「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ、顔は判別不能なほどに破損していた。その痛ましい姿を見たアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという<ref name="ダンコース(2001)63">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.63</ref>。
 
17歳(1885年)の時から[[帝王学]]を受けるようになった。高名な法学者で[[ロシア正教会|ロシア正教]][[聖長官]]である[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]から民政法、元大蔵大臣{{仮リンク|ニコライ・ブンゲ|ru|Бунге, Николай Христианович}}から[[政治経済学]]、メール将軍とドラゴミロフ将軍から[[軍事学]]を学んだ<ref name="リーベン(1993)68-69">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.68-69</ref>。ポベドノスツェフの回顧録によるとニコライ皇太子は勉強熱心ではなく、授業中[[鼻糞]]をほじっていたという。しかしポベドノスツェフの[[専制君主]]体制護持の思想には強い影響を受けた<ref name="ウォーンズ(2001)256">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.256</ref>。
 
19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊した。フッサール近衛軽騎兵連隊や軽騎兵砲兵隊にも配属された。ロシアの近衛連隊は軍隊というよりも貴族の社交の場であり、ニコライ皇太子も将校クラブで楽しく過ごしたという<ref name="リーベン(1993)70-71">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.70-71</ref>。
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日本政府は復活祭を配慮して5月4日までニコライの予定を組まなかったが、その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索した。彼は長崎の町が非常に衛生的で市民が人懐っこいことに感心したという<ref name="キーン(2001)下126">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.126</ref>。またニコライは長崎滞在中に右腕に[[竜]]の[[入れ墨]]を入れた<ref name="キーン(2001)下126">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.126</ref>。5月4日に[[長崎県知事]][[中野健明]]の歓迎式典を受けた後、[[有田焼]]や[[諏訪神社]]を見学して長崎を後にした<ref name="キーン(2001)下126">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.126</ref>。
 
ついで5月6日に[[鹿児島]]へ入った。[[島津忠義]]公爵は保守的な外国人嫌いで知られていたが、この時にはニコライ皇太子を積極的に歓迎した。古風な甲冑を着けた老武士170人を集めて侍踊りを披露し、また忠義自らも[[犬追物]]を披露して見せた。皇太子に随伴していた{{仮リンク|エスペル・ウフトムスキー|label=ウフトムスキー公爵|ru|Ухтомский, Эспер Эсперович}}はこれに不快感を覚えたが、ニコライ皇太子は喜んでいたという<ref name="キーン(2001)下127">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.127</ref>。
 
5月9日、[[瀬戸内海]]を通過して[[神戸]]に寄港し、そこから[[汽車]]で[[京都]]へ向かった。5月10日に[[大宮御所]]、[[京都御所]]、[[二条離宮]]、[[東本願寺]]、[[西本願寺]]、[[賀茂別雷神社]]などを訪問した。[[飛鳥井家]]の[[蹴鞠]]や[[祭典競馬|賀茂競馬]]も見学した<ref name="キーン(2001)下128">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.128</ref>。京都では季節外れの[[五山送り火]]まで行われた。
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==== 大津事件の影響 ====
[[File:Meiji tenno1.jpg|thumb|180px|1888年の[[明治天皇]]の肖像画]]
[[File:Kojima Iken.jpg|thumb|180px|1908年の[[児島惟謙]]の写真]]
[[有栖川宮威仁親王]]から電報で事件の報告を受けた[[明治天皇]]はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ[[行幸]]し、常盤ホテル(現在の[[京都ホテル|京都ホテルオークラ]])でニコライ皇太子と面会した。皇太子への同情と事件への怒りを表明し、犯人はただちに処罰される旨を確約した。また回復した後、予定通り[[東京]]へ訪問することを希望した。これに対してニコライ皇太子は「自分は一狂人のために負傷したが、陛下をはじめとして日本国民が示してくれた厚意に感謝の意を持っている事は、事件以前と全く変わっていない」と返答しつつ、視察の継続については父母の指示を仰がねばならないとして確答しなかった<ref name="キーン(2001)下132">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.132</ref>。
 
結局ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途につくことになった。残念がった天皇はニコライ皇太子を[[神戸御用邸]]での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。1882年に[[李氏朝鮮]]で[[興宣大院君|大院君]]が清に船で拉致された事件を引き合いに出し、外国軍艦に搭乗する危険性を進言したが、天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができた<ref name="キーン(2001)下134">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.134</ref>。
 
日本国民の世論もニコライ皇太子への同情と津田への憎しみで占められた。ニコライ皇太子の軍艦には日本中から手紙と贈り物が届いた<ref name="キーン(2001)下135">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.135</ref>。またニコライ2世の日記には日本国民たちが許しを乞うように次々と街頭に膝まづいて合掌する姿に感動したと書かれている<ref name="キーン(2001)下130">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.130</ref>。とりわけ[[畠山勇子]]という27歳の日本人女性は京都御所の前で自害して国内外に衝撃を呼んだ<ref name="キーン(2001)下135">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.135</ref>。[[山形県]][[最上郡]][[金山町 (山形県)|金山村]]は村民に津田姓と三蔵名を禁止する[[条例]]を出している<ref name="キーン(2001)下135">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.135</ref>。
 
[[内閣総理大臣]][[松方正義]]はロシアとの関係を考慮して津田を死刑にするべきと考えた。[[刑法]]116条(「天皇、[[三后]]、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」)の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかをめぐって政府と[[大審院]]院長[[児島惟謙]]の間で論争になった。松方は「国があっての法律である。法律を厳格に守って国が滅ぶのでは意味がない」と主張して刑法116条で裁くよう要請したが、児島は「ロシアは津田が死刑にならなかったからと攻めてくるような野蛮国ではない。ロシアもドイツも外国皇族の襲撃に対しては自国の皇族に対する物ほど重い罪を定めていない。むしろヨーロッパからは日本の法律の不備が指摘されているのであり、今こそ日本の法治主義を示す時である」と主張した<ref>[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.137-138</ref>。結局津田は刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪となり、その最高刑である[[無期懲役]]に処された<ref>[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.137/139</ref>。
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その判決はロシア宮廷にも伝わったが、政府が心配したようなロシア軍の軍事行動は起こらなかった。ロシア公使によると、アレクサンドル3世はむしろ津田が死刑判決を受けたら減刑嘆願を天皇に送るつもりであったという<ref name="キーン(2001)下139">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.139</ref>。
 
日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、結局彼はこの事件以降、日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「[[]]」と呼ぶようになる<ref name="ウォーンズ(2001)256">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.256</ref><ref name="ダンコース(2001)75">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.75</ref>。ロシア首相[[セルゲイ・ヴィッテ]]はニコライ皇太子の日本人蔑視が後の[[日露戦争]]を招いたと分析している<ref name="キーン(2001)下130">[[#キーン(2001)下|キーン(2001)下巻]] p.130</ref>。
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==== 帰国 ====
日本から[[ウラジオストク]]に入港し、そこからサンクた。当時のウラジオスペテルブルへ戻る途中は未整備の町だったが[[シベリア]]を横断すでに中国人と朝鮮人が多く移民ていた。これがきっかけでめ、ニコライ皇太子はシベリアには深い関心この町寄せるようになっ「猿どもの住む宇宙」と毛嫌いした。シベリアはロシア領だが、シベリアを訪れたロシアニコライ皇太子ニコライ彼らと日本人の区別初め付かなくなっであった<ref name="リーベコース(19932001)7175">[[#リーベコース(19932001)|リーベコース(19932001)]] p.7175</ref>。
 
予定行事だけこなすと、早々に不快なウラジオストクを離れ、「文明の天国」サンクトペテルブルクへ戻った<ref name="ダンコース(2001)75">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.75</ref>。その途中、[[シベリア]]を横断した。これがきっかけでニコライ皇太子はシベリアには深い関心を寄せるようになった。シベリアはロシア領だが、シベリアを訪れたロシア皇太子はニコライが初めてであった<ref name="リーベン(1993)71">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.71</ref>。
 
帰国後、ニコライは公務に励むようになり、1891年11月には飢饉救済特別対策委員委員長、1893年2月にはシベリア鉄道委員会の議長に就任する<ref name="リーベン(1993)73">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.73</ref>。
 
=== 即位と結婚 ===
[[ファイル:SerovV MiropomazanNikolAlek.jpg|thumb|250px|1896年、戴冠式で塗油により[[成聖]]されるニコライ2世とアレクサンドラ<BR><SUB>ヴァレンティン・セローフ画、1897年</SUB>]]
[[ファイル:Khodynka stampede victims.jpg|thumb|250px|ホディンカの惨事の犠牲者]]
[[1894年]][[11月1日]]、アレクサンドル3世の崩御(急死)を受け、26歳で即位してロシアニコライ帝となっ太子にはすでに心に決めた人がいた。同じ年にそれは[[ドイツ帝国]][[領邦]][[ヘッセン大公国]]の大公[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]とそ娘でイギ妃[[アリス女王 (ヘッセン大公妃)|アリス]]([[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア英女王]]の次女)の末でもあるアリックスと[[婚配機密]]を受け、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナとし (ニコライ2世皇后)|アリックス]]だった。彼女は母を早期に失ったため、祖母ヴィクトリア英女王の下で育てられた「生粋のイギリス人」であった。ニコライは即位する直ちにアリックスは1886年、ニコライの叔父[[ゼムストセルゲイ・アレクサンドロィチ]](ロシ大公とリックス地方議姉[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]の結婚式で初めて出った。そ自由主義議員に対し専制体制を温存する意思を宣言何度か再会たことで親しくなり彼ら1891年12月にはニコライ皇太子は日記国政参加の願いを中で非常識なヘッセン家のアリックスと結婚するのが」として退け書くようになっ<ref name="リーベン(1993)82">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.82</ref>
 
ただロシア皇太子妃になるには[[ロシア正教]]に改宗する必要があり、アリックスはそれを拒んでいた<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.82-83</ref>。[[1894年]]4月にヘッセン大公[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|エルンスト・ルートヴィヒ]](アリックスの兄)と[[ヴィクトリア・メリタ・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ|ヴィクトリア]](ヴィクトリア英女王の次男である[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレート]]の娘)の結婚式に出席した際、ニコライ皇太子とアリックスはしばしば二人きりで話す機会があり、ニコライ皇太子の熱心な説得の末についにアリックスはロシア正教に改宗して婚約する決意を固めてくれた<ref name="リーベン(1993)83">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.83</ref>。
 
同じ年の初秋に父帝アレクサンドル3世が病に倒れた。10月中旬になると[[クリミア]]で寝たきりになり、ニコライ皇太子が皇帝の公務を代行するようになった<ref name="リーベン(1993)92">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.92</ref>。[[11月1日]]に父帝は崩御した。ニコライは日記の中で「皆にあれほど愛されたパパは神に召されてしまった。これこそが聖人の死だ。この悲しい時をどう耐えたらいいのだろう。神様、どうぞお助けください」と書いている<ref name="リーベン(1993)92">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.92</ref>。
 
26歳でロシア皇帝に即位することとなったニコライ2世は、なるべく早期にアリックスを皇后に迎えたがり、父の遺体が屋根の下にあるうちに彼女と結婚することを希望したが、叔父たちが皇帝の結婚式は盛大に行われるべきであり、服喪と一緒に行うわけにはいかないと反対したため、断念した。とりあえずアリックスはロシア正教への改宗を行い、以降アレクサンドラ・フョードロヴナと名乗るようになった<ref name="ダンコース(2001)83">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.83</ref>。結婚式は父帝の大葬から一週間後に挙式されたが、アレクサンドラは「私たちの結婚式は、私にはまるで死者のための[[ミサ]]の連続のように思えました。ただ違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている<ref name="ダンコース(2001)84">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.84</ref>。
 
ペテルブルクの社交界では[[ロシア語]]と[[フランス語]]が必須だったが、アレクサンドラはロシア語の勉強を始めたばかりで母語の英語以外はうまく扱えなかった。またそもそも彼女は社交的な性格でもなかった。そのため若き皇后はすぐにも社交界での評判が悪くなった。アレクサンドラの方も英国社交界に比べてロシア社交界は贅沢三昧で背徳的と見ていた<ref name="リーベン(1993)95">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.95</ref>。こうしたペテルブルク社交界との不仲のためか、ニコライ2世とアレクサンドラはペテルブルクよりも[[ツァールスコエ・セロー]]の[[アレクサンドロフスキー宮殿]]で生活することを好んだ<ref name="リーベン(1993)102-103">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.102-103</ref>。
 
ニコライ2世の即位にあたって[[トヴェリ]]の[[ゼムストヴォ]](ロシアの地方議会)は皇位継承を祝いつつ「民の声と彼らの願いの表明に耳を傾ける」ことを嘆願した。これに対してニコライ2世は「ゼムストヴォの会合では、ゼムストヴォ代表が国事に参加するなどという途方もない夢を表明していると知った。皆さんには知ってほしいが、私は全力を挙げて国民の利益に尽くし、忘れがたき我が父がそうしてきたように専制君主制の原則を守るであろう」という演説をもって返答している<ref name="ダンコース(2001)91">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.91</ref>。ニコライ2世はロマノフ家の後継者として先祖が受け継いできた専制君主体制を子孫に受け渡すことが自分の義務であるという信念を固く持っていた。またロシアの民草も専制体制を愛しており、これを転覆させるような主張は一部の狂信者が言ってるだけで全国民の意志を代弁するものではないことも確信していた。こうした思想は[[聖務会院]]院長[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]の影響で培われたものだった<ref name="ダンコース(2001)92">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.92</ref>{{#tag:ref|この演説に[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]も勇気づけられて、「君主制の原則は、至る所でその力を見せつけることである。だからこそ貴方が改革を要求する議員たちの前で行った素晴らしい演説を聞いて私は嬉しくなった」という手紙をニコライ2世に送っている<ref name="ダンコース(2001)91">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.91</ref>。|group=注釈}}。
 
[[1896年]]ユリウス暦[[5月14日]]、[[モスクワ]]の[[クレムリン]]に所在する[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー大聖堂]]で皇后とともに[[戴冠式]]を行なった。戴冠式に日本からは明治天皇の[[名代]]として[[伏見宮貞愛親王]](陸軍[[少将]])、特命全権大使として[[山縣有朋]]が出席している。
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戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった([[ホディンカの惨事]])。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したが、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、事件への反応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなった。
 
=== 日露戦争とロシア第一革命 ===
{{see|日露戦争|ロシア第一革命}}
[[ファイル:Tsar Nicholas II -1898.jpg|left|thumb|200px|1898年のニコライ2世]]
初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは[[1892年]]に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、[[1903年]]まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。
 
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=== ヨーロッパにおける友好政策 ===
ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、[[1891年]]に[[フランス第三共和政|フランス]]と結んだ協力関係を、[[1894年]]には[[露仏同盟]]として発展させるとともに、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、[[万国平和会議]]の開催を自ら提唱して[[1899年]]の会議では[[ハーグ陸戦条約]]の締結に成功した。
 
=== 中国分割 ===
一方、極東方面に対しては、[[1895年]]4月の[[三国干渉]]ではドイツ、フランスを誘って「清国の秩序維持」を名目に、[[下関条約]]によって日本が得た[[遼東半島]]を[[賠償金]]3,000万両と引き替えに清に返還させ、同年に[[東清鉄道]]の建設を命じている。ロシアは1894年に[[露仏同盟]]を結んで1882年結成の独墺伊の[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]に対抗しようとしたが、[[黄禍論]]者でもあったヴィルヘルム2世はロシアの目を極東に向けさせることによって対露関係を調整しようとした。三国干渉は日本国民に反露感情を植え付ける結果となり、日本はやむなく勧告を受け入れたものの「[[臥薪嘗胆]]」を合言葉として[[ナショナリズム]]の傾向が強まった。
[[ファイル:China imperialism cartoon.jpg|thumb|200px|列強の中国分割の風刺画。左から[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]](イギリス)、[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](ドイツ)、ニコライ2世(ロシア)、[[マリアンヌ]](フランス)、[[サムライ]](日本)]]
1894年の[[日清戦争]]で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の[[旅順]]を含む[[遼東半島]]を獲得した。これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。さらに[[ロシアの外相|外相]]{{仮リンク|アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー|ru|Лобанов-Ростовский, Алексей Борисович}}の主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に[[三国干渉]]をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した<ref name="田中(1994)317-318">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.317-318</ref>。
 
一方日本に対して巨額の賠償金を負った清は、その支払いのためにロシアから借款を余儀なくされた(厳密にはロシアが同盟国フランスから借款した金を清が借款)<ref name="ダンコース(2001)123">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.123</ref>。その見返りとして清は露仏両国に中国における様々な権益を認めざるをえなくなり、列強諸国による中国分割が進み、[[阿片戦争]]以来の中国のイギリス一国の半植民地([[非公式帝国]])状態が崩壊していくこととなる<ref name="坂井(1967)233">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.233</ref>。
[[1898年]]には[[旅順]]・[[大連市|大連]]を租借し、旅順にいたる鉄道敷設権も獲得して旅順艦隊(第一[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]])を配置、さらに[[1900年]]の[[義和団の乱]]にも派兵して、事変の混乱収拾を名目に[[満洲]]を占領、日英米の抗議による撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強力に推し進めた。そして[[朝鮮半島]]への圧力を強めると日本と対立するようになった(ヴィルヘルム2世の戦争を危惧する親書に対し「朕(ニコライ2世)は戦争を欲しない。よって戦争は起きない」旨の返書をしている)。国内では1900年から[[1901年]]にかけて起こった経済危機により、[[工業製品]]の発注が激減し、[[失業者]]が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。そのような状況下で戦争をはじめることにヴィッテは反対し、戦争回避を主張したが、政敵であった内相[[ヴャチェスラフ・プレーヴェ]]や強硬派[[アレクサンドル・ベゾブラーゾフ|ベゾブラーゾフ]]らの策動によってこの主張は退けられ、ヴィッテは失脚した。陸軍大臣[[アレクセイ・クロパトキン]]や関東州総督の[[エヴゲーニイ・アレクセーエフ]]も主戦論を支持して、日本に対し強硬策をとり続けたため、[[1904年]]2月に日本側の攻撃を発端に[[日露戦争]]が勃発した。{{要出典範囲|
ロシア陸軍総司令官となったクロパトキンは、日本陸軍を内陸部まで引き付けて補給線が伸び切ったところで一気に反撃するという戦略を持っていたために退却を繰り返した|date=2013年7月}}が、短期的に見れば敗戦し続けており、ニコライ2世の威信の低下につながった。また海軍も旅順艦隊が壊滅させられるなどの打撃を受けた。
 
とりわけヴィッテが中国分割に強い意欲を持っていた。鉄道建設にあたってロシアを横断するより満洲の地を使った方が安上がりだし、中国北部市場をロシアの独占市場にするうえでも有利と考えられたからである<ref name="リーベン(1993)153">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.153</ref>。1896年にヴィッテは訪露した清の大臣[[李鴻章]]と[[露清密約]]を締結した。これによりロシアは中国を日本から防衛する代わりに[[満洲]]にロシア鉄道を敷設する権利を獲得した。鉄道の土地の管理権と検察権も付属しており、典型的な帝国主義的進出だった<ref name="田中(1994)319">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.319</ref>。これによりロシアは満洲に強固な足場を獲得し、とりわけ[[ハルビン]]はロシア植民地と化していった<ref name="ダンコース(2001)123">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.123</ref>。
 
1897年11月に[[山東省]]でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が[[山東省]]に派兵し、[[膠州湾租借地|膠州湾]]を占領し、そのまま清政府から同地を[[租借地]]として獲得した。危機感を抱いたニコライ2世は11月26日にもその対策会議を招集した。外相{{仮リンク|ミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラビヨフ|label=ミハイル・ムラビヨフ|ru|Муравьёв, Михаил Николаевич (министр)}}が「イギリス軍が報復措置で旅順を占領する可能性が高く、先手を打って我々が旅順を占領する必要がある」と主張したが、ヴィッテはその主張に反対した。ニコライ2世もこの会議の時にはヴィッテを支持して旅順占領案を却下したが、その二週間後にはムラビヨフ外相の説得を受け入れて、前言撤回し、旅順占領を決定した<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.153-154</ref>。こうして翌12月に[[遼東半島]]の[[旅順]]と[[大連]]にロシア軍艦が派遣されることになり、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とし、旅順艦隊([[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]])を常駐させるとともに、「満洲と清領[[トルキスタン]]はロシアの独占的勢力圏である」との宣言を発することになった<ref name="リーベン(1993)153">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.153</ref><ref>[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.100/124</ref>。イギリス首相[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯]]もドイツとロシアに対抗して山東半島の[[威海衛]]を占領して同地を租借した<ref name="坂井(1967)254-255">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.254-255</ref>。日本は3年前の三国干渉で「清の領土を保全せよ」という名目で旅順を放棄させられたから、結局旅順がロシアに取られたことを口惜しがった<ref name="リーベン(1993)154">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.154</ref>。
 
列強諸国による中国分割に反発した[[義和団]]が1899年から1900年にかけて北中国を中心に[[義和団の乱]]を起こした。乱自体は列強諸国の連合軍によってただちに叩き潰されたが、ロシア軍はこれを口実に満洲を軍事占領した。日英米の抗議を受けてロシアは撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東への進出を強引に推し進めた。これには日本もイギリスも憤慨し、1902年1月の[[日英同盟]]の締結に繋がった<ref name="ダンコース(2001)124">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.124</ref><ref name="リーベン(1993)154">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.154</ref>。
 
=== 朝鮮への野心 ===
ロシアは満洲・中国北部の支配権拡張と並行して朝鮮への影響力の拡大にも努めた。朝鮮はウラジオストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると圧迫される可能性があった。また日本が[[対馬]]両岸を抑える事態になれば、旅順港とウラジオストク港を結ぶ[[シーレーン]]が危機に晒される恐れもあった。だが朝鮮半島をロシアに取られれば、圧迫されるのは日本も同じであり、日本も朝鮮への支配権拡張に努めた<ref name="リーベン(1993)154">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.154</ref>。
 
一方朝鮮政府では1895年の三国干渉の影響を受けて反日親露勢力が台頭していた。反日親露派の筆頭だった[[閔妃]]を暗殺するなど日本の強硬姿勢を危惧した国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]はロシア軍の朝鮮進駐を希望するようになり、1896年2月にはロシア大使館へ逃げ込んだ。これにより日本も妥協を余儀なくされ、[[山縣・ロバノフ協定]]が締結されて日露が対等の関係で朝鮮に接していく旨が合意された<ref name="田中(1994)318">[[#田中(1994)|田中・倉持・和田(1994)]] p.318</ref>。だが1897年にロシアが旅順・大連を占領すると、日本はロシアの朝鮮半島進出の本格化を恐れるようになり、「朝鮮半島を日本が支配し、満洲をロシアが支配する」ことをロシアに提案するようになったが、ロシアからは相手にされなかった<ref name="ダンコース(2001)123-124">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.123-124</ref>。
 
しかも朝鮮半島に接する[[鴨緑江]]沿岸では、{{仮リンク|アレクサンドル・ベゾブラーゾフ|ru|Безобразов, Александр Михайлович (статс-секретарь)}}ら冒険主義的なロシア貴族が、朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で伐採事業を開始していた。ベゾブラーゾフはロシアは偉大な大国であるので強硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意気を言われる筋合いはないという信念を持っており、蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いして「大臣たちは皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛下に自分たちの考えを押し付けている」と批判していた。これはニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だった。ニコライ2世はこのベゾブラーゾフを強く信頼するようになり、対日強硬姿勢を強めていく<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.155-156</ref>。
{{-}}
 
=== 日露戦争とロシア第一革命 ===
{{see|日露戦争|ロシア第一革命}}
==== 開戦までの経緯 ====
[[ファイル:Tsar Nicholas II -1898.jpg|leftright|thumb|200px|1898年のニコライ2世]]
1902年1月には対露を目的とした日英同盟が成立したが、一方で日本はロシアとの交渉も諦めておらず、とにかくロシアに朝鮮支配を諦めさせようと努めた<ref name="ダンコース(2001)125">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.125</ref>。
 
こうした情勢の中で1902年から1903年にかけてロシア政府内では極東政策について二つの意見に分かれた。蔵相ヴィッテは「朝鮮支配は諦めるべきである。我々は満洲だけを狙い、そこを足場に中国支配を推し進めることに集中すべきだ」と訴え、対日融和論を説くようになった。またロシア国内では1900年から[[1901年]]にかけて起こった経済危機により、[[工業製品]]の発注が激減し、[[失業者]]が増加したのみならず、農村でも不作が続いていた。そのような状況下で日本と戦争をはじめることにヴィッテは反対していたのである。だが内相[[ヴャチェスラフ・プレーヴェ]]やベゾブラーゾフ、[[エヴゲーニイ・アレクセーエフ]]提督ら対日強硬派は「中国だけではなく朝鮮も支配できる」と主張して譲らなかった。ニコライ2世はとりわけプレーヴェの影響を受けて「朝鮮は多少の危険を冒しても手に入れる価値がある」と考えるようになった<ref name="ダンコース(2001)125">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.125</ref>。
 
1903年7月にアレクセーエフ提督を極東総督に任じた。この役職は政治・軍事問わず極東に関するあらゆる問題を管轄する役職であり、日本・清・朝鮮など極東諸国との外交権をも握っていた<ref name="リーベン(1993)157">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157</ref>。さらにその翌月にはヴィッテを罷免してベゾブラーゾフを国務大臣に任命し、対日強硬路線へ突き進んでいくこととなった<ref name="ダンコース(2001)126">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.126</ref>。
 
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もロシアを欧州から遠ざけ、かつ英露を対立させるチャンスと見てロシアの極東進出を応援した。1904年2月にヴィルヘルム2世はニコライ2世に宛てて手紙を書き、「偏見のない人なら誰でも朝鮮はロシアのものと考えている」としてニコライ2世の方針に支持を表明し、彼に「太平洋提督」になることを勧めた<ref>[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.126/136</ref>。
 
「黄色い猿」を侮蔑するニコライ2世はロシアがどんなに強硬路線を取ろうと日本にロシアと戦争する勇気などあるはずがなく、自分が望まない限り、戦争にはならないと考えていた<ref name="ダンコース(2001)138">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.138</ref>。1903年10月にはアレクセーエフ提督に「私は日本との戦争を望まないし、許可もしない」として戦争回避の命令を下している<ref name="リーベン(1993)157">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157</ref>。しかしニコライ2世の戦争を避ける意思はどんどん弱くなっていき、12月には「ロシアの強硬な圧力を受けて日本が旅順から撤退した1895年を思い出す」「どっちにしても日本は野蛮な国だ。開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」と書いている<ref>[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.157-158</ref>。さらに1904年1月の新年のレセプションの席では「何人たりともロシアの忍耐力と平和を愛する心にいつまでも期待をかけてはならない。ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」と演説した<ref name="ダンコース(2001)138">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.138</ref>。
 
==== 戦争の経緯 ====
1904年2月9日深夜、日本が宣戦布告なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで[[日露戦争]]が開戦した。アレクセーエフ提督からこの報告を受けた時ニコライ2世は「宣戦布告なしだと!神よ、我らを助けたまえ」と述べたという<ref name="ダンコース(2001)127">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.127</ref>。
 
だが戦況は思わしくなく、日本艦隊は早々に旅順のロシア艦隊をウラジオストクに追って制海権を獲得。5月にはロシア陸軍は鴨緑江で敗北し、[[奉天]]まで後退を余儀なくされた。ロシア軍増援部隊は[[アレクセイ・クロパトキン]]将軍の指揮のもと日本軍に包囲される旅順を解放しようとしたが、失敗し、1905年1月に旅順が陥落。更に日本軍は奉天のロシア軍にも攻撃を開始し、奉天からも退却を余儀なくされた。ニコライ2世の最後の希望だった[[バルチック艦隊]]もようやく極東に到着したばかりの5月15日に[[日本海海戦]]において殲滅されてしまった<ref name="ダンコース(2001)127-128">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.127-128</ref>。
 
ロシアの敗因はいくつかあるが、まず日本の方が戦闘地域に近いため、ロシアよりも迅速に動員や補給ができたことがある。開戦当初ロシア軍29個軍団のうち極東にいたのは2個軍団だけであり、他の部隊は戦闘地域に到着するまで数カ月もかかった。シベリア鉄道は単線だったためである<ref name="ダンコース(2001)130-131">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.130-131</ref><ref name="リーベン(1993)218">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.218</ref>。またロシア側は相次ぐ敗戦で指揮系統の混乱が見られた。極東総督として極東ロシア陸海軍双方に指揮権を持つアレクセーエフ提督は陸軍のトップである[[アレクセイ・クロパトキン]]将軍と折り合いが悪く、アレクセーエフが攻勢志向なのに対して、クロパトキンは後退・再編成志向だった<ref name="ダンコース(2001)131">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.131</ref>。またアレクセーエフ解任後もクロパトキンと[[オスカル・フェルディナント・グリッペンベルク|グリッペンベルク]]将軍の確執があった<ref name="リーベン(1993)219">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.219</ref>。こうして相矛盾する命令を受けることになったロシア軍の現地部隊は混乱し、これが日本軍に有利に働いた<ref name="ダンコース(2001)131-132">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.131-132</ref>。ロシアの極東艦隊は数の上では日本艦隊に匹敵したが、まともな基地と修理施設がなかったうえ、[[ステパン・マカロフ]]提督の旗艦が機雷にかかるなど様々な不運に見舞われた<ref name="リーベン(1993)218">[[#リーベン(1993)|リーベン(1993)]] p.218</ref>。
 
そしてもう一つ、国内に蔓延していた革命機運であった<ref name="ダンコース(2001)132">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.132</ref>
==== 血の日曜日事件 ====
{{see|血の日曜日事件}}
日露戦争勃発当初はロシア国内でも愛国ムードが高揚したが、軍事的失敗が続く中で国内的亀裂が再び深まった。学生運動を行っていた大学生らは軍に入隊させられるやアジテーターと化して部隊の指揮を低下させようとした。また鉄道員にも心理工作を仕掛けて軍の極東移動の妨害も図った<ref name="ダンコース(2001)132-133">[[#ダンコース(2001)|ダンコース(2001)]] p.132-133</ref>。
 
[[1905年]][[1月9日]]、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えて[[サンクトペテルブルク]]の[[冬宮殿]]前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000 - 3,000人の死者と1,000 - 2,000人の負傷者を出した([[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]])。敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去った。この事件を受けプレーヴェ暗殺後に内相を務めていた[[ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー|スヴャトポルク=ミルスキー]]を解任して、後任に[[アレクサンドル・ブルイギン]]を任命した。さらに2月には叔父でモスクワ総督の[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公|セルゲイ大公]]が暗殺された。
 
[[File:Forces returning 2.jpg|thumb|right|[[小林清親]]の版画。[[日露戦争]]の敗北によりボロボロとなったロシア軍の悪夢を見て、飛び起きるニコライ二世。]]
戦局も好転することなく敗北が続き、本国から派遣した[[バルチック艦隊]](第二・第三太平洋艦隊)も[[日本海海戦]]で壊滅させられた。海戦の結果を受け[[6月8日]]に、[[アメリカ合衆国]]の[[セオドア・ルーズベルト]]大統領が日露両国に講和会議開催を呼びかけ、10日には日本政府が、12日にはロシア政府がそれを受諾。ニコライ2世はヴィッテを再登用して[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]へ全権として派遣し、日本との交渉に当たらせた。
 
交渉の最中である[[6月27日]]には、黒海艦隊の戦艦「[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|ポチョムキン=タヴリーチェスキー公]]」で[[水兵]]による[[反乱]]が起こり、翌28日には港湾でゼネストが起こり、暴動が拡大した。ポチョムキンの反乱に加わったのは[[水雷艇]]1隻と戦艦「[[ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)|ゲオルギー・ポベドノーセツ]]」であった。「ポチョムキン」は[[ルーマニア王国|ルーマニア]]へ逃げ込んだが、説得に応じて投降した反乱水兵はすべて[[処刑]]か、[[シベリア]]への[[流罪|流刑]]を言い渡されている。
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== 人物 ==
* 若い頃は[[ピエール・ロティ]]の小説『お菊さん』の愛読者で、皇太子時代に訪れた長崎では、鼈甲細工の[[屋形船]]、煙草盆、茶箪笥、金作陣太刀、山水[[蒔絵]]長角箱、[[七宝焼]]の[[花瓶]]、竹杖、吸物[[椀]]、[[香炉]]台、竹製茶籠、[[美人画]][[団扇]]、柳行李、鉄瓶、[[有田焼]]、長崎の全景[[写真]]など手当たり次第に日本の[[工芸品]]その他の文物を買いあさり、長崎停泊中の軍艦に市内の彫り師を招いて右腕に[[入れ墨]]をするなど、たいへん日本好きであったという。
* 小説『[[坂の上の雲]]』におけるニコライ2世の人物描写の影響か、[[大津事件]]後は日本との関係が悪化したという説や、王朝の公文書に日本人を「マカーキー(猿)」と記載したと指摘する書籍がある。{{要出典範囲|date=2013年7月24日|しかしそういうことは無かったとの研究もある}}。また日記の文面からもニコライ2世がこの事件で日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと言うことが窺える(保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』講談社学術文庫を参照)。ニコライ2世は大津事件の後に見舞いに来た日本人らに対し紳士的に振舞い、日本側接客伴員を安心させようとつとめた。但し日本人医師の診察は拒絶している。大津事件を原因とした戦争が起こらなかったのは、ニコライ2世の対応が大きかったという説もある。
* 首都ペトログラード(サンクトペテルブルク)を好まず、生地の[[ツァールスコエ・セロー]](現在のサンクトペテルブルク市プーシキン区)を愛し、そこに居住することが多かった。
* ひ弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に対する嫉妬からこれを遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプであったため、統治者には向かなかったとする批評もある。実際は[[写真]]撮影が趣味の家庭人で誠実な人物であったという。外交においても、同盟国に対しては忠実であった。
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*{{Cite book|和書|author=デヴィッド・ウォーンズ|date=2001年(平成13年)|title=ロシア皇帝歴代誌|translator=[[月森左知]]|publisher=創元社|isbn=978-4422215167|ref=ウォーンズ(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ドナルド・キーン]]|translator=[[角地幸男]]|date=2001年(平成13年)|title=明治天皇 下巻|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4103317050|ref=キーン(2001)下}}
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=坂井(1967)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[田中陽児]]、[[倉持俊一]]、[[和田春樹]]編|date=1994年(平成6年)|title=ロシア史〈2〉18~19世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460706|ref=田中(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=[[エレーヌ・カレール=ダンコース]]|translator=[[谷口侑]]|date=2001年(平成13年)|title=甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道 |publisher=[[藤原書店]]|isbn=978-4894342330|ref=ダンコース(2001)}}