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== 経歴 ==
=== 成年前 ===
1955年[[3月2日]]、麻原こと松本智津夫は、[[熊本県]][[八代市]]高植本町(旧・[[八代郡]][[金剛村]])の[[畳]]職人の家庭の四男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた{{要出典|date=2013年7月}}。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力01.30程度だった{{要出典Sfn|高山|2006|datep=2013年7月21}}。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった{{要出典|date=2013年7月}}。父親は敗戦で朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった{{要出典|date=2013年7月}}。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた{{要出典|date=2013年7月}}。両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った<ref name="aumkaranotoi">NCC宗教研究所、富坂キリスト教センター『オウムからの問い、オウムへの問い』新教出版社、2004年2月27日。</ref>。
 
『[[週刊現代]]』[[1995年]][[5月27日]]号「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」記事中で「父親は、[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]である」と[[栗本慎一郎]]が主張した{{要ページ番号|date=2013年7月}}。一方『[[週刊文春]]』[[2000年]]新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の警官で、戦前に[[朝鮮半島]]に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」という{{要ページ番号|date=2013年7月}}。また、[[高山文彦 (作家)|高山文彦]]は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、[[朝鮮]]から引き揚げてきた日本人」との親族の言葉を紹介しており、松本の父は現在の[[大韓民国]][[全羅北道]][[益山市|益山郡]]春浦面の生まれであるとしている{{要ページ番号Sfn|date高山|2006|p=2013年7月20}}。『オウム真理教大辞典』(東京キララ社、[[2003年]])の「麻原彰晃」の項によれば本人による在日」「部落」発言があったという噂があったため、『在日説、部落出身説浮上しあったが、これはデマである」としている{{要ページ番号Sfn|date東京キララ社|2003|p=2013年7月9}}。
[[1961年]](昭和36年)[[4月]]に、一旦は[[八代市立金剛小学校]]に入学するが{{Sfn|高山|2006|p=22}}、[[視覚障害者]]([[隻眼]])を理由に同年秋(6歳)より当時[[熊本市]]出水町今(現在の熊本市中央区[[水前寺]])に所在した[[熊本県立盲学校]]に転校、寄宿舎に移住{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月25}}<ref groupname="注"mougakkou>[http://sakura1.higo.ed.jp/sh/kumamo/enkaku.htm 熊本県立盲学校の沿革] 2013年7月13日閲覧</ref>{{#tag:ref|松本が高等部1年時の[[1970年]](昭和45年)[[9月1日]]には、現住所の熊本市東区東町に校舎と寄宿舎が移転している{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月27}}</ref name=mougakkou/>。|group="注"}}(智津夫の長兄の証言によると、この視覚障害は[[水俣病]]による被害の結果だと思われ、「水俣病患者として役所に申請」したものの、却下されたという<ref>[[藤原新也]]『[[黄泉の犬]]』[[文藝春秋]]、2006年、pp.71-80</ref>。ただし智津夫は水俣病患者としての公的認定を受けていない{{要出典|date=2013年7月}})。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ{{Sfn|高山|2006|p=24}}、転校の際には泣いて嫌がったという{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月23}}。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った<ref name="aumkaranotoi"></ref>。
 
盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配していた{{要出典|date=2013年7月}}。全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり{{Sfn|高山|2006|p=39}}窃盗を命じたり{{Sfn|高山|2006|p=40}}、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などといってお金を巻き上げていた{{要出典|date=2013年7月}}。同室消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋生徒明かり奴隷のように点けたき使うのを寮母がとがめた際には、寮母をにらみつけ、凄みを聞かせた声ふてぶてしい態度で「俺が宿舎ば(を)いて明るするぐらいのこつば(ことは、を)やってやっぞ」といった{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月41}}。生活指導の教師が注意すると「うだけなら何いなにを言うたって勝手だろでしょう」とうそぶくといったこともあった{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月41-42}}。金への執着も強く、同級生への[[恐喝]]によって卒業するまでに300万円を貯金していた<ref name="aumkaranotoi"></ref>。
 
部活動は[[柔道]]に打ち込む{{Sfn|高山|2006|p=37}}一方で、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に[[生徒会長]]、寮長に立候補するが、3度とも全て落選している{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月34-35}}{{Sfn|高山|2006|p=38}}{{Sfn|高山|2006|p=44}}<ref>「教祖 失意重ね、一線越す」『朝日新聞』2004年2月26日朝刊</ref>
 
その後、成績は中程度であったにもかかわらず、[[熊本大学]][[医学部]]を志望するようになり{{Sfn|高山|2006|p=45}}、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗{{要出典Sfn|高山|2006|datep=2013年7月47}}。高等部[[専攻科#特別支援教育諸学校の専攻科|専攻科]]に進学する{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月47}}。[[1975年]](昭和50年)[[1月12日]]には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段([[講道館]])を取得{{Sfn|高山|2006|p=48}}(一連のオウム事件後に[[講道館]]より剥奪{{要出典|date=2013年7月}}。[[鍼灸]]免許も取得した松本は、この頃より「東大法学部卒の政治家となりゆくゆくは総理大臣の座に就くこと」を志すようになった{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月48}}。1975年(昭和50年)[[3月]](20歳)、熊本県立盲学校を卒業した{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月48-49}}。
 
=== 成人後 ===
[[東京大学]][[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|文科1類]]受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に[[東京都]][[江東区]][[大島 (江東区)|大島]]、[[8月]]に[[品川区]][[戸越]]に移住するが、[[9月]]には八代市の実家に戻る{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月53-54}}。[[1976年]](昭和51年)[[1月]]熊本市春日に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月54}}。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市[[黒髪 (熊本市)|黒髪町]]に下宿するが、[[5月]]にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月54-55}}。1976年(昭和51年)[[7月20日]]、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、[[9月6日]]、[[八代簡易裁判所]]にて1万5千円の[[罰金]]刑を受ける{{Sfn|高山|2006|p=55}}。
 
[[1977年]](昭和52年)[[4月]](22歳)に再上京し、[[代々木ゼミナール]]渋谷校(現在は[[廃校]]により存在しない)に入学{{Sfn|高山|2006|p=55}}したが、東大受験は3度諦めている<ref>「教祖 意重ね、一線越る{{要出典|date=2013」『朝日新聞』200472}}26日朝刊</ref>。同年頃から[[仙人|仙道]]や[[ヨーガ]]の修行を始める{{要出典|date=2013年7月}}。
 
[[1978年]](昭和53年)[[1月7日]]、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、[[松本知子]](旧姓石井)と[[結婚]]し、[[千葉県]][[船橋市]][[湊町 (船橋市)|湊町]]に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月65-66}}。同年[[9月15日]]「松本鍼灸院」を廃し、同市[[本町 (船橋市)|本町]]に診察室兼[[漢方医学|漢方]][[薬局]]の「亜細亜堂」を開業したが{{Sfn|高山|2006|p=71}}。同年[[12月]]船橋市[[新高根]]に新居を購入し移住{{Sfn|高山|2006|p=72}}。[[1980年]](昭和55年)[[7月]]保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される{{要出典Sfn|date高山|2006|p=2013年7月73}}。同年[[8月25日]](25歳)、[[新宗教|新興宗教]]団体[[阿含宗]]に入信し、以後3年ほど在籍する{{要出典Sfn|date=2013年7月}}。同年[[12月]]、船橋市[[新根]]に新居を購入し移住{{要出典|date2006|p=2013年7月93}}。[[1981年]](昭和56年)[[2月]]、船橋市[[高根台]]に健康薬品販売店「BMA薬局」<ref group="注">BMAは「ブッダ・メシア・アソシエーション」の略。[[高山文彦 (作家)|高山文彦]]はこの名称について、宗教団体の[[GLA総合本部|GLA]](ゴッド・ライト・アソシエーション)に倣ったものではないかと推測している。</ref>を開局したものの、[[1982年]](昭和57年)に無許可の[[医薬品]]を製造販売したため同年[[6月22日]]に[[薬事法]]違反で[[逮捕]]され、20万円の[[罰金|罰金刑]]を受ける{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月73-89}}。このころより知人に「最も儲かるビジネスは何か知っているか? それは宗教だよ{{要出典|date=2012年6月}}」ともらしていた。
 
=== オウム真理教 ===
[[1983年]](昭和58年)夏(28歳)、東京都[[渋谷区]][[桜丘町 (渋谷区)|桜丘]]に、仙道・ヨーガ・[[伝統中国医学|東洋医学]]などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本は「麻原彰晃」と名乗り始める{{要出典Sfn|date高山|2006|pp=2013年7月108-109}}。[[1984年]](昭和59年)[[2月]]、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、[[5月28日]]には[[株式会社]]オウムを設立<ref group="注">この時麻原は、長兄に対し「教祖になってくれないか」と依頼している。</ref>。[[1986年]](昭和61年)[[4月]]、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称{{Sfn|高山|2006|p=140}}。同年[[7月]]、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]で最終[[解脱]]と称す<ref name="mahayana"></ref>。
 
[[1987年]](昭和62年)[[7月]](32歳)には「オウム神仙の会」を「[[オウム真理教]]」に改称し{{Sfn|高山|2006|p=160}}、世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開{{要出典|date=2013年7月}}。[[空中浮揚]]などのショー的なアピールや自著、[[オカルト雑誌]]への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。この年には8名の[[弟子]]を解脱に導いたとする{{要出典|date=2013年7月}}。
 
[[1988年]](昭和63年)(33歳)、[[ダライ・ラマ14世]]と親交のある[[ペマ・ギャルポ]]に接近。「自分の[[瞑想]]修行がどの程度のものであるなのを[[チベット仏教]]の先生方に見てもらただきたい」と申し出、[[ダラムサラ]]の宗教・文化庁を紹介される{{要出典Sfn|高山|2006|datepp=2013年7月149-150}}。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用することとなる<ref name="bukkyo bessatsu 8">『オウム真理教事件 - 宗教者・科学者・哲学者からの発言 (仏教・別冊)』[[法藏館|法蔵館]]、1996年、pp.4-5</ref>。
 
[[1990年]]([[平成]]2年)[[2月]]の[[第39回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]では、[[真理党]]代表として[[東京都第4区 (中選挙区)|東京4区]](5人区)から出馬したが、13位で落選{{要出典|date=2013年7月}}。その数日後に弟子に対し「この世はもはや救えない、これからは武力で行く」と述べる{{要出典|date=2013年7月}}。直後よりボツリヌス菌製造を開始する{{要出典|date=2013年7月}}。
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|chapterurl=http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18477/5/0411000116.pdf
|chapter=弁護人の控訴趣意書提出期限の徒過と被告人の裁判を受ける権利
|last1=村岡|first1=啓一
|last2=川崎|first2=英明
|last3=指宿|first3=信
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=== その他 ===
* [[代々木ゼミナール]]にいた頃、「麻原彰晃を称える会」があった{{要出典|date=2011年10月}}。
* 「思ったことを自由に言ってみなさい」と言ったにもかかわらず、信者がありのままに言うと「馬鹿野郎! そんなことは訊いていない!」と言った{{要出典|date=2013年7月}}
 
== 脚注 ==