「メフメト2世」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
5行目:
| 画像 = Gentile Bellini 003.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = [[ジェンティーレ・ベリーニ]]による肖像画(1480年)<
| 在位 = [[1444年]] ‐ [[1446年]]<br>[[1451年]] - [[1481年]]
| 戴冠日 =
11行目:
| 全名 =
| 出生日 = [[1432年]][[3月30日]]
| 生地 = [[エディルネ]]
| 死亡日 = [[1481年]][[5月3日]]
| 没地 = テクフル・チャイリ
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = シット・ハトゥンなど
| 配偶者2 =
| 子女 = [[バヤズィト2世|バヤズィト]]<br>ムスタファ<br>[[ジェム・スルタン|ジェム]]
29行目:
}}
'''メフメト2世'''([[トルコ語]]: II. Mehmet、[[1432年]][[3月30日]] - [[1481年]][[5月3日]])は、[[オスマン帝国]]の第7代[[スルタン]]([[オスマン帝国の君主|皇帝]]
メフメトは30年にわたる2度目の治世において、
コンスタンティノープル征服後、メフメトは「征服の父<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、88頁</ref>」「2つの海と2つの大陸の支配者<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、79-80頁</ref>」という称号を用いた。オスマンの勢力拡大はヨーロッパ諸国にとっての脅威であり<ref name="horupu">バーカー「メフメト2世」『世界伝記大事典 世界編』11巻、156-1587頁</ref>、メフメトは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、56頁</ref>。その征服活動よりしばしば[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]と比較され、彼自身もアレクサンドロスの伝記を好んで読んでいた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、170-171頁</ref>。
メフメトはイスラーム以外にヨーロッパの文化にも理解を示し<ref name="iwa-ji">林「メフメト2世」『岩波イスラーム辞典』、997頁</ref>、宮廷には国際的な空気が流れていた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、60頁</ref>。そのため、[[ルネサンス]]君主の1人に数えられることもあるref name="iwa-ji">。メフメトの後に即位したオスマン帝国の皇帝はもっぱらイスラームの文化に関心を持ち、宮廷から多文化が共存する空気は失われた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、114頁</ref>。
== 生涯 ==
===
[[Image:Mehmed_Fatih_scrapbook.jpg|120p|thumb|少年時代のメフメト2世の落書き。ビザンツの彫像<ref name="chuko59">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、59頁</ref>あるいはイタリアの絵画<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、174頁</ref>に対する関心を表していると言われる。]]
オスマン皇帝[[ムラト2世]]とヨーロッパ出身の奴隷ヒュマ・ハトゥンの子として、首都[[エディルネ]]の宮殿で生まれる<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、16-17頁</ref>。幼少期は家庭教師のダイイ・ハトゥンに養育され、エディルネで過ごした<ref name="clo17">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、17頁</ref>。継母であるセルビア公{{仮リンク|ジュラジ・ブランコヴィチ|en|Đurađ Branković}}の娘{{仮リンク|マラ・ブランコヴィチ|en|Mara Branković|label=マラ}}からビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを描いた絵を見せられ、町に強い興味を抱くようになる<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、57頁</ref>。
[[1443年]]、オスマン帝国の慣習に従ってメフメトは[[マニサ]]に知事として赴任し、神学者グラニの元で勉学に励む<ref name="clo17"/>。
=== 最初の即位 ===
オスマン帝国が[[ハンガリー王国]]、{{仮リンク|カラマン侯国|en|Karamanids}}と和約を結んだ後、[[1444年]]にメフメトは父から譲位されてスルタン位に就く。ムラトは大宰相のチャンダルル・ハリル・パシャにメフメトの補佐を任せ、マニサで隠遁生活を送った<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、58頁</ref>。メフメトは補佐役のハリル・パシャをララ(じい)と呼んだが、打ち解けることはできなかった<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、58-59頁</ref>。
1444年9月、ハンガリーの[[フニャディ・ヤーノシュ]]と[[ポーランド国王|ポーランド王]][[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]が率いるヨーロッパ連合軍が[[トランシルヴァニア]]、[[ブルガリア]]に侵入したとき、ハリル・パシャはメフメトには対処が困難だと考え、ムラトに復位を求めた<ref name="suzuki59">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、59頁</ref>。ムラトは[[ヴァルナの戦い]]でヨーロッパ連合軍に勝利した後に退位するが、[[1445年]]に[[エディルネ]]で[[イェニチェリ]]の反乱が起きた時、ムラトは再び復位を要請される<ref>マントラン『改訳 トルコ史』、54頁</ref>。1446年にメフメトは帝位を返上し、領地のマニサに戻った。メフメトは自身を軽んじたハリル・パシャに敵愾心を抱き、ザガノス・パシャらメフメトの側近たちは敵意を煽った<ref name="suzuki59"/>。
領地に帰還したメフメトは[[ヴェネツィア共和国]]の船舶を襲撃し、[[エヴィア島|ネグロポンテ]]などのヴェネツィアの支配下にある[[エーゲ海]]の都市や島を襲撃した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、22頁</ref>。一方でイスラーム世界や西欧の知識人をマニサに呼び寄せ、過去の歴史家や哲学者についての教えを受けていた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、22-23頁</ref>。時にはムラトの軍事行動に従軍し、[[1448年]]の{{仮リンク|コソヴォの戦い (1448年)|en|Battle of Kosovo (1448)|コソヴォの戦い}}や1450年の[[アルバニア]]遠征に従軍した。
アルバニア遠征から帰国後、ムラトはメフメトとアナトリアの[[ドゥルカディル侯国]]の王女シット・ハトゥンの婚姻を成立させる。1450年から1451年にかけての冬、エディルネで3か月にわたる結婚式が開かれた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、24頁</ref>。
=== 2度目の即位 ===
[[Image:Hunername accession Mehmed II .jpg|200px|thumb|1451年のメフメト2世の即位]]
1451年2月3日にムラトが急死し、メフメトは父の死を知らせる使節が現れた時、彼らを喜んで迎えたという<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、24,27頁</ref>。この時、報告を聞いたメフメトは「我を愛する者は後に続け」と叫んで馬にまたがり、エディルネに直行したと伝えられている<ref>三橋『トルコの歴史』、147頁</ref><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、27頁</ref>。同年2月18日、エディルネに到着したメフメトは2度目の即位を経験する。
即位に際して幼少の弟アフメトを風呂場で絞殺させ<ref>クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、97頁</ref><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、27頁</ref>、イェニチェリの忠誠を確保するために賞与を支払った<ref name="mant55">マントラン『改訳 トルコ史』、55頁</ref>。後継者候補を殺害して内紛を事前に阻止する「兄弟殺し」の慣習は、メフメトの治世から慣例化されたと考えられており<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、65頁</ref>、[[ウラマー]](イスラームの法学者)の賛同によって兄弟・甥殺しの法的効力が追認された<ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、56頁</ref>。
即位の際にハリル・パシャと宰相のイスハク・パシャはオスマンの慣例に反してメフメトの反対の位置に立ったと言われ、メフメトの即位後にイスハク・パシャは地方に左遷される<ref name="suzuki60">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、60頁</ref>。しかし、帝国の支配者層から支持を受け、強固な地盤を持つハリル・パシャはなおも中央に留まった<ref name="suzuki60"/>。
メフメトはハンガリーと3年の休戦協定を結び、ビザンツにも友好的な態度を示した<ref name="shoju869">尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、869頁</ref>。ヨーロッパの国々は停戦を求めるメフメトの消極的な態度を見て安心し、いずれオスマンは内訌で衰退すると考えた<ref>クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、97-98頁</ref><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、29頁</ref>。さらに[[アナトリア半島]]のカラマン侯国はムラトの死に乗じて和約を破棄し、オスマン領に侵入した。ビザンツはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した<ref name="shoju869"/><ref name="suzuki61">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、61頁</ref>。メフメトはビザンツの要求を忌々しく思ったが、カラマンの攻撃に対処するために怒りを抑えてビザンツの使者を帰し、アナトリアに渡ってカラマン軍を打ち破った<ref name="suzuki61"/>。
そして、第一の目標であるコンスタンティノープルの攻略に着手した<ref name="mant55"/><ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、61-62頁</ref>。
=== コンスタンティノープル攻略 ===
[[Image:Benjamin-Constant-The Entry of Mahomet II into Constantinople-1876.jpg|
[[Image:Gennadios II and Mehmed II.jpg|200px|thumb|メフメト2世とゲンナディオス2世]]
{{main|コンスタンティノープルの陥落}}
カラマン討伐の帰路で、メフメトは[[ボスポラス海峡]]のヨーロッパ岸に[[ルメリ・ヒサル]]を建設することを命令した。ビザンツの使者はルメリ・ヒサルの建設に抗議したが、メフメトは砦の建設は協定に違反するものではないと返答し、使者を追い返した<ref>三橋『トルコの歴史』、148-149頁</ref>。ルメリ・ヒサルはかつて曾祖父の[[バヤズィト1世]]がアナトリア岸に建設した{{仮リンク|アナドル・ヒサル|en|Anadoluhisarı}}と共に海峡を監視し、ボスポラス海峡を通過する船舶を捕捉する態勢を整える<ref name="mant56">マントラン『改訳 トルコ史』、56頁</ref><ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、30頁</ref><ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、62頁</ref>。ボスポラス海峡を通過する船舶は通行税を徴収され、[[イタリア半島]]の[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]やヴェネツィアが行っていた東方交易に痛手を与えた<ref>クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、98頁</ref>。
包囲中、主戦派と反戦派の間にたびたび衝突が起きたが、ハンガリーの技師{{仮リンク|ウルバン|en|Orban}}が改良した大砲は、コンスタンティノープルの城壁に大きな損害を与えた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、71-72頁</ref>。同年5月29日にオスマン軍は[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルを攻略]]、ビザンツ帝国を滅ぼした<ref name="horupu"/><ref name="mant57">マントラン『改訳 トルコ史』、57頁</ref><ref>尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、871-872頁</ref><ref>林『オスマン帝国500年の平和』、87-88頁</ref>。
コンスタンティノープルの陥落はヨーロッパに強い衝撃を与え、オスマン帝国にとっての歴史的な転換点ともなった<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、58頁</ref>。
コンスタンティノープル征服後、極力町の被害を抑えたいと考えていたメフメトは市内で行われている略奪を取り締まり、治安を取り戻そうと試みた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、74頁</ref><ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、70頁</ref>。城内のキリスト教徒に自由を保障し、ガラタ地区に住むジェノヴァ人がビザンツ時代に認められていた特権を再確認した<ref name="mitsuhashi159">三橋『トルコの歴史』、159頁</ref>。<ref name="mant57"/><ref>林『オスマン帝国500年の平和』、89頁</ref>。6月1日、[[ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ゲオルギオス・スホラリオス]](ゲンナディオス2世)を[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教]]に叙任する<ref name="mant57"/>。
また、コンスタンティノープル征服の直後に利敵行為を働いた罪で、ハリル・パシャとその一族、従者を投獄した<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、75頁</ref>。同年8月にメフメトはハリル・パシャを処刑し、多額の財産を没収する<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、76頁</ref>。代わりにバルカン出身のザガノス・パシャを新たな大宰相に起用し、中央集権化の第一歩を踏み出した<ref name="chuko59"/>。
[[Image:Siege of Nándorfehérvár.jpg|200px|thumb|1456年のベオグラードの攻防]]
コンスタンティノープル征服後も、メフメトは征服事業を継続する<ref name="suzuki104">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、104頁</ref>。
1454年、セルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否する。メフメトはセルビアに遠征してジュラジに改めて臣従を誓わせ、1455年の冬から[[ベオグラード]]遠征の準備を始める<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、115頁</ref>。
[[1456年]]7月にメフメトが率いるオスマン軍は{{仮リンク|ベオグラード包囲 (1456年)|en|Siege of Belgrade (1456)|label=ベオグラードの包囲}}を開始、メフメトとオスマン軍の指揮官の多くは容易にベオグラードを攻略できると楽観視していた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、117頁</ref>。しかし、[[ドナウ川]]に浮かぶオスマン軍の艦船は[[ドミニコ会]]修道士カピストラヌスが率いる民衆の攻撃を受けて壊滅し、ベオグラード市内に突入したオスマン軍はフニャディ・ヤーノシュの反撃を受けて惨敗した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、118-120頁</ref>。従軍していたイェニチェリの多くが戦死し、メフメト自身も額に傷を負った<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、120頁</ref>。
帰国後すぐ、メフメトはベオグラードでの敗戦を忘れるかのように、息子[[バヤズィト2世|バヤズィト]]とムスタファの割礼の式日にエディルネで大々的に宴会を開いた<ref name="clo121">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、121頁</ref>。宴会では学者たちのディベート、スポーツの競技会が開かれ、町の住民に金銭を与えた<ref name="clo121"/>。
オスマン軍が撤退した翌日にフニャディは没するが、この敗戦によってオスマン帝国はハンガリーへの進出を一時中断しなければならなかった<ref name="suzuki104"/>。ベオグラードでの攻防はキリスト教国にオスマンに対する勝利を確信させ<ref>クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、111頁</ref>、敗れたメフメトは征服の目標をバルカン半島の内部に変えた<ref name="chuko65">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、65頁</ref>。また、教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]はヨーロッパの王侯に反オスマン連合の結成を呼び掛けたが、結成に積極的な返事は得られなかった<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、122頁</ref>。
=== ペロポネソス半島、セルビアの征服 ===
ベオグラードの敗北と同じ時期<ref>オツェテァ『ルーマニア史』1巻、204頁</ref>、ルーマニアの[[モルダヴィア]]を臣従させ、モルダヴィアに和平と引き換えの貢納金を課した。また、[[ワラキア]]では[[ヴラド・ツェペシュ]]が大公に即位する。メフメトはワラキアとモルダヴィアを臣従国としながらも、一定の自治を認めていた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、66頁</ref>。
[[ペロポネソス半島]]に残るビザンツ系国家[[モレアス専制公領|モレアス専制公国]]では、共同の君主である[[ソマス・パレオロゴス|ソマス]]と[[ディミトリオス2世パレオロゴス|ディミトリオス]]の兄弟が互いに争っており、ベオグラード包囲後に兄弟はオスマンへの貢納を拒否する<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、124-125頁</ref>。メフメトは何度も貢納の再開を要求するがモレアスは返答せず、メフメトはペロポネソス半島への親征を決定する。
[[1458年]]春にメフメトはペロポネソス半島に進軍し、ソマスとディミトリオスは宮廷から逃走する。ペロポネソス半島の3分の1がオスマン帝国の支配下に入り、ソマスとディミトリオスには領土の保持と引き換えに貢納金を課した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、126-127頁</ref>。また、メフメトは遠征で獲得した[[パトラ]]の立地と整備された海港に着目し、町を発展させるために住民を保護し、特権を付与した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、126頁</ref>。同年、オスマンの将軍エメルの策略により、[[アテネ公国]]がオスマン帝国に併合される<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、127頁</ref>。
1458年初頭よりセルビアは後継者問題で反オスマン派と親オスマン派に分かれており、親オスマン派はメフメトにセルビアへの派兵を要請した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、131,134頁</ref>。初めにセルビアには宰相マフムト・パシャを司令官とする軍隊が派遣され、メフメトはモレアス遠征の帰路にマフムト・パシャの軍に合流する。1459年春にオスマン軍はボスニア王ステファン・トマシェヴィッチよりスメデレヴォを譲渡され<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、135頁</ref>、ベオグラードを除く[[セルビア]]の征服を完了した<ref>マントラン『改訳 トルコ史』、58頁</ref>。
さらにセルビアの征服はボスニアへの進出の足掛かりとなり、[[1460年]]にボスニアへの攻撃を開始した<ref name="ugo">スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版(柴宜弘、高田敏明、田中一生訳, 恒文社, 1993年3月)、74-75頁</ref>。貴族間の抗争と、ボスニア王国で迫害を受けていた[[ボゴミル派|ボゴミル教徒]]の支持により、オスマン軍のボスニア進出は容易に進んだ<ref name="ugo"/>。オスマン軍はボスニア内に要塞を建設するとともに、農民に保護を与えて支持を得ていく<ref name="kle113">クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、113頁</ref>。ステファン・トマシェヴィッチは[[教皇|ローマ教皇]]に宛てて、自国の窮状とメフメトがイタリア、[[ダルマチア]]、ハンガリーの征服を企てていることを訴える書簡を送った<ref name="kle113"/>。
1459年初秋、メフメトはギリシャ各地を訪問した<ref name="har544">ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、544頁</ref>。歴史家{{仮リンク|ミカエル・クリトヴォロス|en|Michael Critobulus}}は、メフメトは廃墟や遺跡を見学し、住民が語るギリシャの歴史に耳を傾けたと伝えている<ref name="har544"/>。また、1459年の初頭より、ペロポネソス半島では教皇庁と西ヨーロッパの援助を受けたソマスの指導による反乱が発生していた<ref name="clo141">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、141頁</ref>。西ヨーロッパが反乱に加担していることを知ったメフメトは軍隊を派遣するが、モレアス側との交渉は失敗し、混乱はより拡大する<ref name="clo141"/>。
1460年5月にメフメトはペロポネソス半島に再び親征を行い、1461年春に遠征を終えて帰国する<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、141,143頁</ref>。1461年7月に1年にわたってオスマン軍に頑強に抵抗していたサルモニコンが陥落したことでモレアス専制公国の征服が完了し、ペロポネソス半島の大部分がオスマンの支配下に入った<ref name="clo143">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、143頁</ref>。ソマスはイタリアに逃亡し、オスマンに降伏したディミトリオスはメフメトから手厚い保護を受けた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、142頁</ref>。
=== トレビゾンド帝国の併合 ===
1460年、アナトリア北部のビザンツ系国家[[トレビゾンド帝国]]の皇帝[[ダヴィド (トレビゾンド皇帝)|ダヴィド]]は、同盟国である[[白羊朝]]の力を頼みに、毎年オスマンに支払う貢納金の免除を申し出た<ref name="chuko65"/><ref name="suzuki106">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、106頁</ref>。メフメトはこの要求に怒りを露わにし、トレビゾンドとアナトリア北部の[[黒海]]沿岸部の征服を計画した<ref name="suzuki106"/>。1461年春、モレアス遠征から帰国した数か月後にメフメトは親征を開始する<ref name="clo143"/>。
行軍中、黒海に面する港湾都市[[スィノプ]]を支配する[[ペルヴァーネ侯国]]がオスマン帝国に降伏する。メフメトは白羊朝と協約を結んで援軍の到達を阻止し、[[トラブゾン|トレビゾンド]]を包囲した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、144-145頁</ref>。財産と家族の安全を保障されたダヴィドはメフメトに降伏し、メフメトはトレビゾンド帝国を併合した<ref name="clo145">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、145頁</ref>。併合から数年後、メフメトはダヴィドに白羊朝との内通の嫌疑をかけ、イスラームに改宗した息子の1人を除いた家族と共に処刑する<ref name="clo145"/>。
===
[[Image:AtaculdeNoapte.jpg|180px|thumb|19世紀にテオドール・アマンによって描かれたワラキア軍の夜襲]]
1459年にワラキアに課した貢納金を増額した際、ワラキア大公ヴラド・ツェペシュは貢納金の支払いを拒否し、メフメトが詰問に向かわせた使者たちはヴラドによって処刑された<ref name="cast">カステラン『ルーマニア史』、16-17頁</ref>。1461年から[[1462年]]にかけての冬、オスマンの守備隊は[[テレオルマン県|テレオルマン]]でワラキア軍の攻撃を受けて敗北する。1462年にメフメトはワラキアに親征するが、ヴラドは[[ゲリラ]]戦術を展開して抗戦した<ref name="ote205">オツェテァ『ルーマニア史』1巻、205頁</ref>。6月16日、メフメトの宿営はワラキア軍の夜襲によって大きな損害を受け([[:en:The Night Attack|The Night Attack of Târgovişte]])、6月中にメフメトはワラキアから撤退した<ref name="ote205"/>。同年夏、メフメトはヴラドの実弟である{{仮リンク|ラドゥ2世|en|Radu II of Wallachia|label=ラドゥ}}を指揮官とする遠征軍を新たにワラキアに派遣する。ワラキア国内の貴族の離反とハンガリーの妨害によってヴラドは失脚し、[[ブダ]]に幽閉された<ref>オツェテァ『ルーマニア史』1巻、205-206頁</ref>。
1462年にオスマン軍はヴェネツィア領の[[レスボス島]]を占領する。
ボスニア王ステファン・トマシェヴィッチはローマ教皇の使節に激励され、セルビアの支配権を要求し、オスマンへの貢納を拒否した<ref name="clo155">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、155頁</ref>。メフメトはボスニアに親征し、ステファンを首都の[[ヤイツェ]]から放逐し、クリウクスに追い詰める。[[1463年]]に降伏したボスニアのステファン・トマシェヴィッチを処刑し、一部の地域を除くボスニアを併合した<ref name="ugo"/><ref name="kle113"/>。しかし、ヤイツェはハンガリー王[[マーチャーシュ1世]]の手に落ち、占領には至らなかった<ref name="clo155"/>。
1464年8月、反オスマン[[十字軍]]を計画していた教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が病没し、ヨーロッパ諸国が連合してのオスマン攻撃は中止される<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、536頁</ref>。
[[1468年]]に長きにわたってオスマン帝国の[[アルバニア]]征服を阻止した[[スカンデルベグ]]が没する。スカンデルベグの死を知ったメフメトは歓喜し、アジアとヨーロッパ両方の征服が達成されることを確信する<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、225-226頁</ref>。
[[1470年]]、オスマン艦隊はヴェネツィアの支配下にあったネグロポンテと近隣の島々を制圧する。ヴェネツィアの要所の1つであるネグロポンテの陥落はイタリアに恐怖を与え、ヴェネツィア出身の教皇[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]はアヴィニョンへの避難さえ計画した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、234-235頁</ref>。
=== ウズン・ハサンとの戦い ===
[[Image:UzunHasan.jpg|thumb|180px|ウズン・ハサン]]
1464年にメフメトはカラマン侯国で起きた後継者争いに介入し、領土の割譲を条件にピール・アフメド・ベイを支援した<ref name="itani">井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、171頁</ref>。ピール・アフメドは即位後に領土の返還を要求してオスマンと対立し<ref name="itani"/>、[[1466年]]にオスマン軍はカラマンの領土を攻撃し、[[コンヤ]]、[[カラマン]]を征服する。ピール・アフメドは白羊朝の[[ウズン・ハサン]]に庇護を求め、<ref name="itani"/><ref>林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、235-236頁</ref>トレビゾンドとカラマンの併合は、オスマン帝国と白羊朝との関係を悪化させる<ref name="suzuki107">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、107頁</ref>。
ウズン・ハサンは東西交易の拠点の確保を望むヴェネツィアと同盟し、オスマンの挟撃を試みた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、107-108頁</ref>。ヴェネツィアは白羊朝との同盟にあたり、大砲と火薬の供給を約束した<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、240頁</ref>。
[[1471年]]にメフメトが残存するカラマン朝の領土を攻撃すると、ピール・アフメドはウズン・ハサンに助けを求めた。オスマンに領地を奪われた他のベイリクの君主もウズン・ハサンの元に集まり、アナトリアのオスマン領を攻撃した。メヌメトは宰相ルム・メフメトパシャを罷免して左遷していたマフムト・パシャを宰相に復職させ、アナトリアに配置していた息子と総督にウズン・ハサンの攻撃を命じた<ref name="clo241">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、241頁</ref>。オスマン軍は{{仮リンク|ベイシェヒル|en|Beyşehir}}近郊で白羊朝軍に勝利するが、メフメトは次の戦闘に備えて徴兵と物資の補充を行った<ref name="clo241"/>。
[[1472年]]、ウズン・ハサンはオスマンとの和約を破棄し、カラマン侯国の旧領の帰属を巡る問題に介入する<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、108頁</ref>。ヴェネツィアはウズン・ハサンの元に大砲を届けようとしたが、オスマン艦隊はヴェネツィア艦船を捕らえ、大砲の到着を阻止する。1473年にオスマン軍とウズン・ハサンが率いる白羊朝軍はアナトリア東部のオトゥルクベリで交戦する({{仮リンク|オトゥルクベリの戦い|en|Battle of Otlukbeli}})。オスマン軍はウズン・ハサンに勝利し、カラマン侯国の旧領はオスマン帝国に組み入れられた<ref>林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、236-237頁</ref>。戦後、オスマン軍はカラマンに帰国したピール・アフメドを放逐し、ピール・アフメドは再びウズン・ハサンの元に逃亡した<ref name="itani"/>。
[[1474年]]、息子ムスタファが亡くなる。ムスタファは、大宰相マフムト・パシャと彼の妻を巡って争い、マフムト・パシャによって暗殺されたと考えられている<ref name="hayashi-k100">林『オスマン帝国500年の平和』、100頁</ref>。
=== クリミア・ハン国の臣従 ===
1460年代末から[[クリミア半島]]のモンゴル系国家[[クリミア・ハン国]]では王位を巡る内争が起きていた<ref name="kawaguchi">川口「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』、294-295頁</ref>。1475年、クリミア・ハン国の有力部族シリン族の要請を受けて、メフメトは大宰相ゲディク・アフメト・パシャを総司令官とする艦隊をクリミアに派遣した。オスマン艦隊はカッファ([[フェオドシヤ]])、タナ、アゾフを占領し、ジェノヴァに捕らえられていたクリミア・ハン・[[メングリ1世ギレイ]]を解放し、復位させる。オスマン艦隊の攻撃によって、クリミア半島一帯からジェノヴァ、ヴェネツィアの勢力は一掃された<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、95頁</ref>。
メングリ1世は1468年に即位した際に送った書簡で自国がオスマン帝国と対等の関係にあると主張していたが、1475年の復位後にオスマンへの臣従の意思を表明した<ref name="kawaguchi"/>。[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の子孫を従属下に置いたことでイスラーム諸国以外に、[[カザン・ハン国]]などのモンゴル系国家や[[モスクワ大公国]]にもオスマン帝国の権威は知れ渡る<ref name="kawaguchi"/>。
=== ルーマニアでの戦争 ===
[[1472年]]よりモルダヴィアの[[シュテファン3世 (モルドヴァ公)|シュテファン大公]]は貢納金の支払いを拒否し、ポーランド、ハンガリー、ヴェネツィア、教皇庁に反オスマン連合の結成を呼び掛かけていた。1474年にメフメトはモルダヴィアに{{仮リンク|キリア (ウクライナ)|en|Kiliya, Ukraine|label=キリア}}、アルバ([[:en:Bilhorod-Dnistrovskyi|en]])の要塞の返還を要求するが、要求は拒絶される。
1475年1月の{{仮リンク|ヴァスルイの戦い|en|Battle of Vaslui}}で、オスマン軍はモルドヴァ軍に敗北した。ヨーロッパ諸国はシュテファンの勝利を称賛し、ムラト2世の寡婦はかつてない敗北を喫したと回顧した<ref>オツェテァ『ルーマニア史』1巻、209頁</ref>。しかし、ヴァスルイの戦いはオスマン軍のヨーロッパ方面での戦略に影響を与えるには至らず、シュテファンもオスマン軍の再度の攻撃に備えた連合の結成を呼び掛けていた<ref name="ote210">オツェテァ『ルーマニア史』1巻、210頁</ref>。1476年5月、メフメトはモルダヴィアへの親征を行い、オスマン軍とクリミア・ハン国から派遣されたモンゴル兵はモルドダヴィア各地を蹂躙した。同年7月にメフメトは{{仮リンク|アルバ渓谷の戦い|en|Battle of Valea Albă}}でシュテファンに勝利を収めるが、モルダヴィア兵の抵抗と軍内での疫病の流行、食料の欠乏のために退却を強いられる<ref name="ote210"/>。
=== アルバニア征服、ヴェネツィアとの和平 ===
[[Image:"I Turchi respinti da Scutari" Gatteri's Etching of the Siege of Shkodra.jpg|200px|thumb|シュコドラ包囲(19世紀)]]
モルダヴィア遠征から帰国した直後、メフメトはハンガリーの勢力下に置かれているセルビアの要塞を攻撃する<ref name="clo256">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、256頁</ref>。この時ハンガリーの兵力を分散させるため、アクンジュ(非正規の騎兵)が[[ダルマチア]]と[[クロアチア]]に派遣された<ref name="clo256"/>。[[1477年]]にはアクンジュは北イタリアのヴェネツィアの勢力圏に侵入し、町々を破壊した。ヴェネツィアの海外領土である[[ナフパクトス|レパント]]の攻略を断念し、征服の目標をアルバニアに移した。
[[1478年]]春にメフメトはアルバニア親征を開始、他のヨーロッパの国々からアルバニアに援助は行われなかった<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、258-259頁</ref>。同年6月にアルバニアの首都[[クルヤ]]は飢餓と疫病、援軍の敗退によってオスマンに降伏する<ref name="clo260">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、260頁</ref>。メフメトはアルバニアに残された[[シュコドラ]]の町に包囲を布き、1か月に及ぶ砲撃の後に総攻撃を命じた({{仮リンク|シュコドラ包囲|en|Siege of Shkodra}})。総攻撃の後もシュコドラを占領することはできず、包囲を継続する一方で援軍の到着を阻止するために他の都市に軍隊を派遣し、数か月の攻防の末にシュコドラは陥落した<ref name="clo260"/>。クルヤとシュコドラの陥落により、アルバニアの大部分がオスマンの支配下に入る<ref name="clo260"/>。
15年以上に渡ってオスマンと戦争状態にあったヴェネツィアは、国庫が窮乏し、ヨーロッパ諸国から孤立した状況に置かれていた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、262頁</ref>。住民は[[ペスト]]の流行とアクンジュの襲撃に恐怖し、ヴェネツィアではオスマンとの講和の気運が高まっていた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、262-263頁</ref>。[[1479年]]1月<ref name="hayashi-k97">林『オスマン帝国500年の平和』、97頁</ref>にメフメトはヴェネツィアと和約を結び、黒海の制海権を掌握した<ref>林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、235頁</ref>。同年8月、メフメトはヴェネツィアの元老院に優れた画家をイスタンブルに送るよう要請した<ref name="hayashi-k97"/>。メフメトの要請を受けたヴェネツィアは、画家[[ジェンティーレ・ベリーニ]]を派遣する。
ヴェネツィアとの和約によりモルダヴィアは援助を絶たれ、翌[[1480年]]にシュテファン大公はオスマンに臣従を誓った<ref name="cast"/>。
=== 最期 ===
[[Image:İstanbul 5908.jpg|180px|thumb|イスタンブルに安置されているメフメト2世の棺]]
1480年、[[ロードス島]]のイスラム教徒を保護するためにメシヒ・パシャを司令官とする艦隊を派遣する。オスマン軍は[[聖ヨハネ騎士団]]が立て籠もる島を包囲するが、陥落の直前にメシヒ・パシャが略奪を禁止したために兵士の士気が下がり、騎士団の反撃を受けて敗北する<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、562頁</ref>。
同年にイタリア半島南部にゲディク・アフメト・パシャを総司令官とする艦隊を派遣し、同年8月に艦隊はイタリア南部の[[オトラント]]を占領した。オスマン軍の到来をヨーロッパ諸国はイタリア征服の前兆と考え<ref name="horupu"/>、ローマ教皇はローマからの逃亡と十字軍の呼びかけを計画した<ref>クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、120頁</ref>。[[ナポリ王国]]は混乱に陥り、イギリス、フランス、[[神聖ローマ帝国]]などの国々に支援を求めたが、援助は得られなかった<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、330-331頁</ref>。
1481年春、メフメトは病身にもかかわらず親征を開始し、4月27日に[[ユスキュダル]]に至る。[[5月3日]]、[[ユスキュダル]]からおよそ20km離れたテクフル・チャイリでメフメトは陣没する<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、335頁</ref>。
最期の遠征の目的地は明確になっておらず<ref name="suzuki115">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、115頁</ref>、死因は病死、あるいは毒殺と諸説分かれている<ref name="suzuki115"/><ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、70頁</ref><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、335-336頁</ref>。メフメトの死を知ったローマ教皇、キリスト教の聖職者、ローマ市民は歓喜し、祝祭を開いた<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、564-566頁</ref>。
メフメトの急死は、2人の息子による帝位を巡る内争を引き起こした<ref name="hayashi-k100"/>。長子のバヤズィトはメフメトの急進的な政策に反発する勢力を味方に付け、末子の[[ジェム・スルタン|ジェム]]はメフメトの政策を支持する派閥に擁立されていた<ref name="clo342">クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、342頁</ref>。最終的にバヤズィトが後継者争いに勝利し、新たな皇帝として即位した。
== 人物像 ==
[[Image:Sarayi Album 10a.jpg|180px|thumb|15世紀末にトルコの画家によって描かれたメフメト2世の肖像画]]
[[Image:Costanzo da ferrara, mehmet II, 1477-80, recto.JPG|150px|thumb|コスタンツォ・ダ・フェッラーラによるメフメト2世のメダル彫金]]
=== 性格、身体的特徴 ===
メフメト2世は残忍かつ狂信的と言われる一方、文学と芸術に理解を示した人物と言われる<ref name="asia"/>。激しい気性と合理主義精神を持ち合わせ、学芸と異文化に強い関心を持っていた<ref name="koyama">小山「メフメト2世」『新イスラム事典』、497頁</ref>。ビザンツ帝国が所有していたキリスト教の[[聖遺物]]を収集していたと言われている<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、149-150頁</ref>。
1456年にメフメトと面会したヴェネツィア人ジャコモ・デ・ラングシーは、屈強な体格で恐怖心を与える人物と記した<ref>クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、109-110頁</ref>
<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、28頁</ref>。別のヴェネツィア人ニコラ・サグンディーノは、ユーモアを好まない行動的な人物だと述べた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、28-29頁</ref>。
メフメトは長らく病に罹っており、年代記作家のフィリップ・ド・コミーヌは面会者たちからの伝聞を通して、「メフメトの両足が極度に腫れ上がり、病によって身体が肥満していた」という病状を記録している<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、168頁</ref>。また、度重なる遠征はメフメトの健康を害したと思われる<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、168-169頁</ref>。最期の遠征の直前、病によってメフメトの下肢はむくみ、身体は[[るいそう|羸痩]]していた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、355頁</ref>。研究者の中には、晩年のメフメトはガンに罹っていたと推測する意見もある<ref name="chuko63">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、63頁</ref>。
=== 異文化への理解と周囲の反発 ===
メフメトは[[アラビア語]]と[[ペルシア語]]を解し、[[イタリア語]]と[[ギリシア語]]の知識もいくらか持ち合わせていたと言われる<ref name="chuko62">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、62頁</ref>。メフメトの宮廷では[[ニザーミー]]の『五部作(ハムサ)』、[[フェルドウスィー]]の『[[シャー・ナーメ|王の書]](シャー・ナーメ)』、[[ラシードゥッディーン]]の『[[集史]]』が好んで読まれていた<ref name="chuko62"/>。[[ペルシア文学]]の他に、[[ティムール朝]]で書かれたチャガタイ語文学も人気を博していた<ref name="chuko62"/>。メフメトは詩人を保護するだけでなく、自らも「アウニ(アヴニ)」の筆名で作詩を行い、<ref name="har547">ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、547頁</ref><ref name="mitsuhashi170">三橋『トルコの歴史』、170頁</ref><ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、177頁</ref>[[オスマン語]]による77編の詩集『ファーティフ・ディーワーニ』を著した<ref name="mitsuhashi170"/>。
また、[[中国]]や[[ウイグル]]の流れを汲む[[中央アジア]]世界の絵画も閲覧していたと思われる<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、178頁</ref>。
メフメトはイタリアなどから知識人を招聘し、ギリシャ語の文献を収集する、ヨーロッパ文明にも関心を持つ人物だった<ref name="iwa-ji"/>。コンスタンティノープル攻略後、メフメトは歴史家クリトヴォロスを初めとするビザンツの学者たちを厚遇する<ref name="mitsuhashi159"/>。彼がイタリアから招聘した画家ジェンティーレ・ベリーニは16か月の間イスタンブルの宮廷に滞在し、メフメトの肖像画などの作品を残した。イタリアの[[自分主義者]]、芸術家たちは、メフメトが学芸の保護者であるという評判を聞き、イスタンブルの宮廷を訪れたいと願った<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、175頁</ref>。しかし、メフメトがイタリアの人文主義者たちを保護した目的には、彼らからイタリアの政治・軍事情報を得るためとも考えられている<ref>三橋『トルコの歴史』、174頁</ref>。
しかし、宮廷でペルシア人、イタリア人、ユダヤ人が重用されていたことに、トルコ人の間では不満が起きていた<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、338頁</ref><ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、64頁</ref>。メフメトが没する数年前から、[[アマスィヤ]]の知事を務めていたメフメトの長子バヤズィトの周りにはメフメトの政策に反対する派閥ができていた<ref name="clo342"/>。メフメトとバヤズィトの関係は悪化し、メフメトはバヤズィトの宮殿を監視していたが、派閥の形成は抑止できなかった<ref name="clo342"/>。メフメトが保管していた絵画は、皇帝に即位したバヤズィトによって破壊・売却される<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、340頁</ref>。
=== 趣味 ===
メフメトは園芸に熱中しており、宮殿内の庭園で草花を栽培していた。遠征先でも[[ユリ]]、[[スイセン]]、[[チューリップ]]、[[バラ]]などの植物を探し、宮廷に持ち帰っていた<ref name="har547"/>。ほかに工芸を趣味としており、木、象牙、貴金属の細工を楽しんでいた<ref name="har547"/>。
== 政策 ==
=== 帝国の中央集権化 ===
イスタンブルの宮廷を頂点とする軍事・行政の体制はメフメト2世の時代から形作られていき、統治の規則は『カーヌーン・ナーメ(法令)』に成文化された<ref name="hayashi-ya234">林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、234頁</ref>。また、『カーヌーン・ナーメ』には征服地の法律も組み入れられていた<ref>ビタール『オスマン帝国の栄光』、32頁</ref>。
1453年のコンスタンティノープル包囲における、メフメトの側近で構成される主戦派と旧勢力に代表される反戦派の対立は、オスマン宮廷の君臣間の関係を変容させる契機となった<ref name="suzuki76">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、76頁</ref><ref>林「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、232-233頁</ref>。オスマン帝国は征服地を一族間で分割する遊牧民国家の慣習を克服し、中央集権化によって国家の永続性が保障された<ref name="chuko59"/>。メフメトは初期のオスマン帝国で活躍したガーズィー(トルコ系の信仰の戦士)やアナトリア出身のトルコ系貴族を政界の中心から遠ざけ、代わってバルカン半島から徴収したカプクル(宮廷奴隷)出身の軍人・官僚を重用した<ref name="suzuki76"/>。奴隷として徴収した少年を養育するための教育制度を整備し、宮殿の近辺に彼らのための学校が設置された<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、200-202頁</ref>。しかし、新たに台頭したカプクルと旧勢力の間に激しい抗争が起きる<ref name="koyama"/>。
君臣関係の変化に伴い、古くからの宮廷の慣習は次第に廃れていき、代わりに君主の行動に儀礼的な要素が付加されていく<ref name="suzuki76"/>。メフメトは宮廷の空気を従前の遊牧民族的な雰囲気から、ビザンツ的な権威ある雰囲気に変えようと試みている<ref name="chuko63"/>。晩年にはスルタンが主催する御前会議のしきたりを改め、スルタンは後ろの部屋から会議を閲覧するようになった。また、スルタンが大臣たちと一緒に食事を摂る慣習も改め、別の部屋で食事を摂るようになる。
=== 財政の状況 ===
メフメト2世の治世でのオスマン帝国の領土の拡大と、それに伴う交易路の確保は帝国の経済を発展させ、国の収入は増加する<ref name="iwa-ji"/>。国内各地の都市、都市間をつなぐ交易路には[[キャラバンサライ]]やハン(個室付の隊商宿)などの隊商のための宿泊施設が建設された<ref name="suzuki107"/>。
繰り返し行われた遠征とイスタンブルの開発事業によって財政は逼迫し、貨幣の改鋳は状況を悪化させた<ref name="koyama"/>。メフメトの治世の農業と経済の発展において利益を得られたのは、一部の商人、投資家、特権階級など限られた層のみであり、大部分の民衆に利益は還元されなかった<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、28-29頁</ref>。また、塩や石鹸といったいくつかの日用品に専売制度を設けて増収を図ったが、同時代の人間からの評価は悪かった<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、248-249頁</ref>。
メフメトの次に即位したバヤズィト2世は、民衆の不満の元となっていたメフメトが設置した新税を廃止し、支出を極力抑えて財政を再建しなかればならなかった<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、101頁</ref>。しかし、在位中の財政難にもかかわらず、結果的にメフメトの進めた領土の拡大は長期にわたって帝国に利益をもたらすことになる<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、96頁</ref>。
== イスタンブルの開発 ==
[[Image:Turkey-3084 (2217258918).jpg|200px|thumb|トプカプ宮殿]]
[[Image:James Robertson Fatih Mosque.jpg|200px|thumb|ファーティフ・モスク]]
コンスタンティノープル征服後、メフメト2世は町をイスラム教徒の居住地とし、減少した人口を回復させるために様々な政策を打ち出した<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、78頁</ref><ref group="注">メフメト2世の征服後も、コンスタンティノープルが町を指す名称として使用されることが多かった。(林『オスマン帝国500年の平和』、89頁)</ref>。メフメト治下のイスタンブルでは、宗教、公共施設や商業施設の建設が推進された。メフメトと同時代のギリシャ人歴史家クリトヴォロスは、イスタンブルの復興事業やキリスト教徒の保護を称賛した<ref name="har544"/>。
=== イスラーム都市の建設 ===
[[アヤソフィア]]などのキリスト教の教会は[[モスク]]に改築され、新たに建立されたモスクを中心にイスラム教徒の居住区(マハッレ)が形成された<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、78-79頁</ref>。メフメトの治世の末期、かつて{{仮リンク|聖使徒大聖堂 (コンスタンディヌーポリ)|en|Church of the Holy Apostles|label=聖使徒大聖堂}}が存在していた場所に、おそらくスルタンの権威を示すために{{仮リンク|ファーティフ・モスク|en|Fatih Mosque, Istanbul}}が建立された<ref name="hayashi-k91">林『オスマン帝国500年の平和』、91頁</ref>。モスクの周辺には[[マドラサ|メドレセ]](学院)、病院、救貧院などの付随する施設も建てられた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、80-81頁</ref><ref name="chuko123">永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、123頁</ref>。メドレセには各地から学生が集まり、イスラームの諸学を修めた。
ビザンツ時代の水道設備は修復された上、新たに上水道が引かれたことで、市民は生活用水を得られた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、82頁</ref>。
これらの施設の建設と運営にあたっては、商店を宗教施設に[[ワクフ (イスラム)|ワクフ]]として寄進し<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、81-82頁</ref>、商店の賃貸料と売り上げから運営費を捻出した<ref name="hayashi-k91"/>。1457年ごろから<ref name="hayashi-k91"/>、施設の運営費を賄うためにイスタンブルには多くの[[バザール]]が作られた<ref name="chuko123"/>。[[カパルチャルシュ|グランドバザール]]の原型もメフメトの治世に完成する。
グランドバザールの西、後に[[イスタンブル大学]]が置かれた場所に宮殿が造営されたが、市場に近いという理由で別の場所への移転が検討される<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、83-84頁</ref>。1465年にイスタンブル旧市街の東端に新たな宮殿の建設を開始し、1478年に宮殿が完成した。新しい宮殿は大砲が置かれた門にちなんで[[トプカプ宮殿]]と呼ばれるようになり、オスマン皇帝の住居、帝国の政治の中心地となった<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、84頁</ref>。
=== 多民族都市としてのイスタンブル ===
町の復興にあたっては、ビザンツ時代からの市民は保護を受け、帝国各地の異なる民族をイスタンブルに移住させた。イスタンブルにはイスラム教徒だけでなく、独自の技術と人脈を持つギリシャ・[[アルメニア]]のキリスト教徒やユダヤ人も集められ、イスタンブルは他文化が共存する町となった<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、86頁</ref>。ビザンツ時代からの住民であったギリシャ人には手厚い保護が与えられ、イスラム教徒から不満が起こるほどだった<ref name="chuko123"/>。
しかし、アナトリアの住民の間にはイスタンブルの発展と移住に抵抗を示し、時折強制移住策が実施された<ref name="hayashi-ya234"/>。また、[[ジハード]]の継続を主張する人間の中には、ヨーロッパ征服の前線基地であるエディルネを首都に支持する意見もあった<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、92頁</ref>。メフメトの治世から「イスタンブルは呪われた町である」という噂が流れ、噂の中ではメフメトの政策が批判された<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、92-93頁</ref>。
== 年表 ==
*[[1432年]][[3月30日]] - 誕生
*[[1444年]] -
*[[1451年]] - 父[[ムラト2世]]死去。2度目の即位。
*[[1452年]] - [[ルメリ・ヒサール]]を建設
*[[1453年]] - [[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルを攻略]]、ビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])を滅ぼす
*[[1456年]] - [[ベオグラード]]包囲の失敗、[[アテネ公国]]を滅ぼす
*[[1459年]] - [[セルビア王国 (中世)|セルビア公国]]を滅ぼす、[[トプカプ宮殿]]の建設を開始
*[[1461年]] - [[モレアス専制公領|モレアス専制公国]]、[[トレビゾンド帝国]]を滅ぼす
*[[1463年]] - [[ボスニア|ボスニア王国]]を滅ぼす
*[[1468年]] - [[カラマン侯国]]の大部分を併合
*[[1470年]] - [[エヴィア島|ネグロポンテ]]を制圧
*[[1472年]] -
*[[1475年]] - [[クリミア・ハン国]]を服属させる
*[[1476年]] - [[モルダヴィア]]への遠征
*[[1478年]] - [[アルバニア]]への遠征
*[[1479年]] - [[ヴェネツィア共和国]]との講和、トプカプ宮殿完成
*[[1480年]] - [[ロードス島]]攻略の失敗、[[イタリア遠征]]、[[オトラントの戦い]]
*[[1481年]][[5月3日]] - 死去
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
==
<references/>
== 参考文献 ==
*
* 小山皓一郎「メフメト2世」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
*
* 永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)
* 羽田明「メフメット2世」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
*
* 林佳代子「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
* 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
* 三橋富治男『トルコの歴史』(世界史研究双書, 近藤出版社, 1990年12月)
* ジョン.W.バーカー「メフメト2世」『世界伝記大事典 世界編』11巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1981年6月)
* テレーズ・ビタール『オスマン帝国の栄光』(鈴木董監修, 富樫瓔子訳, 「知の再発見」双書51, 創元社, 1995年11月)
* アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)
* ジョルジュ・カステラン『ルーマニア史』(萩原直訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1993年10月)、16-17頁
* ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, アリアドネ企画, 1998年6月)
* エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』( 川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)
* ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)
* アンドレイ・オツェテァ『ルーマニア史』1巻(鈴木四郎、鈴木学共訳, 恒文社, 1977年5月)
== 関連項目 ==
{{
*[[オスマン帝国]]
*[[オスマン帝国の君主]]
175 ⟶ 283行目:
*[[トプカプ宮殿]]
*[[プロテスタントとイスラム]]
{{オスマン帝国皇帝}}
185 ⟶ 292行目:
[[Category:1481年没]]
[[Category:エディルネ出身の人物]]
[[Category:アジアの紙幣の人物]]
{{link FA|ar}}
|