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| influenced = 多くの[[マルクス主義]]者<br />[[フリードリヒ・エンゲルス]]<br />[[ミハイル・バクーニン]]<br />[[ハンナ・アーレント]]<br />[[パウロ・フレイレ]]<br />[[柄谷行人]]<br />[[アントニオ・ネグリ]]<br />[[フランクフルト学派]]<br />[[フランス現代思想]]の哲学者<br />[[ポストモダン]][[哲学]]<br />その他多数
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'''カール・ハインリヒ・マルクス'''({{lang-de|Karl Heinrich Marx}}, [[1818年]][[5月5日]] - [[1883年]][[3月14日]])は、[[
== 概要 ==
1818年に[[プロイセン王国]][[トリーア]]に[[ユダヤ人]]弁護士の息子として生まれる。代々トリーアの[[ラビ]]を務めてきた家系であった。6歳の時に家族とともに[[ユダヤ教]]から[[プロテスタント]]に改宗。[[1830年]]から[[1835年]]にかけてトリーアの[[ギムナジウム]]で学び、ついで1835年から[[1836年]]にかけては[[ボン大学]]、1836年から[[1841年]]までは[[ベルリン大学]]で学ぶ。ベルリン大学在学中に[[ブルーノ・バウアー]]などの影響を受けて[[青年ヘーゲル派]](ヘーゲル左派)になる。その立場から論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』を執筆し、[[1840年]]に[[イェーナ大学]]から哲学博士号を授与される。ボン大学の教授をしていたバウアーのコネで教授になろうとするも、バウアーがプロイセン政府の圧力で解任されたことでその夢は断たれた。
[[1842年]]1月から急進派ブルジョワとヘーゲル左派の協力で創刊された『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』のジャーナリストとなる。10月には同紙の編集長に就任した。プロイセン政府の検閲による取り潰しを避けるため、穏健な論調で反封建主義活動を行ったが、結局禁止処分を受け、[[1843年]]3月に廃刊させられた。この後、書斎にこもって再勉強に集中し、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学に批判的となっていき、[[弁証法]]や市民社会階級の対立などの概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の立場から離れ、[[ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]の人間主義の立場に立つようになった。また1843年6月には幼馴染で4歳年上の貴族の娘{{仮リンク|イェニー・マルクス|label=イェニー・フォン・ヴェストファーレン|de|Jenny Marx}}と結婚した。
1843年10月から[[フランス]]・[[パリ]]に移住。そこで[[アーノルト・ルーゲ]]とともに『{{仮リンク|独仏年誌|de|Deutsch-Französische Jahrbücher}}』を発刊した。その創刊号にマルクスは『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』を寄せ、プロレタリア階級を中心とする「人間解放」の必要性を訴えた。しかし同誌はほとんど売れず、創刊号のみで廃刊となった。この後、[[フリードリヒ・エンゲルス]]の影響を受けて経済学の勉強をするようになり、のちに『{{仮リンク|経済学・哲学草稿|de|Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844}}』としてまとめられるノートや草稿を残した。1844年には[[フリードリヒ・エンゲルス]]とともに『[[聖家族]]』を共著し、バウアー派を「哲学の世界だけにこもり、プロレタリア軽視する聖家族」と批判した。これ以降エンゲルスと親しい関係になる。
1845年1月にフランス政府の命令によりパリから追放され、2月に[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]に移住した。この際にプロイセン国籍を放棄した。1845年夏にエンゲルスと『[[ドイツ・イデオロギー]]』を共著した。この頃からフォイエルバッハも批判するようになり、[[唯物史観]]を萌芽させた。さらに1847年には『{{仮リンク|哲学の貧困|de|Das Elend der Philosophie}}』を著し、プルードンをプロレタリア革命ではなく[[社会改良主義]]ですませる者として批判し、また労働者の賃金と労働者の生産物の価値が異なることを主張して[[剰余価値]]理論を萌芽させた。1847年1月には国際秘密結社「[[共産主義者同盟]]」を結成する。同組織の綱領として1848年に『[[共産党宣言]]』を著した。
[[1848年革命]]が勃発するとプロイセン領[[ケルン]]へ赴き、自由主義ブルジョワの出資者を見つけて『[[新ライン新聞]]』を発行。[[プロレタリア革命]]の「前段階」たる[[ブルジョワ革命]]を叱咤激励しながら、ヨーロッパ各地の民族運動を支持し、また「反動の本拠地」[[ロシア帝国]]との開戦を煽った。しかし保守派が息を吹き返した後の[[1849年]]5月に国外追放処分を受けた。
フランスを経て1849年8月にイギリス・[[ロンドン]]へ亡命。定職を持たず、朝から晩まで[[大英博物館]]の図書館にこもり猛勉強するようになった。[[1850年]]1月に雑誌『{{仮リンク|新ライン新聞 政治経済評論|de|Neue Rheinische Zeitung. Politisch-ökonomische Revue}}』を発刊し、のちに『[[フランスにおける階級闘争]]』として公刊される論文を掲載したが、ほとんど売れず、まもなく廃刊した。[[1851年]]秋からは『{{仮リンク|ニューヨーク・トリビューン|en|New-York Tribune}}』紙のロンドン通信員となる。[[1851年]]12月にフランスで大統領[[ナポレオン3世|ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世)]]によるクーデタが勃発するとこれに反発して『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』を著した。経済学研究も少しずつ進めていき、[[1859年]]には『[[経済学批判]]』、[[1866年]]には『[[資本論]]』第1巻を著し、唯物史観と剰余価値理論をまとめた。故国プロイセンの労働運動の動向にも常に注目し、[[フェルディナント・ラッサール]]の対自由主義ブルジョワでプロイセン宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]と共闘する路線に反対した。
[[1864年]]9月に[[第一インターナショナル]]が結成されると、その規約の起草を主導し、さらに指導権も掌握した。フランス人メンバーの[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン主義]]、イギリス人メンバーの[[労働組合主義]]や[[議会主義]]といった[[社会改良主義]]を抑えながら自らの[[プロレタリア独裁]]の路線にインターナショナルを縛りつけることに腐心した。また1869年からインターナショナルに参加した[[ミハイル・バクーニン]]がマルクスの独裁に反対して地方団体独立と[[ユダヤ陰謀論]]を主張するようになり、それとの闘争にも苦労した。[[1871年]]には[[パリ・コミューン]]を支持したが、それによって急速に世論から危険視されるようになった。悪評に耐えかねたイギリス人メンバーが独自の組織を作って事実上マルクスの指導から独立。もはやこれまでと見たマルクスは、[[1872年]]のハーグ大会でバクーニンを追放するとともにアメリカに本部を移す決議をし、インターナショナルを事実上終わらせた。
[[1875年]]には[[ドイツ帝国]]の労働運動の二流(マルクス系のアイゼナハ派とラッサール派)がゴータ綱領のもとに合同したが、マルクスはこのゴータ綱領をラッサール派への投降と見て反対し、『[[ゴータ綱領批判]]』を著した。[[1881年]]12月に妻に先立たれ、[[1883年]]3月には彼も死去した。死後、エンゲルスがマルクスの遺稿を編纂して『資本論』第2巻と第3巻を出版した。
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== 生涯 ==
=== 出生
[[File:Karl Heinrich Marx House.JPG|250px|thumb|ブリュッケンシュトラーセ(当時はブリュッケンガッセ)にある{{仮リンク|カール・マルクスの生家|label=マルクスの生家|de|Karl-Marx-Haus}}。<br/><small>この家は[[1928年]]に[[ドイツ社会民主党|ドイツ社会民主党(SPD)]]によって買い取られ、以降マルクス博物館として保存されている。[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]政権下で社民党が解散していた時期にはナチ党機関紙の本部になっていた。戦後再興した社民党によってマルクス博物館に戻された<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。</small>]]
[[1818年]][[5月5日]]午前2時頃、[[プロイセン王国]]{{仮リンク|ニーダーライン大公国県|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}に属する[[モーゼル川]]河畔の町[[トリーア]]のブリュッケンガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる<ref name="ウィーン(2002)21"/><ref name="石浜(1931)41">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.41</ref><ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref><ref name="カー(1956)14">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.14</ref>。
父は[[ユダヤ教]][[ラビ]]だった[[弁護士]]{{仮リンク|ハインリヒ・マルクス|de|Heinrich Marx (Justizrat)}}<ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref><ref name="石浜(1931)41">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.41</ref><ref name="小牧(1966)39">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.39</ref>。母は[[オランダ]]出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスボルク(Presburg))<ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref><ref name="石浜(1931)41">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.41</ref><ref name="小牧(1966)39"/>。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄に夭折したモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィー(Sophia)がいた<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている<ref name="廣松(2008)17"/>。
マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたって[[トリーア大司教]]領の首都だったが、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]中には他の[[ライン地方]]ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地は[[ウィーン会議]]の決議に基づき[[封建主義]]的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、 [[ナポレオン法典]]の存続も認めた。そのため[[自由主義]]・[[資本主義]]・[[カトリック]]の気風は残された<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)76">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.76</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.18/22</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.26-27</ref>。
マルクス家は[[1723年]]以来、トリーアで代々ユダヤ教ラビ職を世襲してきた家系であり、マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父{{仮リンク|ザムエル・マルクス|de|Samuel Marx (Rabbiner)}}もその地位にあった<ref name="ウィーン(2002)17">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.17</ref>。父ハインリヒも元はラビでユダヤ名をヒルシェルといったが<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref>、彼は[[ヴォルテール]]や[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の影響を受けた自由主義者だった<ref name="小牧(1966)39"/><ref name="石浜(1931)44">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.44</ref><ref name="城塚(1970)25">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.25</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)76"/>。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し{{#tag:ref|プロイセン政府は1815年にも[[ドイツ連邦]]規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[エドゥアルト・ガンス]]らもこの時期に改宗している<ref name="廣松(2008)19">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19</ref>。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の{{仮リンク|法務大臣 (プロイセン)|label=法務大臣|de|Liste der preußischen Justizminister}}{{仮リンク|フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン|de|Friedrich Leopold von Kircheisen}}から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19-20</ref>。|group=注釈}}、[[1816年]]([[1817年]]春とも)にプロイセン[[国教]]である[[プロテスタント]]に改宗して「[[ハインリヒ]]」の洗礼名を受けた<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17-19</ref>。
母方のプレスボルク家は数世紀前に[[中欧]]からオランダへ移民したユダヤ人家系であり<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>、やはり代々ラビを務めていた<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref><ref name="メーリング(1974,1)36">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36</ref>。母自身もオランダに生まれ育ったので、[[ドイツ語]]の発音や書くことに不慣れだったという<ref name="小牧(1966)39"/><ref name="石浜(1931)45">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.45</ref><ref name="カー(1956)15"/>。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちも[[シナゴーグ|ユダヤ教会]]に籍を入れさせた<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。
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=== 幼年期 ===
[[File:Trier BW 2011-09-22 18-02-16.JPG|180px|thumb|ジメオンガッセ(当時はジメオンシュトラーセ)にある{{仮リンク|カール・マルクスの育った家|label=マルクスの育った家|de|Karl-Marx-Wohnhaus}}]]
一家は[[1820年]]にブリュッケンガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。
マルクスが6歳の時の[[1824年]]、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の[[1825年]]に改宗した<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで[[反ユダヤ主義]]が強まりつつある時期だった<ref name="石浜(1931)46">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.46</ref><ref name="メーリング(1974,1)40">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.40</ref>。
マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる<ref name="廣松(2008)21">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.21</ref><ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。学校に入る前のマルクスの幼年時代については他の兄弟姉妹によく[[泥団子]]を食わせていたなどといった逸話以外不明な点が多い<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。
父ハインリヒは息子カールに素質を見出し、その将来を嘱望したが、同時に息子の中に潜む「魔性」も感じ取り、不安に思っていたという<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36-37</ref>。
=== トリーアのギムナジウム ===
[[1830年]]、12歳の時にトリーアの{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム (トリーア)|label=フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム|de|Friedrich-Wilhelm-Gymnasium (Trier)}}に入学した<ref name="廣松(2008)22">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.22</ref><ref name="ウィーン(2002)21-22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21-22</ref><ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref><ref name="小牧(1966)42">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.42</ref>。この[[ギムナジウム]]は父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった<ref name="廣松(2008)25">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.25</ref><ref name="小牧(1966)43">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.43</ref><ref name="ウィーン(2002)22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.22</ref>。
1830年にフランスで[[7月革命]]があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近い{{仮リンク|ハンバッハ|de|Hambach (bei Diez)}}でも[[1832年]]に自由と[[ドイツ統一]]を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。[[1833年]]にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された<ref name="廣松(2008)25">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.25</ref><ref name="ウィーン(2002)22"/>。ついで1834年1月には父ハインリヒも{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた<ref name="ウィーン(2002)19">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.19</ref><ref name="廣松(2008)26">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.26</ref>。さらにギムナジウムの[[数学]]と[[ヘブライ語]]の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.22</ref><ref name="廣松(2008)27">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.27</ref>。
マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)<ref name="廣松(2008)27">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.27</ref>。
卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』<ref name="石浜(1931)47">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.47</ref><ref name="太田(1930)5">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.5</ref><ref name="廣松(2008)29">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.29</ref><ref name="メーリング(1974,1)42">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.42</ref>。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」としており、ここにすでに[[唯物論]]の影響が見られるという指摘もある<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.47-48</ref><ref name="廣松(2008)29">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.29</ref><ref name="メーリング(1974,1)42"/><ref name="太田(1930)5"/>。
{{-}}
=== ボン大学 ===
[[File:Marx1.jpg|180px|thumb|1836年ボン大学学生時代のマルクス]]
[[1835年]]10月に[[ボン大学]]に入学した<ref name="石浜(1931)52">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52</ref><ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52-53</ref>。文学に熱中し、大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.64-65</ref>。マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref>。
また1835年に18歳になったマルクスは{{仮リンク|プロイセン陸軍|de|Preußische Armee}}に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。胸の疾患は確かなようだが、病状をいささか誇張して兵役を逃れた可能性が指摘されている<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。
マルクスは学内の自由主義ブルジョワ学生の集まり「詩人クラブ」に入会した<ref name="ルフェーヴル(1960)82">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.82</ref>。マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的だったという<ref name="廣松(2008)65">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65</ref>。それでもマルクスの所属する「詩人クラブ」は保守派貴族学生の集まりである「コール・ボルュシァ」のメンバーとよく衝突していた。マルクス自身も「コール・ボルュツァ」所属の貴族と[[決闘]]を行って左目の上に傷を受けた<ref name="ルフェーヴル(1960)82">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.82</ref><ref name="廣松(2008)66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66</ref>。
全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、[[ピストル]]不法所持で警察に一時勾留されたりもしている<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。乱交生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという<ref name="メーリング(1974,1)43">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.43</ref>。
[[1836年]]夏にトリーアに帰郷した際に{{仮リンク|イェニー・マルクス|label=イェニー・フォン・ヴェストファーレン|de|Jenny Marx}}と婚約した<ref name="ウィーン(2002)27">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.27</ref><ref name="廣松(2008)66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)83">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.83</ref><ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref>。彼女の父{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン|de|Ludwig von Westphalen}}は貴族であり、参事官としてトリーアに居住していた<ref name="石浜(1931)56">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.56</ref><ref name="廣松(2008)156">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.156</ref>。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.22-23</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.26/28</ref><ref name="メーリング(1974,1)43">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.43</ref>、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」だった彼に惹かれていたという<ref name="ウィーン(2002)28">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.28</ref>。
貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた<ref name="ウィーン(2002)27">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.27</ref><ref name="カー(1956)23">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.23</ref>。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、1837年に婚約を許してくれた<ref name="ルフェーヴル(1960)83">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.83</ref>。
{{-}}
=== ベルリン大学 ===
[[File:Berlin Universitaet um 1850.jpg|250px|thumb|マルクス在学中から10年後の1850年の[[ベルリン大学]]を描いた絵。]]
[[1836年]]10月に[[ベルリン大学]]に転校した<ref name="石浜(1931)57">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57</ref><ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref><ref name="メーリング(1974,1)51">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.51</ref>。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった<ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref><ref name="石浜(1931)55">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.55</ref><ref name="メーリング(1974,1)50">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.50</ref>。しかしマルクス自身はイェニーと疎遠になると考えてこの転校に乗り気でなかったという<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57-58</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66-67</ref><ref name="メーリング(1974,1)50"/>。
同大学で受けた講義は法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67-68</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.62-64</ref>。だが詩や美術史への関心は持ち続け、それに[[ローマ法]]への関心が加わって[[哲学]]に最も強い関心を持つようになった<ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref>。[[1837年]]と[[1838年]]の冬に病気をしたが、その時に療養地[[シュトラロー]]で[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学{{#tag:ref|[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは「この世の全てのものは絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)が矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。そしてこの概念で把握することを「[[弁証法]]」と呼んだ。ヘーゲルのこの考えに従えば理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そしてプロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとってはフランス革命的な西欧自由主義への対抗として都合のいい哲学であった。しかしヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。封建主義的なプロイセンの現状の肯定することを嫌がる左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスもこのヘーゲル左派の立場に立った<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.72-76</ref>。|group=注釈}}の最初の影響を受けた<ref name="石浜(1931)66">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.66</ref><ref name="廣松(2008)80">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.80</ref>。
以降ヘーゲル中央派に分類されつつも[[ヘーゲル左派]]寄りの[[エドゥアルト・ガンス]]の授業を熱心に聴くようになった<ref name="廣松(2008)67">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67</ref>。また[[ブルーノ・バウアー]]や{{仮リンク|カール・フリードリヒ・ケッペン|de|Karl Friedrich Köppen}}、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]、{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク|de|Adolf Friedrich Rutenberg}}らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「[[ドクター|ドクトル]]・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた<ref name="ウィーン(2002)39">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)32">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.32</ref><ref name="メーリング(1974,1)54">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.54</ref>。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.68-69</ref><ref name="メーリング(1974,1)64">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.64</ref>。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」が[[キリスト教]]批判・[[無神論]]に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)97">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.97</ref>。
ベルリン大学時代にも乱交生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて父ハインリヒは手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500[[ターレル]]以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている<ref name="廣松(2008)68">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.68</ref><ref name="メーリング(1974,1)56">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.56</ref>。またハインリヒは病弱だったので息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしている事が心配でならなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39-40</ref>。
[[1838年]][[5月10日]]に父ハインリヒが病死した。父のプレッシャーから解放されたことで法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった<ref name="ウィーン(2002)43">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43</ref><ref name="廣松(2008)93-94">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.93-94</ref>。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、[[古代ギリシャ]]の哲学者[[エピクロス]]と[[デモクリトス]]の論文の執筆を開始した<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)42">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.42</ref>。だが母ヘンリエッテは一人で7人の子供を養う身の上になってしまったから長兄マルクスにはさっさと卒業して働いてほしがっていた。しかしマルクスは新たな仕送りを要求するばかりだったので母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった<ref name="廣松(2008)93-94"/>。
[[1840年]]に[[キリスト教]]と[[正統主義]]思想の強い影響を受ける[[ロマン主義]]者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]がプロイセン王に即位し、保守的な{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン|de|Johann Albrecht Friedrich von Eichhorn}}が{{仮リンク|文部大臣 (プロイセン)|label=文部大臣|de|Preußisches Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten}}に任命されたことで言論統制が強化された<ref name="石浜(1931)74">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.74</ref><ref name="ウィーン(2002)44">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.44</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="廣松(2008)123-124">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.123-124</ref><ref name="メーリング(1974,1)71">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.71</ref>{{#tag:ref|前王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は優柔不断な性格の王でヘーゲル派の{{仮リンク|カール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン|de|Karl vom Stein zum Altenstein}}を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった<ref name="廣松(2008)123-124"/>。|group=注釈}}。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派の[[フリードリヒ・シェリング]]教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)44"/>。
そのようなこともあってマルクスはベルリン大学に論文を提出することを避け、[[1841年]][[4月6日]]に審査が迅速で知られる[[イェーナ大学]]に『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の[[4月15日]]に同大学から哲学博士号を授与された<ref name="石浜(1931)72">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.72</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.45-46</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.44/51</ref><ref name="メーリング(1974,1)77">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.77</ref>。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している<ref name="石浜(1931)72">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.72</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.59/61-62</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.105-106</ref>{{#tag:ref|[[デモクリトス]]と[[エピクロス]]はアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.67-68</ref>。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスを[[ストア派]]や[[懐疑主義]]とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.54-59</ref>。|group=注釈}}。
=== 大学教授への道が閉ざされる ===
[[File:Bruno Bauer.jpg|180px|thumb|[[ブルーノ・バウアー]]。<br/><small>若い頃のマルクスのヘーゲル左派・無神論仲間だったが、後にマルクスは彼に敵意を飛ばすようになる。</small>]]
1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した<ref name="カー(1956)28">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.28</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月に[[ボン]]へ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった<ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーのコネは大して期待しておらず、いざという時には[[岳父]]ヴェスファーレンのコネで大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.125-126</ref>。
ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった<ref name="カー(1956)31">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.31</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。この後、二人はボンで無頼漢のような生活を送りはじめた。酒に溺れ、[[ロバ]]でボンの街中を走りまわり、教会の中で大声で喚くというキリスト教に対する冒涜を行って楽しんだ<ref name="ウィーン(2002)46">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.46</ref>。そうした無頼漢生活の極めつけが敬虔なキリスト教徒が書いたように見せかけた匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』を[[ザクセン王国]][[ライプチヒ]]で出版したことだった<ref name="石浜(1931)75">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.75</ref><ref name="ウィーン(2002)46"/><ref name="カー(1956)31">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.31</ref>。これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる<ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref><ref name="カー(1956)31"/>。
この本は各方面に動揺を与えたが、やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーであると判明し、その意図も明らかとなった<ref name="ウィーン(2002)46"/>。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。[[1842年]]3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた<ref name="カー(1956)31"/><ref name="ウィーン(2002)46">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.46</ref><ref name="城塚(1970)67">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.67</ref><ref name="廣松(2008)128">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.128</ref>。
マルクスのもう一つのコネである岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった<ref name="廣松(2008)128">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.128</ref>。
{{-}}
=== 『ライン新聞』のジャーナリストとして ===
[[File:Rheinische-zeitung.gif|180px|thumb|マルクスが編集長を務めていた『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』]]
1841年夏にルーゲは検閲が比較的緩やかな[[ザクセン王国]]の王都[[ドレスデン]]へ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.76-77</ref><ref name="城塚(1970)68">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.68</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref><ref name="ウィーン(2002)49">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.49</ref>{{#tag:ref|ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している<ref name="石浜(1931)77">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.77</ref>。|group=注釈}}。
ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』に目を転じた<ref name="ウィーン(2002)49">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.49</ref>。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として[[1842年]]1月に{{仮リンク|ダーゴベルト・オッペンハイム|de|Dagobert Oppenheim}}や{{仮リンク|ルドルフ・カンプハウゼン|de|Ludolf Camphausen}}らライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった<ref name="石浜(1931)79">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.79</ref><ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.32-33</ref><ref name="太田(1930)7">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.7</ref>{{#tag:ref|この新聞はカトリック保守新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという<ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref>。|group=注釈}}。
同紙を実質的に運営していたのは社会主義者の[[モーゼス・ヘス]]だったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。マルクスは1842年5月にも[[ボン]](後に[[ケルン]])へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.80-81</ref><ref name="カー(1956)33">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.33</ref>。出版の自由について論じた1842年5月5日の寄稿文で政治ジャーナリストとして注目されるようになった<ref name="ルフェーヴル(1960)101">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.101</ref>。
たちまち頭角を現したマルクスは、10月にルーテンベルクがプロイセン政府の圧力で『ライン新聞』編集長職を辞すると代わって編集長に就任した<ref name="石浜(1931)82">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82</ref><ref name="カー(1956)34">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.34</ref><ref name="廣松(2008)133">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.133</ref>。政府は新編集長マルクスに対して新聞を存続させる条件として同紙の反政府・無神論的傾向を改めることを要求したため、マルクスとしてはバウアー派の急進的な主張を抑えつけて穏健路線をとらざるをえなかった。これによりバウアー派との関係が悪くなった<ref name="ルフェーヴル(1960)102">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.102</ref><ref name="廣松(2008)147">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.147</ref><ref name="城塚(1970)85">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.85</ref>。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref>。
また7月革命後の[[1830年代]]のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が[[1840年代]]以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82-83</ref><ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="城塚(1970)80">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.80</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)101">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.101</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.142-143</ref>{{#tag:ref|ただしこの論説のなかでマルクスは「[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]の洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている<ref name="石浜(1931)82">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82</ref><ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="廣松(2008)143">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.143</ref>。|group=注釈}}。
一方でマルクスは封建主義勢力との本質的な妥協は拒否した。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり{{#tag:ref|農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の[[入会権|慣習上の権利]]を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない<ref name="廣松(2008)140">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.140</ref>。|group=注釈}}、{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}知事{{仮リンク|エドゥアルト・フォン・シャーパー|de|Eduard von Schaper}}の方針に公然と反対するなど法律の枠内で反封建主義闘争を行った<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref>。
だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref>。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと[[神聖同盟]]を結ぶ[[ロシア帝国]]を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり<ref name="ウィーン(2002)63">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.63</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)104">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.104</ref>、[[1843年]]3月をもって廃刊させられることなった<ref name="ルフェーヴル(1960)104"/><ref name="ウィーン(2002)62">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.62</ref><ref name="石浜(1931)85">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.85</ref><ref name="カー(1956)35">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.35</ref><ref name="太田(1930)9">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.9</ref>。
マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている<ref name="ウィーン(2002)64">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.64</ref>。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた<ref name="石浜(1931)87">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.87</ref>。
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年棒600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『{{仮リンク|独仏年誌|de|Deutsch-Französische Jahrbücher}}』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年棒850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152-153</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89-90</ref>。
ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、{{仮リンク|バート・クロイツナッハ|label=クロイツナッハ|de|Bad Kreuznach}}において25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した<ref name="カー(1956)37">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.37</ref><ref name="石浜(1931)90">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90</ref><ref name="廣松(2008)155">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155</ref><ref name="ウィーン(2002)69">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.69</ref>。前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、今の当主{{仮リンク|フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|label=フェルディナント|de|Ferdinand von Westphalen}}(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったので妹を「文無しで国際的に悪名高いユダヤ人」から切り離そうと躍起になったが、イェニーの意思は変わらなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68-69</ref>。
=== フォイエルバッハの人間主義へ ===
[[File:Ludwig feuerbach.jpg|180px|thumb|[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]<br/><small>マルクスは彼から人間主義的唯物論の影響を受けたが、やはり後に敵視するようになった。</small>]]
マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった<ref name="城塚(1970)87">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.87</ref>。その勉強の中で『{{仮リンク|キリスト教の本質|de|Das Wesen des Christentums (Feuerbach)}}』(1841年)を著した[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]の[[人間主義]]的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.81-82</ref><ref name="城塚(1970)88">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.88</ref>。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた<ref name="廣松(2008)190">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.190</ref>)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない。」「つまりヘーゲルは抽象で人間を自己自身から疎外した」「ヘーゲル哲学を破棄しない者は神学を破棄しないということだ」といった主張を行っていた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.104-107</ref><ref name="城塚(1970)90">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.90</ref>。
マルクスはこの人間主義に深く共鳴し、後に『[[聖家族]]』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した<ref name="小牧(1966)107">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.107</ref>。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる<ref name="石浜(1931)89">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.91-92</ref>。
マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった<ref name="石浜(1931)89">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89</ref><ref name="廣松(2008)163">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.163</ref>。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルによれば、近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度だとする。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合すると説く<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.94-96</ref>。これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ<ref name="廣松(2008)171">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.171</ref>、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した<ref name="城塚(1970)97">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.97</ref>。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。後にマルクスはこれを共産主義にして理解していくことになる<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.167-170</ref>。
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=== パリ在住時代 ===
『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスは[[7月王政|フランス王国]]領[[ストラスブール]]を希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めな[[ベルギー王国]]王都[[ブリュッセル]]を希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都[[パリ]]に定められた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90-92</ref><ref name="カー(1956)38">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.38</ref><ref name="廣松(2008)195">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.195</ref>。
こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲの用意した共同住宅で暮らすようになった<ref name="石浜(1931)92">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.92</ref><ref name="ルフェーヴル(1960)105">[[#ルフェーヴル(1960)|ルフェーヴル(1960)]] p.105</ref>。
==== 「人間解放」 ====
[[File:Deutsch Franz Jahrbücher (Ruge Marx) 071.jpg|180px|thumb|『{{仮リンク|独仏年誌|de|Deutsch-Französische Jahrbücher}}』に掲載された『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』<br/><small>この著作からマルクスは「非人間」の[[プロレタリアート]]階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。</small>]]
[[1844年]]2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスや[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]などが寄稿した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.94-95</ref><ref name="小牧(1966)111">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111</ref>。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人である<ref name="小牧(1966)111"/>{{#tag:ref|マルクスはエンゲルスを除く仲間のほとんどを後に批判して敵対していくのだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」<ref name="ウィーン(2002)84">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.84</ref>。|group=注釈}}。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子である。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.55-56</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-128</ref>。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている<ref name="石浜(1931)95">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.95</ref>。
マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『[[ユダヤ人問題によせて]]』と『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』という2つの論文を載せている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111-112</ref><ref name="石浜(1931)95">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.95</ref><ref name="太田(1930)9">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.9</ref>。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって高利貸その他イヤな職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.106-107</ref><ref name="小牧(1966)113">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.113</ref>、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という[[阿片]]に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」<ref name="小牧(1966)115">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.115</ref>、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されている[[プロレタリアート]]階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.116-117</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.114-116</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.219-221</ref><ref name="石浜(1931)96">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.96</ref>。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっとも[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]が紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた<ref name="廣松(2008)222">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.222</ref>。
しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった<ref name="ウィーン(2002)85-86">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85-86</ref>。しかもプロイセン政府に危険視され、ドイツに持ち込まれた分はほとんどが没収され、「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名は帰国次第、逮捕する」という声明がプロイセン政府から出されるに至った<ref name="ウィーン(2002)85">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85</ref><ref name="石浜(1931)105">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.105</ref>。出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった<ref name="廣松(2008)206">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.206</ref><ref name="小牧(1966)121">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.104-105</ref>。
またこの頃からルーゲとの関係が悪くなり、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった<ref name="カー(1956)47">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.47</ref>。
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==== そして共産主義へ ====
[[File:Friedrich Engels-1840-cropped.jpg|180px|thumb|[[フリードリヒ・エンゲルス]](1840年頃)。<br/><small>1844年に『[[聖家族]]』を共著してから親しくなり、以降生涯を通じて最も近しいパートナーとなった。</small>]]
マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた<ref name="小牧(1966)122">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-129</ref>。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化する[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]、[[ジャン=バティスト・セイ|セイ]]などの国民経済学([[古典派経済学]])を批判した<ref name="城塚(1970)128">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.128</ref>。
これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、[[ジェームズ・ミル]]等の国民経済学者の本、また[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]、[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]等の社会主義者の本を読み漁った<ref name="小牧(1966)122">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122</ref>。この時の勉強のノートや草稿の一部を[[ソビエト連邦|ソ連]]のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『{{仮リンク|経済学・哲学草稿|de|Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844}}』である<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.123-124</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.129-130</ref>。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する<ref name="城塚(1970)131">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.131</ref>。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハからの借用そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学研究を加えたことで「労働する人間」と明確に規定するようになった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.136-138</ref><ref name="小牧(1966)124">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124</ref>。「生産的労働を行って、人間の類的本質(社会的共存)を達成することが人間の本来的あり方(自己実現)」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124-125</ref><ref name="城塚(1970)139">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.139</ref>。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を'''[[共産主義]]'''と定義するようになった<ref name="城塚(1970)144">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.144</ref>。
1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、二人で最初の共著『[[聖家族]]』を執筆した。これ以降二人は親しい関係となった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122-123</ref><ref name="石浜(1931)117">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.117</ref>。この著作は『ライン新聞』以降関係が悪くなっていたバウアー派を批判したもので、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した[[唯物弁証法|新しい弁証法]]を確立せねばならない」といった趣旨のことを訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.129-132</ref>。
また1844年7月にルーゲが『{{仮リンク|フォールヴェルツ|de|Vorwärts (Wochenblatt)}}』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.106-108</ref><ref name="ウィーン(2002)87">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.87</ref>。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した<ref name="カー(1956)58-59">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.58-59</ref>。
しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけた。そしてついに1845年1月、[[外務大臣 (フランス)|フランス外務大臣]][[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|フランソワ・ギゾー]]は、[[内務省 (フランス)|内務省]]を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』の関係者を国外追放処分とした<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.108-109</ref><ref name="ウィーン(2002)112">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.112</ref><ref name="カー(1956)58-59"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121-122/135</ref>。
こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.93/109</ref>。
{{-}}
=== ブリュッセル在住時代 ===
マルクス一家は[[1845年]]2月にパリを離れ、ベルギー王都[[ブリュッセル]]に移住した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.135-136</ref><ref name="石浜(1931)109">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.109</ref>。ベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー政府の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した<ref name="ウィーン(2002)112">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.112</ref>。しかしプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで[[無国籍]]者であった<ref name="石浜(1931)124">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.124</ref>。
ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人[[フェルディナント・フライリヒラート]]、元プロイセン軍将校のジャーナリストである{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、学校教師の{{仮リンク|ヴィルヘルム・ヴォルフ|de|Wilhelm Wolff (Publizist)}}、マルクスの義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}などがブリュッセルを往来した<ref name="石浜(1931)130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.130</ref>。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた<ref name="小牧(1966)136">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.136</ref>。ブリュッセルに移住した頃からマルクスは金銭的に困窮するようになり、エンゲルスから金銭援助してもらうようになった<ref name="石浜(1931)122-123">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.122-123</ref>。
==== 唯物史観と剰余価値理論の確立 ====
1845年夏からエンゲルスとともに『[[ドイツ・イデオロギー]]』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった<ref name="小牧(1966)137">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.137</ref><ref name="ウィーン(2002)115-116">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.115-116</ref><ref name="石浜(1931)125">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.125</ref>。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスや[[カール・グリューン]]ら「真正社会主義者」{{#tag:ref|ブリュッセル時代にも[[モーゼス・ヘス]]とマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という分類を受けて敵視されるようになった<ref name="石浜(1931)137">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.137</ref>。|group=注釈}}に批判を加えている<ref name="石浜(1931)129-130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.129-130</ref><ref name="小牧(1966)138">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138</ref>。マルクスは同じころに書いたメモ『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき[[唯物史観]]を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138-139</ref>。
さらに1847年には『{{仮リンク|哲学の貧困|de|Das Elend der Philosophie}}』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学([[フランス語|仏]]:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、[[社会改良主義]]ですませようとしている物として批判したものである<ref name="石浜(1931)144">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.144</ref>。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、[[剰余価値]]理論を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.141-142</ref>。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する<ref name="小牧(1966)142">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142</ref>。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする[[小ブルジョア]]に過ぎない」と結論している<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142-143</ref>。
1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『{{仮リンク|賃金労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」<ref name="小牧(1966)144">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.144</ref>、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.145-146</ref>、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.146-147</ref>。
==== 共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』 ====
[[File:Communist-manifesto.png|180px|thumb|[[共産主義者同盟]]の綱領として書かれた革命実践の小冊子『[[共産党宣言]]』]]
パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった<ref name="小牧(1966)153">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.153</ref>。
1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}、[[フェルディナント・フライリヒラート]]、{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]、{{仮リンク|ヘルマン・クリーゲ|de|Hermann Kriege}}、{{仮リンク|エルンスト・ドロンケ|de|Ernst Dronke (Schriftsteller)}}らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「[[正義者同盟]]」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している<ref name="石浜(1931)146">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146</ref><ref name="小牧(1966)154">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.154</ref><ref name="ウィーン(2002)127">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127</ref>。しかしマルクスの組織運営は独裁的だった。20世紀の多くの共産党独裁国家と同じくマルクスは疑わしき路線を取ろうとした同志を容赦なく粛清した。創設から早々にヴァイトリングとクリーゲを批判して除名し、ついでヘスも辞任に追い込んだ。そのためマルクスは瞬く間に「民主派の独裁者」の悪名をとるようになり、新たな参加者を募ることが困難となった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127-131</ref>。焦ったマルクスは高名なプルードンに参加を要請したが、プルードンからも「不寛容な指導者になってはいけない。もはや議論の余地はないというような態度もいけない。そうした態度を改めるなら貴方の組織に参加しましょう」と諌めの手紙を送られた。激昂しやすいマルクスがこの手の批判を甘受できるわけはなく、この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する<ref name="ウィーン(2002)132">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.132</ref>。
新たな参加者が現れず、停滞気味の中の[[1847年]]1月、ロンドン正義者同盟の{{仮リンク|マクシミリアン・ヨーゼフ・モル|de|Maximilien Joseph Moll}}がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスは渡りに船とこれを許可した。こうして6月のロンドンでの大会(マルクスは路銀が用意できず、エンゲルスが代わりに出席)で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「[[共産主義者同盟]]」を結成することを正式に決議した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146-150</ref><ref name="小牧(1966)155">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.155</ref>。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された<ref name="ウィーン(2002)138">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.138</ref>。
合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった<ref name="ウィーン(2002)138">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.138</ref>。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『[[共産党宣言]]』を完成させた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.153-154</ref><ref name="小牧(1966)156">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.156</ref>。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった<ref name="ウィーン(2002)145">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.145</ref>。
この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という衝撃的な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.157-162</ref><ref name="石浜(1931)155">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.155</ref>。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」に激しい攻撃を加える{{#tag:ref|たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによる[[ギルド]]的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「空想的社会主義」などである<ref name="石浜(1931)155"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.163-165</ref>。|group=注釈}}。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている<ref name="小牧(1966)166">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.166</ref>。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。
{{Quotation|共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ<ref name="カー(1956)79">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.79</ref>。}}
=== 1848年革命をめぐって ===
[[File:Revolutions of 1848 in Europe (pasopt eng).svg|280px|thumb|[[1848年革命]]のヨーロッパ。]]
1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都[[パリ]]で[[1848年]]2月22日に暴動が発生し、24日に[[フランス王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位を追われて[[フランス第二共和政|共和政]]政府が樹立される事件が発生した(2月革命)<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.158-160</ref><ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>{{#tag:ref|ルイ・フィリップ王は1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]で[[復古王政]]が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]の一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.157-158</ref>。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生<ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである<ref name="石浜(1931)160">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.160</ref><ref name="ウィーン(2002)151">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.151</ref>。|group=注釈}}。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及した。全ヨーロッパで自由主義・民主主義・社会主義・共産主義・[[ナショナリズム]]・民族統一運動など「進歩思想」が燃え上がった。これを[[1848年革命]]と呼ぶ。
{{仮リンク|ドイツ連邦議会 (ドイツ連邦)|label=ドイツ連邦議会|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}議長国である[[オーストリア帝国]]の帝都[[ウィーン]]では3月13日に学生や市民らの運動により宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下の[[ハンガリー]]や[[ボヘミア]]、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国の[[イタリア統一運動]]も刺激された<ref name="石浜(1931)162">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162</ref>。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}の創設、[[ドイツ統一]]運動に承諾を与えることなどを承諾した<ref name="石浜(1931)163">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.163</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)257-258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.257-258</ref>。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162-163</ref>。そして自由都市[[フランクフルト・アム・マイン]]にドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会([[フランクフルト国民議会]])が設置されるに至った<ref name="小牧(1966)169">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.169</ref>。こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。
==== ベルギー警察に逮捕される ====
マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていた{{仮リンク|フェルディナン・フロコン|fr|Ferdinand Flocon}}から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた<ref name="石浜(1931)166">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.166</ref><ref name="カー(1956)83">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.83</ref><ref name="メーリング(1974,1)266">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.266</ref>。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した<ref name="ウィーン(2002)153">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.153</ref><ref name="カー(1956)83">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.83</ref>。
その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた<ref name="ウィーン(2002)152">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.152</ref>。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された<ref name="小牧(1966)170">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170</ref>。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという<ref name="ウィーン(2002)153">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.153</ref>。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。
マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察の「無法」を批判する声もあるが<ref name="石浜(1931)166">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.166</ref><ref name="小牧(1966)170">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170</ref>、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。」とマルクスの危険分子っぷりを立証するかのような証言を残している<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。
3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町[[ヴァランシエンヌ]]で停まり、マルクス一家はそこから[[乗合馬車]]でパリに向かった<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。
{{-}}
==== 共産主義者同盟をパリに移す ====
[[File:PontdArcole1848 v2.jpg|250px|thumb|1848年の[[パリ]]]]
3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、[[カール・シャッパー]]、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170-171</ref><ref name="メーリング(1974,1)267">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.267</ref>。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを義務付けて組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した<ref name="ウィーン(2002)155">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.155</ref>。
3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>{{#tag:ref|たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>。|group=注釈}}。
マルクスは革命のためにはまずプロパガンダと扇動が重要と考えていた<ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref>。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、[[ゲオルク・ヘルヴェーク]]と{{仮リンク|アデルベルト・フォン・ボルンシュテット|de|Adelbert von Bornstedt}}の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した<ref name="石浜(1931)169">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.169</ref><ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref><ref name="メーリング(1974,1)266">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.266</ref>。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)<ref name="カー(1956)84">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.84</ref>。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに叩き潰されてしまった<ref name="石浜(1931)169">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.169</ref><ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。
マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった<ref name="石浜(1931)171">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.171</ref>。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた<ref name="ウィーン(2002)157">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.157</ref>。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した<ref name="石浜(1931)171">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.171</ref>。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうと[[ヴッパータール]]に向かった<ref name="ウィーン(2002)158">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.158</ref>。
==== ケルン移住と『新ライン新聞』発行 ====
[[File:Neue Rheinische Zeitung N.jpg|180px|thumb|『[[新ライン新聞]]』1848年6月19日号]]
マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方[[ケルン]]に入った<ref name="ウィーン(2002)158">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.158</ref>。
革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.268</ref>。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。
新たな新聞の名前は『[[新ライン新聞]]』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた<ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。
同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>。しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、{{仮リンク|ステファン・ボルン|de|Stephan Born}}からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された<ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>{{#tag:ref|マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していた{{仮リンク|アンドレアス・ゴットシャルク|de|Andreas Gottschalk}}をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。マルクスはゴットシャルクのフランクフルト国民議会不参加方針を指して「ブルジョワとプロレタリアの連携を危うくする左翼党派主義者」と批判したが、マルクス自身もフランクフルト国民議会を「無駄なおしゃべりばかり」と批判していた。またマルクスは「ゴットシャルクは共和主義者ではなく立憲君主主義者」とも批判しているが、マルクス自身も「我々はいきなり一体不可分のドイツ共和国を誕生させられるなどというユートピア思想に陥るつもりはない」という方針を述べていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。ゴットシャルクは貧しい人々への医療活動で名の知れた医師であり、マルクスなどよりはるかに多くの貧民から愛されていた(マルクスの『新ライン新聞』の発行部数は最終的にも6000部といったところだったが、ゴットシャルクのケルン労働者協会は8000人も参加者がいた)。これにマルクスが嫉妬していたものと思われる<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。|group=注釈}}。
同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく偽装だった<ref name="小牧(1966)172">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172</ref><ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref><ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref>。プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、ドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した。また「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見を退けた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172-173</ref>。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った<ref name="メーリング(1974,1)275-276">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.275-276</ref>。
==== 革命の衰退 ====
[[File:Meissonier Barricade.jpg|180px|thumb|パリの[[6月蜂起]]でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画]]
しかし革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及しなかったし、[[4月10日]]にはイギリスで[[チャーティズム]]運動が抑え込まれた<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref>。[[6月23日]]にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも([[6月蜂起]])、[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった<ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)278">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.278</ref>。[[ヨーゼフ・フォン・ラデツキー]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる[[オーストリア軍]]が[[ロンバルディア]](北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した<ref name="エンゲルベルク(1996)280">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.280</ref>。プロイセンでは革命以来{{仮リンク|ルドルフ・カンプハウゼン|de|Ludolf Camphausen}}や{{仮リンク|ダーヴィト・ハンゼマン|de|David Hansemann}}の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.271-272</ref>。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった(マルクスはこれを見て議会政治を嫌うようになる)<ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref>。
革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.272-273/290</ref>。
マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、[[7月7日]]には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された<ref name="ウィーン(2002)164">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164</ref>。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、[[9月25日]]にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164-166</ref>。
10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。
しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。[[10月16日]]にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までに[[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ|ヴィンディシュ=グレーツ伯爵]]率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員{{仮リンク|ローベルト・ブルム|de|Robert Blum}}が見せしめの即決裁判で処刑された<ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.299-300</ref>。プロイセンでも[[11月1日]]に保守派の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク]]伯爵が宰相に就任し、[[11月10日]]には[[フリードリヒ・フォン・ヴランゲル]]元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた<ref name="エンゲルベルク(1996)301">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.301</ref>。
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==== 武装闘争とプロイセンからの追放 ====
[[File:NGR RED.jpg|180px|thumb|1849年5月18日に赤刷りで出した『新ライン新聞』最終号]]
プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した<ref name="エンゲルベルク(1996)303">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.303</ref><ref name="石浜(1931)179">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179</ref>。マルクスはこの納税拒否の決議を暴力的に推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した<ref name="ウィーン(2002)173">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)305">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.305</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179-180</ref>。
[[フェルディナント・ラッサール]]が[[デュッセルドルフ]]でこれに呼応するも、彼は[[11月22日]]に反逆容疑で逮捕された<ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.306</ref>。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、[[1849年]][[2月8日]]に[[陪審制]]の裁判にかけられた<ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.306</ref>。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした<ref name="ウィーン(2002)173">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.173</ref>。
この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。[[3月2日]]には軍人がマルクスの事務所にやってきて[[サーベル]]をガチャつかせて脅迫してきたが、マルクスは拳銃をチラつかせて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、[[ジャコバン派]]の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている<ref name="ウィーン(2002)174-175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.174-175</ref>。
5月にフランクフルト国民議会の決議した[[パウロ教会憲法|ドイツ帝国憲法]]とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領[[プファルツ]]地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン[[皇太弟]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]](後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した<ref name="石浜(1931)182">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.182</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)320">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.320</ref>。
革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref>。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を挑戦的な[[赤]]刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.174-175</ref><ref name="メーリング(1974,1)317">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.317</ref>。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref><ref name="メーリング(1974,1)317"/>。
パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地である[[カイザースラウテルン]]に向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなく[[フランクフルト・アム・マイン]]で釈放された<ref name="メーリング(1974,1)318">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.318</ref>。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた<ref name="メーリング(1974,1)318">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.318</ref><ref name="小牧(1966)176">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.176</ref><ref name="ウィーン(2002)176">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176</ref>。
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==== フランスを経てイギリスへ ====
6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリの{{仮リンク|リール通り|fr|Rue de Lille}}に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。
この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝[[ナポレオン3世]])が大統領を務めていた<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63-68</ref>。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の{{仮リンク|秩序党|fr|Parti de l'Ordre (1848)}}の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、[[6月13日]]に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)<ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。
この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官から[[モルビアン県]]へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここは{{仮リンク|ポンティノ湿地|fr|Marais pontins}}の影響で[[マラリア]]が流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。
ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国は[[イギリス]]以外にはなかった<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。
=== ロンドン在住時代 ===
==== ディーン通りで赤貧生活 ====
[[File:Commemorative plaque "Karl Marx (1818-1883) lived here 1851-56". Dean Street 28, London.jpg|180px|thumb|マルクスが暮らしていた{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の住居。マルクスの[[ブルー・プラーク]]が入っている。]]
ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると<ref name="バーリン(1974)190">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.190</ref>、1849年8月27日に「シャルル・マルクス博士」という偽名で船に乗り、イギリスに入国した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177-179</ref>。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという<ref name="バーリン(1974)191">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.191</ref>。
イギリスに到着したマルクスは早速[[ロンドン]]で住居探しを始めたが、マルクスは金銭感覚がずぼらで、かつ見栄っ張りなところがあったので、家賃を払える当てもないのに{{仮リンク|キャンバーウェル|de|Camberwell}}にある家具付きの立派な家を借りてしまった。もちろん家賃を払えるわけがなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121-122</ref>。
これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だった[[ソーホー (ロンドン)|ソーホー]]・{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた<ref name="カー(1956)123">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123</ref><ref name="石浜(1931)206">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.206</ref><ref name="ウィーン(2002)199">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.199</ref>。
プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。」という状態だったという<ref name="バーリン(1974)205">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.205</ref>。当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した<ref name="カー(1956)127">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.127</ref>。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった<ref name="小牧(1966)180">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.180</ref><ref name="ウィーン(2002)212">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.212</ref>。
それでもマルクスは定職に就こうとせず、毎日のように[[大英博物館]]図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。のみならず勉強のための秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。
生計はエンゲルスからの定期的な仕送り{{#tag:ref|エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206-207</ref>。|group=注釈}}、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)から不定期に金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述する[[アメリカ]]の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親からさえ金の無心をしている(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123/128</ref>。
しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという<ref name="カー(1956)123">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123</ref><ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。
こうした惨めな赤貧生活は、「自分は命令的地位につく資格がある」と思い込んでいたマルクスのプライドをズタズタにし、彼の憎悪と憤怒の感情を高めることにつながったという<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。
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==== 自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動 ====
[[File:Nytrib1864.jpg|250px|thumb|1864年の『{{仮リンク|ニューヨーク・トリビューン|en|New-York Tribune}}』]]
エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる自堕落な日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた<ref name="ウィーン(2002)178">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.178</ref><ref name="メーリング(1974,2)7">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7</ref>。これに応じてエンゲルスも[[11月12日]]にはロンドンへやってきた<ref name="ウィーン(2002)183">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.183</ref>。
エンゲルスや{{仮リンク|コンラート・シュラム|de|Conrad Schramm}}の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月から[[ドイツ連邦]][[自由都市]][[ハンブルク]]で月刊誌『{{仮リンク|新ライン新聞 政治経済評論|de|Neue Rheinische Zeitung. Politisch-ökonomische Revue}}』を出版した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.187-188</ref><ref name="小牧(1966)177">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177</ref><ref name="カー(1956)122">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.122</ref><ref name="ウィーン(2002)187">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.187</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7-8</ref>。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである<ref name="小牧(1966)177">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177</ref>。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.189-190</ref>。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177-178</ref><ref name="カー(1956)122"/>。
ついで1851年秋から[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]で発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『{{仮リンク|ニューヨーク・トリビューン|en|New-York Tribune}}』のロンドン通信員となった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった<ref name="バーリン(1974)209">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.209</ref>。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref><ref name="バーリン(1974)210">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.210</ref>。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである<ref name="石浜(1931)211">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.211</ref>。
マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの[[黒人]][[奴隷]]制を批判した{{仮リンク|ハリエッタ・サザーランド=ルーソン=ゴア (サザーランド公爵夫人)|label=サザーランド公爵夫人|en|Harriet Sutherland-Leveson-Gower, Duchess of Sutherland}}に対して「{{仮リンク|サザーランド公爵|label=サザーランド公爵家|en|Duke of Sutherland}}も[[スコットランド]]の領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある<ref name="バーリン(1974)217">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.217</ref>。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで[[南北戦争]]が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)<ref name="カー(1956)186">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.186</ref>。
==== 共産主義者同盟の再建と挫折 ====
[[1849年]]秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりの[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だった{{仮リンク|アウグスト・ヴィリヒ|de|August Willich}}などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.22-24</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.190-191</ref><ref name="カー(1956)144">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144</ref>。
再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.24-25</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.191-192</ref>。
しかし[[1850年]]夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした[[小ドイツ主義]]統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された([[オルミュッツ協定|オルミュッツの屈辱]])<ref name="メーリング(1974,2)27">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.27</ref><ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.343-344</ref>。
こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり<ref name="石浜(1931)195">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195</ref>、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144-145</ref>。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195-196</ref><ref name="カー(1956)145">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.145</ref>。
1850年[[9月15日]]の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである<ref name="カー(1956)146">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.146</ref>。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃エンゲルスに宛てて彼が送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色である<ref name="カー(1956)147">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147</ref>。
共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。[[1851年]]5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147-149</ref><ref name="小牧(1966)178">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.178</ref>。マルクスは彼らが無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。結局[[1852年]]10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.207-209</ref>。
これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年[[11月17日]]に正式に解散を決議した<ref name="小牧(1966)178"/>。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref>。
==== ナポレオン3世との闘争 ====
[[File:Napoleon-III1.jpg|180px|thumb|マルクスが憎悪した[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]]]
一方フランスでは[[1851年]]12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる{{仮リンク|1852年フランス憲法|label=新憲法|fr|Constitution française de 1852}}を制定して独裁体制を樹立した<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.118-139</ref>。さらに同年12月には皇帝に即位し、[[ナポレオン3世]]と称するようになった<ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。
マルクスは彼のクーデタを考察した『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した<ref name="カー(1956)152">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.152</ref><ref name="ウィーン(2002)225">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.225</ref>。この中でマルクスはブルジョワの分裂(議会内の党派争い、「代表する者」と「代表される者」の乖離)がルイ・ボナパルトの進出を招き、最終的にフランスは議会政治という一階級(ブルジョワ)の支配からのがれるために全ての階級が等しく無力となり、何の階級も代表していない一個人(「[[ルンペン・プロレタリア]]の首領」ルイ・ボナパルト)の専制下におかれてしまったと分析した<ref name="ルイ・ボナパルト(2008)173-174">[[#ルイ・ボナパルト(2008)|ルイ・ボナパルトのブリューメル18日(2008)]] p.173-174</ref>。
その後ナポレオン3世は[[東方問題]]をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]と連携して[[1854年]]から[[クリミア戦争]]を開始した。マルクスはロシアの[[ツァーリズム]]を何より憎んだからこの戦争を歓迎したが、一方で英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵も[[ツァーリ]](ロシア皇帝)の犬だと思いこんでいた{{#tag:ref|[[ナポレオン3世]]はともかく、ロシアに一切容赦がない[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]を「ロシアの犬」とするマルクスの言説は実に奇妙なものだった。そればかりかマルクスは「[[ピョートル大帝]]の時代にロシアとイギリスは秘密協定を結んでおり、以降150年にわたって共謀関係にある。今回ロシアと戦争をしたのはその共謀関係を隠すための偽装工作なのだ」というロシア[[陰謀論]]的主張までするようになった。マルクスのこうした胡散臭い主張はロシア陰謀論者の[[庶民院]]議員{{仮リンク|デヴィッド・アーカート|en|David Urquhart}}の影響だったようである<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.248-249</ref><ref name="バーリン(1974)215">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215</ref>。アーカートは別に社会主義者でも何でもなくただの変人だったが、マルクスと彼の奇妙な友情は彼が死ぬまで続いた。またマルクスは彼からだいぶ金を引き出したようである<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215-216</ref>。|group=注釈}}。それは極端な意見だったが、実際クリミア戦争は[[クリミア半島]][[セヴァストポリの戦い (クリミア戦争)|セヴァストポリ要塞]]を陥落させたところで中途半端に終わった<ref name="メーリング(1974,2)80-81">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.80-81</ref>。
さらにナポレオン3世は[[1859年]]に[[サルデーニャ王国]]宰相[[カミッロ・カヴール]]と連携して[[ロンバルド=ヴェネト王国|北イタリア]]を支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した([[イタリア統一戦争]])。この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した<ref name="メーリング(1974,2)126">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.224-225</ref>。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアが[[ポー川]](北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標は[[ライン川]](西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した<ref name="メーリング(1974,2)126-128">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126-128</ref>。
マルクスが何より恐れていたのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった<ref name="メーリング(1974,2)133">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.133</ref>。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許した[[バーゼルの和約]]に歓声を送り、また[[ウルムの戦い]]や[[アウステルリッツの戦い]]でオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した<ref name="メーリング(1974,2)134">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.134</ref>。
しかしナポレオン3世を嫌うあまり、イタリア統一運動を妨害し、[[ハプスブルク家]]による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にラッサールは疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方の[[シュレースヴィヒ]]と[[ホルシュタイン]]に対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった<ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。この論争について[[フランツ・メーリング]]は「ラッサールはロシアの危険性を軽視し過ぎだったし、一方マルクスとエンゲルスはロシアの侵略性を過大評価しすぎた」としつつ、「ラッサールの方が現実に即していた」と軍配を上げている<ref name="メーリング(1974,2)135-136">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.135-136</ref>。
==== グラフトン・テラスへ引っ越し ====
[[File:Marx3.jpg|180px|thumb|1861年のマルクス]]
1855年春と1856年夏にはマルクスにとって嬉しいニュースがあった。妻イェニーの伯父と母が相次いで死去したことでイェニーがその遺産の一部を相続したのだった<ref name="ウィーン(2002)266">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266</ref>。
早速この金を使って悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部{{仮リンク|ケンティッシュ・タウン|en|Kentish Town}}のグラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した<ref name="ウィーン(2002)266">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266</ref>。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266-270</ref>。
引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ<ref name="バーリン(1974)240">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.240</ref>、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである<ref name="ウィーン(2002)271">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.271</ref>。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.232-233</ref>。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と盛んに危機を訴え、エンゲルスから毎月5ポンドの仕送りと不定期に金の無心をすることを認めさせた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.269-270</ref>。
特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化した。定職に就くことを嫌うマルクスが鉄道の出札係に応募したほどである(顔が怖い上、字が汚いので採用は拒否されている)<ref name="バーリン(1974)240">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.240</ref>。
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==== 『経済学批判』と『資本論』 ====
[[File:Kapital titel bd1.png|180px|thumb|『[[資本論]]』初版のタイトルページ]]
マルクスの最初の本格的な経済学書である『[[経済学批判]]』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。[[1859年]]1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.185-187</ref>。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが[[1866年]]11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『[[資本論]]』第1巻だった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.188-189</ref>。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている<ref name="バーリン(1974)228">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.228</ref>。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。
「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の[[使用価値]](用途)が異なり、またその[[価値]](生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.196-199</ref>
「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して[[剰余価値]]を生み出させ、それを[[搾取]]しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.199-204</ref>
「商品は、[[不変資本]](機械や原料など生産手段に投下される資本)、[[可変資本]](労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って[[利潤率]]が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.203-206</ref>。
そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する<ref name="小牧(1966)208">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.208</ref>。
{{-}}
==== プロイセン帰国騒動 ====
1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が[[崩御]]し、[[皇太弟]]ヴィルヘルムが[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した<ref name="ウィーン(2002)296">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。これを受けてベルリン在住の友人[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]はマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた<ref name="ウィーン(2002)296"/><ref name="江上(1972)132">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.132</ref>。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失って路頭に迷っていたのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた<ref name="ウィーン(2002)296">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。
マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、反封建主義者のマルクスは不快に感じた<ref name="ウィーン(2002)297">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297</ref>。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297-298</ref>。これを知るとマルクスはラッサールから40ポンド借りて早々にロンドンへ帰った<ref name="江上(1972)133">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.133</ref>。
伯爵夫人はこの態度に怒り、「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた<ref name="ウィーン(2002)298">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。マルクスは「そこに住む必要がなければドイツは美しい国だ。もし完璧に自由でいられ、それにいわゆる『政治的良心』が煩わされることがなければ、今後イギリスを発ってドイツへ向かうことは決してないだろう。プロイセンなど言うに及ばず、まして不快極まりないベルリンなど!」と書いている<ref name="ウィーン(2002)298">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。
==== ラッサールとの亀裂 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J0827-500-002, Ferdinand Lassalle.jpg|180px|thumb|[[フェルディナント・ラッサール]]<br/><small>マルクスの友人の社会主義者だが、マルクスと違いヘーゲル左派の影響を残していたので国家に依存した。対資本家で封建主義者と共闘することも厭わなかった。</small>]]
この一件以来ラッサールとの亀裂は深まった。しばらくラッサールと没交渉したが、1862年6月にマルクスが「借金を返す目途が立たなかったので手紙を書きにくかった」と無沙汰をわびる手紙を送ったことで交流が復活し、ラッサールが[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万博]]で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。だがこのらっさーる訪英で二人の友情が戻ることはなく、物別れに終わった。がっかりしたラッサールは早々にベルリンへ帰国した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.152-153</ref>。ラッサールが帰国した後、マルクスはラッサールに手紙を送り、60ポンドの手形の引き受け人になるよう要請したが、ついにラッサールから断られた。これにはマルクスも焦ったらしく、プライドの高い彼にしては珍しい冗長に憐みを乞う手紙をラッサールに送ったが{{#tag:ref|マルクスは当時相当に困窮していたが、毎回エンゲルスに頼みにくかったので、ラッサールから金を無心することを思いついたようである。マルクスのラッサールへの手紙は次の通り。「貴方はわたしがエンゲルスに無断で事を運んでいるように思っていると私は考えたのですが、貴方の手紙を読み返してそれが勘違いだと分かりました。なるほど、私は貴方への手紙でこれにはまったく触れませんでした。私の現実の苦しみを私の手紙に表明も示唆もしなかったことも認めます。ですから、貴方の私の手紙の読み方は間違っており、またそんな風に書いたことで私も間違いを犯して誤解の種をまいたわけです。これが我々を不仲にするのでしょうか。我々の友情はもっとしっかりしたもので、このくらいのショックでダメになるものではないと信じます。私が合理的動物と言えないほどに自制心を失っていた事も認めます。しかし私が自分の頭を撃ち抜いてしまおうかとさえ思っている時に、あたかも検察官のようにふるまうのは寛大な貴方らしくないでしょう。我々の古い友情がなお続いていくことを希望します」<ref name="江上(1972)154">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.154</ref>。|group=注釈}}、ラッサールが返事を出さなかったので二人の交友関係はこれをもって終わった<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.153-154</ref>。
プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党{{仮リンク|ドイツ進歩党|de|Deutsche Fortschrittspartei}}が大議席を獲得していた<ref name="エンゲルベルク(1996)482-483">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.482-483</ref>。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。
ところがラッサールは進歩党の「[[夜警国家]]」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、[[1863年]]に進歩党と決別して{{仮リンク|全ドイツ労働者同盟|de|Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein}}を結成しはじめた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.167-189</ref>。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用した[[ユンカー]]の保守主義者[[オットー・フォン・ビスマルク]]と親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建主義打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。
不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のため[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]をベルリンに派遣した。リープクネヒトはスパイとして全ドイツ労働者同盟に加入し、{{仮リンク|ユリウス・ファールタイヒ|de|Julius Vahlteich}}ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った<ref name="江上(1972)209">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.209</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.245-246</ref>。
ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした<ref name="江上(1972)261">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.261</ref>。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}に彼の死を惜しむ弔辞を書いた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.248-249</ref><ref name="メーリング(1974,2)194">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.194</ref>{{#tag:ref|これについてマルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスが[[ゲットー]]のユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している<ref name="カー(1956)249">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.249</ref>。|group=注釈}}
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==== メイトランド・パークへの引っ越しと贅沢生活 ====
[[1863年]]11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスにとって母の死自体はまったくどうでもよかったが、遺産が出るのは有難かった<ref name="ウィーン(2002)298">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。早速その遺産を使って[[1864年]]3月にグラフトン・テラス近くのメイトランド・パーク(Maitland Park)モデナ・ヴィラズ1番地の一戸建ての住居を借りた<ref name="ウィーン(2002)320">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.320</ref>。
さらに[[1864年]][[5月9日]]には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが、その遺産を全てマルクスに捧げる遺言書を書き残して死去した。これもマルクスにとっては大助かりだった。ヴォルフは何故かやたら金を貯め込んでおり、これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができたのである。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった<ref name="ウィーン(2002)321">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.321</ref>。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれによほど感謝したからであろう<ref name="ウィーン(2002)322">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322</ref>。
急に金回りが良くなったマルクスは浪費生活を始めた。パーティーやサロンを開いたり、旅行に出かけたり、ペットを大量購入したり(犬3匹、猫2匹、鳥2羽)、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである<ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322-323</ref>。
==== 第一インターナショナルの結成 ====
[[File:FRE-AIT.svg|180px|thumb|[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)のロゴ]]
1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う[[綿花]]危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.241-242</ref>。イギリスでは1860年に{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}がロンドンに創設された<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.242-243</ref>。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「{{仮リンク|自由帝政|fr|Empire libéral}}」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり<ref name="鹿島(2004)178">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.178</ref>、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.369-370</ref>。プルードン派や[[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]派の活動も盛んになった<ref name="石浜(1931)243">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.243</ref>。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した<ref name="江上(1972)210">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.210</ref>。
こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。[[1862年]][[8月5日]]にはロンドンの{{仮リンク|フリーメーソン会館 (ロンドン)|label=フリーメーソン会館|en|Freemasons' Hall, London}}でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された<ref name="カー(1956)255">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.255</ref>。労働者の国際組織を作ろうという話になり、[[1864年]][[9月28日]]にロンドンの{{仮リンク|女王劇場 (ロング・エーカー)|label=セント・マーチン会館|en|Queen's Theatre, Long Acre}}でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}の{{仮リンク|ジョージ・オッジャー|en|George Odger}}を議長とする[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)の発足が決議されるに至った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259-261</ref>。
マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人である{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}とともに出席した<ref name="カー(1956)259">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259</ref>。この4週間前に全ドイツ労働者同盟指導者のラッサールが落命していたため、この時点で最も有名なドイツ人労働運動家はマルクスになっていたのである<ref name="カー(1956)251">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.251</ref>。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された<ref name="カー(1956)262">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.262</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.245-249</ref>。
マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは日々仕事がある労働者だったので、日々大英博物館に入り浸っているマルクスに理論で勝てるはずもなかった。そのためすぐにもマルクスが主導権を握ることとなった<ref name="カー(1956)263">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.263</ref><ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。イタリア人の委員が[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]の主張を入れようとしたり、イギリス人の委員が[[ロバート・オウエン|オーエン主義]]を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。とはいえ他の委員にも一応配慮し、前文に「権利・義務」「誠実・道徳・正義」といったマルクスがあまり好まない曖昧な表現も加えた。マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「害をないところへ押し込んでやった」と自慢している<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。
マルクスの起草した規約は全会一致で採択された<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある<ref name="石浜(1931)256">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.256</ref>。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている<ref name="小牧(1966)211">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.211</ref>。
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==== プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争 ====
[[File:Marx1867.jpg|180px|thumb|1867年のマルクス]]
インターナショナルの日常的な指導もマルクスが主導して行った。インターナショナルの指導にあたってマルクスが最初に腐心したのはプルードン主義や労働組合主義・議会主義を退け、インターナショナルを自分のプロレタリア独裁の路線に縛りつけることだった<ref name="カー(1956)266">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266</ref>。
フランス人メンバーは小財産制を確立した[[フランス革命]]に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「小ブルジョワ社会主義」「日和見主義」のプルードン主義に走りやすかった。そのためマルクスが主張する[[私有財産制]]の廃止に賛成せず、私有財産制の制限で済ませようとする者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった<ref name="カー(1956)267">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.267</ref>。
むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は馬鹿にならないのである<ref name="カー(1956)268">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.268</ref>。イギリス人メンバーは[[労働組合主義]]や[[議会主義]]に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった[[社会改良主義|社会改良]]だけで満足することが多く、マルクスの夢想する[[プロレタリア独裁]]と相いれないことが多かった。マルクスに言わせればイギリス議会など「ブルジョワ議会」にすぎないのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266/269</ref>。イギリス人メンバーが{{仮リンク|選挙法改正連盟|en|Reform League}}の指導者である弁護士{{仮リンク|エドモンド・ビールズ|en|Edmond Beales}}をインターナショナルの総評議会に加えようと提起を起こしたことがあったが、マルクスは「インターナショナルがイギリスの[[政党政治]]に巻き込まれることは許されない」としてこれを退けている<ref name="カー(1956)270">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.270</ref>。
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==== リンカーンの奴隷解放政策を支持 ====
1861年に[[アメリカ南北戦争]]が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部([[アメリカ合衆国]])を支持するかアメリカ南部([[アメリカ連合国]])を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしも合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。
マルクスもインターナショナルのイギリス人メンバーにブルジョワへの憎しみを募らせるチャンスと見て、合衆国支持を鮮明に打ち出すことにした。マルクスはインターナショナルを代表して合衆国大統領[[エイブラハム・リンカーン]]に挨拶の手紙を書き、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|アメリカ大使]][[チャールズ・フランシス・アダムズ (1世)|アダムズ]]に提出した。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、民主主義者の言葉使いとは違った特徴的な手紙になったはずだ」と自慢げに語っている<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>
この手紙に対してリンカーンから返事があり、そのことが『[[タイムズ]]』に報道されたことでインターナショナルの宣伝にも繋がった<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。
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==== ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争 ====
[[ファイル:Bismarck pickelhaube.jpg|180px|thumb|プロイセン王国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]]]
ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)は『国民民主主義』紙の{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}が実質的に指導するようになった。彼はラッサールの意志を引き継いでビスマルクの[[小ドイツ主義]]統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)の方針を支持し続けた<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref><ref name="石浜(1931)255">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.255</ref>。またラッサールは自国の労働運動にしか興味はなく、労働者の「国際連帯」なるものにはほとんど関心を持たなかったことから<ref name="カー(1956)293">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.293</ref>、シュヴァイツァーもドイツ連邦の法律を理由にマルクスからのインターナショナルへの加盟要請を断った<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.214-216</ref>。
これに怒ったマルクスとエンゲルスは1865年2月24日付けでシュヴァイツァーと絶縁する声明を出した。その中で「我々は彼らに少なくとも進歩党に対して加えている攻撃と同じレベルの攻撃を封建主義政府や政党に対しても加えるべきことを要求したのだが、受け入れなかった」としてラッサール派を批判している<ref name="石浜(1931)255">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.255</ref>。これを受けてリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、[[アウグスト・ベーベル]]とともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた[[大ドイツ主義]]的な統一を主張するようになった<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)79">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79</ref>。
もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、[[1866年]]の[[普墺戦争]]でオーストリアを撃破し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする[[北ドイツ連邦]]を樹立することに成功した。マルクスとしてはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めたことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.78</ref>。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]選挙に出馬して当選を果たした<ref name="カー(1956)292">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.292</ref>。
マルクスはベーベルを高く評価していた(リープクネヒトの方は「忠実だが無能」扱い)。ベーベルは[[1868年]]初頭にシュヴァイツァーの『国民民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである<ref name="カー(1956)292">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.292</ref>。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めに[[アイゼナハ]]において{{仮リンク|社会民主労働党 (ドイツ)|label=社会民主労働党|de|Sozialdemokratische Arbeiterpartei (Deutschland)}}(アイゼナハ派と呼ばれるようになる)を結成した<ref name="カー(1956)295">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.295</ref>。
マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。
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==== 普仏戦争をめぐって ====
[[File:1870 bei Le Bourget.jpg|180px|thumb|普仏戦争で進軍するプロイセン軍。]]
[[ファイル:Wernerprokla.jpg|250px|thumb|1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿で行われたプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]のドイツ皇帝即位式。白い軍服が[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]。]]
[[1870年]]夏に勃発した[[普仏戦争]]はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。
開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた<ref name="カー(1956)295">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.295</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.81-82</ref>。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.296-297</ref>。
もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じく[[パロディー]]で終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクは[[ケーニヒグレーツの戦い]]以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今や[[ライン川]]の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」<ref name="カー(1956)297">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.297</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79-80</ref>、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした<ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref><ref name="カー(1956)299">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299</ref><ref name="メーリング(1974,3)80">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.80</ref><ref name="ウィーン(2002)385">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385</ref>。
戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬の[[セダンの戦い]]でナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して[[フランス第三共和政|第三共和政]]が樹立されるに至った<ref name="ウィーン(2002)387">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.387</ref>。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらう[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]にへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンが[[アルザス・ロレーヌ]]を併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.298-299</ref>。
9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス・ロレーヌ併合に反対した<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299-300</ref><ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref>。アルザス・ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した<ref name="カー(1956)300">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.300</ref><ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.388-389</ref>。
一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させて[[ドイツ帝国]]を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス・ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した<ref name="カー(1956)301">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.301</ref>。
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==== パリ・コミューン支持をめぐって ====
[[File:Communeprisoners.jpg|250px|thumb|ティエール政府の軍隊により逮捕される[[パリ・コミューン]]のメンバー。]]
マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日には[[アドルフ・ティエール]]政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府[[パリ・コミューン]]を樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.302-303</ref><ref name="ウィーン(2002)391">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。パリ・コミューン誕生の報に接したマルクスは「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性を[[パリジャン]]は持っていることか」と絶賛している<ref name="ウィーン(2002)391">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである<ref name="カー(1956)303">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.303</ref><ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref><ref name="ウィーン(2002)391">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。
マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した<ref name="石浜(1931)269">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.269</ref>。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン攻撃を「蛮行」と批判した。一方でコミューンが人質として捕らえた聖職者を虐殺したことは正当化した<ref name="カー(1956)304">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.304</ref>。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことについて「各国の保守反動政府はプロレタリアの運動を潰すためにはグルになる」という自分の理論が実証されたとした<ref name="カー(1956)304">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.304</ref>。
その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている<ref name="カー(1956)307">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.307</ref>。
しかしコミューンによる暴力革命は全ヨーロッパのマスコミや世論を震え上がらせており、そんなコミューンを擁護するインターナショナルも急速に世論から危険視されるようになった。彼らこそが暴力革命を煽っている黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、[[ユダヤ陰謀論]]が出回るようになった{{#tag:ref|たとえば『{{仮リンク|フレイザーズ・マガジン|en|Fraser's Magazine}}』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた<ref name="ウィーン(2002)399">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.399</ref>。『{{仮リンク|ペルメル・ガゼット|en|Pall Mall Gazette}}』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた<ref name="ウィーン(2002)400">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.400</ref>。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている<ref name="ウィーン(2002)398">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.398</ref>。|group=注釈}}。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった<ref name="カー(1956)309">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.309</ref>。
ここに至ってオッジャーらイギリス人メンバーもいよいよ自分たちの労働組合主義とマルクスの赤色革命主義が根本的に違うことを認識するようになり、オッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した<ref name="カー(1956)310">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.310</ref>。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた<ref name="カー(1956)309">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.309</ref>。
マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるように[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]との闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく<ref name="カー(1956)333">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.333</ref>。
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==== バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争 ====
[[File:Bakunin.png|180px|thumb|[[ミハイル・バクーニン]]<br/><small>ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更に[[ユダヤ陰謀論]]からマルクスの正体を怪しんだ。</small>]]
[[ミハイル・バクーニン]]はロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、[[シベリア]][[流刑]]となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再開し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来[[スイス]]・[[ジュネーブ]]でインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.321-325</ref><ref>[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.380-383</ref>。
バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった<ref name="バーリン(1974)243">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.243</ref>。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスや[[イタリア王国|イタリア]]、[[スペイン]]の支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242/274</ref>。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242-243</ref>。
しかもバクーニンは強烈な[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・[[ユダヤ陰謀論]]の色彩を帯びていった<ref name="バーリン(1974)244">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.244</ref>。たとえば「この世界の大部分は、片やマルクス、片や[[ロスチャイルド家]]の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。」「ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はやがてその犠牲者にされるだろう」「[[ラテン系]]の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。
マルクスはバクーニンを追放する必要性を痛感し、そのためにはあらゆる手段を尽くす覚悟を固めた。1872年6月にはインターナショナル総評議会の決議として『インターナショナルにおける偽装的分裂』を出し、その中でバクーニンを「人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作っている」として厳しく糾弾した<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。さらにバクーニンを失脚させるためのスキャンダルを探し、彼がセルゲイ・ネチャーエフという殺し屋を使って強請を働いているとする証拠書類を[[サンクトペテルブルク]]から入手し、これを1872年9月に[[オランダ]]・[[ハーグ]]で開催された大会において暴露した。これを受けて大会はバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を僅差で可決させた<ref name="ウィーン(2002)416">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.416</ref><ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.273-274</ref>。
==== インターナショナルの終焉 ====
バクーニンを片づけることには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威はすでに地に堕ちていた。前述した「イギリス連合評議会」のせいでイギリス人メンバーが半ば独立してマルクスの指示に従わなくなっていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた<ref name="カー(1956)335">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.335</ref>。
ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・[[ニューヨーク]]に移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そんな話を真に受ける者はなかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref><ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref>。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら[[月]]に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった<ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref><ref name="ウィーン(2002)413">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.413</ref>。『{{仮リンク|ザ・スペクテイター|en|The Spectator}}』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた<ref name="ウィーン(2002)413"/>。
なぜエンゲルスとマルクスはこのような自滅的な提案をしたのか、考えられるのはマルクスの権威が墜落した今となってはヨーロッパのどこに本拠を置いたところでインターナショナルはイギリス人メンバー、プルードン主義、バクーニン派のどれかから強い影響を受けることは避けられないので、そんな連中に乗っ取られるぐらいなら、いっそ全然組織されてないが故にいずれからの影響力もないアメリカに移してインターナショナルを終わらせてしまおうとマルクスが考えたのではないかということである<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274-275</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref>。
多くの人が予想していた通り、アメリカに移って以降インターナショナルは急速に衰退し、最終的には1876年の[[フィラデルフィア]]大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった<ref name="ウィーン(2002)416">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.416</ref><ref name="小牧(1966)215">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.215</ref><ref name="バーリン(1974)275">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.275</ref>。
ちなみにインターナショナルはその13年後(マルクスはすでに死去)に再建されることになるのだが([[第二インターナショナル]])、その時には社会主義勢力はかなり大勢力になっていたので、マルクスの第一インターナショナルと比べて、より影響力があったが、一方でマルクスの嫌う[[議会主義]]・[[社会改良主義]]の色彩も強いという特徴があった<ref name="バーリン(1974)275">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.275</ref>。
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==== 『ゴータ綱領批判』 ====
[[File:Wilhelm Liebknecht 2.jpg|180px|thumb|[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]<br/><small>基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。</small>]]
普仏戦争後の統一ドイツの労働運動はラッサール派が優勢になっており、アイゼナハ派は押されぎみだった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。もちろんロンドンのマルクスがそんな妥協を許すはずもないが、リープクネヒトから見ればマルクスはドイツの政治状況も知らずにロンドンから理論上の原理原則に拘り続ける「部外者」であり、少なくとも政治的戦術についてはこれ以上マルクスに縛られたくないというのが本音だった<ref name="バーリン(1974)276">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.276</ref>。
すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた[[1875年]]2月には[[ゴータ]]で両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである<ref name="カー(1956)394-395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.394-395</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.275-276</ref>。
この合同に際して両党の統一綱領として作られたのが{{仮リンク|ゴータ綱領|de|Gothaer Programm}}だった。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれに激怒し、怒りに満ち溢れた返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙をリープクネヒトに送らせた<ref name="バーリン(1974)276">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.276</ref>。
この時のマルクスの怒りの手紙を後に編纂して出版したものが『[[ゴータ綱領批判]]』である。その中でマルクスは「ゴータ綱領はラッサール派の影響が凄まじく、最悪の敵である国家の正当性をとことん受け入れている。綱領の中にある『労働者階級はまず民族主義国家の内側でその解放のために働く』というのは、まさに労働者の国際連帯を顧みないラッサール流の民族主義・国家主義の表れである。保守反動のビスマルクがさぞかし喜びそうな理論だ。『[[賃金の鉄則]]』などという語句が持ち込まれたのもラッサール派への追従の証である。私が半生をかけて排除してきた自由主義的な曖昧な語句もあちこちに散りばめられており、[[社会改良主義]]とほとんど違わない内容である。」といった具合にラッサール派の影響の強さを批判した<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref><ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。
またアイゼナハ派の要求で押し込まれたマルクス主義的な部分についても「私の言いたいことと全然違う。綱領には『労働はあらゆる富の源泉である』などと書いてあるが、誰がそんなことを言ったのか。私は『労働はあらゆる[[使用価値]]の源泉』といったのだ。『労働の解放は、労働者階級によって遂行されねばならない』などという馬鹿げたことも書いてあるが、私が共産党宣言で言ったのは『労働者階級の解放は労働者自身の行為でなければならない』だ。綱領の文句では労働と労働者階級が別の物でお互いに解放しあえるようではないか。」といった調子で徹底的にあら探しした<ref name="カー(1956)396">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.396</ref>。
リープクネヒトはいつも通り、ロンドンからの「ご神託」を恭しく拝受する姿勢を示したものの、ついにそれを使用しようという気は起こさなかった<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref><ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。ゴータ綱領のもとに[[ドイツ社会主義労働者党]]([[ドイツ社会民主党]]の前身)が結成されるに至った。
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=== 晩年の放浪生活 ===
[[File:Marx old.jpg|180px|thumb|1882年のカール・マルクス]]
マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、[[1873年]]には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降[[鉱泉]]での[[湯治]]を目的にあちこちを巡ることになった。1876年までは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領[[カールスバート]]にしばしば通った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401-402</ref>。1877年にはドイツ・ライン地方の{{仮リンク|バート・ノイエナール=アールヴァイラー|label=ノイエナール|de|Bad Neuenahr-Ahrweiler}}にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という<ref name="カー(1956)402">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.402</ref>。1878年からは[[イギリス王室属領|イギリス王室の私領]]である[[チャンネル諸島]]で湯治を行った<ref name="カー(1956)403">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.403</ref>。
1880年秋からイギリス人社会主義者[[ヘンリー・ハインドマン]]と親しくするようになった。ハインドマンは1881年秋に『万人のためのイギリス』を著したが、その中には『資本論』の要約が多く含まれており、序文には「この本はきっと近いうちに私の同胞(イギリス人)の多数にも読まれるようになるであろう、一人の大思想家・独創的著述家の著述に負うところが多い」と書いてあった。これを見たマルクスはなぜ私の名前をはっきり書かないのかと問う手紙をハインドマンに送ったが、ハインドマンは「イギリス人は外国人に教えられることを好まない」「パリ・コミューンのことでイギリス人から危険人物と思われている貴方の名前を出すとかえって悪い印象が広まる」と返答した。これにムカムカしてきたマルクスはハインドマンと彼の指導する{{仮リンク|社会民主主義連盟|en|Social Democratic Federation}}を悪罵するようになった。これでイギリス社会主義との最後の繋がりも断たれた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.404-405</ref><ref name="バーリン(1974)288">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.288</ref>。
[[1881年]]夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}が[[ジョルジュ・クレマンソー]]からマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった<ref name="カー(1956)406">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.406</ref>。
パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた<ref name="カー(1956)406"/><ref name="石浜(1931)279">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.279</ref><ref name="ウィーン(2002)451">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.451</ref>。
独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために[[1882年]]も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・{{仮リンク|ヴェントナー|en|Ventnor}}を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由して[[フランス植民地帝国|フランス植民地]][[フランス領アルジェリア|アルジェリア]]の[[アルジェ]]へ移った<ref name="石浜(1931)280">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.280</ref><ref name="カー(1956)407">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.407</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)3巻]] p.215-216</ref>。[[北アフリカ]]の灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った<ref name="カー(1956)408">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.408</ref>。アルジェリアからの帰国途中の6月には[[モナコ公国]][[モンテカルロ]]に立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女イェニーの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女イェニーは病んでいた。つづいて次女ラウラとともに[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]を訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した<ref name="石浜(1931)281">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281</ref><ref name="カー(1956)408">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.408</ref><ref name="メーリング(1974,3)216">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.216</ref>。
{{-}}
=== 死去 ===
1883年1月12日に長女イェニーが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されのである。64歳だった<ref name="カー(1956)410">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.410</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281-282</ref><ref name="メーリング(1974,3)217">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)3巻]] p.217</ref>。
その3日後に[[ハイゲイト墓地]]の無宗教墓区域で葬儀が行われて葬られた。家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度だった<ref name="小牧(1966)221">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221</ref>。
葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「[[ダーウィン]]が有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志は[[シベリア]]の鉱山から[[カリフォルニア]]の海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221-222</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)3巻]] p.219-221</ref>。
マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する<ref name="ウィーン(2002)461">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461</ref><ref name="石浜(1931)284">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.284</ref>。
マルクスの死から35年後、マルクスの継承者[[ウラジーミル・レーニン]]の手によってロシアに世界最初のマルクス主義国[[ソビエト連邦]]が誕生するに至る<ref name="石浜(1931)285">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.285</ref>。
{{Gallery
|lines=4
|File:Karl Marx First Grave.jpg|マルクスのもともとの墓(ロンドン、[[ハイゲイト墓地]])
|File:KarlMarx Tomb.JPG|後世に作りなおされたマルクスの頭像付きの墓(ロンドン、ハイゲイト墓地)
|File:Marx Engels Denkmal Berlin.jpg|[[東ドイツ]]時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像([[ドイツ]]・[[ベルリン]]の{{仮リンク|マルクス・エンゲルス・フォーラム|de|Marx-Engels-Forum}})
|File:Chemnitz-Marxmonument-gp.jpg|東ドイツ時代に建てられたマルクスの巨大頭像(ドイツ・[[ケムニッツ]])
}}
{{Gallery
|lines=4
|File:Moscow (8351240107).jpg|[[ソ連]]時代に建てられたマルクス像([[ロシア]]・[[モスクワ]]・{{仮リンク|革命広場 (モスクワ)|label=革命広場|ru|Площадь Революции (Москва)}})
|File:Marx et Engels à Shanghai.jpg|マルクスとエンゲルスの像([[中華人民共和国]]・[[上海]])
|File:Karl Marx in North Korea.jpg|マルクスの肖像画([[北朝鮮]]・[[平壌]]・外国貿易省)
|File:Bundesarchiv Bild 183-19400-0029, Berlin, Marx-Engels-Platz, Demonstration.jpg|マルクス、エンゲルス、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンの{{仮リンク|シュロース広場|label=マルクス・エンゲルス広場|de|Schloßplatz (Berlin)}})
}}
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== 人物 ==
[[File:Karl Marx 1867 Hannover.jpg|180px|thumb|1867年のカール・マルクス]]
=== 健康状態・体格 ===
小柄で肥満体形だった<ref name="石浜(1931)272">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.272</ref>。マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった<ref name="カー(1956)401">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401</ref>。[[肝臓病]]や[[脳病]]、[[神経病]]など様々な病気に苦しんだ<ref name="石浜(1931)274">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.274</ref>。
『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスは思っていた。マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と語っている<ref name="ウィーン(2002)354">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.354</ref>。
酒好きであり<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref>、また[[ヘビースモーカー]]だった。マルクスが娘婿の[[ポール・ラファルグ]]に語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。高級葉巻は金銭的に無理で安物の質の悪い葉巻を吸い続け、その結果、肺を犠牲にしていった<ref name="ウィーン(2002)353">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.353</ref>。
=== 趣味・嗜好 ===
詩や[[劇文学]]を愛好し、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]、[[ウィリアム・シェイクスピア |シェイクスピア]]、[[アイスキュロス]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]などの長い文句を暗唱できたという<ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref>。また[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]の小説をブルジョワ社会を良く分析しているとして高く評価していた。いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった<ref name="バーリン(1974)291">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.291</ref>。
[[チェス]]が好きだったが、よくその相手をした[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]に勝てた試しがなかった。マルクスはリープクネヒトを「バカ」だと思っていたので、彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという<ref name="カー(1956)126">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.126</ref>。
「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として[[赤]]、好きな花として[[月桂樹]]、好きな料理として[[魚料理]]、好きなヒーローとして[[スパルタクス]]、好きなヒロインとして[[ファウスト 第一部|グレートヒェン]]をあげた<ref name="ウィーン(2002)463">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.463</ref>。
他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった<ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref><ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref>。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ<ref name="ウィーン(2002)182">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.182</ref><ref name="メーリング(1974,2)75">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.75</ref>。[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]は「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref>。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤの[[ニガー]]」だった<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref>。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「[[ムーア人]]」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された<ref name="ウィーン(2002)51">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.51</ref><ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref><ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref>。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである<ref name="ウィーン(2002)183">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.183</ref>。
{{-}}
=== プライドの高さ ===
プライドが異常に高く、他人から金の無心をして生計を立てていることを知られるのを極度に恐れていた。1850年にマルクスが[[フェルディナント・フライリヒラート|フライリヒラート]]に金の無心をした際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたばかりにマルクスの「乞食」活動が世間にばれたことがあったが、この時のマルクスの怒りは凄まじく、「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と語った<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。
=== 不寛容さ・独裁性 ===
[[File:Stamp Soviet Union 1954 CPA 1793.jpg|180px|thumb|マルクス、[[エンゲルス]]、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像の入ったソ連の切手]]
不寛容さ、独裁性の強さがしばしば指摘される。1848年8月、当時ボン大学の学生だった[[カール・シュルツ]]はケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」<ref name="ウィーン(2002)163">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.163</ref>。
[[ミハイル・バクーニン]]は「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神[[エホバ]]の如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る<ref name="バーリン(1974)118">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.118</ref>。
マルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している<ref name="カー(1956)145">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.145</ref>。
組織運営の手法も極めて独裁的であり、自分の路線から逸れる者は容赦なく追放した。そのマルクスの不寛容と独裁の精神は20世紀以降の共産党一党独裁国にも受け継がれたといえる<ref name="ウィーン(2002)127">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127</ref>。
{{-}}
=== ユダヤ人について ===
マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘[[エリノア・マルクス]]が自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった<ref name="ウィーン(2002)73">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.73</ref>。
マルクスは自由主義的な[[ライン地方]]に生まれ育ったので[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]や[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]のようにユダヤ人の血のことで苦しむということは少なかった<ref name="江上(1972)13">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.13</ref>。[[フランツ・メーリング]]は「マルクスにとってはユダヤ人であったことは格別な意味を持たなかったが、ハイネにとってはユダヤ人であったことは生涯の幸福とも不幸ともなった。それはハイネの人生から平和と安息を奪ったが、同時に彼を不滅の光を帯びた人類自由の前衛の一人にした」と述べる<ref name="江上(1972)16">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.16</ref>。
マルクスの人種差別的な言論としてよく注目されるのが彼がラッサールに付けた渾名である。マルクスは自身も色黒のユダヤ系なのを棚にあげて、ラッサールが色黒のユダヤ系であるのをからかい、彼のことを「ユダヤの[[ニガー]]」という渾名で呼んだ。しまいには本当にラッサールが[[黒人]]系ユダヤ人と思い込むようになり、エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方([[縮れ毛]])がよく示している通り、彼は[[モーセ]]がユダヤ人を連れて[[エジプト]]から脱出した際に同行した[[ニグロ]]の子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」という奇特な人種観を披露したことがあった<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref><ref name="カー(1956)243">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.243</ref>。マルクスが若いころに書いた『[[ユダヤ人問題によせて]]』も「ユダヤ人=粘着質の高利貸」という世間一般のユダヤ人の戯画をそのまま受け入れているようにも見え、この論文を[[アドルフ・ヒトラー]]の『[[我が闘争]]』の萌芽と見る批評家もいる<ref name="ウィーン(2002)74">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.74</ref>{{#tag:ref|しかしマルクスの伝記を書いた{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}はこの論文を弁護し、「これを『我が闘争』の先触れとする批評家は、本質的な点を見落としている。ぎこちない修辞や生硬な決まり文句と裏腹に、この小論は実際にはユダヤ人を擁護するために書かれたものだということだ。」「粘着質の高利貸ユダヤ人という戯画は当時誰もが思い描いていたユダヤ人像であり、ユダヤという言葉はそのまま商業を意味していたほどなのである。」「大事なことはマルクスはユダヤ人を咎めも批判もしていないということだ」「金も宗教も人間を人間から引き離すものだと訴えていただけである」と述べる。ただウィーンもラッサールを「ユダヤのニガー」呼ばわりしたことへの弁護は避けている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.73-74</ref>。|group=注釈}}。
{{multiple image
| align = right
| image1 = Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield - Project Gutenberg eText 13619.jpg | width1 = 120 | caption1 = [[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]
| image2 = KarlMarx2.jpg | width2 = 128 | caption2 = マルクス
}}
[[アイザイア・バーリン]]は、マルクスと同時代のイギリス首相[[ベンジャミン・ディズレーリ]]は政治的立場としては対極ながら、心理状態には似通ったところがあると見て二人を比較する研究を行っている。彼は「二人とも父親がユダヤ教会から離れたことによってユダヤ教社会から隔絶されたユダヤ人だった。二人の父親は、[[中産階級]]社会に平和的に同化した。しかし父より情熱的だった二人にはもっと強固な[[アイデンティティ]]の足場が必要だった。二人はそのような足場を生来もっていなかったので、創り出すしかなかった。二人は父の願いに反して中産階級に反逆した。ディズレーリは貴族エリート階級の指導者、マルクスは世界[[プロレタリアート]]階級の指導者になるために。二人は[[社交界]]と[[工場]]でいつでも合えるはずのその構成員たちと直接触れ合う事は大して重視せず、一般的にイメージされるその集団に自らを一体化させ、その集団を指導することにだけ関心を示した。二人はそれぞれの方法で自らの出自から逃げようとした。マルクスは自らの出自を隠し、ユダヤ人をブルジョワと同視して下から攻撃することによって、ディズレーリは場違いにユダヤ人を押し出し、ユダヤ人を裕福で奇妙な存在にすることによって。」と分析している<ref name="バーリン(1983)312-314">[[#バーリン(1983)|バーリン(1983)]] p.312-314</ref>。
一方、反ユダヤ主義者の[[ミハイル・バクーニン]]はマルクスのユダヤ人の血から受けている影響力の大きさを確信し、世界を二分するマルクスとロスチャイルド家はユダヤの団結で結び付いており、世界支配を企んでいるというユダヤ陰謀論的主張を発信していた<ref name="ウィーン(2002)408"/>。
{{-}}
=== 労働者について ===
マルクスはそのエリート意識から内心では労働者を軽蔑していたのではとする主張がある。
{{仮リンク|シュロモ・アヴィネリ|en|Shlomo Avineri}}は「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と述べる<ref name="ウィーン(2002)333">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333</ref>。{{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne}}も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と述べる<ref name="ウィーン(2002)333">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333</ref>。
一方{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は、マルクスが貧しい労働者の同志{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}をインターナショナルのドイツ代表に推薦したことからこの種の見解を疑っている。アヴィネリの見解の論拠の一つとなっている[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]に対するマルクスの攻撃的な態度については「ヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」とする<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333-334</ref>。
マルクスは労働者と直接触れ合おうなどという気は起こさなかった。社会状況に関する情報源は自分が直接見るのではなく、あくまで新聞や[[王立委員会]]に求めた。労働者と直接関わることは意図的に避けていたようである<ref name="ウィーン(2002)181">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.181</ref><ref name="バーリン(1974)6">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.6</ref>。
=== 戦争観 ===
現代では資本主義国内のマルクス主義者が反戦主義者であることが多いが、マルクス自身は反戦主義者というわけではなく、その戦争が自分の企図するプロレタリア革命に利用できるかどうかを重視した<ref name="石浜(1931)219">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.219</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77-78</ref>。
1848年革命中の『新ライン新聞』時代にはロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし<ref name="メーリング(1974,1)275-276"/>、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81"/>。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを罵った<ref name="メーリング(1974,2)126-128"/>。[[普墺戦争]]も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.78</ref>。[[普仏戦争]]前半戦も反ナポレオン3世の立場からドイツの戦争遂行を支持したが、ナポレオン3世の第二帝政が倒れ、共和政フランスとの戦いと化した後半戦はドイツの戦争遂行を批判した。
=== 各国観 ===
後半生をイギリスのお世話になったマルクスだが、マルクスにとってイギリスは大英博物館と「ブルジョワ社会の研究材料」という意味しかなかった<ref name="バーリン(1974)22">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.22</ref>。マルクスはイギリス人労働者をかなり軽蔑していた。「一つ確かなことは、巡査の棍棒に頭を叩かれるために特別な頭蓋骨をもつ[[ジョンブル]]は、支配勢力と血まみれの抗争をしなければどこにも辿りつけないということだ」「だがイギリスでは深刻な闘いなど始まりそうにない。イギリスの労働者は奴隷的であり、羊のようにおとなしい。治療不可能なほどブルジョワ感染症になっている」と語っている。そして死の直前にマルクスは「いまいましいイギリス人よ!」と書き残した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.244-245</ref>。
晩年にイギリスの労働運動を見限ったマルクスは、代わってアメリカの労働運動に期待するようになった。「アメリカ人はこっち(ヨーロッパ)とは全く違った気持ちで運動に飛び込んでいく。奴隷制廃止からまだ12年しかたっていないというのにアメリカの運動は、もうこんなに先鋭的になった!」「イギリスなら数世紀を要する諸変革を、アメリカは2、3年で成し遂げることができる」「ヨーロッパの低能どもはアメリカのお上の報告書を読めば有益な教訓を得ることができるだろう」と語ってアメリカに大いなる期待を寄せた。しかし期待が過ぎて「アメリカはプロレタリア革命の世界最初の勝利の舞台になるであろう」というトンデモ予測まで立ててしまった<ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。
結局マルクスが期待した国々ではプロレタリア革命は起きず、マルクスの全く思考外の存在である[[ソビエト連邦|ロシア]]や[[中華人民共和国|中国]]のような原始的な国々でそれは起こってしまったのであった<ref name="バーリン(1974)225">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.225</ref>。
=== その他 ===
*マルクスにはバクーニンやラッサールのような大衆を惹きつける雄弁家の才能がなかった。マルクスの演説は内容をぎっしり詰め込み過ぎだったし、しかも一本調子なので聴衆からは尊敬されることはあっても熱狂されることはなかった。彼は政治家・指導者向きの人物ではなく、あくまで理論の人だった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.6/220</ref>。
*締め切りが近付かないと本気を出さない性格だった。共産主義者同盟からの要請を承諾して『共産党宣言』を書いていた際にも、マルクスは他の活動に熱中するあまり『共産党宣言』の執筆をないがしろにしていた<ref name="ウィーン(2002)144">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.144</ref>。これに苛立った共産主義同盟から1848年1月24日に「2月1日までに提出しないなら何らかの処分を加える」という催促を受け、マルクスはそれから数日のうちに『共産党宣言』を書き上げて2月初旬にも共産主義同盟に『共産党宣言』を送ったということがあった<ref name="ウィーン(2002)145">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.145</ref>。
== 評価 ==
マルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人だった。「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと[[城塚登]]は主張する<ref name="城塚(1970)132">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.132</ref>。そんなマルクスのことを[[フェルディナント・ラッサール]]は「経済学者になった[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]であり、社会主義者になった[[デヴィッド・リカード|リカード]]」と表現した<ref name="ウィーン(2002)276">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.276</ref>。
マルクスはしばしばその思想の独創性の無さを指摘される。たとえば[[労働価値説]]は[[ジョン・ロック]]や[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]ら古典経済学者に依拠しているし、[[搾取]]と[[剰余価値説]]も[[シャルル・フーリエ]]がすでに主張していた。それへの対策の国家統制策も{{仮リンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、{{仮リンク|ウィリアム・トンプソン (哲学者)|label=ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}、[[トーマス・ホジスキン]]らがすでに論じていた<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>。「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論は[[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ|シスモンディ]]の発見であった<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>。「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観はすでに{{仮リンク|シモン=ニコラ=アンリ・ランゲ|fr|Simon-Nicolas-Henri Linguet}}や[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]が主張していた<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>。「プロレタリアの疎外」は[[マックス・シュティルナー]]がマルクスより1年早く主張しているし、プロレタリア独裁は[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が設計したものである<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19-20</ref>。だが、[[アイザイア・バーリン]]はそれらを是認したうえでなおマルクスに統合者としての価値を認める。バーリンによれば「マルクスはドイツ観念論やフランス合理主義、イギリス経済学の様々な素材の中から重要と思われるものを引っ張り出して来て、それらを包括的・現実的に総合しようとした。」という<ref name="バーリン(1974)20">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.20</ref>。
== 家族 ==
[[File:Marx+Family and Engels.jpg|180px|thumb|マルクスと妻{{仮リンク|イェニー・マルクス|label=イェニー|de|Jenny Marx}}、次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ラウラ|de|Laura Lafargue}}、四女[[エリノア・マルクス|エリノア]]。[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]とともに。]]
[[File:Helene Demuth.jpg|180px|thumb|マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドの{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}]]
1836年にトリーア在住の貴族{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン|de|Ludwig von Westphalen}}の娘である{{仮リンク|イェニー・マルクス|label=イェニー(ジェニー)|de|Jenny Marx}}と婚約し、1843年に結婚した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.51/229</ref>。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、それを見せびらかしていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218-219</ref>。
マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父である{{仮リンク|フィリップ・フォン・ヴェストファーレン|label=フィリップ|de|Philipp von Westphalen}}の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家は[[スコットランド]]王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155-156</ref>。
イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となった{{仮リンク|フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|label=フェルディナント|de|Ferdinand von Westphalen}}は、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「文無しの国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた<ref name="ウィーン(2002)68">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68</ref>。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相[[オットー・フォン・マントイフェル]]の方針に背いてまで[[ユンカー]]のための保守政治を推し進めた人物でもある<ref name="メーリング(1974,1)47">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47</ref>。一方イェニーの弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|label=エドガー|de|Edgar von Westphalen}}はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.133-134</ref><ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47-48</ref>。
マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた<ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref>。
長女{{仮リンク|ジェニー・ロンゲ|label=ジェニー・カロリーナ|de|Jenny Longuet}}([[1844年]]-[[1883年]])は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}と結婚した<ref name="石浜(1931)289">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.289</ref><ref name="ウィーン(2002)392">[[##ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.392</ref>。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している<ref name="石浜(1931)290">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.290</ref>。
次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ジェニー・ラウラ|de|Laura Lafargue}}([[1845年]]-[[1911年]])は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者[[ポール・ラファルグ]]と結婚したが、子供ができないことを憂い、1911年にポールとともに「生きている意味を無くした」として自殺した<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.293-294</ref>。
長男エドガー([[1847年]]-[[1855年]])は義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}に因んで名づけ<ref name="石浜(1931)134">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.134</ref>、次男ヘンリー・エドワード・ガイ([[1849年]]-[[1850年]])はイギリス議会爆破未遂犯[[ガイ・フォークス]]に因んで名付けたが<ref name="ウィーン(2002)182">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.182</ref>、両名とも不衛生なディーン通りの住居の環境に耐え抜けず夭折した。三女ジェニー・エヴェリン・フランセス([[1851年]]-[[1852年]])も同じくディーン通りの住居で幼い命を落としている。
四女[[エリノア・マルクス|ジェニー・エリノア]]([[1855年]]-[[1898年]])は、イギリス人社会主義者{{仮リンク|エドワード・エーヴェリング|en|Edward Aveling}}と同棲していたが、このエーヴェリングは女ったらしで、やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された[[青酸カリ]]を飲んで自殺したが、エーヴェリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った。明らかに殺人罪であるが、エーヴェリングが逮捕されることはついになかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461-462</ref>。
ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていた{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}(愛称レンヒェン)は、イェニーとともにマルクス家に入り、マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた<ref name="カー(1956)121">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121</ref>。マルクスは彼女を妊娠させたと言われており、その間の子と見られているのがフレディ・デムートである。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで粛々と働いて静かに暮らし、1929年に77歳で生涯を終えている<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref>。
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== マルクスの著作 ==
[[File:Das Kapital.JPG|180px|thumb|1973年に[[東ドイツ]]で出版された『[[資本論]]』]]
*『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』([[1842年]])
*『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』([[1843年]])
*『[[ユダヤ人問題によせて]]』([[1843年]])
*『{{仮リンク|経済学・哲学草稿|de|Ökonomisch-philosophische Manuskripte aus dem Jahre 1844}}』([[1844年]])
*『[[聖家族]]』([[1844年]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]との共著)
*『[[ドイツ・イデオロギー]]』([[1845年]]、エンゲルスとの共著)
*『{{仮リンク|哲学の貧困|de|Das Elend der Philosophie}}』([[1847年]])
*『[[共産党宣言]]』([[1848年]]、エンゲルスとの共著)
*『{{仮リンク|賃金労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』([[1849年]])
*『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』([[1850年]])
*『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』([[1852年]])
*『[[経済学批判要綱]]』([[1858年]])
*『[[経済学批判]]』([[1859年]])
*『{{仮リンク|フォークト君よ|de|Herr Vogt}}』([[1860年]])
*『{{仮リンク|剰余価値理論|de|Theorien über den Mehrwert}}』([[1863年]])
*『{{仮リンク|価値、価格と利益|de|Lohn, Preis und Profit}}』([[1865年]])
*『[[資本論]]』(1巻[[1867年]]、2巻[[1885年]]、3巻[[1894年]]。2巻と3巻はエンゲルスが編纂・出版)
*『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』([[1871年]])
*『[[ゴータ綱領批判]]』([[1875年]])
*『{{仮リンク|労働者へのアンケート|de|Fragebogen für Arbeiter}}』([[1880年]])
*『{{仮リンク|ザスーリチへの手紙|de|Sassulitsch-Brief}}』([[1881年]])
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|4}}</div>
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[石浜知行]]|date =1931年(昭和6年)|title=マルクス伝|url=http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=53009401|series=偉人傳全集第6巻|publisher=[[改造社]]|ref=石浜(1931)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}|translator=[[田口俊樹]]|date=2002年(平成14年)|title=カール・マルクスの生涯|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022577740|ref=ウィーン(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=[[江上照彦]]|date=1972年(昭和47年)|title=ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9G1V4|ref=江上(1972)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}}
*{{Cite book|和書|author=[[太田恭二]]|date =1930年(昭和5年)|title=マルクスとエンゲルスその生涯と学説|url=http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=44055970|publisher=[[紅玉堂書店]]|ref=太田(1930)}}
*{{Cite book|和書|author=[[E・H・カー]]|translator=[[石上良平]]|date=1956年(昭和31年)|title=カール・マルクス その生涯と思想の形成|publisher=[[未来社]]|asin=B000JB1AHC|ref=カー(1956)}}
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島茂]]|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 <small>第二帝政全史</small>|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}}
*{{Cite book|和書|author=[[小牧治]]|date=1966年(昭和41年)|title=マルクス|series=人と思想20|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧(1966)}}
*{{Cite book|和書|author=[[城塚登]]|date =1970年(昭和45年)|title=若きマルクスの思想|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000J9OBWA|ref=城塚(1970)}}
*{{Cite book|和書|author=[[アイザイア・バーリン]]|translator=[[倉塚平]]、[[小箕俊介]]|date =1974年(昭和49年)|title=カール・マルクス その生涯と環境|publisher=[[中央公論社]]|asin=B000J9G9Z2|ref=バーリン(1974)}}
*{{Cite book|和書|author=[[アイザイア・バーリン]]|translator=[[谷福丸]]|editor=[[福田歓一]]、[[河合秀和]]監修|series=バーリン選集 1|date=1983年(平成5年)|title=思想と思想家|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000010009|ref=バーリン(1983)}}
*{{Cite book|和書|author=[[廣松渉]]|date=2008年(平成20年)|title=青年マルクス論|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582766547|ref=廣松(2008)}}
*{{Cite book|和書|author=カール・マルクス|translator=[[植村邦彦]]|date=2008年(平成20年)|title=[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]][初版]|publisher=[[平凡社]]|series=[[平凡社ライブラリー]]649|isbn=978-4582766493|ref=ルイ・ボナパルト(2008)}}
*{{Cite book|和書|author=[[フランツ・メーリング]]|translator=[[栗原佑]]|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝1|series=[[国民文庫]]440a|publisher=[[大月書店]]|asin=B000J9D4WI|ref=メーリング(1974,1)}}
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝2|series=国民文庫440b|publisher=大月書店|asin=B000J9D4W8|ref=メーリング(1974,2)}}
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝3|series=国民文庫440c|publisher=大月書店|asin=B000J9D4VY|ref=メーリング(1974,3)}}
*{{Cite book|和書|author=[[アンリ・ルフェーヴル]]|translator=[[吉田静一]]|date =1960年(昭和35年)|title=カール・マルクス その思想形成史|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|asin=B000JAPZJ2|ref=ルフェーヴル(1960)}}
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|de|Karl Marx|カール・マルクス}}
{{Wikiquote|カール・マルクス}}
{{Commons|Karl Marx}}
* [[マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]
* [[共産党宣言]]、[[資本論]]
* [[剰余価値]]、[[搾取]]、[[唯物史観]]、[[階級闘争]]、[[プロレタリア独裁]]
* [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[弁証法]]
* [[青年ヘーゲル派]]、[[ブルーノ・バウアー]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]
* [[フリードリヒ・エンゲルス]]
* [[
* [[ミハイル・バクーニン]]
* [[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、[[アウグスト・ベーベル]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ゴータ綱領批判]]
* [[ナポレオン3世]]、[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]
* [[共産主義者同盟]]、[[第一インターナショナル]]、[[パリ・コミューン]]
* [[ロシア革命]]、[[ウラジーミル・レーニン]]、[[ボルシェヴィキ]]
* [[マルクス主義関係の記事一覧]]
[[Category:ドイツの哲学者]]
[[Category:19世紀の哲学者]]
240 ⟶ 718行目:
[[Category:イギリス社会主義の人物]]
[[Category:フランス社会主義の人物]]
[[Category:マルクス主義|**]]
[[Category:マルクス=エンゲルス|*まるくす]]
261 ⟶ 738行目:
[[Category:1818年生]]
[[Category:1883年没]]
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