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{{Otheruses|アメリカ・ベルモントパーク競馬場の2歳戦|それ以外のフューチュリティステークス|フューチュリティステークス}}
{{出典の明記|date=2013年2月9日 (土) 01:13 (UTC)}}
 
{{競馬の競走
|馬場 = ダート
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|開催地 = [[ベルモントパーク競馬場]]
|施行時期 = 9月
|格付け = G1(1973-2003年)<br>G2(2004-2013年)
|賞金総額 = 250200,000[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](2013年)
|距離 = [[ダート]]6[[ハロン (単位)|ハロン]]
|条件 = サラブレッド2歳
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}}
 
'''フューチュリティステークス'''({{lang|en|Futurity Stakes}})は、[[アメリカ合衆国の競馬|アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]]の[[ベルモントパーク競馬場]]で開催されている[[競馬]]の[[競馬の競走|競走重賞]]である<ref>[http://www.tjcis.com/pdf/icsc13/ICSC-partI_USA.pdf ICSC 2013アメリカでは認定レース般的に'''ベルモントフューチュリティ(Belmont Futurity)'''の名称で呼ばれている覧]2014年4月12日閲覧。</ref>
 
1888年の創設以来長い間アメリカを代表する2歳戦だったが、近年はその価値を他に譲った。
 
各地に「フューチュリティ」とつく後発競走があることから、これらと区別して'''ベルモントフューチュリティ'''('''The Belmont Futurity''')と通称されている<ref name="eagle1951">[http://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=19511002&id=9LItAAAAIBAJ&sjid=7dkFAAAAIBAJ&pg=6046,527143 “The Belmont Futurity”Reading Eagle紙 1951年10月2日付]</ref>。
==概要==
一般に、競走名に「フューチュリティ」とつく競走は2歳馬限定戦である。本競走はそのルーツとなった存在で、100年以上の歴史を持っている。本競走は、1888年にアメリカ史上最高賞金の競走「'''フューチュリティ'''('''Futurity''')」として創設され、長い間アメリカ国内で最も賞金の多い競走の一つだった。秋のニューヨークで開催され、野球の[[ワールドシリーズ]]などと並んでスポーツのビッグイベントとして認知されてきた<ref name="eagle1951"/>。少なくとも19世紀から20世紀前半までは、全米の競馬関係者の目標の競走の一つだった<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9C00E6DA163EEF33A25753C3A96E9C94629ED7CF ニューヨークタイムズ紙 1893年8月30日付]「フューチュリティステークスは全米の競馬関係者全てが勝ちたいと熱望する競走で、その年の最良の馬を決める競走である。」“The stake,as has been said,is the one which every owner,breeder,and trainer,desires to see a horse of his win.It is a test of the very best horses of the year”</ref>。
 
歴代の勝馬には、[[ドミノ (競走馬)|ドミノ]]、[[コリン (競走馬)|コリン]]、[[スウィープ (競走馬)|スウィープ]]、[[マンノウォー]]、[[トップフライト]]、[[メノウ (競走馬)|メノウ]]、[[トムフール]]、[[ネイティヴダンサー]]、[[ナシュア (競走馬)|ナシュア]]、[[ボールドルーラー]]、[[ネヴァーベンド]]、[[:en:Bold Lad|ボールドラッド(USA)]]、[[セクレタリアト]]、[[アファームド]]、[[ホーリーブル]]、[[マライアズモン]]、などのアメリカの歴史的名馬が名を連ねている。
 
ヨーロッパや日本とは違い、アメリカでは2歳戦の価値が高く、特に生産者による注目度が高い<ref name="kaigai">『海外競馬完全読本』海外競馬編集部・編、東邦出版・刊、2006、p60-63</ref>が、そうした風土を決定づけたのがこのフューチュリティステークスの創設だとの指摘もある<ref name="JRA_yosizawa">[http://www.jra.go.jp/topics/column/bstory/11_3.html JRA公式HP「2歳時の活躍は
「才能の前兆」」第3話 高額賞金レース誕生の背景]2014年4月8日閲覧。</ref>。
 
本競走は2歳戦のシーズン後半に行われる高額賞金競走で、10月の[[シャンペンステークス (アメリカ合衆国)|シャンペンステークス]]と並んで、東海岸の2歳馬の目標となる競走と位置づけられており、[[1973年]]に[[競馬の競走格付け|グレード制]]が導入されたときには最高格のG1に認定された。1984年に、より高額で全米の2歳馬の目標となるべく創設された[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]]が11月に登場すると、その重要なステップレースと位置づけられるようになった。2004年にG2に降格したものの、引き続き、アメリカ東海岸地区の2歳有力馬は、9月の本競走、10月の[[シャンペンステークス (アメリカ合衆国)|シャンペンステークス]]をステップに[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]]や[[ハリウッドフューチュリティ]]を目指すのが常道とされる<ref name="kaigai"/><ref name="ab2011">[http://horseracing.about.com/od/latestnews/ss/aa-2011-Futurity-Stakes.htm About.com 2011年7月3日付 2011年フューチュリティステークス]2014年4月8日閲覧。“The $150,000 Futurity Stakes (G2) at Belmont Park is an early prep for the Breeders' Cup Juvenile”</ref>。
 
しばしば単に「フューチュリティ(Futurity)」と表記される<ref>[http://www.horseracingnation.com/race/2009_Futurity_G2 HRNA 2009 Futurity]2014年4月13日閲覧。</ref>。
 
==歴史==
南北戦争が終わり、アメリカ東海岸が競馬の中心地であった時代に設立された。設立当時のアメリカの主流に反して、2歳の若馬による短距離線だったが、アメリカ史上最高の賞金を出すことでアメリカ競馬を代表する競走になった。この競走の成功によって、アメリカ競馬が2歳戦に傾倒する流れを生み出した。
 
競馬禁止法時代に低迷したが、解禁後は復活し、第二次世界大戦前後には絶頂期を迎えた。この競走に勝つことはその年の2歳チャンピオンになるのに等しかった。
 
1970年代から80年代の競馬ブームの中で後発の2歳戦にその座を奪われ、徐々にチャンピオン決定戦の地位を失っていったが、ブリーダーズカップ創設によってそれが決定的になった。20世紀末にはG2に転落した。
 
===創設===
[[南北戦争]]が起きる前のアメリカでは、古馬による[[距離 (競馬)|長距離戦]]が盛んだった。イギリスでは50年か100年前に廃れたような、4マイル(約6.4キロメートル)の競走やヒート戦によって、強い負荷のもとでスタミナを発揮することがよしとされてきた。イギリスでは2歳や3歳馬による、1マイル(約1609メートル)や1マイル半(約2414メートル)の短い距離の競走が主流になっていったが、アメリカ人はこうした傾向を侮蔑していた<ref name="sekaisi1976_USA18s">『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976,p216</ref>。
 
1861年に始まった南北戦争によって、盛んに競馬を行っていたアメリカ南部は荒廃して競馬どころではなくなった。その結果、人、馬、カネといった競馬の資源が北部に集中するようになった。まだ戦争中の1863年頃からはニューヨーク近郊で次々と新しい競馬場が興されていった。これらが人気になるにつれ、より便利で、より新しい競馬場が作られるようになった。ニューヨーク界隈では事業家たちが競馬場を立ち上げ、目玉競走を創設して客の奪い合いをしていた<ref name="sekaisi1976_USA1861-1914">『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976,p222-234</ref>。
 
1880年に、ニューヨークのビジネスマンたちによって、[[ブルックリン区|ブルックリン]]の南岸の[[:en:Sheepshead Bay, Brooklyn|シープスヘッドベイ]]に[[:en:Sheepshead Bay Race Track|シープスヘッドベイ競馬場]]が建設された。彼らは1884年にこの競馬場での最初の大きな重賞として[[サバーバンハンデキャップ]]を創設した。続いて計画された大競走が、'''フューチュリティ'''('''Futurity''')(フューチュリティステークス Futurity Stakes)である<ref name="sekaisi1976_USA1861-1914"/>。
 
イギリスでは2歳馬による競馬は1780年代から本格的に行われるようになっていた<ref>『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976、p85-86</ref>が、古馬による長距離競走に傾倒していたアメリカ競馬にとって、2歳馬による競馬はかなり遅れていた<ref name="sekaisi1976_USA1861-1914"/>。
 
====空前の高額賞金の“フューチュリティ”====
この新競走を考案したのがシープスヘッドベイ競馬場の経営者、ジェームズ・G・K・ローレンスだった<ref>しかし彼は、記念すべき1回めの開催には出席しなかった。開催の前に2人の子を亡くし、妻も重病を患っていたためである。[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9801E0DE1F38E033A25757C0A96F9C94699FD7CF ニューヨークタイムズ紙 1888年9月4日号“Proctor Knott's Futurity”]2014年4月8日閲覧。</ref>。この競走に出走を希望するものは、予め仔馬が誕生するよりも前に、登録料を支払ってこの競走に予備登録を行う。1歳の夏に2度めの予備登録があり、競走の直前に最終の登録を行う。登録の度に登録料を支払う。第1回の場合、仔馬が誕生する前の1865年にまず25ドルを支払って登録をする。この時は752頭の登録があった。1986年に生まれた仔馬が1歳になった1867年の7月15日までに2度めの登録を行い50ドルを支払う。出走前の最終登録では250ドルを支払う。こうして集められた資金が史上空前の賞金の大半を賄うことになる。このほかにコニーアイランド競馬会が1万ドルを拠出し、賞金の総額はざっと5万ドルに達した。優勝馬に与えられる賞金だけでも4万ドル以上になった<ref>最終的な賞金の正確な値は資料によって異なっている。レース翌日のニューヨークタイムズ[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9801E0DE1F38E033A25757C0A96F9C94699FD7CF]によれば41,675ドル、別の資料[http://horseracing.about.com/library/blsalvator.htm]によれば40,625ドルである。</ref><ref name="NYT1888">[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9801E0DE1F38E033A25757C0A96F9C94699FD7CF ニューヨークタイムズ紙 1888年9月4日号“Proctor Knott's Futurity”]2014年4月8日閲覧。</ref><ref>[http://horseracing.about.com/library/blsalvator.htm About.com Horseracing Salvator]2014年4月10日閲覧。</ref>。
 
この額は、アメリカ競馬史上最高賞金額となった。たとえばこの頃始まっていた[[ベルモントステークス]]の賞金は1着1万ドルほどだったし<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9E04E2DB143AE033A2575AC0A9609C94699FD7CF ニューヨークタイムズ 1888年6月9日付 “Race at Jerome To-day”]2014年4月9日閲覧。</ref>、たいていのステークス競走の1着賞金は数百ドルから1000ドル程度だった<ref name="alta1888">[http://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=DAC18880904.2.36.3# “The Futurity Stakes”Daily Alta California, Volume 42, Number 14244, 4 September 1888]2014年4月8日閲覧。</ref>。これらに比べると、フューチュリティの賞金は“天文学的な”高額だった<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Domino.html サラブレッドヘリテイジ ドミノ]2014年4月12日閲覧。“the rich Futurity Stakes, with a purse of over $45,000. Because of the purse, astronomical for those days”</ref>。
 
このように、“将来(フューチュリティ)”生まれてくる仔馬のために投資をすることから、この大競走は「フューチュリティ」と命名された<ref name="LAH_1893">[http://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=LAH18930830.2.4# ロサンゼルスヘラルド紙 1893年8月30日付 “Domino Captured It Through Skillful Handling”]2014年4月11日閲覧。“It takes its name from the fact that the produce of the mares therein engaged are nominated in the September after they are bred to the horse”</ref>
 
====第1回フューチュリティ====
第1回フューチュリティの開催は、1888年の[[レイバー・デー (アメリカ合衆国)|レイバー・デイ]](9月の第一月曜日)である9月3日に行われた。競馬場がある[[コニーアイランド]]には全米から未曾有の4万5000人の大観衆が押し寄せ、[[ブックメーカー]]たちの売上は100万<ref name="alta1888"/>から150万ドル<ref name="NYT1888"/>に達した。当時のニューヨーク・タイムズは、サンドイッチが18000食売れたとか、クラムチャウダーが500ガロン売れたとか、ソーダが600箱も売れた等と伝えている<ref name="NYT1888"/>。競走は4分の3マイル(約1200メートル)で行われ、最終登録に残った19頭<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9C06E6DE1F3EEF33A25751C0A96F9C94699FD7CF ニューヨークタイムズ紙 1888年9月2日号“フューチュリティステークス出走予定馬一覧”]2014年4月8日閲覧。</ref>のうち14頭が出走した<ref name="NYT1888"/>。
 
全米から集まった2歳馬のなかで、単勝1番人気となったのがケンタッキーから来たスプリンターのプロクターノット([[:en:Proctor Knott (horse)|Proctor Knott]])で、1.2倍の大本命となった。プロクターノットは8月11日に[[モンマスパーク競馬場|モンマス競馬場]]で行われたジュニアチャンピオンステークスに勝ち、2歳馬の頂点に立っていた<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9A0CE2DC1E38E533A25751C2A96E9C94699FD7CF ニューヨークタイムズ紙 1888年8月22日付 “Some Turf Notes”]2014年4月10日閲覧。</ref>。
 
フューチュリティ競走の前、馬主のもとへ、プロクターノットを3万ドルで購入したいという申し出があった。[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ|ゴールドラッシュ]]で財を成した[[:en:Lucky Baldwin|EJ“ラッキー”ボールドウィン]]([[サンタアニタパーク競馬場|サンタアニタ競馬場]]の創設者)によるこの申し出は丁重に断られた。真偽は定かではないが<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9A0CE2DC1E38E533A25751C2A96E9C94699FD7CF ニューヨークタイムズ紙 1888年8月22日付 “Some Turf Notes”]によれば、ベルモント氏が「4万ドルを提示したという噂」を否定しているが、レース後の9月4日付のニューヨークタイムズはこのオファーについて報じている。</ref>、ベルモントステークスの生みの親であり競馬会の重鎮だった[[:en:https://en.wikipedia.org/wiki/August_Belmont,_Sr.|オーガスト・ベルモント]]は4万ドルを提示したが、馬主はこれも断った<ref name="NYT1888"/>。
 
対抗馬は単勝5倍のオーリコーマ(Auricoma)だったが、複勝ではオーリコーマが1.2倍で一番売れていた。(プロクターノットは1.4倍。)3番人気がジュニアチャンピオン3着のサルヴェイター(Salvator)で単勝7倍だった。ベルモント氏もフォレストキング(Forest King)を出したが、単勝41倍と低評価だった<ref name="NYT1888"/><ref name="AHR_Salv">[http://horseracing.about.com/library/blsalvator.htm About.com Horse Racing Salvator(1886-1909)]2014年4月10日閲覧。</ref>。
 
2度のフライングがあって、3回めのやり直しで競走が始まった。スタートで先頭に立ったのはベルモント氏のフォレストキングだった。2番手にガーレン(Galen)、その後ろにオーリコーマ、プロクターノット、サルヴェイターが続き、あとは一団だった。しかし、最初の1ハロンでフォレストキングに代わってガーレンが先頭に出た。オーリコーマはいつの間にか脱落していった。しかしこれらの様子は、最後の直線前で待ち構えている大観衆には見えなかった<ref name="NYT1888"/>。
 
大観衆に最初に見えたのは、コーナーを単騎先頭で曲がってくる、紫地に白袖の勝負服のガーレンの姿だった。ガーレンは大きく後続を離しているように見えた。しかし実際にはガーレンは大外を回ってきただけで、内ラチぴったりを回ってきたプロクターノットとサルヴェイターに対して半馬身しかリードがなかった。人気のオーリコーマの姿がなく、オーリコーマに賭けていた観衆からは悲鳴が上がった<ref name="NYT1888"/>。
 
直線を向いて、大外のガーレンと内のプロクターノット、サルヴェイターは半馬身からクビの差で激しく争った。並んで叩き合いになったプロクターノットとサルヴェイターは2度3度と体をぶつけあった。最後に半馬身ほどプロクターノットが前に出て、うまくサルヴェイターの針路を遮った。1位プロクターノット、半馬身差の2位にサルヴェイター、1馬身遅れた3位にガーランが入線した。サルヴェイターのハミルトン騎手はプロクターノットによる進路妨害を申し立てたが却下された。この結果、プロクターノットのフューチュリティ優勝が決まり、この世代の[[:en:American Champion Two-Year-Old Male Horse|2歳チャンピオン]]となった<ref name="NYT1888"/><ref name="Bloodhorse_champions">[http://www.bloodhorse.com/eclipsewinners/pdf/History_Charts.pdf Bloodhorse誌公式HP 歴代チャンピオン]2014年4月11日閲覧。</ref><ref>[http://www.tbheritage.com/TurfHallmarks/Champs/AmChamp2yoMale.html サラブレッドヘリテイジ アメリカ歴代2歳牡馬チャンピオン一覧]2014年4月11日閲覧。</ref><ref name="AHR_Salv"/>。
 
こうして第1回フューチュリティは大盛況で終わったが、競走の結果そのものは、関係者を落胆させた。というのも、優勝馬のプロクターノットは騙馬で、未来(フューチュリティ)の優秀な種牡馬や繁殖牝馬を見出すという企てが失敗したからである<ref name="NYT1888"/>。
 
その後、3歳になってプロクターノットは[[ケンタッキーダービー]]でハナ差の2着に敗れた。サルヴェイターは3歳時に8戦して7勝した。破った馬の中にはベルモントステークス優勝馬のエリック(Eric)もいて、サルヴェイターは1889年の[[:en:American Horse of the Year|年度代表馬]]に選出された。ただし、この年ただ1度の敗戦ではプロクターノットに先着を許している。サルヴェイターは1890年にも年度代表馬に選ばれ、種牡馬になると、フューチュリティステークス優勝のサヴェーブル(Savable)などを出した。サルヴェイターは後に[[アメリカ競馬名誉の殿堂博物館|競馬の殿堂入り]]を果たした。一方のプロクターノットは1891年に病死した<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9A06EFD91030E633A25757C1A96E9C94689FD7CF&oref=slogin ニューヨークタイムズ紙 1889年8月14日付 “Longstreet's Fine Run”]2014年4月11日閲覧。</ref><ref name="AHR_Salv"/><ref name="Bloodhorse_champions"/><ref>[http://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=LAH19020831.2.4 ロサンゼルス・ヘラルド紙 1902年8月31日付 “Savable wins the Futurity”]2014年4月11日付</ref>。
 
====初期の開催====
記念すべき第1回フューチュリティの開催よりも1年半前に遡る1887年3月には既に、1889年に予定されている第2回フューチュリティの詳細が発表されていた。815頭の登録があり、ベルモント氏は一人で28頭もエントリーしていたが、40頭や50頭を登録している馬主はザラにいて、たいていの生産者が半ダースから15頭ほどを登録していた。賞金の総額は75000ドルに達すると見積もられていた<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=F50F1FF7345F10728DDDA10994DB405B8784F0D3 ニューヨークタイムズ紙 1887年3月18日付 “The Greatest Stakses of 1889”]2014年4月11日閲覧、。</ref>。
 
それから2年後の1889年9月4日のレイバーデイのシープスタッドベイ競馬場には23頭の若馬が集った。馬券が一番売れていたのはベルモント氏のセイントカルロ(St.Carlo)で、西海岸のカリフォルニアからはキングトーマス(King Thomas)もやってきた。この年のゴール前は大混戦になって、勝ったのがどの馬か観客には全くわからなかったが、決勝審判はケイオス(Chaos)1着、セイントカルロ2着と判定した。進路妨害沙汰のあった前年のゴールが後味の悪いものだったの対し、この年は1、2着の馬主はすんなりと結果を受け入れた。一説では、セイントカルロの騎手がブックメイカーと八百長を仕組み、ゴール寸前でわざと手綱を抑えたという<ref name="LAH_1893"/>。優勝賞金は6万3000ドルと言われている<ref>[http://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=SDU18890905.2.48.3# サクラメント・デイリーユニオン紙 1889年9月5日付 “Chaos captured the Great Futurity Stakes in fine style”]</ref><ref>[http://eshore.vcdh.virginia.edu/node/5025 The Country Transformed: タイムズ誌 1891年9月27日号より]2014年4月11日閲覧。“Chaos, the winner of the Futurity stakes in 1889, worth $63,000”</ref>。
 
3回めのフューチュリティステークスは、ベルモント氏のポトマック(Potomac)が優勝して7万ドルの賞金を手にした。2着も同厩のマッシャー(Masher)で、3着にはジュニアチャンピオンステークス勝馬のストレイスミース(Strathmeath)が入った<ref>[http://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=DAC18900831.2.3# カリフォルニアデイリーアルタ紙 1890年8月31日付 “The Futurity Stakes:Belmont's colt Potomac wins the great Event”]2014年4月11日閲覧。 </ref>。
 
====2歳の年度代表馬の誕生====
6回目の開催、1893年のフューチュリティステークスは、この競走が全米を代表する競走であることを決定的にした。この年はフューチュリティステークスの開催日にあたる8月29日に[[サイクロン|暴風雨]]が上陸して大変な天候になった。悪天候で外出を断念した人が多かったので、来場した観衆は8000人から多くても15000人と見積もられている<ref>このほか、観客が競馬場に行くのをためらわせた理由として次のような原因が指摘されている。賭博・競馬界への風当たりが厳しくなってきたこと。近年、モンマスパーク競馬場が経営が立ち行かなくなって閉鎖されたこと。2ヶ月前のサバーバンハンデ当日のシープスヘッドベイ競馬場から帰る満員電車が、パークヴィルトンネル直前で脱線事故を起こしてトンネル内の側壁に激突し、多数の乗客が投げ出されたり車両の下敷きになる大事故を起こしたこと。死者9名、負傷者は100名以上にのぼった。死者の中には「今日は6000ドルも勝った」と言い残して死んだものもいた。事故の原因はポイントを切り替える係員の居眠り。[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=OAM18930818.2.35 オアマルメイル紙 1893年8月18日号 “Terrible Railway Accident”]</ref>。この日、単勝1.4倍の本命になったのが、シカゴでハイドパークステークスを圧勝してきた6戦無敗の[[ドミノ (競走馬)|ドミノ]]である<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9A05E2DA143EEF33A25757C1A9619C94629ED7CF ニューヨークタイムズ紙 1893年7月14日付 “Domino won the Hyde Park Stake”]2014年4月11日閲覧。</ref><ref name="LAH_1893"/><ref name="NYT_18930830">[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9C00E6DA163EEF33A25753C3A96E9C94629ED7CF ニューヨークタイムズ紙 1893年8月30日付 “Domino won the Futurity”]</ref>。
 
きれいなスタートと共に[[:en:Fred Taral|タラール騎手]]はドミノを先頭に立たせたが、これをギャリリー(Galilee)が激しく突っつく展開になった。最初のコーナーを曲がると、ギャリリーがドミノを追い越して先頭に立ち、横からはドービンス(Dobbins)がドミノに被せてきて大本命馬を包囲した。有利な位置取りを求めて騎手たちの怒号が飛び交った。道中、ドミノの僚馬ハイデラバード(Hyder Abad)が落馬してドミノはこれを避けるために不利があった。直線を向くと、ドミノは外からギャリリーに並びかけようとするが、ドービンスが反対側から迫ってドミノをはさみこんだ。そのまま3頭が鼻面を合わせての激しい叩き合いになった。大観衆からはたいへんな叫び声が飛んだ。ドミノの馬主のジェームズRキーンだけは声も出せず、株の大暴落を見つめるウォール街の住人のように真っ青な顔をしていた、と当時のニューヨークタイムズは伝えている。最終的には、タラール騎手の素晴らしい騎乗によって、ドミノはハナ差で勝利をおさめた。悪天候にも関わらず、走破タイムの1分12秒4/5は3/4マイルの新記録となった。2着にギャリリーが入ったが、ギャリリーの負担重量はドミノよりも15ポンド(約6.8キロ)少なかった<ref name="LAH_1893"/><ref name="NYT_18930830"/><ref name="NYT_18930829">[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=940CEEDB163EEF33A2575AC2A96E9C94629ED7CF ニューヨークタイムズ紙 1893年8月29日付 “The Rich Futurity”]</ref><ref name="TH_Domino">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Domino.html サラブレッドヘリテイジ ドミノ]2014年4月12日閲覧。本サイトによると、1,2着の着差はアタマ差。</ref>。
 
総賞金の65000ドルあまりのうち、優勝したドミノの馬主には49715ドル、生産者の[[:en:Dixiana Farm|ディキシアナ牧場]]には4000ドルが支払われた。2着馬には馬主に約5200ドル、生産者に2500ドル、3着馬は馬主に2666ドル、生産者に1000ドルがそれぞれ与えられた。ドミノの獲得賞金は14万ドルを越えた。ドミノには「アメリカでかつて生産された中で最も偉大な馬」という評価が与えられた<ref name="LAH_1893"/>驚いたことに、ドミノの馬主はこの勝利でも飽き足らず、フューチュリティのわずか2日後にドービンスに10000ドルを賭けてマッチレースを申し込んだ。ドミノは連戦で疲弊していつもの調子がなく、ドービンスを振りきれずに同着になった。ドミノはこの年、さらに[[メイトロンステークス (アメリカ合衆国)|メイトロンステークス]]に出たが、ここには強い相手がなく楽勝した。この年、ドミノが稼いだ賞金は17万ドルほどになって、2歳馬の獲得賞金記録となった。この記録は38年間破られなかった。ドミノはこの年のアメリカ年度代表馬に選出されたが、2歳馬が年度代表馬になるのは史上初だった。ドミノはわずか19頭の産駒を残して夭逝したが、その中から[[コマンド (競走馬)|コマンドー]]が再び2歳で年度代表馬になり、その子[[コリン (競走馬)|コリン]]はフューチュリティステークスに勝って2歳で年度代表馬になった。<ref name="TH_Domino"/><ref>[http://www.tbheritage.com/TurfHallmarks/Champs/AmHorseoftheYear.html サラブレッドヘリテイジ アメリカ年度代表馬一覧]2014年4月12日閲覧。</ref>。
 
===競馬禁止法と開催地の変更===
19世紀の終わり頃から、競馬に対する世間の風当たりは強まっていた。1908年にニューヨークのキリスト教保守層によって賭博を規制する法律([[:en:Hart-Agnew_Law|ハート・アグニュー法]])が可決された。馬券の発売が大きく制限され、ニューヨーク州では1911年以降、すべての競馬場が閉鎖されることに決まった<ref>正確には、禁止されるのは賭博すなわち馬券の販売であり、競馬そのものは禁止されたわけではないが、馬券の売上で経営を行う競馬場にとっては実質的に競馬の禁止に等しい。この結果、多くの競馬場が閉鎖された。</ref>。シープスヘッドベイ競馬場は閉鎖されて売却されることになった。1910年のフューチュリティステークスは、[[サラトガ競馬場]]に場所を移してなんとか開催されたが、それ以降は開催されなかった。
 
1913年に規制が解除されることが決まり、フューチュリティステークスも再開されることになった。1913年と1914年はサラトガ競馬場で開催されたが、賞金は15000ドルほどまで下がっていた。1915年からは[[ベルモント競馬場|ベルモントパーク競馬場]]に移転した。1960年代にはベルモント競馬場の建替えのため、しばしば[[アケダクト競馬場]]で行われた。賞金は10年かかって元の水準まで戻り、その後高騰して1929年には10万ドルを突破した<ref name="NYRA_BF">[http://www.nyra.com/belmont/stake-race/futurity/ ニューヨーク競馬協会 ベルモントフューチュリティ勝馬一覧]2014年4月12日閲覧。</ref>。
 
===アメリカを代表する2歳戦として===
賞金面では創設時より、2歳戦どころか「アメリカの代表的な競走」の一つだった。
 
2歳戦としては、創設の1888年から1899年までのあいだの12頭の優勝馬のうち8頭がその年のアメリカ2歳チャンピオンに選出されている。20世紀初頭はニューヨークでの競馬禁止、それに伴う賞金の低下によって価値を下げ、1901年から1920年までの20年間の勝馬からは5頭しか2歳チャンピオンに選ばれなかった。ただし、その中には[[コリン (競走馬)|コリン]]、[[マンノウォー]]といったアメリカの歴史的名馬が含まれている<ref name="TH_2yocmp">[http://www.tbheritage.com/TurfHallmarks/Champs/AmChamp2yoMale.html サラブレッドヘリテイジ アメリカ2歳チャンピオン一覧]2014年4月12日閲覧。</ref>。
 
その後、1920年代から1950年代半ばまでは、本競走の優勝馬がことごとく2歳チャンピオンに選出された。1923年のセントジェイムズ(St.James)から1954年の[[ナシュア (競走馬)|ナシュア]](Nashua)まで、32年間で21頭の優勝馬が2歳チャンピオンとなっている<ref name="TH_2yocmp"/>。この時代はアメリカの競馬の復興期で、2歳馬の価格もどんどん値上りした。第2次世界大戦でヨーロッパ競馬が荒廃したため、アメリカ競馬は一人勝ちの状態になり、戦後も10年間、名馬が次々と登場した<ref>『競馬の世界史』p281-306</ref>。この時期の優勝馬には、[[アメリカクラシック三冠|三冠馬]][[サイテーション (競走馬)|サイテーション]]、ブルーピーター([[:en:Blue Peter (American horse)|Blue Peter]]<ref>[[ブルーピーター]]とは同名異馬。アメリカのブルーピーターは2歳時に重賞5勝を含む10戦8勝で2歳チャンピオンになったが、その後出走せず病死した。死後、競馬の名誉の殿堂入りをした。</ref>)、[[トムフール]](Tom Fool)、[[ネイティヴダンサー]](Native Dancer)などがいる。
 
1957年からは出生前の登録を出走要件としなくなったが、この頃からフューチュリティステークスよりも遅く行われる[[シャンペンステークス (アメリカ合衆国)|シャンペンステークス]]のほうが2歳チャンピオン選出に大きな役割を果たすようになった。1955年以降、ブリーダーズカップジュヴェナイル創設前年の1983年までの間で、フューチュリティステークスの優勝馬が2歳チャンピオンになったのは6頭しかいないが、1ヶ月後に同じ舞台で行われるシャンペンステークスからは16頭のチャンピオンが出ている。(このうち[[ネヴァーベンド]](Never Bend)、ボールドラッドUSA([[:en:Bold Lad|Bold Lad]])、トップナイト(Top Knight)の3頭は両競走を勝っている。<ref name="TH_2yocmp"/>)
 
とはいえ、アメリカの2歳戦としては最も重要な競走として認知されており<ref>[http://www.tbheritage.com/TurfHallmarks/racecharts/USA/Futurity.html サラブレッドヘリテイジ フューチュリティステークス]2014年4月12日閲覧。“the most important juvenile event until the introduction of the Breeders' Cup series.”</ref>、アメリカで[[グレード制]]が始まった1973年から最高格のG1に格付けされてきた。
===新興勢力の登場とG1陥落===
====ハリウッドからの挑戦====
2歳チャンピオン選出への影響力という意味では1980年代に創設された超高額賞金競走の影響が大きかった。アメリカの2歳戦は、春夏シーズンを中部や西部で行い、秋にベルモントパーク競馬場を中心としたニューヨーク地区へ戻ってきてその年のチャンピオンを決める、という流れだったのだが、資金の潤沢なハリウッドパーク競馬場は12月に新たな2歳戦としてハリウッドフューチュリティを創設した。一流の2歳馬を全米から集めるためにハリウッドパーク競馬場が用意した賞金は50万ドルで、これまで高額賞金で鳴らしてきたフューチュリティステークスの賞金が10万ドルだったので、フューチュリティステークスはすっかり霞んでしまった<ref>この頃、それまで競馬を開催していなかった時期にも競馬を行うため、鎮痛剤などをはじめとして、競走馬に対する薬物投与の規制が多くの競馬開催州で緩められた。ニューヨークの競馬界はこれに反対したことで地位を落としたという指摘もある。『ホース・トレーダーズ』p338、[http://news.google.com/newspapers?nid=1982&dat=19900611&id=uTlGAAAAIBAJ&sjid=yCINAAAAIBAJ&pg=2501,950897 イブニングニュース 1990年6月11日付]など。</ref>。
 
1982年の2歳戦は、東海岸で1頭の名馬が出現した。コウプラン(Copelan)はホープフルステークス、フューチュリティステークス、シャンペンステークスと、ニューヨーク地区の主要2歳G1を3連勝した。かつてセクレタリアートやアファームドですら成し遂げられなかった偉業で、シアトルスルー以来の無敗の2歳チャンピオンの誕生のはずだった。2歳チャンピオンどころか、年度代表馬の声もあがっていた。しかしコウプランは高額賞金を目指して12月のハリウッドフューチュリティに遠征し、5着に敗れてしまった。フリーハンデでは同じ126ポンドの評価だったが、この年の2歳チャンピオンはハリウッドフューチュリティを勝ったラヴィングボーイ(Roving Boy)になってしまった。<ref>[http://www.nytimes.com/1982/08/29/sports/copelan-is-easy-winner-in-hopeful.html ニューヨークタイムズ紙 1982年8月29日付 “Copelan is easy winner in Hopeful”]2014年4月13日閲覧。</ref><ref>[http://www.nytimes.com/1982/09/13/sports/unbeaten-copelan-is-winner-in-blemont-futurity.html ニューヨークタイムズ紙 1982年8月29日付 “Unbeaten Copelan is winner in Belmont Futurity”]2014年4月13日閲覧。“If Copelan wins the Champagne, he would be in a position to be the first undefeated champion 2-yearold since Seattle Slew in 1977.”</ref><ref>[http://www.nytimes.com/1982/10/18/sports/race-still-on-for-horse-of-year.html ニューヨークタイムズ紙 1982年10月18日付 “Race still on for horse of year”]2014年4月13日閲覧。</ref><ref>『Legacies of the Turf: A Century of Great Thoroughbred Breeders』第2巻, Edward L. Bowen著[http://books.google.co.jp/books?id=i7ilgwjwtN4C&pg=PA72&lpg=PA72&dq=Copelan+Hollywood+Futurity&source=bl&ots=2tWtljRvvD&sig=RKMbEn7SBOURBViAZGVRIMT_dig&hl=ja&sa=X&ei=6vFJU5vnCIjh8AXet4CgCg&ved=0CFQQ6AEwBQ#v=onepage&q=Copelan%20Hollywood%20Futurity&f=false]</ref>
 
翌年にはハリウッドフューチュリティはG1格に認定され、賞金100万ドルになり、アメリカで最も賞金の高い競走となった。もちろん2歳戦として賞金が100万ドルとなる競走も史上初である。一方、フューチュリティステークスは賞金10万ドルのままだった<ref>[http://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Stakes&stkid=2721 EQUIBASE ハリウッドフューチュリティ]2014年4月13日閲覧。</ref>。
 
====ブリーダーズカップの登場====
さらに次の1984年には、[[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ|ブリーダーズカップ]](以下「BC」)が創設された。このイベントは、フューチュリティステークスが創設時に行ったのと似たような方法で、たいへんな高額賞金を実現した新しいタイプの競走だった。フューチュリティステークスが「妊娠中の牝馬」の所有者から登録料を集めたのに対し、BCは種馬の所有者から登録料を集めることを思いついたのだった。全米の種牡馬の種付け料1回分を集めた結果、イベントの賞金総額は1300万ドルにも膨れ上がった。7つの大レースからなるこのイベントは西海岸の[[ハリウッドパーク競馬場]]で行われ、2歳チャンピオン決定戦の[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル|BCジュヴェナイル]]は賞金100万ドルで行われた。この年、フューチュリティステークスではスペクタキュラーラヴ(Spectaculer Love)が[[チーフズクラウン]](Chief's Crown)を1馬身差で下して優勝したが、BCジュヴェナイルではチーフズクラウンが1番人気で勝ち、2番人気のスペクタキュラーラヴは8着に沈んだ。2歳チャンピオンにはチーフズクラウンが選ばれた<ref name="HT_BC">『ホース・トレーダーズ』p340-362</ref>。
 
BC創設の影響は明白で、あちこちで従来の主要競走の価値の低下が見られた。主要な競走の中にも、これまでの開催スケジュールを改め、BCに合わせた日程に変更する競走が出たが、結果として同じ日に同じような条件の一流競走が重複することになり、出走馬が分散してレベルの低下が見られるようになった。シャンペンステークスのように、影響があまりにも顕著だったため、たった1年で慌てて条件を元に戻した例もあった<ref name="HT_BC"/>。
 
1984年以降、2013年までの30年間で、フューチュリティステークスの優勝馬が2歳チャンピオンになったのは、2頭しかいない。この2頭は1987年の[[フォーティナイナー]](Forty Niner)と1995年の[[マライアズモン|マリアズモン]](Maria's Mon)で、両馬ともフューチュリティステークスとシャンペンステークスを勝った馬である。一方、この30年間で、BCジュヴェナイルの優勝馬が2歳チャンピオンになったのは22回である。
 
====フューチュリティとブリーダーズカップ====
フューチュリティステークス優勝馬の、その年のBCジュヴェナイルでの着順は次のようになる(創設以来20年間)<ref>[http://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Stakes&stkid=2042 EQUIBASE フューチュリティS]などをもとに作成</ref>。
 
{| class="wikitable"
|-
!年次!!フューチュリティS優勝馬!!ブリーダーズカップでの成績!!備考
|-
|1984||Spectacular Love||2番人気で8着。||
|-
|1985||Ogygian||不出走||
|-
|1986||Gulch||2番人気で5着。||
|-
|1987||Forty Niner||不出走||シャンペンSに勝ち、2歳チャンピオン選出
|-
|1988||Trapp Mountain||不出走||
|-
|1989||Senor Pete||不出走||
|-
|1990||Eastern Echo||不出走||
|-
|1991||Agincourt||13番人気で5着。||
|-
|1992||Strolling Along||5番人気で8着。||
|-
|1993||Holy Bull||不出走||
|-
|1994||Montreal Red||不出走||
|-
|1995||Maria's Mon||不出走||シャンペンSに勝ち、2歳チャンピオン選出
|-
|1996||Traitor||不出走||
|-
|1997||Grand Slam||2番人気で競走中止。||
|-
|1998||Lemon Drop Kid||4番人気で5着。||
|-
|1999||Bevo||不出走||
|-
|2000||Burning Roma||11番人気で4着。||
|-
|2001||中止||||
|-
|2002||Whywhywhy||1番人気で10着(最下位)||
|-
|2003||Cuvee||1番人気で12着(最下位)||
|-
|}
 
====G2降格====
BC創設初年度にスペクタキュラーラヴがBCジュヴェナイルで大敗した後も、フューチュリティステークス優勝馬がBCジュヴェナイルで好走した例はない。フューチュリティステークスを開催するニューヨークからみて地元開催である年度でも、フューチュリティステークスの優勝馬がBCジュヴェナイルに出走しないケースが多かった。特に2002年、2003年は2年連続でフューチュリティステークス優勝馬がBCジュヴェナイルで本命視されながら最下位に終わるという有様で、翌年にはとうとうフューチュリティステークスはG2に格下げされてしまった。一般には「BCジュヴェナイルの重要な前哨戦<ref name="ab2011"/>」とされながらも、創設以来2013年まで、フューチュリティステークス勝馬からBCはジュヴェナイル優勝馬は出ていない。2013年までのBCはジュヴェナイル優勝馬のなかで、フューチュリティSに出走したことがあるものは前述のチーフズクラウン(フューチュリティS2着)ただ1頭だけである<ref>[http://www.bloodhorse.com/horse-racing/articles/19352/list-of-graded-stakes-for-2004-released-total-drops-by-seven BLOODHORSE 2003年11月25日付“List of Graded Stakes for 2004 Released; Total Drops By Seven”]2014年4月13日閲覧。</ref>。
 
==各回の結果==
馬名に*を付したものは日本輸入馬。
{| class="wikitable"
!年!!開催地!!距離!!メートル換算!!格付!!勝馬!!備考
|-
||1888||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||[[:en:Proctor Knott (horse)|Proctor Knott]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1889||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||Chaos||
|-
||1890||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||Potomac||2歳チャンピオン選出
|-
||1891||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||His Highness||2歳チャンピオン選出
|-
||1892||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||Morello||2歳チャンピオン選出
|-
||1893||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||[[ドミノ (競走馬)|ドミノ]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1894||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||The Butterflies||
|-
||1895||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||Requital||2歳チャンピオン選出
|-
||1896||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||[[:en:Ogden (horse)|Ogden]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1897||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||L'Alouette||
|-
||1898||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||Martimas||
|-
||1899||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||Chacornac||2歳チャンピオン選出
|-
||1900||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||Ballyhoo Bey||
|-
||1901||シープスヘッドベイ||1263ヤード1フィート||約1155||||Yankee||
|-
||1902||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||Savable||
|-
||1903||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||Hamburg Belle||
|-
||1904||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||[[アートフル]]||
|-
||1905||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||Ormondale||
|-
||1906||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||Electioneer||
|-
||1907||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||[[コリン (競走馬)|コリン]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1908||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||[[:en:Maskette|Maskette]]||
|-
||1909||シープスヘッドベイ||3/4マイル||約1207||||[[スウィープ (競走馬)|スウィープ]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1910||[[サラトガ競馬場|サラトガ]]||3/4マイル||約1207||||Novelty||2歳チャンピオン選出
|-
||1911||-||-||||||開催なし||
|-
||1912||-||-||||||開催なし||
|-
||1913||サラトガ||3/4マイル||約1207||||Pennant||
|-
||1914||サラトガ||3/4マイル||約1207||||Trojan||
|-
||1915||[[ベルモントパーク競馬場|ベルモント]]||3/4マイル||約1207||||Thunderer||
|-
||1916||ベルモント||3/4マイル||約1207||||[[:en:Campfire (horse)|Campfire]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1917||ベルモント||3/4マイル||約1207||||Papp||
|-
||1918||ベルモント||3/4マイル||約1207||||Dunboyne||
|-
||1919||ベルモント||3/4マイル||約1207||||[[マンノウォー]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1920||ベルモント||3/4マイル||約1207||||Step Lightly||
|-
||1921||ベルモント||3/4マイル||約1207||||Bunting||
|-
||1922||ベルモント||3/4マイル||約1207||||Sally's Alley||
|-
||1923||ベルモント||3/4マイル||約1207||||St. James||2歳チャンピオン選出
|-
||1924||ベルモント||3/4マイル||約1207||||Mother Goose||
|-
||1925||ベルモント||7/8マイル||約1408||||[[:en:Pompey (horse)|Pompey]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1926||ベルモント||7/8マイル||約1408||||[[:en:Scapa Flow (horse)|Scapa Flow]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1927||ベルモント||7/8マイル||約1408||||[[:en:Anita Peabody|Anita Peabody]]||
|-
||1928||ベルモント||7/8マイル||約1408||||High Strung||2歳チャンピオン選出
|-
||1929||ベルモント||7/8マイル||約1408||||Whichone||2歳チャンピオン選出
|-
||1930||ベルモント||7/8マイル||約1408||||[[:en:Jamestown (horse)|Jamestown]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1931||ベルモント||7/8マイル||約1408||||[[トップフライト]]||
|-
||1932||ベルモント||7/8マイル||約1408||||Kerry Patch||
|-
||1933||ベルモント||7/8マイル||約1408||||Singing Wood||
|-
||1934||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Chance Sun||
|-
||1935||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Tintagel||2歳チャンピオン選出
|-
||1936||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:Pompoon|Pompoon]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1937||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:メノウ (競走馬)|メノウ]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1938||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Porter's Mite||
|-
||1939||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[バイムレック]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1940||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:Our Boots|Our Boots]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1941||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Some Chance||
|-
||1942||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Occupation||
|-
||1943||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Occupy||2歳チャンピオン選出
|-
||1944||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:Pavot|Pavot]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1945||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:Star Pilot (horse)|Star Pilot]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1946||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:First Flight (horse)|First Flight]]||
|-
||1947||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[サイテーション (競走馬)|サイテーション]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1948||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:Blue Peter (American horse)|Blue Peter]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1949||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Guillotine||
|-
||1950||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Battlefield||2歳チャンピオン選出
|-
||1951||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[トムフール]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1952||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[ネイティヴダンサー]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1953||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:Porterhouse (horse)|Porterhouse]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1954||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[ナシュア (競走馬)|ナシュア]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1955||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Nail||
|-
||1956||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[ボールドルーラー]]||
|-
||1957||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Jester||
|-
||1958||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[インテンショナリー]]||
|-
||1959||[[アケダクト競馬場|アケダクト]]||13/16マイル||約1308||||Weatherwise||
|-
||1960||アケダクト||13/16マイル||約1308||||Little Tumbler||
|-
||1961||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Cyane||
|-
||1962||アケダクト||13/16マイル||約1308||||[[ネヴァーベンド]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1963||アケダクト||13/16マイル||約1308||||Bupers||
|-
||1964||アケダクト||13/16マイル||約1308||||[[:en:Bold Lad|Bold Lad (USA)]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1965||アケダクト||13/16マイル||約1308||||Priceless Gem||
|-
||1966||アケダクト||13/16マイル||約1308||||Bold Hour||
|-
||1967||アケダクト||13/16マイル||約1308||||[[:en:Captain's Gig (horse)|Captain's Gig]]||
|-
||1968||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Top Knight||2歳チャンピオン選出
|-
||1969||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[:en:High Echelon|High Echelon]]||
|-
||1970||ベルモント||13/16マイル||約1308||||Salem||
|-
||1971||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[リヴァリッジ]]||
|-
||1972||ベルモント||13/16マイル||約1308||||[[セクレタリアト]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1973||ベルモント||13/16マイル||約1308||G1||Wedge Shot||
|-
||1974||ベルモント||13/16マイル||約1308||G1||Just The Time||
|-
||1975||ベルモント||13/16マイル||約1308||G1||Soy Numero Uno||
|-
||1976||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||For The Moment||
|-
||1977||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||[[アファームド]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1978||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Crest Of The Wave||
|-
||1979||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||[[:en:Rockhill Native|Rockhill Native]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1980||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Tap Shoes||
|-
||1981||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Irish Martini||
|-
||1982||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Copelan||
|-
||1983||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||[[:en:Swale (horse)|Swale (horse)]]||
|-
||1984||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Spectacular Love||
|-
||1985||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||*[[オジジアン]]||
|-
||1986||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||[[ガルチ]]||
|-
||1987||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||*[[フォーティナイナー]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1988||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Trapp Mountain||
|-
||1989||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Senor Pete||
|-
||1990||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Eastern Echo||
|-
||1991||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Agincourt||
|-
||1992||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||Strolling Along||
|-
||1993||ベルモント||7/8マイル||約1408||G1||[[ホーリーブル]]||
|-
||1994||ベルモント||1マイル||約1609||G1||Montreal Red||
|-
||1995||ベルモント||1マイル||約1609||G1||[[マライアズモン]]||2歳チャンピオン選出
|-
||1996||ベルモント||1マイル||約1609||G1||Traitor||
|-
||1997||ベルモント||1マイル||約1609||G1||[[グランドスラム (競走馬)|グランドスラム]]||
|-
||1998||ベルモント||1マイル||約1609||G1||[[レモンドロップキッド]]||
|-
||1999||ベルモント||1マイル||約1609||G1||Bevo||
|-
||2000||ベルモント||1マイル||約1609||G1||Burning Roma||
|-
||2001||-||-||-||-||開催中止||
|-
||2002||ベルモント||1マイル||約1609||G1||Whywhywhy||
|-
||2003||ベルモント||1マイル||約1609||G1||Cuvee||
|-
||2004||ベルモント||1マイル||約1609||G2||Park Avenue Ball||
|-
||2005||ベルモント||1マイル||約1609||G2||[[:en:Private Vow|Private Vow]]||
|-
||2006||ベルモント||1マイル||約1609||G2||King of the Roxy||
|-
||2007||ベルモント||1マイル||約1609||G2||[[:en:Tale of Ekati|Tale of Ekati]]||
|-
||2008||ベルモント||7/8マイル||約1408||G2||Charitable Man||
|-
||2009||ベルモント||3/4マイル||約1207||G2||[[:en:D' Funnybone|D' Funnybone]]||
|-
||2010||-||-||-||-||開催中止||
|-
||2011||ベルモント||3/4マイル||約1207||G2||Jack's in the Deck||
|-
||2012||ベルモント||3/4マイル||約1207||G2||Overanalyze||
|-
||2013||ベルモント||3/4マイル||約1207||G2||In Trouble||
|}
 
*[[2001年]]は、5日前に起きた[[アメリカ同時多発テロ事件]]のため開催されなかった。
== 歴史と概要 ==
[[1888年]]に[[シープスヘッドベイ競馬場]]の経営者であるジェームズ・ローレンスが考案した競走で、創設時はシープスヘッドベイ競馬場で開催されていたものである。後に[[ベルモントパーク競馬場]]に移設され、同競馬場の代表的な競走の一つとなった。
 
==脚注==
創設時から2歳路線上の重要な競走に位置づけられ、[[1973年]]に[[競馬の競走格付け|グレード制]]が導入されたときにはG1に制定されていた。後の[[2004年]]にG2に降格している。
===参考文献・外部リンク===
*[http://www.nyra.com/belmont/stake-race/futurity/ NYRAベルモントパーク競馬場 フューチュリティ歴代勝馬一覧]
*[http://www.tbheritage.com/TurfHallmarks/racecharts/USA/Futurity.html サラブレッド・ヘリテイジ フューチュリティステークス勝馬一覧]
 
=== 開催地 注釈・出典===
<references />
* 1888年 - シープスヘッドベイ競馬場で創設。
* [[1910年]] - [[サラトガ競馬場]]に移設。
* [[1915年]] - ベルモントパーク競馬場に移設。
* [[1959年]] - [[アケダクト競馬場]]に移設。
* [[1961年]] - ベルモントパーク競馬場で開催され、翌年からアケダクトに戻る。
* [[1968年]] - ベルモントパーク競馬場に再度移設され、以後定着する。
 
=== 施行距離 ===
全て馬場は[[ダート]]。
* 1888年 - 6[[ハロン (単位)|ハロン]](約1,207[[メートル]])で施行される。
* [[1892年]] - 1,263[[ヤード]]1[[フィート|フート]](約1,155メートル)に変更。
* [[1902年]] - 6ハロンに戻される。
* [[1925年]] - 約7ハロン(約1,408メートル)に変更。
* [[1934年]] - 6.5ハロン(約1,308メートル)に変更。
* [[1976年]] - 7ハロンに変更。
* [[1994年]] - 8ハロン(約1,609メートル)に変更。
* [[2005年]] - 7ハロンに戻される。
* [[2011年]] - 6ハロンに変更。
== 近年の勝ち馬 ==
* 2013 In Trouble
* 2012 Overanalyze
* 2011 Jack's in the Deck
* 2010 中止
* 2009 D' Funnybone
* 2008 Charitable Man
* 2007 Tale of Ekati
* 2006 King of the Roxy
* 2005 Private Vow
* 2004 Park Avenue Ball
* 2003 Cuvee
* 2002 Whywhywhy
* 2001 中止
* 2000 Burning Roma
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[[Category:アメリカ合衆国の競馬の競走]]
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