどが[[スンナ派]]であり、[[シーア派]]は5%となっている)であり、[[東方正教会]]信者が9%、その他が3%となっている。アメリカ国務省による2004年の報告によると、0.2%が[[仏教]](ほぼすべてが高麗人)を信仰している。[[ブハラ・ユダヤ人]]は1000年以上前に[[中央アジア]]へと移り住んできた[[ユダヤ人]]の民族集団であり、主にウズベキスタンに居住している。1989年時点では94,900人の[[ユダヤ人]]がウズベキスタン国内に住んでいた<ref name=Jews2001>[http://www.ajcarchives.org/AJC_DATA/Files/2001_13_WJP.pdf World Jewish Population 2001], ''American Jewish Yearbook'', vol. 101 (2001), p. 561.</ref>(全人口の約0.5%に相当)が、ソビエト連邦崩壊後ブハラ・ユダヤ人の多くは[[アメリカ合衆国]]、[[ドイツ]]、[[イスラエル]]といった他の国々へと出国、2007年時点で残っているブハラ・ユダヤ人の数は5,000人にも満たない<ref name=Jews2007>[http://www.ajcarchives.org/AJC_DATA/Files/AJYB727.CV.pdf World Jewish Population 2007], ''American Jewish Yearbook'', vol. 107 (2007), p. 592.</ref>。
 
{{仮リンク|ロシア系ウズベキスタン人|en|Russians in Uzbekistan}}は全人口の約5.5%を占める。ソビエト連邦時代にはロシア人と[[ウクライナ人]]が首都[[タシュケント]]の全人口の半数以上を占めていた<ref>Edward Allworth ''[http://books.google.com/books?id=X2XpddVB0l0C&pg=PA102 Central Asia, 130 years of Russian dominance: a historical overview]'' (1994). Duke University Press. p.102. ISBN 0-8223-1521-1</ref>。1970年の調査結果によると、全人口の12.5%に当たる約150万人のロシア人が国内に住んでいた<ref>"[http://www.wilsoncenter.org/sites/default/files/OP297.pdf The Russian Minority in Central Asia: Migration, Politics, and Language]" (PDF). Woodrow Wilson International Center for Scholars.</ref>。ソビエト連邦崩壊後、ロシア系の人々は主に経済的な理由からその多くが他国へと移住していった<ref>[http://www.turkishweekly.net/news/874/the-russians-are-still-leaving-uzbekistan-for-kazakhstan-now.html The Russians are Still Leaving Uzbekistan For Kazakhstan Now]. Journal of Turkish Weekly. December 16, 2004.</ref>。
 
1940年代、[[クリミア・タタール人]]は[[ドイツ人]]、[[チェチェン人]]、[[ギリシア人]]、[[トルコ人]]、[[クルド人]]、その他の民族とともに中央アジアへと強制移住させられた<ref>[http://www.faqs.org/minorities/USSR/Deported-Nationalities.html Deported Nationalities]. World Directory of Minorities.</ref>。約10万人のクリミア・タタール人が現在もウズベキスタン国内に居住している<ref>[http://www.jamestown.org/single/?no_cache=1&tx_ttnews%5Btt_news%5D=35167&tx_ttnews%5BbackPid%5D=7&cHash=0c1663d799 Crimean Tatars Divide Ukraine and Russia]. The Jamestown Foundation. June 24, 2009.</ref>。タシュケントにおける{{仮リンク|ギリシア系ウズベキスタン人|en|Greeks in Uzbekistan}}の数は1974年の35,000人から2004年には12,000人にまで減少している<ref>[http://www.independent.co.uk/news/world/europe/greece-overcomes-its-ancient-history-finally-552207.html Greece overcomes its ancient history, finally]. The Independent. July 6, 2004.</ref>。[[メスヘティア・トルコ人]]の大多数は1989年6月に[[フェルガナ盆地]]で起きた[[ポグロム]]の後他国へと出国した<ref>[http://www.unhcr.org/refworld/topic,463af2212,488edfe22,49749c843c,0.html World Directory of Minorities and Indigenous Peoples&nbsp;– Uzbekistan : Meskhetian Turks]. Minority Rights Group International.</ref>。
 
少なくともウズベキスタンの労働者の10%が国外へと流出しており、そのほとんどがロシアや[[カザフスタン]]で働いている<ref>International Crisis Group, [http://web.archive.org/web/20091111025921/http://www.crisisgroup.org/home/index.cfm?id=5027&l=1 Uzbekistan: Stagnation and Uncertainty], Asia Briefing N°67, August 22, 2007</ref>。
 
ウズベキスタンの15歳以上の識字率は99.3%(2003年の統計)<ref name=cia1/>であり、これにはソビエト連邦時代の教育制度が大きく影響していると考えられている。
 
=== 著名人 ===
202 ⟶ 340行目:
 
== 宗教 ==
[[ファイル:Ulugbek Madrasa 2007.jpg|thumb|[[サマルカンド]]の[[ウルグ・ベク・マドラサ]]]]
{{main|ウズベキスタンの宗教}}
[[File:Ulugbek Madrasa 2007.jpg|thumb|250px|[[サマルカンド]]の[[ウルグ・ベク・マドラサ]]]]
ウズベク人を初め多くの民族が[[イスラム教]]を信仰する。衣食に関する戒律は緩やかである。基本的に女性は頭髪や足首を隠さない。
 
2009年の[[アメリカ国務省]]による調査によると、[[イスラム教]]はウズベキスタンの主要宗教であり、人口の約90%が[[ムスリム]]である。また、5%が[[ロシア正教会]]を信仰しており、その他が5%となっている<ref>{{cite web|url=http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/2924.htm |title=Uzbekistan |publisher=State.gov |date=2010-08-19 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。しかし、[[ピュー研究所]]による2009年の調査結果によると、ウズベキスタンの全人口の約96.3%がムスリムとなっている<ref>[http://pewforum.org/uploadedfiles/Topics/Demographics/Muslimpopulation.pdf Mapping the Global Muslim Population. A Report on the Size and Distribution of the World’s Muslim Population]. Pew Forum on Religion & Public Life (October 2009)</ref>。また、約93,000人の[[ユダヤ教]]信者が存在しているとされている。
 
国内のイスラム教信者の割合は高いものの、[[イスラム教]]の実践は一枚岩からは程遠い。信仰については、20世紀を通して[[改革]]や{{仮リンク|世俗化|en|secularization}}、イスラム教の伝統との衝突を通して[[中央アジア]]で様々な方法が実践されているが、このような混乱した状況が世界へと発信され、定着することとなった。ソビエト連邦の崩壊により多くの人が予想したような[[イスラム原理主義]]の台頭を招くことはなく、衣食に関する戒律は緩やかであり、基本的に女性は頭髪や足首を隠さない。
しかし、[[ブハラ]]などイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対して良く思わない傾向があり、多くの女性は[[スカート]]を履いている。
 
信教の自由の権利を保証しているものの、ウズベキスタンは国によって認可されないあらゆる宗教活動を禁じている。
 
== 言語 ==
220 ⟶ 362行目:
{{bar percent|その他|black|7.1}}
}}
[[File:Adib-i sani.jpg|thumb|150px|right|[[ナスタアリーク体]]で書かれた[[ウズベク語]]の出版物、1911年]]
 
[[言語]]は公用語の[[ウズベク語]]が74.3%となっているが、国民の14.2%の母語は[[ロシア語]]であり、[[第二言語]]として約半数(2003年)の国民がロシア語を話している。しかし、独立以降、ウズベク語使用を推奨してきたため、公用語から外れたロシア語の重要度は低下した。特に、地方農村部ではロシア語はあまり使用されず、若年層ではロシア語が話せない人も多くなっている。しかし、[[ロシア語]]は異民族間でコミュニケーションを取る際に重要がら言語であり特に都市部では主にこの傾向が強い。また、ビジネス・学術などの分野ではウズベク語よりもロシア語使用が必須とさておりることも多く、ほとんどの大学教育においてはロシア語が教授言語となっている。ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が[[第一言語]]として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を第二言語として使用している。地方ではロシア語の使用は制限されており、今日多くの学校の子供達は都市中心部ですらロシア語に熟達することはない。しかし、2003年の報告によると、人口の半数以上がロシア語を話すもしくは理解することができ、ロシアとウズベキスタンの密接な外交関係が生まれたことにより、政府によるロシア語使用を非推奨とする運動は急速にしぼみつつある<ref>{{cite web |url=http://www.eurasianet.org/departments/insight/articles/eav091906.shtml |title=Uzbekistan's Russian-Language Conundrum |publisher=Eurasianet.org |date=2006-09-19 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。また、初等教育から教授言語はウズベク語とロシア語に分かれており、大学進学やビジネス面において有利になるためウズベク人であっても教授言語にロシア語を選択する者も多い。
 
ウズベク語はウズベキスタン国内で唯一[[公用語]]とされている[[言語]]であり<ref>{{cite web |url=http://www.pravo.uz/english/resources/doc/constitution.php3 |title=Constitution of the Republic of Uzbekistan |publisher=pravo.uz |date=1992-12-08 |accessdate=2013-06-13}}</ref>、1992年以降[[ラテン文字]]による記述が導入されている。[[サマルカンド]]や[[ブハラ]]、[[シャフリサブス]]、[[キタブ]]などのウズベキスタン南部地域、[[ナマンガン]]、[[コーカンド]]、[[フェルガナ]]、[[カサン]]、{{仮リンク|カニバダム|en|Kanibadam}}など一部[[フェルガナ盆地]]地域、[[アハンガラン]]、{{仮リンク|バギスタン|en|Baghistan}}などの[[シルダリヤ川]]沿岸地域では[[タジク語]]が広範囲にわたって話されている<ref name="Foltz"/>が、学校教育でのタジク語教育は禁止されており、家庭内や地域内コミュニティーで話される言語に過ぎない。そのため、タジク語話者はほとんどがウズベク語話者でもあるために統計上では[[タジク語]]の割合は4.4%と低くなっている。しかし、全人口の20%~30%前後がタジク人とされるために、タジク語話者も同程度いるものと推測される<ref>Richard Foltz, "The Tajiks of Uzbekistan", Central Asian Survey, 213-216 (1996).</ref>。
 
1920年代以前、ウズベク人が筆記に使用していた言語は[[テュルク諸語|テュルキ]](西洋の学者には[[チャガタイ語]]として知られていた)であり、 [[アラビア文字]]の筆記体である[[ナスタアリーク体]]を使用して書かれていた。1926年、新たに[[ラテン文字|ラテンアルファベット]]が導入され、1930年代を通していくつかの文字改正を経た。1940年には再び文字改訂が行われ、[[ソビエト連邦]]政府により[[キリル文字]]の導入が行われた。キリル文字の使用はソビエト連邦の崩壊まで続いたが、1993年ウズベキスタンは再度ラテン文字を正書法として制定、1996年に法制化が行われ2005年以降は学校で教える際にラテン文字を使用した指導を行うようになった<ref>{{cite book |title=The New Woman in Uzbekistan: Islam, Modernity, and Unveiling Under Communism |last=Kamp |first=Marianne |authorlink= |coauthors= |year=2008 |publisher=University of Washington Press |location= |isbn=0-295-98819-3 |page= |pages= |url=http://books.google.com/books?id=XYZVvJSdLBkC&pg=PP14 |accessdate=}}</ref>。しかしながら、公式の出版物などではラテン文字を使用されることが多いものの、依然としてキリル文字を使用した看板が多く見受けられるなどキリル文字の使用は広く行われている。
 
その他、[[ブハラ語]]、[[カラカルパク語]]、[[カザフ語]]、[[キルギス語]]、[[クリミア・タタール語]]、[[高麗語|コリョマル]]なども話されている多言語国家である。
 
== 交通 ==
1992年、[[ウズベク語]]は1940年以前に使われていた[[ラテン文字]]表記に戻されたが、今でも[[キリル文字]]も盛んに使われている。
{{main|ウズベキスタンの交通}}
[[File:Tashkent Airport Wallner.jpg|thumb|250px|[[タシュケント国際空港]]]]
[[File:Samarkand-01.JPG|right|thumb|250px|[[タシュケント駅]]]]
[[File:Hi-speed trains Afrosiyab (Uzbekistan).JPG|thumb|right|250px|[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]]]
=== ウズベキスタン航空 ===
[[ウズベキスタン航空]]が[[タシュケント国際空港]]と[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]の主要都市間を結んでおり、[[日本]]にも[[成田国際空港]]に週2便定期便を運航している。しかし、運休も多く、スケジュール通りに動くか当日にならないと判明しない事もあり、また、マイレージも独自のフライトのみでしか加算できないため、マニアックな人好みの航空会社となっている。
タシケント国際空港にはアジアやヨーロッパから各国の[[航空会社]]が乗り入れており、[[ソ連]]時代より中央アジアにおける[[ハブ空港]]的な存在となっている。
ウズベキスタン航空は、日本からウズベキスタンへの旅客輸送ではなく、[[イスタンブル]]や[[テルアビブ]]など、タシュケント以遠の都市への旅客輸送が、殆どである為、国会でも問題視されたが、法律で禁止されている事ではない。
 
=== 国内 ===
国内の移動にはウズベキスタン航空の国内線の他、[[バス (交通機関)|バス]]や[[鉄道]]も国土の広い範囲をカバーしている。なお鉄道はその多くが旧ソ連時代に建設されたものであり、老朽化が進んだ他、各地方を結ぶ基幹路線のいくつかは近隣国を経由しており、これを解消するために日本政府が[[円借款]]を行い、鉄道旅客輸送力の増強および近代化事業を進めている。近年、[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]も運行している。
 
ウズベキスタンの首都であり国内最大の都市である[[タシュケント]]には1977年に[[タシュケント地下鉄|地下鉄]]が整備され、[[ソビエト連邦]]から独立後10周年に当たる2001年には地下鉄が3線にまで増加した。 ウズベキスタンは中央アジアで最も早く[[地下鉄]]が整備された国であり、2013年時点で地下鉄が存在する中央アジアの都市は[[カザフスタン]]の[[アルマトイ地下鉄|アルマトイ]]とタシュケントの2つのみである<ref>[http://www.tashkent.org/uzland/subway.html Tashkent Subway for Quick Travel to Hotels, Resorts, and Around the City]</ref>。駅にはそれぞれ統一されたテーマが設けられており、そのテーマに沿った内装が施されている。例えば、1984年に建設された[[ウズベキスタン線]]の「コスモナフトラル駅」は[[宇宙旅行]]がテーマとなっており、駅構内はウズベキスタン国内出身のソビエト連邦の[[宇宙飛行士]]、[[ウラジーミル・ジャニベコフ]]の業績を含めた人類の宇宙探査の様子が描かれており、ウラジーミル・ジャニベコフの銅像が駅入口付近に建設されている。
 
タシュケントには市営の[[トラム]]や[[バス]]が運行されている他、登録承認済み、非承認にかかわらず多くの[[タクシー]]が走行している。ウズベキスタンには現代的な[[自動車]]を生産する自動車工場がある。ウズベキスタン政府と[[大韓民国|韓国]]の[[自動車]]企業、[[韓国GM]](旧称:大宇自動車)により設立された[[GMウズベキスタン|ウズデウオート]](現在はGM傘下に入りGMウズベキスタンと改称している)が国内の[[アサカ (ウズベキスタン)|アサカ]]で大規模な自動車生産を行なっている<ref>{{cite web|url=http://www.uzdaily.com/articles-id-220.htm#sthash.jOWCjEoH.dpbs |title=Uzbekistan, General Motors sign strategic deal |publisher=Uzdaily.com |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。政府はトルコの[[コチ財閥|コチュ財閥]]による投資を受けて[[サムアフト|サムコチュアフト]]を設立、小型バスやトラックの生産を開始した。その後、[[日本]]の[[いすゞ自動車]]といすゞのバスやトラックを生産することで合意している<ref>[http://www.uzdaily.com/?c=118&a=1242 SamAuto supplies 100 buses to Samarkand firms], UZDaily.com. [http://www.uzdaily.com/?c=118&a=1336 Japanese firm buys 8% shares in SamAuto], UZDaily.com.</ref>。
 
鉄道はウズベキスタン国内の多くの街を結ぶと共に、[[キルギス]]や[[カザフスタン]]など旧ソ連領域内にあった中央アジアの隣国へも運行されている。更に、独立後2種類の[[高速鉄道]]が導入された。2011年9月には[[タシュケント]]と[[サマルカンド]]を結ぶ[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]の運行が開始された。この高速鉄道の車輌には[[スペイン]]の鉄道会社[[タルゴ]]により制作された[[レンフェ130系|タルゴ250]]が使用されており、「アフラシャブ号(Afrosiyob)」と呼ばれている<ref>{{cite web |url=http://www.people-travels.com/tours-to-uzbekistan/ |title=Train systems in Uzbekistan Tourism |accessdate=2013-06-13}}</ref>。初の運行は2011年8月26日に開始された<ref>[http://www.uzdaily.com/articles-id-15511.htm First high-speed electricity train carries out first trip from Samarkand and Tashkent, 27 August 2011]. Uzdaily (2011-08-27). Retrieved on 2012-02-19.</ref>。
 
ウズベキスタンにはソビエト連邦時代にタシュケント・チカロフ航空生産工場({{lang-ru|ТАПОиЧ}})と呼ばれた{{仮リンク|タシュケント航空生産協会|en|Tashkent Aviation Production Association}}という大規模[[航空機]]生産工場がある。この工場は[[第二次世界大戦]]時に建設され、当時の生産施設はソビエト連邦と敵対していた[[ナチス・ドイツ]]の軍隊による接収を避けるためソビエト連邦南東部に当たる中央アジアへと疎開してきたものであった。1980年代後半まで、工場はソビエト連邦国内において航空機生産をリードする工場の1つであったが、ソビエト連邦崩壊とともに生産設備は老朽化、多くの労働者が解雇された。現在は年間数台の航空機を生産するのみとなっているが、ロシアの企業による関心により生産能力強化計画があるとも報じられている。
 
==軍事==
{{Main|ウズベキスタン軍}}
[[File:Ukbekistani troops.jpg|thumb|right|250px|共同作業訓練を行うウズベキスタン軍兵士]]
 
ウズベキスタン軍は約65,000人の兵士を擁し、[[中央アジア]]最大規模の軍隊を持つ。軍事機構はその大部分を[[ソビエト連邦軍]][[トルキスタン軍管区]]部隊から受け継いでいるが、主に軽歩兵部隊や特殊部隊において改革を実行中である。ウズベキスタン軍の装備は現代的なものであるとはいえず、訓練の練度が統一されているとはいえず、領土の保全ミッションなどの作業に適しているとはいえない。
 
政府は旧ソ連の軍備管理義務を継承し、非核保有国として[[核拡散防止条約]]に加盟、ウズベキスタン西部の[[ヌクス]]と[[ヴォズロジデニヤ島]]において、[[アメリカ国防脅威削減局]](DTRA)による行動プログラムをサポートしている。ウズベキスタン政府はGDPの約3.7%を軍事費に当てているが、1998年以降は[[アメリカ合衆国]]の{{仮リンク|対外軍事融資|en|United States Foreign Military Financing}} (FMF)やその他の安全保障支援基金から融資を受けている。
 
[[2001年]][[9月11日]]に[[ニューヨーク]]で起きた[[アメリカ同時多発テロ事件]]に続いて、ウズベキスタンは[[アメリカ中央軍]]がウズベキスタン南部にある[[カルシ・ハナバード空軍基地]]への駐留を承認した。しかし、2005年の[[アンディジャン事件]]後、アメリカ合衆国が事件に対するウズベキスタン政府の対応を非難すると政府は態度を硬化させ、アメリカ合衆国軍にカルシ・ハナバード空軍基地から撤退するよう要求、2005年11月にアメリカ合衆国軍はウズベキスタン国内から撤退した。
 
2006年6月23日、ウズベキスタンは[[集団安全保障条約]](CSTO)の正式なメンバーとなったが、 2012年6月にはCSTOから脱退している<ref>{{cite web |url=http://rt.com/politics/uzbekistan-quits-pro-russian-bloc-996/ |title=Uzbekistan quits Russia-led CSTO military bloc |date=2012-06-28|accessdate=2013-06-13}}</ref>。
 
== 文化 ==
[[ファイル:Termez, stallholders.JPG|thumb|300px|ウズベキスタンの女性]]
{{Main|ウズベキスタンの文化}}
[[File:Gorskii 03978u.jpg|thumb|right|250px|[[サマルカンド]]の[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]]]
<!-- 本文 -->
[[File:Taschkent-42.JPG|thumb|250px|ウズベキスタンの伝統工芸品]]
[[File:Navoi Theater - Tashkent.jpg|thumb|250px|[[タシュケント]]の[[ナヴォイ劇場]]]]
 
ウズベキスタンは様々な民族によって構成されている[[多民族国家]]であり、国内の主要民族は[[ウズベク人]]である。1995年時点では総人口の約71%がウズベク人であった。主な少数民族としては、[[ロシア人]](8%)、[[タジク人]](5~30%)<ref name="cornellcaspian.com"/><ref name="Foltz"/><ref name="Karl Cordell 1999. pg 201"/><ref>Lena Jonson, "Tajikistan in the New Central Asia", Published by I.B.Tauris, 2006. p. 108: "According to official Uzbek statistics there are slightly over 1 million Tajiks in Uzbekistan or about 4% of the population. The unofficial figure is over 6 million Tajiks. They are concentrated in the Sukhandarya, Samarqand and Bukhara regions."</ref>、[[カザフ人]](4%)、[[タタール人]](2.5%)、[[カラカルパク人]](2%)などがいる。しかし、ロシア人やその他の少数民族が他国へと移住し、[[ソビエト連邦]]時代に他国に居住していたウズベク人がウズベキスタンに帰国していることから、ウズベキスタン国内に住むウズベク人以外の民族の割合は減少傾向にあるとされている。
 
1991年にウズベキスタンが独立した際、[[イスラム原理主義]]に対する懸念が中央アジア地域に広まった。これは信仰実践の自由を長く否定してきた国において、支配的な宗教であったイスラム教信者が急激に増加するであろうという予想に基づくものであった。1994時点では、ウズベキスタンの人口の半数以上が自分が[[ムスリム]]であると答えている一方で、信仰における知識やその実践方法に関しては持ち合わせている割合は極めて低かった。しかし、国内ではその後イスラム教信者の割合の上昇が見られる。
 
ウズベキスタンは高い[[識字率]]を誇り、15歳以上の識字率は約99.3%である。しかし、15歳以下の識字率は76%にまで落ち込み、3~6歳の識字率は20%となっている。この大きな要因として、ウズベキスタンの教育方法が挙げられており、未来には識字率が下がっていくと予測されている。学生は月曜日から土曜日まで年間を通して学校に通い、[[中学校]]までが義務教育となっている。中学校卒業後、学生は職業専門学校もしくは通常の[[高等学校|高校]]へと進学することが多い。ウズベキスタンには2つのインターナショナルスクールがあり、2つともタシュケントにある。ブリティッシュ・スクールは小学生の、タシュケント・インターナショナルスクールは12歳以上の学生に対する指導を行なっている。
 
ウズベキスタンは教育プログラムを推進する際深刻な予算不足に陥っている。1992年に制定された教育法に沿って教育カリキュラムの改定作業が実行されたが、教育現場の教材などの不足が発生、カリキュラムの改定作業は遅々として進んでいない。この現象の大きな要因として、教師に対する賃金の低さ、政府による学校や教材などのインフラ整備予算の不足が挙げられている。これにはラテン文字へと文字表記を変更したことにより、キリル文字で記されていた過去の教材や資料が使用できなくなったことも関係している。また、教育システムが崩壊したことで、裕福な家庭が自身の子供を出席や入学試験なしに高いレベルの学校に入れてもらうため教師や学校関係者に賄賂を送る事態も横行している<ref>[http://chalkboard.tol.org/uzbekistan-lessons-in-graft Uzbekistan: Lessons in Graft | Chalkboard]</ref>。
 
ウズベキスタンの大学は毎年約60万人の卒業生を輩出しているが、大学卒業生の一般的な水準や高等教育機関内の全体的な教育レベルはそれほど高くない。ウェストミンスター国際大学タシュケント校は英語による講義が設けられた国内初の大学である。
 
===音楽===
{{main|ウズベキスタンの音楽}}
[[File:Samarkand A group of musicians playing for a bacha dancing boy.jpg|thumb|250px|[[サマルカンド]]の踊り「Bacha」、1905年~1915年]]
[[File:Sevara Nazarkhan Realworld Party 2006.jpg|thumb|250px|[[セヴァラ・ナザルハン]]]]
[[File:Boukhara 4696a.jpg|thumb|250px|[[ブハラ]]のシルク・アンド・スパイス・フェスティバル]]
 
中央アジアの伝統音楽の形式の1つに[[シャシュマカーム]]があり、これは当時文化の発信地であった[[ブハラ]]で16世紀後半に生まれたものである。シャシュマカームは[[アゼルバイジャン]]の{{仮リンク|ムガーム|en|Mugham}}や[[ウイグル]]の{{仮リンク|ムカーム|en|Muqam}}と非常に密接な関係にある。シャシュマカームという名前は「6つのマカーム」を意味し、[[イラン]]の伝統音楽と同じく、6つの異なる[[旋法]]が6つの節に組み込まれた音楽であることからその名がついた。[[スーフィー]]が語りだす間奏では音楽が中断され、低音で吟じはじめた後次第に高音になりクライマックスを過ぎると再び元の低音に戻ることが多い。
 
バズムや結婚式のような行事に出席する聴衆の間ではフォーク・ポップスタイルの音楽は人気がある。ウズベキスタンの伝統音楽は[[ポップミュージック]]の形式とは大幅に異なっている。多くの場合、男性同士の間で行われる朝夕の会合において、1人もしくは2人の音楽家の演奏を聞くことが多い。ウズベキスタンの伝統音楽として有名なものにシャシュマカームがある。裕福な家庭によるミュージシャンへの大規模な支援が行われており、パトロンとなる彼らはシャシュマカームの演奏などすべての代金を負担している。詩と音楽は互いを引き立たせ、いくつかの楽曲では、1つの曲に2言語が取り入れられていることもあった。1950年代には、[[フォーク・ミュージック]]は次第に人気がなくなり、ラジオで流す曲のジャンルとして禁止令を受けた。これらの曲は完全に排除・衰退したわけではなかったが、「封建音楽」として名称を変えることとなった。禁止令が出されていたものの、フォーク・ミュージックの演奏グループは独自の方法で音楽の演奏を続けており、個人の間で次第に広まっていった。
 
===教育===
{{main|ウズベキスタンの教育}}
[[File:wiut.jpg|thumb|right|250px|ウェストミンスター国際大学タシュケント校の建物]]
 
ウズベキスタン国内における15歳以上の[[識字率]]は約99%と高いものの、教育プログラムを推進する際に深刻な予算不足に陥っている。1992年に制定された教育法に沿って教育カリキュラムの改定作業が実行されたが、教育現場の教材などの不足が発生、カリキュラムの改定作業は遅々として進んでいない。
 
=== 祝祭日 ===
260 ⟶ 463行目:
* [[イード・アル=アドハー|犠牲祭]] Курбан-Хаит クルバン・ハイート
*: 暦の関係上、2006年のように年に2回制定されることがある。2006年は1月10日と12月31日。
 
===料理===
{{Main|ウズベキスタン料理}}
[[File:Plov.jpg|thumb|right|250px|ウズベキスタンの国民食、[[ピラフ|パラフ]]]]
 
ウズベキスタン料理は国内の[[農業]]に大きな影響を受けている。ウズベキスタンでは穀物の収穫高が多いことから、パンや麺はウズベキスタン料理において重要な地位を占めており、時に「ヌードル・リッチ(noodle rich、麺が豊富)」と形容されることがある。[[羊肉]]はウズベキスタン国内で[[ヒツジ]]の放牧が盛んであることから一般的に販売されている肉であり、様々なウズベキスタン料理に使用されている。
 
ウズベキスタンの国民食は[[ピラフ|パラフ]](オシュとも呼ぶ)であり、[[米]]、[[肉]]、[[ニンジン]]や[[タマネギ]]などの野菜を使用して作るピラフに似た料理で、主菜として供される。オシ・ナハルは通常午前6時から9時までに提供される朝のパラフであり、結婚式などの慶事の際には集まった客の分まで大量に作られる。他に有名なウズベキスタン料理としては以下のようなものがある。[[シュルパ]](シュルヴァやシャルヴァとも呼ばれる)は脂肪の多い肉(通常[[羊肉]]を用いる)の大きな塊と新線な野菜から作る[[スープ]]である。{{仮リンク|ナリン (料理)|label=ナリン|en|Naryn (dish)}}や[[ラグマン]]は[[麺]]料理であり、スープとしても主菜としても出されることがある。[[マンティ]]や{{仮リンク|チュチュヴァラ|en|Chuchvara}}、[[サモサ|サムサ]]は小麦粉で作った生地に肉などの具を詰めた後、蒸す、焼く、揚げるなどした[[餃子]]に近い料理である。肉と野菜の[[シチュー]]に近い[[ディムラマ]]や様々な[[ケバブ|カバブ]]は通常主菜として供される。
 
[[緑茶]]は一日を通じ飲まれることが多いウズベキスタンの国民的な[[飲料]]である。緑茶を提供する[[喫茶店]](チャイハナ)は文化的にも重要な位置づけにある。他にも[[タシュケント]]付近では[[黒茶]]などの[[茶]]が出されることも多いが、緑茶や黒茶に[[牛乳]]や[[砂糖]]を入れて飲むようなことはしない。茶は必ず食事とともに提供されるが、[[ホスピタリティ]]の一環として、客を招いた際には必ず緑茶もしくは黒茶を出す習慣がある。冷たい[[ヨーグルト]]飲料である[[アイラン]]は夏季には人気があるものの、茶にかわる地位は獲得していない。
 
[[イスラム教]]信仰者が多いことも有り[[アルコール]]の摂取は西洋ほど進んでいないものの、ワインは比較的にムスリムの間で人気がある。ウズベキスタン国内には14のワイナリーがあり、国内最古かつ最も有名なワイナリーであるホフレンコ・ワイナリー(Khovrenko Winery)は[[サマルカンド]]で[[1927年]]に操業を開始した。サマルカンドのワイナリーではグリャカンダス(Gulyakandoz)、[[シリン (ウズベキスタン)|シリン]]、アレアティコ、カベルネ・リカノー(Kabernet likernoe)など、地方の[[ブドウ]]を使用した様々な種類の[[デザートワイン]]を生産している。 ウズベキスタンのワインはロシアをはじめとする[[独立国家共同体|CIS諸国]]に輸出されている他、国際的な賞も受賞している。
 
===スポーツ===
{{Main|ウズベキスタンのスポーツ}}
 
ウズベキスタンは自転車競技選手、[[ジャモリディネ・アブドヤパロフ]]の故郷である。アブドヤパロフは[[ツール・ド・フランス]]で三回の区間優勝を果たしており、いずれの回も[[マイヨ・ヴェール]]を勝ち取っている(マイヨ・ヴェールは個人総合成績1位を意味する[[マイヨ・ジョーヌ]]につぐ2番目を意味する)<ref>{{cite web |url=http://www.letour.fr/HISTO/us/TDF/coureur/4976.html |title=Le Tours archive |accessdate=2013-06-13}}</ref>。アブドヤパロフはツアーもしくは一日制のレースで先頭集団が一塊になってゴールに向かう際に優勝を勝ち取ることが多い。彼はしばしば最後の数kmで「スプリント」をかけるが、この際に川が[[蛇行]]するように左右に揺れながら走行を行うため、集団で走る他の競技者からは接触などの危険が高まり危険な選手であるとみなされていた。この走行スタイルから、彼には「タシュケントの虎」というニックネームがついている。
 
[[アルトゥール・タイマゾフ]]は2000年に開催された[[シドニーオリンピック]]でウズベキスタンに初の[[レスリング]]のメダルをもたらしたほか、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]、[[北京オリンピック]]、[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]と3大会に渡り男子120kg級で金メダルを獲得している。
 
[[ルスラン・チャガエフ]]はウズベキスタンを代表する[[WBA]]プロ[[ボクサー]]である。彼は2007年に{{仮リンク|ニコライ・ヴァルエフ|en|Nikolai Valuev}}を破ってWBAタイトルを奪取した、チャガエフは2009年に[[ウラジミール・クリチコ]]に敗れるまで2回王座防衛を果たした。
 
[[カヌー]]スプリント競技の{{仮リンク|ミカエル・コルガノフ|en|Michael Kolganov}}はK-1 500mにおいて世界王者になったことがあるほか、オリンピックで銅メダルを獲得している。[[体操競技]]の{{仮リンク|アレクサンデル・シャティロフ|en|Alexander Shatilov}}は[[ゆか]]で銅メダルを獲得している。
 
ウズベキスタンには{{仮リンク|国際クラッシュ協会|en|International Kurash Association}}の本部がある。[[クラッシュ]]はウズベキスタンの[[国技]]であり、現在スポーツとして行われている[[クラッシュ]]はウズベキスタンの伝統的な格闘技であったクラッシュを国際化・現代化したものである。
 
[[サッカー]]はウズベキスタンで最も人気のある[[スポーツ]]である。国内の最上位サッカーリーグは[[ウズベク・リーグ]]であり、2010年以降は14チームが所属している。2012年時点の国内リーグ王者は[[パフタコール・タシュケント]]であり、国内リーグ最多優勝はパフタコールの9回である。2012年の[[ウズベキスタン年間最優秀サッカー選手賞]]受賞者は[[サンジャール・トゥルスノフ]]となっている。ウズベキスタンは[[アジアサッカー連盟]](AFC)に加盟しているため[[AFCチャンピオンズリーグ]]や[[AFCカップ]]などのAFCが主催する国際大会に出場しており、2012年には[[FCブニョドコル]]がベスト4にまで進出した。また、2011年には[[ナサフ・カルシ]]が[[AFCカップ2011|AFCカップ]]においてウズベキスタンサッカー界初の国際大会優勝を達成している。
 
1991年にウズベキスタンが独立する以前、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]は[[ソビエト連邦]]の一員として[[サッカーソビエト連邦代表]]や{{仮リンク|ラグビーソビエト連邦代表|en|Soviet Union national rugby union team}}、{{仮リンク|アイスホッケーソビエト連邦代表|en|Soviet Union national ice hockey team}}、[[バスケットボールソビエト連邦代表]]、ハンドボールソビエト連邦代表など、各スポーツのソビエト連邦代表チームに選手を送り出していた。ソビエト連邦崩壊後、ウズベキスタンは[[サッカーウズベキスタン代表]]や{{仮リンク|ラグビーウズベキスタン代表|en|Uzbekistan national rugby union team}}、[[フットサルウズベキスタン代表]]などの代表チームを結成、国際大会に派遣している。
 
[[テニス]]もまたウズベキスタンで人気のあるスポーツであり、特に1991年にウズベキスタンが独立して以降人気が出た。国内のテニスを統括する団体、{{仮リンク|ウズベキスタンテニス連盟|en|Uzbekistan Tennis Federation}}(UTF)は2002年に設立された。ウズベキスタンの首都タシュケントでは毎年[[タシュケント・オープン]]というWTAの国際テニストーナメントが開催されている。タシュケント・オープンは1999年に開始され、屋外の[[ハードコート]]を使用して行われている。ウズベキスタンで実績のある有名テニス選手としては[[デニス・イストミン]]や[[アクグル・アマンムラドワ]]がいる。
 
この他にウズベキスタンで人気があるスポーツとしては、[[柔道]]、[[ハンドボール]]、[[テコンドー]]、[[バスケットボール]]、[[ラグビー]]、[[フットサル]]などがある。
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Bundesarchiv Bild 183-1987-0515-035, Dshamolidin Abdushaparow.jpg|[[ジャモリディネ・アブドヤパロフ]]はウズベキスタンで最も有名な自転車競技選手であり、[[ツール・ド・フランス]]で3回の区間優勝を果たしている。
File:Sergey Lagutin.jpg|[[エネコ・ツアー2008]]の[[セルゲイ・ラグティン]]
File:RuslanChagaev.jpg|[[ルスラン・チャガエフ]]
File:Istomin 2009 US Open 02.jpg|[[2009年全米オープン (テニス)|2009年全米オープン]]の[[デニス・イストミン]]
</gallery>
 
== 脚注 ==
270 ⟶ 513行目:
* [[ウズベキスタン軍]]
* [[ウズベキスタンの国際関係]]
* [[ウズベキスタン大統領の一覧]]
 
== 外部リンク ==
291 ⟶ 534行目:
; その他
* [http://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/ JETRO - ウズベキスタン]
* [http://uzreport.uz/?lan=e '''National Information Agency of Uzbekistan''']
* [http://www.tcity.uz/en/ Tashkent directory]
* [http://parliament.gov.uz/ Lower House of Uzbekistan parliament]
* [https://www.cia.gov/library/publications/world-leaders-1/world-leaders-u/uzbekistan.html Chief of State and Cabinet Members]
; 一般情報
* {{CIA World Factbook link|uz|Uzbekistan}}
* [http://www.state.gov/p/sca/ci/uz/ Uzbekistan] U.S. Library of Congress includes Background Notes, Country Study and major reports
* [http://www.library.illinois.edu/spx/webct/nationalbib/natbibuzbek.htm Uzbek Publishing and National Bibliography] University of Illinois Slavic and East European Library
* [http://ucblibraries.colorado.edu/govpubs/for/uzbekistan.htm Uzbekistan] UCB Libraries GovPubs
* [http://world-gazetteer.com/wg.php?x=&men=gcis&lng=en&des=wg&srt=npan&col=abcdefghinoq&msz=1500&geo=-225 List of cities and populations]
* {{dmoz|Regional/Asia/Uzbekistan}}
* [http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-16218112 Uzbekistan profile] BBC News
* {{wikiatlas|Uzbekistan}}
* [http://www.ifs.du.edu/ifs/frm_CountryProfile.aspx?Country=UZ Key Development Forecasts for Uzbekistan] International Futures
; メディア
* [http://www.mtrk.uz/#uz/uzbekistan/ National Television and Radio Company of Uzbekistan]
 
{{ウズベキスタン関連の項目}}
{{ウズベキスタンの都市}}
{{アジア}}
{{独立国家共同体}}
306 ⟶ 567行目:
[[Category:共和国]]
[[Category:中央アジア]]
 
{{節stub}}
 
{{Link FA|sh}}