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: 1937年10月、当時のローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」といった内容の声明を出した。ピオ11世の声明を受け『東京朝日新聞』1937年10月16日付夕刊にて「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と取り上げている。
: 日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の[[首都]][[南京攻略戦|南京陥落]]後も、国民政府は首都を内陸部の[[重慶市|重慶]]に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の[[石原莞爾]]作戦部長は[[ソビエト連邦]]への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使[[トラウトマン工作|トラウトマンによる和平工作]]も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、[[米内光政|米内海相]]などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた<ref>南京戦史資料集、[[偕行社]]、1989年</ref>。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「'''帝國政府は爾後国民政府を対手とせず'''」との声明を出す一方、蒋介石と対立する[[汪兆銘]]と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため[[援蒋ルート]]の遮断を狙い、[[ヴィシー政権]]のフランスと合意の上、[[フランス領インドシナ]]へと進駐したが、このことが[[東南アジア]]を植民地にしていた[[アメリカ]]や[[イギリス]]、[[オランダ]]などを刺激することとなり、アメリカは[[経済制裁]]を発動した。
: 盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いない。一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである<ref>[[古川隆久]]・[[鈴木淳 (歴史学者)|鈴木淳]]・[[劉傑]]『[[第百一師団長日誌]]』中央公論新社、2007年、P6</ref>。
: 計画経済体制の導入、日本の対ソ戦能力の低下、中国の共産化のために、近衛文麿が小事件を戦争まで拡大し、長期化させた、と[[中川八洋]]は主張している<ref>中川八洋『大東亜戦争と「開戦責任」 近衛文麿と山本五十六』弓立社 2000年</ref>。
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: 日本への同調と自国存立のための戦争。[[ソビエト連邦]]と対峙する[[関東軍]]の後方支援に終始し、[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年~1949年)|蒋介石中華民国政府]]とはほとんど交戦しなかった。