「加藤和宏 (JRA)」の版間の差分

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|体 = 53kg
|血 = A型
|団 = JRA[[日本中央競馬会]]
|厩 = [[二本柳俊夫]]・[[中山|中山]]-[[美浦トレーニングセンター|美浦TC]](1975/3 - 1989/11)年11月)<br />フリー(1989/11 - 引退2005年2月
|初 = 1975年
|区 = 平地
|引 = 2005年2月28日
|重 = 3132勝(中央31勝/地方含む1勝
|G1 = 7勝(中央6勝/地方含む1勝
|通 = 6536戦610勝<br />(中央6476戦604勝/地方59戦6勝)
|調初 = [[2005年]](同年開業)
|調重 = 3勝(中央2勝/国外1勝)
|所 = [[美浦トレーニングセンター]]
|調G1 = 1勝(国外1勝)
|調通 =
|所 = [[美浦トレーニングセンター|美浦T.C.]] (2005年- )
}}
'''加藤 和宏'''(かとう かずひろ、[[1956年]][[3月4日]] - )は、[[日本中央競馬会]] (JRA) [[美浦トレーニングセンター]]に所属する[[調教師]]、元[[騎手]]。JRA所属の元騎手の[[調教助手]][[加藤士津八]]は息子。他に息子の1人が[[小島太]]厩舎の厩務員をしている
 
1975年に中央競馬で騎手デビュー。所属する[[二本柳俊夫]][[厩舎]]の[[主戦騎手]]として2年連続の[[JRA賞|JRA年度代表馬]]となった[[ホウヨウボーイ]]や、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬[[シリウスシンボリ]]など4頭の[[八大競走]]・[[競馬の競走格付け|GI級競走]]優勝馬に騎乗、また[[騎手#フリー|フリー]]となってからも[[エリザベス女王杯]]に優勝した[[ホクトベガ]]などに騎乗した。2005年に騎手を引退し、調教師に転身。主な管理馬に[[オーストラリア]]のGI競走[[オールエイジドステークス]]に優勝した[[ハナズゴール]]がいる。
[[高崎競馬場]]に所属していた騎手で現在は[[金沢競馬場]]調教師の[[加藤和宏 (NAR) |加藤和宏]]は[[同姓同名]]の別人である<ref>1999年の日経賞では、中央の加藤和宏がシグナスヒーローに、高崎の加藤和宏がリキアイフルパワーに騎乗し、同一競走、しかも重賞競走で2人の「加藤和宏」が騎乗するという非常に珍しい記録となった(シグナスヒーロー5着、リキアイフルパワー6着)。</ref>。
 
同じくJRA騎手であった[[加藤士津八]]は長男。他に息子の1人が[[小島太]]厩舎の厩務員をしている。
== 来歴 ==
 
1956年、北海道[[夕張市]]に生まれる。小学2年生の時に父親の家業の関係で、馬産が盛んな[[浦河町]]に移り住んだが、少年期は特別に騎手を志してはいなかった<ref>木村 263頁。</ref>。中学3年生のとき、調教師の[[二本柳俊夫]]が騎手候補生を探していたところ、近所の牧場が小柄で運動神経に優れた加藤を紹介する<ref>加藤は中学時代に[[体操競技|体操]]部に所属し、地域で指折りの選手であった。(木村 262頁)</ref>。これがきっかけとなって中学校卒業後の1972年、[[馬事公苑]]騎手養成長期課程に第22期生として入所した。同期生には[[根本康広]]、[[佐々木晶三]]などがいる。
[[高崎競馬場]]に所属していた騎手で現在は[[金沢競馬場]]調教師の[[加藤和宏 (NAR) |加藤和宏]]は[[同姓同名]]の別人である<ref group="注">1999年の日経賞では、中央の加藤和宏がシグナスヒーローに、高崎の加藤和宏がリキアイフルパワーに騎乗し、同一競走、しかも重賞競走で2人の「加藤和宏」が騎乗するという非常に珍しい記録となった(シグナスヒーロー5着、リキアイフルパワー6着)。</ref>。
 
== 歴 ==
=== 生い立ち ===
1956年、北海道[[夕張市]]に生まれる<ref name="kimura">木村(1994)pp.262-264</ref>父親は[[炭鉱]]労働者であったが、炭鉱業の斜陽を見越して加藤が小学2年生の時に父親の業の関係馬産が盛んな地である[[浦河町]]に移り住んだ<ref name="kimura" />。中学時代には器械体操部に所属し、地域で有数の選手だったが、少年期は特別将来に騎手を志してたわけではなかった<ref>木村 263頁。<name="kimura" /ref>。中学3年生のとき、調教師の[[二本柳俊夫]]が騎手候補生を探していたところ、近所の牧場が小柄で運動神経に優れた加藤を紹介する<ref>加藤は中学時代に[[体操競技|体操]]部に所属し、地域で指折りの選手であった。(木村 262頁)<name="kimura" /ref>。これがきっかけとなって中学校卒業後の1972年、[[馬事公苑]]騎手養成長期課程に第22期生として入所した<ref name="kimura" />。同期生には[[根本康広]]、[[佐々木晶三]]などがいる<ref name="kimura" />
 
=== 騎手時代 ===
騎手課程修了後の1975年に騎手免許を取得し、二本柳厩舎所属でデビュー。初年度は4勝に終わったが、2年目から徐々に勝利数を増やし、中堅騎手として定着いく。1980年、厩舎所属馬[[ホウヨウボーイ]]に騎乗して[[日経賞]]を制し、[[重賞]]初勝利を挙げる。同年末には同馬で[[有馬記念]]も制し、[[八大競走]]初制覇も果たした。同年、騎乗技術賞を初受賞。以後も二本柳厩舎のホウヨウボーイで[[主戦騎手天皇賞|天皇賞(秋)]]として[[シャダイアイバー]]で[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]、[[アンバーシャダイ]]で[[天皇賞|天皇賞(春)]]などを次々と制した。1985年頃には「加藤は強い馬に乗っているから大レースに勝てている。運がいいだけ」という評もあったが、[[東京優駿野平祐二]]はこの評価に異を唱え、最初から強い馬に乗っていたのならともかく、調教と実戦の積み重ねで馬を鍛錬する二本柳厩舎の特色に加藤の努力も寄与しているはずだと反論した<ref name="nohira">野平(1986)pp.96-98</ref>。さらにその騎乗ぶりを評して「彼の騎手としての資質の良さは一に判断力にすぐれていること」「精神的なしたたかさ、渋太さは並のものではありません」とも述べている<ref name="nohira" />。また、馬主の[[西山茂行]]はこの頃の加藤を評して「かけねなく超一流の腕をもっていた」としている<ref>西山(1992)p.249</ref>。1985年の日本ダービーは[[シリウスシンボリ]]に騎乗、それまでに紆余曲折があったが、1番人気に応えて優勝を果たし、優勝騎手インタビューでは「ゆかりちゃん、やっよ!」と、前年に結婚した妻の名を叫んで話題となった<ref>これは加藤が好きなボク([[#ング映画『ロッキー2』で、世界王者となった主人公がング上で恋人の名を叫ぶラを意識したもボリだった。(木村 268頁。騒動]]</ref>。また、口取り式では息子の士津八を抱いて写真撮影に臨んでいる
 
1989年、二本柳厩舎を離れ、[[フリーランス|フリー]]となる。以後勝利数が30勝前後で安定、1993年の[[エリザベス女王杯]]では、[[ホクトベガ]]に騎乗して[[二冠馬|二冠牝馬]][[ベガ (競走馬)|ベガ]]等を退け、[[馬場鉄志]]による「ベガはベガでもホクトベガ」の実況で知られる波乱を起こした。以後も毎年重賞を制し、1999年には[[ワールドクリーク]]で[[地方競馬]]の[[ダートグレード競走|統一GI競走]]・[[東京大賞典]]に優勝した。
 
しかし2000年代以降は成績が下降線を辿る。[[2003年]]に息子・士津八の騎手デビューで親子騎手となったが、2年後の[[2005年]]に調教師免許を取得し、同年に騎手を引退した。通算64766536604610勝(数字は中央うちJRA6476戦604勝)。競馬通信記者み)。加藤栄は、厩舎所属時代の加藤二本柳の方針から他厩舎の馬に騎乗することが極端に少なく、フリーとなって以後は騎乗馬を集める営業力に欠けたとも言われる。このため指摘し、「腕の割に勝利数が少ない」と評してう意見もあった<ref>『競馬騎手読本』pp.47-48頁。</ref>。
 
=== 調教師時代 ===
2005年、[[美浦トレーニングセンター]]に厩舎を開業。初出走は同年[[5月28日]][[東京競馬場|東京競馬]]第4競走のビクトリアスで3着。初勝利は同年[[10月29日]]東京競馬第1競走のアリマエクセレントで、延べ54頭目であった。[[2012年]][[3月3日]]の[[チューリップ賞]]を[[ハナズゴール]]で制し、重賞初勝利。[[2007年]]に同馬第1回[[ジョッキトラリア人馬主マイケル・ズ]]出場騎希望で2014年からオーストラリア遠征を行い、[[調教助]]転身していた士津八らの帯同のもと<ref>{{Cite web |url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=86444 |title=豪GI連ね、シャダイア制したハナズゴールのマケル・タバートオーナー、喜び[[勝負服 (競馬)|服色author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2014年4月27日 |date=2014-4-26}}</ref>、遠征3戦目の[[オールエイジドステークス]]で参戦に優勝4着、調教師いう結果しての加藤ともどもGI初制覇国外の競走で果たした。
 
== シリウスシンボリと加藤の騒動 ==
加藤がシリウスシンボリと1985年のクラシック戦線に臨む際、同馬[[馬主]]であった[[和田共弘]]が二本柳に対し騎手を[[クラシック_(競馬)|クラシック岡部幸雄]]を前、それま替えるよう要求したことに端を発する騒動。シリウスシンボリは3歳時<ref group="注">当時の表記。2001年以後の表記は2歳。</ref>(1984年)に4戦2勝レース成績あったが、敗れた2戦は1位入線も斜行・進路妨害によ失格騎乗ミタート敗戦があ出遅れから追い込み届かず2着という内容だった。和田は「加藤はシリウスに乗って一度ならず二度までもミスを犯している。降ろすのが当然だ。競馬というのは強い馬に最高のジョッキーを乗せるのが本来の姿だ。それがファンへの信頼にもつながる。いま日本で最高のジョッキーは岡部だ。だから、[[私は岡部幸雄]]への乗り替わり求め乗せ。しかしい<ref name="nohira2">野平(1986)pp.216-217</ref>」と二本柳に迫り、対する二本柳は「加藤が岡部に比べて一枚も二枚も見劣るということミスをし断じないのだか気性加藤を乗せる。だいいちデビュー前からゲート<ref group="注">発馬機(ゲート)からスタートを苦手とすること。</ref>のあったシリウスを上手く乗りこな一生懸命に矯正して一人前にした加藤の苦労はどうなんだ」と主張反発、これを拒否するた<ref name="nohira2" />これを受けて和田はシリウスを[[畠山重則]]厩舎へ転厩させるが、これが同馬の日常の世話を続けた[[厩務員]]に対しても酷薄な仕打ちであるとして、厩務員[[組合]]が和田を糾弾する事態となった<ref name="ichimaru">市丸(1992)p.112</ref>。折衝の末にシリウスは二本柳厩舎に戻り、「4歳初戦の[[若葉ステークス|若葉賞]]は岡部、日本ダービー前哨戦の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]から加藤」という妥協案で合意した。ダービー優勝によって円満解決になると思われたが、この後シリウスシンボリは[[菊花賞]]に向かわず、約2年にわたって[[ヨーロッパ|欧州]]遠征を行った。この遠征では加藤は騎乗していない<ref name="nohira2" />
 
岡部が騎乗したシリウスは若葉賞を快勝したが、加藤で臨むはずだったNHK杯は脚部不安で回避となり、日本ダービーへは直行となった<ref name="nohira2" />。加藤はこの日本ダービーで冷静な騎乗を見せ<ref>野平(1986)pp.218-219</ref>、騒動を振り払っての優勝を果たした。競走後のインタビューでは自らの好む映画『[[ロッキー2]]』の主人公に倣い、観客の面前で妻の名を叫んだ<ref>木村(1994)p.268</ref>。和田は風邪を理由として競馬場に姿を見せず<ref name="ichimaru" />、競走後には、加藤のスパートは早すぎた、ゴール後にガッツポーズをしたのは安全面へのプロ意識に欠ける、といったコメントを出した<ref>野平(1986)p.220</ref>。日本ダービーのあとシリウスシンボリはヨーロッパ遠征を行い、加藤や二本柳の手を離れることになった。
== 騎手成績 ==
 
== 成績 ==
=== 騎手成績 ===
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:right; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
!通算成績!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗回数!!勝率!![[連対率]]
46 ⟶ 57行目:
|[[平地競走|平地]]||601||542||594||4,725||6,462||.093||.177
|-
|[[障害競走|障害]]||3||0||0||1411||1714||.214||.214
|-
|計||603604||542||594||4,736||6,476||.093||.178
|}
上記のほか地方競馬で59戦6勝。
 
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
67 ⟶ 79行目:
|}
 
==== おもな騎乗馬 ====
※括弧内は加藤騎乗時の優勝重賞競走。
 
*[[ホウヨウボーイ]](1980年'''有馬記念'''、日経賞 1981年'''天皇賞・秋''')
'''八大競走・GI競走優勝馬'''
*[[アンバーシャダイ]](1981年[[目黒記念|目黒記念・秋]] 1982年[[アメリカジョッキークラブカップ]] 1983年'''天皇賞・春'''、アメリカジョッキークラブカップ)
*[[ホウヨウボーイ]](1980年'''有馬記念'''日経賞 1981年'''天皇賞・秋'''など重賞3勝
*[[シャダイアイバー]](1982年'''優駿牝馬''')
*[[シリウスシンボリャダイアイバー]](1985(1982'''東京優駿'''牝馬
*[[アンバーシャダイ]](1983年天皇賞・春など重賞5勝)
*[[シリウスシンボリ]](1985年東京優駿)
*[[ホクトベガ]](1993年'''[[エリザベス女王杯]]'''、[[フラワーカップ]]など重賞3勝
*[[ワールドクリーク]](1999年'''[[東京大賞典]]'''
 
'''その他重賞競走優勝馬'''
*シャダイコスモス(1985年[[中山牝馬ステークス]])
*[[ウインドストース]](1987年[[中日新聞杯]]、[[函館記念]]、[[ダービー卿チャレンジトロフィー]] 1988年ダービー卿チャレンジトロフィー)
*サシオギ(1990年[[タマツバキ記念]])
*ヒカルダンサー(1990年[[府中牝馬ステークス|牝馬東京タイムズ杯]])
*[[ダイナマイトダディ]](1992年[[中山記念]]、[[京王杯スプリングカップ]])
*ジャニス(1992年府中牝馬ステークス)
*[[ホクトベガ]](1993年'''[[エリザベス女王杯]]'''、[[フラワーカップ]])
*ゴーゴーナカヤマ(1995年[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]])
*アジュディケーター(1996年京成杯3歳ステークス)
*[[アロハドリーム]](1997年[[中京記念]]、函館記念)
*[[ワールドクリーク]](1999年'''[[東京大賞典]]''')
*[[タヤスケーポイント]](1999年[[マーチステークス]]、[[プロキオンステークス]])
*[[ペインテドブラック]](1999年[[青葉賞]])
*[[ダイヤモンドビコー]](2002年[[府中牝馬ステークス]])
 
=== 調教師成績 ===
{| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center; border-collapse:collapse; padding: 1px;"
!||日付||競馬場・開催||競走名||馬名||頭数||人気||着順
90 ⟶ 112行目:
|初勝利||2005年10月29日||4回東京7日1R||2歳未勝利||アリマエクセレント||10||4||1着
|-
|重賞初出走||2005年8月14日||1回札幌2日9R||クイーンSステークス||ホウザングラマー||14頭||14||12着
|-
|重賞初勝利||2012年3月3日||1回阪神3日11R||チューリップ賞||ハナズゴール||14頭||4||1着
|-
|GI初勝利||2014年4月26日||[[ロイヤルランドウィック競馬場|ロイヤルランドウィック]]6R||オールエイジドステークス||ハナズゴール||14頭||4||1着
|}
 
==== おもな管理馬 ====
'''GI競走優勝馬'''
*[[ハナズゴール]](2012年チューリップ賞、2013年[[京都牝馬ステークス]])
*[[ハナズゴール]](2014年[[オールエイジドステークス]]など重賞3勝)
 
'''その他の管理馬'''
*[[ホクトスルタン]]([[庄野靖志]]厩舎へ転厩)
 
== 注釈・出典 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典・脚注 ===
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== 参考文献 ==
*野平祐二、芹沢邦雄『名騎手たちの秘密 - 野平祐二の実戦的騎乗論』(中央競馬ピーアール・センター、1986年)ISBN 978-4924426177
*西山茂行『馬主が書いた一日一言』(ミデアム出版社、1992年)ISBN 978-4944001286
*[[市丸博司]]『サラブレッド怪物伝説』(廣済堂出版、1994年)ISBN 4331652025
*木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729