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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=人1997年没}}
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = ダイアナ
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| 称号 = Princess of Wales(ウェールズ公妃)
| 全名 = Diana Frances
| 身位 = Princess(王子妃)
| 敬称 = Her Royal Highness(殿下)(離婚時剥奪)
| 敬称 =
| 出生日 = [[1961年]][[7月1日]]
| 生地 = {{UK}}・{{ENG}}・[[ノーフォーク]]・{{仮リンク|サンドリンガム (ノーフォーク)|label=サンドリンガム|en|Sandringham, Norfolk}}パークハウス]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1961|7|1|1997|8|31}}
| 没地 = {{FRA}}・[[パリ]]・[[サルペトリエール病院]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[ノーサンプトンシャー州|ノーサンプトン州]]オルソープ
| 配偶者1 = [[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]][[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウェールズ公チャールズ皇太子]]([[1981年]] - [[1996年]])離婚
| 配偶者2 =
| 子女 = [[ケンブリッジ公爵]][[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]]<br/>[[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]]
| 父親 = [[スペンサー伯爵]][[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|第8代エドワード・スペンサー伯爵]]
| 母親 = [[スペンサー伯爵夫人{{仮リンク|フランセス・バークロュ]]([[:ャンド・キッド|label=フランセス・スペンサー|en:|Frances Shand Kydd|en]])}}
| 役職 =
}}
'''ウェールズ公妃ダイアナ'''(''{{lang-en-short|Diana, Princess of Wales;Wales}} ;全名ダイアナ・フランシス({{lang-en-short|Diana Frances(Frances}}) ;旧姓Spencer)''スペンサー({{lang-en-short|Spencer}})、[[1961年]][[7月1日]] - [[1997年]][[8月31日]])は、[[チャールズ (イギリス]]の第1位王位継承権者[[プリンス・オブ・ウェールズ)|ウェールズ公]][[チャールズ]]の最初の妃。[[1996年]]に離婚した。[[1997年]]、[[パリ]]での交通事故により不慮の死を遂げた。それぞれ第2位および第4位のイギリス王位継承者である[[ウィリアム (ケンブッジ公)|ケブリッジ公ウィリアム王子]]および[[ヘンリー・オブ・ウェールズ)|ヘンリチャルズ皇太子]]の実母。元来ドイツ発祥で、王位継承者にもドイツ系を主に外国から配偶者を迎える慣例があった同王家としてはめての、両親ともイギリス人の妃であった
 
イギリスの名門貴族[[スペンサー伯爵]]家の令嬢として生まれ、[[1981年]]にチャールズ皇太子と結婚し、彼との間に[[ケンブリッジ公]][[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]](第2位王位継承権者)および[[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]](第4位王位継承権者)の2子を儲けた。しかし後にチャールズ皇太子と別居状態になり、[[1996年]]に離婚した。[[1997年]]に[[パリ]]で交通事故による不慮の死を遂げた。
 
== 概要 ==
<!-- ここは概要部分です。本文に書いたことで重要なことのみここにも記載してください。ここだけに新情報を追加するのはおやめください -->
[[1961年]]に[[スペンサー伯爵]]家の嫡男であるオールトラップ子爵[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード・ジョン・スペンサー]]とその夫人{{仮リンク|フランセス・シャンド・キッド|label=フランセス|en|Frances Shand Kydd}}の三女として{{仮リンク|サンドリンガム (ノーフォーク)|label=サンドリンガム|en|Sandringham, Norfolk}}の屋敷パークハウスで生まれる。[[スペンサー家]]は[[17世紀]]以来続く貴族の家系である(''→[[#生誕と出自|生誕と出自]]'')。
 
[[1967年]]に両親が別居し、[[1969年]]に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]]とともにパークハウスで育てられていたが、[[1970年]]には[[ノーフォーク]]の寄宿学校{{仮リンク|リドルズワース・ホール学校|en|Riddlesworth Hall School}}に入学、ついで[[1973年]]に[[ケント州]]にある寄宿学校{{仮リンク|ウェスト・ヒース学校|en|The New School at West Heath}}に入学した。[[1975年]]に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナも嬢(Lady)の[[儀礼称号]]を得た(''→[[#少女時代|少女時代]]'')。
 
[[1977年]]に姉{{仮リンク|セーラ・マッコーコデール|label=セーラ|en|Lady Sarah McCorquodale}}と交際していた[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]][[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]と初めて出会った(''→[[#チャールズ皇太子との出会い|チャールズ皇太子との出会い]]'')。同年末に[[スイス]]にある花嫁学校{{仮リンク|アルパン・ヴィデマネット学院|en|Institut Alpin Videmanette}}に入学するも、すぐに帰国し、[[ロンドン]]で一人暮らしを始める(''→[[#ロンドンで独り暮らし|ロンドンで独り暮らし]]'')。[[1979年]]に王室の{{仮リンク|サンドリンガムハウス|label=サンドリンガム邸|en|sandringham house}}のパーティーで皇太子と再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、[[1980年]]に交際が深まった(''→[[#皇太子との交際|皇太子との交際]]'')。
 
[[1981年]]2月に皇太子と婚約し、[[7月29日]]に[[セントポール大聖堂]]で結婚式を取り行った(''→[[#皇太子との婚約|皇太子との婚約]]、[[#結婚式|結婚式]]'')。[[1982年]]5月から皇太子とともに[[ケンジントン宮殿]]で生活をはじめる。皇太子との間に[[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]]と[[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]]の2子を儲けるも、皇太子との結婚生活や家庭生活、公務についての考え方の乖離が深刻化した。ダイアナは[[過食症]]に苦しむようになり、皇太子も[[1980年代]]半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、{{仮リンク|ハイグローヴ・ハウス|label=ハイグローヴ邸|en|Highgrove House}}で暮らすことが多くなり、[[カミラ (コーンウォール公爵夫人)|カミラ]]との交際を再開するようになる(''→[[#ケンジントン宮殿での生活|ケンジントン宮殿での生活]]、[[#ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生|ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生]]、[[#皇太子との関係の冷却化|皇太子との関係の冷却化]]、[[#皇太子との不協和音|皇太子との不協和音]]'')。
 
[[1992年]]12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。[[1993年]]に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、[[1994年]]には皇太子自身もカミラこそが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。ダイアナは[[1995年]]11月に[[BBC]]のインタビューに答えて皇太子との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校{{仮リンク|ジェームズ・ヒューイット|en|James Hewitt}}と5年にわたって不倫していたことを認めた。そして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した(''→[[#別居生活|別居生活]]'')。
 
[[1996年]]8月に離婚が成立。2人の王子の親権は平等に持ち、また莫大な[[慰謝料]]を獲得した。この後、[[エイズ]]問題や[[地雷]]除去問題など[[慈善活動]]への取り組みを本格化させる(''→[[#離婚と慈善活動|離婚と慈善活動]]'')。またこの頃から[[パキスタン]]人[[医師]]の{{仮リンク|ハスナット・カーン|en|Hasnat Khan}}と交際する。さらに[[1997年]]7月からは[[エジプト]]人[[ハリウッド映画]][[プロデューサー]]の[[ドディ・アルファイド]]と交際するようになる(''→[[#ハスナット・カーンとドディ・アルファイド |ハスナット・カーンとドディ・アルファイド ]]'')。
 
1997年[[8月31日]]深夜、[[フランス]]・[[パリ]]でドディとともに交通事故にあって死去する(''→[[#パリで交通事故死|パリで交通事故死]]'')。死後、チャールズ皇太子の意向により[[イギリス王室]]が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、女王[[エリザベス2世]]が特別声明を出し、また葬儀中には[[バッキンガム宮殿]]に[[半旗]]が掲げられるという異例の処置が取られた(''→[[#哀悼・葬儀|哀悼・葬儀]]'')。
 
ダイアナのファッションセンスは高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた(''→[[#ファッション|ファッション]]'')。慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されている(''→[[#離婚と慈善活動|離婚と慈善活動]]、[[#他者への愛|他者への愛]]'')。死後も彼女の人気は極めて高い(''→[[#ダイアナ人気|ダイアナ人気]]'')。訪日は三度行っており、[[昭和]]61年([[1986年]])の最初の訪日では日本に「[[ダイアナフィーバー]]」と呼ばれる社会現象を巻き起こした(''→[[#ダイアナの訪日|ダイアナの訪日]]'')。
{{-}}
== 生涯 ==
=== 生誕と出自 ===
[[File:Althorp House1.jpg|250px|thumb|[[スペンサー伯爵]]家の本邸{{仮リンク|オルソープ|en|Althorp}}邸。ダイアナ生誕時・幼少期には祖父[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート]]が暮らす邸宅であったが、幼少期のダイアナもしばしば遊びに行った{{#tag:ref|幼い頃のダイアナは祖父[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート]]の{{仮リンク|オルソープ|en|Althorp}}邸へ行くのが怖かったという。自分の方をじっと見ているように見える先祖の肖像画がかかった薄暗い廊下など、幽霊が出てきそうな雰囲気の場所が多数あったためという。また祖父と父[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード]]の関係も悪かったのでダイアナは祖父を怖がっていたという<ref name="モー119">[[#モー|モートン(1997)]] p.119</ref>。|group=注釈}}。1975年に父[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード]]が相続する。]]
[[1961年]][[7月1日]]午後に[[イングランド]]・[[ノーフォーク]]・{{仮リンク|サンドリンガム (ノーフォーク)|label=サンドリンガム|en|Sandringham, Norfolk}}・パークハウスに生まれる。父はオールトラップ子爵[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|エドワード・ジョン・スペンサー]](後の第8代[[スペンサー伯爵]])。母はその夫人である{{仮リンク|フランセス・シャンド・キッド|label=フランセス|en|Frances Shand Kydd}}({{仮リンク|モーリス・ロシェ (第4代ファーモイ男爵)|label=第4代ファーモイ男爵モーリス・ロシェ|en|Maurice Roche, 4th Baron Fermoy}}の娘)。父方と母方の先祖の名前をとって「ダイアナ・フランセス」と名付けられた。ダイアナは三女であり、姉に{{仮リンク|セーラ・マッコーコデール|label=セーラ|en|Lady Sarah McCorquodale}}、{{仮リンク|ジェーン・フェローズ (フェローズ男爵夫人)|label=ジェーン|en|Jane Fellowes, Baroness Fellowes}}がいる。またダイアナ誕生から3年後に弟[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]]が生まれている<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.116/118/120</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.26-27/32</ref>。
 
[[スペンサー家]]は羊商として財をなし、[[1603年]]に{{仮リンク|ロバート・スペンサー (初代スペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵)|label=ロバート・スペンサー|en|Robert Spencer, 1st Baron Spencer of Wormleighton}}がスペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵に叙されて以来続く貴族の家系である。スペンサー家の本家はチャーチル家から[[マールバラ公爵]]位を継承し、スペンサー=チャーチル家と改称した{{#tag:ref|英国首相[[ウィンストン・チャーチル|ウィンストン・スペンサー=チャーチル]]は[[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公爵]]の三男[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ卿]]の息子である。ダイアナとウィンストン・チャーチルの関係は[[スペンサー家#家系図|スペンサー家]]の項目参照。|group=注釈}}。一方ダイアナのスペンサー伯爵家は[[1765年]]に[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|第3代マールバラ公爵]]の甥[[ジョン・スペンサー (初代スペンサー伯爵)|ジョン・スペンサー]]がスペンサー伯爵位を与えられたことに始まる家柄である。スペンサー伯爵家の歴代当主は[[19世紀]]には政界の中枢で活躍する者が多かったが、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員が政界中枢になることが忌避されるようになった[[20世紀]]以降は政界での活躍はほとんど見られなくなり、廷臣や軍人としての活動が目立つようになった<ref>[[#海保|海保(1999)]] p.14-21</ref>。ダイアナ生誕時の当主は祖父である第7代スペンサー伯爵[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート・スペンサー]]だった<ref name="モー119">[[#モー|モートン(1997)]] p.119</ref>。その嫡男である父エドワードはオールトラップ子爵の[[儀礼称号]]を使用していた。
 
スペンサー伯爵家の嫡孫である弟チャールズは女王[[エリザベス2世]]を[[代父母]]として[[ウェストミンスター寺院]]で[[洗礼]]を受けたが、女子であるダイアナはずっと低く扱われ、代父母は資産家ながら平民の人物で、洗礼を受けた場所も地元サンドリンガムの{{仮リンク|聖メアリー・マグダレン教会 (サンドリンガム)|label=聖メアリー・マグダレン教会|en|St. Mary Magdalene Church, Sandringham}}だった<ref name="モー117">[[#モー|モートン(1997)]] p.117</ref>。
 
ダイアナの生家パークハウスは王室御用邸{{仮リンク|サンドリンガムハウス|label=サンドリンガム邸|en|sandringham house}}に近い場所にある。サンドリンガム邸に招く客を収容するために[[イギリスの君主|国王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]が建てさせた屋敷であり、国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の代に母フランセスの父ファーモイ卿に貸し出され、ファーモイ卿の死後、同屋敷の借家権はダイアナの父母が相続していた<ref name="ディヴ39">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.39</ref>。[[駐車場]]、屋外[[プール]]、[[テニスコート]]、[[クリケット]]場などを備え、6人の住み込み使用人がいたが、貴族の邸宅としては小規模な方だった。しかし周囲の環境は[[牧歌]]的であり、子供の教育場としては最適であった。ダイアナはここで育つことになる<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.118-121</ref>。{{-}}
 
=== 少女時代 ===
[[ファイル:A New School on the old Ashgrove Estate and its history - geograph.org.uk - 919317.jpg|250px|thumb|[[ケント州]]{{仮リンク|セブンノークス|en|Sevenoaks}}にある寄宿学校{{仮リンク|ウェスト・ヒース学校|en|The New School at West Heath}}。ダイアナは[[1973年]]から[[1977年]]までここに入学していた。]]
ダイアナは、[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|オールトラップ子爵エドワード・ジョン・スペンサー]]と子爵夫人[[フランセス・バークロシュ|フランセス]]([[:en:Frances Shand Kydd|en]])の3女として、[[サンドリンガム・ハウス]]([[イングランド]]の[[ノーフォーク]]にあるイギリス王室の邸宅)で生まれた。父のオールトラップ子爵は[[1975年]]、第8代[[スペンサー伯爵]]を相続した。
姉二人はそれぞれ6歳、4歳年上であり、ダイアナが彼女らの仲間入り出来る年齢になる前の[[1967年]]9月には[[ケント州]]{{仮リンク|セブンノークス|en|Sevenoaks}}の{{仮リンク|ウェスト・ヒース学校|en|The New School at West Heath}}へ移ったため、幼いダイアナは弟チャールズとともに育った<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.122-124</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.35-36/38</ref>。
 
父オールトラップ卿と母フランセスは不仲で、母は[[オーストラリア]]帰りの裕福な実業家{{仮リンク|ピーター・シャンド・キッド|en|Peter Shand Kydd}}と不倫するようになった。1967年夏に父と母は「試験的」に別居し、ダイアナと弟チャールズは母とともに[[ロンドン]]へ移った。オールトラップ卿はフランセスがいずれ同居に戻るものと思っていたが、彼女が離婚の意志であることを知るとパークハウスを訪れたダイアナとチャールズをロンドンに帰さず、パークハウスの生活に戻させ、近隣の[[キングズ・リン]]のシルフィールド学校(Silfield School)に入学させた。これに反発した母は親権を求めて訴訟を起こした。イギリスの離婚訴訟は一般に母親有利だが、不倫の事実や貴族の地位が父に有利に働き、[[1969年]]の離婚成立で親権は父が得た<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.124-129</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.33-44</ref>。
スペンサー家は[[15世紀]]に欧州でも有数の羊商として財をなし、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]からスペンサー伯爵の地位を受けた。婚姻関係によって[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]の血筋も受け継いでいる。母方のファーモイ[[男爵]]家はノーフォークの名士であった。姉にセーラ・マッコーコデールとジェーン・フェローズ、弟に[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]](1992年より第9代スペンサー伯爵)がいる。
 
[[1970年]]9月にノーフォークの寄宿学校{{仮リンク|リドルズワース・ホール学校|en|Riddlesworth Hall School}}に入学した。優等生ではなかったが、スポーツに熱心で[[バレエ]]、[[ダンス]]、[[テニス]]、[[水泳]]などに熱中した。友達が多かったが、誰に対しても一定の距離を置き、深く付き合った親友はいなかったという<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.46-48</ref><ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.135-137</ref>。
オールトラップ子爵夫妻はフランセスの不倫が原因で[[1967年]]に別居し、[[1969年]]に正式に離婚した。父は後に再婚したが、両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えた。ダイアナは最初はノーフォーク、後にケントの寄宿学校で教育を受けたが、極端に勉強を嫌い、成績は悪かった。ただ、乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意だった。16歳の時に[[スイス]]の[[フィニッシングスクール]]に入っている。
 
[[1973年]]にはケント州のウェスト・ヒース学校に入学した。この頃のダイアナは{{仮リンク|バーバラ・カートランド|en|Barbara Cartland}}の恋愛小説にはまり、勉強を怠っていたため、成績が悪かったという<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.48-51</ref><ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.138-144</ref>。しかしこの学校でも水泳や[[ネットボール]]、テニス、ダンス、バレエなどのスポーツ分野では活躍した。この頃のダイアナは[[バレリーナ]]になりたがっていたが、身長が180センチ近くまで伸びたため、断念せざるをえなかった。姉セーラと比べると劣るものの[[ピアノ]]も得意だった<ref name="モー142">[[#モー|モートン(1997)]] p.142</ref>。またこの学校は学生のボランティア活動に力を入れており、ダイアナも毎週のように老夫婦の家を訪問してはその話し相手になったり、家事の手伝いをした。この経験を通じてダイアナは自らの社会奉仕への適性を発見したという<ref name="モー142-143">[[#モー|モートン(1997)]] p.142-143</ref><ref>[[#石井|石井(2000)]] p.201-202</ref>。
母フランセスは、チャールズ皇太子と再婚したカミラ・ローズマリー・シャンド(パーカー=ボウルズ夫人)の一族、ピーター・シャンド=キッドと再婚し、父エドワードはロマンス作家バーバラ・カートランドの娘レイヌ・マッコーコデール(ダートマス伯爵夫人)と再婚した。ダイアナの姉セーラはニール・マッコーコデールと結婚した(レイヌはジョンの死後、フランスのジャン=フランソワ・ド・シャンブラン伯爵と再々婚した)。
 
[[1975年]][[6月9日]]に祖父第7代スペンサー伯爵[[アルバート・スペンサー (第7代スペンサー伯爵)|アルバート・スペンサー]]が死去し、父エドワードが第8代スペンサー伯爵位を継承する。弟チャールズはオールトラップ子爵の[[儀礼称号]]を継承し、ダイアナら三姉妹は嬢(Lady)の称号を得た。これに伴い一家はスペンサー伯爵家の本邸である{{仮リンク|オルソープ|en|Althorp}}邸に引っ越した。この邸宅にはダイアナのダンス室が設けられ、ダイアナはホールでダンスの練習に励んだという<ref name="キャ53">[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.53</ref><ref name="モー144">[[#モー|モートン(1997)]] p.144</ref>。
=== チャールズとの出会い ===
スイスから帰国したダイアナは[[社交界]]にデビューし、[[1978年]]11月に[[バッキンガム宮殿]]で開かれたチャールズ王太子の誕生日パーティーで初めて将来の夫と対面する。ダイアナがこのパーティーに招待されたのは長姉のセーラが[[1977年]]から1978年にかけてチャールズ王太子と交際していたからである。この交際はうまくいかなかったが、チャールズはスペンサー家のことはよく知っていたのである。
 
父はオルソープ邸を相続して間もなく、以前から付き合っていた{{仮リンク|レイン・スペンサー (スペンサー伯爵夫人)|label=レイン|en|Raine Spencer, Countess Spencer}}(バーバラ・カートランドの娘でダートマス伯爵夫人)と再婚した。しかしダイアナ含むスペンサー家の子供たちはこの継母のことを嫌っていた<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.55-58</ref><ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.147-148</ref>。
やがてダイアナはロンドンのアパートで住むことを許され、[[保育士]]として働きはじめた。[[1980年]]7月ダイアナは再びチャールズと出会い、交際を深めていった。だが、チャールズには既に恋人の[[カミラ・パーカー・ボウルズ]]がおり、カミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われる。
 
=== チャールズ皇太子との出会い ===
=== 結婚 ===
[[File:HRH Prince Charles 43 Allan Warren.jpg|180px|thumb|若い頃の[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]][[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]([[1972年]])]]
[[1981年]][[2月24日]]チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表され、同年[[7月29日]]、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンの[[セント・ポール大聖堂|セントポール大聖堂]]で結婚し、その模様は[[イギリス連邦]]をはじめとする世界各国で生中継され、その後も2人の動向は世界各国のマスコミで大きく報道されることとなった。
[[1977年]]6月の[[ロイヤルアスコットレースミーティング|ロイヤル・アスコット]](王室主催競馬)でダイアナの姉セーラが[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]][[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]と恋仲になった。皇太子はセーラの誘いを受けて11月にもスペンサー伯爵家の地所オルソープを訪問した。当時16歳のダイアナもウェスト・ヒース校の週末の休みでオルソープに滞在しており、狩猟場でチャールズ皇太子に紹介された。これが皇太子とダイアナの初めての出会いだった。しかしこの段階では特にロマンスが芽生えたわけではなかったようである。チャールズ皇太子の友人によればこの時に皇太子が抱いたダイアナへの感想は「陽気で明るいティーンエイジャー」という程度のものだったという<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.59/62-63</ref><ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.152-153</ref><ref name="ディン下17">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.17</ref>。
 
ダイアナは1977年12月に{{仮リンク|Oレベル試験|en|GCE Ordinary Level}}に二度目の挑戦をするも失敗し{{#tag:ref|Oレベル試験とは、標準(Ordinary)レベルの全国試験のことである。イギリスでは学校卒業前の15歳から16歳ぐらいの子が7科目から10科目この試験を受けるのが一般的である。優秀な成績を収めた子は更に{{仮リンク|Aレベル試験|en|GCE Advanced Level}}を受験する。ダイアナはOレベル試験を二度受験しているが、二度とも全科目不合格になっている。全科目落ちるというのは劣等生の中でも極めて珍しいことである。しかも二度目の受験ではダイアナは4科目しか受けなかったが、それでも全部不合格だった<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.61/67</ref>。|group=注釈}}、進学を断念した。父母の話し合いの結果、ダイアナは[[スイス]]・{{仮リンク|クシュタート|de|Gstaad}}近くにある良家子女のための花嫁学校{{仮リンク|アルパン・ヴィデマネット学院|en|Institut Alpin Videmanette}}に入れることになった<ref name="キャ65">[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.65</ref><ref name="モー150">[[#モー|モートン(1997)]] p.150</ref>。だがダイアナは早々に[[ホームシック]]にかかってスイスでの生活が嫌になり、入学からわずか6週間後にはイギリスに帰国した<ref name="ディヴ177">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.177</ref>。
[[Image:Prince_Charles,_Princess_Diana,_Nancy_Reagan,_and_Ronald_Reagan_(1985).jpg|220px|thumb|[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロナルド・レーガン]][[大統領]]夫妻とともに]]
[[1982年]]には長男[[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス]]が、[[1984年]]に次男[[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッド]]が生まれ、同じく世界各国で大きく報道された。
 
一方チャールズ皇太子と姉セーラは、1978年2月にクシュタート近くの{{仮リンク|クロスターズ|de|Klosters-Serneus}}に[[スキー]]旅行にやってきたが、この時セーラはマスコミの取材に対して「私は愛していない男性とは結婚しません。例え相手がクズ屋でもイギリス国王でもね。もし彼が求婚してきても断るでしょう。」と答えた。この発言の真意は定かでないが、繊細な皇太子はこれに傷ついて以降セーラと距離を置くようになった<ref>[[#キャン|キャンベル(1992)]] p.65-66</ref><ref name="モー155">[[#モー|モートン(1997)]] p.155</ref>。
その後もイギリス国王の世継ぎの妃としてチャールズとともに様々な王室の行事に出席するほか、[[日本]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など世界各国を訪れ、各地で「ダイアナ・フィーバー」と呼ばれるような熱狂的な歓迎を受けることとなった。併せて世界各国のマスコミに常に追いかけられる立場となり「理想のカップル」的な扱いを受けた。
 
=== ロンドンで独り暮らし ===
だが、将来イギリスの国王となることを念頭に、伝統に基づいたつつましやかな生活と公式行事への参加を常に優先するよう教育され、自らもそれを実践していたチャールズと、まだ20代前半で、公的な生活よりも自由奔放に[[セレブリティ]]との派手な付き合いを行うことを好んだダイアナとは、その生活様式や趣味、嗜好が合わず、次第に2人の間には深い溝ができていくこととなった。
スイスからオルソープ邸に戻ったダイアナは、これから何をするか全く決まっていなかったが、とりあえず継母レインが仕切っているオルソープ邸でくすぶっていたくなかった<ref name="ディヴ70">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.70</ref>。子供の面倒を見る仕事をしたいという漠然とした夢を持ってロンドンでの独り暮らしを希望したが、両親からは18歳までは独り暮らしは認めないと申し渡された。代わりにスペンサー伯爵家の友人であるジェレミー・ウィテカー少佐夫妻の[[ハンプシャー]]の邸宅に住み込んで、そこで子供の面倒や家事の手伝いをするようになった。その後、母がロンドン・{{仮リンク|カドガン・スクウェア|en|Cadogan Square}}にある母の[[フラット]]で暮らすことを許可してくれたため、事実上ロンドンでの独り暮らし生活を始めることができた(母はスコットランドで日常生活を送っていたのでロンドンを訪れるのはまれだった)。ロンドンでのダイアナは[[パーティ]]の[[ウェイトレス]]をしたり、[[家政婦]]をするなどして生計を立てた<ref name="モー157">[[#モー|モートン(1997)]] p.157</ref><ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.70-71</ref>{{#tag:ref|ダイアナはほとんどの場合匿名で働いており、彼女の雇い主は彼女をスペンサー伯爵家の令嬢とは知らなかったようである<ref name="ディヴ71">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.71</ref>。|group=注釈}}。
 
ダイアナは1978年11月に[[ウィンブルドン]]にある貴族の娘のための料理学校に入学し、そこで3か月ほど料理の勉強をした<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.160-161</ref><ref>[[#キャン|キャンベル(1992)]] p.67-68</ref>。ダンサーになる夢は高身長のために断念したが、代わりにダンス講師を夢見るようになり、{{仮リンク|ブロンプトン・ロード|en|Brompton Road}}にあるダンス学校に通った。しかしこの学校で才能がないと言われたことに傷つき、また[[1979年]]3月に友人といったフランス・[[アルプス]]への[[スキー]]旅行で転倒して足を怪我したため、ダンス学校に通うのを止めた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.160-161</ref><ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.74-75</ref>。
=== 不倫と離婚 ===
しかも結婚後もチャールズはカミラとの交際をやめず、この秘密の交際にダイアナは早くから気付いていた。このため、彼女は手首を切る[[リストカット]]や腕や太ももを傷つける自傷行為、[[過食嘔吐]]などの[[摂食障害]]を起こすようになったことを、自叙伝『ダイアナの真実』や[[英国放送協会|BBCテレビ]]のインタビューで明かしている。当時「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ」という言葉が、「三人目懐妊か」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。なお[[1988年]]から専門医による治療を受け、これらの症状は回復したという<ref>林 直樹 『よくわかる境界性パーソナリティ障害』〈主婦の友社〉2011年7月</ref>。
 
母のフラットが売却されたため、1979年7月にはコールハーン・コート(Coleherne Court)60番地のフラットを5万ポンドで購入してそこへ引っ越した。念願の自分のフラットを持ったダイアナは、維持費を稼ぐため、女友達にもこの部屋を貸して同居した(最終的には4人の共同生活になった)。彼女たちとの同居を通じてボーイフレンドもたくさんできるようになったが、チャールズ皇太子が現れるまで男性とは誰とも深い付き合いにはならなかったという<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.162-164/167</ref><ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.71-72</ref>。
チャールズとカミラの交際は世間に知れ渡り、これを機にダイアナも王室職員や大富豪の[[ドディ・アルファイド]]など、複数のさまざまな男性と大っぴらに付き合うようになった上に、マスコミにチャールズとの不仲について自らリークを行っていたとも伝えられた。夫婦は[[1992年]][[12月9日]]に別居し、[[1996年]][[8月28日]]に正式[[離婚]]した。
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=== 皇太子との交際 ===
[[File:Britannia (4532545688).jpg|250px|thumb|ダイアナとチャールズ皇太子が初めてキスをした場所、王室船「{{仮リンク|ブリタニア号|en|HMY Britannia}}」。]]
一方その頃、チャールズ皇太子も様々な女性と関係を持っていた。その一人がチャールズ皇太子の後妻となる[[カミラ (コーンウォール公爵夫人)|カミラ]]だった。皇太子とカミラは[[1972年]]に出会っており、以来友達のような間柄だった。その後カミラは[[アンドリュー・パーカー・ボウルズ]]と結婚するも皇太子との関係は断続的に続いた。だが当時の[[マスコミ]]はカミラのことはほとんど掴んでいなかった<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.94-98</ref>。
 
当時マスコミが皇太子妃最有力候補として注目していたのは、皇太子の大叔父にあたる[[ルイス・マウントバッテン|マウントバッテン卿]]の孫娘{{仮リンク|アマンダ・ナッチブル|label=アマンダ・ナッチブル嬢|en|Lady Amanda Ellingworth}}だった。特に[[1979年]]8月にマウントバッテン卿がアイルランド民族主義団体「[[IRA暫定派|IRA]]」に暗殺された後に皇太子とアマンダ嬢の絆が強まっているように見えた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.169-172</ref>。
ダイアナは離婚後は定冠詞のない「[[プリンセス・オブ・ウェールズ|Princess of Wales]](ウェールズ公妃)」を名乗ることと、[[ケンジントン宮殿]]の居住を認められ、その後は自由奔放に様々な男性との交際を行ったほか、[[地雷|対人地雷]]廃止運動や[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]啓発活動などに関っていた。
 
そんな中の1979年、王室のサンドリンガム邸で開かれたパーティにダイアナらスペンサー伯爵家令嬢たちが招かれた。チャールズ皇太子はスペンサー伯爵家の上の娘二人(セーラとジェーン)のことはよく知っていたが、子供のダイアナにはこれまでほとんど関心を持たなかった。しかしこの時の再開で皇太子はダイアナが美しく育っていることを知った。皇太子とダイアナはダンスを踊って楽しんだ。この段階では恋愛関係には至らなかったものの、以降ダイアナは、しばしば皇太子から招待を受けるようになり、親しい友人になっていった<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.113-114</ref>。
=== 事故死 ===
[[Image:Alma tunnel Paris.jpg|220px|thumb|事故現場。[[パリ]]・[[アルマ橋]]]]
[[1997年]][[8月31日]]に、[[フランス]]の[[首都]]の[[パリ]]で、当時の恋人である[[エジプト]]系イギリス人の[[大富豪]]のドディ・アルファイドとともに[[パパラッチ]]に追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・[[ホテル]]の[[メルセデス・ベンツ W140|メルセデスベンツS280]]の[[ハイヤー]]がパリ市内のトンネル内で[[交通事故]]を起こし急逝した。36歳という若さであった。
 
チャールズ皇太子の証言によれば、[[1980年]]7月に[[サセックス]]・{{仮リンク|ペットワース|en|Petworth}}近くの[[カントリーハウス]]で[[バーベキュー]]をしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる皇太子をダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに皇太子は心打たれたという<ref name="ディン下17">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.17</ref>。
ダイアナは事故直後は生存しており救急隊員に対応していたため、譫言で「Leave me alone(放っておいて・私に構わないで)」、「oh my god(なんていうことなの)」と言い続けていた。また、事故直後の現場にはなお9人ものパパラッチが居合わせていたが、救助活動にも手を貸さず彼女の写真を撮り続けていたという。
 
同年8月に[[ワイト島]]の港街{{仮リンク|カウズ|en|Cowes}}で[[ヨット]]レース「{{仮リンク|カウズ・ウィーク|en|Cowes Week}}」が開催された際、ダイアナは王室船「{{仮リンク|ブリタニア号|en|HMY Britannia}}」に招待された<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.175-176</ref>。この船上で皇太子とダイアナは初めて[[キス]]をした<ref name="ディヴ115">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.115</ref>。
その折シートベルトを着用しておらず、着用していれば生存可能だったとも言われる。
 
皇太子が80万ポンドで購入したばかりの[[グロスターシャー]]にある{{仮リンク|ハイグローヴ・ハウス|label=ハイグローヴ邸|en|Highgrove House}}にも頻繁に招かれるようになり、さらにパーカー・ボウルズ家にも連れて行かれ、カミラに紹介された。この際に皇太子はダイアナと結婚することについてカミラの意見を聞いたが、カミラは推奨した。以降、皇太子はダイアナとの結婚を本気で考えるようになったという<ref name="ディヴ116">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.116</ref>。
BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」と報道していたものの、その後間もなく事故の際に受けた[[外傷性脳損傷|脳損傷]]などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。
 
=== マスコミの追跡の始まり ===
訃報が知れわたった翌日9月1日には、ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、各国のイギリス[[大使館]]には記帳台が設置された。ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、かつての夫チャールズであった。
1980年秋にはマスコミが皇太子とダイアナの関係を突きとめた。この時から昼夜問わずマスコミがダイアナのところへ押し寄せてくるようになり、ダイアナに私生活は無くなった。当時ダイアナが勤務していた[[幼稚園]]にまでマスコミがやって来るようになった。彼女の赤い[[ローバー・メトロ]]も何台ものマスコミの車から追跡を受けるようになった。ダイアナ報道は過熱の一途をたどり、やがて[[タブロイド]]紙『{{仮リンク|サンデー・ミラー|en|Sunday Mirror}}』紙が「ダイアナが夜中の二時に停車中の[[お召し列車]]に乗り込み、皇太子と一夜を共にした」という[[捏造]]を報じるに至った{{#tag:ref|王室報道担当官は事実無根として同紙にこの記事の撤回を要求したが、当時同紙は捏造記事であることを否認して撤回を拒否した。しかしお召し列車の警備にあたっていた警察官にダイアナの姿を目撃した者はなく、現在ではこの記事の関係者全員が捏造記事だったことを認めている<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.118-119</ref>。|group=注釈}}。ダイアナはこの記事にひどく傷つき、皇太子も不快に感じた<ref name="モー180">[[#モー|モートン(1997)]] p.180</ref><ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.117-119</ref>。
 
娘を不憫に思った母フランセスは12月に『[[タイムズ]]』紙に宛ててプライベート無視のマスコミ報道を批判する手紙を送った。これがきっかけとなり[[英国議会]]も「ダイアナ・スペンサー嬢に対するマスコミの扱いを遺憾に思う」とする批判動議を決議した。だがマスコミはスクープを物にしようとお構いなしでダイアナ追跡を続けた。ダイアナはルームメイトの協力も得て、様々な手段でマスコミを煙に巻いては、コールハーン・コートの自宅を脱出して皇太子に会いに行った<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.181-182</ref>。
=== 「国民葬」 ===
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[[国葬]]にすべきとの世論がすぐにイギリス国内で高まったが、王室の伝統に鑑みて、[[トニー・ブレア]]首相は「国民葬」にする旨を発表した。[[9月6日]]、[[ウェストミンスター寺院]]で[[国葬]]に準じた盛大な葬儀が行われた。[[バッキンガム宮殿]]に[[半旗]]が掲げられないことから「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがった(当時の世論調査では王室について廃止意見が存続意見を上回った)。
=== 皇太子との婚約 ===
[[File:Buckingham Palace (255640837).jpg|thumb|250px|婚約から結婚の間の5ヶ月間を暮らしていた[[バッキンガム宮殿]]]]
すでに30過ぎの皇太子は結婚を急がねばならず、そういう中で家柄もよく、マスコミのネタにされそうな過去(恋愛経験)もなく、また当時は控えめな女性に見えたダイアナは無難な選択肢に思えた。皇太子の親族や取り巻きの多くもこの結婚に賛成か、少なくとも反対はしなかった<ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.19-20</ref>{{#tag:ref|数少ない反対者はマウントバッテン卿の孫{{仮リンク|ノートン・ナッチブル (第8代ブラボーン男爵)|label=ブラボーン卿|en|Norton Knatchbull, 8th Baron Brabourne}}夫人ペニーであった。ペニーによれば、この頃ダイアナは「もし、うまいこと[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]になれたら」といった表現をしていたと言い、それを聞いたペニーはダイアナは舞台の[[オーディション]]でも受けているような感覚で、皇太子妃になることの重要性を理解していないと感じたという<ref name="ディン下20">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.20</ref>。|group=注釈}}。
 
[[1981年]][[2月6日]]にチャールズ皇太子が[[ウィンザー城]]でダイアナに求婚した。皇太子は「スキー旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。皇太子は真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。ダイアナはこのプロポーズを受け入れた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.184-185</ref>。
それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く、またそもそもバッキンガム宮殿の王室旗の掲揚は国王が宮殿にいる事を示すものであって、女王はスコットランドに滞在していたことから、伝統に従えば旗を掲げてはならない状況だった。しかし、世論の王室への風当たりが強まるのを見て、これまでの伝統は覆された。女王が葬儀に出発し宮殿を出て、掲揚していた王室旗を下ろしたあとに、あらたに[[ユニオンジャック]]が半旗として掲げられた。
 
婚約発表の前日の2月23日夜、ダイアナはルームメイトたちに別れを告げた後、[[スコットランドヤード]]のポール・オフィサー警部の警備のもと、コールハーン・コートを出た。この際に警部は「今夜が貴女の人生で最後の自由な夜ですよ。精一杯お楽しみなさい」と述べたといい、ダイアナは「剣で心臓を貫かれたようでした」と回顧している<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.187-188</ref>。
王室旗に包まれたダイアナの棺は衛兵に担がれ、ケンジントン宮殿からウェストミンスター寺院に移された。葬列には前の夫のチャールズと2人の息子、ウィリアムとヘンリーも参加した。3人は喪服ではなく紺のスーツを着用していた。沿道には多くの人々が集まり、ダイアナの死を悼んだ。エリザベス女王も沿道に立ち、棺が目前を通過すると頭を下げた。
 
ダイアナは[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス皇太后]]の{{仮リンク|クラレンス邸|en|Clarence House}}での一時滞在を経て[[バッキンガム宮殿]]へ移り、結婚までそこで過ごしたが、宮殿の慇懃なよそよそしさに監獄に入ったかのような息苦しさを感じるようになった{{#tag:ref|ダイアナはオルソープ邸にいた頃、何もやることがなくてストレスがたまると通りすがった使用人を捕まえて(誰も通りすがらなかったら台所へ行って)おしゃべりをした。貴族の邸宅ではそれでよくてもバッキンガム宮殿ではそれは通用しなかった。バッキンガム宮殿内は全てが身分で動いており、その分をわきまえることが何よりも重要だった。ダイアナも皇太子の近侍からそのことを注意され、ダイアナが台所へ行こうとしても使用人から「ここから先は手前どもの領分、そこから先が妃殿下の領分です」と立ち入りを断られた。また元来勉強が苦手なダイアナは王室史などロイヤルファミリー向けの[[帝王学]]を嫌がっていたという<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.168-169</ref>。|group=注釈}}。また皇太子とカミラの関係に敏感になっていった{{#tag:ref|皇太子はカミラとは親しい友人だが、それ以上の関係ではないことをダイアナに説明したが、ダイアナは信じなかった<ref name="ディン下25">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.25</ref>。|group=注釈}}。そのストレスでこの頃から後の[[過食症]]の初期症状を見せるようになった。飢餓状態となり、婚約発表時72.5センチあったウェストは結婚式までに57.5センチまで落ちた<ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.22-23</ref><ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.189-198/200</ref>。
=== 埋葬 ===
[[Image:Paris sculpture pont de l'alma.jpg|220px|thumb|事故現場に建つ記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」]]
遺体は[[ノーサンプトンシャー州|ノーサンプトン州]]オルソープのスペンサー家の領地内にある池の中の小島に設けられた墓所に埋葬された。ダイアナの葬儀時、友人の[[エルトン・ジョン]]が、[[マリリン・モンロー]]への追悼曲であった「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の歌詞を書き直した「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」を生演奏した。
 
それでも公的な社交場に出るときのダイアナはリラックスして楽しんでいるかのようだった。未来の義弟[[アンドルー (ヨーク公)|アンドリュー王子]](皇太子の弟)の21歳誕生日パーティでは、アンドリュー王子がイギリスで一番の資産家の{{仮リンク|ナタリア・グローヴナー (ウェストミンスター公爵夫人)|label=ウェストミンスター公爵夫人|en|Natalia Grosvenor, Duchess of Westminster}}がどこにいるのか尋ねたのに対して、ダイアナは「まあアンドリュー。有名な方のお名前をさも親しいように言うのはおやめなさい」とジョークを飛ばして場を和ませた<ref name="モー195">[[#モー|モートン(1997)]] p.195</ref>。
生前「人々のプリンセスでありたい」と述べていたダイアナだが、その通り、国民の多くからは現在も“[[イングランド]]の[[バラ]]”(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」には「Good Bye England's Rose」という歌詞が登場する)として慕われている。なお、ダイアナの墓所は部外者による盗掘を防ぐために墓碑はなく、正確な位置を知っているのは一部の関係者だけである。
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=== 結婚式 ===
[[File:St Paul's Cathedral London02-2.jpg|180px|thumb|皇太子とダイアナの結婚式が挙行された[[セント・ポール大聖堂]]。]]
王室儀式の準備は{{仮リンク|宮内長官 (イギリス)|label=宮内長官|en|Lord Chamberlain}}の任務だが、結婚式の準備はチャールズ皇太子自らが取り仕切り、宮内長官{{仮リンク|チャールズ・マクレーン (マクレーン男爵)|label=マクレーン卿|en|Charles Maclean, Baron Maclean}}に様々な指示を出した。皇太子の決定により結婚式は1981年[[7月29日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で挙行されることになった。ここはバッキンガム宮殿から離れているため警備上の不安があるものの、ウェストミンスター寺院よりも広いので多くの人間を収容できた。式で流す音楽も皇太子が選定し、[[キリ・テ・カナワ]]に祝賀の歌が依頼されることになった。[[聖歌]]も皇太子が選定した。ダイアナは式の準備にはほとんど関与しなかったが、彼女の好きな愛国歌『[[我は汝に誓う、我が祖国よ]]』は曲目に入れてもらえた。招待客については基本的に女王が取りきめた(ダイアナと彼女の父スペンサー卿にも一応提案権はあった)<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.137-138</ref>。
 
祝典は実質的に結婚式前夜の[[7月23日]]夜から始まっていた。[[ハイドパーク]]では1万2000発の花火が打ち上げられ、近衛隊と{{仮リンク|モリストン・オルペウス合唱団|en|Morriston Orpheus Choir}}が聖歌の合同演奏を行った。英国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは[[1953年]]のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.140-141</ref>。
死後、くしくも事故現場のちょうど真上に当たる陸橋にあった記念碑「自由の炎(The Flame of Liberty)」は、ダイアナ妃の事故死により半ば慰霊碑として観光スポットの一つとなっている。後に禁止されるまで献花が絶えず、また自由の炎のある場所はダイアナの死後、ダイアナがファンだった[[マリア・カラス]]にちなんで「マリア・カラス広場」と命名されている。
 
結婚式前夜、ダイアナはクラレンス邸に入り、早めに就寝した。翌日朝6時におきたダイアナは、[[浴槽]]につかった後、朝食をたっぷりと取り、美容師や[[メイクアップアーティスト]]に整髪や化粧をしてもらい、[[ウェディングドレス]]を着用した。ウェディングドレスは、英国製[[シルク]]でできたこの上なく豪華なものだった。そのドレスの裾は王室史上最長の7.5メートルにも達した。[[ティアラ]]は実家スペンサー伯爵家伝来の[[ダイヤモンド]]の物、[[イヤリング]]は母から贈られたダイヤモンドの物を着用した。用意が済むと父スペンサー卿とともに馬車に乗り込み、群衆に手を振りながらセント・ポール大聖堂へ向かった。大聖堂には世界中の君主、王族、大統領、首相などが集合していた。[[アメリカ]]からは[[ファーストレディー|大統領夫人]][[ナンシー・レーガン]]、[[日本]]からは[[明仁|皇太子明仁親王]]と[[皇后美智子|美智子皇太子妃]]が出席していた。大聖堂に到着したダイアナは、[[バージンロード]]を父とともにゆっくり進み、[[王立海軍]]礼服を着用して待つチャールズ皇太子の横に立った。この結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていた。式に出席していた旧[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]王族のカタリナ王女は「ダイアナが神々しいほどに美しかった」と回想している。ダイアナが文字通り全世界の人々の視線を釘付けにした瞬間だった<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.198-200</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.180-185</ref><ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.141-146</ref>。
== ダイアナの死が陰謀によるものだとする説(陰謀論) ==
=== 「ダイアナ謀殺説」 ===
ダイアナ妃の最後の恋人は、[[武器商人]]でありロンドンの名門百貨店[[ハロッズ]]およびパリの[[オテル・リッツ・パリ|リッツ・ホテル]]の[[エジプト]]人オーナー[[モハメド・アルファイド]]の息子[[ドディ・アルファイド]]であった。事故当時も車に同席しており、彼も同時に死亡している。このことからアラブ世界などで(ヨーロッパ他でも)、早い段階から「[[イギリス情報局秘密情報部]](MI6)により暗殺されたのだ」、[[陰謀]]だとする説([[陰謀説]])が広がった。動機としては、
 
式を終えたダイアナと皇太子は国民の歓声を受けながら馬車でバッキンガム宮殿へ戻った。宮殿の庭にも国旗を振りながら「ダイ(ダイアナ)万歳!チャーリー(チャールズ皇太子)万歳!」と叫ぶ国民が集まっていた。その歓声にこたえて王族一同は[[バルコニー]]に出て国民に手を振って挨拶した。皇太子とダイアナはキスして見せ、群衆はそれに拍手喝采を贈った<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.140-141</ref>。
# 事故当時、ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、出生後アルファイド一族によって将来のイギリス国王の異父弟としての地位を利用される事を恐れた。
# 事故の数か月前にダイアナ妃の実母が[[カトリック教会|カトリック]]に[[改宗]]しており、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため。
# アルファイドは[[アラブ人]]の[[イスラム教徒]]であり、ダイアナ妃を通じて王太子らに影響を与える事を恐れたため。
 
[[ハネムーン]]は王室船ブリタニア号での[[地中海]]と[[エーゲ海]]の[[クルージング]]だった<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.187-191</ref>。マスコミに追いまわされないよう王立海軍の協力を得て極秘裏に行われた。英国マスコミは[[ギリシャ]]に飛んで皇太子夫妻を探し回ったが、ついに発見できなかった<ref name="ディヴ152">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.152</ref>。{{-}}
などが取り上げられた。だが、これらの動機に対する証拠は一切無いとし「[[陰謀論]]に過ぎない」と見做している人々も多い。
 
=== 女王との同居生活 ===
事故の際、ダイアナの運転手は[[抗うつ薬]]を飲んでいた上、相当量の飲酒もしていたとする媒体もあった。直前に撮影された映像では、運転手が特に酩酊している様子がないことから、服薬と飲酒の程度については疑問が残っている。
ハネムーンから帰国した皇太子夫妻は8月から10月下旬まで女王が滞在中の[[スコットランド]]・[[バルモラル城]]で休暇生活に入った<ref name="モー204">[[#モー|モートン(1997)]] p.204</ref>。しかしバルモラル城での女王との同居生活は全てを女王に合わせなければならないため、ダイアナにとっては息苦しかった<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.155-157</ref>{{#tag:ref|女王との同居生活で特にダイアナが嫌がっていたのが、毎晩開かれる女王の晩餐会だった。晩餐会は客の顔ぶれや話題にもよるが、大抵は1時間から2時間かけてゆっくり行われる。食事の終了を決めるのは女王であり、それまでは誰も席を立つことは許されない。皇太子はそれに慣れていたが、ダイアナはこれまで早々に食事を済ませて自分のやりたいことをする生活を送ってきたため、我慢できなかった。またこのような場でのダイアナは大体の場合、皇太子と切り離され、自分と接点のない立派な男性二人に挟まれる。ダイアナは自分より頭のよさそうな人間と話してボロを出し、女王の前で馬鹿げたことを口走ってしまう事態を恐れていたため、こういう場では大抵沈黙していた。ダイアナはかつてのルームメイトに送った手紙の中で「ここでは私は完全に場違いのような感じがします。ときどき、いったい私はどうしてこんな羽目になっちゃったんだろうと思うことがあります。とても肩身が狭くて、寂しくて、無力な気がします」と吐露している<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.155-156</ref>。|group=注釈}}。またダイアナは結婚式が終わればマスコミや世論の自分への関心も無くなると思っていたが、ダイアナ人気はその後も長く続き、様々な雑誌の表紙を彼女が飾り続け、常にマスコミの目を気にしなければならないプレッシャーが続いた。また皇太子とカミラの関係も相変わらず気になった。ダイアナのストレスと過食症はひどくなる一方で嘔吐を繰り返した<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.204-206/215-216</ref>。他人の面前で泣いたり、苛立ったりすることも増えた。幼い頃から感情を出さない訓練を受けている皇太子は、彼女の感情爆発にどう対応すればいいのか分からず、困惑させられることが多かった<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.159-160</ref>。
 
ダイアナは皇太子とともに[[ケンジントン宮殿]]{{#tag:ref|ケンジントン宮殿は環境省が管理し、王室が貸している屋敷の集合体である。女王の裁量で貸し出され、主に親戚や廷臣、友人などが入居する。賃料は払わなくてよいが、女王が立ち退きを命じれば直ちに出て行かねばならない<ref name="キャ207">[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.207</ref>。|group=注釈}}で暮らすことになっていたが、同宮殿の改修工事が完了するまではバッキンガム宮殿で女王との同居を続けなければならなかった。ダイアナは早く女王から離れたがっており、改修工事を急がせ、[[1982年]]5月からそこで生活できるようになった<ref name="ディヴ207">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.207</ref>
だが、パパラッチの追跡を逃れようと、160キロ以上という非常に高速でパリ中心部の一般道路を走行した末、トンネル直前で合流路から進入してきたパパラッチが所有する白い[[フィアット・ウーノ]]をよけようとして接触し、トンネル内の道路側壁に激突したという事実は証明されている{{要出典|date=2010年1月}}という。この白塗りウーノの運転者は未だに当局に出頭していない。
 
=== ケンジントン宮殿での生活 ===
=== 警察(政府側)による調査と発表 ===
[[File:Kensington Palace, the South Front - geograph.org.uk - 287402.jpg|250px|thumb|[[ケンジントン宮殿]]]]
事故現場で捜査に当たった[[パリ警視庁]]は否定しているが、「ダイアナは謀殺された」とする説は根強く残っている。また、ダイアナと交際していた王室職員の事故死についても、「あれは殺されたのだ」とダイアナ自身が語ったテープが最近公表されたことから、イギリス検察当局も再調査を開始しており、チャールズ皇太子にも事情聴取が行われた。審問は2004年1月に開廷された。
皇太子とともにケンジントン宮殿に移ったダイアナは今度こそ皇太子と二人っきりの生活を始められると思っていたが、皇太子には膨大な公務があり、また公務以外にも最低週一回は{{仮リンク|コーンウォール公領|en|Duchy of Cornwall}}の統治業務にあたる必要があった。そのため皇太子とダイアナが私的に一緒にいられる時間はほとんどなく、寝る時だけ一緒という日もあった。皇太子は幼い頃からプライベートのない生活に慣れていたが、ダイアナはそうではなかった<ref name="ディヴ162">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.162</ref>。ダイアナは皇太子にいつも自分と一緒にいて愛を囁いてほしがっていた<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.161-162/194-195/207</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.194-197</ref>。
 
そのためケンジントン宮殿に入ってからのダイアナは、公務の同行を拒否したり<ref name="ディヴ162">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.162</ref>、皇太子が公務に出るのを阻止しようとしたり{{#tag:ref|皇太子に仕えたスティーブン・バリーによれば1981年12月にダイアナが皇太子の書斎に入って来て、気分が悪いのでどこにも行かないで側にいてほしいと皇太子にお願いしたことがあるという。それに対して皇太子は医者を呼ぶから横になっているよう言ったが、ダイアナは医者など必要ない、貴方が側にいてくれればいいと食い下がった。皇太子は公務があるからでかけなければならないと穏やかに説得したが、ダイアナはそれに怒り心頭になり、「公務?貴方の頭の中にあるのは、クソ忌々しい公務だけなのね。そろそろ私のことを考えて下さってもいい頃だわ。卑しくも私は貴方の妻なのですから」とわめいて部屋を飛び出してしまったという。それを見た皇太子は首を振りながら足元を見つめていたという。何も言わなかったが、深刻な顔をしていたという<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.164-165</ref>。|group=注釈}}、皇太子と親しい使用人を宮殿から追い出したり{{#tag:ref|ダイアナは皇太子の側近たちが自分から皇太子を遠ざけていると考えていた。そのため、皇太子個人秘書(Private Secretary to the Prince of Wales)の{{仮リンク|エドワード・アディーン|en|Edward Adeane}}や皇太子近侍のスティーブン・バリー、皇太子個人秘書補佐でダイアナ個人秘書となった{{仮リンク|オリバー・エヴェレット|en|Oliver Everett}}、執事のアラン・フィッシャー、王子二人の乳母バーバラ・バーンズ、警護のポール・オフィサー警部やジョン・マクリーン警部補などの使用人たちが次々とダイアナの不興を買って辞職・解雇に追い込まれていったという<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.161-162/165-166/175-198</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.232-235</ref>。ダイアナ自身は「どの解雇も私のせいではない」と主張している<ref name="モー221">[[#モー|モートン(1997)]] p.221</ref>。|group=注釈}}、自殺未遂を起こしたり<ref name="ディン下66">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.66</ref>、一人でショッピングに出ようとして王室警備隊に止められるなど<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.162-163</ref>、環境への反抗が急増した。
捜査は2006年12月まで続けられ、[[ロンドン警視庁]]前警視総監ジョン・スティーブンズが12月14日に約3年にわたる調査の結果を発表。「運転手の飲酒運転と無謀運転が事故の原因であり、殺害の[[陰謀]]はなかった」と暗殺説を否定した。同時に事故当時ダイアナが妊娠していたとする説も公式に否定された。
 
皇太子は王室の環境になれていない間は仕方ないと考え、ダイアナの我がままにもなるべく付き合っていたが、やがてダイアナがいつまでも王室に適応しないのにうんざりさせられてきた<ref name="ディヴ194">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.194</ref>。
2007年1月8日に、ダイアナの死因究明の審問が3年ぶりに再開された。検視官は2006年末の資料その他を基に、事故原因の特定を進めた。スティーブンス前警視総監は、「報告書が審問結果を予断しているわけではない」、と述べ、イギリス警察は、ダイアナの妊娠説とアルファイドとの婚約説をきっぱり否定し国民に報告した。
{{-}}
=== ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生 ===
[[Image:Prince_Charles,_Princess_Diana,_Nancy_Reagan,_and_Ronald_Reagan_(1985).jpg|220px|thumb|1985年の訪米時、[[ホワイトハウス]]で[[ロナルド・レーガン]][[アメリカ大統領|大統領]]夫妻とともに]]
ケンジントン宮殿でそのような生活を送りながらもダイアナは二人の王子を出産した。
 
[[1981年]]10月に最初の妊娠が判明した。王室はこれまでバッキンガム宮殿内で出産するのが伝統だったが、ダイアナは最新医療設備のある病院での出産を希望し、西ロンドンの{{仮リンク|セント・メアリー病院|en|St Mary's Hospital, London}}での出産を決めた。出産に際しては皇太子も付きっきりになり、ダイアナの手を握りながら励ましの言葉をかけ続けたという。ダイアナは[[1982年]][[6月21日]]午後9時3分に第2王位継承権者となる長男を出産した。この長男には「ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス」という名前が与えられた(現在の[[ケンブリッジ公]][[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]])<ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.42-43</ref><ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.235-240</ref>。
しかし、イギリス国内には陰謀説が根強くあり、2013年8月17日、[[イギリス陸軍]][[特殊部隊]]「[[特殊空挺部隊|SAS]]」所属の[[狙撃手|狙撃兵]]の裁判で、SASがダイアナ元妃殺害に関与したという情報が発覚し、[[ロンドン警視庁]]が信憑性を確かめるために調査が開始している<ref>{{cite news |title=ダイアナ元妃の死は「おぜん立てされた」 ロンドン警視庁の新情報「英特殊部隊関与」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-8-19|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130819/crm13081908440000-n1.htm |accessdate=2013-8-31}}</ref>。
 
ウィリアム王子の出産後、皇太子は秘書官たちの反対を押し切って公務への出席を減らし、ダイアナと一緒にウィリアムを育てることに専念した。この時期がダイアナにとって最も幸せな家族団らんの日々であったという<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.240-244</ref>。
=== 政府以外からの反応 ===
しかし、アルファイドがダイアナへのプロポーズのために婚約指輪をオーダーした高級宝石店が、2人の近日中の婚約の予定を認め、その証拠としてアルファイドが婚約指輪をピックアップした瞬間の防犯カメラの映像と、その指輪の写真を世界中に同時公開した。
 
[[1984年]][[9月15日]]午後4時20分にはセント・メアリー病院で第3位王位継承権者である次男を出産し、「ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイビス(通称ハリー)」と名付けられた([[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]])。この時にも皇太子は出産に付き添った{{#tag:ref|しかしダイアナによればチャールズ皇太子は二番目の子は女の子を欲しがっており、生まれたのが男子と知ると「何だ男か。しかも赤茶色の髪じゃないか」と述べたという。ダイアナは「私の中で何かが死んだの」と主張している<ref name="モー230">[[#モー|モートン(1997)]] p.230</ref>。|group=注釈}}。皇太子は公務をさらに減らして次男を可愛がった<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.257-260</ref>。
政府側の見解では、最終的にダイアナの乗った車は「無謀な高速走行による事故」と断定され、陰謀説は否定された形となっている。しかし疑惑を完全に払拭したとはいえないこともあり、政府側ではない見解では、陰謀だとする説(「陰謀論」)を支持したり唱える人が後を絶たない状況である。
 
しかし皇太子の父である[[エジンバラ公]][[フィリップ (エジンバラ公)|フィリップ]]は、皇太子が家族にかまけて公務をないがしろにすることを批判した。その抗議の意味を込めてエジンバラ公はヘンリー生誕から5カ月に渡ってヘンリーの顔を見ようとしなかったが、ダイアナはそれに強く憤慨した。父とダイアナの板挟みになった皇太子はコーンウォール公領の農場に引きこもって領主の仕事に安らぎを見出すようになった<ref name="ディヴ365">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.365</ref>。
== 称号および敬称 ==
[[Image:Coat of Arms of Diana, Princess of Wales (1981-1996).svg|250px|thumb|ウェールズ公妃ダイアナの[[紋章]]]]
チャールズ王太子との離婚に伴い、ダイアナは「Her Royal Highness the Princess of Wales(ウェールズ公妃殿下)」との称号および敬称は失ったが、「Diana, Princess of Wales(ウェールズ公妃ダイアナ)」と称することは許された。これは有爵者と離婚した女性が、離婚後も(再婚までは)前夫の爵位の女性形(ただし、離婚前とは異なり定冠詞はつかない)を一種の姓として名乗ることができる慣習によるものであり、王室側とダイアナ側での協議により決定された。[[2005年]]にチャールズと結婚した[[カミラ・パーカー・ボウルズ|カミラ]]は、[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の妻として自動的に(定冠詞付きの)「The Princess of Wales」(ウェールズ公妃)の称号を与えられたものの、国民のダイアナ人気に配慮しこの称号の使用を辞退し、夫の有する他の称号に基づいて「The Duchess of Cornwall」([[コーンウォール公|コーンウォール公爵]]夫人)([[スコットランド]]においては「The Duchess of Rothesay」([[ロスシー公爵]]夫人)の称号を名乗っている。
 
=== 皇太子との関係の冷却化 ===
[[イングランド]]におけるダイアナの称号および敬称は、彼女の生涯にわたって次のように変わった。
[[File:Prince Charles, Lady Di, 19860723.jpg|250px|thumb|1986年7月23日、[[ヨーク公]][[アンドリュー (ヨーク公)|アンドリュー王子]]の結婚パレードの際のチャールズ皇太子とダイアナ。]]
* ダイアナ・フランシス・スペンサー令嬢 - The Honourable Diana Frances Spencer (1961年7月1日-1975年6月9日:出生から父の伯爵位相続まで)
ダイアナによれば1984年に次男ヘンリーが生まれた時点で気持ちのうえでの二人の関係は終わっていたという<ref name="モー290">[[#モー|モートン(1997)]] p.290</ref>。皇太子は[[1985年]]から[[1986年]]にかけてコーンウォール公領のハイグローヴ邸で暮らすことが増えた。[[1987年]]にはケンジントン宮殿は皇太子不在状態が常態化してダイアナが事実上の女主人になっていたという<ref name="ディヴ366">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.366</ref>。同年の皇太子夫妻の[[ポルトガル]]訪問にも夫妻は別々に寝所をとっている<ref name="モー290">[[#モー|モートン(1997)]] p.290</ref>。皇太子は婚約以来カミラとの関係を断っていたが、この頃から交際を再開するようになった<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.273-275</ref><ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.124-129</ref>。
* ダイアナ・フランシス・スペンサー令嬢 - The Lady Diana Frances Spencer (1975年6月9日-1981年7月29日:父の伯爵位相続から結婚まで)
* ウェールズ公妃殿下(スコットランドではロスシー公爵夫人) - Her Royal Highness The Princess of Wales (Her Royal Highness The Duchess of Rothesay) (1981年7月29日-1996年8月28日:結婚から離婚まで)
* (元)ウェールズ公妃ダイアナ - Diana, Princess of Wales (1996年8月28日-1997年8月31日:離婚から死去まで)
 
別居状態が長く続くと、ダイアナの方も皇太子が一緒にいない時の方が落ち着くようになった。彼女の友人は「皇太子がケンジントン宮殿にいると、ダイアナはすっかり途方に暮れて、子供のように戻ってしまうのです。自分が一人でいるときに築きあげた全てを失ってしまうのです」と証言している<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.292-293</ref>。皇太子への情熱を失ったダイアナは、代わりに王子二人の養育と[[慈善事業]]に情熱を注ぐようになった。ダイアナが熱心に取り組んだ慈善事業の一つが[[エイズ]]問題だった。ダイアナは「英国エイズ救援信託基金」を財政支援し、また積極的にエイズ患者と触れ合うことでエイズ患者に対する偏見を弱めることに尽力した。エイズ問題以外でも様々な慈善事業に取り組み、英国産婦人科医師会の死産・新生児死亡・不妊症問題の研究のための募金機関「バースライト」、麻薬中毒者やアルコール中毒者の救済のための慈善団体「ターニングポイント」などに財政支援を行った<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.321-337/366</ref>
== 主な文献 ==
 
{{参照方法|section=1|date=2013-08-18}}
[[1987年]]から[[1992年]]にかけてマスコミの皇太子批判報道が高まり、ダイアナの立場は有利になっていった{{#tag:ref|特に[[1991年]]6月に{{仮リンク|ラドグローブ校|en|Ludgrove School}}でウィリアム王子がクラスメイトから[[ゴルフクラブ]]で頭を打たれて[[頭蓋骨]]に小さな陥没ができる負傷をして病院に担ぎ込まれた際にそれは最高潮に達した。この時、皇太子は少し病院に寄っただけですぐに公務に戻ったためである(医者から両親揃って待合室で待つほど深刻ではないと言われたからだったが)。これに『[[ザ・サン]]』は「それでも父親?」という皇太子批判記事を掲載した<ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.188-189</ref><ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.287-289</ref>。|group=注釈}}。
[[画像:ArmenianStamps-140.jpg|thumb|250x|1998年のアルメニアの切手]]
 
ダイアナは、1992年[[3月29日]]に[[オーストリア]]・{{仮リンク|レヒ (フォアアールベルク)|label=レヒ|de|Lech (Vorarlberg)}}で皇太子や王子2人とともにスキー旅行をしていた際{{#tag:ref|この家族4人そろってのスキー旅行は皇太子が希望し、当初ダイアナが反対して揉めたが、皇太子の熱心な訴えで実現した<ref name="ディン下191">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.191</ref>。|group=注釈}}、父スペンサー卿の死を知った。彼女は一人で帰国しようとしたが、この際に皇太子も同行を希望した。しかしダイアナは「優しい夫を演じるにはもう遅すぎる」と主張して皇太子の同行を拒否した。彼女は自分の悲しみを王室の宣伝に利用されるのが嫌であったという。しかし同行しなければマスコミに叩かれるのは明らかなので皇太子は無理にでも同行している<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.291-292</ref><ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.191-192</ref>。
 
[[1992年]]6月から『[[サンデー・タイムズ]]』に{{仮リンク|アンドリュー・モートン (作家)|label=アンドリュー・モートン|en|Andrew Morton (writer)}}の『ダイアナ妃の真実』の連載記事が掲載された。これはダイアナ本人やダイアナの友人の証言に基づいた物で皇太子を一方的に批判する内容だった。この出版以来、皇太子とダイアナの関係は完全に冷却化した<ref>[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.192-198</ref>。
{{-}}
=== 別居生活 ===
ダイアナと皇太子の合意により、1992年[[12月9日]]に夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された<ref name="モー369">[[#モー|モートン(1997)]] p.369</ref><ref name="ディン下203">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.203</ref>。ダイアナが暮らすケンジントン宮殿からは皇太子の私物や痕跡が取り払われ、一方皇太子が暮らすハイグローヴ邸からはダイアナの私物や痕跡が取り払われていった。ダイアナがこの模様替えで最初に指示したのは皇太子と夜を共にしたダブルベッドを廃棄処分させたことだったという<ref name="モー373">[[#モー|モートン(1997)]] p.373</ref>。別居の際の条件でダイアナは王子二人と隔週で週末に会った。その日にはダイアナは学校まで車で迎えに行って、ケンジントン宮殿に連れ帰り、親子水入らずの日を過ごした<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.381-382</ref>。
 
1993年1月に皇太子とカミラが愛をささやき合っている電話のテープをマスコミが入手し、報道されたことで皇太子批判が高まった。別居後のダイアナは皇太子とカミラの関係に無関心を装っていたが、実際にはお抱えの[[占星術]]師にカミラの星座チャートを調べさせて二人の運勢を占わせるなどかなり気にしているようだったという<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.383-384</ref>。1994年6月に放送された{{仮リンク|ジョナサン・ディンブルビー|en|Jonathan Dimbleby}}制作のドキュメンタリー番組で皇太子は、結婚生活が崩壊するまでは妻に対して貞節を守っていたと述べつつ、カミラは自分の人生の中で「中心的な存在」であり、今後もそうあり続けるであろうことを発表した。これについてダイアナは「私自身かなり打ちのめされました。でも、その正直さは称えたいと思いました」と語った<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.402-403</ref>。
 
1994年10月には5年に渡るダイアナの不倫相手だった元騎兵連隊将校{{仮リンク|ジェームズ・ヒューイット|en|James Hewitt}}がダイアナと自分の不倫についての暴露本『恋するプリンセス(Princess in Love)』(ISBN 978-0525940173)を出版し、ダイアナはこれにだいぶショックを受けたようだった<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.160-161</ref>。
 
ダイアナは1995年11月放送のBBCテレビのインタビュー録画映像に出演した。このインタビューは英国のみならず日本含む101カ国で放送された。その中で彼女は皇太子とカミラの関係について「この結婚生活には三人の人間がいたのです。少し多すぎますね」と表現した<ref name="モー408">[[#モー|モートン(1997)]] p.408</ref>。また彼女自身もヒューイットと不倫していたことを認めた(ヒューイットが金目当てで暴露本を出版したことにショックを受けており、現在彼への熱は冷めたと主張した)。結婚生活が崩壊した責任はどちらにあるのかという質問に対しては「半分は私にあると思います。しかしそれ以上ではありません」と述べた。離婚するのかという質問に対しては「私は離婚を望んでいません。夫の決断を待っています」と述べた。王室は変化する必要があると思うかという質問には「皆、王室が好きではなくなってしまっています。私自身嫌になってしまっているのですから。もっと国民と触れ合いを持ってほしいです」と述べたが、王室廃止論については「子供の将来がかかっているのに、そんなことを望むはずがありません。ただ子供たちのために必要な闘いはなんでもします」と述べている。そして自分が王妃になると思うかという質問に対しては「思いません。(私は皆さんの)心の王妃になりたいです。チャールズも国王になることには葛藤があります」と述べた<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.117-124</ref>。
 
=== 離婚と慈善活動 ===
[[File:Diana, Princess of Wales, with Hillary Clinton.jpg|250px|thumb|1997年6月18日にホワイトハウスで大統領夫人[[ヒラリー・クリントン]]と会見するダイアナ。]]
王室との離婚交渉においてダイアナの[[弁護士]]{{仮リンク|ヴィクター・ミシュコン (ミシュコン男爵)|label=ミシュコン卿|en|Victor Mishcon, Baron Mishcon}}は、ダイアナと二人の王子の面会権、および彼女の称号を守ることを重視したが、それに反発した女王エリザベス2世が介入し、離婚交渉は一時座礁した。しかしこのような騒動を続けている間にも王室の国民人気が低落しており、やがて女王も早期解決を希望するようになった。そのため離婚交渉が進展を見せ、[[1996年]][[2月28日]]にもダイアナと皇太子が離婚に合意したことが発表され、[[8月28日]]には裁判所の正式な離婚確定判決が出されるに至った<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.404-405/409-411</ref>。
 
その結果、ダイアナは[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]の称号を維持したが、「Her Royal Highness(殿下)」の敬称は剥奪された。王子二人の養育権については皇太子とダイアナが平等に持つことになった。また皇太子がダイアナに支払う[[慰謝料]]の金額は二人の合意により秘匿とされ、明確にされなかったが、マスコミ報道によれば最初に1700万ポンド(約29億円)、さらにダイアナのオフィスの維持費として毎年40万ポンド(約6800万円)が支払われたという<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.131-133</ref>。
 
離婚後のダイアナはこれまで以上に国際的慈善活動に積極的に取り組んだ。特にエイズ問題、[[ハンセン病]]問題、[[地雷]]除去問題への取り組みに熱心だった。[[1997年]]1月にはBBCの取材チームとともに[[アンゴラ内戦|内戦]]の影響で地雷の多い[[アンゴラ]]を訪問した。地雷原を歩く姿をマスコミに撮影させ、地雷問題への世界の関心を集めた。1996年12月にアメリカ元国務長官[[ヘンリー・キッシンジャー]]はダイアナを「今年の人道主義者」に選出しており、ダイアナはニューヨークでの授賞式に出席している<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.418/420</ref>。
 
[[1997年]][[6月25日]]にはニューヨーク・[[マンハッタン]]で自分のドレスの[[オークション]]を行い、その売上金はエイズ・[[癌]]患者に寄付した<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.24-25</ref>{{#tag:ref|この時に売却されたダイアナのドレスの数は79着。うち5着は日本の法人が落札している([[小学館]]が3着、[[ミネルヴァ学園]]が2着)<ref name="宮北278">[[#宮北|宮北・平林(2009)]] p.278</ref>。|group=注釈}}。
 
=== ハスナット・カーンとドディ・アルファイド ===
[[File:112407-Harrods-DiannaDodiMemorial2.jpg|thumb|250px|ハロッズにあるダイアナと[[ドディ・アルファイド]]の追悼碑]]
[[1996年]]には[[パキスタン人]]の心臓外科医{{仮リンク|ハスナット・カーン|en|Hasnat Khan}}と交際を深めた。二人の交際は同年11月の『{{仮リンク|サンデーミラー|en|Sunday Mirror}}』紙にも報道された。ダイアナは1996年と[[1997年]]5月の二度、[[パキスタン]]を訪問してハスナットの家族と会見している。またハスナットに二人の王子を紹介したという<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.18-23</ref>。
 
[[1997年]]7月、亡き父スペンサー卿や継母レインが親しくしていたロンドン老舗デパート[[ハロッズ]]のオーナーでエジプト人大富豪の[[モハメド・アルファイド]]が所有する南フランスの[[サン・トロペ]]の別荘に招待された。アルファイド家には色々と黒い噂があり、ダイアナの友人たちは関わらない方がいいと忠告したが、ダイアナは忠告に感謝しつつも聞き入れず、夏休み中の二人の王子とともに招待を受けることにした<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.426-427</ref><ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.161-162</ref>。
 
アルファイド家所有の[[クルーザー]]で地中海クルージングを楽しんだが、この際にダイアナはモハメドの息子[[ドディ・アルファイド|ドディ]]と親しくなった。ドディは当時41歳の[[ハリウッド映画]]・[[プロデューサー]]であり、[[アカデミー賞]]受賞作品『[[炎のランナー]]』を手掛けた人物だった。父親からも月10万ドルの仕送りを受けており、5台の[[フェラーリ]]を所有するプレイボーイだった。ドディとダイアナの交際が深まると、モハメドはイギリス王室と親戚関係を持つ野望を公然と口にするようになりはじめた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.428-431</ref>。
 
王子2人は7月20日にロンドンに帰国したが、ダイアナとドディは地中海のクルージングを続けた(一時的にダイアナは地雷キャンペーンのために[[ボスニア]]に行っている)。8月初めにはダイアナとドディのクルージングがマスコミによって写真に収められ、「ダイアナの新しい恋人」との報道が過熱した<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.161-163</ref>。
 
ハスナットとの交際とドディとの交際は同時進行だったという。どちらが本命だったかはダイアナのみぞ知ることだが、ハスナットは[[2008年]]に行われたダイアナの死因究明審問の証言の中で「彼女が自分を裏切るはずはない」と述べており、ダイアナとドディが妊娠していたなどという噂は信じられないと主張している<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.22-23</ref>。
{{-}}
=== パリで交通事故死 ===
[[File:Alma tunnel Paris.jpg|250px|thumb|事故現場。{{仮リンク|アルマ広場|fr|Place de l'Alma}}下のトンネル。]]
{{main|{{仮リンク|ダイアナ妃の死|en|Death of Diana, Princess of Wales}}}}
[[1997年]][[8月30日]]にダイアナとドディはチャーター機で[[パリ]]郊外の[[ル・ブルジェ空港]]に到着した。宿泊予定のホテル・[[オテル・リッツ・パリ|リッツ]]から派遣された運転手とボディーガードに伴われて、5ツ星ホテルの[[オテル・リッツ・パリ|リッツ]]に入った<ref name="モー438">[[#モー|モートン(1997)]] p.438</ref>。
 
このホテル滞在中にダイアナはウィリアム王子から電話を受けている。マスコミから単独での写真撮影を依頼されたことについての相談の電話だった。これが息子との最後の会話となった。この日の夜はドディと[[ポンピドゥーセンター]]近くのレストラン「ブノワ」で夕食を取る予定だったが、マスコミがレストランで待ち受けていたので中止し、結局夜9時50分頃にホテルの部屋の中で夕食を取った<ref name="モー438">[[#モー|モートン(1997)]] p.438</ref>。
 
その日の夜はドディのアパートで寝る予定だったが、ホテル外で待ち構えているマスコミの数が急増していたため、ドディとダイアナは囮の車を何台かホテル正面から出した後、[[8月31日]]に入った0時20分頃、ホテル裏口から[[メルセデス・ベンツ]]で出発した。乗車していたのはダイアナとドディ、運転手{{仮リンク|アンリ・ポール|fr|Henri Paul}}、ボディーガードの{{仮リンク|トレヴァー・リース=ジョーンズ|en|Trevor Rees-Jones (bodyguard)}}の4人だった。4人を乗せたベンツは、追跡してきたマスコミの車をまこうと135キロから150キロという猛スピードで[[コンコルド広場]]から{{仮リンク|アルマ広場|fr|Place de l'Alma}}へ向かったが、アルネ広場下の[[トンネル]]で[[中央分離帯]]のコンクリートに正面衝突した。ドディとポールは即死し、ダイアナとジョーンズは重傷を負った(ジョーンズただ一人が生き残る)<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.441-442</ref>。
 
車を追跡していたマスコミたちと通りすがりの医師が第一発見者となった。医師が携帯電話で救急車を手配し、救急隊が到着するまで医師とカメラマンの一人がダイアナの応急処置にあたったが、他のカメラマンたちは写真をとってばかりだったという(彼らは殺人罪と緊急援助義務違反の容疑でフランス警察に身柄拘束された)。救急隊は1時間かかって潰れたベンツの屋根を切って前部座席と後部座席に挟まれたダイアナを車外に出すことに成功し、最寄りの[[サルペトリエール病院]]へ搬送したが、ダイアナの頭部と胸部はひどい傷を負っており、すでに助かる見込みはなかった。意識を取り戻すことなく、午前4時頃に正式に死亡宣告を受けた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.442-443</ref><ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.31-35</ref>。
 
=== 哀悼・葬儀 ===
[[File:Flowers for Princess Diana's Funeral.jpg|250px|thumb|1997年9月1日、ケンジントン宮殿前に寄せられたダイアナ哀悼の花束]]
[[File:Diana's funeral.jpg|250px|thumb|1997年9月6日のダイアナの王室国民葬の葬列。]]
事故があった際、女王と皇太子はバルモラル城に滞在しており睡眠中だった。侍従に起こされた二人は、ダイアナがパリで重傷を負ったことを知らされた。皇太子は王子二人を起こさず、一晩中[[ラジオ]]のニュース速報で情報収集をしていた。そして朝起きてきた王子二人にダイアナの死を告げたという。それに対してウィリアム王子は「何かあったことは分かっていたよ。それで一晩中眠れなかったんだ」と述べたという<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.443-444</ref>。
 
皇太子はパリに行ってダイアナの遺体を引き受ける決心をした。女王は「ダイアナは離婚して[[ウィンザー家]]を去った人です。遺体は民間の慰安所に安置されるべきです」と主張して反対したが、時の首相[[トニー・ブレア]]の支持も得て皇太子は女王を説得した<ref name="渡辺42">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.42</ref>。ダイアナの姉二人とともに王室専用機でパリに飛んだ皇太子は、病院の緊急医療室に安置されたダイアナの遺体と対面した。皇太子は30分も元妃の亡きがらの前に立って涙を流したという。午後7時、皇太子はダイアナの棺を王室専用機の中に運ばせてフランスを発ち、[[王立空軍]]の{{仮リンク|ノーソルト基地|en|RAF Northolt}}に帰国した。ダイアナの棺はそこから[[セント・ジェームズ宮殿]]へ運ばれた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.445-447</ref>。
 
ブレア首相はダイアナの遺体がイギリスに戻る直前にダイアナについての演説を行い、「彼女は人々のプリンセスでした。そしてこれからも永遠に私たちの心と記憶に留まり続けるでしょう」と述べた。それを立証するかのように国民が次々とバッキンガム宮殿やケンジントン宮殿にやってきてダイアナのために献花し、宮殿前は無数の花束で埋め尽くされた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.446-447</ref>。
 
一方バルモラル城の女王は平常通りの宮中運営を希望し、特別な声明を出したり、バッキンガム宮殿に[[半旗]]を掲げることに反対したが、それに対する国民の批判が高まったため、皇太子やブレア首相の説得を受け入れて、ロンドンへ帰還し、テレビカメラの前で国民に向けた特別声明を発した。その声明の中で女王は「私は今から女王として、そして一人の祖母として、皆さんに心からお話したいと思います。まず、私自身ダイアナに弔意を捧げたいと思います。彼女は非凡で才能に恵まれた人でした。いい時も悪い時も彼女は決して笑顔を失うことなく、他人を温かく親切に励ましました。私は彼女のエネルギーと他人の関わり、特に二人の息子への専心ぶりにおいて彼女を称え、尊敬しておりました」と述べた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.450-451</ref>。
 
1997年9月6日にはダイアナのための準国葬「王室国民葬」が取り行われた。大砲の台車に乗せられたダイアナの棺は、葬列を伴って[[ウェストミンスター寺院]]へ運ばれた。棺のすぐ後ろにはチャールズ皇太子、ウィリアム王子、ヘンリー王子、皇太子の父[[エジンバラ公]][[フィリップ (エジンバラ公)|フリップ]]、ダイアナの弟スペンサー伯爵[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|チャールズ]]が歩いた。バッキンガム宮殿では女王が外に出てダイアナの棺を見送り、頭を下げて弔意を示した。イギリス王室史上前例のないことだがバッキンガム宮殿には国旗が半旗として掲げられた。ウェストミンスター寺院には2000人の会葬者が集まっており、その中には[[マーガレット・サッチャー]]元首相やアメリカ大統領夫人[[ヒラリー・クリントン]]もいた<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.47-49</ref>。
 
葬儀が終わるとダイアナの棺は、スペンサー伯爵家の地所オルソープへ移送され、湖の中に浮かぶ小島(通称「ラウンド・オーバル島」)に葬られた<ref name="モー452">[[#モー|モートン(1997)]] p.452</ref><ref name="渡辺51">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.51</ref>。遺骨が盗まれないよう、小島の中のどこに葬られたかについては秘匿されている<ref name="宮北279">[[#宮北|宮北・平林(2009)]] p.279</ref>。
 
[[2004年]]には[[ハイド・パーク]]に{{仮リンク|ダイアナ妃記念噴水|en|Diana, Princess of Wales Memorial Fountain}}が作られた<ref name="渡辺177">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.177</ref>。ダイアナの死から10年たつ[[2007年]]7月1日にはウィリアム王子とヘンリー王子が母を追悼するコンサート「[[コンサート・フォー・ダイアナ]]」を[[ウェンブリー・スタジアム]]で主催している。6万3000人の観客を前にダイアナの友人だった[[エルトン・ジョン]]はじめイギリスの歌手たちが曲を披露した<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.178-183</ref><ref name="宮北282">[[#宮北|宮北・平林(2009)]] p.282</ref>。また命日の8月31日にはウィリアム王子が入隊している陸軍近衛騎兵連隊{{仮リンク|ウェリントン兵舎|en|Wellington Barracks}}の礼拝堂{{仮リンク|ガーズ・チャペル (ウェリントン兵舎)|label=ガーズ・チャペル|en|Guards Chapel, Wellington Barracks}}でウィリアム王子とヘンリー王子主催の追悼[[ミサ]]が開催され、女王や皇太子、[[ゴードン・ブラウン]]首相などが臨席した。この席でウィリアム、ヘンリー両王子は「母は多くの人を幸せにし、世界中で最高の母でした」とスピーチしている<ref name="宮北282"/><ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.183-185</ref>。
 
{{Gallery
|lines=4
|File:The Diana, Princess of Wales, Memorial - geograph.org.uk - 1175343.jpg|オルソープにあるダイアナの慰霊碑。
|File:Flamme de la Liberté Lady Di.JPG|ダイアナの事故現場の真上にあるモニュメント「{{仮リンク|自由の火|fr|Flamme de la Liberté}}」。ダイアナの死後に半ば慰霊碑化した。
|File:Princess Diana Memorial Fountain - geograph.org.uk - 747870.jpg|[[ハイド・パーク]]の{{仮リンク|ダイアナ妃記念噴水|en|Diana, Princess of Wales Memorial Fountain}}
|File:112407-Harrods-DiannaDodiMemorial1.jpg|ハロッズにあるダイアナと[[ドディ・アルファイド|ドディ]]の銅像。
}}
{{-}}
 
== 人物 ==
=== 皇太子との不協和音 ===
[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F076672-0016, Bonn, Staatsbesuch Prinz Charles, Lady Diana.jpg|250px|thumb|1987年11月2日の[[西ドイツ]]訪問時のダイアナとチャールズ皇太子。[[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]大統領夫妻とともに。]]
チャールズ皇太子とダイアナは性格が合わない部分が多かった。
 
幼いころから訓練を受けている皇太子はプライベートの無い過密スケジュールの公務生活をなんとも思わなかったが、皇太子といつも一緒にいて愛のある生活を過ごすという理想的結婚生活を夢想するダイアナには、そのような生活には耐えられなかった。そしてダイアナは皇太子が結婚前に思っていたより我がままであり、理想的結婚生活を是が非でも実現させようとした。しかし皇太子にとっては公務を拒否する王族など考えられず、ショックなことであった<ref name="ディヴ162">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.162</ref>。皇太子はダイアナの苦しみに冷淡だったわけではなく、なるべく彼女の意向を尊重してきたが、理想的結婚生活に近づけさせるためのダイアナの要求には際限がなく、やがて皇太子はどう接すればいいのか分からなくなって、ダイアナと一緒にいることが耐えられなくなっていった<ref name="ディン下125">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.125</ref>。
 
趣味や教養面も合っていなかった。ダイアナは皇太子に比べて、王室の人間として必要な政治、経済、産業などの知識が乏しかった。未来の王妃でありながら自国の政治形態にさえ関心を持とうとしなかった。代わりに彼女が詳しいのは[[メロドラマ]]と[[ポップミュージック]]と[[芸能人]]であった。夜ソファーで皇太子に抱かれながらテレビを見るような生活がダイアナの理想的結婚生活だった。だが皇太子は陳腐なメロドラマには興味がなかったし、音楽も好きなのは[[オペラ]]や[[クラシック]]だった<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.33/194/207</ref>。
 
皇太子は父エジンバラ公と同様に[[狩猟]]を好んだが、ダイアナは狩猟を動物を殺す残酷なスポーツと呼んで批判しており、皇太子にも動物を殺さないよう訴え続けた。しかし狩猟は王侯貴族の伝統的スポーツであり、皇太子は聞き入れなかった。ダイアナは皇太子の狩猟への同行を拒否し、また皇太子が王子2人を狩猟に同行させることにも反対した。この件についての二人の口論も激しくなる一方だったという<ref name="ディヴ169">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.169-171/376-377</ref>。
 
皇太子の流行を追いかけようとしないファッションセンスについてもダイアナは「おじさんくさい」と評して批判していた<ref name="キャ198">[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.198</ref>。
 
皇太子は自分がスポットライトを浴びたいと思ったことはないが、ダイアナばかりにスポットライトが当たることには困惑させられていた。皇太子は「ダイアナの立ち振る舞いには誇りを持っていたが、彼女を崇拝しすぎる傾向には彼女より狼狽させられ、板挟み状態になっていた」と回顧している<ref name="ディン下69">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.69</ref>。
 
=== 息子たちの自由のために ===
ダイアナはなるべく二人の王子を普通の子供のように育てたかった。ダイアナはよく王子二人とともにケンジントン宮殿近くの[[マクドナルド]]に[[ハンバーガー]]や[[フライドポテト]]を食べに行った。支配人がびっくりして最前列へ案内しようと近づいてきた際には、ダイアナは「しーっ」と制したという<ref name="ディヴ19">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.19</ref>。ダイアナと王子二人の最後の親子団欒となった1997年8月初旬も、三人は[[スティーブン・スピルバーグ]]監督のハリウッド映画『[[ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク|ロストワールド]]』を鑑賞して過ごしたのだった<ref name="渡辺40">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.40</ref>。
 
こうした彼女の庶民的子育ては、王室の伝統への反逆と看做された。ダイアナの葬儀の際、ダイアナの弟[[チャールズ・スペンサー (第9代スペンサー伯爵)|スペンサー卿]]も「私たち血縁者はあらゆる努力を尽くして貴女の二人の素晴らしい息子たち、貴女が想像力と愛情を注いで育てあげたこの少年たちを育てていくことを誓います。貴女が望んだように彼らの魂が伝統と義務を受け継ぐだけではなく、自由に歌うことができるように」と姉の霊前に誓いを立てている<ref name="渡辺50">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.50</ref>。
 
=== 他者への愛 ===
[[File:Princess diana bristol 1987 02.jpg|200px|thumb|1987年5月、[[ホワイトホール (ロンドン)|ホワイトホール]]の{{仮リンク|コミュニティ・センター|en|Community centre}}のオープニングセレモニーで沿道の人々と話すダイアナ。]]
ダイアナは少女時代から勉強はまるでダメだったが、優しい気質の娘だった。スペンサー家3姉妹が入学したウェスト・ヒース校の校長ルース・ラッジは「スペンサー家3姉妹のことはよく覚えています。3人とも性格が違っていました。ダイアナは上の二人ほど頭はよくなかったですが、一番気持ちの優しい子でした。小さい子が好きで、すぐに仲良しになれるのです。学校の近くにある施設に障害児のお世話によく通っていました。どうしてあげれば喜ばれるかを心得ていて、楽しそうに進んでお世話していました」と述べている。ウェスト・ヒース校でダイアナは社会福祉活動の功績を称えられて学校から「ミス・クロース・ローレンス賞」を贈られている<ref>[[#石井|石井(2000)]] p.200-201</ref>。この学校での経験で彼女は他社への献身とおいう自らの特性を発見したという<ref name="モー142-143"/>。
 
映画『[[ダイアナ (映画)|ダイアナ]]』の監督[[オリヴァー・ヒルシュビーゲル]]は「彼女は愛を受けずに育ったので、小さいときから愛されたい、受け入れられたい、という気持ちが強かった」「とても無垢でもあり、必要としている人には何でも与えようとしていた。」と評している<ref name="産経2013-10-18">{{cite news |title=映画「ダイアナ」 オリバー・ヒルシュビーゲル監督 とても魅力的な女性の普遍的な愛の物語 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-10-18|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131018/ent13101808040003-n1.htm |accessdate=2013-11-18}}</ref>。
 
ダイアナは常々実行力のある実業家を尊敬していた。とりわけスペンサー家のロンドンの邸宅{{仮リンク|スペンサー・ハウス (ロンドン)|label=スペンサー・ハウス|en|Spencer House, London}}を修復した銀行家[[ジェイコブ・ロスチャイルド (第4代ロスチャイルド男爵)|ロスチャイルド卿]]、[[ヴァージン・グループ]]会長[[リチャード・ブランソン]]、家具会社と[[ケータリング]]会社を経営する王族{{仮リンク|デヴィッド・アームストロング=ジョーンズ (リンリー子爵)|label=リンリー卿|en|David Armstrong-Jones, Viscount Linley}}の3人に憧れていた。そのため別居、離婚と皇太子からの自立性を強めていくに従ってダイアナも精力的な慈善事業家になっていく<ref name="モー331">[[#モー|モートン(1997)]] p.331</ref>。
 
特にダイアナが熱心に取り組んだのが[[地雷]]除去問題だった。ダイアナが地雷問題に関心を持ったのは、[[リチャード・アッテンボロー|アッテンボロー卿]]が監督を務める映画『[[ラブ・アンド・ウォー]]』のチャリティー初上演会に招待され、地雷の民間人に与える影響に衝撃を受けたのがきっかけだった。そして[[英国赤十字社]]のマイク・ウィットラム事務総長から地雷除去キャンペーンへの協力を要請されたため、協力を約束したのだった。[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争|内戦]]の爪痕が残る[[ボスニア]]を訪問した際、ダイアナは[[サラエボ]]の墓地で息子の墓参りに来た女性と抱き合った。その光景を見たジャーナリストのディーズ卿は「こんなことが他の誰にできるだろうか。誰にもできはしない」という感想を書いている<ref name="モー420-421">[[#モー|モートン(1997)]] p.420-421</ref>。
 
地雷問題は政治的な問題でもあり、ダイアナの運動は[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の反発も買っていたが、彼女は「私は人道主義者です。今までもずっとそうでしたし、今後もそうあり続けます」と述べてそうした批判を一蹴していた。彼女の地雷除去キャンペーンは1997年に成立した[[トニー・ブレア|ブレア]]労働党政権を動かし、またアメリカの[[ビル・クリントン|クリントン]]政権にも影響を与えたという<ref name="モー420-421"/>。彼女の死から3カ月後に[[対人地雷禁止条約]]が締結されている。そのため皇室・王室ジャーナリストの[[渡辺みどり]]は「ダイアナがもう少し長生きしていたら[[ノーベル平和賞]]を受賞していただろう」と推測している<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.115/205</ref>。
{{-}}
=== 過食症 ===
1995年のBBCの番組のインタビューでダイアナは何年も[[過食症]]に苦しんでいることを明らかにした。過食症患者はストレスで心が空虚になると過食で快楽を得るが、その後嘔吐してしまう。するとまた胃と心が空虚になってきて過食を繰り返すという病気である<ref name="石井7">[[#石井|石井(2000)]] p.7</ref>。
 
ダイアナはインタビューの中で「プレッシャーに影響されました。公務で外出する日は胃も心も空虚になって帰宅するのが常でした。その頃私は瀕死の人や重病者、結婚生活の悩む人と関わっておりましたが、帰宅すると先ほどまでたくさんの人を慰めていたのに、自分自身をどう慰めたらいいか分からず、冷蔵庫の中の食べ物を胃の中に流し込むのが習慣になってしまったのです」「一日に4回か5回、時にはそれ以上お腹一杯に食べます。すると気分が楽になります。二本の腕で抱かれているような気分になるのです。でもそれは一時的なものです」と述べている<ref>[[#石井|石井(2000)]] p.7-8</ref>。
 
また当時の「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ」という言葉が、「三人目懐妊か」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。なお[[1988年]]から専門医による治療を受け、これらの症状は回復したという<ref>[[#林|林(2011)]]</ref>。
 
=== 無言電話疑惑 ===
1994年8月の『[[ニュース・オブ・ザ・ワールド]]』誌はダイアナの[[無言電話]]疑惑を報じた。それによればダイアナの不倫相手であるジェームズ・ヒューイットのガールフレンドとダイアナとの関係が噂される人物の一人である美術商[[オリヴァー・ホー]](Oliver Hoare)が何者かから無言電話を受けたが、被害届を受けた警察が調査したところその発信元はダイアナのケンジントン宮殿であったという<ref>[[#石井|石井(2000)]] p.10-12</ref>。
 
これに対してダイアナは8月22日の『[[デイリー・メール]]』において自分を陥れるために何者かが仕組んだことであり、自分は無言電話のあった時間帯にケンジントン宮殿にいなかったとアリバイを主張して疑惑を否定したが、後にこのアリバイが崩れたため、疑惑が拡大した。この疑惑によってダイアナのイメージが一時期だいぶ悪くなった<ref name="石井13">[[#石井|石井(2000)]] p.13</ref>。
 
なお1995年11月のBBCのインタビューの際にもダイアナは無言電話疑惑を否定しており、「私が調べたところ、それは若い男性がかけたことが分かっています」と述べている<ref name="渡辺121">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.121</ref>。
 
=== 占星術 ===
[[File:Princess Diana Sri Chinmoy.jpg|250px|thumb|1997年5月29日、ケンジントン宮殿前のダイアナと霊能者[[シュリ・チンモイ]]。]]
ダイアナは1986年から6年に渡って占星術師ペニー・ソーントン(Penny Thornton)と親しく付き合い、占星術にのめり込んだ。やがてペニーが「皇太子妃の占星術師」の立場を利用し始めたため、ペニーとは手を切ったというが、ダイアナの占星術への興味は続いた。ペニーは1995年にダイアナの結婚生活の暴露本『ダイアナ ペニー・ソーントンより愛をこめて』(ISBN 978-0671891862)を出版している<ref name="石井203">[[#石井|石井(2000)]] p.203</ref>。
 
ダイアナは占星術師にかなりの金額を使っていたようである。無言電話疑惑の際に反撃の好機と見たチャールズ皇太子は、ダイアナがファッションやカウンセリングのために使っている金額が尋常ではないことを国民に公表しているが、それによればダイアナは占星術師と心理療法家に年間650万円支払っているという。これに対してダイアナは皇太子が[[ポロ]]のために注ぎ込む巨額に比べたら微々たる金額と反撃している<ref>[[#石井|石井(2000)]] p.14-15</ref>。
 
ダイアナの伝記を書いた{{仮リンク|アンドリュー・モートン (作家)|label=アンドリュー・モートン|en|Andrew Morton (writer)}}は「生前ずっと彼女は議論や討論ではなく、本能や直感に導かれていた。一本の川のような流れが彼女を占星術師や霊能者、占い師、療法家などの世界に誘った」と評している<ref name="モー455">[[#モー|モートン(1997)]] p.455</ref>。
{{-}}
=== ファッション ===
[[File:Photograph of Princess Diana dancing with John Travolta at a White House dinner for the Prince and Princess of Wales - NARA - 198569.jpg|250px|thumb|1985年11月9日の訪米時、[[ホワイトハウス]]で[[ジョン・トラボルタ]]とダンスを踊るダイアナ。]]
[[File:Sandro Pertini con i Principi di Galles.jpg|250px|thumb|1985年のイタリア訪問時、[[アレッサンドロ・ペルティーニ]]大統領と会見するダイアナとチャールズ皇太子。]]
ダイアナは自分の記事の切り抜きを集めさせており、どうすれば美しく写真を撮られるかをモデル並みに研究していた。美容師を毎朝宮殿に召集し、海外訪問にも同行させていた。化粧は自ら行い、メイクアップが整うまで誰にも顔を見せなかった<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.248-249</ref>。
 
一番気を使っていたのはファッションだった。婚約時から結婚後最初の数年間はファッション雑誌『{{仮リンク|ヴォーグ (イギリス雑誌)|label=ヴォーグ|en|Vogue (British magazine)}}』の編集員{{仮リンク|アンナ・ハーヴィ|en|Anna Harvey}}がダイアナ専属のスタイリストとして服を選んでいた。彼女を通じてダイアナは様々なイギリスのデザイナーと知己になった。とりわけ彼女が愛したのは{{仮リンク|キャサリン・ウォーカー (ファッションデザイナー)|label=キャサリン・ウォーカ―|en|Catherine Walker (fashion designer)}}のデザインした服と[[フィリップ・サマーヴィル]](Philip Somerville)のデザインした帽子だった<ref name="ディヴ275">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.275</ref>。
 
英国ファッション界に貢献したいと考えていたダイアナは公的な場では英国製の服を着ることが多かった。しかし「私服」として外国ブランドの服も集めていた。外国ブランドで彼女が愛したのは、[[フランス]]の[[シャネル]]と[[イヴ・サン=ローラン]]、[[イタリア]]の{{仮リンク|モスキーノ|it|Moschino}}、[[ドイツ]]の[[エスカーダ]]である。公務であっても外国訪問の場合にはこれらの服を着ていくこともあった。たとえば[[1980年]]のフランス訪問ではシャネル、[[1987年]]のドイツ訪問ではエスカーダを着ている。フランスでもドイツでもダイアナのファッションセンスに喝さいが贈られた<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.275-276</ref>。
 
ダイアナの服の購入は洋服店の開店前、あるいは閉店後に特別な手配がなされるのが一般的だったが、突然思い立って警官の護衛で買い物に出ることもあった。皇太子妃が来店したと聞いた支配人は慌てて飛び出してきて、あれこれ気を使いだすことが多かったが、そういう時ダイアナは「私は皆さんに迷惑をかけたくありません。ただ普通の人と同じように買い物をしたいだけです。どうか大袈裟に騒がないでくださいな。」と答えたという。ちなみにダイアナが公的な場に出るための衣装は王室費から、個人的な衣装はチャールズ皇太子の個人的収入(コーンウォール公領の収入)から支払われていた<ref name="ディヴ277">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.277</ref>。
 
{{仮リンク|ジェフ・バンクス|en|Jeff Banks}}が毎週ホストをしている[[BBC]]テレビのファッション番組『{{仮リンク|ザ・クローズ・ショー|en|The Clothes Show}}』は、ダイアナのお気に入りの番組だった。番組の中でジェフ・バンクスはダイアナのファッションについて「彼女は華麗さと実用性の妥協点を見出しました。王族の服にはある種の公式が必要で、それがダイアナ妃の服装が時々古臭く見える唯一の原因です。腰丈のジャケットとスカートという組み合わせは彼女にとって着心地がよく、何の心配もなく着ていられるに違いありません。これは生涯、様々な人と会って過ごし、しかもそのなかには鑑識眼の鋭い人もいるのに、常に一分の隙もない恰好をしていなければならないという人には極めて重要なことです」と評している<ref name="ディヴ292">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.292</ref>。
 
[[マリー・クワント]]のファッションデザイナーのエルカ・フンデルマルクは「(ダイアナのファッションが)イギリスのファッション業界に与えた影響は、幾ら述べても誇張ではないわ。彼女のおかげで80年代のイギリスのデザイナーたちは国際的な舞台で活躍できたんですもの。それに彼女はたった一人で王侯貴族の女性の服を一新させたわ。ダイアナが登場するまで彼女たちはいつも決まった服しか着なかったし、[[キャサリン (ケント公爵夫人)|ケント公妃]]のようなおしゃれな人でも控え目な色の服に、いつも大きな帽子と白い手袋を身に着けていた。まったくもって退屈でつまらない服装だった。だけど今では誰もがおしゃれな帽子と派手で大胆な色の組み合わせを身に付けている。女王でさえ、服装に合わせて黒や赤の手袋をするようになったのよ。これはファッション革命よ。ダイアナのおかげだわ」と述べている<ref>[[#キャ|キャンベル(1992)]] p.250-251</ref>。
 
1985年と1992年にイギリス女性を対象に行われた世論調査によれば、「最も似たい女性」の一位はダイアナであったという<ref name="ディヴ301">[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.301</ref>。
 
=== その他人物像 ===
*ダイアナは恥ずかしそうに上目づかいでしゃべるような内気さがあり、「シャイ・ダイ(Shy Di)」という渾名があった<ref name="石井199">[[#石井|石井(2000)]] p.199</ref>。
 
== ダイアナ人気 ==
[[2002年]]に[[BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人]]」によれば[[ウィンストン・チャーチル]]と[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]についで3位であった<ref name="wayback1to10">{{cite web|url=http://web.archive.org/web/20040204074057/http://www.bbc.co.uk/history/programmes/greatbritons.shtml/|title=Great Britons 1-10|publisher=BBC via Wayback Machine|accessdate=1 August 2012}}</ref>。
 
[[2013年]]9月にアメリカの[[CBS]]ニュース番組『[[60 Minutes]]』と雑誌『[[ヴァニティ・フェア]]』が共同で行ったアメリカ世論調査によれば「生き返ってほしい有名人」の第1位はダイアナであったという。全得票の35%も得ている。ちなみに2位は[[アップル インコーポレイテッド|アップル]]CEOの[[スティーブ・ジョブズ]](全得票の14%)だった<ref name="ロイター2013-9-4">{{cite news |title=生き返って欲しい有名人、1位はダイアナ元妃=米調査 |newspaper=[[ロイター通信]] |date=2013-9-4|url=http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPTYE98300A20130904 |accessdate=2013-11-17}}</ref>。
 
== ダイアナの来日 ==
[[File:State Guest House Akasaka Palace main entrance.jpg|250px|thumb|東京にいる間、ダイアナが過ごした赤坂・[[迎賓館]]。]]
ダイアナは生涯に3度来日している。最初は[[昭和]]61年([[1986年]])の公式訪問、2度目は[[平成]]2年([[1990年]])の[[明仁|今上天皇]]の[[即位の礼]]への出席、3度目は平成7年([[1995年]])の[[英国赤十字]]社副会長としての来日である。最初の2回の来日はチャールズ皇太子とともに、3度目の来日は一人でだった<ref name="渡辺191">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.191</ref>。
 
とりわけ昭和61年の最初の公式訪問は、日本に「[[ダイアナフィーバー]]」と呼ばれる社会現象を巻き起こしたことで知られる<ref name="毎日グ161">[[#毎日グ|毎日グラフ(1989)]] p.161</ref><ref name="アサヒグ41">[[#アサヒグ|アサヒグ(1989)]] p.41</ref>。最初の公式訪問は次の通りであった。昭和61年5月8日夜に[[大阪空港]]に到着したダイアナと皇太子は、[[英語]]が得意な[[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]の出迎えを受け、その日の宿泊先である[[京都]]の[[大宮御所]]に案内された<ref name="渡辺200">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.200</ref>。
 
翌[[5月9日]]にダイアナが着た衣装は訪日用に作った[[日の丸]]の水玉ドレスだった。同日午前に徳仁親王は皇太子夫妻に大宮御所の歴史や庭園を解説した。「[[バッハ]]や[[ヘンデル]]が生まれる少し前にこの離宮は完成しました」という徳仁親王の説明にクラシックに造詣が深いチャールズ皇太子は興味を持ったようだった。ダイアナも「大宮御所のインテリアも[[修学院離宮|修学院]]の庭園も美しい」と感想を述べた。午後には[[二条城]]で[[裏千家]]家元の[[千宗室 (15代)|第15代千宗室]]、元皇族の[[千容子]]([[三笠宮崇仁親王]]次女。[[千宗室 (16代)|第16代千宗室]]に嫁いだ)らとともに茶道を楽しんだ。その後、東山の料亭「つる屋」で[[懐石料理]]をお箸を使って食べた。ダイアナも皇太子も接待の[[舞子]]の化粧や髪形を面白がっていたという<ref name="渡辺199">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.200-202</ref>。
 
[[5月10日]]午後に特別機で[[東京]]に向かった。20時には[[東宮御所]]に入り、[[明仁|皇太子明仁親王]]、[[皇后美智子|美智子皇太子妃]]、浩宮徳仁親王、[[黒田清子|紀宮清子内親王]]らと内輪の夕食会を行った<ref name="渡辺199">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.202-203</ref>。
 
[[5月11日]]にはロールスロイスのオープンカーに乗って[[青山通り]]を通過して[[赤坂]]の[[迎賓館]]へ入った。迎賓館までの2.3キロの道路の沿道には9万人もの日本人が押し寄せていた。この10日前に皇太子夫妻の訪日に反対する過激派が迎賓館に向けて[[迫撃砲]]を撃ち、その弾が青山通りのカナダ大使館の近くに落ちた事件が起きていたが、皇太子とダイアナはその曰くつきのカナダ大使館前の地点ですっと立ちあがって観衆に向かって手を振っている<ref>[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.196-199</ref>。迎賓館ではダイアナは[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃]]や[[憲仁親王妃久子|高円宮妃]]から[[生け花]]を教わった。また[[市松人形]]をプレゼントされた<ref name="渡辺199">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.199</ref>。
 
訪日のクライマックスは5月13日19時に皇居・[[豊明殿]]で開かれた[[昭和天皇]]主催の宮中晩餐会だった。チャールズ皇太子夫妻は[[公賓]]として来日していたが、日英両国の歴史的に深い絆から[[国賓]]待遇での接遇となった。この晩餐会にダイアナはロイヤルブルーのイブニングドレスを着用して出席している。そのドレスについてダイアナは昭和天皇に「ロンドンでユキ(ロンドン在住の日本人デザイナーの[[鳥丸軍雪]])に日本の絹で作れ、と言われて高い物になりました」と説明している<ref name="渡辺203">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.203</ref><ref name="毎日グ161"/>。そして翌5月14日にロイヤルブルーのドレスのまま[[羽田空港]]から帰国の途についたのだった<ref name="渡辺205">[[#渡辺|渡辺(2013)]] p.205</ref>。
 
== 事故死をめぐる陰謀論 ==
{{main|{{仮リンク|ダイアナ妃の死をめぐる陰謀論|en|Death of Diana, Princess of Wales conspiracy theories}}}}
ダイアナ妃の事故死について、ダイアナが[[ドディ・アルファイド]]との結婚を機に[[イスラム教]]に改宗する恐れがあり、英国王の母親がイスラム教徒という事態を防ぐため、あるいはダイアナがドディの子を身ごもっていて、アルファイド一族が未来の英国王の異母兄弟になることを阻止するため、[[イギリス政府]]が暗殺したとする[[陰謀論]]がある<ref name="産経2013-8-31">{{cite news |title=ダイアナ元妃の死は「おぜん立てされた」 ロンドン警視庁の新情報「英特殊部隊関与」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-8-19|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130819/crm13081908440000-n1.htm |accessdate=2013-8-31}}</ref>。
 
この件については[[2008年]]にイギリスの死因究明審問がダイアナの死は「過失による交通事故死」という公式結論を出している<ref name="産経2013-8-31"/>。
 
[[2013年]][[8月17日]]の[[イギリス陸軍]][[特殊部隊]]「[[特殊空挺部隊|SAS]]」所属の[[狙撃手|狙撃兵]]{{仮リンク|ダニー・ナイチンゲール|en|Danny Nightingale (soldier)}}の裁判で、SASがダイアナ元妃殺害に関与したとする情報が出てきて再び波紋が広がった。[[ロンドン警視庁]]がこの情報の信憑性を確かめるために調査を開始しているが、「再捜査ではない」ことを強調している。英国防省はノーコメントと発表しており、英王室もチャールズ皇太子、ウィリアム王子、ヘンリー王子は三人ともノーコメントと発表しており、公式結論が覆る可能性は低い<ref name="産経2013-8-31"/>。
 
== ダイアナに関する出版物 ==
[[画像:ArmenianStamps-140.jpg|thumb|250x|1998年のアメリカの切手]]
* アンドリュー・モートン、入江真佐子訳 『ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による』 [[早川書房]] 1992年、新版1997年
*: 新版は、事故死直後に刊行、本人インタビューである事が明かされた。
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*: 菊池由美・笹山裕子・村上利佳・高橋美江訳(発行・マーブルトロン)
 
== 逸話脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
[[Image:John Travolta and Princess Diana.jpg|300px|thumb|[[ジョン・トラボルタ]]とダンスを踊るダイアナ]]
=== 注釈 ===
{{Double image aside|right|Rosa Princess of Wales01.jpg|150|Rosa Diana Princess of Wales01.jpg|150|<small>[[バラ]] 「プリンセス・オブ・ウェールズ」<br/>(FL) [[:en:Harkness Roses|ハークネス]] (1997)</small>|<small>バラ 「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」<br/>(HT) [[:en:Jackson & Perkins Company|J&P]] (1999)</small>}}
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div>
 
== 参考文献 ==
* [[1986年]]5月に夫のチャールズ皇太子とともに来日しダイアナ旋風が沸き起こった。東京・青山で行われたパレードでは約9万人が沿道に集まり2人を歓迎した。(しかし、その時には既に2人の関係は危機的状況に陥っていた)<ref>http://wwwz.fujitv.co.jp/diana/biography.html
*{{Cite book|和書|author=[[石井美樹子]]|date=2000年(平成12年)|title=恋する王冠 ダイアナ妃と迷宮の王室|publisher=[[御茶の水書房]]|isbn=978-4275018465|ref=石井}}
{{リンク切れ|date=2011年12月}}</ref>。
*{{Cite book|和書|author=[[海保眞夫]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリスの大貴族|series= [[平凡社新書]]020|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850208|ref=海保}}
* 1986年5月1日に日本の[[All-nippon News Network|テレビ朝日系列]]で放送された特別番組『華麗!!ダイアナ妃のすべて見せます』の中で、少女時代のダイアナを主人公としたアニメ『[[虹のかなたへ! 少女ダイアナ物語]]』が放送されている。キャストはダイアナ([[島本須美]])、ダイアナの祖母レディ・ファーモイ([[麻生美代子]])、ダイアナの父([[徳丸完]])、ダイアナの母([[上田みゆき (声優)|上田みゆき]])、チャールズ皇太子([[堀内賢雄]])等。その後のソフト化は行われていない。
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|コリン・キャンベル (作家)|label=コリン キャンベル|en|Lady Colin Campbell}}|translator=[[平形澄子]]|date=1992年(平成4年)|title=ダイアナ妃 その秘められた素顔と私生活|publisher=[[イーストプレス]]|isbn=978-4900568495|ref=キャ}}
* [[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人|偉大な英国人]]」投票で第3位となった。
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ニコラス・ディヴィス|en|Nicholas Davies}}|translator=[[広瀬順弘]]|date=1992年(平成4年)|title=ダイアナ妃 ケンジントン宮殿の反乱|publisher=[[読売新聞社]]|isbn=978-4643921151|ref=ディヴ}}
* 「[[ディアーナ|ダイアナ]]」とは[[ローマ神話]]での狩猟の女神の名前である。それを踏まえ、「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」とダイアナの弟のスペンサーは弔辞を述べた。
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョナサン・ディンブルビー|en|Jonathan Dimbleby}}|translator=[[仙名紀]]|date=1995年(平成7年)|title=チャールズ皇太子の人生修業〈上〉|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022568793|ref=ディン上}}
* 1995年に、[[英国放送協会|BBC]]テレビのインタビューで自らが自分の腕と足を傷つける、[[自傷行為]]を行っていた事、拒食・過食の状態にあったことを告白した。これによって自傷行為・過食症に対する関心は強まった。ただし、この番組のインタビュアーの[[マーティン・バシール]]は巧みな話術で知られ、ダイアナ本人が意図して言ったことなのかどうかは不明である。だが、現在知られる彼女のイメージはこの番組の影響が大きい。
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョナサン・ディンブルビー|en|Jonathan Dimbleby}}|translator=[[仙名紀]]|date=1995年(平成7年)|title=チャールズ皇太子の人生修業〈下〉|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022568809|ref=ディン下}}
* また、チャールズの不倫とそれに対する自傷行為などを、自分に好意的な[[報道機関|マスコミ]]に対して自ら積極的に売り込んでいたことを暴露されている。
*{{Cite book|和書|author=[[林直樹]]|date=2011年(平成23年)|title=よくわかる境界性パーソナリティ障害|series= [[セレクトBOOKS]]|publisher=[[主婦の友社]]|isbn=978-4072789650|ref=林}}
* 首相官邸([[ダウニング街10番地]])に電話して「[[君主制廃止論|君主制反対]]」と言ったことがある。
*{{Cite book|和書|author=[[宮北惠子]]、[[平林美都子]]|date=2009年(平成21年)|title=映画を通して知るイギリス王室史 歴史・文化・表象|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779114694|ref=宮北}}
* ダイアナのロングヘアが途中からショートカットに変わったのは[[イギリス陸軍]]の特殊空挺部隊([[SAS (イギリス陸軍)|SAS]])のキルハウス(Kill House 家宅捜索訓練用モックアップ)を見学中、フラッシュバン(特殊閃光音響手榴弾)によって髪の先が焦げたためである。彼女は見学前に一切の事故に対しSASを免責とするという証書にサインしていたため、隊員が処分されることはなかった。
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|アンドリュー・モートン (作家)|label=アンドリュー・モートン|en|Andrew Morton (writer)}}|translator=[[入江真佐子]]|date=1997年(平成9年)|title=完全版 ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4152081315|ref=モー}}
* 離婚後、王族として自国のデザイナーの服を着る、という縛りがなくなり、[[ジャンニ・ヴェルサーチ]]などのトレンドに乗った服を身につけるようになり、ファッション・アイコンとして知られるようになった。のちに、息子ウィリアムの「ママは服をいっぱい持っているけど、着ないなら、チャリティーに寄付したら?」の一言で、所有するドレス類をチャリティー・オークションにかけ、収益金を慈善団体に寄付した。
*{{Cite book|和書|author=[[渡辺みどり]]|date=2013年(平成25年)|title=愛のダイアナ ウィリアム王子の生母「生と性」の遍歴|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062186148|ref=渡辺}}
* 死後「イングランドのバラ」と呼ばれた彼女だが、亡くなる直前の[[1997年]]にイギリスのハークネス社がバラの品種を彼女に献呈。苗木の売上の一部をイギリス肺病基金に寄付することを条件に、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の品種名を下賜された。彼女は「このような素敵なバラに私の名前を付けてくださいましてありがとうございます。このバラの苗木の売上が肺病の患者とその研究に貢献できることを大変嬉しく思っています」と直筆の謝辞を贈っている。死後には、[[アメリカ合衆国]]のJ&P社で作られたバラの品種が、苗木の売上の一部を途上国支援のための「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ記念基金」に寄付する条件で、「ダイアナ・[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]」と命名することが許された。
*{{Cite book|和書|date=1989年(平成元年)|title=毎日グラフ緊急増刊 崩御 昭和天皇 激動87年のご生涯のすべて|publisher=[[毎日新聞社]]|ref=毎日グ}}
* [[賛美歌]]、''"I vow to thee, my country"''([[我は汝に誓う、我が祖国よ|私は汝に誓う、我が祖国よ]])が学生時代より好きだった事をウィリアム王子が知っていたため、王子の希望により、葬儀でも演奏された。またこの曲は結婚の時にも演奏された曲でもあった。
*{{Cite book|和書|date=1989年(平成元年)|title=アサヒグラフ保存版追悼アルバム 緊急増刊 天皇陛下崩御 昭和の時代終わる|publisher=[[朝日新聞社]]|ref=アサヒグ}}
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
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{{Wikiquote|:en:Diana, Princess of Wales|ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)}}
* [[イギリス王室]]
* [[スペンサー家]]
* [[エリザベス2世]] - [[1926年]]4月21日生まれ。[[1952年]]に[[英連邦王国|イギリス連邦王国]]の[[女王]]として在位、現在に至る。
* [[エリザベス2世]]
* [[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ王太子]] - [[1948年]]11月14日生まれ。エリザベス2世と[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公爵フィリップ]]の間に生まれた長男。ダイアナの元夫で[[1996年]]に離婚。
* [[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]
* [[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]] - [[1982年]]6月21日生まれ。チャールズ王太子とダイアナの間に生まれた長男。
* [[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]]
* [[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]] - [[1984年]]9月15日生まれ。チャールズ王太子とダイアナの間に生まれた次男。
* [[ヘンリー・オブ・ウェールズ|ヘンリー王子]]
* [[ジョージ・オブ・ケンブリッジ|ジョージ・オブ・ケンブリッジ王子]] - [[2013年]]7月22日生まれ。ウィリアム王子と同夫人キャサリンとの間に生まれた長男。ダイアナの最初の孫。
* [[カミラ (コーンウォール公爵夫人)|カミラ夫人]] - [[1947年]]7月17日生まれ。[[2005年]]にチャールズ王太子が再婚した女性。
* [[クィーン (映画)|クィーン]] - [[2006年]]9月15日に公開されたイギリス映画。ダイアナ事故死した直後の王室の舞台裏をドキュメントタッチで描く[[2006年]]公開のイギリス映画
* [[ダイアナ (映画)]] - ダイアナと{{仮リンク|ハスナット・カーン|en|Hasnat Khan}}の交際を描く[[2013年]]公開のイギリス映画。
* [[コンサート・フォー・ダイアナ]] - [[2007年]]7月1日に開催された追悼コンサート。ウィリアム王子とヘンリー王子が企画した。
* [[コンサート・フォー・ダイアナ]] - [[2007年]]開催の追悼コンサート。ウィリアム王子とヘンリー王子が企画。
 
== 外部リンク ==
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* [http://www.theworkcontinues.org/ ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)記念基金] Theworkcontinues.orgのオフィシャル・サイト{{En icon}}
* [http://www.people.com/people/static/h/package/dianaremembered/ "Diana Remembered"] [[ピープル (雑誌)|ピープル]]マガジン{{En icon}}
* [http://wwwmmj-car.mmjp.or.jpcom/motorcar-museum-of-japanevent/diana.html 日本自動車博物館]{{リンク切れ|date=2011年12月}} - ダイアナが3回にわたり来日した際に乗ったロールスロイスが展示されている。
* [http://www.youtube.com/watch?v=QV2xGqapeHk You Tube "Concert for Diana"] 2007年7月1日にウィリアム、ヘンリー両王子が母のために主催した[[コンサート・フォー・ダイアナ]]の動画。
 
{{プリンセス・オブ・ウェールズ|1981年 - 1997年}}
{{結婚によりイギリスのプリンセスとなった人物}}
 
{{DEFAULTSORT:たいあな}}
[[Category:プリンセス・オブ・ウェールズ]]
[[Category:陰謀論]]
[[Category:スペンサー=チャーチル家]]
[[Category:アイルランド系イギリスノーフォーク出身の]]
[[Category:交通事故死した人物]]
[[Category:陰謀論]]
[[Category:1961年生]]
[[Category:1997年没]]
 
{{Link GA|eo}}
{{Link FA|sv}}
{{Link GA|ro}}