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== 概要特徴と歴史 ==
元々は[[兵器]]の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに[[大伴氏]]と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。[[5世紀]]代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、[[雄略天皇|雄略朝]]には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は[[解部]]を配下とし、刑罰、[[警察]]、軍事、[[呪術]]、[[氏姓]]などの職務を担当し、[[盟神探湯]]の執行者ともなった<ref>前之園亮一「[http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/981/1/shigaku_38_23_41.pdf 宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓成立と盟神探湯]]」学習院史学 38, 23-41, 2000年3月,p39</ref>
 
物部氏は[[528年]][[継体天皇]]の時代22年に九州北部で起こった[[磐井の乱]]の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した[[物部麁鹿火]](あらかい)は[[宣化天皇]]の元年の7月に死去している。
[[連]]の[[カバネ|姓]](かばね)、[[八色の姓]]の改革の時に[[朝臣]]姓を賜る。[[穂積氏]]、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。
 
=== 磐井蘇我氏と対立 ===
[[宣化天皇]]の[[崩御]]後、[[欽明天皇]]の時代になると[[物部尾輿]](生没年不詳)が[[大連 (古代日本)|大連]]になった。欽明天皇の時代[[百済]]から[[仏像]]が贈られた[[仏像]]を巡り、[[大臣 (古代日本)|大臣]]・[[蘇我稲目]]を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や[[中臣鎌子]]([[中臣氏]]は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った<ref>『[[日本書紀]]』</ref>。
物部氏は[[継体天皇]]の時代に九州北部で起こった[[磐井の乱]]の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した[[物部麁鹿火]](あらかい)は[[宣化天皇]]の元年の7月に死去している。
 
稲目・尾興の死後は[[蘇我馬子]]、[[物部守屋]]に代替わりした。大臣・蘇我馬子は[[敏達天皇]]に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありこれを許可したが、このころから[[疫病]]が流行しだした。大連・物部守屋と[[中臣勝海]]は[[蕃神]](異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は[[仏法]]を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、[[仏像]]を海に投げ込ませ、馬子や[[司馬達等]]ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘[[善信尼]]、およびその弟子の[[恵善尼]]・[[禅蔵尼]]ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の[[奈良県]][[桜井市]])の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
== 蘇我氏との対立 ==
[[宣化天皇]]の[[崩御]]後、[[欽明天皇]]の時代になると[[物部尾輿]](生没年不詳)が[[大連 (古代日本)|大連]]になった。
 
こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の[[用明天皇]]に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の[[587年]][[5月21日]](用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御している(死因は[[天然痘]]と考えられる)。守屋は次期天皇として[[穴穂部皇子]]を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は[[推古天皇|炊屋姫]](用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に[[推古天皇]]となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は[[物部守屋]]に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は[[河内国]][[渋川郡]](現・[[大阪府]][[東大阪市]]衣摺)の本拠地で戦死した([[丁未の乱]])。同年[[9月9日]]に蘇我氏の推薦する[[崇峻天皇]]が即位し、以降物部氏は没落する。
『[[日本書紀]]』によると、欽明天皇の時代[[百済]]から[[仏像]]が贈られた。これの扱いを巡り、[[大臣 (古代日本)|大臣]]・[[蘇我稲目]]を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や[[中臣鎌子]]([[中臣氏]]は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。ただし、[[1935年]]に[[八尾市]]渋川町にある渋川天神社操車場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の[[忍冬唐草紋]]の瓦が出土している。この遺構は物部氏の居住跡である[[渋川廃寺址]]とされることから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。
 
=== 天武朝 ===
稲目・尾興の死後は[[蘇我馬子]]、[[物部守屋]]に代替わりした。大臣・蘇我馬子は[[敏達天皇]]に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありこれを許可したが、このころから[[疫病]]が流行しだした。大連・物部守屋と[[中臣勝海]]は[[蕃神]](異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は[[仏法]]を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、[[仏像]]を海に投げ込ませ、馬子や[[司馬達等]]ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘[[善信尼]]、およびその弟子の[[恵善尼]]・[[禅蔵尼]]ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の[[奈良県]][[桜井市]])の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
[[連]]の[[カバネ|姓]](かばね)、684年[[天武天皇]]による[[八色の姓]]の改革の時に[[朝臣]]姓を賜る。[[穂積氏]]、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。
 
こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の[[用明天皇]]に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の[[587年]][[5月21日]](用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御している(死因は[[天然痘]]と考えられる)。守屋は次期天皇として[[穴穂部皇子]]を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は[[推古天皇|炊屋姫]](用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に[[推古天皇]]となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は[[物部守屋]]に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は[[河内国]][[渋川郡]](現・[[大阪府]][[東大阪市]]衣摺)の本拠地で戦死した([[丁未の乱]])。同年[[9月9日]]に蘇我氏の推薦する[[崇峻天皇]]が即位し、以降物部氏は没落する。
 
== 石上氏 ==
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== 地方の物部氏 ==
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。
 
石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。[[扶桑略記]]、[[陸奥話記]]などには陸奥大目として[[物部長頼]]という人物が記載されている。いわゆる「[[古史古伝]]」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で[[六国史]]に散見する[[俘囚]]への賜姓例の中には、[[吉弥候氏]]が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
 
[[下総国]][[匝瑳郡]]に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、[[物部布都久留|布都久留]] の子で[[物部木蓮子|木蓮子]]の弟の[[物部小事]]が[[関東地方|坂東]]に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた[[和名類聚抄]]の国郡部第十二「下総国第八十六」項には[[下総国]]千葉郡物部郷〈[[四街道市]]物井〉の記述があり、これらについては[[常陸国]][[信太郡]]との関連を指摘する説があり、[[香取神宮]]と物部氏の関連も指摘されている。
 
古代[[尾張国|尾張]]の東部に物部氏の集落があり、現在は[[物部神社]]と、武器庫であったと伝えられる[[高牟神社]]が残っている。[[石見国]]の[[一の宮]]「[[物部神社 (大田市)|物部神社]]」([[島根県]][[大田市]])は、部民設置地説以外に[[古代出雲|出雲勢力]]に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、[[社家]]の長田家・金子家は「[[石見]][[国造]]」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は[[華族|社家華族]]として[[男爵]]に列している。
 
[[岡山県]]には[[備前国|備前]][[一宮]]として知られる[[石上布都魂神社|石上布都御魂神社]]がある。縁起によると、[[素戔嗚尊]]が[[八岐大蛇]]を退治した「[[十握剣|十握劒]]」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の[[磐座]]に納めたのが始まりといわれる。江戸期には[[岡山藩]]の[[池田氏|池田家]]から尊崇を受け「物部」姓を名乗ることを許されたといい、今の宮司も物部氏をついでいる。[[大和]]の[[石上神宮]]の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。
 
== 系譜 ==
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== 子孫枝族・末裔 ==
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の[[厚東氏]]、[[物部神社]]神主家の長田氏・[[金子氏]]([[石見国造]])、[[廣瀬大社]]神主家の[[曾禰氏]]の他、江戸幕府の幕臣・[[荻生徂徠穂積氏]]など、采女氏をはじめ、同族枝族子孫と非常に多われことが特徴である。
 
江戸幕府の幕臣・[[荻生徂徠]]は子孫といわれる。
 
=== 地方東国の物部氏 ===
石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代[[北地方など国]]に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。[[扶桑略記]]、[[陸奥話記]]などには陸奥大目として[[物部長頼]]という人物が記載されている。いわゆる「[[古史古伝]]」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で[[六国史]]に散見する[[俘囚]]への賜姓例の中には、[[吉弥候氏]]が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
 
==== 下総物部氏 ====
[[下総国]][[匝瑳郡]]に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、[[物部布都久留|布都久留]] の子で[[物部木蓮子|木蓮子]]の弟の[[物部小事]]が[[関東地方|坂東]]に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた[[和名類聚抄]]の国郡部第十二「下総国第八十六」項には[[下総国]]千葉郡物部郷〈[[四街道市]]物井〉の記述があり<ref>[[和名類聚抄]]国郡部第十二「下総国第八十六」</ref>、これらについては[[常陸国]][[信太郡]]との関連を指摘する説があり、[[香取神宮]]と物部氏の関連も指摘されている。
 
=== 尾張物部氏 ===
古代[[尾張国|尾張]]の東部に物部氏の集落があり、現在は[[物部神社]]と、武器庫であったと伝えられる[[高牟神社]]が残っている。
 
=== 石見物部氏 ===
古代[[尾張国|尾張]]の東部に物部氏の集落があり、現在は[[物部神社]]と、武器庫であったと伝えられる[[高牟神社]]が残っている。[[石見国]]の[[一の宮]]「[[物部神社 (大田市)|物部神社]]」([[島根県]][[大田市]])は、部民設置地説以外に[[古代出雲|出雲勢力]]に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、[[社家]]の長田家・金子家は「[[石見]][[国造]]」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は[[華族|社家華族]]として[[男爵]]に列している。
 
=== 備前物部氏 ===
[[岡山県]]には[[備前国|備前]][[一宮]]として知られる[[石上布都魂神社|石上布都御魂神社]]がある。縁起によると、[[素戔嗚尊]]が[[八岐大蛇]]を退治した「[[十握剣|十握劒]]」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の[[磐座]]に納めたのが始まりといわれる。江戸期には[[岡山藩]]の[[池田氏|池田家]]から尊崇を受け「物部」姓を名乗ることを許されたといい、今の宮司も物部氏をついでいる。[[大和]]の[[石上神宮]]の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。
 
== 史料 ==
* [[先代旧事本紀]] - [[江戸時代]][[国学]]によって[[偽書]]とされたが、近年は物部氏族伝承の史料価値があると再評価されている<ref name="hasu">蓮沼啓介[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005056.pdf 「天孫本紀の史料価値」] 神戸大学法学雑誌 2006</ref>。
 
== 考古学 ==
『[[日本書紀]]』によると、欽明天皇の時代[[百済]]から[[仏像]]が贈られた。これの扱いを巡り、[[大臣 (古代日本)|大臣]]・[[蘇我稲目]]を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や[[中臣鎌子]]([[中臣氏]]は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。ただし、[[1935年]]に[[八尾市]]渋川町にある渋川天神社操車場を工事した際に、この場所から仏教施設に用いられた塔の基礎や多数の[[忍冬唐草紋]]の瓦が出土している。この遺構は物部氏の居住跡である[[渋川廃寺址]]とされることから、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*畑井弘『物部氏の伝承』吉川弘文館、1977年([[講談社学術文庫]]、2008年)
*前之園亮一「[http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/981/1/shigaku_38_23_41.pdf 宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓成立と盟神探湯]]」学習院史学 38, 23-41, 2000年3月
*蓮沼啓介[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005056.pdf 「天孫本紀の史料価値」] 神戸大学法学雑誌 2006
 
== 関連項目 ==
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* [[石上神宮]]
* [[石上布都魂神社]]
* [[厚東氏]]
* [[金子氏]]
* [[曾禰氏]]
* [[菟道稚郎子]] - 母を物部氏とする説がある。
* [[菟道稚郎子#宇治部|宇治部]]
* [[荻生徂徠]] - 物部氏
 
== 外部リンク ==
*蓮沼啓介[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005056.pdf 「天孫本紀の史料価値」] 神戸大学法学雑誌 2006
* [http://mononobe.digiweb.jp/ 物部氏ファンのページ 天璽瑞宝]