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{{Infobox 哲学者
[[ファイル:RWEmerson.jpg|thumb|ラルフ・エマーソン]]
| region = 西洋哲学
'''ラルフ・ワルド・エマーソン'''('''Ralph Waldo Emerson'''、[[1803年]][[5月25日]] - [[1882年]][[4月27日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[思想家]]、[[哲学者]]、[[作家]]、[[詩人]]、[[随筆家|エッセイスト]]。無教会主義の先導者。
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}}
 
'''ラルフ・ウォルドー・エマーソン'''('''Ralph Waldo Emerson''' {{IPA|rælf ˈwɑːldoʊ ˈemərsən}}、[[1803年]][[5月25日]] - [[1882年]][[4月27日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[思想家]]、[[哲学者]]、[[作家]]、[[詩人]]、[[随筆家|エッセイスト]]。無教会主義の先導者。
ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。
英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、'''エ'''マソン、または'''エ'''マスンに近くなる。
 
Waldoはウォルドウ、ウォルド、ワルド、Emersonはエマソン、エマスンなどとも表記される(英語では、Emersonは第1音節にアクセントがある)。
[[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]][[ボストン]]に生まれる。
18歳で[[ハーバード大学]]を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。
その後ハーバード[[神学校]]に入学し、伝道資格を取得し、[[牧師]]になる。
自由信仰のため教会を追われ渡欧、[[ワーズワース]]、[[トーマス・カーライル|カーライル]]らと交わる。帰国後は[[個人主義]]を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。
 
[[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]][[ボストン]]に生まれる。18歳で[[ハーバード大学]]を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード[[神学校]]に入学し、伝道資格を取得し、[[牧師]]になる。自由信仰のため教会を追われ渡欧、[[ワーズワース]]、[[トーマス・カーライル|カーライル]]らと交わる。帰国後は[[個人主義]]を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。
 
エマーソンは次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836年の評論'Nature'において、[[超越主義哲学]]を世に打ち出した。続いて草分け的な仕事として1837年に'The American Scholar'と題した演説を行い、[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア]]は、アメリカの「知的独立宣言」であると評した。<ref name="Richardson, 263">Richardson, 263</ref>
 
エマーソン主要な評論の殆どを、先ず講演用に書いてから出版用に改めた。最初の二つの評論集'Essays: First Series'と'Essays: Second Series'は、それぞれ1841年と1844年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience'が含み、彼の思想の核心である。'Nature'とこれらの評論によって、1830年代半ばから1840年代半ばにかけての10年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。
 
彼の評論は後の思想家、著述家、詩人に大きな影響を与えた。エマーソンは、自身の中心教義を一言にすると、「個人の無限性」であると語った。<ref>[[#Ward|Ward]], p. 389.</ref>エマーソンはまた、共に超越主義者である[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]の師であり友であることが有名である。<ref>{{cite web|url=http://www.wisdomportal.com/Emerson/Emerson-Thoreau.html |title=Emerson & Thoreau |publisher=Wisdomportal.com |date=2000-06-06 |accessdate=2012-10-26}}</ref>
 
== 幼年時代、家族、教育 ==
エマーソンは1803年5月25日、[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]に生まれた。<ref>Richardson, 18</ref>両親はルース・ハスキンスと、[[プロテスタント]]の一派である[[ユニテリアン派]]の聖職者であるレフ・ウィリアム・エマーソンである。彼は母方の伯父ラルフと父方の祖祖母レベッカ・ワルドから名付けられた。<ref>Allen, 5</ref>エマーソンは成人できた5人の息子達の2番目で、他の兄弟はウィリアム、エドワード、ロバート・バークレー、チャールズである。<ref name="Baker, 3">Baker, 3</ref>他の3人の子供達、フェーベ、ジョン・クラーク、マリー・カロリーヌは、成人する前に亡くなった。<ref name="Baker, 3"/>
 
1811年5月12日、8歳になる10日程前に、父が胃癌のため若くして他界した。<ref>McAleer, 40</ref> エマーソンは一族の女性達に助けられながら、母親に養育された。叔母のマリー・ムーディ・エマーソンが、彼に特に深く影響を与えた。<ref>Richardson, 22?23</ref>彼女は断続的に共に暮らし、1863年に亡くなるまでエマーソンと文通し続けた。<ref>Baker, 35</ref>
 
エマーソンの正規教育は、1812年、9歳の時、[[ボストンラテン語学校]]に始まった。<ref>McAleer, 44</ref>1817年8月、14歳で[[ハーバード大学]]に入学した。そこでは新入生の連絡係に任命され、不品行の学生を呼んで教員に伝えることが求められた。<ref>McAleer, 52</ref>3年生の半ばからエマーソンは読んだ本のリストと、後に'Wide World'と呼ばれることになる、何冊もに及ぶ日記をつけ始めた。<ref>Richardson, 11</ref>エマーソンは学費をまかなうために仕事もした。それには学生食堂のウエイター、[[マサチューセッツ州]][[ウォルサム]]の伯父サムエルの元での臨時講師があった。<ref>McAleer, 53</ref>4年時にエマーソンは、ミドルネームのワルドを使うことに決めた。<ref>Richardson, 6</ref> エマーソンは学級詩人としての慣例に習い、正式な卒業1ヶ月前の1821年8月29日、18歳の時、[[ハーバード大学]]卒業式で自作の詩を発表した。<ref>McAleer, 61</ref>彼は学生として突出せず、59人の級友のちょうど中位で卒業した。<ref>[[#Buell|Buell]], 13</ref>
 
1826年、エマーソンは健康問題から温暖な気候を求めて移り住んだ。最初に[[サウスカロライナ州]][[チャールストン]]に行ったが、十分な暖かさはなかった。<ref>[[#Richardson|Richardson]], 72</ref>そこでさらに南の、[[フロリダ州]][[セントオーガスティン]]へ行った。そこで彼は長いこと浜辺を散策し、詩を書き始めた。[[セントオーガスティン]]にいる間に、[[ナポレオン・ボナパルト]]の甥[[アシーユ・ミュラ]]王子と知り合いになった。ミュラはわずか2歳年上で、彼らはとても親しくなった。二人は宗教、社会、哲学、政治についての啓発的な議論をした。エマーソンはミュラを、自身の知的教養における重要人物ととらえていた。<ref>Field, Peter S., Ralph Waldo Emerson: The Making of a Democratic Intellectual, Rowman & Littlefield, 2003, ISBN 0-8476-8843-7, ISBN 978-0-8476-8843-2</ref>
 
== 初期の経歴 ==
[[Image:Emerson3 cropped.jpg|thumb|left|銅版画, 1878]]
[[ハーバード大学]]を卒業し、[[マサチューセッツ州]][[チェルムズフォード]]に自分の学校を建てた後、エマーソンは、母の家に設立した若い女性のための学校で、兄ウィリアムを手伝った。<ref>Richardson, 29</ref><ref>McAleer, 66</ref>ウィリアムが[[神学]]を学ぶために[[ゲッティンゲン]]に行くと、エマーソンはその学校を任かされた。その後数年にわたって教師として生計を立て、それから[[ハーバード神学校]]に行った。2歳年下の弟エドワードは、[[ハーバード大学]]を首席で卒業した後、ダニエル・ウェブスターの法律事務所に入った。<ref>Richardson, 36?37</ref>エドワードの健康は悪化し始め、その上程なく精神の崩壊にも苦しむこととなった。彼は1828年6月、23歳でマクリーン精神病院に収容された。精神の安定は取り戻したものの、1834年、長年患った結核で亡くなったとみられる。<ref>Richardson, 37</ref>1808年生まれの聡明で将来を約束された弟チャールズは、1836年に同じく結核により死去した。<ref>Richardson, 38?40</ref>これでエマーソンは、数年の内に若い近親者を3人失うこととなった。
 
エマーソンが最初の妻エレン・ルイザ・ツッカーに[[ニューハンプシャー州]][[コンコード]]で出会ったのは1827年のクリスマスであり、彼女が18歳になって結婚した。<ref>Richardson, 92</ref>二人は[[ボストン]]に引っ越したが、既に結核に冒されていたエレンを世話するため、母のルースがついて行った。<ref>McAleer, 105</ref>2年も経たずに、1831年2月8日、エレンは20歳で世を去った。彼女の最後の言葉は、「私は平穏と喜びを忘れたことはない」であった。<ref>Richardson, 108</ref>エマーソンは彼女の死に痛く衝撃を受け、毎日[[ロックスバリー]]の墓地を訪れた。<ref>Richardson, 116</ref>1832年3月29日の手記には、「私はエレンの墓へ行き、棺を開いた」と記された。<ref>Journals and Miscellaneous Notebooks of Ralph Waldo Emerson, Volume IV: 7</ref>
 
ボストン第二教会がエマーソンを助任牧師として招き、1829年1月11日に職位を授けられた。<ref>Richardson, 88</ref>彼の初任給は年1,200ドルだったが、7月には1,400ドルに上がった。<ref>Richardson, 90</ref>だが彼は教会の仕事に加え、他の任にもあずかっていた。マサチューセッツ議会の牧師であり、ボストン学校会議のメンバーでもあった。教会の仕事は彼を多忙にし、この頃妻の死が差し迫っていたのだが、自分の信仰を疑い始めていた。
 
妻の死後、彼は教会のやり方に賛同しなくなってきた。1832年6月の日記には、「私は時にこう思う。良き聖職者になるには、聖職を離れる必要があるのではないか。信仰告白は時代遅れだ。時代は変わったのに、我々は先祖達のだめになったやり方で礼拝している」とある。<ref>Sullivan, 6</ref>エマーソンは教派の勤めの執行についてと、一般的な礼拝法に対する疑念について、教会との意見の相違を公にし、1832年に解任された。「このようにしてキリストを讃えることは、私には合っていない。私がそれをやめる理由として十分だ」と彼は書いている。<ref>Packer, 39</ref><ref>Ralph Waldo Emerson, ''Uncollected prose'', [http://www.emersoncentral.com/lordsupper.htm The Lord's Supper], 9 September 1832</ref>有るエマーソン学者は、「牧師の作法に適った黒衣を脱ぎ捨て、彼は自由に講演者や教師の衣を、つまりは慣例や伝統の限界に縛られない思索家の衣を選んだのである」と指摘している。<ref>Ferguson, Alfred R. "Introduction to The Journals and Miscellaneous Notebooks of Ralph Waldo Emerson, Volume IV". Cambridge, Massachusetts: Belknap Press, 1964: xi.</ref>
 
エマーソンは1833年にヨーロッパを旅行し、後に1856年の'English Traits'に書いている。<ref>McAleer, 132</ref> 彼は1832年のクリスマスにジャスパー号に乗船し、先ず[[マルタ島]]へ向かった。<ref>Baker, 23</ref>ヨーロッパ旅行の間に数ヶ月をイタリアで過ごし、[[ローマ]]、[[フローレンス]]、[[ヴェニス]]などの都市を訪れた。[[ローマ]]で[[ジョン・スチュアート・ミル]]に会い、[[トーマス・カーライル]]への紹介状を書いてもらった。エマーソンはスイスで旅の同行者に、[[フェルネー]]にある[[ヴォルテール]]の家へ無理矢理行かされた。「徹頭徹尾、彼の恥ずべき名声に対して意義を申し立てた」<ref>Richardson, 138?</ref>それから彼は「賑やかでモダンなニューヨーク」、パリへ赴いた。そこでは[[Jardin des Plantes]](パリ5区の植物園)を訪れた。彼は植物学者[[ジュシュー]]の様式に従い分類された植物の体系と、そのあらゆる対象の相関性に大きな感銘を受けた。[[リチャードソン]]は、「[[Jardin des Plantes]]でエマーソンが事物の相関関係について洞察した瞬間は、彼を神学から遠ざけ科学へ向かわせた、殆ど神秘的な瞬間であった」と述べている。<ref>Richardson, 143</ref>
 
イギリス北部で、エマーソンは[[ウィリアム・ワーズワース]]、[[サミュエル・テイラー・コールリッジ]]、[[トーマス・カーライル]]と出会った。[[カーライル]]はとくに、エマーソンに強い影響を与えた。エマーソンは後にアメリカで[[カーライル]]の非公式な代筆者となり、1835年3月には[[カーライル]]にアメリカへ講演に来るよう働きかけている。.<ref>Richardson, 200</ref>1881年に[[カーライル]]が死去するまで、二人は文通しつづけた。<ref>[[#Packer|Packer]], 40.</ref>
 
[[File:Daguerreotype Lydia Jackson Emerson and Edward Waldo Emerson 1840.jpeg|thumb|[[リディアン・ジャクソン・エマーソン]]と息子の[[エドワード・ワルド・エマーソン]]の銀板写真 日付不詳]]
 
エマーソンは1833年8月9日にアメリカへ帰国し、[[マサチューセッツ州]][[ニュートン]]で母親と暮らした。1834年に[[マサチューセッツ州]][[コンコード]]に引っ越し、義祖父のイズラ・リプレー医師と共に、後にThe Old Manse(古い牧師館)と名付ける館で暮らした。<ref>Richardson, 182</ref>あらゆる種類の論題について講演を行う新鋭の文化運動を見て、エマーソンは講演者を職業にできると考えた。生涯では1,500回余りの講演をすることとなるのだが、1833年11月5日、[[ボストン]]における博物学の活用について初講演を行った講演が最初であった。これは彼のパリでの経験を発展させたものである。<ref>Richardson, 154</ref>この講演で、彼はいくつかの主な信念と、最初に出版した評論である'Nature'で後に展開することになる考えを打ち出した。
 
{{Quotation|自然とは言語であり、人が学び得るあらゆる新しい発見とは、新しい言葉なのである。しかしそれは、個々に分けられて辞書の中で生気を失った言語ではなく、一体として最も重要で普遍的な意味合いを伝えるものである。私はこの言語を学びたい。それは新しい文法を知ることではなく、その言語によって書かれた大いなる書物を読むことであるだろう。<ref>Emerson, Ralph Waldo. ''Early Lectures 1833?36''. Stephen Whicher, ed.. Cambridge, Massachusetts, Harvard University Press, 1959. ISBN 978-0-674-22150-5</ref>}}
 
1835年1月24日、エマーソンはリディア・ジャクソンに結婚を申し込む手紙を書いた。<ref>Richardson, 190</ref>彼女の承諾の返事は28日に届いた。1835年7月、[[マサチューセッツ州]][[コンコード]]の、[[ケンブリッジ]]・[[コンコード]]有料道近くに家を買った。その家は後にBushと名付けられ、現在ラルフ・ワルド・エマーソンの家として公開されている。<ref>Wilson, Susan. ''Literary Trail of Greater Boston''. Boston: Houghton Mifflin Company, 2000: 127. ISBN 0-618-05013-2</ref>エマーソンはすぐに、町の主導者の一人となった。彼は1835年9月12日に、コンコード市200周年記念講演を行った。<ref>Richardson, 206</ref>2日後、彼はリディア・ジャクソンと彼女の郷里[[マサチューセッツ州]][[プリマス]]で結婚し、<ref>Lydia (Jackson) Emerson was a descendant of Abraham Jackson, one of the original proprietors of Plymouth, who married the daughter of [[Nathaniel Morton]], longtime Secretary of the [[Plymouth Colony]].</ref>9月15日にエマーソンの母親と共にコンコードの新居へ移った。
 
エマーソンはすぐに、妻の名をリディアンに変え、彼女をQueenie<ref>{{cite web|url=http://www.vcu.edu/engweb/transcendentalism/ideas/lydiasbible.html |title=Ideas and Thought |publisher=Vcu.edu |accessdate=2012-10-26}}</ref>、時にはAsiaと呼んだ。<ref>Richardson, 193</ref>妻は彼を、ミスター・エマーソンと呼んだ。<ref>Richardson, 192</ref>彼らの子供は、ワルド、エレン、エディット、[[エドワード・ワルド・エマーソン]]である。エレンは最初の妻からとったとリディアンは指摘している。<ref>Baker, 86</ref>
 
エマーソンは大学時代は貧しく、<ref name="Richardson, 9">Richardson, 9</ref>後の生涯の多くは家族を支えていた。<ref name="Richardson, 91">Richardson, 91</ref><ref name="Richardson, 175">Richardson, 175</ref>エレンの死後はかなりの額を相続したが、1836年にはそれを得るためにツッカー家を訴訟しなければならなかった。<ref name="Richardson, 175"/>1834年5月、彼は11,600ドルを、<ref>von Frank, 91</ref>1837年7月にはさらに11,674ドルを受け取った。<ref>von Frank, 125</ref>1834年、彼は最初の遺産の支払いで1,200ドルの収入を見込んでおり、<ref name="Richardson, 91"/>牧師としての収入に匹敵した。
 
== 文学的経歴と超越主義 ==
[[Image:RWEmerson1859.jpg|thumb|ラルフ・ワルド・エマーソン 1859]]
1836年9月8日、'Nature'出版前日、エマーソンは[[フレデリック・ヘンリー・ヘッジ]]、[[ジョージ・パトナム]]、[[ジョージ・リプリー]]と会い、同好の知識人達の定期集会を企画した。<ref>Richardson, 245</ref>これが[[超越クラブ]]のはじまりであり、運動の中心部となった。最初の公式会議は1836年9月19日に行われた。<ref>Baker, 53</ref>1837年9月1日、女性が初めて超越クラブの会議に参加した。エマーソンは[[マーガレット・ヒュラー]]、エリザベス・ホール、サラ・リプリーを確実に参加させるために、会議の前に自宅の夕食に招いた。<ref>Richardson, 266</ref>ヒュラーは超越主義の重要人物になって行く。
 
1836年9月9日、エマーソンは匿名で最初の評論である'Nature'を出版した。1年後の1837年8月31日、エマーソンは今は有名となった[[ΦΒΚ]]で'The American Scholar'を演説した。<ref>Sullivan, 13</ref>それは当初は「[[ケンブリッジ]]の[[ΦΒΚクラブ]]前で行われた演説」として知られていたが、1849年刊行の評論集で改名された。<ref>Buell, 45</ref>友人達は話を出版するよう促し、自費出版したところ、500部はひと月のうちに売り切れた。<ref name="Richardson, 263"/>演説の中でエマーソンは、アメリカの知的独立を宣言し、アメリカ人がヨーロッパを離れて独自の様式で執筆すべきことを力説した。<ref>Watson, Peter. ''Ideas: A History of Thought and Invention, from Fire to Freud''. New York: Harper Perennial, 2005: 688. ISBN 978-0-06-093564-1</ref>当時[[ハーバード]]の学生だった[[ジェームズ・ラッセル・ローウェル]]はそれを「アメリカ文学史上前代未聞」と言い、<ref>Mowat, R. B. ''The Victorian Age''. London: Senate, 1995: 83. ISBN 1-85958-161-7</ref>[[ロヴァーエンド・ジョン・ピース]]は「支離滅裂で意味不明に聞こえる」と言った。<ref>[[Louis Menand|Menand, Louis]]. ''[[The Metaphysical Club: A Story of Ideas in America]]''. New York: Farrar, Straus and Giroux, 2001: 18. ISBN 0-374-19963-9</ref>
 
1837年、エマーソンは[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]と親しくなった。1835年頃には既に会っていたようだが、1837年秋、エマーソンが[[ソロー]]に「あなたは日記をつけていますか」と尋ね、この問いかけが[[ソロー]]に一生涯にわたるインスピレーションを与え続けたのである。<ref name=Buell121>Buell, 121</ref>エマーソン自身の日記は、大判本16巻の完全版が1960年から1982年にかけて[[ハーバード大学]]出版会より発表された。日記をエマーソンの重要な文学作品とみなす学者もいる。<ref name=Rosenwald>Rosenwald</ref>
 
1837年、エマーソンは[[ボストン]]の[[フリーメイソン]]寺院で[[歴史哲学]]に関する連続講演を行った。これが初めて彼自身が運営した連続講演であり、真の講演者としての経歴の始まりであった。<ref>Richardson, 257</ref>この連続講演で得た収入は講演団体からもらっていたものよりかなり高額だったため、エマーソンはその後も度々、自分で講演を運営した。結果として年80回にも及ぶ講演をし、北部アメリカ中をめぐった。[[セントルイス]]、[[デモイン]]、[[ミネアポリス]]、[[カリフォルニア]]までも駆けつけた。<ref>Richardson, 418?422</ref>
 
1838年7月15日、<ref>Packer, 73</ref>エマーソンは[[ハーバード神学校]]の神学会館に招かれて卒業演説を行った。それは「神学校演説」として知られることとなった。彼は聖書の奇跡を疑問視し、イエスは偉大なる人間であり、神ではないと宣言した。伝統的キリスト教は、オリエントやギリシアで[[オシリス]]や[[アポロン]]をそうしたように、キリストを半神に仕立て上げてしまった、と彼は語った。<ref name=Buell161>Buell, 161</ref>彼の発言は、教会主流派や一般の[[プロテスタント]]社会では冒涜に値した。そのため、彼は[[無神論]]者で、<ref name=Buell161/>若者の精神を毒すると非難された。批判に対し彼自身は応じず、他の人に弁護させた。その後30年間、彼は[[ハーバード]]に再び招かれることはなかった。<ref>Sullivan, 14</ref>
 
超越クラブは1840年7月に、最大の機関誌である'The Dial'を出版開始した。<ref>Gura, 129</ref>彼らは1839年8月には雑誌を企画していたが、1840年の1週目まで仕事を始めなかった。<ref>Von Mehren, 120</ref>[[ジョージ・リプリー]]が編集長で、<ref>Slater, Abby. ''In Search of Margaret Fuller''. New York: Delacorte Press, 1978: 61?62. ISBN 0-440-03944-4</ref>[[マーガレット・ヒュラー]]が監修者であった。数人に断られた後、エマーソンは彼女を選んだのだった。<ref>Gura, 128?129</ref>[[ヒュラー]]は2年程在任してエマーソンが引き継ぎ、[[エレリー・チャニング]]や[[ソロー]]を含む、若い作家達の才能を伸ばすことに雑誌を活かしていった。
 
1841年、2冊目の著作である'Essays'を出版した。そこには有名な'Self-Reliance'が含まれる。<ref>[http://www.emersoncentral.com/essays1.htm], Essays: first series, Retrieved April 24, 2010</ref>彼の叔母はそれを「[[無神論]]と偽の[[独立宣言]]の奇妙な寄せ集め」と呼んだが、それはロンドンとパリで好評を博した。この本の成功が他にも増して、彼の国際的名声の基盤となった。<ref>The Bedside Baccalaureate, David Rubel, ed. (Sterling 2008), p. 153.</ref>
 
1842年1月、エマーソンの長男ワルドは[[猩紅熱]]で他界した。<ref>Cheever, 93</ref>彼は自身の悲しみを、詩'Threnody'の「喪いゆくこととは、死にゆくことに他ならない」や、<ref>McAleer, 313</ref>評論'Experiance'で語った。同じ月に[[ウィリアム・ジェームズ]]が生まれ、エマーソンは名付け親になった。
 
[[ブロンソン・オルコット]]は1842年11月、「良い建物と良い果樹園と大地のある、素晴らしい100エーカーの農園をつくる」計画を公言した。<ref>Baker, 218</ref>チャールズ・レーヌは90エーカー(360,000㎡)の農園を、1843年5月に[[マサチューセッツ州]][[ハーバード]]に購入した。それは[[超越主義]]に部分的にインスピレーションを受けた[[ユートピア]]構想に基づく共同体である、フルーツランドとなる予定だった。<ref>Packer, 148</ref>農園は共同体の労働により運営され、動物は労役に用いない。参加者は肉を食べず、羊毛も毛皮も用いないというものだった。<ref>Richardson, 381</ref>エマーソンは、彼自身が実験に関与しないことを「残念に思う」と語った。<ref>Baker, 219</ref>例えそうでも、エマーソンはフルーツランドが成功するとは思っていなかった。「彼らの主張は全くもって高い精神によるものなのだが、いつも最後にはもっと土地と金をよこせと言うのだ」と彼は書いている。<ref name=Packer150>Packer, 150</ref>さらにオルコットは、フルーツランド操業の困難に対し準備をしていなかったと認めた。「我々の誰も、夢に見た理想的生活を現実的に行っていく準備をしていなかった。だから失敗に終わったのだ」と彼は記している。<ref name=Baker221>Baker, 221</ref>この失敗の後、エマーソンは[[コンコード]]にオルコット一家のための農場を買う手助けをした。その農場をオルコットは'Hillside'と名付けた。<ref name=Baker221/>
 
'The Dial'は1844年4月をもって廃刊した。[[ホラス・グリーリー]]はそれを、「この国でかつて出版された、最も個性的で思索的な定期刊行物の最期」と報じた。<ref>Gura, 130</ref>(1929年から数回、同名の無関係な雑誌が刊行されている)
 
1844年、エマーソンは彼の2番目の評論集'Essays: Second Series'を出版した。ここには'The Poet'、'Experience'、'Gifts'、そして1836年のものと同名だが異なる作品の'Nature'が収録された。
 
エマーソンはニューイングランド及び国内の多くの地域で有名な講演者となり生計を立てていた。1833年に講演を始め、1850年代には年間80回にも及んだ。<ref>Richardson, 418</ref>1回につき10ドルから50ドルを受け取り、通常冬の「講演シーズン」には2,000ドルを下らない収入が舞い込んだ。これは他からの収入より多かった。何年かは6回の連続講演で900ドルを稼ぎ、ボストンの冬の連続講演で1,600ドルを手に入れた。<ref>Emerson as Lecturer, R. Jackson Wilson, in ''The Cambridge Companion to Ralph Waldo Emerson'', Cambridge University Press, 1999</ref>彼はその収入で所有地を広げることが出来、[[ウォールデン湖]]のそばに11エーカー(45.000㎡)の土地と、その近くの松林数エーカーを購入した。彼は「およそ14エーカーの土地と水域の領主」と自らについて書いている。<ref name=Packer150/>
 
エマーソンはフランスの哲学者[[ヴィクトル・クザン]]の作品を読んだ際に、[[印度哲学]]に出会った。<ref>Richardson, 114</ref>1845年のエマーソンの日記には、彼が『[[バガヴァッド・ギーター]]』と[[ヘンリー・トーマス・コレブルック]]の'Essays on the Vedas'を読んでいるとある。<ref>Sachin N. Pradhan, India in the United States: Contribution of India and Indians in the United States of America, Bethesda, MD: SP Press International, Inc., 1996, p 12.</ref>エマーソンは『[[ヴェーダ]]』から強い影響を受け、彼の著作の多くは一元論の色調が濃い。その最たる例のひとつは、'The Over Soul'のうちに認められる。
 
{{Quotation|我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。それに対し、人間の内には全なる魂がある。それは智者の沈黙であり、この世界の美である。全なる魂故に、あらゆるかけらも粒子も、等しく永遠なる一者に関係している。そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。見ることと見られるものであること、見る者と見せ物、主体と客体がひとつであるのだ。我々はこの世界を部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである。<ref>The Over-Soul from Essays: First Series (1841)</ref>}}
 
1847年から1848年にかけて、エマーソンは[[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[アイルランド]]を旅行した。<ref>Buell, 31</ref>彼はまた、[[二月革命]]と[[六月蜂起]]の間に[[パリ]]を訪れた。彼が到着した時、2月の暴動でバリケードを作るために切り倒された木の切り株を見た。5月21日、彼は旧練兵場で、調和と平和と勤労を祝う群衆の只中にあった。彼は日記に、「今年の終わりに、私は革命が一本の木に値したかどうか見定めよう」と記した。<ref>Allen, Gay Wilson. ''Waldo Emerson''. New York: Penguin Books, 1982: 512?514.</ref>この度はエマーソンの後の作品に重要な痕跡を残した。彼の1856年の著作'English Traits'は、旅行日記や手記に記録した観察に大きく基づいている。エマーソンは後にアメリカ[[南北戦争]]を、1848年のヨーロッパで起きた革命と同じ基盤を持つ「革命」であるとみなすようになった。<ref>Koch, Daniel. [http://books.google.co.uk/books?id=yiG3uwlifN0C&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false ''Ralph Waldo Emerson in Europe: Class, Race, and Revolution in the Making of an American Thinker'']. London: I.B. Tauris, 2012: 181?95.</ref>
 
1852年2月、エマーソンと[[ジェームズ・フリーマン・クラーク]]、[[ウィリアム・ヘンリー・チャニング]]は、1850年に死去した[[マーガレット・ヒュラー]]の作品と手紙の編集をした。<ref>Baker, 321</ref>彼女の死から1週間のうちに、[[ニューヨーク]]の彼女の編集者[[ホラス・グリーリー]]はエマーソンに、「彼女の死の悲しみにより高まっている関心が冷めないうちに」[[ヒュラー]]の伝記'Margaret and Her Friends'を出版するよう言った。<ref>Von Mehren, 340</ref>'The Memoirs of Margaret Fuller Ossoli'という題で出版されたが、[[ヒュラー]]の言葉は大幅に修正・改ざんされた。<ref>Blanchard, Paula. ''Margaret Fuller: From Transcendentalism to Revolution''. Reading, Massachusetts: Addison-Wesley Publishing Company, 1987: 339. ISBN 0-201-10458-X</ref>三人は正確さは気にしていなかった。彼らは[[ヒュラー]]に対する大衆の興味は一時的なもので、彼女は歴史的人物としては残らないと考えたのだ。<ref>Von Mehren, 342</ref>例えそうであっても、当時は50年代の伝記ベストセラーとなり、19世紀の終わりまでに13版まで再版された。
 
[[ウォルト・ホイットマン]]は1855年に革新的詩集『[[草の葉]]』を出版し、エマーソンに贈って意見を求めた。エマーソンは肯定的に評価し、返事として5頁の称賛の手紙を送った。<ref>Kaplan, 203</ref>エマーソンの承認は『[[草の葉]]』初版が大きな関心を呼ぶ助けとなり、<ref>Callow, Philip. ''From Noon to Starry Night: A Life of Walt Whitman''. Chicago: Ivan R. Dee, 1992: 232. ISBN 0-929587-95-2</ref>[[ホイットマン]]はその後すぐに第2版を出す気になった。<ref>Miller, James E., Jr. ''Walt Whitman''. New York: Twayne Publishers, Inc. 1962: 27.</ref>この版はエマーソンの手紙の言葉を引いて、「私はあなたの大いなる経歴の始まりを歓迎します」と、表紙の金色の葉の中に印刷した。<ref>[[Reynolds, David S.]] ''Walt Whitman's America: A Cultural Biography''. New York: Vintage Books, 1995: 352. ISBN 0-679-76709-6.</ref>エマーソンはこの手紙を公にしたことに抗議した。<ref>Callow, Philip. ''From Noon to Starry Night: A Life of Walt Whitman''. Chicago: Ivan R. Dee, 1992: 236. ISBN 0-929587-95-2.</ref>そして後にはこの作品に対しより批判的になった。<ref>Reynolds, David S. ''Walt Whitman's America: A Cultural Biography''. New York: Vintage Books, 1995: 343. ISBN 0-679-76709-6.</ref>
 
== 南北戦争時代 ==
エマーソンは断固として[[奴隷制]]に反対だったが、世間の注目を浴びたがらず、この問題について講演することをためらった。しかし彼は1837年7月頃に始まり、[[南北戦争]]の間には数多くの講演を行った。<ref>Gougeon, 38</ref>はじめは多くの友人や家族が彼よりも活発な廃止論者だったが、1844年以降は[[奴隷制]]反対により積極的な役割を果たした。彼は多くの演説や講演をし、とくに[[ジョン・ブラウン]]が[[コンコード]]を訪れた際には家で歓待した。<ref>Gougeon</ref>1860年、彼は[[エイブラハム・リンカーン]]に投票したが、[[リンカーン]]が[[奴隷制]]の完全撤廃よりも北部の保護に関心があることに失望した。<ref>McAleer, 569?570</ref>[[南北戦争]]が勃発すると、エマーソンは直ちに、奴隷の解放を信じると表明した。<ref>Richardson, 547</ref>
 
1860年にはエマーソンは7番目の評論集'The Conduct of Life'を出版した。この中ではエマーソンは、「当時最も困難な問題のいくつかに取り組んでいる。彼の[[奴隷制廃止]]論者としての経験が、結論にかなり影響を及ぼしている」と評される。<ref>Gougeon, 260</ref>これらの評論ではまた、エマーソンは、戦争は国家を再生させる意味があるという考えを強く抱いていることがわかる。「[[南北戦争]]、国家の破綻、あるいは革命、それはものぐさな繁栄の年月よりも、本質的に豊かなのである」とエマーソンは書いている。<ref>Emerson, Ralph Waldo: ''The Conduct of Life'', Boston, MA: Ticknor & Fields, 1860: 230.</ref>
 
エマーソンは1862年1月末に[[ワシントンDC]]を訪れた。1862年1月31日、[[スミソニアン]]で一般講演を行い、「南部は[[奴隷制]]を習わしと言い、私はそれを欠陥と言う。文明社会には撤廃することが必要である」と宣言した。<ref>Baker, 433</ref>次の日の2月1日、友人の[[チャールズ・サムナー]]が彼を[[リンカーン]]に会わせるため、[[ホワイトハウス]]へ連れて行った。[[リンカーン]]はエマーソンの著作に親しんでおり、講演にも行ったことがあった。<ref name=oliver/>エマーソンの[[リンカーン]]への疑念は、この面会の後に軟化した。<ref>McAleer, 570</ref>1865年[[コンコード]]の[[リンカーン]]追悼礼拝で彼は演説し、「有史以来の幾多の悲劇の中で、彼の死の知らせほどに悲痛を生む死が、後にも先にもあるだろうか」と語った。<ref name=oliver>{{cite book |title=The Essential Writings of Ralph Waldo Emerson |last=Brooks |first=Atkinson |coauthors= Mary Oliver |year=2000 |publisher=Modern Library |location=USA |isbn=978-0-679-78322-0 |pages=827, 829}}</ref>エマーソンはまた、[[サルモン・ポートランド・チェース]]財務長官、[[エドワード・ベイツ]]検察長、[[エドウィン・マクマスターズ・スタントン]]陸軍長官、[[ギデオン・ウェルス]]海軍長官、[[ウィリアム・シューワード]]国務長官を含む多くの政界の要人と会った。<ref>Gougeon, 276</ref>
 
1862年5月6日、エマーソンが庇護していた[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]が44歳で結核のため亡くなり、エマーソンは彼に讃辞を贈った。1849年に[[ソロー]]が'[[A Week on the Concord and Merrimack Rivers]]'を出版して以降不和となったものの、エマーソンは彼を親友と呼び続けた。<ref>Richardson, 548</ref><ref>Packer, 193</ref>もう一人の友[[ナサニエル・ホーソーン]]は1864年、[[ソロー]]の2年後に死去した。[[ホーソン]]が[[コンコード]]に埋葬される際は、棺側葬送者の一人となった。「陽光と新緑の燦めく中」であったとエマーソンは記した。<ref>Baker, 448</ref>エマーソンは1864年、[[アメリカ学芸協会]]のメンバーに選出された。.<ref name=AAAS>{{cite web|title=Book of Members, 1780?2010: Chapter E|url=http://www.amacad.org/publications/BookofMembers/ChapterE.pdf|publisher=American Academy of Arts and Sciences|accessdate=6 April 2011}}</ref>
 
== 晩年と死 ==
[[File:Emersons grave.jpg|thumb|right|エマーソンの墓 [[スリーピーホロウ墓地]]]]
[[File:Close up of Ralph Waldo Emerson's grave.jpeg|thumb|right|墓の拡大図]]
 
1867年より、エマーソンの健康状態は悪化していった。彼はあまり日記を書かなくなった。<ref>Gougeon, 325</ref>1871年の夏か1872年の春頃からエマーソンは[[記憶障害]]があり、<ref>Baker, 502</ref>また[[言語障害]]に苦しんだ。<ref name=Richardson569>Richardson, 569</ref>70年代終わりには、時に自分の名前を忘れ、誰かが具合を尋ねると、「とてもいいです。私は精神機能を失いましたが、でも完全に良好です」と答えた。<ref name=McAleer629>McAleer, 629</ref>
 
エマーソンの[[コンコード]]の家は、1872年7月24日に火事になった。近隣に助けを求め、消火をあきらめ、できる限り家財を守ろうとした。<ref>Richardson, 566</ref>火はエフライム・ウォレス・ブルの片腕の息子、エフライム・ブル・ジュニアによって消し止められた。]<ref>Baker, 504</ref>家の再建を助けるため、友人達が寄付を集めた。そのうちフランシス・カボット・ローウェルは5,000ドルを集め、レバロン・ラッセル・ブリッグスは10,000どるを集め、ジョージ・バンクロフトが個人的に1,000ドルを寄付した。<ref>Baker, 506</ref>エマーソンは終始Old Manseで家族とともに過ごしたが、避難所提供の申し出もあった。招待はアンネ・リンチ・ボッタ、ジェームズ・エリオット・カボット、ジェームズ・トーマス・フィールズ、アニー・アダムス・フィールズからであった。<ref>McAleer, 613</ref>火事によって、エマーソンの本格的な講演活動には終止符が打たれ、その後は特別な時、親しい人達の前でだけ講演をした。<ref>Richardson, 567</ref>
 
家が再建されている間、エマーソンはイギリス、ヨーロッパ大陸、エジプトを旅行した。1872年10月23日、娘のエレンと出発した。<ref>Richardson, 568</ref>妻のリディアンは友人と共にOld Manseで過ごした。<ref>Baker, 507</ref>エマーソン達は1873年4月15日、友人の[[チャールズ・エリオット・ノートン]]と一緒に、オリンパス号でアメリカに帰国した。<ref>McAleer, 618</ref>エマーソンの[[コンコード]]への帰還は町をあげて祝福され、学校は休校になった。<ref name=Richardson569/>
 
1874年、エマーソンは詩文選'Parnassus'を出版した。その中には[[ソロー]]その他は勿論のこと、[[アンナ・レティシア・バーボールド]]、[[ジュリア・キャロライン・ドール]]、[[ジャン・イングロー]]、[[ルーシー・ラルコム]]、[[ジョーンズ・ベリー]]が含まれた。<ref>Richardson, 570</ref>詩文集は1871年秋頃には元々準備されていたが、出版社が校訂を求めたため遅れたのだった。<ref>Baker, 497</ref>
 
[[記憶障害]]に戸惑い、エマーソンは1879年には公共の場に姿を見せなくなった。[[オリバー・ウェンデル・ホームズ]]は、「エマーソンは[[記憶障害]]と、言いたいことを表す言葉を見つける多大な困難から、人前で自分に信を置くことをためらっている。あの時の彼の狼狽を見るのは苦痛だ」と書いた。<ref name=McAleer629/>1882年4月21日、エマーソンは[[肺炎]]と診断された。彼は1882年4月27日に死去した。エマーソンは[[マサチューセッツ州]][[コンコード]]、[[スリーピーホロウ墓地]]に埋葬された。<ref>Sullivan, 25</ref>彼はアメリカの彫刻家[[ダニエル・チェスター・フレンチ]]に寄贈された白装束をまとい、棺に収められた。<ref>McAleer, 662</ref>
 
== ライフスタイルと信条 ==
[[Image:RWEmerson.jpg|thumb|晩年のエマーソン]]
エマーソンの宗教観は当時しばしば過激とみなされた。彼は万物は神とつながっていて、そのため万物は神聖であると信じた。<ref>Richardson, 538</ref>批評家達は、エマーソンは中心なる神の像を取り払おうとしていると考えた。[[ヘンリー・ウェアー・ジュニア]]は、エマーソンは「世界の父」を取り去り、「孤児院の子供達」だけを残す危険性があると述べた。<ref>Buell, 165</ref>エマーソンは部分的に、[[ドイツ哲学]]と[[聖書批判学]]に影響を受けている。<ref>Packer, 23</ref>[[超越主義]]の基礎となる彼の見解では、神は真理を明らかにする必要はなく、真理は直接自然から、直観的に体得することが出来ると示唆している。<ref>Hankins, Barry. ''The Second Great Awakening and the Transcendentalists''. Westport, Connecticut: Greenwood Press, 2004: 136. ISBN 0-313-31848-4</ref>
 
エマーソンは1844年まで熱心な[[奴隷制廃止]]論者になることはなかったが、日記から、若い頃から[[奴隷制]]への関心は始まり、奴隷を解放することを夢見てさえいたことがわかる。1856年6月、[[アメリカ上院議員]][[チャールズ・サムナー]]の直後、廃止論者としての断固とした見解を打ち出した。エマーソンは、彼自身が契機とならなかったことを悔いた。「生まれ落ちるや否や、一直線に審問者の鉄槌を取る人達がいる。かくも素晴らしく、我々は道徳律に常に満たされている」と彼は書いた。<ref name=McAleer531>McAleer, 531</ref>夏の攻撃の後、エマーソンは[[奴隷制]]について公言し始めた。「私は[[奴隷制]]を排除しなければならない。さもなくば自由を排除することになる」と、その夏[[コンコード]]の集会で語った。<ref>Packer, 232</ref>エマーソンは奴隷制を、人間の不正行為の例として、とくに聖職者の職務にある時に用いた。1838年初頭、[[エリア・パリシュ・ラブジョイ]]という名の廃止論者の出版者が、[[イリノイ州]][[アルトン]]で殺害されたことに触発され、エマーソンは初めて公に反奴隷制の演説をした。「勇敢な[[ラブジョイ]]が言論の自由のために彼の胸を暴徒の凶弾に差し出したのは別の日だったが、来るべき時が来て死んだのだ」<ref name=McAleer531/>[[ジョン・クインシー・アダムス]]は、[[ラブジョイ]]を殺害した暴徒は、「アメリカ大陸じゅうの地震同様に震撼させた」と語った。<ref>Richardson, 269</ref>しかしながらエマーソンは、改革は軍事行動ではなく道義的合意により達成されるものだと主張した。1844年8月1日、[[コンコード]]での講演で、廃止運動支持をより明確に言明した。彼は「我々はいかなる実際的倫理問題を公然と論じる時も、この運動とその持続によって主に恩恵を受けている」と述べた。<ref>{{cite book | last=Lowance | first=Mason | title=Against Slavery: An Abolitionist Reader | pages=301?302 | publisher=Penguin Classics | year=2000 | isbn=0-14-043758-4}}</ref>
 
エマーソンは男性に性的関心を抱いたことがあったようだ。<ref name =shand-tucci>{{cite book |last=Shand-Tucci |first=Douglas |year=2003 |title=The Crimson Letter |pages=15?16 |location=New York |publisher=St Martens Press |isbn=0-312-19896-5}}</ref>ハーバード大学2年時、マーティン・ゲイという若い新入生に惹かれ、彼について性的な詩を書いている。<ref name="Richardson, 9"/><ref>Kaplan, 248</ref>彼はまた生涯を通じ、アンナ・ベーカーや<ref>Richardson, 326</ref>カロリーヌ・スターギス<ref>Richardson, 327</ref>といった様々な女性に熱を上げた。<ref name="Richardson, 9"/>
 
== 影響 ==
[[File:Ralph Waldo Emerson 1940 Issue-3c.jpg|thumb|right|<center>~ Ralph Waldo Emerson ~</center><center>[[Postage stamps and postal history of the United States#Famous Americans Series of 1940|Issue of 1940</center>]]]]
コンコードの賢者と呼ばれたエマーソンは、講演者や演説家としてアメリカの知的文化を先導する発言者となった。<ref>Buell, 34</ref>'[[The Atlantic Momthly]]'と'[[The North American Review]]'の編集者である[[ジェームズ・ラッセル・ローウェル]]は彼の'[[My Study Windows]]'(1871)の中で、エマーソンは「アメリカで最も絶え間なく人を引きつけた講演者」であるだけでなく、「講演様式の開拓者の一人」であるとコメントした。<ref>Bosco & Myerson, Emerson in His Own Time, 54</ref>1849年にエマーソンに会った[[ハーマン・メルヴィル]]は、エマーソンは「宗教心に欠け」「知性に対する自惚れが強すぎて、最初は物をそれ自体の名で呼ぶことに尻込みする」と当初は考えたが、後には「偉大な人物」と讃えた。<ref>Sullivan, 123</ref>聖職者で超越論者の[[テオドア・パーカ]]ーは、エマーソンが他者に影響を与え、鼓舞する能力について記している。「エマーソンの輝かしい才能が冬の夜に現れ、[[ボストン]]を漂い、無邪気な若者達の目にその大いなる幕開けを、美と神秘を見上げさせて、しばし魅了する。またそれは新たな道へ、新たな希望へ彼らを導くことで、永久的な霊感を与える」。<ref>Baker, 201</ref>
 
エマーソンの作品は、[[ウォルト・ホイットマン]]や[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]のような同時代人だけに影響を与えたのではなく、現在に至るまでアメリカや世界中の思想家・著述家に影響を与え続けている。「エマーソンが19世紀で最も影響力のある作家だと言うのはやや賛同を得難いが、今日学者達は大いに関心を寄せている。[[ウォルト・ホイットマン]]、[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]、[[ウィリアム・ジェームズ]]は肯定的エマーソン論者である。[[ハーマン・メルヴィル]]、[[ナサニエル・ホーソン]]、[[ヘンリー・ジェームズ]]は否定的エマーソン論者であるが、彼の対極に位置していることからも、影響を免れない。[[T.S.エリオット]]にとって、エマーソンの評論は'足手まとい'だった。賢者ワルドは1914年から1965年までは権威を失ったが、[[ロバート・フロスト]]、[[ウォレス・スティーブンス]]、[[ハート・クレイン]]といったアメリカの主な詩人達の作品の中に生き残り、栄光を取り戻した」。<ref>October 12, 2008, the New York Times.</ref>
 
[[ハロルド・ブルーム]]は彼の著作'[[The American Religion]]'の中で、アメリカ宗教界の預言者としてエマーソンを繰り返し引用している。この本の中では主に、エマーソンが生きた時代に興ったアメリカ固有の宗教である[[モルモン教]]や[[キリスト教科学]]だけでなく、ヨーロッパの片割れよりも[[グノーシス]]的とブルームの言う、主流の[[プロテスタント教会]]にも言及している。'[[The Western Canon]]'の中でブルームは、エマーソンを[[ミシェル・ド・モンテーニュ]]と比較している。「私が知る唯一同等の読書経験は、アメリカの[[モンテーニュ]]であるラルフ・ワルド・エマーソンの手記と日記を果てなく読み返すことである」。<ref>Bloom, Harold. ''The Western Canon''. London: Papermac. 147?148.</ref>エマーソンの詩の数篇はブルームの'[[The Best Poems of the English Language]]'に収められているが、ブルームは彼が挙げるエマーソンの評論の最高傑作、'Self-Reliance'、'Circle'、'Experiance'と、'Conduct of life'のほぼ全部にはどの詩も及ばないと書いている。ブルームの信じるところでは、連の長さ、韻律、言い回しは息づかいで決まっていて、[[チャールズ・オールセン]]の原型になったということだ。<ref>Schmidt, Michael ''The Lives of the Poets'' Wiedenfeld & Nicholson , London 1999 ISBN 9780753807453</ref>
 
=== 名前が由来するもの ===
* 2006年5月、エマーソンが「神学校演説」をした168年後、[[ハーバード神学校]]はエマーソン・[[ユニテリアン]]・[[ユニバーサリスト]]協会教授職の設立を発表した。<ref>{{cite press release
| url = http://www.hds.harvard.edu/news/pr/emerson_uu.html | title = Emerson Unitarian Universalist Association Professorship Established at Harvard Divinity School | publisher = Harvard Divinity School | date = May 2006 | accessdate = 2007-02-22}}</ref>[[ハーバード大学]]はまた1900年に施設を、エマーソンホールと名付けた。<ref>[http://www.fas.harvard.edu/~phildept/about.html Department of Philosophy] of Harvard University</ref>
* [[ニューヨーク]]市の独立区[[スタテンアイランド]]近郊のエマーソンヒルは、1837年から1864年まで在住した兄の判事ウィリアム・エマーソンの名による。<ref>{{cite web|url=http://www.nypl.org/branch/staten/index2.cfm?Trg=1&d1=1391 |title=Staten Island on the Web: Famous Staten Islanders |publisher=Nypl.org |accessdate=2014-02-20}}</ref>
* 1976年結成の[[エマーソン弦楽四重奏団]]はラルフ・ワルド・エマーソンに由来する。<ref>{{cite web|url=http://www.emersonquartet.com/artist.php?view=bio |title=Full Biography 2012?2013 &#124; Emerson String Quartet |publisher=Emersonquartet.com |accessdate=2012-10-26}}</ref>
* [[ラルフ・ワルド・エマーソン賞]]は、高校生の歴史部門の評論に対し、毎年授与される。.<ref>{{cite web|url=http://www.tcr.org/tcr/emerson.htm |title=Varsity Academics &#124; Home of the Concord Review, the National Writing Board, and the National History Club |publisher=Tcr.org |date=2011-04-22 |accessdate=2012-10-26}}</ref>
* 作家の[[ラルフ・ワルド・エリソン]](1914年3月1日-1994年4月16日)はエマーソンから名付けられた。
 
== 作品 ==
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*{{Cite book|和書|others=[[大谷正信]]訳|year=1903|month=10|title=偉人論 標註|publisher=大日本図書}}
*{{Cite book|和書|others=[[大谷正信]]訳|year=1906|month=11|title=恵馬遜傑作集|publisher=大日本図書}}
*{{Cite book|和書|others=[[高橋五郎 (翻訳家)|高橋五郎]]訳|year=1910|month=2|title=処世論|publisher=玄黄社}}
*{{Cite book|和書|others=[[水島慎次郎]]訳|year=1910|month=3|title=エマーソン論文集|volume=第1編|publisher=内外出版協会}}
*{{Cite book|和書|others=[[水島耕一郎]]訳|year=1912|month=7|title=大英国民|publisher=博文館}}
*{{Cite book|和書|others=[[戸川秋骨]](明三)訳|year=1912|title=エマーソン論文集|publisher=玄黄社}}
*{{Cite book|和書|others=[[高橋五郎 (翻訳家)|高橋五郎]]訳|year=1913|title=社交論|publisher=日進堂}}
*{{Cite book|和書|others=[[栗原古城]]訳註|year=1913|title=偉人論講話|publisher=東亜堂書房}}
*{{Cite book|和書|year=1917|title=エマアソン全集|volume=第1-8巻|series=泰西名著文庫 第2部|publisher=国民文庫刊行会}}
90 ⟶ 228行目:
*{{Cite book|和書|others=[[伊東奈美子]]訳|year=2009|month=2|title=自己信頼 新訳 世界的名著に学ぶ人生成功の極意|publisher=海と月社|isbn=978-4-903212-10-4}}
*{{Cite book|和書|others=[[伊藤淳]]訳、[[浅岡夢二]]監修|year=2009|month=10|title=エマソンの「偉人論」 天才たちの感化力で、人生が輝く。|series=教養の大陸books|publisher=[[幸福の科学出版]]|isbn=978-4-87688-368-4}}
 
==脚注==
{{Reflist|2}}
 
== 外部リンク ==
101 ⟶ 242行目:
{{DEFAULTSORT:えまそんらるふわると}}
[[Category:アメリカ合衆国の哲学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の牧師]]
[[Category:思想家]]
[[Category:19世紀の学者]]
110 ⟶ 252行目:
[[Category:LGBTの著作家]]
[[Category:両性愛の人物]]
[[Category:ハーバード大学出身の人物]]
[[Category:イングランド系アメリカ人]]
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]